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第8話 踏み出す

 日が落ち始めている。南北に走る通りを何度往復しただろうか。あの店の前にたたずむ男性たちの中に溶け込み、曖昧でありながら、決して無為ではない時間をどれだけ過ごしたのだろう。
 西新宿のホテルにチェックインしたのが午後一時過ぎ。それから、どれを着て行こうかと迷いながら、弟の服をベッドの上に片っ端から並べて、一人でファッションショー。そんなことを一時間以上もした後、ようやく外に出た。
 頭の中に刻み込まれている地図を頼りに、徒歩でこの街に着いたのが三時半より少し前くらいだった。携帯電話で時刻を確認する。今は午後五時十三分。いつも外出するさいに使っている女物の腕時計は、もちろん左手首にはない。
 そう言えば、弟のタグホイヤーはどうしたのだろう。警察から戻ってきた物の中にも、あとは引っ越しだけになった部屋の中にもなかった。あの凄惨(せいさん)な事故で原形をとどめないほどの状態になり、破棄されてしまったのか。

 タグホイヤー――。

 あれなら常に身に着けられる良い形見になったのに。

 

 この街に来て二時間ほどになる。途中で若い男に後をつけられているのに気付き、早足で逃げたりもした。生前の弟の隠れた部分を知ろうとしてここに来たものの、具体的にどのような行動をすればいいのか分からない。そもそも、何があるのか、どうなっているのかが分からないのに、計画や予想が立てられる訳がない。でも、これでいいのだと思う。
 通りを折れて狭い路地に入るのはやめておいた。比較的広い道との交差点があったので、恐る恐る通りを外れてその道を進むと、小さな公園があった。池まである。その公園に入ろうかと迷っていると、五十歳前後に見える男の人が声を掛けてきた。
「きみ、ちょっと時間ない?」
 男に化けて初めての直接的なナンパを経験した。
「おれ、今、ちょっと急いでますんで」
 用意していたせりふを低めの声で言った。この格好をし始めてから他人と話すさいに出す声だ。ぼろが出そうになるので、なるべく口を動かさず、お腹に力を入れて小声で言う。ぼそっとつぶやく感じをイメージしている。声を男に似せるのはすごく難しい。
「ドライブに行かないか?」
 断ったのになおも話し掛けくるので、早足で通りに戻った。こちらのほうが人けが多い。車もよく通る。あの公園は怖い。公衆トイレの付近にいる若い男たちの目付きが怪しかった。夜になれば、さぞかし不気味な雰囲気になるだろう。
 通りを歩いていると、ここに来たときからずっといる男の人が何人かいるのに気付く。ナンパが目的ならよほど暇なのだろうとも思うし、何か訳ありの仕事でもしているのかとも考えられる。
 お腹が空いた。喉も渇いている。通りに面したコーヒーショップに入ろうか、それともいったんこの街を離れようか。ここまで来た道を逆戻りする形で新宿通りに出て、まっすぐJR新宿駅の方向に進めば、一人でも入れそうなファーストフードの店や牛丼屋がありそうだ。
 きのう生まれて初めて牛丼屋で食事をしてみたが、あれはなかなかおいしかった。注文の仕方も、メニューの内容もだいだいつかめた。あそこと同じチェーンの店なら一人でも入る自信がついた。コーヒーショップはパスして、新宿通りへと向かうことにする。
「行ったり来たりで疲れた? 一緒に何か飲まない?」
 コーヒーショップを通り過ぎたところで、背後から声がした。歩を緩め、振り向こうとしてゆっくりと体を回す。雑居ビルらしい建物のガラスのドアに反射して、若い男の姿がぼんやりと浮かび上がった。
 突然のなれなれしい話し方に不快感を覚えた。お腹が空いているので、余計にうざったく感じる。『行ったり来たりで――』とか言っていたけど、いつごろから見られていたのだろう。感じが悪い。さっき使った『おれ、今、ちょっと急いでますんで』の代わりに用意してある断りの文句を口にすることにした。
「待ち合わせしてるんで」
 完全には振り返らない体勢のまま、相手の顔を見ないで言う。
「残念だなあ。少しだけでも駄目? 待ち合わせの時刻は何時?」
 強引な口調だが、よく通るいい声だった。
 既に肩を並べている相手に、ようやく目を向ける。下はジーンズ、上は黄と青と白の混じったチェックのシャツを着ている。上のボタンを外して、薄地で紺のタートルネックのセーターを覗かせている。顔付きは落ち着いていて、二十五、六歳に見える。
 公園沿いの道路で声を掛けてきた中年の男に比べれば、はるかにましな雰囲気を漂わせている。寒そうに見えなくもない格好と、手に何も持っていないところを見ると、近くの駐車場に車を預けているのかもしれない。
 この男とならコーヒーくらいは付き合ってもいい。とにかく椅子に座って喉を潤したい。トイレにも行きたい――。
「じゃあ、少しだけなら」
「ありがとう」
 男は軽く頭を下げた。

 

 男の後についていく形で、通り過ぎたばかりのコーヒーショップに入った。奥のテーブル席に着き、ブレンドを注文してからトイレに立ち、席に戻る。
 腰を据えるとほっとする。長時間、よく歩き回っていたものだと思う。
「この辺にはよく来るの?」
 男が切り出した。隣のテーブルの客たちが気になるのか、小声になっている。
「あんまり」
 初めてだと正直に答えれば、付け込まれる気がする。
「友達と一緒に店に飲みに行ったりはしないの?」
 友達? 店? いきなり何なの? と聞き返してやりたくなる。唐突で不躾(ぶしつけ)な質問だが、こういう場所ではこんなふうに、初対面での会話が進んでいくのだろう。そう思うと腹も立たなくなった。
 よく考えると巧妙な探りの入れ方だ。この辺に一緒に来る友達がいて、店に飲みに行くくらい慣れているか、つまり「遊んでいるか」と尋ねているわけだ。
「この辺の店って意味?」
「そう」
「別に」
 話をはぐらかす。こんな場合には敬語を使うべきなのか、友達同士のような口の利き方でいいのか判断に迷いながら、わざとぶっきらぼうに話す。

 

 男の格好をするようになってから、電車の中やファーストフードの店で、弟やわたしと同じくらいの年齢か、それよりも年下の男の子たちの話し方や話す内容に聞き耳を立てるようになった。服装や仕草にも、ガンをつけていると思われない程度に目をやって観察している。東京の男の子と名古屋の子とでは、やはり言葉と話題がだいぶ違う。
 もちろん一人ひとりの個性はあるが、概してこっちの子のほうがさめていて、他人と距離を置き、冷たい感じがする。それにAと言いたいのにBと言い、それを言われた相手はちゃんとBというメッセージをAとして受け取っている。そんな印象を抱く。名古屋の子だったら、AはAだと言う。偏見かもしれないが、そう思える。

 

 長く喋る自信はない。女だと相手に悟られない声を出すことだけで精一杯だ。声を低く太く出す練習を一人で何度かしてみたが、他人にどう聞こえるかはまったく見当がつかない。
 三日間アパートに泊めてくれた岸川詩乃が、東京で一番仲の良い、そして信頼できる友達だ。まさか、詩乃を相手に男の声の出し方の練習をする訳にはいかない。詩乃には、わたしの精神状態を案じているというか、危ぶんでいるふしがある。それがうざったい。
「男子トイレにも抵抗なく入れるようになったよ。もちろん、個室を使うけど」
 わたしがこう言ったときの、詩乃の顔が忘れられない。
「香織、それはちょっとやりすぎじゃない?」
「だって、リップクリーム以外にお化粧はしていないし、この髪型と格好よ。女子トイレに入れる?」
「最近は、紛らわしい感じの女性がいることは確かだけど、それでもその人たち、女子トイレを利用しているじゃない。香織、あなた……」
 詩乃は続けて何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。『香織、あなたのためを思って言うんだけど、専門医に診てもらったほうがいいんじゃないかな――』わたしには、詩乃がそんな言葉を引っ込めた気がした。
 詩乃は真面目でしっかりとしている。優しく情も厚い。もっと服装とか髪型とかメイクにまで気を使えばいいのにと思う。同じ年の女性なのに、男、兄、父親に近いイメージを、ほんの少しだけど抱く。詩乃のそばに寄ると、肩にほおを寄せたくなる衝動を覚えることがある。高校生時代には、短期間だったが、恋愛感情に近いものを覚えたことすらあった。

