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第11話 符合

 わざと錆(さび)付かせたらしい洒落た鉄のドアを松長が引くと、音楽と幾重にも重なった声が耳に飛び込んで来た。松長の後から店内に入ると、煙草のけむりと人いきれの混じった粘り気を帯びた空気が顔をなでる。細長く奥に伸びた内部からたくさんの視線が一斉にこちらに向けられている気がする。
 静かな路地からいきなり騒々しい場所に入ったために、自分がかなり動揺しているのを感じる。きょろきょろしそうになるのを抑え、フロントでメニューを見ながら、松長にリードされて飲み物を注文する。
 注文が終わると、松長はわたしを前にして斜め後ろから肩に軽く手を置き、あちこちにいる知り合いの客に会釈したり声を掛けながら、店内をどんどん奥へと進んで行く。
 右はカウンター席、左は間隔を空けて細長いテーブルだけが据えられ、その上に飲み物や灰皿が置かれている。どの席も、どのテーブルも埋まっているように見える。
 いったいこれだけの数の男がどこから集まって来たのだろう? 仲通りに面した奇妙な店の前に立っていた男たちとは、少し違った雰囲気の客が多い気もする。不安と期待と疑問でのぼせそうになったわたしは、恐ろしく深い洞くつに入っていくような錯覚に陥った。
 途中で松長が年齢不詳の短い髪をした人に呼び止められ、わたしたちはいったん立ち止まった。二人は英語で話しているが、速すぎて聞き取れない。二人とも英国風の発音で話している。わたしは大学で英語だけで行われる授業を取っているが、それを受け持っている男性教師の神経質そうに響く話し方を思い出した。
 店内が暑いのか、わたしが興奮しているからなのか、額に浮かんだ汗が玉になってくるのが分かる。客全員が男。それもさまざまなシーンで今流行している服を身に着けた若者が目立つ。
 英語でのやり取りを済ませた松長の手が、再び肩に触れる。わたしたちはさらに奥へと視線の中を泳いで行った。
 一番奥のカウンターに腰掛けていた少年たちが松長を見て、わたしたちに席を譲り、向かい側のテーブルだけのスペースへと飲み物を手にして移動していく。
「悪いね」
「お年寄りは大切にしなきゃ」
「いい心がけだ。五年後に、誰かに恩返ししてもらえるよ」
「五年後? 十年後の間違いでしょう」
 松長とそんな会話を交わした十代後半に見える少年が、わたしの体に上から下へと視線を走らせる。わたしも負けずに横目でにらみ返す。
 わたしたちは譲られた席に腰掛けた。カバンは、ほかの客たちに習い、テーブルの下に設けられた出っ張りに突っ込む。注文したドリンクが来た。グラスをくっつけて乾杯したころには、わたしもようやく落ち着き、店の造りの細部を観察する余裕ができた。

 

