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第10話 隔たり

第10話 隔たり

 サラダが来た。松長は真っ先にオリーブをフォークで刺して口に運んだ。最後に食べようか、それとも結局は残そうかと、わたしが考えていたものだ。松長はオリーブをかみ終えてから言った。
「おいしいオリーブを食べさせてくれる店は少ないんだ。ここのは合格です」
「わたしのも召し上がりますか」
「オリーブはお好きじゃありませんか? 確かに日本では、割とましな地中海料理の店でも、オリーブだけはろくなものを出しませんから――。この店はこじんまりしていますが、ぼくは以前から気に入っているんです。試してごらんなさい」
 松長と会話していると、ますます相手の年齢が分からなくなってくる。昨日あの街でわたしに声を掛けてきてコーヒーショップに誘い、自分は学生だなんて嘘をついた一方で、わたしが男の格好をしていることを見破った男――。
 教えてもらった携帯電話の番号に、わたしは昨夜のうちに電話を掛けてしまった。もちろん、名古屋に帰ろうなどという気持ちは、一時的な思いつきにすぎなかった。
 本当かどうかは分からないが、小学校と中学校での教育をパリの日本人学校で受けたという男。こうやって明るい所で向かい合っていると、容姿は大学三、四年生に見える。話していると三十歳くらいにも感じられる。一緒にいて心が休まるのは、なぜだろう。
 声だろうか? 最初に声を掛けられたとき、その声の響きに引かれたのは確かだ。亡くなった弟を演じていたあの時のわたしは、弟としてこの男性に興味を持ったのだろうか、それとも女のわたしとして引かれたのだろうか。
 テーブル越しに、松長が不思議そうな顔をしている。そうだ、オリーブの話をしていたのだった。
「やっぱり遠慮しておきます。オリーブは苦手なんです」
「では、遠慮なく――」
 フォークを持った松長の手が伸びてくる。わたしの皿のオリーブをフォークが突き刺す。濡れたオリーブが尖った金属に貫かれた瞬間、どきりとする。性的なイメージが脳裏をよぎる。
 ラザーニャが運ばれてきた。確かにおいしい。
 もっぱら松長が話し、わたしは相づちを打つ。松長の声が旋律のように耳を撫でる。ワインのせいか、心地よい酔いが全身を包む。話の内容など、どうでもよくなってくる。拍子をとるように、わたしはうなずき、ときおり首を傾げる。
 男と、男を装ったわたし。男と、男の子。夜が近づくにつれて、男や男の子たちが集まる街――。
「……そう思わない?」松長が言って、返事を待っている。
 何を尋ねられたのか分からない。わたしは、あいまいに首をひねる。松長はほほ笑み、話を続ける。

 

 きょうは、どうなるんだろう――。これから連れて行ってもらうあの街のことで、わたしの頭の中はいっぱいだ。
 きのう、松長に声を掛けられるまで何度も往復した、南北に走る「仲通り」を思い出す。公道で昼間から堂々と、男と男が意味ありげな視線を交わしている街。生前の弟が歩いていたに違いない、通りと幾筋もの路地。仲通りと交差するやや幅の広い道を進もうとして見つけた、池のある小さな公園。
 あの街は夜にはどんな顔を見せるのだろう。どんなドラマやアクシデントが起きているのか。昼間には単なるプラスチックの板にしか見えなかった数々の店の看板は、夜にはどんな光を放っているのだろう。男たちの視線は、太陽が空にあるうちとは違ったものへと変化するのだろうか。
 あの視線の中を、もう一度泳いでみたい。このワルと一緒なら安心だ。利用してやろう。

 

「……何か考え事でも?」
「ごめんなさい。わたしって、ぼんやりして見える質(たち)なんです」
「そうかなあ。きのう、一緒にコーヒーを飲んでいたときには、ずいぶんつっぱっていたけど――」
 わたしたちは同時に笑った。
「くどいかもしれませんが、わたし、本当に男に見えますか」
「そんなこと心配していたんですか? 見えます。嘘でもお世辞でもありません。ぼくは一度自分を振った人には、お世辞は言いません」
 そう言って、松長はグラスのワインを飲み干した。
「振っただなんて――」
「それは事実です。とにかく、あなたが女性だなんて、その世界の人にも普通の人にも絶対に分かりませんよ。この『ワル』が保証します。特に、ぼくは中性的な若い男性や女性に人一倍関心がありますから、自信はあるんです。そのぼくが、最初のうちは見破れなかったんですから」
「嘘ばっかり」
「本当です。そんなにぼくが嘘つきに見えますか」
「はい。巧妙な嘘をつける人に見えます。ワルですもの」
「はっきり言ってもらって、ありがとう」
 わたしたちは笑みを交わした。
「ワルが一緒だと心強いです」
「ワル、ワルって、あまり言わないでくださいよ。事実だから余計、胸にぐさりと来るんです」
 笑顔を崩さす松長が言った。

