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第3話 染まる

第3話 染まる

 弟の遺品である携帯電話に誰かが掛けてくる可能性は高いはずだ。光太の死を知らない友人や知り合いがいて、通話してきたりメールを送ってくるというのが自然な考え方だろう。
 家族の一員が亡くなる。故人の携帯電話に登録されたデータや、パソコン内に保存されたままのメールやファイルが残る。家族に内緒で開設していたブログがあってもおかしくはない。そうしたデータはどんな運命をたどるのか。
 これまでテレビのニュースや新聞で読む記事の中に、こうした状況に至るケースは数知れずあったはずなのに、全然考えたことはなかった。
 わたしだって、そうなのだ。いつ不慮の死を遂げるか分からない。その結果、デジタル化された個人情報やデータが無防備な形で残る。かなりの高齢者や幼い子どもを除き、そうしたリスクを抱えていない人のほうが珍しいだろう。携帯電話のほかに、わたしは実家にパソコンを持っている。限られた機能しか使えないものの、母でさえ携帯電話を持っている。
 遺品という言葉にネット空間がからんでくることに、違和感を覚えるのはなぜだろう。そこまで考えないのが普通なのかもしれない。でも、それは変だ。既に現実なのに、ちぐはぐに感じられることは考えない。それこそ、ちぐはぐではないか――。
 わたしは荷造りに見切りをつけ、あとは業者に任せようと決めた。たとえ「お任せパック」とかいう引っ越しであっても、最小限の荷造りを一人でやるにも限度がある。弟といっても、結局は他人だ。しかも、もう口を利くことができない相手だ。どこに何があるのかをチェックするだけで、うんざりしてくる。
 名古屋の実家にある弟の部屋なら、勝手は分からないわけではない。アパート探しには母も同行したが、わたしがこの部屋に入ったのは今回が初めてだ。光太のプライバシーに関する部分の片付けだけは出来る限りしておこう。そんな当初の決意が揺らいでくる。
 疲れを感じたので部屋にあったクッキーの箱の封を切り、三個食べた後に心療内科で処方された薬を飲んだ。床に座り込み、上体だけをベッドに預けて、午前に訪ねた世田谷警察署の斜視気味の刑事とのやり取りを思い出す――。

 

