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第2話 オレンジ色の記憶

 子どもたちの声が近づいてきた。さっきまではひとかたまりのざわめきだったのが、一人ひとりの声として聞こえる。何を言っているのかまでは、よく聞きとれない。
 わたしは死んだ弟の部屋にいた。
 半年振りで会った父を含めた近親者だけの葬儀が名古屋で終わり、わたしは弟の住んでいた部屋を引き払いに上京した。母も一緒に行くと言ったが、わたしは断固として一人で行くと主張した。
 弟の死以来、人と会うのが疎ましい。刷り込みされたひな鳥のようにべったりとわたしに付きまとう母はもちろん、親しい人と顔を合わせたり口を利くのが特に嫌でたまらない。初対面の人と会ったり話すほうが、まだ気が楽だった。
 わたしはスタンドミラーの中の自分を見つめていた。裾を二センチくらい折りはしたが、弟のジーンズは驚くほどわたしの体にぴったりと合った。中に着けているトランクスの慣れない感触が残るが、不快ではない。それどころか、下腹部を不意打ちした違和感があまりにも快く、しばしうっとりと目をつむっていたほどだった。
 胸だけが目立つ。他の女性と比べて小さいと気にしている乳房が、男物のぴったりとしたTシャツにくっきりと浮き出ている。

 

 急に笑い声が間近に聞こえて、わたしは身をすくめた。窓のすぐ下の道路に子どもたちが立ち止まって何かに熱中しているらしい。窓に寄り、カーテンを引いた窓のサッシが閉まっているのを確かめ、再び鏡の前に立った。
 肩まである髪をかき上げ後ろで束ねてみると、丸みに欠けた輪郭の顔が鏡に現れる。男みたいな顔だといつも思う。唇が薄くほお骨が張っているため、一重まぶたの目が余計に意地悪そうに見える。
 きつい顔立ちをやわらげようと考え、髪型には特に気を使い、これまでいろいろ試してみた。結局、長めにしてふんわりとした曲線にまとまる今のスタイルに落ち着き、一年以上同じ髪型を通している。
 ぱたぱたと耳を打つ音と共に後ろに束ねていた髪が両肩に落ちてきた。Tシャツの右肩に染みがあるのに気が付いた。五円玉の穴ほどの小さな薄い黄色の染みが肩の縫い目をまたいで付いている。弟の生活の名残だと思うと、傍らに弟が無言で立っているような気がした。
 弟の光太とは似ているとよく言われた。年は一つしか違わなかった。幼いころの写真で気に入った一枚がある。その写真では、二人ともおかっぱ頭でおそろいの服を着せられ、性別不明の双子のように見える。成長するにつれて二人の容貌に違いは出て来たものの、見る人にはよく似た印象を与えたようだ。どちらかと言えば、わたしは小作りな目鼻立ちに痩せて骨ばった体つき、弟は体が華奢(きゃしゃ)なわりには顔は下ぶくれで大きな造作の容貌になった。
『光太は女にしても美人だけど、香織は光太の出来損ないみたいね――』
 かつて、口の悪い親戚の女が幼いわたしたち姉弟を前にして言ったことを覚えている。

 

 不意に窓の外から男の子のものらしい低めの声がした。つぶやくように何か喋っている。わたしは聞き耳を立てた。
「……本当だよ。ここから見えたんだ」
 前のほうは聞き取れなかったが、済ました耳にそんな言葉の切れ端が飛び込んで来た。さらに同じ声の主がささやき、それに応えてほかの声の笑いが起きた。笑い方から、淫(みだ)らな内容の話らしいと感じる。
 立ち聞きしている自分の行為が、はっきりと窓に映っているような気がして焦りを覚える。窓を閉じた二階の部屋からは子どもたちの話の詳しい内容までは分からない。そっと窓を細めに開けて、上からのぞき見してみたい誘惑に駆られる。
 外はまだ明るい。蔓(つる)と葉と花のパターンを織り込んだ緑のカーテンの薄い柄の部分に、オレンジ色の西日が透けて見える。
 再び笑いが起こった。声の響きから、男子児童ばかりのように思える。ますます外が気になる。記憶では、窓の外には大型の普通車が一台通れるほどの幅の道が伸び、このアパートと道路はブロック塀でさえぎられているはずだ。
 笑いの後に沈黙が続いている。子どもたちが立ち去る足音が聞こえてこない。小学五、六年生くらいの男の子たちが、西日に照らされた塀に映る自分たちの影に向かってくすくす笑いながら並んで放尿している。そんな光景が頭に浮かぶ。

 

 小学一年生のときだった――。
 わたしは、光太を含む四、五人の男の子たちと川原にいた。川の流れの緩やかな部分を石で囲って一時的な池を作り、その中に迷い込んでくる魚を閉じ込めて遊んでいた。
 突然、リーダー格の英二という三年生が川に向かって放尿し始めた。それに習って、男の子たちが次々とズボンを下ろしたりジッパーを外した。並んだ男の子たちは性器を見せ合いながら、くすくす笑った。わたしと光太だけがその様子を後ろから眺めていた。
 当時、光太はしゃがんでおしっこをしていた。ほかの男の子たちのように立ってできないこともなかったが、緊張して時間がかかったり、ズボンの下のほうをしばしば濡らして満足にはできなかった。かがんで放尿する癖は、姉のわたしやほかの女の子たちばかりと遊んでいたことから身に付いたのかもしれない。注意する年長の者もいたが、光太はしゃがんでするほうが落ち着くらしく、一向にその習慣を変えようとはしなかった。
 先に用を足した英二がジッパーを上げながら、わたしたちのほうを向いた。
「光太、おまえもこっちへ来て小便をしろよ」
 英二が弟を呼んだ。隣に目をやると、弟は眉間(みけん)にしわを寄せて口をとがらせ、泣き出しそうにも見えるほど真剣な顔をしている。以前だったら、こんなときの弟は頼りなげな表情で助けを求めるまなざしをわたしに向けたものだった。
 弟はわたしを見ないで、男の子たちのほうをまっすぐ見ている。わたしは弟の迷いが消えていくのをとっさに理解した。きっと弟は英二たちのほうへ行くだろうと確信した。放心したように弟の細い体がすっと前に伸びた。
 弟が男の子たちの所へ走って行くのを見たくなかったので、わたしは体を回して川と逆の方向に歩き始めた。本当は駆け出したかったが、わざと普通に歩いた。目の前の物が目に入らず、頭に血が上るのを感じた。
 悔しかった。きーんと耳鳴りがしてきて、背後の男の子たちの声と川の流れの音がはるか遠へと去って行くような気がした。硬い石ころばかりの所から柔らかい草地に足を踏み入れたとき、わたしはようやく振り返ることができた。
 石の囲いの隅に大きな魚でも追い込んだのか、男の子たちが頭を寄せ合っているのが黒いかたまりとなって見えた。その向こうに夕日を受けた川面(かわも)がオレンジ色に輝いていた。

 

 あのときも、ちょうどこれくらいの時刻だった。目の前には、記憶の中の色と同じオレンジの光があった。

 





第3話 染まる

 弟の遺品である携帯電話に誰かが掛けてくる可能性は高いはずだ。光太の死を知らない友人や知り合いがいて、通話してきたりメールを送ってくるというのが自然な考え方だろう。
 家族の一員が亡くなる。故人の携帯電話に登録されたデータや、パソコン内に保存されたままのメールやファイルが残る。家族に内緒で開設していたブログがあってもおかしくはない。そうしたデータはどんな運命をたどるのか。
 これまでテレビのニュースや新聞で読む記事の中に、こうした状況に至るケースは数知れずあったはずなのに、全然考えたことはなかった。
 わたしだって、そうなのだ。いつ不慮の死を遂げるか分からない。その結果、デジタル化された個人情報やデータが無防備な形で残る。かなりの高齢者や幼い子どもを除き、そうしたリスクを抱えていない人のほうが珍しいだろう。携帯電話のほかに、わたしは実家にパソコンを持っている。限られた機能しか使えないものの、母でさえ携帯電話を持っている。
 遺品という言葉にネット空間がからんでくることに、違和感を覚えるのはなぜだろう。そこまで考えないのが普通なのかもしれない。でも、それは変だ。既に現実なのに、ちぐはぐに感じられることは考えない。それこそ、ちぐはぐではないか――。
 わたしは荷造りに見切りをつけ、あとは業者に任せようと決めた。たとえ「お任せパック」とかいう引っ越しであっても、最小限の荷造りを一人でやるにも限度がある。弟といっても、結局は他人だ。しかも、もう口を利くことができない相手だ。どこに何があるのかをチェックするだけで、うんざりしてくる。
 名古屋の実家にある弟の部屋なら、勝手は分からないわけではない。アパート探しには母も同行したが、わたしがこの部屋に入ったのは今回が初めてだ。光太のプライバシーに関する部分の片付けだけは出来る限りしておこう。そんな当初の決意が揺らいでくる。
 疲れを感じたので部屋にあったクッキーの箱の封を切り、三個食べた後に心療内科で処方された薬を飲んだ。床に座り込み、上体だけをベッドに預けて、午前に訪ねた世田谷警察署の斜視気味の刑事とのやり取りを思い出す――。