 目の前の男がいろいろ喋っている。こっちは短く適当に返事をするだけだ。今一つ、何かぴんと来ない男だ。
 男は松長(まつなが)と名乗り、学生だと言って大学名を口にし、吉祥寺に住んでいると自己紹介した。こっちはでたらめの名字を言い、男に聞かれるままに、高田馬場に住んでいる大学一年生で、この辺は初めてではないが、よく知らないと答えた。
「――高校生かと思った」
 お世辞なのだろうが、そう言われるとうれしい。高校生という言葉を聞いて、ふいに頭に浮かんだのは光太だった。自分のイメージの中での弟は、東京の予備校生というより、名古屋の高校生だった。
「しょっちゅう、こんなことをしてるの?」
「こんなことって?」
 男は一瞬見せた、むっとした表情を素早く隠した。
「いきなり、通りで声を掛けてきてさあ」
 こういうときに弟が口にしそうな話し方を想像して、それを真似る。
「しょっちゅう、しているように見える?」
「見えるよ。現に、しているじゃん」
「好きだよ。そういうふうに、はっきりと物を言う人」
「本当のことを言ってるだけ」
「ますます気に入った」
「ご勝手に」
「そうやって、いつもつっぱってるの?」
 相手が反撃してきた。ちょっとやりすぎたかもしれない。でも、負けない。
「それって、声を掛けてきたほうの人がいう言葉?」
 これじゃ喧嘩腰かなと思いつつ、口にしていた。もう完全に、弟、いや自分で作り上げた弟をもとにした架空の男の子のイメージになりきっている。この調子で続けていると、やばいかもしれない。
「ごめん」
「別に謝らなくてもいいですよ」
 内心はどきどきしているが、路上と違って周りに人の目があるために安心し、いくぶん大胆になっている自分を感じる。松長が下手(したて)に出ているさまは、女性をくどこうとしている男性の控えめな態度に通じるところがある。そう思うと、松長が隠しているはずの半面が怖い。
 今のシチュエーションは男と男のナンパだ。安易に男女のナンパと結びつけてはならない気もする。何が起こるか分からない。調子に乗ってはだめだ。いずれにせよ、ここは店の中だ。周りに人がいる。いざとなったら、女の声で助けを求める手もある。女に戻って救いを求めれば、その場を切り抜けることができる――。男の格好をするようになって以来、そうした考えが心の奥にあるのを感じる。それが行動の支えになっている。そうでいいのだと思う。
 大学はどこかと聞かれたので、岸川詩乃の在学している大学の名を口にした。この間、テニスのサークルの合同練習でそっちのキャンパスに行ったばかりだと言い、大学のある駅の周辺のケーキ屋とレストランの話をし始めた。食べ物の話になると松長は夢中になった。
 話はとめどもなく続き、パリの場末にあるジェラートの店でのエピソードまでが出て来た。父親の仕事の都合で、小学校から中学まではパリで暮らしていて、教育は日本人学校で受けたらしい。話題はフランスの家庭料理に移った。お腹は空いているが、食べ物にそこまで執着していない者にとっては苦痛だ。こっちは、いい加減にあいづちを打つ。
 そろそろ時間ですから、という決まり文句を口にし自分の分のお金を置いて店を出るタイミングをはかる。こっちが退屈に思っていることをほのめかすためにうつむき、裏返しにされている伝票に目をやる。
「ぼくばかりが、一方的に話してごめん」と言い、松長は話題を変えようとした。
 隣のテーブルの客たちが席を立ち、ドアへと向かい始めた。
 そろそろ、と言い掛けると、すかさず松長がさえぎった。
「ところで、いつごろから自分が男の人に興味を持っているって意識し始めた?」
 露骨な質問だと思う。あなたに関係はないでしょう、と一言残して店を出ようとも考える。でも、これから先、この街でこうした会話のできる男の人に出会える可能性はないかもしれない。このまま別れるのも惜しい気がする。暴力的な人ではないみたいだし、遊んでいそうにも見える。ひょっとして弟のことを知っているかもしれない。
 こっちは、光太と同じ髪型をし、同じ服を着ているのだ。光太の兄か弟だと思っていることはないだろうか。そんな小説みたいなことなんてある訳がない。それより、こっちが女だと承知していて、からかわれている可能性のほうが高いかもしれない。
 今は敵地に乗り込んだような状況にある。このまま引き下がっては、計画は失敗に終わるだろう。弟のことをもっと知りたい。弟が、この街に来ていた証拠と言えるようなものが部屋にいくつかあった。DVD、店の名の入ったブックマッチ、同じ店のネーム入りグラス、この辺りの店の中で撮られたと思われる複数のスナップ写真……。
 この街の男の人たちに、自分は本当に男だと見えているのだろうか。生前の弟を知っている人の目に、自分はどう映るのだろうか。自分は弟にどれくらい似ているのだろう。弟の知り合いは、弟についてどう語るのだろう。そうしたことが知りたい。ある程度、納得したところで、名古屋に帰りたい――。

 

「どうしたの? 急に考え込んじゃって……。悪かった。出し抜けにこんな質問をして、ごめん」
「謝る必要はないですよ。ただ、そういう質問をするんだったら、自分のことから話すのが礼儀だと思っただけです」
 いやに、しおらしい話し方になってしまった。さっきまでは隣のテーブル席に人がいて、思うように話せなかったし、ナンパされたという興奮が冷めきらずに気負っていたのかもしれない。
「そうだよね。失礼だったと思う」
 松長は言い、うなずいたとも謝ったとも取れる仕草で下を向き、沈黙している。うつむくのは、考えるときの癖なのかもしれない。
「ぼくの場合には、小さいころから男女両方に興味があったなあ――」松長が顔を上げ、口を開いた。
「もちろん、性的な意味と、恋しいとか愛しているとかいう感じ、つまりこの人と一緒にいたいという感情の二つの面があったと思う。今でも基本的には自分の好きなタイプなら、男性でも女性でもどっちでもいい。どちらでもいいというのは、愛せるという意味。男、女って、あんまり区別して考えない。かといって、バイセクシュアルという言葉で自分を縛りたくはないし、その言葉で他人からくくられたくもない。セクシュアリティは個人的で繊細なもので、グループ化とか一般化はできないものだと思う」
 ここで松長は口を閉じた。
「そうなんですか」
 それくらい言葉しか返せない。話だけを聞いていると、ずいぶん年上の人に思える。学生だなんて、嘘なのは確かだ。でも、それはお互い様だ。あっちは若作り、こっちは男作り。「男作り」という言葉が頭に浮かぶと、笑い出しそうになった。
「で、君はどんな人が好き?」
 言葉に詰まる。相手は軽い気持ちで尋ねているのかもしれないが、考えてしまう。この戸惑いは、弟がもうこの世にいないことから来ているように思える。弟は、どんな人が好きだったのだろう。「好きだ」ということをどう考えていたのだろう。
 松長が言った、『性的な意味』、『恋しいとか愛しているとかいう感じ』、つまり『この人と一緒にいたいという感情』という言葉の意味を考える――。弟は何を求めていたのだろう。
「分かりません」
「そうだよね。急に聞かれても分からないよね」
 話がかみ合っていない。松長は、こっちがどういう人を好きなのかと尋ねている。こっちは弟がどういう人が好きだったのかを考えている。問題は、こっちが考える対象をつかめていないことにある。わたしは、まだつかめていないものを探しにこの街に来ている。
 自分は、とんでもない間違ったことをしているのではないか。弟をしのぶのでもなく、弔(とむら)うのでもなく、その心と気持ちをもてあそんで侮辱しているだけなのではないか。
 喉が渇いた。空になったコーヒーカップの横に、水の入ったグラスが置かれている。そのグラスに手を伸ばす。
「細い腕だね」
 松長がつぶやくように言った。
 この人は、気付いている――。
 とっさに感じた。もしもそうだとすれば、わたしたちのしている話は、かみ合っていることになる。松長と名乗る男が、男の格好をした女のわたしに興味を持っているのならば……。
 弟のことばかり考えていたところに、いきなり「わたし」が飛び込んで来た。頭が混乱してくる。わたしの手は、グラスを握ったまま動かない。わたしは、自分の右腕の手首を見つめる。とっさに考えた。弟は、どんな手首をしていたのだろう。

 


第9話 出発点

 外は暗くなりかけている。行き先を考えることなく、通りを進む。男たちがたたずむ例の店のほうに向かっているのに気付く。男たちの数は増えている。十代半ばに見える者たちから中年までいるが、どこか年齢不詳な印象を与える人が多い。
 後ろから靴音がするので振り向くと、四十歳前後とも五十歳前後とも見える男と目が合った。大柄な男だ。その口元がほころびた。男を無視して向き直り、そのまま進む。男は「ねえ、ねえ、きみ」と言いながら追いつき、わたしと肩を並べた。
 恐怖心を覚え、声を上げそうになる。その男とわたしの背後に人が近づく気配がしたので、首だけ回して後ろを見た。さっきまでコーヒーショップで向かい合っていた松長と名乗る男が、斜め後ろにいる。ほっとする。コーヒーショップでの興奮がまだ冷めやらず、足が中に浮いた感じが残っている。
「お小遣いあげるから、一緒に来ないか?」
 男はスーツの上着の内ポケットに手を突っ込んでいる。
「一万でどうだ? 前金で払うから」
 札入れを取り出している。
「馬鹿にするなよ」
 立ち止まり、低めの声で言い返す。
「何だい。もっと欲しいのか? いくらだ、言ってみろ」
 男は声高になった。辺りにまばらにいる男たちの視線が、こちらに集まる。松長も立ち止まり、距離を置いて見ている。
「だから、馬鹿にするなって言ってるんじゃん」
 傍らで札入れを手にしている横柄そうな男の顔を見ているうちに、本気で腹を立ててしまった。男にはそれ以上取り合わずに歩き出す。
「何だよ。人を馬鹿呼ばわりして、ただで済まそうっていうのか」
 背後で男がすごんでいる。支離滅裂な言い掛かりをつけている。
 反射的に駆け出した。男はたちまち背後に迫り、右肩をつかんできた。突然の力にのけ反りそうになる。
 背中のすぐ後ろ辺りで、どすっという鈍い音がして、男の手が肩から離れた。振り向くと、松長と男が胸ぐらをつかみ合っている。男のほうが松長より五センチほど背が高い。さっきの音は、松長が男を背後から蹴るか殴った音かもしれない。
 二人は、それ以上は争わずに二言三言交わした。頭に血が上り、キーンという激しい耳鳴りを覚えた耳には、何を言っているのかは聞き取れない。
 男が先導して二人は車道を横切り、向かい側の歩道に移った。シャッターを下ろした店の軒下で何やら話し始めている。様子を見ていると、まんざら知らない間柄でもなさそうだ。このまま立ち去ろうとも考えたが、男を引き離してくれた松長のことが気になる。
 薄暗い中で二人は互いにうなずき合っている。いきなり中年の男のほうが声を立てて笑った。最後に二人は軽く手を上げてあいさつし合い、男はちらりとこっちを見たあと新宿通り方面へと去った。

 

 松長が服装を整えながら車道を渡り、近付いて来た。
「さきほどは、本当に失礼しました。反省しています」と松長は頭を下げた。口調がすっかり変わって敬語になっている。女として扱われていることが身に染みる。「お詫びの言葉を言いたくて、あなたを追って店を出ると、あの人があなたの後を付けていたので――」
「こちらこそ、松長さんにお礼とお詫びをしなければなりません。助けていただいてありがとうございました。それと、さきほどは、あんな唐突な態度をとってしまい失礼しました」
 頭を下げる。
 落ち着いて考えれば、行き違いがあったにすぎない。
 男の格好をした女子学生が、松長という自称男子学生に男子高校生と間違えられてコーヒーショップに誘われた。女子学生は亡くなった弟をイメージして自称男子学生と会話し、自称男子学生は男子高校生をナンパする気でいた。
 話をしているうちに、自称男子学生は男子高校生が若い女だと気付いた。女子学生は自分が女だと相手が見破った後になって、ようやく自分が女だとさとられているのを知った――。それを知ったさいに、女子学生であるわたしは精神的に動揺し、混乱に陥った。
 弟と同じような若い男でも、若い男を装い演じている若い女でも、一時的な性的関係、または恋愛の対象として考えることができる男――。そんな男が目の前にいるという状況が、わたしにはにわかに理解できなかった。
 整理すれば、そういうことにすぎない。

