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第6話 変わる

第6話 変わる

 カットクロスが取り去られ、椅子に腰掛けた全身が縦長の鏡に映っている。最後に美容師は前髪の生え際を少量のジェルで固めて、撫でるような手付きで髪をさっと上げた。
 鏡の中には少しほおが張っているが、弟によく似た顔立ちの少年がいる。ゆったり目のシャツは洗濯されたものだが、ジーンズはクローゼットから出てきたままで洗っていないものをはいている。
 約二カ月前のお盆に帰省した弟は、これと同じ格好をしていた。目の前の髪型に比べれば、だいぶ長かった。わたしは携帯電話の不用なメールや画像はこまめに消すほうだが、弟が死の数日前に送ってきた画像だけは残してあった。虫が知らせたのかもしれない。髪を思い切り短くしたという報告のメールと写真――。
 メールチェックの振りをして携帯電話を取り出し、見比べてみたい衝動に駆られる。だが、ここでそうするのは、さすがにはばかられる。
 お盆休みに久しぶりに再会したときには、弟の流行に媚びないおしゃれな格好と洗練されたヘアスタイルを目にして、わたしは予備校生である身の弟の今後を案じたものだった。上京してからの弟の金遣いの荒さについては、母も嘆いていた。
「お時間があれば、こちらでお飲み物でも――」
 美容室のスタッフに声を掛けられ、わたしはレジの近くに設けられた小さなラウンジに案内された。ガラス張りの店内から見える外の光景は、もう夜のものだ。外に出るのが怖いような気もする。テーブルを挟んで斜め向かいに座った女性が、ラストの客らしい。目と目が合う。不思議そうな表情をされた。どういう意味の表情なのか気になったが、無視する。
 変身直後の興奮を冷ますために、出された紅茶を時間を掛けて飲む。鏡に映る自分を目にしていても、どこかまだ夢を見ているようなもどかしさがあった。問題は外に出てからだ。周りから、どう見られるのだろうか。
 ラストの女性がコーヒーを二口飲んだだけで、レジへと向かう。わたしがラストになってしまった。店内の時計が八時になろうとしている。わたしはようやく席を立つ気になった。
 支払いを済まし、預けていたジャケットとショルダーバッグを受け取る。どれも弟の部屋にあったものだ。
「外へ出たら、完璧に男の子と間違えられますよ」
 ドアまで送って来た美容師が言う。
「悔いはありません」
 自分でも驚くほど明るい声が出た。声の調子から、自分がはしゃいでいるのを感じる。
「名古屋にお帰りになったとき、彼氏、びっくりするんじゃないですか?」
 わたしの満足を感じ取ったのだろう、美容師の声もはしゃいで聞こえる。
「彼氏ですか? 実は彼女だったりして」
 はしゃぎすぎの自分にあきれる。
「じゃあ、今度、その彼女と上京なさったさいには、ぜひご一緒にご来店ください。お待ちしております」
 美容師とわたしは、同時に声を出して笑った。

 