 

 初対面のわたしにお決まりの悔やみの言葉を述べたあと、刑事は事故の直後に取り乱していた母の現在の様子を尋ねてきた。
「何だか人が変わったようになりました。いずれにせよ、上京は無理だと考えて、わたしが代わりに参りました」
「そうでしょうな。前途有望な息子さんを失われたわけですから――」と、刑事は通り一遍の言葉を吐いた。
 続いて、警察署に出向いた用件を着々と済ませた。警察が預かっていたと言うより押収していた弟の所持品と、弟の部屋から持ち出したらしい物品を、書類と照合しながら受け取る。用意されていた大きめの紙袋に返却された物を詰め込む。署名と捺印をする。
「ご苦労さまでした」刑事が軽く頭を下げ、ドアのほうへと手を伸ばした。
 納得がいかない。なぜ?
 東京に向かう新幹線の中でずっと考えていた疑問のはけ口が、今消え去ろうとしている。不満と怒りが混じり合った発作が今にも起こりそうな気配を感じた。
 こんなんで、終わりになるわけ? 一件落着?
「では、そろそろ――」
 すでに次の仕事に取り掛かろうとしている素振りの刑事に、わたしは詰め寄った。「一通りお話をうかがうまでは、わたしは帰りません。これまでに分かったことを、一つひとつ順を追って説明してください」
「いいですか、島田さん、あれは事故だったんです。事件性はありませんでした」
「そんな言葉だけでは、とうてい納得できません」
「事故を調べている保険会社の人みたいですね」
 刑事の言葉が嫌な記憶を呼び覚ました。
「保険会社は、名古屋の家にまで人を送り込んできて調査をしました。事故に自殺と心中の疑いがあるとか言って――。母を一番苦しめたのは、あの人たちです。母を今のような精神状態に追い詰めたのは、あの人たちです」
 実際、亡くなった光太について、触れたくもなく言葉にしたくもない部分にまで容赦なく踏み込んできたのは警察ではなく、亡くなった運転者の加入していた生命保険を扱っている会社の調査員だった。名付けたくないものを言葉にすることが暴力であることを、わたしはあの時初めて知った。
「あちらさんとしては、大金を払わなければならない立場にありますから必死です。失礼で酷な言い方になりますが、それが商売なんです。病院でHIVの抗体検査の結果まで調べているんですから……」刑事は腕時計を見た。自分は忙しいのだというポーズだろう。「現在では、あらゆる事故であの種の検査をするのが常識になっています。救急車に乗り込む人たち、そして事故の処理と捜査に当たる私らも、血液や体液に触れたり浴びたりしますから、細心の注意を払います」
 今わたしが通っているスポーツジムの会員で、歯科医院に勤務している女性がいる。いつの間にか口を利く間柄になった。会話の中でエイズの話題が出たことがあった。医師を始めスタップ全員が、感染予防には相当気を使っているという。「曝露(ばくろ)」という言葉も、その女性から教えられた――。
「その点は、ご理解していただけますね?」刑事はなだめるような声を出して言った。
 自分では理解しているつもりだったが、『あの事故の犠牲者たちの場合は、特に訳ありでしたからね』と言っている裏の声が聞こえてくる気がした。自分が被害妄想的な精神状態に陥っているのを意識しながらも、わたしはかなり強い口調で刑事に説明を求めた。
 刑事は譲歩した。「分かりました。正直申しまして、私も現時点で複数の事案をかかえている身ですので、手短にお話しします」
 刑事は自動車事故については事実だけを淡々と述べ、自分たちが調べ上げた弟の私生活と日々の行いについてはほのめかすような言い方で語った。
 説明は、とうてい満足できる内容ではなかった。事故については興味がなかった。弟の光太に関する疑問だけが大きくなっていった。事故が単なる事故であり、事件性がないことさえはっきりすれば、警察の仕事は終わりになる。自殺と心中という想定も消えたとなれば、保険会社の調査員もそれ以上追及することはない。
 いったい、光太は東京で何をしていたのだろう。何を求めて、あれほどまでに上京にこだわったのか。予想はつく。ただ、単なる推測や空想では終わらせたくない。曖昧な死なんて、わたしには受け入れることはできない。
 光太の部屋を引き払った後も、しばらく東京に残ろう――。
 わたしは決意した。その裏には、母から逃れて一人になりたいという思いがあった。わたしも疲れていた。このまま家に帰れば、母とわたしは同じ色に染まっていく。それは危ういことだという気がした。

 

 母一人を名古屋の家に残したまま東京に留まることに、後ろめたさを感じなかったわけではない。息子の突然の死によるショックと、別居中の夫と久しぶりに会ったことによる精神的な揺らぎに加えて、保険会社の調査員から執拗(しつよう)な質問を受けた母は、一時は錯乱寸前まで行った。
 わたしが強引に連れて行く形で、とりあえず心療内科で受診させた。医師には、わたしが主に事情を説明した。気分を落ち着ける薬を処方された。なぜか、わたしにも同じ薬が出た。
 家では母と娘の役割が逆転した。母の思考と行動は幼児のようになり、わたしを母親のように慕った。常に誰かが一緒にいてやる必要があった。わたしが大学に行っている間は、母の姉である光枝おばさんが来て家にいてくれた。伯母が帰ると、母はわたしのそばから一時も離れない。お風呂も二人で入り、同じ部屋で寝た。夜間に起され、トイレにまで付き添わなければ用が足せないのには閉口した。
 最悪の状態からいくぶん回復し、何とか精神の均衡を取り戻した母は、このところわたしを相手に弟が小さかったころの話ばかりをするようになった。
 上京した息子が、初対面らしい男性の車の助手席で事故に遭った。確かに不可解な死に方だ。十九歳の誕生日を迎えることができなかった息子の死は忘れ、これから先は幼かった息子の思い出と共に生きていこうとしている。母を見ていると、そんなふうに思える。
 わたしは、弟の記憶をその骨と一緒にこのまま葬り去る気にはなれない。母にとっては今さらほじくり返して言葉にしたくもないものを、わたしはあえてほじくり返し、自分の目で見極めてみたい。そのためには、この大都市に残って歩き回る必要がある。時には、生前の弟を知る関係者と直接会って話を聞かなければならないこともあるだろう。

 

 明日のこの時刻には、この部屋は生活感のない、ただの空き部屋になっているはずだ――。
 わたしは部屋の様子を心に刻み付けておこうと、辺りを見回し立ち上がった。弟がきっと毎日そうしていたように、部屋を横切る。キチネットの前に向かう。備え付けの棚を開ける。かがんで床に触れてみる。バスルームに入る。水道の蛇口をひねる。鏡に自分の姿を映す。シャワーカーテンを引く。
 携帯電話の音がした。慌ててバスルームを出て奥の部屋に入り、机の上に置いておいた弟の携帯電話をつかむ。
 液晶には「タカ」と表示されている。通話ボタンを押す。
「もしもし、ヒカル?」
「もしもし――」言葉に詰まる。「わたし、島田光太の姉ですけど、あなたは光太のお友達ですか?」
「周りがうるさくてよく聞こえないんだけど、ヒカルじゃないの? ひょっとして女の人?」
「姉です」
「うそー。本当に女? からかっていない?」
「姉です」
 そんな言葉しか出ない自分に戸惑う。
「ヒカル、そこにいる?」
「弟は亡くなりました」
「うそー。あんた誰なの? ヒカルがいないんだったら、切るよ」
「ちょっと待って。弟のことを聞きたいんだけど――」
「別に大した用はないから、切る」
 通話は切れた。たとえ話しても意味のない相手だと自分に言い聞かせる。
「タカはバカ」とつぶやく。それが駄洒落になっていることに気が付いた瞬間、なぜか大笑いしてしまった。なかなか笑いが止まらない。