 

『ぼくの場合には、小さいころから男女両方に興味があったなあ――』
『今でも基本的には自分の好きなタイプなら、男性でも女性でもどっちでも大丈夫。大丈夫ってのは、愛せるという意味。男、女って、あんまり区別して考えない――』
『で、君はどんな人が好き?――』
 そうした松長の言葉は、誘った相手が男を装っている女だとほぼ確信したうえでの探りと確認のサインだったに違いない。わたしは、そのサインに気付かなかった。
 コーヒーを飲み干したカップの横にあった水の入ったグラスを手に取ろうとしたとき、松長が言った。
『細い腕だね』
 その言葉で、ようやく自分が女だと見破られているのを直感した。何て鈍くて馬鹿だったのだろう――。恥ずかしさと戸惑いと混乱のうちに、席を立ち、コーヒーショップからいきなり飛び出していた。さぞかし松長も驚いたことだろう。だから、気になって後を追ってきたのかもしれない。そして結果的に松長に救われた。

 

「これくらいの時間になると、一人でこの辺を歩くのは危険です」
 靖国通り方面へと並んで進みながら、松長が言う。
「わたし、疲れました。帰ります」
 正直な気持ちを口にした。
「よろしければ、ぼくのケータイの番号を登録していただけませんか。あなたの番号は聞きません」
 わたしは立ち止まって歩道の脇に寄り、携帯電話をパンツの横ポケットから取り出した。
「木の松と長い短いの長の『松長』です」と言って、番号を口にする。「送って行きましょうか?」
「途中までお願いします」
「駅はJRですか?」
「わたし、タクシーのほうが――」
 一刻も早くこの街から去りたい。ホテルまで歩くのもつらい。
「タクシーですか?」 
「はい」
「そのほうが安全かもしれませんね。で、行き先は?」
「東京駅――」
 思いがけない言葉が出て来て、自分でも驚く。東京駅という言葉を口にしたとたん、このままホテルを引き払って名古屋に帰ろうという考えが頭に浮かんだ。
 目が合った。松長は、不思議そうな顔付きをしている。
「本当に?」
「はい」
 行き掛かり上「はい」と返事をしたまでで、心の中ではまだ東京にとどまることは分かっている。
「そうですか。東京駅なら、靖国通りじゃなくて新宿通りでタクシーを拾ったほうがいいです」
 通りを引き返す。松長は考えるような表情となり、何も言わない。新宿通りとの交差点が見えてきた。荷物を置いてある西新宿のホテルと東京駅とは、方向が逆だと気付く。どうでもいい。タクシーの座席に背をもたせて腰を沈めたい。運転手を無視して、思い切り声を上げて泣いてみたい気もする。
 仲通りへの入り口を過ぎ、新宿通りの歩道に出た。午後三時半より少し前に、ここで仲通りへと足を踏み出した時を思い出す。あのわくわくした気持ちはもうない。自分が男に見えるという自信もどこかに行ってしまった。悔しい。弟とまったく同じ格好と髪型をしているのに――。髪をばっさりと切ってから、ずっと男として通してきたのに。
 わたしが女だと見破った松長と並んでいるせいかもしれない。だから、弱気になっているだけだ。単に歩き疲れて、お腹が空いているだけだ――。
 牛丼の大盛りが食べたいと、ふと思う。そうすれば元気が出るような気がする。このところ、牛丼にはまっている。

 

 大通りの喧騒が耳に入る。思えば、ここが出発点だった。
 この出発点に立って新宿通りから仲通りへと折れて、一歩足を踏み出した瞬間が、かつて弟にもあったにちがいない。携帯電話を取り出し、素早く弟の写真を表示させる。自分と同じ髪型をした光太の澄ました顔が、液晶の光の中で輝いている。
「タクシーを拾うなら、もっとこちら側に進みましょう」
 松長は交差点を避け、東へと足を向けた。ちょうど大通りの信号が赤になり、手前の車線の流れが途絶えた。松長と少し離れた位置で、信号が変わるのをじりじりしながら待つ。
 信号が変わった。松長が車道へと近付く。速度を落としたタクシーが手を上げた松長に寄って来る。タクシーが止まる。
「送っていただいて、ありがとうございました」
「お気をつけて。電話、待っています」
 去ろうとしている街のほうに振り返る。通り沿いの店のどれもが照明を落としている。わたしは街灯の前に立った。店の暗いウィンドウに、グレーのジャケットを着てベージュのパンツをはいた自分の姿が映っている。
 タクシーが軽くクラクションを一つ鳴らした。松長に一礼して、タクシーに乗り込む。
「どちらまで」
 運転手が言った。若い男だ。
「近くに牛丼の店、ないですか?」
「はあ?」
 バックミラーの中で、運転手と視線が合った。
「牛丼の店の前で降ろしてください。あっ、そうだ。店は――」
 この数日間、毎日利用している牛丼店チェーンの名を言った。

 

     *

 

 翌日――。紀伊國屋書店の新宿本店前。
「ラザーニャ、好きですか?」
 顔を合わせるなり、松長が聞いてきた。
 嫌いではないと答えると、伊勢丹の近くにある地中海料理の店に連れて行かれた。
 注文が終わり、最初に運ばれて来たワインのコルクを、松長は慣れた手つきで抜いた。
「わたしたちって、周りからはどう見えると思います?」
 乾杯の後に、わたしは尋ねた。
「さあ? 怪しい二人ってところかな」
「はっきり言ってください。男同士? 男と女?」
「もちろん、男同士」
「そうかなあ。わたし、きのうのことで自信をなくしちゃったんです」
「ぼくが声を掛けたときには、ずいぶんつっぱっていたもんね」
「ごめんなさい。失礼な態度を取って」
「全然。あんなもんですよ。ああいう所で、出会った者同士は」
「そんなものかなあ」
「いいですか――」
 松長が声をひそめて言った。
「えっ? はい」
 わたしもつられて小声で返事をする。
「ぼくの斜め向かいに非常口があります」
 松長は表情を変えずに、わたしの左後方にちらりと目をやった。わたしは松長の目線をたどって振り向こうとした。
「まともに振り返らないように――」松長がささやく。
「その非常口の右にテーブル席があります。端から二番目のテーブルです。椅子の上のカバンでも開ける振りをしてください」
 何げないふうを装って、松長の言う通りにした。十代半ばくらいに見える少年と、三十歳前後の男がテーブルで向かい合っているのが目に入った。
「まさか」
 わたしは驚いた。
「そうじゃないです。考えすぎないでください。二人とも男性同士です」
 松長の勘のいいのには感心する。わたしは自分たちと同じようなカップルだと、とっさに思った。
「ぼくはあの年上の人をよく知っています。男の子のほうも知っています。会えばあいさつし合うほどの仲という意味で」
「あいさつしないんですか?」
「もう、しました」
「えっ?」
「目と目で」
 わたしは吹き出した。
「しかも別々に」
 松長は無表情で付け加えた。
「どうして、別々になんですか?」
「さあ? どうしてでしょう? そこは考えてみてください」
 意味がよく分からない。わたしが考え込んでいると、松長が助けてくれた。
「今の状況は、二人を前に『やあ、お二人さん、元気ですか?』なんて調子で、あいさつできないってことです」
「面白い――。意味深ですね」
「ええ。こういう雰囲気って秘密めいていて、ぼくも好きです。きっとあの二人も、こっちの話をしていますよ」
「何て言って?」
「『あの人たちもそうだよ』『本当ですか? よく分かりますね』『年上のほうとは顔見知りだ。なかなかのワルだよ。気をつけな』『そうなんですか』なんて。たぶん、男の子のほうは、ぼくと知り合いなのを隠すだろうな」
 松長は意味ありげに言った。わたしは自分なりに状況を理解した。きっと松長は、あの少年を以前に誘ったことがあるのだろう。そう思うと、横顔しか見えなかった少年をよく見てみたい気になる。嫉妬に似た感情だ。
「松長さんって、『ワル』なんですか?」
「『ワル』の定義にもよりますね」
「…………」
「そんなに考え込まないでください。ジョークです。笑ってください」
 わたしは無理に笑みを作った。
「わたし、本当に男の子に見えるでしょうか」
「見えます。これはジョークじゃなくて、マジに」
「でも、きのう、あの時にどうしてわたしが女だと分かったんですか」
「最初は分かりませんでした」
 信じられない。松長は気を使っている。わたしが女だと最初から分かっていたに違いない。ホテルに戻ったあと、昨夜はあまり眠ることができなかった。松長との出会いとコーヒーショップでの会話を、ベッドの中で何度も思い返していた――。だまされた振りをしておこう。
「じゃあ、どの辺から?」
「ぼくに気がないと分かった辺りから」
「すごい自信家なんですね」
 わたしは失礼に響かないように笑みを浮かべて言った。
「いや、今のは冗談です。本当は、あなたがつっぱっているのを見ているうちに、どこか不自然なものを感じ始めて、そのうちに――」
「こいつは女だなって分かったとか?」
「ええ。『こいつ』なんて思いませんでしたけど」
「松長さん、一つ聞いてもいいですか?」
「その質問を当ててみましょうか?」
「分かるんですか?」
「分かりますよ。ワルだから」
「じゃあ、質問は口に出しませんから、答えてみてください」
「大学生だというのは嘘。四捨五入して三十歳」
 わたしは吹き出してしまった。二十五から三十四ということになる。こっちの質問を当てるなんて、やはり勘のいい男だ。それとも、同じようなシチュエーションを何度も経験してきたから分かっただけか――。
「ね、やっぱりワルでしょ?」
 ワルでもいい。きのうはこの年齢不詳のワルにだまされて、いろいろ真剣に悩んでしまった。それは悔しい。でも構わない。わたしは、自分にとって都合のいい相手とめぐり会えたようだ。このワルを利用してやろう。
 今夜、あの街の店に連れて行ってもらうのが楽しみでならない。きょうがわたしにとって、出発点になるかもしれない。
 






