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第6話 変わる

 カットクロスが取り去られ、椅子に腰掛けた全身が縦長の鏡に映っている。最後に美容師は前髪の生え際を少量のジェルで固めて、撫でるような手付きで髪をさっと上げた。
 鏡の中には少しほおが張っているが、弟によく似た顔立ちの少年がいる。ゆったり目のシャツは洗濯されたものだが、ジーンズはクローゼットから出てきたままで洗っていないものをはいている。
 約二カ月前のお盆に帰省した弟は、これと同じ格好をしていた。目の前の髪型に比べれば、だいぶ長かった。わたしは携帯電話の不用なメールや画像はこまめに消すほうだが、弟が死の数日前に送ってきた画像だけは残してあった。虫が知らせたのかもしれない。髪を思い切り短くしたという報告のメールと写真――。
 メールチェックの振りをして携帯電話を取り出し、見比べてみたい衝動に駆られる。だが、ここでそうするのは、さすがにはばかられる。
 お盆休みに久しぶりに再会したときには、弟の流行に媚びないおしゃれな格好と洗練されたヘアスタイルを目にして、わたしは予備校生である身の弟の今後を案じたものだった。上京してからの弟の金遣いの荒さについては、母も嘆いていた。
「お時間があれば、こちらでお飲み物でも――」
 美容室のスタッフに声を掛けられ、わたしはレジの近くに設けられた小さなラウンジに案内された。ガラス張りの店内から見える外の光景は、もう夜のものだ。外に出るのが怖いような気もする。テーブルを挟んで斜め向かいに座った女性が、ラストの客らしい。目と目が合う。不思議そうな表情をされた。どういう意味の表情なのか気になったが、無視する。
 変身直後の興奮を冷ますために、出された紅茶を時間を掛けて飲む。鏡に映る自分を目にしていても、どこかまだ夢を見ているようなもどかしさがあった。問題は外に出てからだ。周りから、どう見られるのだろうか。
 ラストの女性がコーヒーを二口飲んだだけで、レジへと向かう。わたしがラストになってしまった。店内の時計が八時になろうとしている。わたしはようやく席を立つ気になった。
 支払いを済まし、預けていたジャケットとショルダーバッグを受け取る。どれも弟の部屋にあったものだ。
「外へ出たら、完璧に男の子と間違えられますよ」
 ドアまで送って来た美容師が言う。
「悔いはありません」
 自分でも驚くほど明るい声が出た。声の調子から、自分がはしゃいでいるのを感じる。
「名古屋にお帰りになったとき、彼氏、びっくりするんじゃないですか?」
 わたしの満足を感じ取ったのだろう、美容師の声もはしゃいで聞こえる。
「彼氏ですか? 実は彼女だったりして」
 はしゃぎすぎの自分にあきれる。
「じゃあ、今度、その彼女と上京なさったさいには、ぜひご一緒にご来店ください。お待ちしております」
 美容師とわたしは、同時に声を出して笑った。

 

 外は意外に寒かった。東中野にある弟の部屋から出たときには、このシャツとジャケットでよかったが、今は風も強く、マフラーが欲しい。髪を切ったために首から上が特に寒い。
 歩いている自分の動きは、いかにもぎこちない。化粧を落とし、男物の衣服を身に着けて外出したものの、髪を切る前はまだ自分は女に見えるという確信があった。いざ髪を短くして通りを歩いていると、男性として振る舞おうにもその心構えが出来ていないのを感じる。
 おどおどした態度に見えるだろう。男とも女とも知れない者が、人通りの多い夜の繁華街をぎこちなく歩くさまは、さぞかし滑稽に違いない。そう考えると緊張し、足が重くなる。
 花屋の前に差し掛かる。店は閉店の間際で、シャッターが下りるところだった。一個だけ外に置かれたままだった鉢を店内に入れようとする女性の店員とまともに顔を合わせた。じろじろ見られることもなく、わたしはほっとした。
 ごく普通の少年か若い男性に見えると思ってよさそうだ。心配することはない――。わたしは心の中で自分に言い聞かせる。
 シャッターの下りた花屋の軒先で立ち止まり、目線を上げる。美容室を探してこのあたりを行ったり来たりしていたときには、まだほんのり明るかった空が真っ暗になり、表参道の街はさまざまな人工の明かりできらめいている。
 わたしは花屋の前で人を待っているように装いながら、通りを歩く十代くらいに見える少年から二十歳前後の男性の歩き方や表情を観察した。真似る気になってよく見ていると、明らかに女性とは違っている。
 まず、靴の違いが動作にもろに出ているのに気づく。今、わたしは弟のスニーカーを履いている。昨日、初めて履いてみて、サイズがピッタリなのに驚いた。歩くのには、このほうがずっと楽だ。女性が履くヒールの高い靴がずいぶん不自然な形のもので、かなり無理な動きを強いられているとあらためて思う。
 通りを歩いている男性の動きに注目すると、人によりさまざまな癖があっておもしろい。そんなことを考えているうちに、一人の少年に目を引かれた。制服らしい濃紺のブレザーと明るめのグレーのパンツを身に着けた二人連れの一人だ。高校生だろう。その少年の歩き方に個性を感じた。
 少年は猫背気味に肩を少し揺らしながら歩いて行く。大股に足を踏み出し、退いたもう一方の足をこころもち引きずり、ノッシノッシとリズミカルに進んでいく。足が不自由な感じではない。アニメに出てくる巨人を連想させる歩行だ。
 不自然と言えなくもないが、これまでにも同様な歩き方をする若い男性や少年を何人も見たことがある。そのたびに、どこか格好をつけたようなわざとらしさを感じて不快感を覚えたものだった。近づいて来る少年にはそうした違和感がない。
 その少年に引かれた理由がもう一つある。死んだ光太に似ている。子どもっぽさを残した下ぶくれの顔がかわいい。わたしは、目の前を通り過ぎて行った少年の歩き方を真似てみたくなった。
 自分がその歩き方で進むさまを頭の中で何度か描き、イメージをどうにか実行に移せると感じられたところで、花屋の軒先を離れた。ゆっくりと足を踏み出してみる。
 かつて浮き輪なしで泳ぎ始めたときや、レールに添えていた手を初めて離してスケートリンクの氷の上を滑りだした瞬間と似た、胸のときめきと不安がよみがえる。違和感が、新しい習慣や身に付けたばかりのスキルへと変わる境目のきわどさとでも言おうか。足と肩の動きに気を取られて、思うように前に進めない。全身の皮膚が汗ばむ。
 いったん人の流れに加わると、周りの誰もが早足に感じられる。ほかの人たちの歩行の邪魔にならないように気を付けながら、あの少年の歩き方を真似るのに必死になる。道に迷った。でも、構わない。

 

 今夜も岸川詩乃の部屋に泊めてもらうことになっているが、夕食を一緒に食べる約束はしていない。理系の学科に在籍している詩乃は、勉強ばかりしている。朝から晩まで研究室にいる日も珍しくないとか言っていた。明日が期限のレポートがあるとか聞いた気もする。文学科のわたしとは大違いだ。これ以上、詩乃の邪魔をしたくない。明日は、ホテルに移ろうと思う。
 とにかく、きょうはこれから別に予定はない。行き先を決めず、歩いてみよう。これだけ人がいるんだ。暗くて狭い道にさえ入らなければ、安全だろう。それにしても、お腹が空いてきた。こういう場合、男の人だったら、ファーストフードの店ではなく、定食屋や牛丼屋やラーメン屋みたいな店で食事をするのだろうか。その種の店に一人で入るだけの心の準備はまだできていない。何でもいいから、お腹に入れたい。そして歩いてみたい。
 慣れない歩き方をしているためか、つい目が下に行き、前を行く人の足を追うような形になってしまう。何度か人とぶつかりそうになる。やっぱり変に見えるのだろうか。目を上げて周りを見たが、こっちに注目している人などいない。
 自分がこんなに変わったのに、誰も気に留めないのが不思議だ。まるで透明人間になったような気分がする。そう言えば、高校二年生だった冬休みに、初めて本格的なお化粧をして外出したときも、これと似たような気分だった記憶がある。変わったのに、誰もこちらを見てくれない。
 そうかあ、お化粧っていうのは「女に生まれついた人間」が「普通未満」から「普通の女」に化けることなんだ。ようやく「普通」になったから、じろじろ見られないんだ――。
 確か、そんなふうに大発見をしたつもりになり、一人で納得したことが思い出される。実際には、「化けた」女性たちが密かに同性の「化け振り」に視線を投げているのを知るまでには、それほど長い時間は要しなかったが。

 