 

 電話帳検索で登録された名前と番号を次々と順番に見ていきながら、このうちの誰かに掛けてみようかと思い立った。でも、何て切り出せばいいのだろう。そもそも、まともに話せる相手なんているのだろうか。今のバカみたいな相手ばかりではないだろうか。
 人づてや報道により、光太が死んだことを知っている者もいるに違いない。この携帯電話は二週間も警察署に置かれていたのだから、これが使われて警察から事情を聞かれた者たちがいてもおかしくはない――。
 いったい、わたしは何をしようとしているのだろうか。亡くなった弟について知ろうという行為は尋常なことなのだろうか。まず自分のやろうとしていることの意味について考える必要があるのではないか。母の心の状態を心配する以前に、自分の精神状態を案じるべきではないのか。わたしは疲れを感じた。
 携帯電話が鳴った。今度は、わたしのミニバッグに入っているものだ。液晶に表示されている名は、岸川詩乃(しの)だ。
「香織? どうしたの?」
「どうしたのって?」
「もう三十分も待っているのよ」
「…………」この人、何を言っているのだろう。
「もしもし、大丈夫? 今、どこ?」
「弟の部屋」
「ちょっと、あなた本当に大丈夫? 約束忘れたんじゃないでしょうね」
「約束?」
「やっぱり忘れているみたいね」
「忘れてる?」一瞬、自分がどこで何をしているのかが分からなくなった。
「光太君の住んでいたアパートって、東中野だったわね。わたし、これから迎えに行く」
「ちょっと待って。考えさせてよ――」

 

 わたしは、一昨日の夜に、詩乃と電話で話した内容を思い出そうとした。詩乃には上京することと、その目的を話した。詩乃は自分のアパートに泊まるようにと勧めてくれた。わたしはその好意に甘えるつもりだったが、詩乃と会話をしているうちに次第に疲れを感じた。
 詩乃がいろいろ心配してくれるのはうれしいが、その気遣いがかえってうっとうしく感じられてきた。それは覚えている。
 途中で、何か理由をつけてホテルに泊まると伝えた記憶がある。でも、結局、ホテルに部屋の予約をすることはなかった。弟の部屋を訪ねるのが今回の上京で最後になるから、弟の部屋に泊まろうと思っていた。でも、夕食は詩乃とどこかで食べると約束したような覚えもある。
 母には詩乃のアパートで泊まると言ってある。詩乃は高田馬場に住んでいる。JR高田馬場駅の交番の前で会う約束をした。そんな気もする。こうして詩乃が電話を掛けてきたのだから、最終的には会う約束をしたに違いない。時刻は、詩乃の言うように三十分前の午後六時半だったのだろう。

 

「ごめん。部屋で荷造りをしていたら、時間の感覚が分からなくなっちゃった――」
 そうとしか言いようがない。母のことを笑えない。わたしも精神的に参っているようだ。きょう一日はいろいろなことがありすぎた。それに、今朝家を出る前に軽い食事をとったあと、この部屋にあったクッキー以外何も口にしていない。
 東京までの新幹線の車内で考え続けていた、弟に関する謎の数々。斜視気味の刑事に執拗に迫って、ようやく聞き出した事故の概略。遺品である携帯電話やアドレス帳の処分についての迷い。女気のなさという、携帯電話に登録されたデータにまつわる新たな疑問――。さまざまなことがあり、考えなければならないことが次々と出てきた。白昼夢にも似た経験の中で、弟との思い出にも浸りすぎた。そのために、肝心のやるべきことをすっかり忘れている。
 それにしても、カーテンを通して浴びたオレンジ色の夕日がすごくきれいで快かった。その時、小学生のころの切ない記憶が呼び覚まされた。何かに促されて、光太の衣服を身に着けてみた。光太が生きているような気がした――。
「もしもし? 急に黙り込んじゃって、どうしたの?」と、言う詩乃の声が優しい。「もしかして、あなた泣いているの?」
「ううん」と大きく首を横に振る。このところ子供返り気味の母とそっくりな動作をしているのに気づき、はっとする。「そんなことないよ。大丈夫」
「話し方を聞いていると、ずいぶん疲れているみたい。やっぱり、わたし迎えに行く。東中野のJRの駅って確か改札口が二つあるはず。光太君の住んでいたアパートは線路のどっち側、というか東中野の何丁目?」
 昨日名古屋で買った東京区分地図には何度か目を通した。自分がどこにいるかは、地図上でだいたい把握(はあく)できている。ただ番地までは思い出せない。
「――引っ越しの荷造りをしていたんでしょ。賃貸契約書とか、領収書とか、書類がない? 住所を読み上げてみてよ」
 わたしは言われるままに、引っ越し業者が置いていった見積書にある、このアパートの住所を読み上げた。
「分かった。とにかく駅の改札口まで来て。そうねえ……。七時半までには行けると思う。念のために言っておくけど、地下鉄の駅じゃないわよ。JRのほう。お互いに分からなくなったら、ケータイで連絡を取り合いましょう」

 

 今のわたしに必要なのは、人と会って喋ることなのかもしれない。誰かに甘えてみたい気もする。詩乃はしっかりした性格だ。母にわたしが必要なように、わたしにも頼る人が必要なのだろう。
 わたしは携帯電話や財布を入れたミニバッグだけを持って部屋を出た。風が冷たい。外階段を下りたところで弟の携帯電話を持ってくるのを忘れたのに気づき、いったん戻った。
 部屋に入るなり思った。
 明日の夜には、この部屋はからっぽ。そんなの許せない――。
 デスクの上にあった引っ越し業者の見積書に目が行く。「年中無休」「二十四時間受付」という文字が見える。携帯電話を取り出し、その文字の横にあるフリーダイヤルを押した。
「――お引っ越し前日のキャンセルでございますね。申し訳ありませんが、即日契約の『お任せパック』のキャンセル料は、お引っ越し料金とほぼ同額になります。それでも、よろしいでしょうか」
「構いません」
「失礼ですが、当社のサービスに対し、何かご不満でも?」
「いいえ、そういうわけじゃありません。ちょっと延期しなければならない事情ができただけですので」
「そうでございますか。延期ということでしたら、再び当社をご利用いただくという条件で、キャンセル料を割引するサービスも承っております――」

 

 再び、外に出た。冷たい風がすがすがしい。さっき外階段を下りきったさいに感じた重苦しさが消えている。アパートの近辺は木々が多く暗い。街路灯を目指して早足に進む。
 空を見上げる。夕方に見た、あのきれいなオレンジ色のまばゆい光は、もちろんない。新宿方面を見下ろす道を駅へと急ぐ。空の底に当たるグレーの部分に、霞(かすみ)がかかったような赤みがさしている。水に混じった濁りを帯びた血の色に似ていると、ふと思った。

 




第4話 つながり

 九月の終わりの土曜日。午前二時五分ころ。雨が降りしきる世田谷区の道路。スピードを出しすぎた一台のボルボがカーブを曲がりきれずガードレールに追突した。
 乗っていた二人の男性のうち、助手席に乗っていた若者は即死。運転していた若者は救急車で運ばれた病院で事故の七時間後に死亡した。運転者は車と所持していた免許証から身元が判明した。市川俊樹(いちかわとしき)。二十六歳。会社員。
 同乗していた若者の身元の確認は遅れた。身分証明書のたぐいを一切所持してはいなかった。血と骨と肉片にまみれ、ずたずたに引き裂かれたジーンズの前ポケットから一枚のメモ用紙が発見された。紙には書きなぐった多数の数字が書かれていた。その数字が謎となった。
 血液で染まった紙は鑑識に回され、五組の携帯電話の番号らしき数字が判読された。そのうちの一組の数字は、車を運転していた市川俊樹の携帯電話の番号と一致した。その日のうちに四人の男性が警察から事情を聞かれた。
 不明だった四人の男性たちのつながりの謎はすぐに解けた。事故の捜査に当たった警察官にとっては、振り出しに戻ったようなあっけない謎の解決だった。予想通りの結果となった。男性たちをつないでいたのは携帯電話の電波だった。その男性たちと即死した若者との関係は、担当の刑事には容易に予測がついた。

