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第9話 出発点

第9話 出発点

 外は暗くなりかけている。行き先を考えることなく、通りを進む。男たちがたたずむ例の店のほうに向かっているのに気付く。男たちの数は増えている。十代半ばに見える者たちから中年までいるが、どこか年齢不詳な印象を与える人が多い。
 後ろから靴音がするので振り向くと、四十歳前後とも五十歳前後とも見える男と目が合った。大柄な男だ。その口元がほころびた。男を無視して向き直り、そのまま進む。男は「ねえ、ねえ、きみ」と言いながら追いつき、わたしと肩を並べた。
 恐怖心を覚え、声を上げそうになる。その男とわたしの背後に人が近づく気配がしたので、首だけ回して後ろを見た。さっきまでコーヒーショップで向かい合っていた松長と名乗る男が、斜め後ろにいる。ほっとする。コーヒーショップでの興奮がまだ冷めやらず、足が中に浮いた感じが残っている。
「お小遣いあげるから、一緒に来ないか?」
 男はスーツの上着の内ポケットに手を突っ込んでいる。
「一万でどうだ? 前金で払うから」
 札入れを取り出している。
「馬鹿にするなよ」
 立ち止まり、低めの声で言い返す。
「何だい。もっと欲しいのか? いくらだ、言ってみろ」
 男は声高になった。辺りにまばらにいる男たちの視線が、こちらに集まる。松長も立ち止まり、距離を置いて見ている。
「だから、馬鹿にするなって言ってるんじゃん」
 傍らで札入れを手にしている横柄そうな男の顔を見ているうちに、本気で腹を立ててしまった。男にはそれ以上取り合わずに歩き出す。
「何だよ。人を馬鹿呼ばわりして、ただで済まそうっていうのか」
 背後で男がすごんでいる。支離滅裂な言い掛かりをつけている。
 反射的に駆け出した。男はたちまち背後に迫り、右肩をつかんできた。突然の力にのけ反りそうになる。
 背中のすぐ後ろ辺りで、どすっという鈍い音がして、男の手が肩から離れた。振り向くと、松長と男が胸ぐらをつかみ合っている。男のほうが松長より五センチほど背が高い。さっきの音は、松長が男を背後から蹴るか殴った音かもしれない。
 二人は、それ以上は争わずに二言三言交わした。頭に血が上り、キーンという激しい耳鳴りを覚えた耳には、何を言っているのかは聞き取れない。
 男が先導して二人は車道を横切り、向かい側の歩道に移った。シャッターを下ろした店の軒下で何やら話し始めている。様子を見ていると、まんざら知らない間柄でもなさそうだ。このまま立ち去ろうとも考えたが、男を引き離してくれた松長のことが気になる。
 薄暗い中で二人は互いにうなずき合っている。いきなり中年の男のほうが声を立てて笑った。最後に二人は軽く手を上げてあいさつし合い、男はちらりとこっちを見たあと新宿通り方面へと去った。

 

 松長が服装を整えながら車道を渡り、近付いて来た。
「さきほどは、本当に失礼しました。反省しています」と松長は頭を下げた。口調がすっかり変わって敬語になっている。女として扱われていることが身に染みる。「お詫びの言葉を言いたくて、あなたを追って店を出ると、あの人があなたの後を付けていたので――」
「こちらこそ、松長さんにお礼とお詫びをしなければなりません。助けていただいてありがとうございました。それと、さきほどは、あんな唐突な態度をとってしまい失礼しました」
 頭を下げる。
 落ち着いて考えれば、行き違いがあったにすぎない。
 男の格好をした女子学生が、松長という自称男子学生に男子高校生と間違えられてコーヒーショップに誘われた。女子学生は亡くなった弟をイメージして自称男子学生と会話し、自称男子学生は男子高校生をナンパする気でいた。
 話をしているうちに、自称男子学生は男子高校生が若い女だと気付いた。女子学生は自分が女だと相手が見破った後になって、ようやく自分が女だとさとられているのを知った――。それを知ったさいに、女子学生であるわたしは精神的に動揺し、混乱に陥った。
 弟と同じような若い男でも、若い男を装い演じている若い女でも、一時的な性的関係、または恋愛の対象として考えることができる男――。そんな男が目の前にいるという状況が、わたしにはにわかに理解できなかった。
 整理すれば、そういうことにすぎない。

 