 初対面のわたしにお決まりの悔やみの言葉を述べたあと、刑事は事故の直後に取り乱していた母の現在の様子を尋ねてきた。
「何だか人が変わったようになりました。いずれにせよ、上京は無理だと考えて、わたしが代わりに参りました」
「そうでしょうな。前途有望な息子さんを失われたわけですから――」と、刑事は通り一遍の言葉を吐いた。
 続いて、警察署に出向いた用件を着々と済ませた。警察が預かっていたと言うより押収していた弟の所持品と、弟の部屋から持ち出したらしい物品を、書類と照合しながら受け取る。用意されていた大きめの紙袋に返却された物を詰め込む。署名と捺印をする。
「ご苦労さまでした」刑事が軽く頭を下げ、ドアのほうへと手を伸ばした。
 納得がいかない。なぜ?
 東京に向かう新幹線の中でずっと考えていた疑問のはけ口が、今消え去ろうとしている。不満と怒りが混じり合った発作が今にも起こりそうな気配を感じた。
 こんなんで、終わりになるわけ? 一件落着?
「では、そろそろ――」
 すでに次の仕事に取り掛かろうとしている素振りの刑事に、わたしは詰め寄った。「一通りお話をうかがうまでは、わたしは帰りません。これまでに分かったことを、一つひとつ順を追って説明してください」
「いいですか、島田さん、あれは事故だったんです。事件性はありませんでした」
「そんな言葉だけでは、とうてい納得できません」
「事故を調べている保険会社の人みたいですね」
 刑事の言葉が嫌な記憶を呼び覚ました。
「保険会社は、名古屋の家にまで人を送り込んできて調査をしました。事故に自殺と心中の疑いがあるとか言って――。母を一番苦しめたのは、あの人たちです。母を今のような精神状態に追い詰めたのは、あの人たちです」
 実際、亡くなった光太について、触れたくもなく言葉にしたくもない部分にまで容赦なく踏み込んできたのは警察ではなく、亡くなった運転者の加入していた生命保険を扱っている会社の調査員だった。名付けたくないものを言葉にすることが暴力であることを、わたしはあの時初めて知った。
「あちらさんとしては、大金を払わなければならない立場にありますから必死です。失礼で酷な言い方になりますが、それが商売なんです。病院でHIVの抗体検査の結果まで調べているんですから……」刑事は腕時計を見た。自分は忙しいのだというポーズだろう。「現在では、あらゆる事故であの種の検査をするのが常識になっています。救急車に乗り込む人たち、そして事故の処理と捜査に当たる私らも、血液や体液に触れたり浴びたりしますから、細心の注意を払います」
 今わたしが通っているスポーツジムの会員で、歯科医院に勤務している女性がいる。いつの間にか口を利く間柄になった。会話の中でエイズの話題が出たことがあった。医師を始めスタップ全員が、感染予防には相当気を使っているという。「曝露(ばくろ)」という言葉も、その女性から教えられた――。
「その点は、ご理解していただけますね?」刑事はなだめるような声を出して言った。
 自分では理解しているつもりだったが、『あの事故の犠牲者たちの場合は、特に訳ありでしたからね』と言っている裏の声が聞こえてくる気がした。自分が被害妄想的な精神状態に陥っているのを意識しながらも、わたしはかなり強い口調で刑事に説明を求めた。
 刑事は譲歩した。「分かりました。正直申しまして、私も現時点で複数の事案をかかえている身ですので、手短にお話しします」
 刑事は自動車事故については事実だけを淡々と述べ、自分たちが調べ上げた弟の私生活と日々の行いについてはほのめかすような言い方で語った。
 説明は、とうてい満足できる内容ではなかった。事故については興味がなかった。弟の光太に関する疑問だけが大きくなっていった。事故が単なる事故であり、事件性がないことさえはっきりすれば、警察の仕事は終わりになる。自殺と心中という想定も消えたとなれば、保険会社の調査員もそれ以上追及することはない。
 いったい、光太は東京で何をしていたのだろう。何を求めて、あれほどまでに上京にこだわったのか。予想はつく。ただ、単なる推測や空想では終わらせたくない。曖昧な死なんて、わたしには受け入れることはできない。
 光太の部屋を引き払った後も、しばらく東京に残ろう――。
 わたしは決意した。その裏には、母から逃れて一人になりたいという思いがあった。わたしも疲れていた。このまま家に帰れば、母とわたしは同じ色に染まっていく。それは危ういことだという気がした。

 

 母一人を名古屋の家に残したまま東京に留まることに、後ろめたさを感じなかったわけではない。息子の突然の死によるショックと、別居中の夫と久しぶりに会ったことによる精神的な揺らぎに加えて、保険会社の調査員から執拗(しつよう)な質問を受けた母は、一時は錯乱寸前まで行った。
 わたしが強引に連れて行く形で、とりあえず心療内科で受診させた。医師には、わたしが主に事情を説明した。気分を落ち着ける薬を処方された。なぜか、わたしにも同じ薬が出た。
 家では母と娘の役割が逆転した。母の思考と行動は幼児のようになり、わたしを母親のように慕った。常に誰かが一緒にいてやる必要があった。わたしが大学に行っている間は、母の姉である光枝おばさんが来て家にいてくれた。伯母が帰ると、母はわたしのそばから一時も離れない。お風呂も二人で入り、同じ部屋で寝た。夜間に起され、トイレにまで付き添わなければ用が足せないのには閉口した。
 最悪の状態からいくぶん回復し、何とか精神の均衡を取り戻した母は、このところわたしを相手に弟が小さかったころの話ばかりをするようになった。
 上京した息子が、初対面らしい男性の車の助手席で事故に遭った。確かに不可解な死に方だ。十九歳の誕生日を迎えることができなかった息子の死は忘れ、これから先は幼かった息子の思い出と共に生きていこうとしている。母を見ていると、そんなふうに思える。
 わたしは、弟の記憶をその骨と一緒にこのまま葬り去る気にはなれない。母にとっては今さらほじくり返して言葉にしたくもないものを、わたしはあえてほじくり返し、自分の目で見極めてみたい。そのためには、この大都市に残って歩き回る必要がある。時には、生前の弟を知る関係者と直接会って話を聞かなければならないこともあるだろう。