 細長い店の内部は実際にはそれほど広くはない。長い洞くつを通ってきたような気がしたが、フロントからの距離も思ったほど長くはなかった。壁の所々に張られた大型の鏡が、広い錯覚を与えている。間接照明を使った柔らかな明るさの中で、天井に設置されているらしいブラックライトに照らされた客たちの衣服の白い部分と笑ったさいに覗く歯が蛍光を放つ。音楽は洋楽ばかりだ。
 わたしは目の前にあるジントニックの入ったグラスと、テーブルの上に置かれた灰皿やブックマッチに入っている文字に目をやる。デザイン化された文字で「DISTANCE」とある。ディスタンス、距離、隔たりと言葉が頭に浮かぶ。
 隣の松長がわたしの目線に気付いたのか、ブックマッチを手に取った。
「ばらばら」
「えっ?」
「公園のそばで、君は言った。人は言葉や場所やネットでつながっているように見えるけど『みんなばらばら、ひとりっきり』だって――」
「ええ、そう思う」
「ここも、そう?」
 わたしは、肩越しにフロントのほうに目をやり、店内を一望する。
「ええ、そう見える」
「ぼくも、同じように考えている。人は言葉や集団ではくくれない。みんながそれぞれの自分をかかえて生きている。それが現実だし、それでいいとしか言いようがない」
「寂しい」
「だから、集まるんだ。そうやって、つながろうとする。それも事実だ。受け止めるしかない」
「松長さんの話って難しい」
「難しくはないさ。体で現実を受け止めろって言ってるだけ。人には五感があるし、第六感ってものまであるそうじゃないか。だったら、それを総動員して現実に立ち向かえばいい」
「でも、それで他人を傷つけたり、逆に自分が傷つくことがあるとしたら?」
「甘えちゃいけない。戦えばいい。それができないなら、戦えるだけの力を養う努力をすればいい。それまで他人に頼っちゃだめだと、ぼくは思う。戦う力をつけるために、他人の助けを借りるくらいなら構わない。でも、最後に戦うのは自分だ」
「戦う――」
「そうだよ。戦う。誰かと一緒に戦うこともできる。好きになるとか愛するというのは、その一緒に戦う相手を求めることだとも言える」
「少しだけ分かったような気がする。ほんの少しだけだけど――」
「よかった」
 わたしははっとした。ディスタンスには、ばらばらな状態の意味もあるのではないか。だから、松長は急に「ばらばら」なんて話を蒸し返したのではないだろうか。今いる店の名と自分が口にした言葉との符合に驚く。同時に、わたしは、さっき公園脇の歩道で松長に上体を抱かれたことを思い出した。
「最初、ぼくは君が単なる個人的な趣味から男の子の格好をしているのだと思った」と、松長はジントニックを飲み干した後に語り始めた。「そうした女性を、この辺りでもたまに見掛けるからね――。そういう格好と関係があるなしは別にして、女性同士の交際を求める人たちの店も、この近くに何軒かあるらしい。ぼくは、よく知らない。ただ、君は、そういう女性に持てるタイプにも見える」
「そうですか」
「たぶんね。いずれにせよ、ぼくは中性的な人に引かれる。男っぽさを過剰に意識した男や、自分が女性であることに安住している女性には引かれない。こういうのは、男に引かれる男よりも、中性的な少年に関心のある一部の女性のほうが理解してくれるんだけど」
 音楽と周りの声がうるさいため、松長はカウンター上でわたしに顔を寄せて喋っている。時にはその距離が近すぎはしないかと思うこともあるが、嫌な気はしない。むしろ周りの目を意識して、意味もなくほほ笑み返している自分がいる。二人して何か秘密のドラマを演じているような共犯めいたときめきを覚える。
 松長は店の中の客の大半を知っているようで、時々店内を見回し、そのたびに誰かと目礼を交わしたり、手を上げたりする。中には松長を見つけてわざわざ近寄り、「松長さん、また違った子を連れて来ている」と言う若い人もいる。
 そんな言葉を聞くと、わたしはほおがほてるのを感じる。平気を装っていいのか。怒った振りをすればいいのか。曖昧な立場に置かれた自分を感じる。わたしは亡くなった弟の格好をした島田香織、つまり島田光太のイミテーションである女としてここにいるのか、それとも、単に男の格好をした島田香織という女としてここにいるのだろうか。
 そうした迷いがあるため、作る表情を決めかねる。松長というワルにナンパされ、だまされているお馬鹿な男の子だけには見られたくない。でも、周りはそう見ているにちがいない。
 ただ、自分が自分以外の存在を演じているという思いは心地よい。できるなら、このままずっとその思いに浸っていたい。今ある自分を消してしまいたい。自分が演じている役柄に侵されたい。
 甘美な夢のような時の中で、わたしは弟のことを次第に忘れつつあった。わたしはその危うさに気付き、話題を弟へと移した。
「あの子もこの店に来ていたらしい」
 わたしは再び店のネーム入りのブックマッチやグラスの話をした。
「その子を見たことはあるよ。でも、はっきり言って興味はなかった」
 昼間にこの街に初めてやって来たような「掘り出し物」を松長が求めていることは、既に聞いている。松長の話では、この街で光太を最初に見掛けたのは今年の四月だったように思うという。予備校に入るために、光太が上京して間もないころだ。短期間のうちに、光太はこの界隈や、携帯電話でつながりあっている男や男の子たちのあいだで、よく知られる存在になったらしい。
「断っておくけど、これは噂として聞いただけだ。ぼくは知らない」
「やっぱり相当遊んでいたんだ、あの子」
 ちょうどその時、松長は知り合いから背中をつつかれ、わたしに断って席を立った。わたしは三杯めのジントニックに口をつけた。

 