『ぼくの場合には、小さいころから男女両方に興味があったなあ――』
『今でも基本的には自分の好きなタイプなら、男性でも女性でもどっちでも大丈夫。大丈夫ってのは、愛せるという意味。男、女って、あんまり区別して考えない――』
『で、君はどんな人が好き?――』
 そうした松長の言葉は、誘った相手が男を装っている女だとほぼ確信したうえでの探りと確認のサインだったに違いない。わたしは、そのサインに気付かなかった。
 コーヒーを飲み干したカップの横にあった水の入ったグラスを手に取ろうとしたとき、松長が言った。
『細い腕だね』
 その言葉で、ようやく自分が女だと見破られているのを直感した。何て鈍くて馬鹿だったのだろう――。恥ずかしさと戸惑いと混乱のうちに、席を立ち、コーヒーショップからいきなり飛び出していた。さぞかし松長も驚いたことだろう。だから、気になって後を追ってきたのかもしれない。そして結果的に松長に救われた。

 

「これくらいの時間になると、一人でこの辺を歩くのは危険です」
 靖国通り方面へと並んで進みながら、松長が言う。
「わたし、疲れました。帰ります」
 正直な気持ちを口にした。
「よろしければ、ぼくのケータイの番号を登録していただけませんか。あなたの番号は聞きません」
 わたしは立ち止まって歩道の脇に寄り、携帯電話をパンツの横ポケットから取り出した。
「木の松と長い短いの長の『松長』です」と言って、番号を口にする。「送って行きましょうか?」
「途中までお願いします」
「駅はJRですか?」
「わたし、タクシーのほうが――」
 一刻も早くこの街から去りたい。ホテルまで歩くのもつらい。
「タクシーですか?」 
「はい」
「そのほうが安全かもしれませんね。で、行き先は?」
「東京駅――」
 思いがけない言葉が出て来て、自分でも驚く。東京駅という言葉を口にしたとたん、このままホテルを引き払って名古屋に帰ろうという考えが頭に浮かんだ。
 目が合った。松長は、不思議そうな顔付きをしている。
「本当に?」
「はい」
 行き掛かり上「はい」と返事をしたまでで、心の中ではまだ東京にとどまることは分かっている。
「そうですか。東京駅なら、靖国通りじゃなくて新宿通りでタクシーを拾ったほうがいいです」
 通りを引き返す。松長は考えるような表情となり、何も言わない。新宿通りとの交差点が見えてきた。荷物を置いてある西新宿のホテルと東京駅とは、方向が逆だと気付く。どうでもいい。タクシーの座席に背をもたせて腰を沈めたい。運転手を無視して、思い切り声を上げて泣いてみたい気もする。
 仲通りへの入り口を過ぎ、新宿通りの歩道に出た。午後三時半より少し前に、ここで仲通りへと足を踏み出した時を思い出す。あのわくわくした気持ちはもうない。自分が男に見えるという自信もどこかに行ってしまった。悔しい。弟とまったく同じ格好と髪型をしているのに――。髪をばっさりと切ってから、ずっと男として通してきたのに。
 わたしが女だと見破った松長と並んでいるせいかもしれない。だから、弱気になっているだけだ。単に歩き疲れて、お腹が空いているだけだ――。
 牛丼の大盛りが食べたいと、ふと思う。そうすれば元気が出るような気がする。このところ、牛丼にはまっている。

 

 大通りの喧騒が耳に入る。思えば、ここが出発点だった。
 この出発点に立って新宿通りから仲通りへと折れて、一歩足を踏み出した瞬間が、かつて弟にもあったにちがいない。携帯電話を取り出し、素早く弟の写真を表示させる。自分と同じ髪型をした光太の澄ました顔が、液晶の光の中で輝いている。
「タクシーを拾うなら、もっとこちら側に進みましょう」
 松長は交差点を避け、東へと足を向けた。ちょうど大通りの信号が赤になり、手前の車線の流れが途絶えた。松長と少し離れた位置で、信号が変わるのをじりじりしながら待つ。
 信号が変わった。松長が車道へと近付く。速度を落としたタクシーが手を上げた松長に寄って来る。タクシーが止まる。
「送っていただいて、ありがとうございました」
「お気をつけて。電話、待っています」
 去ろうとしている街のほうに振り返る。通り沿いの店のどれもが照明を落としている。わたしは街灯の前に立った。店の暗いウィンドウに、グレーのジャケットを着てベージュのパンツをはいた自分の姿が映っている。
 タクシーが軽くクラクションを一つ鳴らした。松長に一礼して、タクシーに乗り込む。
「どちらまで」
 運転手が言った。若い男だ。
「近くに牛丼の店、ないですか?」
「はあ?」
 バックミラーの中で、運転手と視線が合った。
「牛丼の店の前で降ろしてください。あっ、そうだ。店は――」
 この数日間、毎日利用している牛丼店チェーンの名を言った。

 

     *

 