 美容室に入る前までは、街の雑踏を歩くと、始終同性の目が気になった。「普通」へと化ける術(すべ)を身に付けた女性たちは、何げない振りを装いながら、常に周りの同性の容姿、格好、身に着けているもの、化粧の仕方を観察する。その目は本質的に自分に偏っていて意地悪く残酷だ。
 一方で、男性に対しては違ったまなざしを向ける。しょせん異性に対しての視線だから、辛らつな見方をすることはない。確かに目は、快不快の分け隔てはするが、女性同士の場合のように目と目が密かに戦いを演じることはない。
 女対女の視線のぶつかり合いから逃れたことは、解放だと思った。すがすがしい。男同士って、何てさっぱりしているのだろう。わたしはこの発見を喜ぶ。周りの男性たちがみんな自分の仲間のような気がする。そんな幸福感に浸っていると、その喜びをぶち壊しにするような不穏な気配が目の前に迫ってくるのを感じた。
 正面から十七、八歳くらいに見える三人連れの少年たちがやって来る。柄の悪そうな雰囲気を漂わせている。わたしは緊張した。こういう場合には、下を向いたほうがいいのだろうか。真正面を向いたまま、相手を空気のように無視して歩き続ければいいのか。
 正面からぶつかるのを避けるために、わたしは無意識のうちに徐々に車道側に身を寄せながら進んでいた。それにもかかわらず、左端にいた背の低い少年と目が合ってしまった。その少年はほかの二人と話していたのを急に止め、こっちをにらんでくる。
 危険を感じたが、戸惑いのほうが先に立って視線をそらすことができず、わたしは相手の顔をぼう然と見つめていた。相手の目は鋭さを増し、挑むような表情になった。その体がこちらに寄って来る。予期しなかった目の前の不穏な光景が、テレビドラマの一場面のように思えた。
 わたしはようやく状況を理解して目をそらし、素早く斜めに身をかわした。歩道と車道を隔てるガードレールに手をつく格好になり、かろうじてその少年の体に触れずに済んだ。すれ違いざま、少年たちが立ち止まるのが視界の端に見えた。
「なんだよ、おまえ。おれに用でもあんのか? ガンつけやがって――」
 そんな声が聞こえる。わたしは聞こえない振りをして、ガードレールから手を離す。屈んだ体勢を立て直して、そのまま歩き出す。
「待てよ」
「行こ、行こ。ほっとけ」
 背後の声に聞き耳を立てながらも、わたしは進む。少年たちに取り囲まれたり、路地にでも連れ込まれそうになった場合には、悲鳴を上げるつもりでいた。もちろん、その時には女の声で叫んで助けを求める。女に戻るしかない。情けないが、そうする以外に選択肢はない。迷うことはない。危険を回避できるのなら、女に戻ればいいのだ。
 幸い、少年たちは追って来なかった。
 人込みや電車の中で、男性のいやらしそうな粘っこい視線を感じたことは、これまで数知れずあった。だが、見ず知らずの男性から挑戦的な恐ろしい目付きでにらまれたことは、これが初めてだった。

 

 いつの間にか、普段の歩き方に戻っているのに気付いた。
『外へ出たら、完璧に男の子と間違えられますよ』
『悔いはありません』
 美容室を出る直前に交わした会話の意味を考える。あの時のはしゃいだ気分はもうない。花屋の前で見かけた、弟に似た少年の歩き方を思い出す。わたしは負けない。あの歩き方に戻ろう。
 首をやや前に倒し猫背気味にする。大股に足を踏み出し、もう片方の足を引きずるようにしてノッシノッシ。そうそう、この要領――。ぎこちないとリズミカルの中間くらいの感じでノッシノッシ。すると、こころもち肩が揺らぐ。
 もう大丈夫だ。お腹がすいた。二軒先に、ガラス張りの外装の牛丼屋が見える。牛丼屋に入るのは初めてだ。背に腹はかえられない。まずは、腹ごしらえといくか。ノッシノッシ。だいだい色っぽい光を放つ、ガラス張りの店に向かって進む。





第7話 視線

 亡くなった弟の部屋の片付けと掃除が、ようやく終わった。段ボール箱は五箱しか使わなかった。入っているのは衣類ばかりだ。弟が身に着けていたものは、他人の手に触れさせたくない。
 あとは引っ越し業者の「お任せパック」に文字通りお任せすることにした。とは言っても、あと部屋に残ったものは少ない。ベッド、掛け布団、敷きパッド、毛布、デスクとチェアー、テレビ、棚、冷蔵庫、カーテン、靴類――。
 予備校の分厚いテキストや問題集が二十冊以上ある。どれもが新品同様でページが折られた形跡がほとんどなく、数あるノートも最初の一、二ページしか使われていないのにはあきれた。上京の目的が、予備校に通うためでなかったことは明らかだ。でも、腹は立たない。むしろほおが緩んでくる。
 最初、引っ越しは上京した日の翌日に決めてあった。気が変わり、結局は延期してよかったと思う。引っ越し日はきょうから五日後で、まだ時間的に余裕がある。昨日、わたしは西新宿にあるホテルに部屋の予約を入れた。きょうからはホテル住まいになる。

 

 掃除を終えた午前に、名古屋の実家に電話をすると、母の姉である光枝おばさんが出た。
 母はどうしているかと尋ねると、友人たちとデパートに行っていて、きょうは遅く帰ると言っていたという意外な言葉が返ってきた。きのう電話をしたさいには、ずいぶん気が沈んでいた様子だった。
「伯母さんから見て、母の状態はどう見える?」
「光太のことを全然口にしなくなったの。それが気掛かりと言えば、気掛かりね。でも、だいぶ落ち着いてきたことは確か。感情に波があるけど、一人にしておいても大丈夫だと思う。わたしも、これできょうは帰るつもり」
「ごめんなさい。お母さんを押し付けちゃって」
「あなたがいないことで、あなたに何でも頼る癖が直ったみたい。でも、まだ正常とは言えないところがあるから、なるべく早く帰って来てよ」

 

 上京した日以来、わたしは高校の同級生だった岸川詩乃のアパートに泊まらせてもらっている。理工学部に在籍している詩乃が、長時間研究室で実験などをした後に、部屋に戻ってレポートを書き、英語の専門書とにらめっこしているのには驚いた。理系の学生は、あんなによく勉強するものなのだろうか。感心してしまう。
 きのう、わたしがそれまで長めだった髪型を変えたのを見て、詩乃はかなり驚いたようだった。サイドとバックを借り上げた、ちょっと変わったスタイルは、わたしの携帯電話に弟が死の数日前に送って来た画像に映っているのと同じものだ。弟の部屋にあった美容室のカードを見て予約を入れ、弟を担当している美容師にカットしてもらった。
「亡くなった光太君をしのぶのはいいけど、部屋にあった衣類を身に着けたり、お化粧を落として髪型まで真似るなんて、やりすぎじゃない?」
 上京した日の夜に会ったときもそうだったが、詩乃はわたしの精神状態を気遣ってくれている。あの日は、実際にいろいろやることが重なって、心身ともに相当に参っていたのは確かだ。でも、わたしは落ち着きを取り戻しつつある。詩乃の気遣いが、ややうざったくなってきたのも事実だ。
 わたしには計画がある。その計画を実行するまでは、名古屋に帰ることはできない。詩乃のアパートにいては実行しにくいし、とにかくお節介には嫌気が差してきた。
 それにしても、きのう食べた牛丼はおいしかった。昨夜遅く部屋に戻って来た詩乃との会話が思い出される――。
「牛丼屋さんで食事することある?」
「あるわよ。どうして?」 
「きょう生まれて初めて牛丼屋さんに入ったの」
「一人で?」
「そう」
「本当に? 勇気あるなあ。わたし、一人だったら、ちょっと抵抗ある。同じ研究室の男子や女子と一緒なら、しょっちゅう利用しているけどね。ああいうお店で一人で食べるのは、何かこう、独身男性の悲哀みたいなものを感じない?」
「確かに一人で食べている男の人を見たら、わびしさみたいなものを感じた。一緒に夕ご飯を食べてくれる恋人がいないの? とか、お友達はいないの? なんて尋ねてみたくなったもの」
「でしょう?」
「でも、あの時には自分も半分は男のつもりでいたから、深くは考えなかったけどね。とにかくお腹がすいていたから――。ああいうお店の牛丼がおいしいのにはびっくりした。ツユっていうの? あのタレに秘訣があるのかなあ。また食べてみたい」
「栄養のバランスが取れないことは確かよ。ファーストフードなんだから」

 

     *

 

 午後一時過ぎ。
 西新宿にあるホテルに着いた。荷物は、弟のカバンの中で一番大きなものと、渋谷にある服の店のネームとロゴの入った大き目の紙袋。服は、下着が女物と男物の重ね着になっているくらいで、上下も中も全部弟のものだ。だいたいのものは持って来たが、着替えようと思えば、まだ引っ越しが済んでいない部屋に戻ればいい。
 髪を切って以来、詩乃の前を除いて、服装だけでなく身のこなしや話し方に至るまで、わたしは完全に男性で通している。十月の中旬でよかった。これが夏だったら、乳房が目立たないような工夫に頭を悩ませなければならない。わたしは痩せ気味で骨ばった体つきだが、アンバランスなほど胸に膨らみがある。
 ゆったり目のシャツの上に、ジャケットやジャンパーを着れば上体の特徴はまず隠せる。下半身には問題はなさそうだ。弟のジーンズの中で一番タイトなものでさえ、裾が少し長いくらいで、腰や腿はぴったりと収まる。これは、意外であると同時にうれしい発見だった。
 フロントでは、住所は名古屋の家にして弟の名前でチェックインする。フロント係が何げなく探るような職業上の目線を送って来たが、相手が目をそらすまで余裕たっぷりの目でにらみ返してやった。
 弟の衣類を身に着けた当初は絶えず緊張していたが、今では他人の目をいちいち気にしない。たとえ誰かの視線を感じるときがあっても、何食わぬ顔をして開き直っていれば自然に見える。そう度胸を据えた。わたしは新しい自分を演じるのを楽しむようになっている。
 フロントからカードキーを受け取り、案内を断り、エレベーターで三十階に上がって部屋に入る。指定した通り、窓は東を向いている。目指す街が望めるはずだ。西に傾き始めた午後の太陽が新宿御苑らしき深緑のかたまりを照らしている。東京区分地図から切り取った新宿区だけのページと、窓から見える景色を見比べた。