第10話 隔たり

 サラダが来た。松長は真っ先にオリーブをフォークで刺して口に運んだ。最後に食べようか、それとも結局は残そうかと、わたしが考えていたものだ。松長はオリーブをかみ終えてから言った。
「おいしいオリーブを食べさせてくれる店は少ないんだ。ここのは合格です」
「わたしのも召し上がりますか」
「オリーブはお好きじゃありませんか? 確かに日本では、割とましな地中海料理の店でも、オリーブだけはろくなものを出しませんから――。この店はこじんまりしていますが、ぼくは以前から気に入っているんです。試してごらんなさい」
 松長と会話していると、ますます相手の年齢が分からなくなってくる。昨日あの街でわたしに声を掛けてきてコーヒーショップに誘い、自分は学生だなんて嘘をついた一方で、わたしが男の格好をしていることを見破った男――。
 教えてもらった携帯電話の番号に、わたしは昨夜のうちに電話を掛けてしまった。もちろん、名古屋に帰ろうなどという気持ちは、一時的な思いつきにすぎなかった。
 本当かどうかは分からないが、小学校と中学校での教育をパリの日本人学校で受けたという男。こうやって明るい所で向かい合っていると、容姿は大学三、四年生に見える。話していると三十歳くらいにも感じられる。一緒にいて心が休まるのは、なぜだろう。
 声だろうか? 最初に声を掛けられたとき、その声の響きに引かれたのは確かだ。亡くなった弟を演じていたあの時のわたしは、弟としてこの男性に興味を持ったのだろうか、それとも女のわたしとして引かれたのだろうか。
 テーブル越しに、松長が不思議そうな顔をしている。そうだ、オリーブの話をしていたのだった。
「やっぱり遠慮しておきます。オリーブは苦手なんです」
「では、遠慮なく――」
 フォークを持った松長の手が伸びてくる。わたしの皿のオリーブをフォークが突き刺す。濡れたオリーブが尖った金属に貫かれた瞬間、どきりとする。性的なイメージが脳裏をよぎる。
 ラザーニャが運ばれてきた。確かにおいしい。
 もっぱら松長が話し、わたしは相づちを打つ。松長の声が旋律のように耳を撫でる。ワインのせいか、心地よい酔いが全身を包む。話の内容など、どうでもよくなってくる。拍子をとるように、わたしはうなずき、ときおり首を傾げる。
 男と、男を装ったわたし。男と、男の子。夜が近づくにつれて、男や男の子たちが集まる街――。
「……そう思わない?」松長が言って、返事を待っている。
 何を尋ねられたのか分からない。わたしは、あいまいに首をひねる。松長はほほ笑み、話を続ける。

 

 きょうは、どうなるんだろう――。これから連れて行ってもらうあの街のことで、わたしの頭の中はいっぱいだ。
 きのう、松長に声を掛けられるまで何度も往復した、南北に走る「仲通り」を思い出す。公道で昼間から堂々と、男と男が意味ありげな視線を交わしている街。生前の弟が歩いていたに違いない、通りと幾筋もの路地。仲通りと交差するやや幅の広い道を進もうとして見つけた、池のある小さな公園。
 あの街は夜にはどんな顔を見せるのだろう。どんなドラマやアクシデントが起きているのか。昼間には単なるプラスチックの板にしか見えなかった数々の店の看板は、夜にはどんな光を放っているのだろう。男たちの視線は、太陽が空にあるうちとは違ったものへと変化するのだろうか。
 あの視線の中を、もう一度泳いでみたい。このワルと一緒なら安心だ。利用してやろう。

 

「……何か考え事でも?」
「ごめんなさい。わたしって、ぼんやりして見える質(たち)なんです」
「そうかなあ。きのう、一緒にコーヒーを飲んでいたときには、ずいぶんつっぱっていたけど――」
 わたしたちは同時に笑った。
「くどいかもしれませんが、わたし、本当に男に見えますか」
「そんなこと心配していたんですか? 見えます。嘘でもお世辞でもありません。ぼくは一度自分を振った人には、お世辞は言いません」
 そう言って、松長はグラスのワインを飲み干した。
「振っただなんて――」
「それは事実です。とにかく、あなたが女性だなんて、その世界の人にも普通の人にも絶対に分かりませんよ。この『ワル』が保証します。特に、ぼくは中性的な若い男性や女性に人一倍関心がありますから、自信はあるんです。そのぼくが、最初のうちは見破れなかったんですから」
「嘘ばっかり」
「本当です。そんなにぼくが嘘つきに見えますか」
「はい。巧妙な嘘をつける人に見えます。ワルですもの」
「はっきり言ってもらって、ありがとう」
 わたしたちは笑みを交わした。
「ワルが一緒だと心強いです」
「ワル、ワルって、あまり言わないでくださいよ。事実だから余計、胸にぐさりと来るんです」
 笑顔を崩さす松長が言った。

 

     *

 

 この街に再び来た。夜には、がらりと印象を変えている。ビルの壁に縦に連なった、バーやスナックやクラブの看板の光が放つさまざまな色。今夜は空気が湿っているせいか、狭い路地から吹き抜けてくる風がかび臭い。
 人の流れを観察すると、やはり女性の姿は極端に少ない。ただ、昼間には見掛けなかった二、三人連れ、または五、六人の明らかに女性らしき集団を時々目にする。ごく普通の主婦やOLといった雰囲気の人たちだ。いやに、はしゃいでいる。松長の話では、この街には、主に女性客を対象にショーを見せる店もあるらしい。そうした店に行く途中なのか。
 一見しただけでは、男女の区別が容易につかない人もいる。そういう人は、たいてい一人で歩いている。どこか謎めいていて、後をつけてみたい衝動を覚える。
「仲通り」の歩道が狭いため、松長と肩を並べたり前後になりながら歩く。道行く男たちの中には視線を送って来る者もいる。わたしは、どう見られているのだろう。レストランで松長が言ったように、本当に男に見えるのだろうか。
 この街が、男に興味を持つ男たちの視線であふれていることは確かだ。今回の上京で歩いた、夜のほかの街とは、雰囲気が違う。ほかの街は、無関心な目であふれていた。ここは違う。

 松長は、通行人とあいさつや目礼や短い言葉を頻繁に交わす。その相手は、二つに大別できる。わたしの目から見てもかわいい感じのお洒落な男の子たちと、松長と年の近そうな人たちだ。
「ほら、またあいつがいる」
 通りに面した、ひときわ明るい照明を放つガラス張りの店に、松長が視線を投げる。一見雑貨屋、奥に入るとポルノショップ。きのうの昼間に足を踏み入れかけて、慌てて出た店だ。
 店の真ん前の電柱の横に、あの男がいる。
 きのうの夕方に、わたしの後をつけて来て、いきなり『お小遣いあげるから、一緒に来ないか?』と言った男だ。
 松長に誘われて入ったコーヒーショップで、自分が女であることを松長に見破られてショックを受け、当惑と混乱のうちに外へ飛び出した直後のことだった。わたしを追って来た松長と男とは取っ組み合いの喧嘩になりかけたが、大事には至らず、わたしは松長に救われた形になった。
「あの人とは知り合いなんですか」
 きのうの感じでは、松長とあの男とは初対面ではない感じがしたので、わたしは尋ねた。
「単なる顔見知りだよ。でも、君があんな目に遭っていたから、初めて口を利いたんだ。誰もこんな場所で面倒は起したくない。喧嘩にでもなれば、近くに交番があるから、警察官が飛んで来ることもある。それにまともなやつなら、体面を気にするよ。すぐに仲直りしたさ」
「そんなもの?」
「そう、そんなもの」
 この街に入って、松長の話し方がくだけてきたのに気付く。昨日、声を掛けられたときには『君』と呼ばれていた。女だとばれてからは『あなた』と呼ばれ敬語に変わった。さっき食事をしていた間も『あなた』と呼ばれ、お互いに丁寧な言葉遣いをし合っていた。
 それが今では、友達同士か年の近い恋人同士のような話し方になりかけている。自分が、男または男の子として扱われているような気がしてうれしい。
「実際、この辺りに何年も来ていれば、顔だけ知っているやつが増える。と言うか、数日間でもいいから、通ってみると分かるけど、来れば必ず顔を合わせるやつらがいる」
「あの人たち、何をしているの?」
 わたしは、あの奇妙な店に目を向けて言った。
 あの店が、通りの中心点になっているようだ。店を取り巻くように、散らばって男たちがたたずんでいる。昼間の三倍は人がいるだろうか。車道にも人が立ったり、若い子はしゃがみこんでいるため、車が徐行していく。
「相手を探しているのに決まっているじゃない」
「相手――」
「そう、一夜、いやもっと短い時間を共にする相手。場合によっては、それがもっと長くなる可能性もないわけではない。ただ、短いのが普通。終わって、バイバイ。また会っても知らんぷりが、ほとんど。一度関係があったあと、せいぜい知り合いか友達同士になるなら、いいほうかな」
「ふーん。そうなんだ」
 ついていけない。悲しすぎる。そんな関係なんて、人間同士の関係と言えるのだろうか。わたしは自分と、松長も含めた周りにいる人たちとの間に隔たりを感じた。男女の違いなのか。男と女とでは、求めるものが違うのだろうか。これは、わたしだけの個人的な物の見方なのか――。男女の差を超えて同じ人間なのに、異質なものを感じる。
「『行きずり』ってことかな」
 わたしは最近読んだ小説の中に出て来た言葉を口にした。
「行きずり? 懐かしい言葉だなあ。そうも言えるね」
 わたしたちは、その店の前で自然と足を止めた。車道と歩道の境の縁石に足を乗せ、通りに沿って並ぶ格好になった。目の前の車道をタクシーが徐行していく。
 わたしはあらためて、周りの男たちに目をやった。
 共通点はただ男というだけ。年齢はよく分からないが統一感がなく、ばらばらに見える。正面にある店の内部の照明は明るい。店内の狭い通路に立つ男たちが、DVDやビデオや雑誌を物色している。
 そのさまは、満員電車の中で沈黙し、ひしめき合っている乗客たちにも似ている。DVDのケースの写真に目をやりながら、手と手が触れ合っている二人を見つけた。二人連れには見えない。どこかが不自然だ――。店内で目線を交し合っているらしい者たちも目につく。
 車道を挟んだ電柱の脇にいる、きのうわたしに声を掛けてきた男が、周囲を見回している。男がわたしたちに気付いた。わたしは緊張する。松長が手を上げて男に会釈する。男がうなずく。
「平和主義で行かなきゃ」
 松長がつぶやき、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。メールが届いたらしい。わたしは松長に尋ねようと思っていたことを思い出し、携帯電話を戻したタイミングを見はからって口を開いた。
「男の人同士用のケータイの出会い系サイトとか掲示板とかもあるとか」
「もちろんあるさ」
「松長さんも利用するの?」
「たまに覗く程度かな。でも、ぼくは直接こういう場所で出会うほうが好きだ」
「どうして?」
「掘り出し物が見つかる可能性が高いから」
「へーえ、そんなもの」
「それにケータイでの出会いは、時間が掛かって面倒くさい」
「ふーん」
「昼間の早い時間で暇なときに、この辺に来る。日が沈むころには帰る。そんな感じかな」
「夜遊びをしない子を狙うワル」
「また胸にぐさりと来た」と言って、松長は縁石を蹴るような仕草をした。「最近では、こういう場所には来なくて、ケータイやパソコンのサイトだけ利用している人たちが増えているみたいだね。ぼくは、そういうやり方は苦手だけど――」
 それを聞いて、わたしは弟の死について考えないわけにはいかなかった。弟は、ケータイを通じて初めて知り合った男性の運転する車の助手席で死んだ。猛スピードでガードレールに追突し、即死したという。わたしは話題を変えることにした。努めて明るい声を出して尋ねる。
「『ディスタンス』ってお店知ってる?」
 今夜、松長とこの街に来た目的は、その店に入ってみることだ。
「知ってるけど、なぜ?」
 弟の部屋には、『ディスタンス』という名とこの地域の局番で始まる電話番号の入った、しゃれたデザインのブックマッチが五、六個あった。おそらく盗んできたものだろう、店のネーム入りのトールグラスも二個あった。
「連れてってくれる?」
「もちろん。こんな所で立っているんじゃなくて、どこかの店に入るつもりで来たんだから――」
 食事中に、男の格好をしている理由を聞かれたが、『ここでは話にくいから、あとでお答えします』と言って返事を避けた。昨夜、松長に電話したときにも同じ質問をされた。電話でなら話してもいいかと迷ったが、『明日話します』と約束しておいたのだった。
 今なら、弟のことを話せると思う。一癖ありそうな人だから、ひょっとして生前の光太を知っていて、とぼけているのかもしれない。弟の死、そして車を運転していた人の死は、この世界の人たちの間ですぐに広まったらしい。
 弟の携帯電話に登録されている番号の人に電話したさいに、そう言われた。微妙な話題だから、松長はこっちから話すのを待っているとも考えられる。
「ヒカルって、若い子知らない?」
「どのヒカルだろう。この辺に来る子によくある名前だね。あだ名が多いと思うけど。ヒカルねえ――。ヒカルなら十一人知ってるよ」
「本当?」
「うそ」
 ふざけている。わたしは、松長に光太のことを打ち明けるのはやめようと思い直した。
「名前は知らないんだけど――」と言って、松長はわたしの目を覗きこんだ。「この辺で見掛けた若い子に君がよく似ているという気は、最初からしていた」
「知らないんだったら、いいんです。大したことじゃないから」
 興味をそそる話だったが、弟のあだ名のことで冗談を言われたわたしは半分自棄(やけ)になって言った。
「歩こう」
 松長は急に真剣な顔付きになって歩き出した。わたしは慌てて後を追った。