「この種のことに勘が働かないと分からない事件や事故は、割と多いんです」と、斜視気味の刑事は目をそらさず言い、ためらうように間を置いた後ずばりと聞いてきた。「ご存知でしたか? 弟さんの素行について――」
「素行」という言葉が、刑事とわたしを隔てる空間でぷよぷよ浮いているような妙な気分に陥った。両者の解する意味が食い違い、言葉がさまよっている。今は亡き人となったにせよ、この刑事は、光太という一人の人間のある部分を「素行」という曖昧で訳の分からない言葉で片付けようとしている。
 当惑。怒り。もどかしさ。あきらめ。数秒のうちに、そうした感情が自分の心の中を通り過ぎていった。
 この人に食ってかかっても仕方ない。この人だけではない。多くの人にとって、光太や光太とかかわった人たちの生き方は、たとえば「素行」とか「性向」とか「性癖」、またはせいぜい「傾向」や「資質」という言葉で名指すしかないものなのだろう。
「――ご存知でしたか?」
「はい」と、わたしは泳ぎかけていた視線を刑事の目に戻してうなずいた。「おっしゃっていることが、どういう意味なのかは承知しています」
「なるほど」
 なるほど? 何て間の抜けた返事だろう。わたしは込み上げてきた笑いを押し殺した。このところ、不意に笑いが出てきて止まらなくなることがよくある。
「話がしやすくなりました」と言い、刑事は話を続けた。

 

 事故の担当者たちは、予測をもとに調べを続けた。四人の男性たちは全員、事故の前日に携帯電話でアクセスするある種の掲示板に、メッセージと自分の連絡先を書き込んでいた。四人に共通するのは、十八歳の「ヒカル」という少年から電話をもらったということだった。しかし、四人とも「ヒカル」には会っていない。
 四人のうちの一人が、同じ「ヒカル」と名の少年について聞いたことがあると警察官に語った。その男性の知り合いがヒカルという少年の噂をしているのを聞いた記憶がある、という話だった。警察はその知り合いの男性とも連絡を取った。
 その男性は、一度だけヒカルという少年と会ったことがあった。その時、少年の住むアパートの近くまで車で送って行ったという。男性が少年を車から降ろした付近で警察が聞き込みをした結果、ヒカルと名乗っていた少年の本名が判明した。
 島田光太。十八歳。予備校生。愛知県名古屋市出身。

 

 わたしは刑事の話を小説のように聞いていた。その物語の主人公が、双子のように生活を共にしていた弟とは信じられなかった。事故については、名古屋市で発行されている新聞では、一紙だけが事故当日の夕刊に小さく報じただけだった。数日後、図書館で複数の全国紙を調べてみると、二紙が事故翌日の朝刊に簡単な記事を載せていた。現在警察が即死した同乗者の身元を確認中である――という共通した記述があった。
 光太が交通事故で死んだという知らせが警察から母とわたしの住む名古屋の家にもたらされたのは、事故の翌日である日曜の午後だった。別居中の父にはわたしが電話で連絡した。母は母の姉と一緒にただちに上京し、父はそれとは別に東京へ向かった。

 

「悲しい話。悲しすぎる――」
 斜視気味の刑事から聞いた詳細を中心に事故とその後の出来事の概略を語ると、岸川詩乃はつぶやき、目頭の涙をティシューでぬぐった。
「わたしとしては、ある意味ではすっきりした部分もあるの。弟がどんなふうに亡くなったかは、あの刑事さんと直接会わなかったら、おそらく永遠に知ることはなかったわけだから。その意味では、今回の上京は正解だったと思う」
「それで香織の気持ちがいくらかでも収まれば、そうかもしれない。でも、その刑事さん、よくそこまで話してくれたわね。聞いていて苦しくなかった?」
「わたしが無理やり話させたって感じね。別居している父の性格からして、この件に関して上京することはまずないし、お母さんはあんなだし――。刑事さんもそうした事情を承知しているから、姉のわたしに話してくれたんじゃないかな。それに、あそこまで踏み込んだ話になったのは、あの刑事さんの言葉を借りれば、光太の『素行』について知っているって、わたしがはっきり言ったからだと思う。きっと、そうよ」
「光太君と香織って、本当に仲が良かったもんね。わたしなんか、兄がいるけど、すごく仲が悪かったの。兄はもう結婚して家を出ているから、過去の話だけどね」
「確かに他人の目からは不思議なというか、怪しい姉弟に見えたでしょうね」わたしは無理に笑顔を作って言った。
「そこまでは言わないけど――」詩乃はティシューをいじりながら言った。
 わたしは弟の携帯電話を見た。何度見たか分からない。誰かから電話が掛かって来ないなら、こちらから掛けようという気持ちが再度頭をもたげてくる。でも、きょうはこのまま、詩乃の部屋でおとなしく眠ろうと思う。
「ごめんね。ベッドを占領しちゃって」
 床に予備の布団を敷いている詩乃に謝り、弟の携帯電話の電源を切る。
「遠慮は抜きでいこうよ。それとも、一緒に寝る? 寂しかったら、横に寝てあげようか?」
「大丈夫」
「今だから言うけど、東中野の駅で会ったときの香織って、すごく疲れた顔をしてたよ。それに寂しそうだった」
「あれから、よく食べたよね」自然に笑顔になれた。「きょうというか、こんな時間だから、もう昨日のことだけど、朝からほとんどお腹に入れていなかったんだもん、薬以外は。疲れるし寂しそうな顔もするわけだ」
「食事の後に飲んでいたお薬――。あれって、何なの? あの時には聞かなかったけど」
「気分を落ち着ける薬なんだって。お母さんを心療内科に連れて行ったら、わたしまで処方せんをもらっちゃった」

 

     *

 

 弟の部屋に戻ると、やはり引っ越しを延期してよかったと思った。もう少しこの部屋にいてやることが、この部屋に残っている弟の霊とは言わないまでも、弟の思いへの弔(とむら)い、そしてこの部屋に対するお礼にもなる気がした。
 最終的には同じ業者の「お任せパック」を依頼するにしろ、弟の愛用した物たちをこの手で段ボール箱に収めてやりたい。弟の部屋を片付けて掃除をし、この部屋から去りたい。もう少し、ここにいたい。いてやりたい――。
 近くのコンビニで買ってきたお弁当を電子レンジで温めていると、弟の携帯電話が鳴った。
 液晶には「森本アツシ」という名が表示されている。
「ヒカル?」
「あのう――。わたし、ヒカル、つまり島田光太の姉です」
「マジ? ヒカル、おれのことをからかってない?」
「いいえ、わたし、姉です。このまま切らないでお話を聞かせてもらえませんか?」
「…………」
「お願いです」
「お願いと言われても――。で、どうしてお姉さんが、この電話に出てくるんですか?」
 ようやくまともに話ができそうな相手から掛かってきたという予感がする。
「実は、光太が亡くなりました」
「なくなって、死んだってことですか? マジで? いえ、すみません。本当ですか?」
 森本アツシは、光太とは同じ予備校の生徒らしい。最近、見掛けないので何となく電話をしてみたという。
「生前の弟がいろいろお世話になりまし」
 形式的な挨拶をして、電話を切った。
 がっかりした。わたしが話したい相手とは違う。

 