 外は意外に寒かった。東中野にある弟の部屋から出たときには、このシャツとジャケットでよかったが、今は風も強く、マフラーが欲しい。髪を切ったために首から上が特に寒い。
 歩いている自分の動きは、いかにもぎこちない。化粧を落とし、男物の衣服を身に着けて外出したものの、髪を切る前はまだ自分は女に見えるという確信があった。いざ髪を短くして通りを歩いていると、男性として振る舞おうにもその心構えが出来ていないのを感じる。
 おどおどした態度に見えるだろう。男とも女とも知れない者が、人通りの多い夜の繁華街をぎこちなく歩くさまは、さぞかし滑稽に違いない。そう考えると緊張し、足が重くなる。
 花屋の前に差し掛かる。店は閉店の間際で、シャッターが下りるところだった。一個だけ外に置かれたままだった鉢を店内に入れようとする女性の店員とまともに顔を合わせた。じろじろ見られることもなく、わたしはほっとした。
 ごく普通の少年か若い男性に見えると思ってよさそうだ。心配することはない――。わたしは心の中で自分に言い聞かせる。
 シャッターの下りた花屋の軒先で立ち止まり、目線を上げる。美容室を探してこのあたりを行ったり来たりしていたときには、まだほんのり明るかった空が真っ暗になり、表参道の街はさまざまな人工の明かりできらめいている。
 わたしは花屋の前で人を待っているように装いながら、通りを歩く十代くらいに見える少年から二十歳前後の男性の歩き方や表情を観察した。真似る気になってよく見ていると、明らかに女性とは違っている。
 まず、靴の違いが動作にもろに出ているのに気づく。今、わたしは弟のスニーカーを履いている。昨日、初めて履いてみて、サイズがピッタリなのに驚いた。歩くのには、このほうがずっと楽だ。女性が履くヒールの高い靴がずいぶん不自然な形のもので、かなり無理な動きを強いられているとあらためて思う。
 通りを歩いている男性の動きに注目すると、人によりさまざまな癖があっておもしろい。そんなことを考えているうちに、一人の少年に目を引かれた。制服らしい濃紺のブレザーと明るめのグレーのパンツを身に着けた二人連れの一人だ。高校生だろう。その少年の歩き方に個性を感じた。
 少年は猫背気味に肩を少し揺らしながら歩いて行く。大股に足を踏み出し、退いたもう一方の足をこころもち引きずり、ノッシノッシとリズミカルに進んでいく。足が不自由な感じではない。アニメに出てくる巨人を連想させる歩行だ。
 不自然と言えなくもないが、これまでにも同様な歩き方をする若い男性や少年を何人も見たことがある。そのたびに、どこか格好をつけたようなわざとらしさを感じて不快感を覚えたものだった。近づいて来る少年にはそうした違和感がない。
 その少年に引かれた理由がもう一つある。死んだ光太に似ている。子どもっぽさを残した下ぶくれの顔がかわいい。わたしは、目の前を通り過ぎて行った少年の歩き方を真似てみたくなった。
 自分がその歩き方で進むさまを頭の中で何度か描き、イメージをどうにか実行に移せると感じられたところで、花屋の軒先を離れた。ゆっくりと足を踏み出してみる。
 かつて浮き輪なしで泳ぎ始めたときや、レールに添えていた手を初めて離してスケートリンクの氷の上を滑りだした瞬間と似た、胸のときめきと不安がよみがえる。違和感が、新しい習慣や身に付けたばかりのスキルへと変わる境目のきわどさとでも言おうか。足と肩の動きに気を取られて、思うように前に進めない。全身の皮膚が汗ばむ。
 いったん人の流れに加わると、周りの誰もが早足に感じられる。ほかの人たちの歩行の邪魔にならないように気を付けながら、あの少年の歩き方を真似るのに必死になる。道に迷った。でも、構わない。

 

 今夜も岸川詩乃の部屋に泊めてもらうことになっているが、夕食を一緒に食べる約束はしていない。理系の学科に在籍している詩乃は、勉強ばかりしている。朝から晩まで研究室にいる日も珍しくないとか言っていた。明日が期限のレポートがあるとか聞いた気もする。文学科のわたしとは大違いだ。これ以上、詩乃の邪魔をしたくない。明日は、ホテルに移ろうと思う。
 とにかく、きょうはこれから別に予定はない。行き先を決めず、歩いてみよう。これだけ人がいるんだ。暗くて狭い道にさえ入らなければ、安全だろう。それにしても、お腹が空いてきた。こういう場合、男の人だったら、ファーストフードの店ではなく、定食屋や牛丼屋やラーメン屋みたいな店で食事をするのだろうか。その種の店に一人で入るだけの心の準備はまだできていない。何でもいいから、お腹に入れたい。そして歩いてみたい。
 慣れない歩き方をしているためか、つい目が下に行き、前を行く人の足を追うような形になってしまう。何度か人とぶつかりそうになる。やっぱり変に見えるのだろうか。目を上げて周りを見たが、こっちに注目している人などいない。
 自分がこんなに変わったのに、誰も気に留めないのが不思議だ。まるで透明人間になったような気分がする。そう言えば、高校二年生だった冬休みに、初めて本格的なお化粧をして外出したときも、これと似たような気分だった記憶がある。変わったのに、誰もこちらを見てくれない。
 そうかあ、お化粧っていうのは「女に生まれついた人間」が「普通未満」から「普通の女」に化けることなんだ。ようやく「普通」になったから、じろじろ見られないんだ――。
 確か、そんなふうに大発見をしたつもりになり、一人で納得したことが思い出される。実際には、「化けた」女性たちが密かに同性の「化け振り」に視線を投げているのを知るまでには、それほど長い時間は要しなかったが。

