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第8話 踏み出す

第8話 踏み出す

 日が落ち始めている。南北に走る通りを何度往復しただろうか。あの店の前にたたずむ男性たちの中に溶け込み、曖昧でありながら、決して無為ではない時間をどれだけ過ごしたのだろう。
 西新宿のホテルにチェックインしたのが午後一時過ぎ。それから、どれを着て行こうかと迷いながら、弟の服をベッドの上に片っ端から並べて、一人でファッションショー。そんなことを一時間以上もした後、ようやく外に出た。
 頭の中に刻み込まれている地図を頼りに、徒歩でこの街に着いたのが三時半より少し前くらいだった。携帯電話で時刻を確認する。今は午後五時十三分。いつも外出するさいに使っている女物の腕時計は、もちろん左手首にはない。
 そう言えば、弟のタグホイヤーはどうしたのだろう。警察から戻ってきた物の中にも、あとは引っ越しだけになった部屋の中にもなかった。あの凄惨(せいさん)な事故で原形をとどめないほどの状態になり、破棄されてしまったのか。

 タグホイヤー――。

 あれなら常に身に着けられる良い形見になったのに。

 

 この街に来て二時間ほどになる。途中で若い男に後をつけられているのに気付き、早足で逃げたりもした。生前の弟の隠れた部分を知ろうとしてここに来たものの、具体的にどのような行動をすればいいのか分からない。そもそも、何があるのか、どうなっているのかが分からないのに、計画や予想が立てられる訳がない。でも、これでいいのだと思う。
 通りを折れて狭い路地に入るのはやめておいた。比較的広い道との交差点があったので、恐る恐る通りを外れてその道を進むと、小さな公園があった。池まである。その公園に入ろうかと迷っていると、五十歳前後に見える男の人が声を掛けてきた。
「きみ、ちょっと時間ない?」
 男に化けて初めての直接的なナンパを経験した。
「おれ、今、ちょっと急いでますんで」
 用意していたせりふを低めの声で言った。この格好をし始めてから他人と話すさいに出す声だ。ぼろが出そうになるので、なるべく口を動かさず、お腹に力を入れて小声で言う。ぼそっとつぶやく感じをイメージしている。声を男に似せるのはすごく難しい。
「ドライブに行かないか?」
 断ったのになおも話し掛けくるので、早足で通りに戻った。こちらのほうが人けが多い。車もよく通る。あの公園は怖い。公衆トイレの付近にいる若い男たちの目付きが怪しかった。夜になれば、さぞかし不気味な雰囲気になるだろう。
 通りを歩いていると、ここに来たときからずっといる男の人が何人かいるのに気付く。ナンパが目的ならよほど暇なのだろうとも思うし、何か訳ありの仕事でもしているのかとも考えられる。
 お腹が空いた。喉も渇いている。通りに面したコーヒーショップに入ろうか、それともいったんこの街を離れようか。ここまで来た道を逆戻りする形で新宿通りに出て、まっすぐJR新宿駅の方向に進めば、一人でも入れそうなファーストフードの店や牛丼屋がありそうだ。
 きのう生まれて初めて牛丼屋で食事をしてみたが、あれはなかなかおいしかった。注文の仕方も、メニューの内容もだいだいつかめた。あそこと同じチェーンの店なら一人でも入る自信がついた。コーヒーショップはパスして、新宿通りへと向かうことにする。
「行ったり来たりで疲れた? 一緒に何か飲まない?」
 コーヒーショップを通り過ぎたところで、背後から声がした。歩を緩め、振り向こうとしてゆっくりと体を回す。雑居ビルらしい建物のガラスのドアに反射して、若い男の姿がぼんやりと浮かび上がった。
 突然のなれなれしい話し方に不快感を覚えた。お腹が空いているので、余計にうざったく感じる。『行ったり来たりで――』とか言っていたけど、いつごろから見られていたのだろう。感じが悪い。さっき使った『おれ、今、ちょっと急いでますんで』の代わりに用意してある断りの文句を口にすることにした。
「待ち合わせしてるんで」
 完全には振り返らない体勢のまま、相手の顔を見ないで言う。
「残念だなあ。少しだけでも駄目? 待ち合わせの時刻は何時?」
 強引な口調だが、よく通るいい声だった。
 既に肩を並べている相手に、ようやく目を向ける。下はジーンズ、上は黄と青と白の混じったチェックのシャツを着ている。上のボタンを外して、薄地で紺のタートルネックのセーターを覗かせている。顔付きは落ち着いていて、二十五、六歳に見える。
 公園沿いの道路で声を掛けてきた中年の男に比べれば、はるかにましな雰囲気を漂わせている。寒そうに見えなくもない格好と、手に何も持っていないところを見ると、近くの駐車場に車を預けているのかもしれない。
 この男とならコーヒーくらいは付き合ってもいい。とにかく椅子に座って喉を潤したい。トイレにも行きたい――。
「じゃあ、少しだけなら」
「ありがとう」
 男は軽く頭を下げた。