 一人になったわたしに対し、松長と一緒にいたときよりも露骨に視線を投げてくる者もいる。男が女を見るさいの誘うような目配せもあれば、女が女をライバル意識を持って見るときの意地の悪そうな目つきもある。酔いも手伝い、わたしはわざと媚びた表情を作ったり、相手を小馬鹿にしたような視線を返したりして、ひとり楽しんでいた。
 会話の相手を失い、自分でもドリンクを飲むペースが速くなっていると感じる。うちの家系の女は誰もがアルコールに強い。それでも、少し心配になってきた。目の前のジントニックがブラックライトの下で透き通った南の海のように青く光る。
 激しい曲のリズムが充血した脳細胞を揺さぶる。酔いが回ってくるのを感じる。悪い気分ではない。男? 女? 光太? 香織? 自分が演じている対象がふと不明になる瞬間がある。男たちの視線ゲームに加わりながら、自分の性も名前も演じている役柄も今ある状況も忘れそうになる。
 ふと気付いたときには、静かな曲に変わっていた。心細さを覚え、グラスに残っているジントニックを氷と共に一気に口に含み、後ろを向いて松長を探した。
 松長はフロントに近いカウンター席の横に立ち、地味な格子柄のブレザーにジーンズ姿の男と話していた。相手はさっき松長を呼びに来た男とは違う。松長がわたしの目に気付き手を上げた。わたしは口に含んだ氷をがりがりいわせてかみ砕き、ふくれっ面を作り、再び正面を向いた。
 格子柄のブレザーを着た男を伴い、松長はすぐに戻ってきた。友達を紹介するからと言って松長はわたしの肩を抱いた。
 松長の口から漏れた突然のうそに驚く。わたしはカオルという名で、ブレザーを着た男に紹介された。男は上田と名乗った。面と向かっても目を合わせようとしない男だった。
「ねえ、カオル君って誰かに似ていない?」
 アルコールのせいで顔に赤みがさしているが松長は相変わらずの済ました表情で上田に言った。わたしは松長が何を言い出すのか見当がつかずはらはらした。
「眉や口の形なんか、そっくりだろう?」と、松長は続けた。
 シャイなのだろうか、上田はまぶしそうな目でわたしをちらりと見てから、再び視線をそらせた。
「誰に?」と、上田が間接照明の下でも真っ赤に見える顔をして尋ねた。
「おまえが好きだった子に決まってるじゃん」
「おれ――」
「おい、逃げるなよ」と、松長はわたしたちから離れようとした上田の腕をつかんだ。「似てるだろ? 会ってすぐにそう思ったんだ」
 上田がちらりとこちらに視線を投げた。
「もっとびっくりさせてやる」と、松長はポーカーフェースを崩さずに言った。
 目の前で松長が演じている「お芝居」に急に腹が立ち、松長に翻弄(ほんろう)されている上田がかわいそうに思えてくる。わたしは、スツールに腰掛けたまま体を回し、松長の足を目がけて思い切り蹴った。
 松長が冷静にわたしの様子を観察していたのかどうかは分からない。酔っていたために、わたしが頭の中で描いていた動作と実際の動作が一致しなかっただけなのかもしれない。松長が身をかわし、蹴りは不発に終わり、わたしは片足を上げたまま仰向けに倒れそうになった。
「おいおい、ここはスケートリンクじゃないよ」
 松長がわたしの体を抱いて支えた。
「実は、カオル君は、ヒカル君の双子の兄弟なんだ」と、松長はわたしをスツールにきちんとした姿勢で腰掛けさせながら上田に言った。
 上田が顔をしかめた。
「松長、おれはそこまでおめでたくはないぞ。話が出来すぎだ。冗談はよしてくれ」
 はっきりとした口調で上田は言った。人の良さそうな上田は、これまで松長の冗談の犠牲に何度もされてきたに違いない。そんなことが想像される。
「もちろん冗談さ。でも、似ていることは事実だ。それは認めるだろう?」と、松長は平然と言った。
 場がしらけた。わたしは再度松長の足を蹴りつけたい衝動に駆られた。一連の出来事を目の当たりにして、わたしの酔いは冷めかけていたが、酔った振りをして松長に寄り添いながら、上田に聞こえるくらいの声で冗談ぽくささやいた。
「上田さんは、ヒカルの前の彼氏だったの?」
「いや、こいつの片思い」
「ふーん。ヒカルって持てたんだ?」
「大変なもんだったよな」と、松長が上田を横目で見ながら言った。
「おれ、上田さんのこと好きかも」と、わたしは思いもしない言葉を口にしていた。
 上田はハンカチで額の汗を拭いながらフロントへと向かい、店から出て行った。

 