 

 午後三時半。
「仲通り」と表示された通りを三度往復して、地図だけで見ていた街の地理がようやくつかめた。大きな建物や通り沿いに並ぶ店の位置も目に馴染んできた。
 面白そうな店があった。ガラス張りなので最初はコンビニかと思った。よく見ると、店頭に週刊誌や競馬新聞やマンガ雑誌を収めたラックが置かれている。その横に駄菓子やガチャポンのたぐいが並んでいる。その店を中心にして、若い男や中年の男たちが歩道にたたずんでいる。何となく立っている感じだ。
 店の真ん前で車道にはみ出して、しゃがみこんでいる少年の二人連れがいた。わたしもつられて足を止めた。十六、七歳というところだろうか。自分では、それくらいの年の少年を演じているつもりでいた。二人は同時にこちらに目を向けたが、すぐにまた車道のほうへと目線を戻した。
 わたしは店内に足を踏み入れてみた。男性の裸体の写真を拡大したポスターが何枚か天井からぶら下がっていて驚く。
 これだ。ここだ――。
 ある程度、予想と覚悟はしていたものの、現物を見るとどきどきする。たくさんのDVDやビデオが売られている。平積みされた商品のケースに貼られた写真は、どれもが肉色と肌色をしている。わたしは当惑を隠そうと努め、静かに深呼吸をした。奥へ進むのは止めて、ゆっくりと外へ出る。
 まだ昼間のせいか、人通りは少ない。通りには女気はまったくない。かといって、競馬の馬券売り場付近に漂う、がさつな男臭さもない。歩いているうちに、同じ東京でも、ここはほかの場所とは人の目付きが違うことに気づく。

 

 男性の格好をし始めてから、わたしは男性からの視線を感じなくなった。特に、胸やスカートをはいた足に向けられる、無神経そうな男の不躾(ぶしつけ)な視線から解放されたことがうれしい。
 それが男性から同性だと見られている証しだと思うと得意でもあった。ところがこの街へ来てみると、やたらに男性がこっちに視線を送って来る。自分が女だということが、ばれたのではないか――。初めのうちは、そうした思いが先に立ってうろたえた。今では、それとは逆に、自分が男性として見られているのを感じる。
 単に見られているのではない。好奇の目で見られているような気がする。弟の衣服をまとい始めた以前に、二十歳の女として男性の不躾な視線にさらされていたのと似ていなくもない。だが、どこかが違う。本質的に、これまでとはまったく異なった状況に置かれているように思われる。
 男が女を見る目。女が男を見る目。もちろん、そうした視線のすべてが、性的な意味を帯びている訳ではない。男が男を見る目。女が女を見る目。その視線が、ライバル意識だけで説明できるものでないことも確かだ。
 でも、それは一般論でしかない。この街は違う。
 男が男を見る目。男が男を装ったわたしを見る目。通りを歩いている男同士が交わす視線。すれ違いざまに送り合う目線。何かが、どこかが違う。この国の文化と風土の中で、公(おおやけ)の路上を舞台にして、こんな濃密な視線のやり取りが当たり前のように行われている場が、ほかにあるだろうか。

 

 携帯電話で時刻を見ると、この街に入ってから三十分以上経っている。その間に感じた、何人もの男たちからの視線。わたしは自信に似たものに満たされた。わたしは男に男として見られている。勘違いでなければ、たぶんそうだ。いや、きっとそうだ。そうであってほしい。わたしは、そのためにここに来たのだ。妄想、ナルシズム、勘違い、一人相撲――。たとえ、そうであっても構わない。
 いったん覚悟を決めると、ずっと気が楽になった。心地よい。わくわくもし、どきどきもする。わたしは自分を弟に置き換えて考えていた。弟にも、こういう視線の飛び交う空間を初めて泳いだ日があったに違いない。
 光太、あなたは何を求めて東京に来たの? こうした状況と視線を求めていたの? 
 母とわたしという二人の女が仕切っている家。母の姉や妹、そしてその娘たちが頻繁に出入する、女の濃厚な匂いに満ちた家。光太、もしかして、あなたはそんな家に嫌気がさしていたの?
 もう、弟と口を利くことはできない。でも、弟のかつて口にした言葉の断片が、次々と頭の中によみがえってくる。自分が男だと意識し始めたころの弟。かわいい男の子という、他人が自分に対して抱くイメージに戸惑い始めたころの弟。自分に注がれる他人の視線をもてあましていたころの弟。何かにつけ、姉のわたしの真似ばかりをしていたころの幼い弟。
『セックスレスの夫婦がいても構わないよね。友達感覚で仲良く暮らせば、それでいいじゃん。別にセックスなんてしなくてもいいと思う――』
『この階の男子トイレに変な男がいて、おしっこさせてくれないんだよ。危ないよ、あいつ。ぼく、店の警備員に知らせてくる――』
『マジ版のラブメールもらっちゃったよー、部活の後輩の男子から――』
『お姉ちゃん、ぼく、きょう男になっちゃった。お姉ちゃんに初めての生理が来て女になったのには一年遅れたけど、ちゃんと男になった。これ、お母さんには内緒にしておいてね――』
『かわいいって言われるの、あんまり好きじゃないなあ。何だか、子ども扱いされているみたい。早く、かっこいいって言われるようになりたい――』
『電車の中で痴漢にあっちゃった。女の子と間違えられたのかなあ。それとも、男の子だから触ってきたのかなあ。あんな格好をしていたんだから、絶対に女の子と間違えられるはずないんだけど――』
『お母さん、きょうね、幼稚園に来たおねえさんやおばさんたちから教わったよ。お腹にうんと力を入れて、うおーってうなるんだ。そしてね、足のここんところを思いきり蹴るんだ。そうすれば、「ふしんしゃ」が逃げていくんだって――』
『これでいいんだよう。しゃがんだほうが、おしっこしやすいんだもん――』

 

 また、あの妙な店の前に来た。さっきより男の数が増えている。そのうちの一人が露骨にわたしと目を合わせて来た。男の格好をする前の自分に注がれたことのある粘っこい男の目が、男の格好と髪型をした自分に注がれている。
 今、自分は、女から男へと化けた自分という曖昧な存在を、これまでの空想ではなく、現実の出来事として体感している。そんな転倒した思いに、わたしは酔っている。初めて味わう不思議な気分だが、これは夢ではない。頭の整理がつかないが、この街では現実なのだ。それだけは言える。

 






第8話 踏み出す

 日が落ち始めている。南北に走る通りを何度往復しただろうか。あの店の前にたたずむ男性たちの中に溶け込み、曖昧でありながら、決して無為ではない時間をどれだけ過ごしたのだろう。
 西新宿のホテルにチェックインしたのが午後一時過ぎ。それから、どれを着て行こうかと迷いながら、弟の服をベッドの上に片っ端から並べて、一人でファッションショー。そんなことを一時間以上もした後、ようやく外に出た。
 頭の中に刻み込まれている地図を頼りに、徒歩でこの街に着いたのが三時半より少し前くらいだった。携帯電話で時刻を確認する。今は午後五時十三分。いつも外出するさいに使っている女物の腕時計は、もちろん左手首にはない。
 そう言えば、弟のタグホイヤーはどうしたのだろう。警察から戻ってきた物の中にも、あとは引っ越しだけになった部屋の中にもなかった。あの凄惨(せいさん)な事故で原形をとどめないほどの状態になり、破棄されてしまったのか。

 タグホイヤー――。

 あれなら常に身に着けられる良い形見になったのに。

 