 

 男の後についていく形で、通り過ぎたばかりのコーヒーショップに入った。奥のテーブル席に着き、ブレンドを注文してからトイレに立ち、席に戻る。
 腰を据えるとほっとする。長時間、よく歩き回っていたものだと思う。
「この辺にはよく来るの?」
 男が切り出した。隣のテーブルの客たちが気になるのか、小声になっている。
「あんまり」
 初めてだと正直に答えれば、付け込まれる気がする。
「友達と一緒に店に飲みに行ったりはしないの?」
 友達? 店? いきなり何なの? と聞き返してやりたくなる。唐突で不躾(ぶしつけ)な質問だが、こういう場所ではこんなふうに、初対面での会話が進んでいくのだろう。そう思うと腹も立たなくなった。
 よく考えると巧妙な探りの入れ方だ。この辺に一緒に来る友達がいて、店に飲みに行くくらい慣れているか、つまり「遊んでいるか」と尋ねているわけだ。
「この辺の店って意味?」
「そう」
「別に」
 話をはぐらかす。こんな場合には敬語を使うべきなのか、友達同士のような口の利き方でいいのか判断に迷いながら、わざとぶっきらぼうに話す。

 

 男の格好をするようになってから、電車の中やファーストフードの店で、弟やわたしと同じくらいの年齢か、それよりも年下の男の子たちの話し方や話す内容に聞き耳を立てるようになった。服装や仕草にも、ガンをつけていると思われない程度に目をやって観察している。東京の男の子と名古屋の子とでは、やはり言葉と話題がだいぶ違う。
 もちろん一人ひとりの個性はあるが、概してこっちの子のほうがさめていて、他人と距離を置き、冷たい感じがする。それにAと言いたいのにBと言い、それを言われた相手はちゃんとBというメッセージをAとして受け取っている。そんな印象を抱く。名古屋の子だったら、AはAだと言う。偏見かもしれないが、そう思える。

 

 長く喋る自信はない。女だと相手に悟られない声を出すことだけで精一杯だ。声を低く太く出す練習を一人で何度かしてみたが、他人にどう聞こえるかはまったく見当がつかない。
 三日間アパートに泊めてくれた岸川詩乃が、東京で一番仲の良い、そして信頼できる友達だ。まさか、詩乃を相手に男の声の出し方の練習をする訳にはいかない。詩乃には、わたしの精神状態を案じているというか、危ぶんでいるふしがある。それがうざったい。
「男子トイレにも抵抗なく入れるようになったよ。もちろん、個室を使うけど」
 わたしがこう言ったときの、詩乃の顔が忘れられない。
「香織、それはちょっとやりすぎじゃない?」
「だって、リップクリーム以外にお化粧はしていないし、この髪型と格好よ。女子トイレに入れる?」
「最近は、紛らわしい感じの女性がいることは確かだけど、それでもその人たち、女子トイレを利用しているじゃない。香織、あなた……」
 詩乃は続けて何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。『香織、あなたのためを思って言うんだけど、専門医に診てもらったほうがいいんじゃないかな――』わたしには、詩乃がそんな言葉を引っ込めた気がした。
 詩乃は真面目でしっかりとしている。優しく情も厚い。もっと服装とか髪型とかメイクにまで気を使えばいいのにと思う。同じ年の女性なのに、男、兄、父親に近いイメージを、ほんの少しだけど抱く。詩乃のそばに寄ると、肩にほおを寄せたくなる衝動を覚えることがある。高校生時代には、短期間だったが、恋愛感情に近いものを覚えたことすらあった。