「電話帳検索」には、たくさんのデータが登録されている。それにもかかわらず、ほとんど電話が掛かって来ない。どういうことなのか? 登録されている番号の持ち主たちが、光太の死を知っているとしか考えられない。みんながつながっていて、知っているのだ。
 さっきの森本アツシからの電話に出たことで、こちらから電話を掛けたさいに自然に響くと思われる文句が頭に浮かんだ。
『亡くなった弟の携帯電話が残りましたので、電話帳に登録されているお友達にお礼の電話を掛けているところなんです。生前の弟がいろいろお世話になりました』
 おみくじを引くようなつもりで、無作為に名前と番号を表示させ、通話ボタンを押した。
 呼び出し音が五回鳴り終えたのを聞いた。相手は出ない。どうしても通話できない状態で、止むを得ず放置しているのか? または、液晶の表示を見て「死者」からの電話に出ようか、それともこのままにしておこうか迷っているのか? わたしは呼び出し音を聞き続けた。
 十回目の呼び出し音が鳴り始めようとしたとき、電話がつながった。驚いて、「あっ」と声を出すところだった。
「…………」
 相手は喋らない。こちらが誘導する形で、あらかじめ考えていた言葉を口にするしかない。
「もしもし、突然、申し訳ありません。わたしは島田香織と申します。島田光太の姉です。亡くなった弟の携帯電話が――」
「えっ? ヒカルのお姉さんなんですか?」
「はい。あのう、お願いですから切らないでください」
「びっくりした」
「ごめんなさい」
「幽霊かと思った。声が似ていたので」
 しばらく弟と一緒に暮らしていなかったため、とっさにはぴんと来なかったが、思い出した。電話で聞くと、わたしと光太の声は似ているらしい。名古屋の家の固定電話に掛かってきたときに出ると、よく間違えられた。
 弟が声変わりをする前には、まったく同じ声に聞こえると言われていた。声変わり以後、弟は普段は低めの声で喋っていたが、電話ではやや高めの声で話す癖があった。逆に、思春期以後のわたしは電話に出るときには緊張するせいか、声の調子が沈んで低めに聞こえるという。その結果、よく似た印象を与えるらしい――。
「そんなに似ていますか?」
「今聞いているとそうでもないんですけど、最初の声を聞いたときには、マジでビビッちゃいましたよ」
 話している相手は前田隆平という名で、光太とは新宿で知り合ったという。
 ヒカルが死んだというニュースは、仲間うちですぐに広まった。また、あの日に車を運転していて死亡した市川俊樹の知り合いの間でも、話はたちまち伝わった。携帯電話からアクセスする掲示板を利用していた四人の男性たちを警察が事情聴取したことにより、一時は関係者たちにとって二人の死は「大事件」になった。前田隆平は、そう語った。
「だから、このケータイに誰も掛けてこないんですね」
「でしょうね」
「予備校のお友達から掛かってきたくらいです」
「そうだ、ヒカルって予備校生だったんだ」
「ご存知じゃなかったんですか」
「いえ、そういう意味じゃなくて、ヒカルと予備校というのが結びつかなくて……。けっこう有名人だったからなあ」
「有名人?」
「持てたというか、人気があったってことです。悪い意味じゃないです。そのケータイには、ものすごい数の番号が登録されてるでしょう」
「ものすごいという感じでもないですよ」
「要らないのは、どんどん削除していったんだろうな。ところで、そのケータイ、警察の所に持って行かれていたんでしょ? やばいなあ」
「やばい?」
「つながりが、ばれちゃうじゃないですか。おれたちの人権とか個人情報の保護に熱心な人たちが、グループを作って活動しているんです。で、警察はおれたちみたいな人間のセクシュアリティや、ほかのマイノリティの情報を、裏で集めているっていう噂を聞いたことがあって……」
「セクシュアリティ」という言葉を耳にし、わたしは斜視気味の刑事が口にした「素行」という言葉を思い出した。
 セクシュアリティという言葉は雑誌で見かけたことはある。見かけても深く考えることはなかった。話し言葉の中で耳にしたのは、今が初めてかもしれない。だいたいの意味は分かる。でも、自分や身近な人とかかわる言葉だと実感したことはない。
「セクシュアリティ」と、わたしはつぶやいた。
「えっ? そう、セクシュアリティです。先月、こっちの世界で覚せい剤がらみの事件があったときに、なぜかおれの所に急に警察官が訪ねてきたことがありました。逮捕されたやつはクロだった。それはそれでいいんです。身から出た錆(さび)ですから。でも、おれ、そいつとは一回会っただけですよ。それも五年以上も前に――。やっぱりクスリがらみで、そいつは何度か警察の調べを受けたことがあるらしいんです。以前にそいつのケータイにおれの番号があったから、つながりを疑われたとしか思えません。絶対に警察はこういうデータを集めています。一度入手したデータは破棄しないと考えるほうが賢明でしょう」
「何だか怖いですね」
「指紋と同じですよ。たとえば、どこかの店で働いていたとします。夜間、そこに泥棒が入った。任意で指紋を採取させてくれと警察から言われれば、自分が犯人でないことを証明するために承知するのが普通ですよね。その時に採られた指紋って、一定期間が過ぎたら破棄されると思いますか?」
「さあ?」
「DNA鑑定でも、そうです。自分の潔白を証明するために、任意の形で毛髪を採取されたとします。その情報というかデータは、事件が解決したら破棄されると思いますか?」
「…………」
「すみません。話が飛んじゃいました。いずれにせよ、そのケータイのデータは、削除してしまったほうがいいんじゃないですか。差し出がましいかもしれませんが、おれはそう思います。ヒカル、パソコンを持っていませんでしたか?」
「わたし、今、弟の部屋を引き払うために上京しているんですけど、部屋にパソコンはありません」
「そうですか。万が一、ノートパソコンとかネットにつなげる小型の端末でも出てきたら、メール関係のデータは削除しておいたほうがいいかも」
「分かりました。気を付けておきます」
「でも、ああいうものは削除したとしても、その手の技術に詳しい人なら修復できるんですけどね――」

 

 この電話で十分だった。光太の残した携帯電話に登録された番号に掛ければ、わたしは歓迎されない電話の相手となるだけだ。データは消そう。一気にデータを削除することもできるが、いくらなんでも味気ない。おそらく、うれしそうに一件ずつ入力していった弟に悪いような気もする。
 左手の指を使ってデータの削除を始めたとたん、気分が沈んできた。個人情報を消すというのは気持ちのいい作業ではない。心に痛みを覚える。ピッピッという機械音が耳と神経に障るので、ミュートにした。次々とデータを消していて思った。エアキャップをプチプチ潰すのにどこか似ている。

 





第5話 大丈夫

「本当にいいんですか」
 店に備えてあるヘアカタログで髪型を指定すると、男性の美容師はハサミを入れる前に念を押した。気心が知れない初めての客に対するマナーの一つなのかと想像する。
「ばっさりとお願いします」
 わたしは努めて明るい表情を作りながら答えた。美容師の探るようなまなざしが瞬間的に笑顔に変わった。失恋後の気分転換に髪を思い切り短くする女には見られたくない。
 弟は亡くなる数日前に携帯電話でメールと画像を送ってきた。髪型を短くしたから見てくれというものだった。
『ちょっとレトロな感じだけど、ロンドンで流行っているんだって。気に入ってまーす』
 そんな内容のメールと一緒に送られてきた写真二枚には、それまでの長めだった髪をばっさりとカットした弟の澄ました顔が映っていた。一枚は正面から、もう一枚は左斜め上に自分で携帯電話を掲げて撮ったものらしい。

 

 弟は、普段はよく笑うくせに、カメラの前ではめったに笑わない。家にある写真のほとんどがそうだ。事故死したという知らせを聞いた直後、身内だけの葬儀で使う写真を選んでいたさいに気づいた。幼いころの写真もそうだ。弟と並んでいるわたしも笑っていない。
 一方で、学校の修学旅行や遠足に行ったさいに撮られた写真では、弟もわたしも笑っているものがある。家族写真に見られる笑いの不在――。改めて考えてみると不思議な話だ。今になって知った発見とも言える。現在、父が別居して実家にいないことの芽、あるいは兆候だったのかとも思える。振り返ってみると、わたしたち姉弟が幼かったころから両親の仲はぎくしゃくしていた気もする。これは、写真選びをしていて初めて意識したことだった。

 