 音楽と客たちの声でうるさいにもかかわらず、わたしたちの会話は、周りの者たちの耳に入っていたらしい。
「君って、本当にヒカルの双子の兄弟?」
 三人連れの少年たちが寄って来て、そのうちの一人が聞いてきた。
 とっさの判断ができかねて、わたしは松長の顔を見た。とぼけた表情でそっぽを向いている。いかにも松長らしい。
「そうだよ。おれのほうが兄」と、わたしは居直って答える。
「うそー。そんな話全然聞いていない」
「『聞いていなかった』だろ。もう過去の話じゃん」
 わたしは光太の兄という新しい役柄に自分がなりきっているのを感じる。
「髪型と着ているものが似ているから、君が松長さんと入って来たときから、噂し合ってたんだ。ほおの感じと、髪の感じがちょっと違う。ジェル持ってる?」
「いいや」
「おれ、持ってる」と、もう一人の少年が言って、さっきまでいたらしいテーブルに向かい、角ばった革のカバンを手にして戻って来た。中からジェルのチューブとブラシを取り出す。
「そのままにしてろよ」
 わたしがカウンターを背にしておとなしくスツールに腰掛けていると、その少年はジェルをわたしの前髪の付け根に押さえるようにこすり付けた。
「これでも、ちょっと違うな。もっと全体的に髪を上げていたんだよ」
「おいで」
 言われるままに付いていくと、ジェルとブラシを持った少年はトイレのドアを開けた。当たり前のように、ドアを手で押さえている姿を見て、わたしはためらわずに中に入った。
 ドアが閉まり、手洗いの鏡の前に立たされる。少年は指を水道の水で濡らし、ジェルを手のひらにたっぷり付けて両手をすり合わせた。
「よし」と声を出し、「頭を動かすなよ」と断り、両手の指を開いて、器用な手つきでわたしの髪を撫で上げていく。
「髪が細いね。触っていると女の子みたい」
「女みたいで悪かったな」
「だから、じっとしてろってんの」
 わたしは光太が硬い髪質だったのを思い出した。美容室でカットされた髪を、ジェルやブラシを使って自分なりにアレンジしていたのだろう。この男の子は、それを再現しようとしている。
 カウンター席に戻ると、残っていた二人が拍手した。松長までつられて手を叩いている。
「そう、こんな感じ」
「写真、撮ってよ」と言って、わたしはポケットから光太のケータイを取り出した。
 最初に話し掛けて来た少年が、正面から二枚と左右から一枚ずつ撮ってくれた。
「これ、ヒカルのケータイじゃない?」
「うん。形見だよ。警察から返してもらったやつ。そういうこととか引越しとかあって、おれ、名古屋から来たんだ」
「形見か? よく戻ってきたな」と言いながら、少年は左手を差し出しケータイをわたしに手渡した。

 その少年の手首に、光太の持っていたのと同じ型のタグホイヤーがあった。光太は、物に対する執着心に欠けるところがあった。高価なものでも、飽きると平気で友達にあげてしまう。光太がその少年に腕時計をくれてやるさまが、頭に浮かぶ。『これ、あげるよ』という声まで聞こえる。

 光太の形見――。ケータイなんか、形見じゃない。このケータイがあの子を奪ったんだ。

「おれ、あの日、ヒカルに薄手の革ジャンを貸してやったの。イタリア製のすげえ高いやつ。暑いからって言って、あいつ、タンクトップの上に着て出掛けていった。それっきり。あの革ジャンは、もう戻って来ない。上半身が、ずたずただったって話じゃない――」
 わたしは突然、めまいと吐き気を感じた。渡されたケータイを思い切り床に叩きつけ、少年の手首にあるタグホイヤーを奪い取ろうと、手を伸ばした。きーんと耳鳴りがして体が傾いていく。重心を失った。誰かが、わたしを抱きすくめた。

 気が付いたときには、松長の胸元に顔を埋めて泣きじゃくっていた。

 