 目の前の男がいろいろ喋っている。こっちは短く適当に返事をするだけだ。今一つ、何かぴんと来ない男だ。
 男は松長(まつなが)と名乗り、学生だと言って大学名を口にし、吉祥寺に住んでいると自己紹介した。こっちはでたらめの名字を言い、男に聞かれるままに、高田馬場に住んでいる大学一年生で、この辺は初めてではないが、よく知らないと答えた。
「――高校生かと思った」
 お世辞なのだろうが、そう言われるとうれしい。高校生という言葉を聞いて、ふいに頭に浮かんだのは光太だった。自分のイメージの中での弟は、東京の予備校生というより、名古屋の高校生だった。
「しょっちゅう、こんなことをしてるの?」
「こんなことって?」
 男は一瞬見せた、むっとした表情を素早く隠した。
「いきなり、通りで声を掛けてきてさあ」
 こういうときに弟が口にしそうな話し方を想像して、それを真似る。
「しょっちゅう、しているように見える?」
「見えるよ。現に、しているじゃん」
「好きだよ。そういうふうに、はっきりと物を言う人」
「本当のことを言ってるだけ」
「ますます気に入った」
「ご勝手に」
「そうやって、いつもつっぱってるの?」
 相手が反撃してきた。ちょっとやりすぎたかもしれない。でも、負けない。
「それって、声を掛けてきたほうの人がいう言葉?」
 これじゃ喧嘩腰かなと思いつつ、口にしていた。もう完全に、弟、いや自分で作り上げた弟をもとにした架空の男の子のイメージになりきっている。この調子で続けていると、やばいかもしれない。
「ごめん」
「別に謝らなくてもいいですよ」
 内心はどきどきしているが、路上と違って周りに人の目があるために安心し、いくぶん大胆になっている自分を感じる。松長が下手(したて)に出ているさまは、女性をくどこうとしている男性の控えめな態度に通じるところがある。そう思うと、松長が隠しているはずの半面が怖い。
 今のシチュエーションは男と男のナンパだ。安易に男女のナンパと結びつけてはならない気もする。何が起こるか分からない。調子に乗ってはだめだ。いずれにせよ、ここは店の中だ。周りに人がいる。いざとなったら、女の声で助けを求める手もある。女に戻って救いを求めれば、その場を切り抜けることができる――。男の格好をするようになって以来、そうした考えが心の奥にあるのを感じる。それが行動の支えになっている。そうでいいのだと思う。
 大学はどこかと聞かれたので、岸川詩乃の在学している大学の名を口にした。この間、テニスのサークルの合同練習でそっちのキャンパスに行ったばかりだと言い、大学のある駅の周辺のケーキ屋とレストランの話をし始めた。食べ物の話になると松長は夢中になった。
 話はとめどもなく続き、パリの場末にあるジェラートの店でのエピソードまでが出て来た。父親の仕事の都合で、小学校から中学まではパリで暮らしていて、教育は日本人学校で受けたらしい。話題はフランスの家庭料理に移った。お腹は空いているが、食べ物にそこまで執着していない者にとっては苦痛だ。こっちは、いい加減にあいづちを打つ。
 そろそろ時間ですから、という決まり文句を口にし自分の分のお金を置いて店を出るタイミングをはかる。こっちが退屈に思っていることをほのめかすためにうつむき、裏返しにされている伝票に目をやる。
「ぼくばかりが、一方的に話してごめん」と言い、松長は話題を変えようとした。
 隣のテーブルの客たちが席を立ち、ドアへと向かい始めた。
 そろそろ、と言い掛けると、すかさず松長がさえぎった。
「ところで、いつごろから自分が男の人に興味を持っているって意識し始めた?」
 露骨な質問だと思う。あなたに関係はないでしょう、と一言残して店を出ようとも考える。でも、これから先、この街でこうした会話のできる男の人に出会える可能性はないかもしれない。このまま別れるのも惜しい気がする。暴力的な人ではないみたいだし、遊んでいそうにも見える。ひょっとして弟のことを知っているかもしれない。
 こっちは、光太と同じ髪型をし、同じ服を着ているのだ。光太の兄か弟だと思っていることはないだろうか。そんな小説みたいなことなんてある訳がない。それより、こっちが女だと承知していて、からかわれている可能性のほうが高いかもしれない。
 今は敵地に乗り込んだような状況にある。このまま引き下がっては、計画は失敗に終わるだろう。弟のことをもっと知りたい。弟が、この街に来ていた証拠と言えるようなものが部屋にいくつかあった。DVD、店の名の入ったブックマッチ、同じ店のネーム入りグラス、この辺りの店の中で撮られたと思われる複数のスナップ写真……。
 この街の男の人たちに、自分は本当に男だと見えているのだろうか。生前の弟を知っている人の目に、自分はどう映るのだろうか。自分は弟にどれくらい似ているのだろう。弟の知り合いは、弟についてどう語るのだろう。そうしたことが知りたい。ある程度、納得したところで、名古屋に帰りたい――。

