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第4話 つながり

第4話 つながり

 九月の終わりの土曜日。午前二時五分ころ。雨が降りしきる世田谷区の道路。スピードを出しすぎた一台のボルボがカーブを曲がりきれずガードレールに追突した。
 乗っていた二人の男性のうち、助手席に乗っていた若者は即死。運転していた若者は救急車で運ばれた病院で事故の七時間後に死亡した。運転者は車と所持していた免許証から身元が判明した。市川俊樹(いちかわとしき)。二十六歳。会社員。
 同乗していた若者の身元の確認は遅れた。身分証明書のたぐいを一切所持してはいなかった。血と骨と肉片にまみれ、ずたずたに引き裂かれたジーンズの前ポケットから一枚のメモ用紙が発見された。紙には書きなぐった多数の数字が書かれていた。その数字が謎となった。
 血液で染まった紙は鑑識に回され、五組の携帯電話の番号らしき数字が判読された。そのうちの一組の数字は、車を運転していた市川俊樹の携帯電話の番号と一致した。その日のうちに四人の男性が警察から事情を聞かれた。
 不明だった四人の男性たちのつながりの謎はすぐに解けた。事故の捜査に当たった警察官にとっては、振り出しに戻ったようなあっけない謎の解決だった。予想通りの結果となった。男性たちをつないでいたのは携帯電話の電波だった。その男性たちと即死した若者との関係は、担当の刑事には容易に予測がついた。

「この種のことに勘が働かないと分からない事件や事故は、割と多いんです」と、斜視気味の刑事は目をそらさず言い、ためらうように間を置いた後ずばりと聞いてきた。「ご存知でしたか? 弟さんの素行について――」
「素行」という言葉が、刑事とわたしを隔てる空間でぷよぷよ浮いているような妙な気分に陥った。両者の解する意味が食い違い、言葉がさまよっている。今は亡き人となったにせよ、この刑事は、光太という一人の人間のある部分を「素行」という曖昧で訳の分からない言葉で片付けようとしている。
 当惑。怒り。もどかしさ。あきらめ。数秒のうちに、そうした感情が自分の心の中を通り過ぎていった。
 この人に食ってかかっても仕方ない。この人だけではない。多くの人にとって、光太や光太とかかわった人たちの生き方は、たとえば「素行」とか「性向」とか「性癖」、またはせいぜい「傾向」や「資質」という言葉で名指すしかないものなのだろう。
「――ご存知でしたか?」
「はい」と、わたしは泳ぎかけていた視線を刑事の目に戻してうなずいた。「おっしゃっていることが、どういう意味なのかは承知しています」
「なるほど」
 なるほど? 何て間の抜けた返事だろう。わたしは込み上げてきた笑いを押し殺した。このところ、不意に笑いが出てきて止まらなくなることがよくある。
「話がしやすくなりました」と言い、刑事は話を続けた。

 

 事故の担当者たちは、予測をもとに調べを続けた。四人の男性たちは全員、事故の前日に携帯電話でアクセスするある種の掲示板に、メッセージと自分の連絡先を書き込んでいた。四人に共通するのは、十八歳の「ヒカル」という少年から電話をもらったということだった。しかし、四人とも「ヒカル」には会っていない。
 四人のうちの一人が、同じ「ヒカル」と名の少年について聞いたことがあると警察官に語った。その男性の知り合いがヒカルという少年の噂をしているのを聞いた記憶がある、という話だった。警察はその知り合いの男性とも連絡を取った。
 その男性は、一度だけヒカルという少年と会ったことがあった。その時、少年の住むアパートの近くまで車で送って行ったという。男性が少年を車から降ろした付近で警察が聞き込みをした結果、ヒカルと名乗っていた少年の本名が判明した。
 島田光太。十八歳。予備校生。愛知県名古屋市出身。

 