 

 男たちが立っているあの店の前から離れ、人の通りがまばらになったところで松長は言った。
「あの子のことは知っていた。と言うか、顔は何度も見たことがある。ただ、名前は知らなかったし、口を利いたこともない。好みだったけど――」
 松長が言いよどんでいる訳は分かった。
「遊んでいる子だった。だから、興味はなかった。そういうことでしょ?」
 松長はゆっくりうなずいた。
「きのう、あの店で一緒にコーヒーを飲みながら、君を見ていてあの子のことを思い出したとき、実はぼく自身も混乱してしまった」
 わたしたちは仲通りから小さな公園へと続く道へと折れた。折れた瞬間、人けが途絶える。仲通りと打って変わった寂しい道だ。わたしたちは目を合わせず、肩を並べながら歩道の真ん中を進んだ。
「君とよく似た男の子が亡くなったという話は聞いていた。それだけじゃない。運転していたやつとは口を利く仲だった。だから、きのう君が女性だと確信したとき、ぼくは考えた。目の前にいる人は誰なんだろう? それを知りたいと思った。亡くなった少年の姉か妹ではないかという気もした。でも、それでは話が出来すぎている。まるで小説みたいじゃないか――」
「松長さん?」
「何?」
「ごめんなさい。わたし、嘘をついていました――」
 わたしは初めて自分の氏名と弟の名を松長に教え、自分が光太の姉で、警察が預かっていた弟の物を受け取りに上京し、住んでいた部屋の引っ越しの手配をしたことを告げた。
「事情は分かったけど――」と言って、松長は言葉に詰まった。
「でも、どうして弟と同じ格好をして、こんな所にいるかと言うんでしょ?」
「そう。どうして?」
 わたしは考えながら説明を試みた。今自分の取っている行動を言葉にして他人に伝えるのは、これが初めてだ。
 考えていることを、そのまま口にしてみた。
 弟と同じ髪型にし、弟の衣服を身に着けてこの街に来た理由は、正直言って自分でもよくは分からない――。
 自分が知り得なかった弟の側面と、どんな生き方をしていたのかを知りたいからかもしれない――。
 一方で、なぜ自分がこれほどまでに弟に同化しようとしているかを知るために、東京での滞在を延ばしこの街に来たとも言えるような気がする――。
 亡くなった弟を知るためなのか、自分を知るためなのか――。
 わたしが言いよどむたびに、松長は「うん、それで?」と、うなずいて話を促してくれる。
 高校時代の同級生で東京の大学に通っている親友が、わたしのことを気遣い、精神状態を危ぶんでいるようだ――。
 弟の死後、母とわたしは心療内科で処方された「気分を落ち着ける」という薬を飲んでいる――。
 心の奥では、自分の精神が病んでいるような気もしない訳ではない――。
 そんなことまで口にしていた。
「君は、家族の一員、それも自分に最も近い人を失ったんだ。それで負った心の傷が深くて大きいのは当然だと思う」と傍らにいる松長は静かな口調で言い、話題を変えるかのように公園のほうを向いた。「見てごらん」
 松長が歩を緩めた。わたしも公園内に目をやった。距離を置いて、ぽつぽつとたたずんでいる男たちがいる。園内の街灯の明かりだけでは、はっきりとは見えないが、十代から中年くらいまでの男たちがいる。
「全員じゃないけど、ここには体を売っている者たちもいる。夜は近付いちゃだめだ」
「――ばらばら」
 わたしはつぶやいた。
「えっ?」
 松長がわたしのほうを向いた。
「みんな、ばらばら。同じように見えても、同じ場所に集まっても、ネットの掲示板やサイトでつながったとしても、同じ言葉で呼ばれていても、みんなばらばら。ひとりっきり――」
 歩道の街路灯の下を通り過ぎた辺りで、松長が一歩前に進み出て、正面からわたしを引き寄せた。わたしは松長の胸に上体だけを預けた格好になり、よろけた。松長が足を踏み出して、わたしの体を受け止める。
「『ディスタンス』に行くんじゃなかったっけ? あそこへ行けば、君の仲間に会えるじゃないか。さあ、元気を出して。ね、光太君」
 松長の低く優しい声が耳元で響く。昨日、出会ったとき、わたしはこの声に引かれた。
 この人は弟の名で呼んでくれた。わたしの、いや、ぼくの夢に付き合ってくれる人がここにいる。一瞬、気が遠くなりそうになり、足元がふらついた。うつむいた目に映る、歩道に伸びた二つの影が重なっていく。

 





第11話 符合

 わざと錆(さび)付かせたらしい洒落た鉄のドアを松長が引くと、音楽と幾重にも重なった声が耳に飛び込んで来た。松長の後から店内に入ると、煙草のけむりと人いきれの混じった粘り気を帯びた空気が顔をなでる。細長く奥に伸びた内部からたくさんの視線が一斉にこちらに向けられている気がする。
 静かな路地からいきなり騒々しい場所に入ったために、自分がかなり動揺しているのを感じる。きょろきょろしそうになるのを抑え、フロントでメニューを見ながら、松長にリードされて飲み物を注文する。
 注文が終わると、松長はわたしを前にして斜め後ろから肩に軽く手を置き、あちこちにいる知り合いの客に会釈したり声を掛けながら、店内をどんどん奥へと進んで行く。
 右はカウンター席、左は間隔を空けて細長いテーブルだけが据えられ、その上に飲み物や灰皿が置かれている。どの席も、どのテーブルも埋まっているように見える。
 いったいこれだけの数の男がどこから集まって来たのだろう? 仲通りに面した奇妙な店の前に立っていた男たちとは、少し違った雰囲気の客が多い気もする。不安と期待と疑問でのぼせそうになったわたしは、恐ろしく深い洞くつに入っていくような錯覚に陥った。
 途中で松長が年齢不詳の短い髪をした人に呼び止められ、わたしたちはいったん立ち止まった。二人は英語で話しているが、速すぎて聞き取れない。二人とも英国風の発音で話している。わたしは大学で英語だけで行われる授業を取っているが、それを受け持っている男性教師の神経質そうに響く話し方を思い出した。
 店内が暑いのか、わたしが興奮しているからなのか、額に浮かんだ汗が玉になってくるのが分かる。客全員が男。それもさまざまなシーンで今流行している服を身に着けた若者が目立つ。
 英語でのやり取りを済ませた松長の手が、再び肩に触れる。わたしたちはさらに奥へと視線の中を泳いで行った。
 一番奥のカウンターに腰掛けていた少年たちが松長を見て、わたしたちに席を譲り、向かい側のテーブルだけのスペースへと飲み物を手にして移動していく。
「悪いね」
「お年寄りは大切にしなきゃ」
「いい心がけだ。五年後に、誰かに恩返ししてもらえるよ」
「五年後? 十年後の間違いでしょう」
 松長とそんな会話を交わした十代後半に見える少年が、わたしの体に上から下へと視線を走らせる。わたしも負けずに横目でにらみ返す。
 わたしたちは譲られた席に腰掛けた。カバンは、ほかの客たちに習い、テーブルの下に設けられた出っ張りに突っ込む。注文したドリンクが来た。グラスをくっつけて乾杯したころには、わたしもようやく落ち着き、店の造りの細部を観察する余裕ができた。