 

 明日のこの時刻には、この部屋は生活感のない、ただの空き部屋になっているはずだ――。
 わたしは部屋の様子を心に刻み付けておこうと、辺りを見回し立ち上がった。弟がきっと毎日そうしていたように、部屋を横切る。キチネットの前に向かう。備え付けの棚を開ける。かがんで床に触れてみる。バスルームに入る。水道の蛇口をひねる。鏡に自分の姿を映す。シャワーカーテンを引く。
 携帯電話の音がした。慌ててバスルームを出て奥の部屋に入り、机の上に置いておいた弟の携帯電話をつかむ。
 液晶には「タカ」と表示されている。通話ボタンを押す。
「もしもし、ヒカル?」
「もしもし――」言葉に詰まる。「わたし、島田光太の姉ですけど、あなたは光太のお友達ですか?」
「周りがうるさくてよく聞こえないんだけど、ヒカルじゃないの? ひょっとして女の人?」
「姉です」
「うそー。本当に女? からかっていない?」
「姉です」
 そんな言葉しか出ない自分に戸惑う。
「ヒカル、そこにいる?」
「弟は亡くなりました」
「うそー。あんた誰なの? ヒカルがいないんだったら、切るよ」
「ちょっと待って。弟のことを聞きたいんだけど――」
「別に大した用はないから、切る」
 通話は切れた。たとえ話しても意味のない相手だと自分に言い聞かせる。
「タカはバカ」とつぶやく。それが駄洒落になっていることに気が付いた瞬間、なぜか大笑いしてしまった。なかなか笑いが止まらない。

 

 電話帳検索で登録された名前と番号を次々と順番に見ていきながら、このうちの誰かに掛けてみようかと思い立った。でも、何て切り出せばいいのだろう。そもそも、まともに話せる相手なんているのだろうか。今のバカみたいな相手ばかりではないだろうか。
 人づてや報道により、光太が死んだことを知っている者もいるに違いない。この携帯電話は二週間も警察署に置かれていたのだから、これが使われて警察から事情を聞かれた者たちがいてもおかしくはない――。
 いったい、わたしは何をしようとしているのだろうか。亡くなった弟について知ろうという行為は尋常なことなのだろうか。まず自分のやろうとしていることの意味について考える必要があるのではないか。母の心の状態を心配する以前に、自分の精神状態を案じるべきではないのか。わたしは疲れを感じた。
 携帯電話が鳴った。今度は、わたしのミニバッグに入っているものだ。液晶に表示されている名は、岸川詩乃(しの)だ。
「香織? どうしたの?」
「どうしたのって?」
「もう三十分も待っているのよ」
「…………」この人、何を言っているのだろう。
「もしもし、大丈夫? 今、どこ?」
「弟の部屋」
「ちょっと、あなた本当に大丈夫? 約束忘れたんじゃないでしょうね」
「約束?」
「やっぱり忘れているみたいね」
「忘れてる?」一瞬、自分がどこで何をしているのかが分からなくなった。
「光太君の住んでいたアパートって、東中野だったわね。わたし、これから迎えに行く」
「ちょっと待って。考えさせてよ――」

 

 わたしは、一昨日の夜に、詩乃と電話で話した内容を思い出そうとした。詩乃には上京することと、その目的を話した。詩乃は自分のアパートに泊まるようにと勧めてくれた。わたしはその好意に甘えるつもりだったが、詩乃と会話をしているうちに次第に疲れを感じた。
 詩乃がいろいろ心配してくれるのはうれしいが、その気遣いがかえってうっとうしく感じられてきた。それは覚えている。
 途中で、何か理由をつけてホテルに泊まると伝えた記憶がある。でも、結局、ホテルに部屋の予約をすることはなかった。弟の部屋を訪ねるのが今回の上京で最後になるから、弟の部屋に泊まろうと思っていた。でも、夕食は詩乃とどこかで食べると約束したような覚えもある。
 母には詩乃のアパートで泊まると言ってある。詩乃は高田馬場に住んでいる。JR高田馬場駅の交番の前で会う約束をした。そんな気もする。こうして詩乃が電話を掛けてきたのだから、最終的には会う約束をしたに違いない。時刻は、詩乃の言うように三十分前の午後六時半だったのだろう。