 わたしは刑事の話を小説のように聞いていた。その物語の主人公が、双子のように生活を共にしていた弟とは信じられなかった。事故については、名古屋市で発行されている新聞では、一紙だけが事故当日の夕刊に小さく報じただけだった。数日後、図書館で複数の全国紙を調べてみると、二紙が事故翌日の朝刊に簡単な記事を載せていた。現在警察が即死した同乗者の身元を確認中である――という共通した記述があった。
 光太が交通事故で死んだという知らせが警察から母とわたしの住む名古屋の家にもたらされたのは、事故の翌日である日曜の午後だった。別居中の父にはわたしが電話で連絡した。母は母の姉と一緒にただちに上京し、父はそれとは別に東京へ向かった。

 

「悲しい話。悲しすぎる――」
 斜視気味の刑事から聞いた詳細を中心に事故とその後の出来事の概略を語ると、岸川詩乃はつぶやき、目頭の涙をティシューでぬぐった。
「わたしとしては、ある意味ではすっきりした部分もあるの。弟がどんなふうに亡くなったかは、あの刑事さんと直接会わなかったら、おそらく永遠に知ることはなかったわけだから。その意味では、今回の上京は正解だったと思う」
「それで香織の気持ちがいくらかでも収まれば、そうかもしれない。でも、その刑事さん、よくそこまで話してくれたわね。聞いていて苦しくなかった?」
「わたしが無理やり話させたって感じね。別居している父の性格からして、この件に関して上京することはまずないし、お母さんはあんなだし――。刑事さんもそうした事情を承知しているから、姉のわたしに話してくれたんじゃないかな。それに、あそこまで踏み込んだ話になったのは、あの刑事さんの言葉を借りれば、光太の『素行』について知っているって、わたしがはっきり言ったからだと思う。きっと、そうよ」
「光太君と香織って、本当に仲が良かったもんね。わたしなんか、兄がいるけど、すごく仲が悪かったの。兄はもう結婚して家を出ているから、過去の話だけどね」
「確かに他人の目からは不思議なというか、怪しい姉弟に見えたでしょうね」わたしは無理に笑顔を作って言った。
「そこまでは言わないけど――」詩乃はティシューをいじりながら言った。
 わたしは弟の携帯電話を見た。何度見たか分からない。誰かから電話が掛かって来ないなら、こちらから掛けようという気持ちが再度頭をもたげてくる。でも、きょうはこのまま、詩乃の部屋でおとなしく眠ろうと思う。
「ごめんね。ベッドを占領しちゃって」
 床に予備の布団を敷いている詩乃に謝り、弟の携帯電話の電源を切る。
「遠慮は抜きでいこうよ。それとも、一緒に寝る? 寂しかったら、横に寝てあげようか?」
「大丈夫」
「今だから言うけど、東中野の駅で会ったときの香織って、すごく疲れた顔をしてたよ。それに寂しそうだった」
「あれから、よく食べたよね」自然に笑顔になれた。「きょうというか、こんな時間だから、もう昨日のことだけど、朝からほとんどお腹に入れていなかったんだもん、薬以外は。疲れるし寂しそうな顔もするわけだ」
「食事の後に飲んでいたお薬――。あれって、何なの? あの時には聞かなかったけど」
「気分を落ち着ける薬なんだって。お母さんを心療内科に連れて行ったら、わたしまで処方せんをもらっちゃった」

 

     *

 