第12話 幽霊

「伸びている分だけ切ってください。男性みたいな髪型でお願いします」
 注文をつけると、担当の男性美容師は黙ってうなずいた。いつもの愛想の良さがない。やれセットだパーマだカットだカラーリングだと、割とこまめにこの美容院に来ていたのが、ぴたりと来なくなっていたので機嫌が悪いのかもしれない。カオルは思う。
 へそを曲げられて変な髪にされたくないので、ずっと旅行中だったと言い、長く来なかったことへの詫びを入れておく。弟の死について、この美容師は知らない。知る必要もない。
「途中で寄った東京で、友達にそそのかされて、衝動的に髪をばっさりと短くしちゃった」
 このところ、平気でうそが口から出る。それが癖になってしまったようだ。カオルには、それが快い。
「そうなんですか? あの長かった髪は、わたしがこのハサミでバサっと切りたかったな。さっき入っていらっしゃったのを見て、別の人かと思いましたよ――。で、切ったときには心境の変化でも?」
 美容師は普段の口調で聞いてくる。
「女が髪をばっさりと切るのは、たとえばどんな場合ですか?」
「まず考えられるのは、失恋。第二の可能性は、男が変わったとき」
「へーえ、なるほど。そんなものですか」
「ほかにありますか?」
「女が変わったとき」
「わあー、参ったな、香織さん。しばらく振りでお会いしたと思ったら、髪型が変わっただけじゃなくて、性格までずいぶん気さくになっていらっしゃる」
「それまでは暗かったとか?」
「いえいえ、おしとやかなお嬢さんだったという意味です」
「でも、今はそうじゃない――。それって、けなしてるんじゃないですかあ?」
「参ったな。香織さん、もういじめないでください」
「さっきの女が変わったというのは冗談ですよ。念のため――」
「もちろん分かってますよ」
 美容師の笑顔の中で探るような目付きが、こちらの心を覗き込もうとしているとカオルは考える。このところ、周りからこうした視線をよく感じる。
 何がおかしいのか、カオルには分からないままに、美容師との会話は笑いに満ちたものになった。どこかちぐはぐだ。でも、構わない。カオルは思う。美容師にドアまで送られて店を出る。
「彼氏……じゃなかった、彼女によろしく」と、美容師が職業上の笑顔を崩さず言う。
(くだらない。名古屋に帰ってからも、こんなことやっている)

 

 外に出ると首筋が寒い。マフラーを持ってくればよかった。店に入った時間には、外は既に暗くなりかけていて、商店街にはネオンや明かりがぽつぽつともりかけていた。その時は夕方のうきうきした気配に自分も染まっていたが、今は寒さのせいか心細く泣きたい気分が襲ってくる。街の光の氾濫(はんらん)がうとましい。
 他人と接していた緊張が解けた頭に、思い出したように周りからぎゅっと押し付けられるような鈍い感覚が戻る。同時に下腹が痛み始める。今回の生理は重くて長い。
(この一カ月間に、いろんな馬鹿なことをしていた罰だ)

 

 立ち止まって、弟のカバンを開け、痛み止めの常備薬が入っているのを確かめる。どこかで薬を飲もうと思い、コンビニかドリンクの自動販売機を探す。照明を落とした店のウィンドウに、街にあふれる人工の明かりを受けた自分の姿が映っている。
 男物の茶系のジャケット、薄い茶の地に細かい白のラインが入ったシャツ、ゆったり目のグリーンのパンツ、黒っぽい靴。角ばったカバン。サイドとバックを刈り上げた髪型。
(やめろ、もうそんな髪型はロンドンでは流行っていない。着る物も、靴も、カバンも全然合っていない。馬鹿な真似はよせ)

 

 そうかな? これでいいと思うけど。
(みっともない。お願いだから、やめてよ)

 

 ウィンドウに映っているのは、二十歳くらいの男だ。私服の男子高校生にも見える。
(ったっく――。救いようがない)

 

 そんな言い方やめてよ、ヒカル。
(気安く、ヒカルなんて呼ばないでよ。ぼくは名古屋では、光太って名前なんだから。お姉ちゃんも、カオルじゃなくて、ここでは香織、か・お・り――。分かった? あの店で、あの松長というワルが付けたあだ名なんか忘れろ。あれは、あの場だけの冗談なんだ。カオルだって? マジでやばいぞ)

 

 男らしく振る舞わなければならないとカオルは思い、顎を上げて胸をそらし気味に歩いてみる。東京で見たあの高校生らしき少年の歩き方は、名古屋にはふさわしくない。この田舎の都市は気に食わない。東京に戻りたい。
(戻れ、戻れ、そして痛い目に遭えばいいんだ。誰かさんみたいに――)

 

 商店街を家に向かって歩き出す。
 正面から来る男たちは、もはや道を譲ってはくれない。男は女に道を譲る。男は男に道を譲らない。たとえ譲ってたように見えても、譲ったのではなく、ちょっと方向を変えただけか、こんなやつと肩を触れ合いたくないからよけただけ、と自分に言い聞かせる。それが男だと、カオルは考える。
 周りの男たちをそれとなく観察する。ウィンドウに映っていた自分と同じくらいの年に見える少年に目をやる。たまたま目が合うと首をかしげる少年もいれば、恐ろしい目をしてにらんでくる少年もいる。
(本当に痛い目に遭うぞ)

 

 いざとなったら、女に戻ればいいんじゃん。きゃー、この人痴漢でーす、とか叫べばいい。
(卑怯者。中途半端なやつ)

 

 何とでも言ってよ。ほかに逃げ道がある?
(だから、もとに戻りなよ)