 

     *

 

 この街に再び来た。夜には、がらりと印象を変えている。ビルの壁に縦に連なった、バーやスナックやクラブの看板の光が放つさまざまな色。今夜は空気が湿っているせいか、狭い路地から吹き抜けてくる風がかび臭い。
 人の流れを観察すると、やはり女性の姿は極端に少ない。ただ、昼間には見掛けなかった二、三人連れ、または五、六人の明らかに女性らしき集団を時々目にする。ごく普通の主婦やOLといった雰囲気の人たちだ。いやに、はしゃいでいる。松長の話では、この街には、主に女性客を対象にショーを見せる店もあるらしい。そうした店に行く途中なのか。
 一見しただけでは、男女の区別が容易につかない人もいる。そういう人は、たいてい一人で歩いている。どこか謎めいていて、後をつけてみたい衝動を覚える。
「仲通り」の歩道が狭いため、松長と肩を並べたり前後になりながら歩く。道行く男たちの中には視線を送って来る者もいる。わたしは、どう見られているのだろう。レストランで松長が言ったように、本当に男に見えるのだろうか。
 この街が、男に興味を持つ男たちの視線であふれていることは確かだ。今回の上京で歩いた、夜のほかの街とは、雰囲気が違う。ほかの街は、無関心な目であふれていた。ここは違う。