 この街に来て二時間ほどになる。途中で若い男に後をつけられているのに気付き、早足で逃げたりもした。生前の弟の隠れた部分を知ろうとしてここに来たものの、具体的にどのような行動をすればいいのか分からない。そもそも、何があるのか、どうなっているのかが分からないのに、計画や予想が立てられる訳がない。でも、これでいいのだと思う。
 通りを折れて狭い路地に入るのはやめておいた。比較的広い道との交差点があったので、恐る恐る通りを外れてその道を進むと、小さな公園があった。池まである。その公園に入ろうかと迷っていると、五十歳前後に見える男の人が声を掛けてきた。
「きみ、ちょっと時間ない?」
 男に化けて初めての直接的なナンパを経験した。
「おれ、今、ちょっと急いでますんで」
 用意していたせりふを低めの声で言った。この格好をし始めてから他人と話すさいに出す声だ。ぼろが出そうになるので、なるべく口を動かさず、お腹に力を入れて小声で言う。ぼそっとつぶやく感じをイメージしている。声を男に似せるのはすごく難しい。
「ドライブに行かないか?」
 断ったのになおも話し掛けくるので、早足で通りに戻った。こちらのほうが人けが多い。車もよく通る。あの公園は怖い。公衆トイレの付近にいる若い男たちの目付きが怪しかった。夜になれば、さぞかし不気味な雰囲気になるだろう。
 通りを歩いていると、ここに来たときからずっといる男の人が何人かいるのに気付く。ナンパが目的ならよほど暇なのだろうとも思うし、何か訳ありの仕事でもしているのかとも考えられる。
 お腹が空いた。喉も渇いている。通りに面したコーヒーショップに入ろうか、それともいったんこの街を離れようか。ここまで来た道を逆戻りする形で新宿通りに出て、まっすぐJR新宿駅の方向に進めば、一人でも入れそうなファーストフードの店や牛丼屋がありそうだ。
 きのう生まれて初めて牛丼屋で食事をしてみたが、あれはなかなかおいしかった。注文の仕方も、メニューの内容もだいだいつかめた。あそこと同じチェーンの店なら一人でも入る自信がついた。コーヒーショップはパスして、新宿通りへと向かうことにする。
「行ったり来たりで疲れた? 一緒に何か飲まない?」
 コーヒーショップを通り過ぎたところで、背後から声がした。歩を緩め、振り向こうとしてゆっくりと体を回す。雑居ビルらしい建物のガラスのドアに反射して、若い男の姿がぼんやりと浮かび上がった。
 突然のなれなれしい話し方に不快感を覚えた。お腹が空いているので、余計にうざったく感じる。『行ったり来たりで――』とか言っていたけど、いつごろから見られていたのだろう。感じが悪い。さっき使った『おれ、今、ちょっと急いでますんで』の代わりに用意してある断りの文句を口にすることにした。
「待ち合わせしてるんで」
 完全には振り返らない体勢のまま、相手の顔を見ないで言う。
「残念だなあ。少しだけでも駄目? 待ち合わせの時刻は何時?」
 強引な口調だが、よく通るいい声だった。
 既に肩を並べている相手に、ようやく目を向ける。下はジーンズ、上は黄と青と白の混じったチェックのシャツを着ている。上のボタンを外して、薄地で紺のタートルネックのセーターを覗かせている。顔付きは落ち着いていて、二十五、六歳に見える。
 公園沿いの道路で声を掛けてきた中年の男に比べれば、はるかにましな雰囲気を漂わせている。寒そうに見えなくもない格好と、手に何も持っていないところを見ると、近くの駐車場に車を預けているのかもしれない。
 この男とならコーヒーくらいは付き合ってもいい。とにかく椅子に座って喉を潤したい。トイレにも行きたい――。
「じゃあ、少しだけなら」
「ありがとう」
 男は軽く頭を下げた。

 

 男の後についていく形で、通り過ぎたばかりのコーヒーショップに入った。奥のテーブル席に着き、ブレンドを注文してからトイレに立ち、席に戻る。
 腰を据えるとほっとする。長時間、よく歩き回っていたものだと思う。
「この辺にはよく来るの?」
 男が切り出した。隣のテーブルの客たちが気になるのか、小声になっている。
「あんまり」
 初めてだと正直に答えれば、付け込まれる気がする。
「友達と一緒に店に飲みに行ったりはしないの?」
 友達? 店? いきなり何なの? と聞き返してやりたくなる。唐突で不躾(ぶしつけ)な質問だが、こういう場所ではこんなふうに、初対面での会話が進んでいくのだろう。そう思うと腹も立たなくなった。
 よく考えると巧妙な探りの入れ方だ。この辺に一緒に来る友達がいて、店に飲みに行くくらい慣れているか、つまり「遊んでいるか」と尋ねているわけだ。
「この辺の店って意味?」
「そう」
「別に」
 話をはぐらかす。こんな場合には敬語を使うべきなのか、友達同士のような口の利き方でいいのか判断に迷いながら、わざとぶっきらぼうに話す。

 

 男の格好をするようになってから、電車の中やファーストフードの店で、弟やわたしと同じくらいの年齢か、それよりも年下の男の子たちの話し方や話す内容に聞き耳を立てるようになった。服装や仕草にも、ガンをつけていると思われない程度に目をやって観察している。東京の男の子と名古屋の子とでは、やはり言葉と話題がだいぶ違う。
 もちろん一人ひとりの個性はあるが、概してこっちの子のほうがさめていて、他人と距離を置き、冷たい感じがする。それにAと言いたいのにBと言い、それを言われた相手はちゃんとBというメッセージをAとして受け取っている。そんな印象を抱く。名古屋の子だったら、AはAだと言う。偏見かもしれないが、そう思える。

 

 長く喋る自信はない。女だと相手に悟られない声を出すことだけで精一杯だ。声を低く太く出す練習を一人で何度かしてみたが、他人にどう聞こえるかはまったく見当がつかない。
 三日間アパートに泊めてくれた岸川詩乃が、東京で一番仲の良い、そして信頼できる友達だ。まさか、詩乃を相手に男の声の出し方の練習をする訳にはいかない。詩乃には、わたしの精神状態を案じているというか、危ぶんでいるふしがある。それがうざったい。
「男子トイレにも抵抗なく入れるようになったよ。もちろん、個室を使うけど」
 わたしがこう言ったときの、詩乃の顔が忘れられない。
「香織、それはちょっとやりすぎじゃない?」
「だって、リップクリーム以外にお化粧はしていないし、この髪型と格好よ。女子トイレに入れる?」
「最近は、紛らわしい感じの女性がいることは確かだけど、それでもその人たち、女子トイレを利用しているじゃない。香織、あなた……」
 詩乃は続けて何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。『香織、あなたのためを思って言うんだけど、専門医に診てもらったほうがいいんじゃないかな――』わたしには、詩乃がそんな言葉を引っ込めた気がした。
 詩乃は真面目でしっかりとしている。優しく情も厚い。もっと服装とか髪型とかメイクにまで気を使えばいいのにと思う。同じ年の女性なのに、男、兄、父親に近いイメージを、ほんの少しだけど抱く。詩乃のそばに寄ると、肩にほおを寄せたくなる衝動を覚えることがある。高校生時代には、短期間だったが、恋愛感情に近いものを覚えたことすらあった。

 目の前の男がいろいろ喋っている。こっちは短く適当に返事をするだけだ。今一つ、何かぴんと来ない男だ。
 男は松長(まつなが)と名乗り、学生だと言って大学名を口にし、吉祥寺に住んでいると自己紹介した。こっちはでたらめの名字を言い、男に聞かれるままに、高田馬場に住んでいる大学一年生で、この辺は初めてではないが、よく知らないと答えた。
「――高校生かと思った」
 お世辞なのだろうが、そう言われるとうれしい。高校生という言葉を聞いて、ふいに頭に浮かんだのは光太だった。自分のイメージの中での弟は、東京の予備校生というより、名古屋の高校生だった。
「しょっちゅう、こんなことをしてるの?」
「こんなことって?」
 男は一瞬見せた、むっとした表情を素早く隠した。
「いきなり、通りで声を掛けてきてさあ」
 こういうときに弟が口にしそうな話し方を想像して、それを真似る。
「しょっちゅう、しているように見える?」
「見えるよ。現に、しているじゃん」
「好きだよ。そういうふうに、はっきりと物を言う人」
「本当のことを言ってるだけ」
「ますます気に入った」
「ご勝手に」
「そうやって、いつもつっぱってるの?」
 相手が反撃してきた。ちょっとやりすぎたかもしれない。でも、負けない。
「それって、声を掛けてきたほうの人がいう言葉?」
 これじゃ喧嘩腰かなと思いつつ、口にしていた。もう完全に、弟、いや自分で作り上げた弟をもとにした架空の男の子のイメージになりきっている。この調子で続けていると、やばいかもしれない。
「ごめん」
「別に謝らなくてもいいですよ」
 内心はどきどきしているが、路上と違って周りに人の目があるために安心し、いくぶん大胆になっている自分を感じる。松長が下手(したて)に出ているさまは、女性をくどこうとしている男性の控えめな態度に通じるところがある。そう思うと、松長が隠しているはずの半面が怖い。
 今のシチュエーションは男と男のナンパだ。安易に男女のナンパと結びつけてはならない気もする。何が起こるか分からない。調子に乗ってはだめだ。いずれにせよ、ここは店の中だ。周りに人がいる。いざとなったら、女の声で助けを求める手もある。女に戻って救いを求めれば、その場を切り抜けることができる――。男の格好をするようになって以来、そうした考えが心の奥にあるのを感じる。それが行動の支えになっている。そうでいいのだと思う。
 大学はどこかと聞かれたので、岸川詩乃の在学している大学の名を口にした。この間、テニスのサークルの合同練習でそっちのキャンパスに行ったばかりだと言い、大学のある駅の周辺のケーキ屋とレストランの話をし始めた。食べ物の話になると松長は夢中になった。
 話はとめどもなく続き、パリの場末にあるジェラートの店でのエピソードまでが出て来た。父親の仕事の都合で、小学校から中学まではパリで暮らしていて、教育は日本人学校で受けたらしい。話題はフランスの家庭料理に移った。お腹は空いているが、食べ物にそこまで執着していない者にとっては苦痛だ。こっちは、いい加減にあいづちを打つ。
 そろそろ時間ですから、という決まり文句を口にし自分の分のお金を置いて店を出るタイミングをはかる。こっちが退屈に思っていることをほのめかすためにうつむき、裏返しにされている伝票に目をやる。
「ぼくばかりが、一方的に話してごめん」と言い、松長は話題を変えようとした。
 隣のテーブルの客たちが席を立ち、ドアへと向かい始めた。
 そろそろ、と言い掛けると、すかさず松長がさえぎった。
「ところで、いつごろから自分が男の人に興味を持っているって意識し始めた?」
 露骨な質問だと思う。あなたに関係はないでしょう、と一言残して店を出ようとも考える。でも、これから先、この街でこうした会話のできる男の人に出会える可能性はないかもしれない。このまま別れるのも惜しい気がする。暴力的な人ではないみたいだし、遊んでいそうにも見える。ひょっとして弟のことを知っているかもしれない。
 こっちは、光太と同じ髪型をし、同じ服を着ているのだ。光太の兄か弟だと思っていることはないだろうか。そんな小説みたいなことなんてある訳がない。それより、こっちが女だと承知していて、からかわれている可能性のほうが高いかもしれない。
 今は敵地に乗り込んだような状況にある。このまま引き下がっては、計画は失敗に終わるだろう。弟のことをもっと知りたい。弟が、この街に来ていた証拠と言えるようなものが部屋にいくつかあった。DVD、店の名の入ったブックマッチ、同じ店のネーム入りグラス、この辺りの店の中で撮られたと思われる複数のスナップ写真……。
 この街の男の人たちに、自分は本当に男だと見えているのだろうか。生前の弟を知っている人の目に、自分はどう映るのだろうか。自分は弟にどれくらい似ているのだろう。弟の知り合いは、弟についてどう語るのだろう。そうしたことが知りたい。ある程度、納得したところで、名古屋に帰りたい――。