 弟の部屋に戻ると、やはり引っ越しを延期してよかったと思った。もう少しこの部屋にいてやることが、この部屋に残っている弟の霊とは言わないまでも、弟の思いへの弔(とむら)い、そしてこの部屋に対するお礼にもなる気がした。
 最終的には同じ業者の「お任せパック」を依頼するにしろ、弟の愛用した物たちをこの手で段ボール箱に収めてやりたい。弟の部屋を片付けて掃除をし、この部屋から去りたい。もう少し、ここにいたい。いてやりたい――。
 近くのコンビニで買ってきたお弁当を電子レンジで温めていると、弟の携帯電話が鳴った。
 液晶には「森本アツシ」という名が表示されている。
「ヒカル?」
「あのう――。わたし、ヒカル、つまり島田光太の姉です」
「マジ? ヒカル、おれのことをからかってない?」
「いいえ、わたし、姉です。このまま切らないでお話を聞かせてもらえませんか?」
「…………」
「お願いです」
「お願いと言われても――。で、どうしてお姉さんが、この電話に出てくるんですか?」
 ようやくまともに話ができそうな相手から掛かってきたという予感がする。
「実は、光太が亡くなりました」
「なくなって、死んだってことですか? マジで? いえ、すみません。本当ですか?」
 森本アツシは、光太とは同じ予備校の生徒らしい。最近、見掛けないので何となく電話をしてみたという。
「生前の弟がいろいろお世話になりまし」
 形式的な挨拶をして、電話を切った。
 がっかりした。わたしが話したい相手とは違う。

 