 美容師はためらいのない自信に満ちた手つきで容赦なく長い髪をカットしていく。髪は黒いかたまりとなってぽたりと落ち、首から下を覆うビニール製のカットクロスの上を、生き物めいた動きで恨めしそうにズズっと滑り降りていく。
 美容師には、初めての客に対する礼儀と用心深さが感じられる。まだまだ日中は暑いですね――から始まって、カルテにはご紹介者が書かれていませんでしたが私をご指名くださったのはどうしてですか――、学生さんですか――、ご出身はどちらですか――と、手を休めずに尋ねてくる。初対面の気安さもあり、この店に二度と来ることはないだろうという気持ちも手伝って、わたしはいい加減に答えた。
 バックとサイドを刈り上げてもらい、シャンプーのために立ったとき、床に落ちている髪の量の多さに驚いた。
「前の状態に戻してちょうだいなんて、おっしゃらないでくださいよ」
 わたしの気持ちを察したのだろう、美容師が笑顔で言った。
「大丈夫です」と答える。

 

 シャンプー台で髪を流し鏡の前に戻って初めて、わたしは別人になった自分と対面した気分を味わった。髪が濡れたままの鏡の中のわたしはずいぶん幼く見える。懐かしい顔だった。懐かしさは弟との類似から来ていた。小学校の高学年ころの弟に似ている。
「島田様、少々お待ちください」
 ほかの従業員に呼ばれた美容師が離れた瞬間、わたしは密かにある顔を作った。眉を寄せて下唇をかむ。悔しいときや何かに熱中している最中に、弟がよく見せた表情だった。亡くなった弟の思い出の中で、一番好きなものの一つだ。どこか頼りなげで抱き締めたくなるような顔が鏡に浮かんでいる。
「どうかなさいましたか?」
 美容師の声がさっきとは反対側からして、わたしは驚いた。店内の造りが分からない。
「もしかして、イメージが違うとか?」
「いいえ、すごく気に入っています」
 本心だから、自然に笑みを浮かべることができた。
「島田香織様ですよね――」
「はい」
「ご親戚の方が、うちの店をご利用なさっているなんてこと、ありませんよね」
「…………」
 弟のことを話そうかどうか、わたしは迷った。
「失礼なことを申し上げているのかもしれませんが、同じ名字の方で、似たお客様がいらっしゃるんですよ」
「ばれました?」
「やっぱり」
 美容師はかん高い声になって両手を胸の前で合わせた。
「わたし、島田光太の姉です」
「うわあ、びっくり――。いえ、本当は途中でそんな気がしたんです。まず、この髪型はヨーロッパでは最新のものなんですけど、少しレトロっぽいんで選ぶ人はあまりいません。カタログからこのスタイルを選ぶお客さんは、個性的なタイプの方ばかりです。で、名字を拝見してあれっと思ったんです。それに、カルテのご紹介者の欄に何も書いてないのも変だなと思いましたし、さきほどお尋ねしたさいにも、はっきりとしたご返事がいただけなかったので――」
「怪しいなとか?」
「そうそう、そんな感じしました。ひょっとしてひょっとするんじゃないかなんて、カットしながら実は勝手に想像していたんですよ」

 

 きょう、弟の部屋を片付け終えたわたしは、化粧を落とし、長く伸ばしたうえにヤスリで形を整えていた爪を切り、上も下もすべて弟の衣類を身に着けて外に出た。アパートを管理している不動産屋を訪ねて用を済まし、電車と地下鉄を乗り継いで表参道に着いた。
 東京区分地図で確かめておいた目標のビルを探し、そこから番地の表示を頼りに電話で予約しておいた美容室に着いたときには、午後六時を過ぎていた。美容師は、弟の部屋にあった美容室のカードに記されているのと同じ人を指名してあった。

 

「うん。やっぱり似ていらっしゃいます」
「そうですか」
 ブローに入ると、美容師はひっきりなしに話し掛けてくる。『もうわたしたち、お友達でしょ』とでも言いたげな調子が気に入らなかったが、美容師の腕は確かだった。客の気持ちを読み取る感覚も鋭い。わたしが名古屋でいつも利用している美容院の二倍近い料金を取るだけのことはある。
「さっき、何か考えごとをされていませんでした? あの時の表情がそっくりでした。髪型を選んでいただくさいに、お客様にカタログをお見せしますよね。そんなときに、サンプルの写真を見ながら考えるじゃないですか。それとか、最後にこちらが、『いかがですか?』なんて尋ねると、お客様が鏡に向かってこんなふうに顔を左右に振って見栄えを確かめるじゃないですか。そんなときの弟さんの表情にそっくりなんで、余計に驚いたんです」
 ときおり作業の手を休め、身ぶりと手ぶりを交えながら美容師は早口に喋る。声と仕草が、急に女性っぽくなったように感じられる。それにしても、手際がいい。ドライヤーを当てていく髪に不揃いはまったくない。
 わたしは美容師の指の動きに見とれていた。形のいい指だった。弟の指の記憶がよみがえった。弟に生まれつき備わっている物のうちで、わたしがとりわけうらやましく思ったものが指だった。薄桃色に光る細長の爪を弟が持って生まれ、わたしには形の悪い短い爪しか授けられなかったことが理不尽に思えてならなかった。
「それとですねえ――」と美容師はなおも口早に話を続ける。「髪を切りますよね。当然、お客様の頭に触れることになります。シャンプーの時なんか、もろにそうなんですけど、頭に触れていると手が覚えているってことがあるんです。ああ、このお客様の頭に以前触れた覚えがある。そんな感じがする場合があります」
「すごい。奥が深いんですね」
「いえいえ、奥が深いなんて大げさなものじゃないんですけどね。むしろ、こういうのは動物的な勘ですよ。で、香織さんの頭に触れたり指で押さえたりしているうちに、ぴんと来たんですよ」
「弟に似てるって、ですか」
「ええ。びびっと感じました」
「本当ですか? そんな話を聞くと感動しちゃいます」
 一瞬涙が出そうになったが、何とか抑えた。
「骨相学ってご存知ですか?」
「『こっそうがく』? 『骨(ほね)』と人相の『相(そう)』に学問の『学(がく)』という字ですよね」
「はい。わたしが前にいた店のスタッフで、頭の形にものすごく敏感な人がいました。いろいろ勉強もしていたみたいで、結局、今は美容師を辞めて骨相学を基本にした占い師をやっているそうです」
「へーえ」


 頭蓋骨(ずがいこつ)の像が目の前にちらつき、わたしは軽い吐き気を覚えた。それを察したのか、美容師は素早くに話題を変えた。
「ところで、光太さん、お元気ですか? まだうちにカットにいらっしゃるのには早いと思いますけど」
「元気にしていますよ。東京での予備校生生活をエンジョイしているみたいです。名古屋からわざわざ出てきて――」
 とっさに、わたしはそう答えていた。弟は生きていて、今もあの部屋に住んでいる――。夢と空想がそのまま口から出たのかもしれなかった。美容師は、あははと声を上げて笑った。
「そうかそうか」と、美容師は一人で納得したように、何度もうなずきながら言った。「確かにおっしゃっていました。やっと今になって、思い出しました。お姉さんが名古屋にいらっしゃるという話。すごく仲がいいとか――。ごめんなさい。こういうお客様にとって大切なことを、よく忘れてしまうんですよ。根がアホやもんで」
「アホ?」
「わたし、出身は関西なんです。向こうにも美容師を養成する学校はあるんですけど、どうしても東京に行きたいって、親に向かって土下座するやら、泣いて訴えるやら、脅すやらして、こっちに参りました」
「弟と一緒ですね。光太も、東京に行きたい、東京に行きたいって、わめきまくって親を説得したんです。東京はお好きですか」
「うーん。好きでした――」と言った美容師の目とわたしの目が鏡の中で合った。「どうして過去形なのかというと、年ですかね。こういう仕事は、最終的には自分の店を持つことが目標です。そのための貯金も、組合で強制的にさせられています。その目標が、だんだん具体的というか現実的に感じられるようになってきますよね。そうなると、考えちゃうんです。東京で勝負できるか? なんて感じで。えらい深刻な話になってしまいました――。弟さんなんか、毎日が楽しくて仕方ないんじゃないですか。第一若いんだもの」
「予備校生ですよ」
「そうでしたね」
 わたしたちは同時に笑った。この東京どころか、この世に光太がもういないとは信じられない。わたしは鏡の中の自分を見る。