 翌日――。紀伊國屋書店の新宿本店前。
「ラザーニャ、好きですか?」
 顔を合わせるなり、松長が聞いてきた。
 嫌いではないと答えると、伊勢丹の近くにある地中海料理の店に連れて行かれた。
 注文が終わり、最初に運ばれて来たワインのコルクを、松長は慣れた手つきで抜いた。
「わたしたちって、周りからはどう見えると思います?」
 乾杯の後に、わたしは尋ねた。
「さあ? 怪しい二人ってところかな」
「はっきり言ってください。男同士? 男と女?」
「もちろん、男同士」
「そうかなあ。わたし、きのうのことで自信をなくしちゃったんです」
「ぼくが声を掛けたときには、ずいぶんつっぱっていたもんね」
「ごめんなさい。失礼な態度を取って」
「全然。あんなもんですよ。ああいう所で、出会った者同士は」
「そんなものかなあ」
「いいですか――」
 松長が声をひそめて言った。
「えっ? はい」
 わたしもつられて小声で返事をする。
「ぼくの斜め向かいに非常口があります」
 松長は表情を変えずに、わたしの左後方にちらりと目をやった。わたしは松長の目線をたどって振り向こうとした。
「まともに振り返らないように――」松長がささやく。
「その非常口の右にテーブル席があります。端から二番目のテーブルです。椅子の上のカバンでも開ける振りをしてください」
 何げないふうを装って、松長の言う通りにした。十代半ばくらいに見える少年と、三十歳前後の男がテーブルで向かい合っているのが目に入った。
「まさか」
 わたしは驚いた。
「そうじゃないです。考えすぎないでください。二人とも男性同士です」
 松長の勘のいいのには感心する。わたしは自分たちと同じようなカップルだと、とっさに思った。
「ぼくはあの年上の人をよく知っています。男の子のほうも知っています。会えばあいさつし合うほどの仲という意味で」
「あいさつしないんですか?」
「もう、しました」
「えっ?」
「目と目で」
 わたしは吹き出した。
「しかも別々に」
 松長は無表情で付け加えた。
「どうして、別々になんですか?」
「さあ? どうしてでしょう? そこは考えてみてください」
 意味がよく分からない。わたしが考え込んでいると、松長が助けてくれた。
「今の状況は、二人を前に『やあ、お二人さん、元気ですか?』なんて調子で、あいさつできないってことです」
「面白い――。意味深ですね」
「ええ。こういう雰囲気って秘密めいていて、ぼくも好きです。きっとあの二人も、こっちの話をしていますよ」
「何て言って?」
「『あの人たちもそうだよ』『本当ですか? よく分かりますね』『年上のほうとは顔見知りだ。なかなかのワルだよ。気をつけな』『そうなんですか』なんて。たぶん、男の子のほうは、ぼくと知り合いなのを隠すだろうな」
 松長は意味ありげに言った。わたしは自分なりに状況を理解した。きっと松長は、あの少年を以前に誘ったことがあるのだろう。そう思うと、横顔しか見えなかった少年をよく見てみたい気になる。嫉妬に似た感情だ。
「松長さんって、『ワル』なんですか?」
「『ワル』の定義にもよりますね」
「…………」
「そんなに考え込まないでください。ジョークです。笑ってください」
 わたしは無理に笑みを作った。
「わたし、本当に男の子に見えるでしょうか」
「見えます。これはジョークじゃなくて、マジに」
「でも、きのう、あの時にどうしてわたしが女だと分かったんですか」
「最初は分かりませんでした」
 信じられない。松長は気を使っている。わたしが女だと最初から分かっていたに違いない。ホテルに戻ったあと、昨夜はあまり眠ることができなかった。松長との出会いとコーヒーショップでの会話を、ベッドの中で何度も思い返していた――。だまされた振りをしておこう。
「じゃあ、どの辺から?」
「ぼくに気がないと分かった辺りから」
「すごい自信家なんですね」
 わたしは失礼に響かないように笑みを浮かべて言った。
「いや、今のは冗談です。本当は、あなたがつっぱっているのを見ているうちに、どこか不自然なものを感じ始めて、そのうちに――」
「こいつは女だなって分かったとか?」
「ええ。『こいつ』なんて思いませんでしたけど」
「松長さん、一つ聞いてもいいですか?」
「その質問を当ててみましょうか?」
「分かるんですか?」
「分かりますよ。ワルだから」
「じゃあ、質問は口に出しませんから、答えてみてください」
「大学生だというのは嘘。四捨五入して三十歳」
 わたしは吹き出してしまった。二十五から三十四ということになる。こっちの質問を当てるなんて、やはり勘のいい男だ。それとも、同じようなシチュエーションを何度も経験してきたから分かっただけか――。
「ね、やっぱりワルでしょ?」
 ワルでもいい。きのうはこの年齢不詳のワルにだまされて、いろいろ真剣に悩んでしまった。それは悔しい。でも構わない。わたしは、自分にとって都合のいい相手とめぐり会えたようだ。このワルを利用してやろう。
 今夜、あの街の店に連れて行ってもらうのが楽しみでならない。きょうがわたしにとって、出発点になるかもしれない。