 松長は、通行人とあいさつや目礼や短い言葉を頻繁に交わす。その相手は、二つに大別できる。わたしの目から見てもかわいい感じのお洒落な男の子たちと、松長と年の近そうな人たちだ。
「ほら、またあいつがいる」
 通りに面した、ひときわ明るい照明を放つガラス張りの店に、松長が視線を投げる。一見雑貨屋、奥に入るとポルノショップ。きのうの昼間に足を踏み入れかけて、慌てて出た店だ。
 店の真ん前の電柱の横に、あの男がいる。
 きのうの夕方に、わたしの後をつけて来て、いきなり『お小遣いあげるから、一緒に来ないか?』と言った男だ。
 松長に誘われて入ったコーヒーショップで、自分が女であることを松長に見破られてショックを受け、当惑と混乱のうちに外へ飛び出した直後のことだった。わたしを追って来た松長と男とは取っ組み合いの喧嘩になりかけたが、大事には至らず、わたしは松長に救われた形になった。
「あの人とは知り合いなんですか」
 きのうの感じでは、松長とあの男とは初対面ではない感じがしたので、わたしは尋ねた。
「単なる顔見知りだよ。でも、君があんな目に遭っていたから、初めて口を利いたんだ。誰もこんな場所で面倒は起したくない。喧嘩にでもなれば、近くに交番があるから、警察官が飛んで来ることもある。それにまともなやつなら、体面を気にするよ。すぐに仲直りしたさ」
「そんなもの?」
「そう、そんなもの」
 この街に入って、松長の話し方がくだけてきたのに気付く。昨日、声を掛けられたときには『君』と呼ばれていた。女だとばれてからは『あなた』と呼ばれ敬語に変わった。さっき食事をしていた間も『あなた』と呼ばれ、お互いに丁寧な言葉遣いをし合っていた。
 それが今では、友達同士か年の近い恋人同士のような話し方になりかけている。自分が、男または男の子として扱われているような気がしてうれしい。
「実際、この辺りに何年も来ていれば、顔だけ知っているやつが増える。と言うか、数日間でもいいから、通ってみると分かるけど、来れば必ず顔を合わせるやつらがいる」
「あの人たち、何をしているの?」
 わたしは、あの奇妙な店に目を向けて言った。
 あの店が、通りの中心点になっているようだ。店を取り巻くように、散らばって男たちがたたずんでいる。昼間の三倍は人がいるだろうか。車道にも人が立ったり、若い子はしゃがみこんでいるため、車が徐行していく。
「相手を探しているのに決まっているじゃない」
「相手――」
「そう、一夜、いやもっと短い時間を共にする相手。場合によっては、それがもっと長くなる可能性もないわけではない。ただ、短いのが普通。終わって、バイバイ。また会っても知らんぷりが、ほとんど。一度関係があったあと、せいぜい知り合いか友達同士になるなら、いいほうかな」
「ふーん。そうなんだ」
 ついていけない。悲しすぎる。そんな関係なんて、人間同士の関係と言えるのだろうか。わたしは自分と、松長も含めた周りにいる人たちとの間に隔たりを感じた。男女の違いなのか。男と女とでは、求めるものが違うのだろうか。これは、わたしだけの個人的な物の見方なのか――。男女の差を超えて同じ人間なのに、異質なものを感じる。
「『行きずり』ってことかな」
 わたしは最近読んだ小説の中に出て来た言葉を口にした。
「行きずり? 懐かしい言葉だなあ。そうも言えるね」
 わたしたちは、その店の前で自然と足を止めた。車道と歩道の境の縁石に足を乗せ、通りに沿って並ぶ格好になった。目の前の車道をタクシーが徐行していく。
 わたしはあらためて、周りの男たちに目をやった。
 共通点はただ男というだけ。年齢はよく分からないが統一感がなく、ばらばらに見える。正面にある店の内部の照明は明るい。店内の狭い通路に立つ男たちが、DVDやビデオや雑誌を物色している。
 そのさまは、満員電車の中で沈黙し、ひしめき合っている乗客たちにも似ている。DVDのケースの写真に目をやりながら、手と手が触れ合っている二人を見つけた。二人連れには見えない。どこかが不自然だ――。店内で目線を交し合っているらしい者たちも目につく。
 車道を挟んだ電柱の脇にいる、きのうわたしに声を掛けてきた男が、周囲を見回している。男がわたしたちに気付いた。わたしは緊張する。松長が手を上げて男に会釈する。男がうなずく。
「平和主義で行かなきゃ」
 松長がつぶやき、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。メールが届いたらしい。わたしは松長に尋ねようと思っていたことを思い出し、携帯電話を戻したタイミングを見はからって口を開いた。
「男の人同士用のケータイの出会い系サイトとか掲示板とかもあるとか」
「もちろんあるさ」
「松長さんも利用するの?」
「たまに覗く程度かな。でも、ぼくは直接こういう場所で出会うほうが好きだ」
「どうして?」
「掘り出し物が見つかる可能性が高いから」
「へーえ、そんなもの」
「それにケータイでの出会いは、時間が掛かって面倒くさい」
「ふーん」
「昼間の早い時間で暇なときに、この辺に来る。日が沈むころには帰る。そんな感じかな」
「夜遊びをしない子を狙うワル」
「また胸にぐさりと来た」と言って、松長は縁石を蹴るような仕草をした。「最近では、こういう場所には来なくて、ケータイやパソコンのサイトだけ利用している人たちが増えているみたいだね。ぼくは、そういうやり方は苦手だけど――」
 それを聞いて、わたしは弟の死について考えないわけにはいかなかった。弟は、ケータイを通じて初めて知り合った男性の運転する車の助手席で死んだ。猛スピードでガードレールに追突し、即死したという。わたしは話題を変えることにした。努めて明るい声を出して尋ねる。
「『ディスタンス』ってお店知ってる?」
 今夜、松長とこの街に来た目的は、その店に入ってみることだ。
「知ってるけど、なぜ?」
 弟の部屋には、『ディスタンス』という名とこの地域の局番で始まる電話番号の入った、しゃれたデザインのブックマッチが五、六個あった。おそらく盗んできたものだろう、店のネーム入りのトールグラスも二個あった。
「連れてってくれる?」
「もちろん。こんな所で立っているんじゃなくて、どこかの店に入るつもりで来たんだから――」
 食事中に、男の格好をしている理由を聞かれたが、『ここでは話にくいから、あとでお答えします』と言って返事を避けた。昨夜、松長に電話したときにも同じ質問をされた。電話でなら話してもいいかと迷ったが、『明日話します』と約束しておいたのだった。
 今なら、弟のことを話せると思う。一癖ありそうな人だから、ひょっとして生前の光太を知っていて、とぼけているのかもしれない。弟の死、そして車を運転していた人の死は、この世界の人たちの間ですぐに広まったらしい。
 弟の携帯電話に登録されている番号の人に電話したさいに、そう言われた。微妙な話題だから、松長はこっちから話すのを待っているとも考えられる。
「ヒカルって、若い子知らない?」
「どのヒカルだろう。この辺に来る子によくある名前だね。あだ名が多いと思うけど。ヒカルねえ――。ヒカルなら十一人知ってるよ」
「本当?」
「うそ」
 ふざけている。わたしは、松長に光太のことを打ち明けるのはやめようと思い直した。
「名前は知らないんだけど――」と言って、松長はわたしの目を覗きこんだ。「この辺で見掛けた若い子に君がよく似ているという気は、最初からしていた」
「知らないんだったら、いいんです。大したことじゃないから」
 興味をそそる話だったが、弟のあだ名のことで冗談を言われたわたしは半分自棄(やけ)になって言った。
「歩こう」
 松長は急に真剣な顔付きになって歩き出した。わたしは慌てて後を追った。