 

「ごめん。部屋で荷造りをしていたら、時間の感覚が分からなくなっちゃった――」
 そうとしか言いようがない。母のことを笑えない。わたしも精神的に参っているようだ。きょう一日はいろいろなことがありすぎた。それに、今朝家を出る前に軽い食事をとったあと、この部屋にあったクッキー以外何も口にしていない。
 東京までの新幹線の車内で考え続けていた、弟に関する謎の数々。斜視気味の刑事に執拗に迫って、ようやく聞き出した事故の概略。遺品である携帯電話やアドレス帳の処分についての迷い。女気のなさという、携帯電話に登録されたデータにまつわる新たな疑問――。さまざまなことがあり、考えなければならないことが次々と出てきた。白昼夢にも似た経験の中で、弟との思い出にも浸りすぎた。そのために、肝心のやるべきことをすっかり忘れている。
 それにしても、カーテンを通して浴びたオレンジ色の夕日がすごくきれいで快かった。その時、小学生のころの切ない記憶が呼び覚まされた。何かに促されて、光太の衣服を身に着けてみた。光太が生きているような気がした――。
「もしもし? 急に黙り込んじゃって、どうしたの?」と、言う詩乃の声が優しい。「もしかして、あなた泣いているの?」
「ううん」と大きく首を横に振る。このところ子供返り気味の母とそっくりな動作をしているのに気づき、はっとする。「そんなことないよ。大丈夫」
「話し方を聞いていると、ずいぶん疲れているみたい。やっぱり、わたし迎えに行く。東中野のJRの駅って確か改札口が二つあるはず。光太君の住んでいたアパートは線路のどっち側、というか東中野の何丁目?」
 昨日名古屋で買った東京区分地図には何度か目を通した。自分がどこにいるかは、地図上でだいたい把握(はあく)できている。ただ番地までは思い出せない。
「――引っ越しの荷造りをしていたんでしょ。賃貸契約書とか、領収書とか、書類がない? 住所を読み上げてみてよ」
 わたしは言われるままに、引っ越し業者が置いていった見積書にある、このアパートの住所を読み上げた。
「分かった。とにかく駅の改札口まで来て。そうねえ……。七時半までには行けると思う。念のために言っておくけど、地下鉄の駅じゃないわよ。JRのほう。お互いに分からなくなったら、ケータイで連絡を取り合いましょう」

 

 今のわたしに必要なのは、人と会って喋ることなのかもしれない。誰かに甘えてみたい気もする。詩乃はしっかりした性格だ。母にわたしが必要なように、わたしにも頼る人が必要なのだろう。
 わたしは携帯電話や財布を入れたミニバッグだけを持って部屋を出た。風が冷たい。外階段を下りたところで弟の携帯電話を持ってくるのを忘れたのに気づき、いったん戻った。
 部屋に入るなり思った。
 明日の夜には、この部屋はからっぽ。そんなの許せない――。
 デスクの上にあった引っ越し業者の見積書に目が行く。「年中無休」「二十四時間受付」という文字が見える。携帯電話を取り出し、その文字の横にあるフリーダイヤルを押した。
「――お引っ越し前日のキャンセルでございますね。申し訳ありませんが、即日契約の『お任せパック』のキャンセル料は、お引っ越し料金とほぼ同額になります。それでも、よろしいでしょうか」
「構いません」
「失礼ですが、当社のサービスに対し、何かご不満でも?」
「いいえ、そういうわけじゃありません。ちょっと延期しなければならない事情ができただけですので」
「そうでございますか。延期ということでしたら、再び当社をご利用いただくという条件で、キャンセル料を割引するサービスも承っております――」

 

 再び、外に出た。冷たい風がすがすがしい。さっき外階段を下りきったさいに感じた重苦しさが消えている。アパートの近辺は木々が多く暗い。街路灯を目指して早足に進む。
 空を見上げる。夕方に見た、あのきれいなオレンジ色のまばゆい光は、もちろんない。新宿方面を見下ろす道を駅へと急ぐ。空の底に当たるグレーの部分に、霞(かすみ)がかかったような赤みがさしている。水に混じった濁りを帯びた血の色に似ていると、ふと思った。