『光太は女にしても美人だけど、香織は光太の出来損ないみたいね――』
 そんな無神経な言葉を吐いた親戚の女がいたことが思い出される。あれは確か、光太とわたしが七五三か何かの祝いでよそ行きの格好をさせられていたときだ。あの日に撮った写真が、家にあるはずだ。
 鏡に映っているのは「光太の出来損ない」だが、本物のちゃんとした光太があの部屋にまだ住んでいるような気がしてならない。

 

「人生で一番楽しい時期に憧れの東京にいる。それだけで幸せですよ」と美容師は言い、急ににやりとした笑みを浮かべた。「お姉さんだという身元が割れたところで、一つ質問させてください。どうして、髪を切る気になったのですか」
 そう尋ねられたわたしは、言葉に詰まった。自分でもよく分かっていない。光太の部屋でこの美容室のカードを見つけた瞬間、光太が送ってきたメールと画像が頭に浮かび、深く考えることもなく予約の電話を入れていた。

 

「あなた、今、生理前か生理中?」
 二日前に、岸川詩乃から言われた言葉が頭に浮かぶ。あの日にわたしは午前の早い時間に東京駅に着いた。
 すぐに電車を乗り換えて世田谷区にあるS警察署に出向き、事故死した弟の持ち物を受け取った。しぶる刑事を強引に説得し、事故の背景についての説明を受けた。
 午後からは、東中野にある弟の住んでいた部屋の引っ越しの見積もりを業者にしてもらい、翌日に荷物を運ぶという段取りをつけて即座に契約をした。疲れのためにぼんやりとした状態で荷造りに取り掛かり、弟の携帯電話の電話帳検索を見ていて男の名前ばかりだなあと思ったりしているうちに、夜になった。
 すると突然、携帯電話に詩乃からの通話があり、会う約束をしていたらしいと気づいた。迎えに来てくれると言うので、東中野の駅に向かおうとした。途中で引き返して、引っ越しのキャンセルと延期を業者に告げた。
 駅の改札口で待っていた詩乃が、わたしを見るなり小声で口にしたのが、「あなた、今、生理前か生理中?」だった。
「ううん、そんなことない」
「顔色が悪いよ。きょうは、ずいぶん無理なスケジュールだったらしいから疲れたんじゃない?」
「ううん、そんなことないよ。大丈夫だってば」
「強い頭痛薬でも飲んでるんじゃない? ろれつが回らない感じがするけど――」
「それより、わたし、お腹がすいちゃった。ぺこぺこ」
 その夜、高田馬場にある詩乃のアパートに泊めてもらった。翌日の早朝まで話し込んだ。その時に、心療内科で処方された薬を飲んでいることも話した。
 確かに、このところ、体だけでなく心も疲れている感じはする。でも、気分を落ち着けるらしい薬を毎食後に飲んでいるのだから大丈夫だと思う。時々意識がぼんやりしたり、自分でもあれよあれよという感じでびっくりするようなこともするけど、きっと大丈夫だ。

 

「……一つ質問させてください。どうして、髪を切る気になったのですか」美容師が言っている。
 どうしてだろう? 
「――久しぶりに会ったから、記念にツーショットの写真を撮ろうということになったんです」
「わざわざ同じ髪型で、同じような格好をしてですか?」
「そうです。その乗りで――。ご存知だと思いますけど、弟はすごく能天気ですから」
「そりゃ傑作だ」
「今度お店に来たら、思い切りからかってやってください」
 すらすらと嘘が出てくるのが快い。弟と並んでカメラに収まるという考えも楽しい。空想ってわくわくする。鏡の中で美容師もわたしも、声を出して笑っている。楽しそう。自分のことなのだけれど、他人事みたいにも思える――。でも、大丈夫だ。
 






第6話 変わる

 カットクロスが取り去られ、椅子に腰掛けた全身が縦長の鏡に映っている。最後に美容師は前髪の生え際を少量のジェルで固めて、撫でるような手付きで髪をさっと上げた。
 鏡の中には少しほおが張っているが、弟によく似た顔立ちの少年がいる。ゆったり目のシャツは洗濯されたものだが、ジーンズはクローゼットから出てきたままで洗っていないものをはいている。
 約二カ月前のお盆に帰省した弟は、これと同じ格好をしていた。目の前の髪型に比べれば、だいぶ長かった。わたしは携帯電話の不用なメールや画像はこまめに消すほうだが、弟が死の数日前に送ってきた画像だけは残してあった。虫が知らせたのかもしれない。髪を思い切り短くしたという報告のメールと写真――。
 メールチェックの振りをして携帯電話を取り出し、見比べてみたい衝動に駆られる。だが、ここでそうするのは、さすがにはばかられる。
 お盆休みに久しぶりに再会したときには、弟の流行に媚びないおしゃれな格好と洗練されたヘアスタイルを目にして、わたしは予備校生である身の弟の今後を案じたものだった。上京してからの弟の金遣いの荒さについては、母も嘆いていた。
「お時間があれば、こちらでお飲み物でも――」
 美容室のスタッフに声を掛けられ、わたしはレジの近くに設けられた小さなラウンジに案内された。ガラス張りの店内から見える外の光景は、もう夜のものだ。外に出るのが怖いような気もする。テーブルを挟んで斜め向かいに座った女性が、ラストの客らしい。目と目が合う。不思議そうな表情をされた。どういう意味の表情なのか気になったが、無視する。
 変身直後の興奮を冷ますために、出された紅茶を時間を掛けて飲む。鏡に映る自分を目にしていても、どこかまだ夢を見ているようなもどかしさがあった。問題は外に出てからだ。周りから、どう見られるのだろうか。
 ラストの女性がコーヒーを二口飲んだだけで、レジへと向かう。わたしがラストになってしまった。店内の時計が八時になろうとしている。わたしはようやく席を立つ気になった。
 支払いを済まし、預けていたジャケットとショルダーバッグを受け取る。どれも弟の部屋にあったものだ。
「外へ出たら、完璧に男の子と間違えられますよ」
 ドアまで送って来た美容師が言う。
「悔いはありません」
 自分でも驚くほど明るい声が出た。声の調子から、自分がはしゃいでいるのを感じる。
「名古屋にお帰りになったとき、彼氏、びっくりするんじゃないですか?」
 わたしの満足を感じ取ったのだろう、美容師の声もはしゃいで聞こえる。
「彼氏ですか? 実は彼女だったりして」
 はしゃぎすぎの自分にあきれる。
「じゃあ、今度、その彼女と上京なさったさいには、ぜひご一緒にご来店ください。お待ちしております」
 美容師とわたしは、同時に声を出して笑った。

 