 

 男たちが立っているあの店の前から離れ、人の通りがまばらになったところで松長は言った。
「あの子のことは知っていた。と言うか、顔は何度も見たことがある。ただ、名前は知らなかったし、口を利いたこともない。好みだったけど――」
 松長が言いよどんでいる訳は分かった。
「遊んでいる子だった。だから、興味はなかった。そういうことでしょ?」
 松長はゆっくりうなずいた。
「きのう、あの店で一緒にコーヒーを飲みながら、君を見ていてあの子のことを思い出したとき、実はぼく自身も混乱してしまった」
 わたしたちは仲通りから小さな公園へと続く道へと折れた。折れた瞬間、人けが途絶える。仲通りと打って変わった寂しい道だ。わたしたちは目を合わせず、肩を並べながら歩道の真ん中を進んだ。
「君とよく似た男の子が亡くなったという話は聞いていた。それだけじゃない。運転していたやつとは口を利く仲だった。だから、きのう君が女性だと確信したとき、ぼくは考えた。目の前にいる人は誰なんだろう? それを知りたいと思った。亡くなった少年の姉か妹ではないかという気もした。でも、それでは話が出来すぎている。まるで小説みたいじゃないか――」
「松長さん?」
「何?」
「ごめんなさい。わたし、嘘をついていました――」
 わたしは初めて自分の氏名と弟の名を松長に教え、自分が光太の姉で、警察が預かっていた弟の物を受け取りに上京し、住んでいた部屋の引っ越しの手配をしたことを告げた。
「事情は分かったけど――」と言って、松長は言葉に詰まった。
「でも、どうして弟と同じ格好をして、こんな所にいるかと言うんでしょ?」
「そう。どうして?」
 わたしは考えながら説明を試みた。今自分の取っている行動を言葉にして他人に伝えるのは、これが初めてだ。
 考えていることを、そのまま口にしてみた。
 弟と同じ髪型にし、弟の衣服を身に着けてこの街に来た理由は、正直言って自分でもよくは分からない――。
 自分が知り得なかった弟の側面と、どんな生き方をしていたのかを知りたいからかもしれない――。
 一方で、なぜ自分がこれほどまでに弟に同化しようとしているかを知るために、東京での滞在を延ばしこの街に来たとも言えるような気がする――。
 亡くなった弟を知るためなのか、自分を知るためなのか――。
 わたしが言いよどむたびに、松長は「うん、それで?」と、うなずいて話を促してくれる。
 高校時代の同級生で東京の大学に通っている親友が、わたしのことを気遣い、精神状態を危ぶんでいるようだ――。
 弟の死後、母とわたしは心療内科で処方された「気分を落ち着ける」という薬を飲んでいる――。
 心の奥では、自分の精神が病んでいるような気もしない訳ではない――。
 そんなことまで口にしていた。
「君は、家族の一員、それも自分に最も近い人を失ったんだ。それで負った心の傷が深くて大きいのは当然だと思う」と傍らにいる松長は静かな口調で言い、話題を変えるかのように公園のほうを向いた。「見てごらん」
 松長が歩を緩めた。わたしも公園内に目をやった。距離を置いて、ぽつぽつとたたずんでいる男たちがいる。園内の街灯の明かりだけでは、はっきりとは見えないが、十代から中年くらいまでの男たちがいる。
「全員じゃないけど、ここには体を売っている者たちもいる。夜は近付いちゃだめだ」
「――ばらばら」
 わたしはつぶやいた。
「えっ?」
 松長がわたしのほうを向いた。
「みんな、ばらばら。同じように見えても、同じ場所に集まっても、ネットの掲示板やサイトでつながったとしても、同じ言葉で呼ばれていても、みんなばらばら。ひとりっきり――」
 歩道の街路灯の下を通り過ぎた辺りで、松長が一歩前に進み出て、正面からわたしを引き寄せた。わたしは松長の胸に上体だけを預けた格好になり、よろけた。松長が足を踏み出して、わたしの体を受け止める。
「『ディスタンス』に行くんじゃなかったっけ? あそこへ行けば、君の仲間に会えるじゃないか。さあ、元気を出して。ね、光太君」
 松長の低く優しい声が耳元で響く。昨日、出会ったとき、わたしはこの声に引かれた。
 この人は弟の名で呼んでくれた。わたしの、いや、ぼくの夢に付き合ってくれる人がここにいる。一瞬、気が遠くなりそうになり、足元がふらついた。うつむいた目に映る、歩道に伸びた二つの影が重なっていく。