 

「どうしたの? 急に考え込んじゃって……。悪かった。出し抜けにこんな質問をして、ごめん」
「謝る必要はないですよ。ただ、そういう質問をするんだったら、自分のことから話すのが礼儀だと思っただけです」
 いやに、しおらしい話し方になってしまった。さっきまでは隣のテーブル席に人がいて、思うように話せなかったし、ナンパされたという興奮が冷めきらずに気負っていたのかもしれない。
「そうだよね。失礼だったと思う」
 松長は言い、うなずいたとも謝ったとも取れる仕草で下を向き、沈黙している。うつむくのは、考えるときの癖なのかもしれない。
「ぼくの場合には、小さいころから男女両方に興味があったなあ――」松長が顔を上げ、口を開いた。
「もちろん、性的な意味と、恋しいとか愛しているとかいう感じ、つまりこの人と一緒にいたいという感情の二つの面があったと思う。今でも基本的には自分の好きなタイプなら、男性でも女性でもどっちでもいい。どちらでもいいというのは、愛せるという意味。男、女って、あんまり区別して考えない。かといって、バイセクシュアルという言葉で自分を縛りたくはないし、その言葉で他人からくくられたくもない。セクシュアリティは個人的で繊細なもので、グループ化とか一般化はできないものだと思う」
 ここで松長は口を閉じた。
「そうなんですか」
 それくらい言葉しか返せない。話だけを聞いていると、ずいぶん年上の人に思える。学生だなんて、嘘なのは確かだ。でも、それはお互い様だ。あっちは若作り、こっちは男作り。「男作り」という言葉が頭に浮かぶと、笑い出しそうになった。
「で、君はどんな人が好き?」
 言葉に詰まる。相手は軽い気持ちで尋ねているのかもしれないが、考えてしまう。この戸惑いは、弟がもうこの世にいないことから来ているように思える。弟は、どんな人が好きだったのだろう。「好きだ」ということをどう考えていたのだろう。
 松長が言った、『性的な意味』、『恋しいとか愛しているとかいう感じ』、つまり『この人と一緒にいたいという感情』という言葉の意味を考える――。弟は何を求めていたのだろう。
「分かりません」
「そうだよね。急に聞かれても分からないよね」
 話がかみ合っていない。松長は、こっちがどういう人を好きなのかと尋ねている。こっちは弟がどういう人が好きだったのかを考えている。問題は、こっちが考える対象をつかめていないことにある。わたしは、まだつかめていないものを探しにこの街に来ている。
 自分は、とんでもない間違ったことをしているのではないか。弟をしのぶのでもなく、弔(とむら)うのでもなく、その心と気持ちをもてあそんで侮辱しているだけなのではないか。
 喉が渇いた。空になったコーヒーカップの横に、水の入ったグラスが置かれている。そのグラスに手を伸ばす。
「細い腕だね」
 松長がつぶやくように言った。
 この人は、気付いている――。
 とっさに感じた。もしもそうだとすれば、わたしたちのしている話は、かみ合っていることになる。松長と名乗る男が、男の格好をした女のわたしに興味を持っているのならば……。
 弟のことばかり考えていたところに、いきなり「わたし」が飛び込んで来た。頭が混乱してくる。わたしの手は、グラスを握ったまま動かない。わたしは、自分の右腕の手首を見つめる。とっさに考えた。弟は、どんな手首をしていたのだろう。