 

「どうしたの? 急に考え込んじゃって……。悪かった。出し抜けにこんな質問をして、ごめん」
「謝る必要はないですよ。ただ、そういう質問をするんだったら、自分のことから話すのが礼儀だと思っただけです」
 いやに、しおらしい話し方になってしまった。さっきまでは隣のテーブル席に人がいて、思うように話せなかったし、ナンパされたという興奮が冷めきらずに気負っていたのかもしれない。
「そうだよね。失礼だったと思う」
 松長は言い、うなずいたとも謝ったとも取れる仕草で下を向き、沈黙している。うつむくのは、考えるときの癖なのかもしれない。
「ぼくの場合には、小さいころから男女両方に興味があったなあ――」松長が顔を上げ、口を開いた。
「もちろん、性的な意味と、恋しいとか愛しているとかいう感じ、つまりこの人と一緒にいたいという感情の二つの面があったと思う。今でも基本的には自分の好きなタイプなら、男性でも女性でもどっちでもいい。どちらでもいいというのは、愛せるという意味。男、女って、あんまり区別して考えない。かといって、バイセクシュアルという言葉で自分を縛りたくはないし、その言葉で他人からくくられたくもない。セクシュアリティは個人的で繊細なもので、グループ化とか一般化はできないものだと思う」
 ここで松長は口を閉じた。
「そうなんですか」
 それくらい言葉しか返せない。話だけを聞いていると、ずいぶん年上の人に思える。学生だなんて、嘘なのは確かだ。でも、それはお互い様だ。あっちは若作り、こっちは男作り。「男作り」という言葉が頭に浮かぶと、笑い出しそうになった。
「で、君はどんな人が好き?」
 言葉に詰まる。相手は軽い気持ちで尋ねているのかもしれないが、考えてしまう。この戸惑いは、弟がもうこの世にいないことから来ているように思える。弟は、どんな人が好きだったのだろう。「好きだ」ということをどう考えていたのだろう。
 松長が言った、『性的な意味』、『恋しいとか愛しているとかいう感じ』、つまり『この人と一緒にいたいという感情』という言葉の意味を考える――。弟は何を求めていたのだろう。
「分かりません」
「そうだよね。急に聞かれても分からないよね」
 話がかみ合っていない。松長は、こっちがどういう人を好きなのかと尋ねている。こっちは弟がどういう人が好きだったのかを考えている。問題は、こっちが考える対象をつかめていないことにある。わたしは、まだつかめていないものを探しにこの街に来ている。
 自分は、とんでもない間違ったことをしているのではないか。弟をしのぶのでもなく、弔(とむら)うのでもなく、その心と気持ちをもてあそんで侮辱しているだけなのではないか。
 喉が渇いた。空になったコーヒーカップの横に、水の入ったグラスが置かれている。そのグラスに手を伸ばす。
「細い腕だね」
 松長がつぶやくように言った。
 この人は、気付いている――。
 とっさに感じた。もしもそうだとすれば、わたしたちのしている話は、かみ合っていることになる。松長と名乗る男が、男の格好をした女のわたしに興味を持っているのならば……。
 弟のことばかり考えていたところに、いきなり「わたし」が飛び込んで来た。頭が混乱してくる。わたしの手は、グラスを握ったまま動かない。わたしは、自分の右腕の手首を見つめる。とっさに考えた。弟は、どんな手首をしていたのだろう。

 


第9話 出発点

 外は暗くなりかけている。行き先を考えることなく、通りを進む。男たちがたたずむ例の店のほうに向かっているのに気付く。男たちの数は増えている。十代半ばに見える者たちから中年までいるが、どこか年齢不詳な印象を与える人が多い。
 後ろから靴音がするので振り向くと、四十歳前後とも五十歳前後とも見える男と目が合った。大柄な男だ。その口元がほころびた。男を無視して向き直り、そのまま進む。男は「ねえ、ねえ、きみ」と言いながら追いつき、わたしと肩を並べた。
 恐怖心を覚え、声を上げそうになる。その男とわたしの背後に人が近づく気配がしたので、首だけ回して後ろを見た。さっきまでコーヒーショップで向かい合っていた松長と名乗る男が、斜め後ろにいる。ほっとする。コーヒーショップでの興奮がまだ冷めやらず、足が中に浮いた感じが残っている。
「お小遣いあげるから、一緒に来ないか?」
 男はスーツの上着の内ポケットに手を突っ込んでいる。
「一万でどうだ? 前金で払うから」
 札入れを取り出している。
「馬鹿にするなよ」
 立ち止まり、低めの声で言い返す。
「何だい。もっと欲しいのか? いくらだ、言ってみろ」
 男は声高になった。辺りにまばらにいる男たちの視線が、こちらに集まる。松長も立ち止まり、距離を置いて見ている。
「だから、馬鹿にするなって言ってるんじゃん」
 傍らで札入れを手にしている横柄そうな男の顔を見ているうちに、本気で腹を立ててしまった。男にはそれ以上取り合わずに歩き出す。
「何だよ。人を馬鹿呼ばわりして、ただで済まそうっていうのか」
 背後で男がすごんでいる。支離滅裂な言い掛かりをつけている。
 反射的に駆け出した。男はたちまち背後に迫り、右肩をつかんできた。突然の力にのけ反りそうになる。
 背中のすぐ後ろ辺りで、どすっという鈍い音がして、男の手が肩から離れた。振り向くと、松長と男が胸ぐらをつかみ合っている。男のほうが松長より五センチほど背が高い。さっきの音は、松長が男を背後から蹴るか殴った音かもしれない。
 二人は、それ以上は争わずに二言三言交わした。頭に血が上り、キーンという激しい耳鳴りを覚えた耳には、何を言っているのかは聞き取れない。
 男が先導して二人は車道を横切り、向かい側の歩道に移った。シャッターを下ろした店の軒下で何やら話し始めている。様子を見ていると、まんざら知らない間柄でもなさそうだ。このまま立ち去ろうとも考えたが、男を引き離してくれた松長のことが気になる。
 薄暗い中で二人は互いにうなずき合っている。いきなり中年の男のほうが声を立てて笑った。最後に二人は軽く手を上げてあいさつし合い、男はちらりとこっちを見たあと新宿通り方面へと去った。

 

 松長が服装を整えながら車道を渡り、近付いて来た。
「さきほどは、本当に失礼しました。反省しています」と松長は頭を下げた。口調がすっかり変わって敬語になっている。女として扱われていることが身に染みる。「お詫びの言葉を言いたくて、あなたを追って店を出ると、あの人があなたの後を付けていたので――」
「こちらこそ、松長さんにお礼とお詫びをしなければなりません。助けていただいてありがとうございました。それと、さきほどは、あんな唐突な態度をとってしまい失礼しました」
 頭を下げる。
 落ち着いて考えれば、行き違いがあったにすぎない。
 男の格好をした女子学生が、松長という自称男子学生に男子高校生と間違えられてコーヒーショップに誘われた。女子学生は亡くなった弟をイメージして自称男子学生と会話し、自称男子学生は男子高校生をナンパする気でいた。
 話をしているうちに、自称男子学生は男子高校生が若い女だと気付いた。女子学生は自分が女だと相手が見破った後になって、ようやく自分が女だとさとられているのを知った――。それを知ったさいに、女子学生であるわたしは精神的に動揺し、混乱に陥った。
 弟と同じような若い男でも、若い男を装い演じている若い女でも、一時的な性的関係、または恋愛の対象として考えることができる男――。そんな男が目の前にいるという状況が、わたしにはにわかに理解できなかった。
 整理すれば、そういうことにすぎない。

 