 

 女たちがこっちを見る目も違うとカオルは感じる。以前なら女同士で視線を交わすときには、自分の目にも相手の目にもライバル意識と敵意がこもっていた。
 髪をうんと短くし、意識して男の子の格好をしている今は、偶然に目が合う女や女の子たちは一種の媚を帯びた視線を投げてくる。こっちもそれに応えてやる。視線のゲーム――。たまに性的で不躾(ぶしつけ)な目線を作り送ってみると、相手は恥ずかしげな顔付きになったり、怒ったような表情をするが、敵意は感じられない。

 

 カオルは一カ月前を思い出す。
 男が女を見る目で男が男を見、女が女を見る目で男が男を見、女が男を見る目で男が男を見ていたあの街――。男を装った自分は、男と男の複雑な視線のゲームに加わり、そのめまいを伴う混迷に酔いしれた。
 曖昧、不明、分からない。そんな言葉でさえ説明できない状況は、決して不快なものではなかった。突き刺す視線に満ちた街。容赦なく向けられる視線。痛い――。こちらからも視線を射る。見返される。痛い。鳥肌が立つほどの皮膚的な心地よさと、皮膚の下の肉や血や骨にまで染みこんでくるような快い痛みがあった。その快と苦が全身を駆けめぐった。
 男と男。それだけはない。
 あの少数者の街では、さらに少数者がいた。中性的な若い男女が好きだという男に送られて、あの街を去ろうとした夜――。通りで、女を求める女の視線を感じた。あの人たちの鋭いまなざしは拙(つたな)い男装をすぐさま見抜いた。男が女を見る目と、女が女を見る目の両方を兼ね備えた執拗(しつよう)で粘っこい眼力で心の奥まで踏み入り、仲間かどうかを探ってきた。ごく短い間の出来事だった。もう少し、長く見つめられたなら、あるいはあの男が傍らにいなかったなら、自分はあの目に引き込まれたかもしれない。
(くだらないことを考えるのはやめろよ。そんなの言葉の遊びじゃん。どんなに言葉を重ねても、実際には何にも言っていないに等しい。ぼくみたいに行動してみる気がないから、そんなご託を並べられるんじゃん。ぼくみたいに命をかける度胸がないくせに――)

 

 どうしたんだろう。また道に迷ってしまった。どうして、最近、こういうことが起きるんだろう。カオルは戸惑う。でも、きれい。いろんな人工の明かりにともされた街がきれいに見える。世界が新しく見える。
(そんなの錯覚だ)

 

 自分も他人も互いに見ることで世界は成立している。見ることと見られることの隔たりをできる限り近づけること。それが新しい他者との交わり方だ。隔たり、距離、ディスタンス。
(それって、お姉ちゃんが昨日の夜に読んでいた本の受け売りじゃん。長い間パリにいたとかいう、元帰国子女のあの男の薦めた本なんか読んじゃだめ。ぼく、あいつのこと大嫌い)

 

 松長さんの悪口はやめてくれない? 恩人なんだから。
(ご勝手に)

 

 人は目という鏡で他者を相手に互いを照らし合うことにより世界を認識している。この場合の他者は人間であるとは限らない。森羅万象と言い換えることもできる。
 人に限って言えば、世界は鏡を持った個人の集まりだ。一人ひとりの人間が鏡を差し出しながら歩いている。鏡の表面を世界に向け、他者に向け、自分自身に向けながら、歩いている。きらきら反射する無数の鏡の中で無数のまなざしが戯れ合う。
(起きろよ。言葉の遊びから目を覚ませ)

 

 道が分からない。めまいがする。キーンという耳鳴りが聞こえる。頭の中でぐるぐる回る光に満ちた光景が、目の前に輝く夜の繁華街の雑踏と重なる。

 

     *

 

「――やっぱり疲れているんじゃない? 無理しないほうがいいよ、香織」
 夜の街を歩き疲れたカオルは、自室のベッドに身を横たえ、携帯電話で岸川詩乃と話している。
「かおり? カオルよ」
(やめろ。お姉ちゃんは、か・お・り。ヒカルはもういない。カオルも、もういない。カオルは、ヒカルの代わりにあの街とヒカルの仲間たちにお別れに来た幽霊だったんだ。ぼくに化けた幽霊だったんだよ。もうカオルの役目は終わった)

 

「えっ? 何か言った?」
「ううん。気のせいじゃない?」
「とにかく無理をしちゃだめ。家でぼけーっとしていてもいいけど、あんまり深く考えたり、難しい本を読んだり、疲れるまで外を歩き回るような真似はしないほうがいいと思う」
――どうして、詩乃はそんなことを知っているのだろう。知っているっていうことは、こっちが話したんだろう。
「そうかな」
「わたしはそう思う」
(ぼくも、そう思う)