 

 細長い店の内部は実際にはそれほど広くはない。長い洞くつを通ってきたような気がしたが、フロントからの距離も思ったほど長くはなかった。壁の所々に張られた大型の鏡が、広い錯覚を与えている。間接照明を使った柔らかな明るさの中で、天井に設置されているらしいブラックライトに照らされた客たちの衣服の白い部分と笑ったさいに覗く歯が蛍光を放つ。音楽は洋楽ばかりだ。
 わたしは目の前にあるジントニックの入ったグラスと、テーブルの上に置かれた灰皿やブックマッチに入っている文字に目をやる。デザイン化された文字で「DISTANCE」とある。ディスタンス、距離、隔たりと言葉が頭に浮かぶ。
 隣の松長がわたしの目線に気付いたのか、ブックマッチを手に取った。
「ばらばら」
「えっ?」
「公園のそばで、君は言った。人は言葉や場所やネットでつながっているように見えるけど『みんなばらばら、ひとりっきり』だって――」
「ええ、そう思う」
「ここも、そう?」
 わたしは、肩越しにフロントのほうに目をやり、店内を一望する。
「ええ、そう見える」
「ぼくも、同じように考えている。人は言葉や集団ではくくれない。みんながそれぞれの自分をかかえて生きている。それが現実だし、それでいいとしか言いようがない」
「寂しい」
「だから、集まるんだ。そうやって、つながろうとする。それも事実だ。受け止めるしかない」
「松長さんの話って難しい」
「難しくはないさ。体で現実を受け止めろって言ってるだけ。人には五感があるし、第六感ってものまであるそうじゃないか。だったら、それを総動員して現実に立ち向かえばいい」
「でも、それで他人を傷つけたり、逆に自分が傷つくことがあるとしたら?」
「甘えちゃいけない。戦えばいい。それができないなら、戦えるだけの力を養う努力をすればいい。それまで他人に頼っちゃだめだと、ぼくは思う。戦う力をつけるために、他人の助けを借りるくらいなら構わない。でも、最後に戦うのは自分だ」
「戦う――」
「そうだよ。戦う。誰かと一緒に戦うこともできる。好きになるとか愛するというのは、その一緒に戦う相手を求めることだとも言える」
「少しだけ分かったような気がする。ほんの少しだけだけど――」
「よかった」
 わたしははっとした。ディスタンスには、ばらばらな状態の意味もあるのではないか。だから、松長は急に「ばらばら」なんて話を蒸し返したのではないだろうか。今いる店の名と自分が口にした言葉との符合に驚く。同時に、わたしは、さっき公園脇の歩道で松長に上体を抱かれたことを思い出した。
「最初、ぼくは君が単なる個人的な趣味から男の子の格好をしているのだと思った」と、松長はジントニックを飲み干した後に語り始めた。「そうした女性を、この辺りでもたまに見掛けるからね――。そういう格好と関係があるなしは別にして、女性同士の交際を求める人たちの店も、この近くに何軒かあるらしい。ぼくは、よく知らない。ただ、君は、そういう女性に持てるタイプにも見える」
「そうですか」
「たぶんね。いずれにせよ、ぼくは中性的な人に引かれる。男っぽさを過剰に意識した男や、自分が女性であることに安住している女性には引かれない。こういうのは、男に引かれる男よりも、中性的な少年に関心のある一部の女性のほうが理解してくれるんだけど」
 音楽と周りの声がうるさいため、松長はカウンター上でわたしに顔を寄せて喋っている。時にはその距離が近すぎはしないかと思うこともあるが、嫌な気はしない。むしろ周りの目を意識して、意味もなくほほ笑み返している自分がいる。二人して何か秘密のドラマを演じているような共犯めいたときめきを覚える。
 松長は店の中の客の大半を知っているようで、時々店内を見回し、そのたびに誰かと目礼を交わしたり、手を上げたりする。中には松長を見つけてわざわざ近寄り、「松長さん、また違った子を連れて来ている」と言う若い人もいる。
 そんな言葉を聞くと、わたしはほおがほてるのを感じる。平気を装っていいのか。怒った振りをすればいいのか。曖昧な立場に置かれた自分を感じる。わたしは亡くなった弟の格好をした島田香織、つまり島田光太のイミテーションである女としてここにいるのか、それとも、単に男の格好をした島田香織という女としてここにいるのだろうか。
 そうした迷いがあるため、作る表情を決めかねる。松長というワルにナンパされ、だまされているお馬鹿な男の子だけには見られたくない。でも、周りはそう見ているにちがいない。
 ただ、自分が自分以外の存在を演じているという思いは心地よい。できるなら、このままずっとその思いに浸っていたい。今ある自分を消してしまいたい。自分が演じている役柄に侵されたい。
 甘美な夢のような時の中で、わたしは弟のことを次第に忘れつつあった。わたしはその危うさに気付き、話題を弟へと移した。
「あの子もこの店に来ていたらしい」
 わたしは再び店のネーム入りのブックマッチやグラスの話をした。
「その子を見たことはあるよ。でも、はっきり言って興味はなかった」
 昼間にこの街に初めてやって来たような「掘り出し物」を松長が求めていることは、既に聞いている。松長の話では、この街で光太を最初に見掛けたのは今年の四月だったように思うという。予備校に入るために、光太が上京して間もないころだ。短期間のうちに、光太はこの界隈や、携帯電話でつながりあっている男や男の子たちのあいだで、よく知られる存在になったらしい。
「断っておくけど、これは噂として聞いただけだ。ぼくは知らない」
「やっぱり相当遊んでいたんだ、あの子」
 ちょうどその時、松長は知り合いから背中をつつかれ、わたしに断って席を立った。わたしは三杯めのジントニックに口をつけた。

 

 一人になったわたしに対し、松長と一緒にいたときよりも露骨に視線を投げてくる者もいる。男が女を見るさいの誘うような目配せもあれば、女が女をライバル意識を持って見るときの意地の悪そうな目つきもある。酔いも手伝い、わたしはわざと媚びた表情を作ったり、相手を小馬鹿にしたような視線を返したりして、ひとり楽しんでいた。
 会話の相手を失い、自分でもドリンクを飲むペースが速くなっていると感じる。うちの家系の女は誰もがアルコールに強い。それでも、少し心配になってきた。目の前のジントニックがブラックライトの下で透き通った南の海のように青く光る。
 激しい曲のリズムが充血した脳細胞を揺さぶる。酔いが回ってくるのを感じる。悪い気分ではない。男? 女? 光太? 香織? 自分が演じている対象がふと不明になる瞬間がある。男たちの視線ゲームに加わりながら、自分の性も名前も演じている役柄も今ある状況も忘れそうになる。
 ふと気付いたときには、静かな曲に変わっていた。心細さを覚え、グラスに残っているジントニックを氷と共に一気に口に含み、後ろを向いて松長を探した。
 松長はフロントに近いカウンター席の横に立ち、地味な格子柄のブレザーにジーンズ姿の男と話していた。相手はさっき松長を呼びに来た男とは違う。松長がわたしの目に気付き手を上げた。わたしは口に含んだ氷をがりがりいわせてかみ砕き、ふくれっ面を作り、再び正面を向いた。
 格子柄のブレザーを着た男を伴い、松長はすぐに戻ってきた。友達を紹介するからと言って松長はわたしの肩を抱いた。
 松長の口から漏れた突然のうそに驚く。わたしはカオルという名で、ブレザーを着た男に紹介された。男は上田と名乗った。面と向かっても目を合わせようとしない男だった。
「ねえ、カオル君って誰かに似ていない?」
 アルコールのせいで顔に赤みがさしているが松長は相変わらずの済ました表情で上田に言った。わたしは松長が何を言い出すのか見当がつかずはらはらした。
「眉や口の形なんか、そっくりだろう?」と、松長は続けた。
 シャイなのだろうか、上田はまぶしそうな目でわたしをちらりと見てから、再び視線をそらせた。
「誰に?」と、上田が間接照明の下でも真っ赤に見える顔をして尋ねた。
「おまえが好きだった子に決まってるじゃん」
「おれ――」
「おい、逃げるなよ」と、松長はわたしたちから離れようとした上田の腕をつかんだ。「似てるだろ? 会ってすぐにそう思ったんだ」
 上田がちらりとこちらに視線を投げた。
「もっとびっくりさせてやる」と、松長はポーカーフェースを崩さずに言った。
 目の前で松長が演じている「お芝居」に急に腹が立ち、松長に翻弄(ほんろう)されている上田がかわいそうに思えてくる。わたしは、スツールに腰掛けたまま体を回し、松長の足を目がけて思い切り蹴った。
 松長が冷静にわたしの様子を観察していたのかどうかは分からない。酔っていたために、わたしが頭の中で描いていた動作と実際の動作が一致しなかっただけなのかもしれない。松長が身をかわし、蹴りは不発に終わり、わたしは片足を上げたまま仰向けに倒れそうになった。
「おいおい、ここはスケートリンクじゃないよ」
 松長がわたしの体を抱いて支えた。
「実は、カオル君は、ヒカル君の双子の兄弟なんだ」と、松長はわたしをスツールにきちんとした姿勢で腰掛けさせながら上田に言った。
 上田が顔をしかめた。
「松長、おれはそこまでおめでたくはないぞ。話が出来すぎだ。冗談はよしてくれ」
 はっきりとした口調で上田は言った。人の良さそうな上田は、これまで松長の冗談の犠牲に何度もされてきたに違いない。そんなことが想像される。
「もちろん冗談さ。でも、似ていることは事実だ。それは認めるだろう?」と、松長は平然と言った。
 場がしらけた。わたしは再度松長の足を蹴りつけたい衝動に駆られた。一連の出来事を目の当たりにして、わたしの酔いは冷めかけていたが、酔った振りをして松長に寄り添いながら、上田に聞こえるくらいの声で冗談ぽくささやいた。
「上田さんは、ヒカルの前の彼氏だったの?」
「いや、こいつの片思い」
「ふーん。ヒカルって持てたんだ?」
「大変なもんだったよな」と、松長が上田を横目で見ながら言った。
「おれ、上田さんのこと好きかも」と、わたしは思いもしない言葉を口にしていた。
 上田はハンカチで額の汗を拭いながらフロントへと向かい、店から出て行った。

