閉じる


第7話 視線

第7話 視線

 亡くなった弟の部屋の片付けと掃除が、ようやく終わった。段ボール箱は五箱しか使わなかった。入っているのは衣類ばかりだ。弟が身に着けていたものは、他人の手に触れさせたくない。
 あとは引っ越し業者の「お任せパック」に文字通りお任せすることにした。とは言っても、あと部屋に残ったものは少ない。ベッド、掛け布団、敷きパッド、毛布、デスクとチェアー、テレビ、棚、冷蔵庫、カーテン、靴類――。
 予備校の分厚いテキストや問題集が二十冊以上ある。どれもが新品同様でページが折られた形跡がほとんどなく、数あるノートも最初の一、二ページしか使われていないのにはあきれた。上京の目的が、予備校に通うためでなかったことは明らかだ。でも、腹は立たない。むしろほおが緩んでくる。
 最初、引っ越しは上京した日の翌日に決めてあった。気が変わり、結局は延期してよかったと思う。引っ越し日はきょうから五日後で、まだ時間的に余裕がある。昨日、わたしは西新宿にあるホテルに部屋の予約を入れた。きょうからはホテル住まいになる。

 

 掃除を終えた午前に、名古屋の実家に電話をすると、母の姉である光枝おばさんが出た。
 母はどうしているかと尋ねると、友人たちとデパートに行っていて、きょうは遅く帰ると言っていたという意外な言葉が返ってきた。きのう電話をしたさいには、ずいぶん気が沈んでいた様子だった。
「伯母さんから見て、母の状態はどう見える?」
「光太のことを全然口にしなくなったの。それが気掛かりと言えば、気掛かりね。でも、だいぶ落ち着いてきたことは確か。感情に波があるけど、一人にしておいても大丈夫だと思う。わたしも、これできょうは帰るつもり」
「ごめんなさい。お母さんを押し付けちゃって」
「あなたがいないことで、あなたに何でも頼る癖が直ったみたい。でも、まだ正常とは言えないところがあるから、なるべく早く帰って来てよ」

 

 上京した日以来、わたしは高校の同級生だった岸川詩乃のアパートに泊まらせてもらっている。理工学部に在籍している詩乃が、長時間研究室で実験などをした後に、部屋に戻ってレポートを書き、英語の専門書とにらめっこしているのには驚いた。理系の学生は、あんなによく勉強するものなのだろうか。感心してしまう。
 きのう、わたしがそれまで長めだった髪型を変えたのを見て、詩乃はかなり驚いたようだった。サイドとバックを借り上げた、ちょっと変わったスタイルは、わたしの携帯電話に弟が死の数日前に送って来た画像に映っているのと同じものだ。弟の部屋にあった美容室のカードを見て予約を入れ、弟を担当している美容師にカットしてもらった。
「亡くなった光太君をしのぶのはいいけど、部屋にあった衣類を身に着けたり、お化粧を落として髪型まで真似るなんて、やりすぎじゃない?」
 上京した日の夜に会ったときもそうだったが、詩乃はわたしの精神状態を気遣ってくれている。あの日は、実際にいろいろやることが重なって、心身ともに相当に参っていたのは確かだ。でも、わたしは落ち着きを取り戻しつつある。詩乃の気遣いが、ややうざったくなってきたのも事実だ。
 わたしには計画がある。その計画を実行するまでは、名古屋に帰ることはできない。詩乃のアパートにいては実行しにくいし、とにかくお節介には嫌気が差してきた。
 それにしても、きのう食べた牛丼はおいしかった。昨夜遅く部屋に戻って来た詩乃との会話が思い出される――。
「牛丼屋さんで食事することある?」
「あるわよ。どうして?」 
「きょう生まれて初めて牛丼屋さんに入ったの」
「一人で?」
「そう」
「本当に? 勇気あるなあ。わたし、一人だったら、ちょっと抵抗ある。同じ研究室の男子や女子と一緒なら、しょっちゅう利用しているけどね。ああいうお店で一人で食べるのは、何かこう、独身男性の悲哀みたいなものを感じない?」
「確かに一人で食べている男の人を見たら、わびしさみたいなものを感じた。一緒に夕ご飯を食べてくれる恋人がいないの? とか、お友達はいないの? なんて尋ねてみたくなったもの」
「でしょう?」
「でも、あの時には自分も半分は男のつもりでいたから、深くは考えなかったけどね。とにかくお腹がすいていたから――。ああいうお店の牛丼がおいしいのにはびっくりした。ツユっていうの? あのタレに秘訣があるのかなあ。また食べてみたい」
「栄養のバランスが取れないことは確かよ。ファーストフードなんだから」