 

 携帯電話のスピーカーを通して聞こえる詩乃の声は、東京と名古屋との距離を感じさせない。詩乃がまだ精神的な状態を気遣っていてくれることはうれしい。だが、同時にカオルにとってはうっとうしくもある。
 一カ月前に、詩乃をレストランでの食事に誘ったとき、詩乃が探るような目で自分を見ていたことを思い出す。カオルは亡くなった弟のアパートの部屋の引っ越しを済ませたことを報告し、上京中に世話になった礼と詫びの言葉を述べた。
 あの街で弟がよく行っていた店に入ったと語ると、長かった髪をばっさりと切って男装をし始めたとき以上に、詩乃は驚いた。
「一人で?」
「ううん。知り合いと」
「知り合いって?」
「あの街で知り合った男の人」
(あの遊び人のワル)

 

「うるさいわね――」
 あれっ、変なの――。最近、カオルには過去の記憶と現在の出来事が重なって感じられる。
「えっ? 何か言った?」
「ううん、何も言ってないよ」
『香織、あなたは自分がどんなに危険で突拍子もないことをしているのか、分かっているの?』
 レストランで、カオルはかいつまんで松長との出会いについて話した。それを聞いて、詩乃はカオルの目をまともに見た後、しばらく黙り込んだ。その深刻そうな表情を見て、カオルはそれ以上打ち明ける気にはならなかった。
 電話をしながら、カオルはデジャ・ビュを覚える。今聞こえた詩乃の声は今のことなのか、東京にいたときに話したことなのか――。
「もしもし、聞いている?」
「うん、聞いているよ」
「で、そっちでは、ちゃんとお医者さんに診てもらっている?」
 スピーカーから詩乃の声がする。
「心療内科には、お母さんと一緒に通っている」
(時間が解決するさ。お母さんとお姉ちゃんは、これからずっと、ぼくが守ってやる)

 

「そう。それならいいけど。おばさんも、落ち着いたみたい?」
「元気にしてるよ。うちの一族の女はみんな、しぶといもん」
(しぶとくないって)

 

「しぶとい?」
「それはそうと、こっちはもう学園祭も終わって、授業に出なきゃならないし、特に語学の出席日数が危ないんだ」
 詩乃と話しているうちに猛烈な空腹を感じ始め、カオルは携帯電話を手にしながら階段を下り、キッチンに入る。
「留年なんてしないでよ」
「大丈夫。何とかなるさ」
(何とかならないから、岸川さんも心配してるんじゃん。勉強ぐらいしてよ)

 

「じゃあ、わたしそろそろ――」
「分かった。また話そうね」
 カオルが下りてくるのを待ち構えていたように、母親が話し掛けてくる。
「その髪のことなんだけど」
 キッチンと続きになっているダイニング兼居間のソファに座った母親は、お気に入りの白のペルシャ猫を抱いている。
 美容院の帰りに道に迷ったカオルは、遅く帰宅した。迷っているうちに見つけた牛丼屋に入り、一人で大盛りを食べて来てはいたが、今になってまた何かを食べたくなり我慢できない。
 三十分ほど前にカオルが帰って来たとき、母親は帰宅時間が遅いことを叱るより、髪型についてさんざんけなした。今、口を利けば大喧嘩になりそうな気がする。カオルは母親を無視して冷蔵庫を開ける。
「あなたは、長いほうが似合うと思うんだけどなあ。どうしてまた、前と同じように短くしたの」
 母親はペルシャ猫を抱いたまま、キッチンに入ってくる。その足元に、黒のペルシャ猫とグレーの雑種の猫が付きまとっている。
「ねっ、香織は長い髪が似合うよね」と、母親が腕の中の猫に言う。
(そうだ、そうだ)

 

 お母さんだって、何よ、その格好――。そう言い掛けてやめる。
(ねっ、変だろう? お姉ちゃんだって、同じだよ)

 