 

 美容室に入る前までは、街の雑踏を歩くと、始終同性の目が気になった。「普通」へと化ける術(すべ)を身に付けた女性たちは、何げない振りを装いながら、常に周りの同性の容姿、格好、身に着けているもの、化粧の仕方を観察する。その目は本質的に自分に偏っていて意地悪く残酷だ。
 一方で、男性に対しては違ったまなざしを向ける。しょせん異性に対しての視線だから、辛らつな見方をすることはない。確かに目は、快不快の分け隔てはするが、女性同士の場合のように目と目が密かに戦いを演じることはない。
 女対女の視線のぶつかり合いから逃れたことは、解放だと思った。すがすがしい。男同士って、何てさっぱりしているのだろう。わたしはこの発見を喜ぶ。周りの男性たちがみんな自分の仲間のような気がする。そんな幸福感に浸っていると、その喜びをぶち壊しにするような不穏な気配が目の前に迫ってくるのを感じた。
 正面から十七、八歳くらいに見える三人連れの少年たちがやって来る。柄の悪そうな雰囲気を漂わせている。わたしは緊張した。こういう場合には、下を向いたほうがいいのだろうか。真正面を向いたまま、相手を空気のように無視して歩き続ければいいのか。
 正面からぶつかるのを避けるために、わたしは無意識のうちに徐々に車道側に身を寄せながら進んでいた。それにもかかわらず、左端にいた背の低い少年と目が合ってしまった。その少年はほかの二人と話していたのを急に止め、こっちをにらんでくる。
 危険を感じたが、戸惑いのほうが先に立って視線をそらすことができず、わたしは相手の顔をぼう然と見つめていた。相手の目は鋭さを増し、挑むような表情になった。その体がこちらに寄って来る。予期しなかった目の前の不穏な光景が、テレビドラマの一場面のように思えた。
 わたしはようやく状況を理解して目をそらし、素早く斜めに身をかわした。歩道と車道を隔てるガードレールに手をつく格好になり、かろうじてその少年の体に触れずに済んだ。すれ違いざま、少年たちが立ち止まるのが視界の端に見えた。
「なんだよ、おまえ。おれに用でもあんのか? ガンつけやがって――」
 そんな声が聞こえる。わたしは聞こえない振りをして、ガードレールから手を離す。屈んだ体勢を立て直して、そのまま歩き出す。
「待てよ」
「行こ、行こ。ほっとけ」
 背後の声に聞き耳を立てながらも、わたしは進む。少年たちに取り囲まれたり、路地にでも連れ込まれそうになった場合には、悲鳴を上げるつもりでいた。もちろん、その時には女の声で叫んで助けを求める。女に戻るしかない。情けないが、そうする以外に選択肢はない。迷うことはない。危険を回避できるのなら、女に戻ればいいのだ。
 幸い、少年たちは追って来なかった。
 人込みや電車の中で、男性のいやらしそうな粘っこい視線を感じたことは、これまで数知れずあった。だが、見ず知らずの男性から挑戦的な恐ろしい目付きでにらまれたことは、これが初めてだった。

 

 いつの間にか、普段の歩き方に戻っているのに気付いた。
『外へ出たら、完璧に男の子と間違えられますよ』
『悔いはありません』
 美容室を出る直前に交わした会話の意味を考える。あの時のはしゃいだ気分はもうない。花屋の前で見かけた、弟に似た少年の歩き方を思い出す。わたしは負けない。あの歩き方に戻ろう。
 首をやや前に倒し猫背気味にする。大股に足を踏み出し、もう片方の足を引きずるようにしてノッシノッシ。そうそう、この要領――。ぎこちないとリズミカルの中間くらいの感じでノッシノッシ。すると、こころもち肩が揺らぐ。
 もう大丈夫だ。お腹がすいた。二軒先に、ガラス張りの外装の牛丼屋が見える。牛丼屋に入るのは初めてだ。背に腹はかえられない。まずは、腹ごしらえといくか。ノッシノッシ。だいだい色っぽい光を放つ、ガラス張りの店に向かって進む。