『ぼくの場合には、小さいころから男女両方に興味があったなあ――』
『今でも基本的には自分の好きなタイプなら、男性でも女性でもどっちでも大丈夫。大丈夫ってのは、愛せるという意味。男、女って、あんまり区別して考えない――』
『で、君はどんな人が好き?――』
 そうした松長の言葉は、誘った相手が男を装っている女だとほぼ確信したうえでの探りと確認のサインだったに違いない。わたしは、そのサインに気付かなかった。
 コーヒーを飲み干したカップの横にあった水の入ったグラスを手に取ろうとしたとき、松長が言った。
『細い腕だね』
 その言葉で、ようやく自分が女だと見破られているのを直感した。何て鈍くて馬鹿だったのだろう――。恥ずかしさと戸惑いと混乱のうちに、席を立ち、コーヒーショップからいきなり飛び出していた。さぞかし松長も驚いたことだろう。だから、気になって後を追ってきたのかもしれない。そして結果的に松長に救われた。

 

「これくらいの時間になると、一人でこの辺を歩くのは危険です」
 靖国通り方面へと並んで進みながら、松長が言う。
「わたし、疲れました。帰ります」
 正直な気持ちを口にした。
「よろしければ、ぼくのケータイの番号を登録していただけませんか。あなたの番号は聞きません」
 わたしは立ち止まって歩道の脇に寄り、携帯電話をパンツの横ポケットから取り出した。
「木の松と長い短いの長の『松長』です」と言って、番号を口にする。「送って行きましょうか?」
「途中までお願いします」
「駅はJRですか?」
「わたし、タクシーのほうが――」
 一刻も早くこの街から去りたい。ホテルまで歩くのもつらい。
「タクシーですか?」 
「はい」
「そのほうが安全かもしれませんね。で、行き先は?」
「東京駅――」
 思いがけない言葉が出て来て、自分でも驚く。東京駅という言葉を口にしたとたん、このままホテルを引き払って名古屋に帰ろうという考えが頭に浮かんだ。
 目が合った。松長は、不思議そうな顔付きをしている。
「本当に?」
「はい」
 行き掛かり上「はい」と返事をしたまでで、心の中ではまだ東京にとどまることは分かっている。
「そうですか。東京駅なら、靖国通りじゃなくて新宿通りでタクシーを拾ったほうがいいです」
 通りを引き返す。松長は考えるような表情となり、何も言わない。新宿通りとの交差点が見えてきた。荷物を置いてある西新宿のホテルと東京駅とは、方向が逆だと気付く。どうでもいい。タクシーの座席に背をもたせて腰を沈めたい。運転手を無視して、思い切り声を上げて泣いてみたい気もする。
 仲通りへの入り口を過ぎ、新宿通りの歩道に出た。午後三時半より少し前に、ここで仲通りへと足を踏み出した時を思い出す。あのわくわくした気持ちはもうない。自分が男に見えるという自信もどこかに行ってしまった。悔しい。弟とまったく同じ格好と髪型をしているのに――。髪をばっさりと切ってから、ずっと男として通してきたのに。
 わたしが女だと見破った松長と並んでいるせいかもしれない。だから、弱気になっているだけだ。単に歩き疲れて、お腹が空いているだけだ――。
 牛丼の大盛りが食べたいと、ふと思う。そうすれば元気が出るような気がする。このところ、牛丼にはまっている。

 

 大通りの喧騒が耳に入る。思えば、ここが出発点だった。
 この出発点に立って新宿通りから仲通りへと折れて、一歩足を踏み出した瞬間が、かつて弟にもあったにちがいない。携帯電話を取り出し、素早く弟の写真を表示させる。自分と同じ髪型をした光太の澄ました顔が、液晶の光の中で輝いている。
「タクシーを拾うなら、もっとこちら側に進みましょう」
 松長は交差点を避け、東へと足を向けた。ちょうど大通りの信号が赤になり、手前の車線の流れが途絶えた。松長と少し離れた位置で、信号が変わるのをじりじりしながら待つ。
 信号が変わった。松長が車道へと近付く。速度を落としたタクシーが手を上げた松長に寄って来る。タクシーが止まる。
「送っていただいて、ありがとうございました」
「お気をつけて。電話、待っています」
 去ろうとしている街のほうに振り返る。通り沿いの店のどれもが照明を落としている。わたしは街灯の前に立った。店の暗いウィンドウに、グレーのジャケットを着てベージュのパンツをはいた自分の姿が映っている。
 タクシーが軽くクラクションを一つ鳴らした。松長に一礼して、タクシーに乗り込む。
「どちらまで」
 運転手が言った。若い男だ。
「近くに牛丼の店、ないですか?」
「はあ?」
 バックミラーの中で、運転手と視線が合った。
「牛丼の店の前で降ろしてください。あっ、そうだ。店は――」
 この数日間、毎日利用している牛丼店チェーンの名を言った。

 

     *

 

 翌日――。紀伊國屋書店の新宿本店前。
「ラザーニャ、好きですか?」
 顔を合わせるなり、松長が聞いてきた。
 嫌いではないと答えると、伊勢丹の近くにある地中海料理の店に連れて行かれた。
 注文が終わり、最初に運ばれて来たワインのコルクを、松長は慣れた手つきで抜いた。
「わたしたちって、周りからはどう見えると思います?」
 乾杯の後に、わたしは尋ねた。
「さあ? 怪しい二人ってところかな」
「はっきり言ってください。男同士? 男と女?」
「もちろん、男同士」
「そうかなあ。わたし、きのうのことで自信をなくしちゃったんです」
「ぼくが声を掛けたときには、ずいぶんつっぱっていたもんね」
「ごめんなさい。失礼な態度を取って」
「全然。あんなもんですよ。ああいう所で、出会った者同士は」
「そんなものかなあ」
「いいですか――」
 松長が声をひそめて言った。
「えっ? はい」
 わたしもつられて小声で返事をする。
「ぼくの斜め向かいに非常口があります」
 松長は表情を変えずに、わたしの左後方にちらりと目をやった。わたしは松長の目線をたどって振り向こうとした。
「まともに振り返らないように――」松長がささやく。
「その非常口の右にテーブル席があります。端から二番目のテーブルです。椅子の上のカバンでも開ける振りをしてください」
 何げないふうを装って、松長の言う通りにした。十代半ばくらいに見える少年と、三十歳前後の男がテーブルで向かい合っているのが目に入った。
「まさか」
 わたしは驚いた。
「そうじゃないです。考えすぎないでください。二人とも男性同士です」
 松長の勘のいいのには感心する。わたしは自分たちと同じようなカップルだと、とっさに思った。
「ぼくはあの年上の人をよく知っています。男の子のほうも知っています。会えばあいさつし合うほどの仲という意味で」
「あいさつしないんですか?」
「もう、しました」
「えっ?」
「目と目で」
 わたしは吹き出した。
「しかも別々に」
 松長は無表情で付け加えた。
「どうして、別々になんですか?」
「さあ? どうしてでしょう? そこは考えてみてください」
 意味がよく分からない。わたしが考え込んでいると、松長が助けてくれた。
「今の状況は、二人を前に『やあ、お二人さん、元気ですか?』なんて調子で、あいさつできないってことです」
「面白い――。意味深ですね」
「ええ。こういう雰囲気って秘密めいていて、ぼくも好きです。きっとあの二人も、こっちの話をしていますよ」
「何て言って?」
「『あの人たちもそうだよ』『本当ですか? よく分かりますね』『年上のほうとは顔見知りだ。なかなかのワルだよ。気をつけな』『そうなんですか』なんて。たぶん、男の子のほうは、ぼくと知り合いなのを隠すだろうな」
 松長は意味ありげに言った。わたしは自分なりに状況を理解した。きっと松長は、あの少年を以前に誘ったことがあるのだろう。そう思うと、横顔しか見えなかった少年をよく見てみたい気になる。嫉妬に似た感情だ。
「松長さんって、『ワル』なんですか?」
「『ワル』の定義にもよりますね」
「…………」
「そんなに考え込まないでください。ジョークです。笑ってください」
 わたしは無理に笑みを作った。
「わたし、本当に男の子に見えるでしょうか」
「見えます。これはジョークじゃなくて、マジに」
「でも、きのう、あの時にどうしてわたしが女だと分かったんですか」
「最初は分かりませんでした」
 信じられない。松長は気を使っている。わたしが女だと最初から分かっていたに違いない。ホテルに戻ったあと、昨夜はあまり眠ることができなかった。松長との出会いとコーヒーショップでの会話を、ベッドの中で何度も思い返していた――。だまされた振りをしておこう。
「じゃあ、どの辺から?」
「ぼくに気がないと分かった辺りから」
「すごい自信家なんですね」
 わたしは失礼に響かないように笑みを浮かべて言った。
「いや、今のは冗談です。本当は、あなたがつっぱっているのを見ているうちに、どこか不自然なものを感じ始めて、そのうちに――」
「こいつは女だなって分かったとか?」
「ええ。『こいつ』なんて思いませんでしたけど」
「松長さん、一つ聞いてもいいですか?」
「その質問を当ててみましょうか?」
「分かるんですか?」
「分かりますよ。ワルだから」
「じゃあ、質問は口に出しませんから、答えてみてください」
「大学生だというのは嘘。四捨五入して三十歳」
 わたしは吹き出してしまった。二十五から三十四ということになる。こっちの質問を当てるなんて、やはり勘のいい男だ。それとも、同じようなシチュエーションを何度も経験してきたから分かっただけか――。
「ね、やっぱりワルでしょ?」
 ワルでもいい。きのうはこの年齢不詳のワルにだまされて、いろいろ真剣に悩んでしまった。それは悔しい。でも構わない。わたしは、自分にとって都合のいい相手とめぐり会えたようだ。このワルを利用してやろう。
 今夜、あの街の店に連れて行ってもらうのが楽しみでならない。きょうがわたしにとって、出発点になるかもしれない。
 