 

 音楽と客たちの声でうるさいにもかかわらず、わたしたちの会話は、周りの者たちの耳に入っていたらしい。
「君って、本当にヒカルの双子の兄弟?」
 三人連れの少年たちが寄って来て、そのうちの一人が聞いてきた。
 とっさの判断ができかねて、わたしは松長の顔を見た。とぼけた表情でそっぽを向いている。いかにも松長らしい。
「そうだよ。おれのほうが兄」と、わたしは居直って答える。
「うそー。そんな話全然聞いていない」
「『聞いていなかった』だろ。もう過去の話じゃん」
 わたしは光太の兄という新しい役柄に自分がなりきっているのを感じる。
「髪型と着ているものが似ているから、君が松長さんと入って来たときから、噂し合ってたんだ。ほおの感じと、髪の感じがちょっと違う。ジェル持ってる?」
「いいや」
「おれ、持ってる」と、もう一人の少年が言って、さっきまでいたらしいテーブルに向かい、角ばった革のカバンを手にして戻って来た。中からジェルのチューブとブラシを取り出す。
「そのままにしてろよ」
 わたしがカウンターを背にしておとなしくスツールに腰掛けていると、その少年はジェルをわたしの前髪の付け根に押さえるようにこすり付けた。
「これでも、ちょっと違うな。もっと全体的に髪を上げていたんだよ」
「おいで」
 言われるままに付いていくと、ジェルとブラシを持った少年はトイレのドアを開けた。当たり前のように、ドアを手で押さえている姿を見て、わたしはためらわずに中に入った。
 ドアが閉まり、手洗いの鏡の前に立たされる。少年は指を水道の水で濡らし、ジェルを手のひらにたっぷり付けて両手をすり合わせた。
「よし」と声を出し、「頭を動かすなよ」と断り、両手の指を開いて、器用な手つきでわたしの髪を撫で上げていく。
「髪が細いね。触っていると女の子みたい」
「女みたいで悪かったな」
「だから、じっとしてろってんの」
 わたしは光太が硬い髪質だったのを思い出した。美容室でカットされた髪を、ジェルやブラシを使って自分なりにアレンジしていたのだろう。この男の子は、それを再現しようとしている。
 カウンター席に戻ると、残っていた二人が拍手した。松長までつられて手を叩いている。
「そう、こんな感じ」
「写真、撮ってよ」と言って、わたしはポケットから光太のケータイを取り出した。
 最初に話し掛けて来た少年が、正面から二枚と左右から一枚ずつ撮ってくれた。
「これ、ヒカルのケータイじゃない?」
「うん。形見だよ。警察から返してもらったやつ。そういうこととか引越しとかあって、おれ、名古屋から来たんだ」
「形見か? よく戻ってきたな」と言いながら、少年は左手を差し出しケータイをわたしに手渡した。

 その少年の手首に、光太の持っていたのと同じ型のタグホイヤーがあった。光太は、物に対する執着心に欠けるところがあった。高価なものでも、飽きると平気で友達にあげてしまう。光太がその少年に腕時計をくれてやるさまが、頭に浮かぶ。『これ、あげるよ』という声まで聞こえる。

 光太の形見――。ケータイなんか、形見じゃない。このケータイがあの子を奪ったんだ。

「おれ、あの日、ヒカルに薄手の革ジャンを貸してやったの。イタリア製のすげえ高いやつ。暑いからって言って、あいつ、タンクトップの上に着て出掛けていった。それっきり。あの革ジャンは、もう戻って来ない。上半身が、ずたずただったって話じゃない――」
 わたしは突然、めまいと吐き気を感じた。渡されたケータイを思い切り床に叩きつけ、少年の手首にあるタグホイヤーを奪い取ろうと、手を伸ばした。きーんと耳鳴りがして体が傾いていく。重心を失った。誰かが、わたしを抱きすくめた。

 気が付いたときには、松長の胸元に顔を埋めて泣きじゃくっていた。

 





第12話 幽霊

「伸びている分だけ切ってください。男性みたいな髪型でお願いします」
 注文をつけると、担当の男性美容師は黙ってうなずいた。いつもの愛想の良さがない。やれセットだパーマだカットだカラーリングだと、割とこまめにこの美容院に来ていたのが、ぴたりと来なくなっていたので機嫌が悪いのかもしれない。カオルは思う。
 へそを曲げられて変な髪にされたくないので、ずっと旅行中だったと言い、長く来なかったことへの詫びを入れておく。弟の死について、この美容師は知らない。知る必要もない。
「途中で寄った東京で、友達にそそのかされて、衝動的に髪をばっさりと短くしちゃった」
 このところ、平気でうそが口から出る。それが癖になってしまったようだ。カオルには、それが快い。
「そうなんですか? あの長かった髪は、わたしがこのハサミでバサっと切りたかったな。さっき入っていらっしゃったのを見て、別の人かと思いましたよ――。で、切ったときには心境の変化でも?」
 美容師は普段の口調で聞いてくる。
「女が髪をばっさりと切るのは、たとえばどんな場合ですか?」
「まず考えられるのは、失恋。第二の可能性は、男が変わったとき」
「へーえ、なるほど。そんなものですか」
「ほかにありますか?」
「女が変わったとき」
「わあー、参ったな、香織さん。しばらく振りでお会いしたと思ったら、髪型が変わっただけじゃなくて、性格までずいぶん気さくになっていらっしゃる」
「それまでは暗かったとか?」
「いえいえ、おしとやかなお嬢さんだったという意味です」
「でも、今はそうじゃない――。それって、けなしてるんじゃないですかあ?」
「参ったな。香織さん、もういじめないでください」
「さっきの女が変わったというのは冗談ですよ。念のため――」
「もちろん分かってますよ」
 美容師の笑顔の中で探るような目付きが、こちらの心を覗き込もうとしているとカオルは考える。このところ、周りからこうした視線をよく感じる。
 何がおかしいのか、カオルには分からないままに、美容師との会話は笑いに満ちたものになった。どこかちぐはぐだ。でも、構わない。カオルは思う。美容師にドアまで送られて店を出る。
「彼氏……じゃなかった、彼女によろしく」と、美容師が職業上の笑顔を崩さず言う。
(くだらない。名古屋に帰ってからも、こんなことやっている)

 

 外に出ると首筋が寒い。マフラーを持ってくればよかった。店に入った時間には、外は既に暗くなりかけていて、商店街にはネオンや明かりがぽつぽつともりかけていた。その時は夕方のうきうきした気配に自分も染まっていたが、今は寒さのせいか心細く泣きたい気分が襲ってくる。街の光の氾濫(はんらん)がうとましい。
 他人と接していた緊張が解けた頭に、思い出したように周りからぎゅっと押し付けられるような鈍い感覚が戻る。同時に下腹が痛み始める。今回の生理は重くて長い。
(この一カ月間に、いろんな馬鹿なことをしていた罰だ)

 

 立ち止まって、弟のカバンを開け、痛み止めの常備薬が入っているのを確かめる。どこかで薬を飲もうと思い、コンビニかドリンクの自動販売機を探す。照明を落とした店のウィンドウに、街にあふれる人工の明かりを受けた自分の姿が映っている。
 男物の茶系のジャケット、薄い茶の地に細かい白のラインが入ったシャツ、ゆったり目のグリーンのパンツ、黒っぽい靴。角ばったカバン。サイドとバックを刈り上げた髪型。
(やめろ、もうそんな髪型はロンドンでは流行っていない。着る物も、靴も、カバンも全然合っていない。馬鹿な真似はよせ)

 

 そうかな? これでいいと思うけど。
(みっともない。お願いだから、やめてよ)

 

 ウィンドウに映っているのは、二十歳くらいの男だ。私服の男子高校生にも見える。
(ったっく――。救いようがない)

 

 そんな言い方やめてよ、ヒカル。
(気安く、ヒカルなんて呼ばないでよ。ぼくは名古屋では、光太って名前なんだから。お姉ちゃんも、カオルじゃなくて、ここでは香織、か・お・り――。分かった? あの店で、あの松長というワルが付けたあだ名なんか忘れろ。あれは、あの場だけの冗談なんだ。カオルだって? マジでやばいぞ)

 

 男らしく振る舞わなければならないとカオルは思い、顎を上げて胸をそらし気味に歩いてみる。東京で見たあの高校生らしき少年の歩き方は、名古屋にはふさわしくない。この田舎の都市は気に食わない。東京に戻りたい。
(戻れ、戻れ、そして痛い目に遭えばいいんだ。誰かさんみたいに――)

 

 商店街を家に向かって歩き出す。
 正面から来る男たちは、もはや道を譲ってはくれない。男は女に道を譲る。男は男に道を譲らない。たとえ譲ってたように見えても、譲ったのではなく、ちょっと方向を変えただけか、こんなやつと肩を触れ合いたくないからよけただけ、と自分に言い聞かせる。それが男だと、カオルは考える。
 周りの男たちをそれとなく観察する。ウィンドウに映っていた自分と同じくらいの年に見える少年に目をやる。たまたま目が合うと首をかしげる少年もいれば、恐ろしい目をしてにらんでくる少年もいる。
(本当に痛い目に遭うぞ)

 

 いざとなったら、女に戻ればいいんじゃん。きゃー、この人痴漢でーす、とか叫べばいい。
(卑怯者。中途半端なやつ)

 

 何とでも言ってよ。ほかに逃げ道がある?
(だから、もとに戻りなよ)

 

 女たちがこっちを見る目も違うとカオルは感じる。以前なら女同士で視線を交わすときには、自分の目にも相手の目にもライバル意識と敵意がこもっていた。
 髪をうんと短くし、意識して男の子の格好をしている今は、偶然に目が合う女や女の子たちは一種の媚を帯びた視線を投げてくる。こっちもそれに応えてやる。視線のゲーム――。たまに性的で不躾(ぶしつけ)な目線を作り送ってみると、相手は恥ずかしげな顔付きになったり、怒ったような表情をするが、敵意は感じられない。

 