 

     *

 

 午後一時過ぎ。
 西新宿にあるホテルに着いた。荷物は、弟のカバンの中で一番大きなものと、渋谷にある服の店のネームとロゴの入った大き目の紙袋。服は、下着が女物と男物の重ね着になっているくらいで、上下も中も全部弟のものだ。だいたいのものは持って来たが、着替えようと思えば、まだ引っ越しが済んでいない部屋に戻ればいい。
 髪を切って以来、詩乃の前を除いて、服装だけでなく身のこなしや話し方に至るまで、わたしは完全に男性で通している。十月の中旬でよかった。これが夏だったら、乳房が目立たないような工夫に頭を悩ませなければならない。わたしは痩せ気味で骨ばった体つきだが、アンバランスなほど胸に膨らみがある。
 ゆったり目のシャツの上に、ジャケットやジャンパーを着れば上体の特徴はまず隠せる。下半身には問題はなさそうだ。弟のジーンズの中で一番タイトなものでさえ、裾が少し長いくらいで、腰や腿はぴったりと収まる。これは、意外であると同時にうれしい発見だった。
 フロントでは、住所は名古屋の家にして弟の名前でチェックインする。フロント係が何げなく探るような職業上の目線を送って来たが、相手が目をそらすまで余裕たっぷりの目でにらみ返してやった。
 弟の衣類を身に着けた当初は絶えず緊張していたが、今では他人の目をいちいち気にしない。たとえ誰かの視線を感じるときがあっても、何食わぬ顔をして開き直っていれば自然に見える。そう度胸を据えた。わたしは新しい自分を演じるのを楽しむようになっている。
 フロントからカードキーを受け取り、案内を断り、エレベーターで三十階に上がって部屋に入る。指定した通り、窓は東を向いている。目指す街が望めるはずだ。西に傾き始めた午後の太陽が新宿御苑らしき深緑のかたまりを照らしている。東京区分地図から切り取った新宿区だけのページと、窓から見える景色を見比べた。

 

 午後三時半。
「仲通り」と表示された通りを三度往復して、地図だけで見ていた街の地理がようやくつかめた。大きな建物や通り沿いに並ぶ店の位置も目に馴染んできた。
 面白そうな店があった。ガラス張りなので最初はコンビニかと思った。よく見ると、店頭に週刊誌や競馬新聞やマンガ雑誌を収めたラックが置かれている。その横に駄菓子やガチャポンのたぐいが並んでいる。その店を中心にして、若い男や中年の男たちが歩道にたたずんでいる。何となく立っている感じだ。
 店の真ん前で車道にはみ出して、しゃがみこんでいる少年の二人連れがいた。わたしもつられて足を止めた。十六、七歳というところだろうか。自分では、それくらいの年の少年を演じているつもりでいた。二人は同時にこちらに目を向けたが、すぐにまた車道のほうへと目線を戻した。
 わたしは店内に足を踏み入れてみた。男性の裸体の写真を拡大したポスターが何枚か天井からぶら下がっていて驚く。
 これだ。ここだ――。
 ある程度、予想と覚悟はしていたものの、現物を見るとどきどきする。たくさんのDVDやビデオが売られている。平積みされた商品のケースに貼られた写真は、どれもが肉色と肌色をしている。わたしは当惑を隠そうと努め、静かに深呼吸をした。奥へ進むのは止めて、ゆっくりと外へ出る。
 まだ昼間のせいか、人通りは少ない。通りには女気はまったくない。かといって、競馬の馬券売り場付近に漂う、がさつな男臭さもない。歩いているうちに、同じ東京でも、ここはほかの場所とは人の目付きが違うことに気づく。

 