「電話帳検索」には、たくさんのデータが登録されている。それにもかかわらず、ほとんど電話が掛かって来ない。どういうことなのか? 登録されている番号の持ち主たちが、光太の死を知っているとしか考えられない。みんながつながっていて、知っているのだ。
 さっきの森本アツシからの電話に出たことで、こちらから電話を掛けたさいに自然に響くと思われる文句が頭に浮かんだ。
『亡くなった弟の携帯電話が残りましたので、電話帳に登録されているお友達にお礼の電話を掛けているところなんです。生前の弟がいろいろお世話になりました』
 おみくじを引くようなつもりで、無作為に名前と番号を表示させ、通話ボタンを押した。
 呼び出し音が五回鳴り終えたのを聞いた。相手は出ない。どうしても通話できない状態で、止むを得ず放置しているのか? または、液晶の表示を見て「死者」からの電話に出ようか、それともこのままにしておこうか迷っているのか? わたしは呼び出し音を聞き続けた。
 十回目の呼び出し音が鳴り始めようとしたとき、電話がつながった。驚いて、「あっ」と声を出すところだった。
「…………」
 相手は喋らない。こちらが誘導する形で、あらかじめ考えていた言葉を口にするしかない。
「もしもし、突然、申し訳ありません。わたしは島田香織と申します。島田光太の姉です。亡くなった弟の携帯電話が――」
「えっ? ヒカルのお姉さんなんですか?」
「はい。あのう、お願いですから切らないでください」
「びっくりした」
「ごめんなさい」
「幽霊かと思った。声が似ていたので」
 しばらく弟と一緒に暮らしていなかったため、とっさにはぴんと来なかったが、思い出した。電話で聞くと、わたしと光太の声は似ているらしい。名古屋の家の固定電話に掛かってきたときに出ると、よく間違えられた。
 弟が声変わりをする前には、まったく同じ声に聞こえると言われていた。声変わり以後、弟は普段は低めの声で喋っていたが、電話ではやや高めの声で話す癖があった。逆に、思春期以後のわたしは電話に出るときには緊張するせいか、声の調子が沈んで低めに聞こえるという。その結果、よく似た印象を与えるらしい――。
「そんなに似ていますか?」
「今聞いているとそうでもないんですけど、最初の声を聞いたときには、マジでビビッちゃいましたよ」
 話している相手は前田隆平という名で、光太とは新宿で知り合ったという。
 ヒカルが死んだというニュースは、仲間うちですぐに広まった。また、あの日に車を運転していて死亡した市川俊樹の知り合いの間でも、話はたちまち伝わった。携帯電話からアクセスする掲示板を利用していた四人の男性たちを警察が事情聴取したことにより、一時は関係者たちにとって二人の死は「大事件」になった。前田隆平は、そう語った。
「だから、このケータイに誰も掛けてこないんですね」
「でしょうね」
「予備校のお友達から掛かってきたくらいです」
「そうだ、ヒカルって予備校生だったんだ」
「ご存知じゃなかったんですか」
「いえ、そういう意味じゃなくて、ヒカルと予備校というのが結びつかなくて……。けっこう有名人だったからなあ」
「有名人?」
「持てたというか、人気があったってことです。悪い意味じゃないです。そのケータイには、ものすごい数の番号が登録されてるでしょう」
「ものすごいという感じでもないですよ」
「要らないのは、どんどん削除していったんだろうな。ところで、そのケータイ、警察の所に持って行かれていたんでしょ? やばいなあ」
「やばい?」
「つながりが、ばれちゃうじゃないですか。おれたちの人権とか個人情報の保護に熱心な人たちが、グループを作って活動しているんです。で、警察はおれたちみたいな人間のセクシュアリティや、ほかのマイノリティの情報を、裏で集めているっていう噂を聞いたことがあって……」
「セクシュアリティ」という言葉を耳にし、わたしは斜視気味の刑事が口にした「素行」という言葉を思い出した。
 セクシュアリティという言葉は雑誌で見かけたことはある。見かけても深く考えることはなかった。話し言葉の中で耳にしたのは、今が初めてかもしれない。だいたいの意味は分かる。でも、自分や身近な人とかかわる言葉だと実感したことはない。
「セクシュアリティ」と、わたしはつぶやいた。
「えっ? そう、セクシュアリティです。先月、こっちの世界で覚せい剤がらみの事件があったときに、なぜかおれの所に急に警察官が訪ねてきたことがありました。逮捕されたやつはクロだった。それはそれでいいんです。身から出た錆(さび)ですから。でも、おれ、そいつとは一回会っただけですよ。それも五年以上も前に――。やっぱりクスリがらみで、そいつは何度か警察の調べを受けたことがあるらしいんです。以前にそいつのケータイにおれの番号があったから、つながりを疑われたとしか思えません。絶対に警察はこういうデータを集めています。一度入手したデータは破棄しないと考えるほうが賢明でしょう」
「何だか怖いですね」
「指紋と同じですよ。たとえば、どこかの店で働いていたとします。夜間、そこに泥棒が入った。任意で指紋を採取させてくれと警察から言われれば、自分が犯人でないことを証明するために承知するのが普通ですよね。その時に採られた指紋って、一定期間が過ぎたら破棄されると思いますか?」
「さあ?」
「DNA鑑定でも、そうです。自分の潔白を証明するために、任意の形で毛髪を採取されたとします。その情報というかデータは、事件が解決したら破棄されると思いますか?」
「…………」
「すみません。話が飛んじゃいました。いずれにせよ、そのケータイのデータは、削除してしまったほうがいいんじゃないですか。差し出がましいかもしれませんが、おれはそう思います。ヒカル、パソコンを持っていませんでしたか?」
「わたし、今、弟の部屋を引き払うために上京しているんですけど、部屋にパソコンはありません」
「そうですか。万が一、ノートパソコンとかネットにつなげる小型の端末でも出てきたら、メール関係のデータは削除しておいたほうがいいかも」
「分かりました。気を付けておきます」
「でも、ああいうものは削除したとしても、その手の技術に詳しい人なら修復できるんですけどね――」

 

 この電話で十分だった。光太の残した携帯電話に登録された番号に掛ければ、わたしは歓迎されない電話の相手となるだけだ。データは消そう。一気にデータを削除することもできるが、いくらなんでも味気ない。おそらく、うれしそうに一件ずつ入力していった弟に悪いような気もする。
 左手の指を使ってデータの削除を始めたとたん、気分が沈んできた。個人情報を消すというのは気持ちのいい作業ではない。心に痛みを覚える。ピッピッという機械音が耳と神経に障るので、ミュートにした。次々とデータを消していて思った。エアキャップをプチプチ潰すのにどこか似ている。