 名古屋に帰ってすぐ、母親が弟のシャツを着ているのに気付きカオルはどきりとした。一瞬、光太の幽霊を見ているような気がした。シャツは弟の部屋でカオルがきちんと畳んで荷造りをし、引っ越しのさいに送ったものだ。パステルカラーの赤と白の細かいストライプのもので、見覚えがあった。そのシャツを着ている母親を見ているうちに、むかむかしてきたのを覚えている。
 それ、光太のものでしょう、と平静を装って尋ねると、あの子、ずいぶんいいものばかり着ていたのね、と母親はうれしそうな顔をして答えた。そのさらりとした物言いがあまりにも自然なので、カオルはそれ以上何も言わなかった。
 今母親が身に着けているのは、弟のVネックのサマーセーターだ。素材が綿だし青と白の配色がいかにも涼しげで、十一月半ばには時季外れな印象を与える。若い男性向きのデザインも、背の低いずんぐりした体形の母親には全然似合わないとカオルは思う。
「男の人みたいで怖いよね」
 猫にほお擦りしながら母親は言う。
 カオルは、電子レンジの中でグラタンを乗せて回るターンテーブルをガラス越しに眺める。めまいがしてくる。
「グラタンはお母さんが食べて――」
 急に食欲をなくしたカオルは、二階に上がり自室に入る。眠気に襲われる。窓の下の道路に車が通ったのだろう、カーテンにオレンジ色の光の縞が走る。
 眠い。疲れた。そして、恋しい。

 

 夢を見た。
 二人はバスか電車に乗っている。夜なのだろう。車窓の外は真っ暗で何も見えない。二人は体をくっつけ合って座席に着いている。乗客はほかにはいない。車体が揺れる。揺れながら、いっこうに進んでいる気配がしないのが不思議だ。窓に目を凝らすと、遠くに点々と連なる小さな明かりがゆっくり後ろに流れていくのが見える。それが書き割りめいていてどこか嘘っぽい。気が付くと、車内に男たちがあふれている。誰もがまがいものぽい。マネキンのようにも見える。その人形めいた男たちの姿がいきなり消えた。二人は顔と顔をくっつけ目と目を寄せ合った。瞳が揺れる。
(お姉ちゃん、ぼくの代わりにいろいろしてくれてありがとう。もう、ぼくには化けなくでもいいよ。さようなら)

 

     *

 

 今朝、ようやく生理が終わった。午後から大学の授業に出よう。久しぶりにお化粧をして。化粧――。そうだ、女に化けてやろう。
(ぼくは、今、遠いところにいるらしい。お姉ちゃんの姿は、もう見えない。でも、絶対に守ってやる、ずっと)

(完)







あとがき

 タイトルの「ディスタンス」は、「隔たり」や「距離」を意味する、英語または仏語から来ています。連作の「隔たり」と「符合」に出てくる店の名前でもあります。いろいろな解釈ができる、含みのある言葉です。
 本作品には、「見る」と「視線」という言葉がよく出てきます。当然のことですが、「見る」ためには「距離・隔たり」が必要です。その「距離・隔たり」を埋めるのが「言葉」であり「イメージ」ではないか? 書きながら、何度かそう思いました。また、「ディスタンス」とは、人と人の間にあって、決して埋めることのできないものであるようにも感じました。

 

 一編一編が独立した小品として読めるにもかかわらず、緩やかにつながっている。そんな連作を目指して書いてみました(連載ではなく、あくまでも連作です)。とはいうものの、実際に書いてみると難しいですね。
 文章や文体の面でも、いろいろな試みをしてみました。部分的に現在形を多用してみたり、主語を極力省いてみたり、最終章ではそれまでの一人称からいきなり三人称もどきに変えてみたりといった感じです。でも、こうしたことは、小説では「裏方さん」に当たりますから、読者のみなさんに気付かれないことが大切ですけど。

 

 私は長い小説は読むのも書くのも苦手で、ストーリーよりもシチュエーションを重視した小説が好きです。自分でも、そうした書き方を身に付けたいと願っています。
 小説とは面白いもので、長いものを削る、あるいは逆に短いものを伸ばすという作業が可能です。個人的には削るほうが好きです。削ることによって、読んでくださる方の「想像力=創造力」にゆだねることができるからです。
 削った分だけ、読者が「想像力=創造力」を膨らませてくれて、読者と一緒に書くような状態になる――。ややこしい言い方ですが、作品を書く時にはいつもそう考えています。読者と一緒に夢を見るという、たとえ方もできるかとも思います。

 

 そういえば、夢日記を書いていた時期がありました。こういう夢を見てやろう、などと企んだこともあります。もちろん、無理でした。夢と小説とは違います。文字にすることを前提に夢を見るというのは難しいですね。でも、頭に浮かぶ夢の欠けらを膨らませて、どれだけでもそれに近い小説を書いてみたい――。それなら、何とかできそうな気がします。私の「夢」です。

 




奥付


ディスタンス  ―弟へのレクイエム―


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著者 : 星野廉
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