 男性の格好をし始めてから、わたしは男性からの視線を感じなくなった。特に、胸やスカートをはいた足に向けられる、無神経そうな男の不躾(ぶしつけ)な視線から解放されたことがうれしい。
 それが男性から同性だと見られている証しだと思うと得意でもあった。ところがこの街へ来てみると、やたらに男性がこっちに視線を送って来る。自分が女だということが、ばれたのではないか――。初めのうちは、そうした思いが先に立ってうろたえた。今では、それとは逆に、自分が男性として見られているのを感じる。
 単に見られているのではない。好奇の目で見られているような気がする。弟の衣服をまとい始めた以前に、二十歳の女として男性の不躾な視線にさらされていたのと似ていなくもない。だが、どこかが違う。本質的に、これまでとはまったく異なった状況に置かれているように思われる。
 男が女を見る目。女が男を見る目。もちろん、そうした視線のすべてが、性的な意味を帯びている訳ではない。男が男を見る目。女が女を見る目。その視線が、ライバル意識だけで説明できるものでないことも確かだ。
 でも、それは一般論でしかない。この街は違う。
 男が男を見る目。男が男を装ったわたしを見る目。通りを歩いている男同士が交わす視線。すれ違いざまに送り合う目線。何かが、どこかが違う。この国の文化と風土の中で、公(おおやけ)の路上を舞台にして、こんな濃密な視線のやり取りが当たり前のように行われている場が、ほかにあるだろうか。

 

 携帯電話で時刻を見ると、この街に入ってから三十分以上経っている。その間に感じた、何人もの男たちからの視線。わたしは自信に似たものに満たされた。わたしは男に男として見られている。勘違いでなければ、たぶんそうだ。いや、きっとそうだ。そうであってほしい。わたしは、そのためにここに来たのだ。妄想、ナルシズム、勘違い、一人相撲――。たとえ、そうであっても構わない。
 いったん覚悟を決めると、ずっと気が楽になった。心地よい。わくわくもし、どきどきもする。わたしは自分を弟に置き換えて考えていた。弟にも、こういう視線の飛び交う空間を初めて泳いだ日があったに違いない。
 光太、あなたは何を求めて東京に来たの? こうした状況と視線を求めていたの? 
 母とわたしという二人の女が仕切っている家。母の姉や妹、そしてその娘たちが頻繁に出入する、女の濃厚な匂いに満ちた家。光太、もしかして、あなたはそんな家に嫌気がさしていたの?
 もう、弟と口を利くことはできない。でも、弟のかつて口にした言葉の断片が、次々と頭の中によみがえってくる。自分が男だと意識し始めたころの弟。かわいい男の子という、他人が自分に対して抱くイメージに戸惑い始めたころの弟。自分に注がれる他人の視線をもてあましていたころの弟。何かにつけ、姉のわたしの真似ばかりをしていたころの幼い弟。
『セックスレスの夫婦がいても構わないよね。友達感覚で仲良く暮らせば、それでいいじゃん。別にセックスなんてしなくてもいいと思う――』
『この階の男子トイレに変な男がいて、おしっこさせてくれないんだよ。危ないよ、あいつ。ぼく、店の警備員に知らせてくる――』
『マジ版のラブメールもらっちゃったよー、部活の後輩の男子から――』
『お姉ちゃん、ぼく、きょう男になっちゃった。お姉ちゃんに初めての生理が来て女になったのには一年遅れたけど、ちゃんと男になった。これ、お母さんには内緒にしておいてね――』
『かわいいって言われるの、あんまり好きじゃないなあ。何だか、子ども扱いされているみたい。早く、かっこいいって言われるようになりたい――』
『電車の中で痴漢にあっちゃった。女の子と間違えられたのかなあ。それとも、男の子だから触ってきたのかなあ。あんな格好をしていたんだから、絶対に女の子と間違えられるはずないんだけど――』
『お母さん、きょうね、幼稚園に来たおねえさんやおばさんたちから教わったよ。お腹にうんと力を入れて、うおーってうなるんだ。そしてね、足のここんところを思いきり蹴るんだ。そうすれば、「ふしんしゃ」が逃げていくんだって――』
『これでいいんだよう。しゃがんだほうが、おしっこしやすいんだもん――』

 

 また、あの妙な店の前に来た。さっきより男の数が増えている。そのうちの一人が露骨にわたしと目を合わせて来た。男の格好をする前の自分に注がれたことのある粘っこい男の目が、男の格好と髪型をした自分に注がれている。
 今、自分は、女から男へと化けた自分という曖昧な存在を、これまでの空想ではなく、現実の出来事として体感している。そんな転倒した思いに、わたしは酔っている。初めて味わう不思議な気分だが、これは夢ではない。頭の整理がつかないが、この街では現実なのだ。それだけは言える。