 カオルは一カ月前を思い出す。
 男が女を見る目で男が男を見、女が女を見る目で男が男を見、女が男を見る目で男が男を見ていたあの街――。男を装った自分は、男と男の複雑な視線のゲームに加わり、そのめまいを伴う混迷に酔いしれた。
 曖昧、不明、分からない。そんな言葉でさえ説明できない状況は、決して不快なものではなかった。突き刺す視線に満ちた街。容赦なく向けられる視線。痛い――。こちらからも視線を射る。見返される。痛い。鳥肌が立つほどの皮膚的な心地よさと、皮膚の下の肉や血や骨にまで染みこんでくるような快い痛みがあった。その快と苦が全身を駆けめぐった。
 男と男。それだけはない。
 あの少数者の街では、さらに少数者がいた。中性的な若い男女が好きだという男に送られて、あの街を去ろうとした夜――。通りで、女を求める女の視線を感じた。あの人たちの鋭いまなざしは拙(つたな)い男装をすぐさま見抜いた。男が女を見る目と、女が女を見る目の両方を兼ね備えた執拗(しつよう)で粘っこい眼力で心の奥まで踏み入り、仲間かどうかを探ってきた。ごく短い間の出来事だった。もう少し、長く見つめられたなら、あるいはあの男が傍らにいなかったなら、自分はあの目に引き込まれたかもしれない。
(くだらないことを考えるのはやめろよ。そんなの言葉の遊びじゃん。どんなに言葉を重ねても、実際には何にも言っていないに等しい。ぼくみたいに行動してみる気がないから、そんなご託を並べられるんじゃん。ぼくみたいに命をかける度胸がないくせに――)

 

 どうしたんだろう。また道に迷ってしまった。どうして、最近、こういうことが起きるんだろう。カオルは戸惑う。でも、きれい。いろんな人工の明かりにともされた街がきれいに見える。世界が新しく見える。
(そんなの錯覚だ)

 

 自分も他人も互いに見ることで世界は成立している。見ることと見られることの隔たりをできる限り近づけること。それが新しい他者との交わり方だ。隔たり、距離、ディスタンス。
(それって、お姉ちゃんが昨日の夜に読んでいた本の受け売りじゃん。長い間パリにいたとかいう、元帰国子女のあの男の薦めた本なんか読んじゃだめ。ぼく、あいつのこと大嫌い)

 

 松長さんの悪口はやめてくれない? 恩人なんだから。
(ご勝手に)

 

 人は目という鏡で他者を相手に互いを照らし合うことにより世界を認識している。この場合の他者は人間であるとは限らない。森羅万象と言い換えることもできる。
 人に限って言えば、世界は鏡を持った個人の集まりだ。一人ひとりの人間が鏡を差し出しながら歩いている。鏡の表面を世界に向け、他者に向け、自分自身に向けながら、歩いている。きらきら反射する無数の鏡の中で無数のまなざしが戯れ合う。
(起きろよ。言葉の遊びから目を覚ませ)

 

 道が分からない。めまいがする。キーンという耳鳴りが聞こえる。頭の中でぐるぐる回る光に満ちた光景が、目の前に輝く夜の繁華街の雑踏と重なる。

 

     *

 

「――やっぱり疲れているんじゃない? 無理しないほうがいいよ、香織」
 夜の街を歩き疲れたカオルは、自室のベッドに身を横たえ、携帯電話で岸川詩乃と話している。
「かおり? カオルよ」
(やめろ。お姉ちゃんは、か・お・り。ヒカルはもういない。カオルも、もういない。カオルは、ヒカルの代わりにあの街とヒカルの仲間たちにお別れに来た幽霊だったんだ。ぼくに化けた幽霊だったんだよ。もうカオルの役目は終わった)

 

「えっ? 何か言った?」
「ううん。気のせいじゃない?」
「とにかく無理をしちゃだめ。家でぼけーっとしていてもいいけど、あんまり深く考えたり、難しい本を読んだり、疲れるまで外を歩き回るような真似はしないほうがいいと思う」
――どうして、詩乃はそんなことを知っているのだろう。知っているっていうことは、こっちが話したんだろう。
「そうかな」
「わたしはそう思う」
(ぼくも、そう思う)

 

 携帯電話のスピーカーを通して聞こえる詩乃の声は、東京と名古屋との距離を感じさせない。詩乃がまだ精神的な状態を気遣っていてくれることはうれしい。だが、同時にカオルにとってはうっとうしくもある。
 一カ月前に、詩乃をレストランでの食事に誘ったとき、詩乃が探るような目で自分を見ていたことを思い出す。カオルは亡くなった弟のアパートの部屋の引っ越しを済ませたことを報告し、上京中に世話になった礼と詫びの言葉を述べた。
 あの街で弟がよく行っていた店に入ったと語ると、長かった髪をばっさりと切って男装をし始めたとき以上に、詩乃は驚いた。
「一人で?」
「ううん。知り合いと」
「知り合いって?」
「あの街で知り合った男の人」
(あの遊び人のワル)

 

「うるさいわね――」
 あれっ、変なの――。最近、カオルには過去の記憶と現在の出来事が重なって感じられる。
「えっ? 何か言った?」
「ううん、何も言ってないよ」
『香織、あなたは自分がどんなに危険で突拍子もないことをしているのか、分かっているの?』
 レストランで、カオルはかいつまんで松長との出会いについて話した。それを聞いて、詩乃はカオルの目をまともに見た後、しばらく黙り込んだ。その深刻そうな表情を見て、カオルはそれ以上打ち明ける気にはならなかった。
 電話をしながら、カオルはデジャ・ビュを覚える。今聞こえた詩乃の声は今のことなのか、東京にいたときに話したことなのか――。
「もしもし、聞いている?」
「うん、聞いているよ」
「で、そっちでは、ちゃんとお医者さんに診てもらっている?」
 スピーカーから詩乃の声がする。
「心療内科には、お母さんと一緒に通っている」
(時間が解決するさ。お母さんとお姉ちゃんは、これからずっと、ぼくが守ってやる)

 

「そう。それならいいけど。おばさんも、落ち着いたみたい?」
「元気にしてるよ。うちの一族の女はみんな、しぶといもん」
(しぶとくないって)

 

「しぶとい?」
「それはそうと、こっちはもう学園祭も終わって、授業に出なきゃならないし、特に語学の出席日数が危ないんだ」
 詩乃と話しているうちに猛烈な空腹を感じ始め、カオルは携帯電話を手にしながら階段を下り、キッチンに入る。
「留年なんてしないでよ」
「大丈夫。何とかなるさ」
(何とかならないから、岸川さんも心配してるんじゃん。勉強ぐらいしてよ)

 

「じゃあ、わたしそろそろ――」
「分かった。また話そうね」
 カオルが下りてくるのを待ち構えていたように、母親が話し掛けてくる。
「その髪のことなんだけど」
 キッチンと続きになっているダイニング兼居間のソファに座った母親は、お気に入りの白のペルシャ猫を抱いている。
 美容院の帰りに道に迷ったカオルは、遅く帰宅した。迷っているうちに見つけた牛丼屋に入り、一人で大盛りを食べて来てはいたが、今になってまた何かを食べたくなり我慢できない。
 三十分ほど前にカオルが帰って来たとき、母親は帰宅時間が遅いことを叱るより、髪型についてさんざんけなした。今、口を利けば大喧嘩になりそうな気がする。カオルは母親を無視して冷蔵庫を開ける。
「あなたは、長いほうが似合うと思うんだけどなあ。どうしてまた、前と同じように短くしたの」
 母親はペルシャ猫を抱いたまま、キッチンに入ってくる。その足元に、黒のペルシャ猫とグレーの雑種の猫が付きまとっている。
「ねっ、香織は長い髪が似合うよね」と、母親が腕の中の猫に言う。
(そうだ、そうだ)

 

 お母さんだって、何よ、その格好――。そう言い掛けてやめる。
(ねっ、変だろう? お姉ちゃんだって、同じだよ)

 

 名古屋に帰ってすぐ、母親が弟のシャツを着ているのに気付きカオルはどきりとした。一瞬、光太の幽霊を見ているような気がした。シャツは弟の部屋でカオルがきちんと畳んで荷造りをし、引っ越しのさいに送ったものだ。パステルカラーの赤と白の細かいストライプのもので、見覚えがあった。そのシャツを着ている母親を見ているうちに、むかむかしてきたのを覚えている。
 それ、光太のものでしょう、と平静を装って尋ねると、あの子、ずいぶんいいものばかり着ていたのね、と母親はうれしそうな顔をして答えた。そのさらりとした物言いがあまりにも自然なので、カオルはそれ以上何も言わなかった。
 今母親が身に着けているのは、弟のVネックのサマーセーターだ。素材が綿だし青と白の配色がいかにも涼しげで、十一月半ばには時季外れな印象を与える。若い男性向きのデザインも、背の低いずんぐりした体形の母親には全然似合わないとカオルは思う。
「男の人みたいで怖いよね」
 猫にほお擦りしながら母親は言う。
 カオルは、電子レンジの中でグラタンを乗せて回るターンテーブルをガラス越しに眺める。めまいがしてくる。
「グラタンはお母さんが食べて――」
 急に食欲をなくしたカオルは、二階に上がり自室に入る。眠気に襲われる。窓の下の道路に車が通ったのだろう、カーテンにオレンジ色の光の縞が走る。
 眠い。疲れた。そして、恋しい。

 

 夢を見た。
 二人はバスか電車に乗っている。夜なのだろう。車窓の外は真っ暗で何も見えない。二人は体をくっつけ合って座席に着いている。乗客はほかにはいない。車体が揺れる。揺れながら、いっこうに進んでいる気配がしないのが不思議だ。窓に目を凝らすと、遠くに点々と連なる小さな明かりがゆっくり後ろに流れていくのが見える。それが書き割りめいていてどこか嘘っぽい。気が付くと、車内に男たちがあふれている。誰もがまがいものぽい。マネキンのようにも見える。その人形めいた男たちの姿がいきなり消えた。二人は顔と顔をくっつけ目と目を寄せ合った。瞳が揺れる。
(お姉ちゃん、ぼくの代わりにいろいろしてくれてありがとう。もう、ぼくには化けなくでもいいよ。さようなら)

 

     *

 

 今朝、ようやく生理が終わった。午後から大学の授業に出よう。久しぶりにお化粧をして。化粧――。そうだ、女に化けてやろう。
(ぼくは、今、遠いところにいるらしい。お姉ちゃんの姿は、もう見えない。でも、絶対に守ってやる、ずっと)

(完)








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