 外は意外に寒かった。東中野にある弟の部屋から出たときには、このシャツとジャケットでよかったが、今は風も強く、マフラーが欲しい。髪を切ったために首から上が特に寒い。
 歩いている自分の動きは、いかにもぎこちない。化粧を落とし、男物の衣服を身に着けて外出したものの、髪を切る前はまだ自分は女に見えるという確信があった。いざ髪を短くして通りを歩いていると、男性として振る舞おうにもその心構えが出来ていないのを感じる。
 おどおどした態度に見えるだろう。男とも女とも知れない者が、人通りの多い夜の繁華街をぎこちなく歩くさまは、さぞかし滑稽に違いない。そう考えると緊張し、足が重くなる。
 花屋の前に差し掛かる。店は閉店の間際で、シャッターが下りるところだった。一個だけ外に置かれたままだった鉢を店内に入れようとする女性の店員とまともに顔を合わせた。じろじろ見られることもなく、わたしはほっとした。
 ごく普通の少年か若い男性に見えると思ってよさそうだ。心配することはない――。わたしは心の中で自分に言い聞かせる。
 シャッターの下りた花屋の軒先で立ち止まり、目線を上げる。美容室を探してこのあたりを行ったり来たりしていたときには、まだほんのり明るかった空が真っ暗になり、表参道の街はさまざまな人工の明かりできらめいている。
 わたしは花屋の前で人を待っているように装いながら、通りを歩く十代くらいに見える少年から二十歳前後の男性の歩き方や表情を観察した。真似る気になってよく見ていると、明らかに女性とは違っている。
 まず、靴の違いが動作にもろに出ているのに気づく。今、わたしは弟のスニーカーを履いている。昨日、初めて履いてみて、サイズがピッタリなのに驚いた。歩くのには、このほうがずっと楽だ。女性が履くヒールの高い靴がずいぶん不自然な形のもので、かなり無理な動きを強いられているとあらためて思う。
 通りを歩いている男性の動きに注目すると、人によりさまざまな癖があっておもしろい。そんなことを考えているうちに、一人の少年に目を引かれた。制服らしい濃紺のブレザーと明るめのグレーのパンツを身に着けた二人連れの一人だ。高校生だろう。その少年の歩き方に個性を感じた。
 少年は猫背気味に肩を少し揺らしながら歩いて行く。大股に足を踏み出し、退いたもう一方の足をこころもち引きずり、ノッシノッシとリズミカルに進んでいく。足が不自由な感じではない。アニメに出てくる巨人を連想させる歩行だ。
 不自然と言えなくもないが、これまでにも同様な歩き方をする若い男性や少年を何人も見たことがある。そのたびに、どこか格好をつけたようなわざとらしさを感じて不快感を覚えたものだった。近づいて来る少年にはそうした違和感がない。
 その少年に引かれた理由がもう一つある。死んだ光太に似ている。子どもっぽさを残した下ぶくれの顔がかわいい。わたしは、目の前を通り過ぎて行った少年の歩き方を真似てみたくなった。
 自分がその歩き方で進むさまを頭の中で何度か描き、イメージをどうにか実行に移せると感じられたところで、花屋の軒先を離れた。ゆっくりと足を踏み出してみる。
 かつて浮き輪なしで泳ぎ始めたときや、レールに添えていた手を初めて離してスケートリンクの氷の上を滑りだした瞬間と似た、胸のときめきと不安がよみがえる。違和感が、新しい習慣や身に付けたばかりのスキルへと変わる境目のきわどさとでも言おうか。足と肩の動きに気を取られて、思うように前に進めない。全身の皮膚が汗ばむ。
 いったん人の流れに加わると、周りの誰もが早足に感じられる。ほかの人たちの歩行の邪魔にならないように気を付けながら、あの少年の歩き方を真似るのに必死になる。道に迷った。でも、構わない。

 

 今夜も岸川詩乃の部屋に泊めてもらうことになっているが、夕食を一緒に食べる約束はしていない。理系の学科に在籍している詩乃は、勉強ばかりしている。朝から晩まで研究室にいる日も珍しくないとか言っていた。明日が期限のレポートがあるとか聞いた気もする。文学科のわたしとは大違いだ。これ以上、詩乃の邪魔をしたくない。明日は、ホテルに移ろうと思う。
 とにかく、きょうはこれから別に予定はない。行き先を決めず、歩いてみよう。これだけ人がいるんだ。暗くて狭い道にさえ入らなければ、安全だろう。それにしても、お腹が空いてきた。こういう場合、男の人だったら、ファーストフードの店ではなく、定食屋や牛丼屋やラーメン屋みたいな店で食事をするのだろうか。その種の店に一人で入るだけの心の準備はまだできていない。何でもいいから、お腹に入れたい。そして歩いてみたい。
 慣れない歩き方をしているためか、つい目が下に行き、前を行く人の足を追うような形になってしまう。何度か人とぶつかりそうになる。やっぱり変に見えるのだろうか。目を上げて周りを見たが、こっちに注目している人などいない。
 自分がこんなに変わったのに、誰も気に留めないのが不思議だ。まるで透明人間になったような気分がする。そう言えば、高校二年生だった冬休みに、初めて本格的なお化粧をして外出したときも、これと似たような気分だった記憶がある。変わったのに、誰もこちらを見てくれない。
 そうかあ、お化粧っていうのは「女に生まれついた人間」が「普通未満」から「普通の女」に化けることなんだ。ようやく「普通」になったから、じろじろ見られないんだ――。
 確か、そんなふうに大発見をしたつもりになり、一人で納得したことが思い出される。実際には、「化けた」女性たちが密かに同性の「化け振り」に視線を投げているのを知るまでには、それほど長い時間は要しなかったが。

 

 美容室に入る前までは、街の雑踏を歩くと、始終同性の目が気になった。「普通」へと化ける術(すべ)を身に付けた女性たちは、何げない振りを装いながら、常に周りの同性の容姿、格好、身に着けているもの、化粧の仕方を観察する。その目は本質的に自分に偏っていて意地悪く残酷だ。
 一方で、男性に対しては違ったまなざしを向ける。しょせん異性に対しての視線だから、辛らつな見方をすることはない。確かに目は、快不快の分け隔てはするが、女性同士の場合のように目と目が密かに戦いを演じることはない。
 女対女の視線のぶつかり合いから逃れたことは、解放だと思った。すがすがしい。男同士って、何てさっぱりしているのだろう。わたしはこの発見を喜ぶ。周りの男性たちがみんな自分の仲間のような気がする。そんな幸福感に浸っていると、その喜びをぶち壊しにするような不穏な気配が目の前に迫ってくるのを感じた。
 正面から十七、八歳くらいに見える三人連れの少年たちがやって来る。柄の悪そうな雰囲気を漂わせている。わたしは緊張した。こういう場合には、下を向いたほうがいいのだろうか。真正面を向いたまま、相手を空気のように無視して歩き続ければいいのか。
 正面からぶつかるのを避けるために、わたしは無意識のうちに徐々に車道側に身を寄せながら進んでいた。それにもかかわらず、左端にいた背の低い少年と目が合ってしまった。その少年はほかの二人と話していたのを急に止め、こっちをにらんでくる。
 危険を感じたが、戸惑いのほうが先に立って視線をそらすことができず、わたしは相手の顔をぼう然と見つめていた。相手の目は鋭さを増し、挑むような表情になった。その体がこちらに寄って来る。予期しなかった目の前の不穏な光景が、テレビドラマの一場面のように思えた。
 わたしはようやく状況を理解して目をそらし、素早く斜めに身をかわした。歩道と車道を隔てるガードレールに手をつく格好になり、かろうじてその少年の体に触れずに済んだ。すれ違いざま、少年たちが立ち止まるのが視界の端に見えた。
「なんだよ、おまえ。おれに用でもあんのか? ガンつけやがって――」
 そんな声が聞こえる。わたしは聞こえない振りをして、ガードレールから手を離す。屈んだ体勢を立て直して、そのまま歩き出す。
「待てよ」
「行こ、行こ。ほっとけ」
 背後の声に聞き耳を立てながらも、わたしは進む。少年たちに取り囲まれたり、路地にでも連れ込まれそうになった場合には、悲鳴を上げるつもりでいた。もちろん、その時には女の声で叫んで助けを求める。女に戻るしかない。情けないが、そうする以外に選択肢はない。迷うことはない。危険を回避できるのなら、女に戻ればいいのだ。
 幸い、少年たちは追って来なかった。
 人込みや電車の中で、男性のいやらしそうな粘っこい視線を感じたことは、これまで数知れずあった。だが、見ず知らずの男性から挑戦的な恐ろしい目付きでにらまれたことは、これが初めてだった。

 

 いつの間にか、普段の歩き方に戻っているのに気付いた。
『外へ出たら、完璧に男の子と間違えられますよ』
『悔いはありません』
 美容室を出る直前に交わした会話の意味を考える。あの時のはしゃいだ気分はもうない。花屋の前で見かけた、弟に似た少年の歩き方を思い出す。わたしは負けない。あの歩き方に戻ろう。
 首をやや前に倒し猫背気味にする。大股に足を踏み出し、もう片方の足を引きずるようにしてノッシノッシ。そうそう、この要領――。ぎこちないとリズミカルの中間くらいの感じでノッシノッシ。すると、こころもち肩が揺らぐ。
 もう大丈夫だ。お腹がすいた。二軒先に、ガラス張りの外装の牛丼屋が見える。牛丼屋に入るのは初めてだ。背に腹はかえられない。まずは、腹ごしらえといくか。ノッシノッシ。だいだい色っぽい光を放つ、ガラス張りの店に向かって進む。






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