第10話 隔たり

 サラダが来た。松長は真っ先にオリーブをフォークで刺して口に運んだ。最後に食べようか、それとも結局は残そうかと、わたしが考えていたものだ。松長はオリーブをかみ終えてから言った。
「おいしいオリーブを食べさせてくれる店は少ないんだ。ここのは合格です」
「わたしのも召し上がりますか」
「オリーブはお好きじゃありませんか? 確かに日本では、割とましな地中海料理の店でも、オリーブだけはろくなものを出しませんから――。この店はこじんまりしていますが、ぼくは以前から気に入っているんです。試してごらんなさい」
 松長と会話していると、ますます相手の年齢が分からなくなってくる。昨日あの街でわたしに声を掛けてきてコーヒーショップに誘い、自分は学生だなんて嘘をついた一方で、わたしが男の格好をしていることを見破った男――。
 教えてもらった携帯電話の番号に、わたしは昨夜のうちに電話を掛けてしまった。もちろん、名古屋に帰ろうなどという気持ちは、一時的な思いつきにすぎなかった。
 本当かどうかは分からないが、小学校と中学校での教育をパリの日本人学校で受けたという男。こうやって明るい所で向かい合っていると、容姿は大学三、四年生に見える。話していると三十歳くらいにも感じられる。一緒にいて心が休まるのは、なぜだろう。
 声だろうか? 最初に声を掛けられたとき、その声の響きに引かれたのは確かだ。亡くなった弟を演じていたあの時のわたしは、弟としてこの男性に興味を持ったのだろうか、それとも女のわたしとして引かれたのだろうか。
 テーブル越しに、松長が不思議そうな顔をしている。そうだ、オリーブの話をしていたのだった。
「やっぱり遠慮しておきます。オリーブは苦手なんです」
「では、遠慮なく――」
 フォークを持った松長の手が伸びてくる。わたしの皿のオリーブをフォークが突き刺す。濡れたオリーブが尖った金属に貫かれた瞬間、どきりとする。性的なイメージが脳裏をよぎる。
 ラザーニャが運ばれてきた。確かにおいしい。
 もっぱら松長が話し、わたしは相づちを打つ。松長の声が旋律のように耳を撫でる。ワインのせいか、心地よい酔いが全身を包む。話の内容など、どうでもよくなってくる。拍子をとるように、わたしはうなずき、ときおり首を傾げる。
 男と、男を装ったわたし。男と、男の子。夜が近づくにつれて、男や男の子たちが集まる街――。
「……そう思わない?」松長が言って、返事を待っている。
 何を尋ねられたのか分からない。わたしは、あいまいに首をひねる。松長はほほ笑み、話を続ける。

 

 きょうは、どうなるんだろう――。これから連れて行ってもらうあの街のことで、わたしの頭の中はいっぱいだ。
 きのう、松長に声を掛けられるまで何度も往復した、南北に走る「仲通り」を思い出す。公道で昼間から堂々と、男と男が意味ありげな視線を交わしている街。生前の弟が歩いていたに違いない、通りと幾筋もの路地。仲通りと交差するやや幅の広い道を進もうとして見つけた、池のある小さな公園。
 あの街は夜にはどんな顔を見せるのだろう。どんなドラマやアクシデントが起きているのか。昼間には単なるプラスチックの板にしか見えなかった数々の店の看板は、夜にはどんな光を放っているのだろう。男たちの視線は、太陽が空にあるうちとは違ったものへと変化するのだろうか。
 あの視線の中を、もう一度泳いでみたい。このワルと一緒なら安心だ。利用してやろう。

 

「……何か考え事でも?」
「ごめんなさい。わたしって、ぼんやりして見える質(たち)なんです」
「そうかなあ。きのう、一緒にコーヒーを飲んでいたときには、ずいぶんつっぱっていたけど――」
 わたしたちは同時に笑った。
「くどいかもしれませんが、わたし、本当に男に見えますか」
「そんなこと心配していたんですか? 見えます。嘘でもお世辞でもありません。ぼくは一度自分を振った人には、お世辞は言いません」
 そう言って、松長はグラスのワインを飲み干した。
「振っただなんて――」
「それは事実です。とにかく、あなたが女性だなんて、その世界の人にも普通の人にも絶対に分かりませんよ。この『ワル』が保証します。特に、ぼくは中性的な若い男性や女性に人一倍関心がありますから、自信はあるんです。そのぼくが、最初のうちは見破れなかったんですから」
「嘘ばっかり」
「本当です。そんなにぼくが嘘つきに見えますか」
「はい。巧妙な嘘をつける人に見えます。ワルですもの」
「はっきり言ってもらって、ありがとう」
 わたしたちは笑みを交わした。
「ワルが一緒だと心強いです」
「ワル、ワルって、あまり言わないでくださいよ。事実だから余計、胸にぐさりと来るんです」
 笑顔を崩さす松長が言った。

 

     *

 

 この街に再び来た。夜には、がらりと印象を変えている。ビルの壁に縦に連なった、バーやスナックやクラブの看板の光が放つさまざまな色。今夜は空気が湿っているせいか、狭い路地から吹き抜けてくる風がかび臭い。
 人の流れを観察すると、やはり女性の姿は極端に少ない。ただ、昼間には見掛けなかった二、三人連れ、または五、六人の明らかに女性らしき集団を時々目にする。ごく普通の主婦やOLといった雰囲気の人たちだ。いやに、はしゃいでいる。松長の話では、この街には、主に女性客を対象にショーを見せる店もあるらしい。そうした店に行く途中なのか。
 一見しただけでは、男女の区別が容易につかない人もいる。そういう人は、たいてい一人で歩いている。どこか謎めいていて、後をつけてみたい衝動を覚える。
「仲通り」の歩道が狭いため、松長と肩を並べたり前後になりながら歩く。道行く男たちの中には視線を送って来る者もいる。わたしは、どう見られているのだろう。レストランで松長が言ったように、本当に男に見えるのだろうか。
 この街が、男に興味を持つ男たちの視線であふれていることは確かだ。今回の上京で歩いた、夜のほかの街とは、雰囲気が違う。ほかの街は、無関心な目であふれていた。ここは違う。

 松長は、通行人とあいさつや目礼や短い言葉を頻繁に交わす。その相手は、二つに大別できる。わたしの目から見てもかわいい感じのお洒落な男の子たちと、松長と年の近そうな人たちだ。
「ほら、またあいつがいる」
 通りに面した、ひときわ明るい照明を放つガラス張りの店に、松長が視線を投げる。一見雑貨屋、奥に入るとポルノショップ。きのうの昼間に足を踏み入れかけて、慌てて出た店だ。
 店の真ん前の電柱の横に、あの男がいる。
 きのうの夕方に、わたしの後をつけて来て、いきなり『お小遣いあげるから、一緒に来ないか?』と言った男だ。
 松長に誘われて入ったコーヒーショップで、自分が女であることを松長に見破られてショックを受け、当惑と混乱のうちに外へ飛び出した直後のことだった。わたしを追って来た松長と男とは取っ組み合いの喧嘩になりかけたが、大事には至らず、わたしは松長に救われた形になった。
「あの人とは知り合いなんですか」
 きのうの感じでは、松長とあの男とは初対面ではない感じがしたので、わたしは尋ねた。
「単なる顔見知りだよ。でも、君があんな目に遭っていたから、初めて口を利いたんだ。誰もこんな場所で面倒は起したくない。喧嘩にでもなれば、近くに交番があるから、警察官が飛んで来ることもある。それにまともなやつなら、体面を気にするよ。すぐに仲直りしたさ」
「そんなもの?」
「そう、そんなもの」
 この街に入って、松長の話し方がくだけてきたのに気付く。昨日、声を掛けられたときには『君』と呼ばれていた。女だとばれてからは『あなた』と呼ばれ敬語に変わった。さっき食事をしていた間も『あなた』と呼ばれ、お互いに丁寧な言葉遣いをし合っていた。
 それが今では、友達同士か年の近い恋人同士のような話し方になりかけている。自分が、男または男の子として扱われているような気がしてうれしい。
「実際、この辺りに何年も来ていれば、顔だけ知っているやつが増える。と言うか、数日間でもいいから、通ってみると分かるけど、来れば必ず顔を合わせるやつらがいる」
「あの人たち、何をしているの?」
 わたしは、あの奇妙な店に目を向けて言った。
 あの店が、通りの中心点になっているようだ。店を取り巻くように、散らばって男たちがたたずんでいる。昼間の三倍は人がいるだろうか。車道にも人が立ったり、若い子はしゃがみこんでいるため、車が徐行していく。
「相手を探しているのに決まっているじゃない」
「相手――」
「そう、一夜、いやもっと短い時間を共にする相手。場合によっては、それがもっと長くなる可能性もないわけではない。ただ、短いのが普通。終わって、バイバイ。また会っても知らんぷりが、ほとんど。一度関係があったあと、せいぜい知り合いか友達同士になるなら、いいほうかな」
「ふーん。そうなんだ」
 ついていけない。悲しすぎる。そんな関係なんて、人間同士の関係と言えるのだろうか。わたしは自分と、松長も含めた周りにいる人たちとの間に隔たりを感じた。男女の違いなのか。男と女とでは、求めるものが違うのだろうか。これは、わたしだけの個人的な物の見方なのか――。男女の差を超えて同じ人間なのに、異質なものを感じる。
「『行きずり』ってことかな」
 わたしは最近読んだ小説の中に出て来た言葉を口にした。
「行きずり? 懐かしい言葉だなあ。そうも言えるね」
 わたしたちは、その店の前で自然と足を止めた。車道と歩道の境の縁石に足を乗せ、通りに沿って並ぶ格好になった。目の前の車道をタクシーが徐行していく。
 わたしはあらためて、周りの男たちに目をやった。
 共通点はただ男というだけ。年齢はよく分からないが統一感がなく、ばらばらに見える。正面にある店の内部の照明は明るい。店内の狭い通路に立つ男たちが、DVDやビデオや雑誌を物色している。
 そのさまは、満員電車の中で沈黙し、ひしめき合っている乗客たちにも似ている。DVDのケースの写真に目をやりながら、手と手が触れ合っている二人を見つけた。二人連れには見えない。どこかが不自然だ――。店内で目線を交し合っているらしい者たちも目につく。
 車道を挟んだ電柱の脇にいる、きのうわたしに声を掛けてきた男が、周囲を見回している。男がわたしたちに気付いた。わたしは緊張する。松長が手を上げて男に会釈する。男がうなずく。
「平和主義で行かなきゃ」
 松長がつぶやき、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。メールが届いたらしい。わたしは松長に尋ねようと思っていたことを思い出し、携帯電話を戻したタイミングを見はからって口を開いた。
「男の人同士用のケータイの出会い系サイトとか掲示板とかもあるとか」
「もちろんあるさ」
「松長さんも利用するの?」
「たまに覗く程度かな。でも、ぼくは直接こういう場所で出会うほうが好きだ」
「どうして?」
「掘り出し物が見つかる可能性が高いから」
「へーえ、そんなもの」
「それにケータイでの出会いは、時間が掛かって面倒くさい」
「ふーん」
「昼間の早い時間で暇なときに、この辺に来る。日が沈むころには帰る。そんな感じかな」
「夜遊びをしない子を狙うワル」
「また胸にぐさりと来た」と言って、松長は縁石を蹴るような仕草をした。「最近では、こういう場所には来なくて、ケータイやパソコンのサイトだけ利用している人たちが増えているみたいだね。ぼくは、そういうやり方は苦手だけど――」
 それを聞いて、わたしは弟の死について考えないわけにはいかなかった。弟は、ケータイを通じて初めて知り合った男性の運転する車の助手席で死んだ。猛スピードでガードレールに追突し、即死したという。わたしは話題を変えることにした。努めて明るい声を出して尋ねる。
「『ディスタンス』ってお店知ってる?」
 今夜、松長とこの街に来た目的は、その店に入ってみることだ。
「知ってるけど、なぜ?」
 弟の部屋には、『ディスタンス』という名とこの地域の局番で始まる電話番号の入った、しゃれたデザインのブックマッチが五、六個あった。おそらく盗んできたものだろう、店のネーム入りのトールグラスも二個あった。
「連れてってくれる?」
「もちろん。こんな所で立っているんじゃなくて、どこかの店に入るつもりで来たんだから――」
 食事中に、男の格好をしている理由を聞かれたが、『ここでは話にくいから、あとでお答えします』と言って返事を避けた。昨夜、松長に電話したときにも同じ質問をされた。電話でなら話してもいいかと迷ったが、『明日話します』と約束しておいたのだった。
 今なら、弟のことを話せると思う。一癖ありそうな人だから、ひょっとして生前の光太を知っていて、とぼけているのかもしれない。弟の死、そして車を運転していた人の死は、この世界の人たちの間ですぐに広まったらしい。
 弟の携帯電話に登録されている番号の人に電話したさいに、そう言われた。微妙な話題だから、松長はこっちから話すのを待っているとも考えられる。
「ヒカルって、若い子知らない?」
「どのヒカルだろう。この辺に来る子によくある名前だね。あだ名が多いと思うけど。ヒカルねえ――。ヒカルなら十一人知ってるよ」
「本当?」
「うそ」
 ふざけている。わたしは、松長に光太のことを打ち明けるのはやめようと思い直した。
「名前は知らないんだけど――」と言って、松長はわたしの目を覗きこんだ。「この辺で見掛けた若い子に君がよく似ているという気は、最初からしていた」
「知らないんだったら、いいんです。大したことじゃないから」
 興味をそそる話だったが、弟のあだ名のことで冗談を言われたわたしは半分自棄(やけ)になって言った。
「歩こう」
 松長は急に真剣な顔付きになって歩き出した。わたしは慌てて後を追った。

 

 男たちが立っているあの店の前から離れ、人の通りがまばらになったところで松長は言った。
「あの子のことは知っていた。と言うか、顔は何度も見たことがある。ただ、名前は知らなかったし、口を利いたこともない。好みだったけど――」
 松長が言いよどんでいる訳は分かった。
「遊んでいる子だった。だから、興味はなかった。そういうことでしょ?」
 松長はゆっくりうなずいた。
「きのう、あの店で一緒にコーヒーを飲みながら、君を見ていてあの子のことを思い出したとき、実はぼく自身も混乱してしまった」
 わたしたちは仲通りから小さな公園へと続く道へと折れた。折れた瞬間、人けが途絶える。仲通りと打って変わった寂しい道だ。わたしたちは目を合わせず、肩を並べながら歩道の真ん中を進んだ。
「君とよく似た男の子が亡くなったという話は聞いていた。それだけじゃない。運転していたやつとは口を利く仲だった。だから、きのう君が女性だと確信したとき、ぼくは考えた。目の前にいる人は誰なんだろう? それを知りたいと思った。亡くなった少年の姉か妹ではないかという気もした。でも、それでは話が出来すぎている。まるで小説みたいじゃないか――」
「松長さん?」
「何?」
「ごめんなさい。わたし、嘘をついていました――」
 わたしは初めて自分の氏名と弟の名を松長に教え、自分が光太の姉で、警察が預かっていた弟の物を受け取りに上京し、住んでいた部屋の引っ越しの手配をしたことを告げた。
「事情は分かったけど――」と言って、松長は言葉に詰まった。
「でも、どうして弟と同じ格好をして、こんな所にいるかと言うんでしょ?」
「そう。どうして?」
 わたしは考えながら説明を試みた。今自分の取っている行動を言葉にして他人に伝えるのは、これが初めてだ。
 考えていることを、そのまま口にしてみた。
 弟と同じ髪型にし、弟の衣服を身に着けてこの街に来た理由は、正直言って自分でもよくは分からない――。
 自分が知り得なかった弟の側面と、どんな生き方をしていたのかを知りたいからかもしれない――。
 一方で、なぜ自分がこれほどまでに弟に同化しようとしているかを知るために、東京での滞在を延ばしこの街に来たとも言えるような気がする――。
 亡くなった弟を知るためなのか、自分を知るためなのか――。
 わたしが言いよどむたびに、松長は「うん、それで?」と、うなずいて話を促してくれる。
 高校時代の同級生で東京の大学に通っている親友が、わたしのことを気遣い、精神状態を危ぶんでいるようだ――。
 弟の死後、母とわたしは心療内科で処方された「気分を落ち着ける」という薬を飲んでいる――。
 心の奥では、自分の精神が病んでいるような気もしない訳ではない――。
 そんなことまで口にしていた。
「君は、家族の一員、それも自分に最も近い人を失ったんだ。それで負った心の傷が深くて大きいのは当然だと思う」と傍らにいる松長は静かな口調で言い、話題を変えるかのように公園のほうを向いた。「見てごらん」
 松長が歩を緩めた。わたしも公園内に目をやった。距離を置いて、ぽつぽつとたたずんでいる男たちがいる。園内の街灯の明かりだけでは、はっきりとは見えないが、十代から中年くらいまでの男たちがいる。
「全員じゃないけど、ここには体を売っている者たちもいる。夜は近付いちゃだめだ」
「――ばらばら」
 わたしはつぶやいた。
「えっ?」
 松長がわたしのほうを向いた。
「みんな、ばらばら。同じように見えても、同じ場所に集まっても、ネットの掲示板やサイトでつながったとしても、同じ言葉で呼ばれていても、みんなばらばら。ひとりっきり――」
 歩道の街路灯の下を通り過ぎた辺りで、松長が一歩前に進み出て、正面からわたしを引き寄せた。わたしは松長の胸に上体だけを預けた格好になり、よろけた。松長が足を踏み出して、わたしの体を受け止める。
「『ディスタンス』に行くんじゃなかったっけ? あそこへ行けば、君の仲間に会えるじゃないか。さあ、元気を出して。ね、光太君」
 松長の低く優しい声が耳元で響く。昨日、出会ったとき、わたしはこの声に引かれた。
 この人は弟の名で呼んでくれた。わたしの、いや、ぼくの夢に付き合ってくれる人がここにいる。一瞬、気が遠くなりそうになり、足元がふらついた。うつむいた目に映る、歩道に伸びた二つの影が重なっていく。

 






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