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第2話 オレンジ色の記憶

第2話 オレンジ色の記憶

 子どもたちの声が近づいてきた。さっきまではひとかたまりのざわめきだったのが、一人ひとりの声として聞こえる。何を言っているのかまでは、よく聞きとれない。
 わたしは死んだ弟の部屋にいた。
 半年振りで会った父を含めた近親者だけの葬儀が名古屋で終わり、わたしは弟の住んでいた部屋を引き払いに上京した。母も一緒に行くと言ったが、わたしは断固として一人で行くと主張した。
 弟の死以来、人と会うのが疎ましい。刷り込みされたひな鳥のようにべったりとわたしに付きまとう母はもちろん、親しい人と顔を合わせたり口を利くのが特に嫌でたまらない。初対面の人と会ったり話すほうが、まだ気が楽だった。
 わたしはスタンドミラーの中の自分を見つめていた。裾を二センチくらい折りはしたが、弟のジーンズは驚くほどわたしの体にぴったりと合った。中に着けているトランクスの慣れない感触が残るが、不快ではない。それどころか、下腹部を不意打ちした違和感があまりにも快く、しばしうっとりと目をつむっていたほどだった。
 胸だけが目立つ。他の女性と比べて小さいと気にしている乳房が、男物のぴったりとしたTシャツにくっきりと浮き出ている。

 

 急に笑い声が間近に聞こえて、わたしは身をすくめた。窓のすぐ下の道路に子どもたちが立ち止まって何かに熱中しているらしい。窓に寄り、カーテンを引いた窓のサッシが閉まっているのを確かめ、再び鏡の前に立った。
 肩まである髪をかき上げ後ろで束ねてみると、丸みに欠けた輪郭の顔が鏡に現れる。男みたいな顔だといつも思う。唇が薄くほお骨が張っているため、一重まぶたの目が余計に意地悪そうに見える。
 きつい顔立ちをやわらげようと考え、髪型には特に気を使い、これまでいろいろ試してみた。結局、長めにしてふんわりとした曲線にまとまる今のスタイルに落ち着き、一年以上同じ髪型を通している。
 ぱたぱたと耳を打つ音と共に後ろに束ねていた髪が両肩に落ちてきた。Tシャツの右肩に染みがあるのに気が付いた。五円玉の穴ほどの小さな薄い黄色の染みが肩の縫い目をまたいで付いている。弟の生活の名残だと思うと、傍らに弟が無言で立っているような気がした。
 弟の光太とは似ているとよく言われた。年は一つしか違わなかった。幼いころの写真で気に入った一枚がある。その写真では、二人ともおかっぱ頭でおそろいの服を着せられ、性別不明の双子のように見える。成長するにつれて二人の容貌に違いは出て来たものの、見る人にはよく似た印象を与えたようだ。どちらかと言えば、わたしは小作りな目鼻立ちに痩せて骨ばった体つき、弟は体が華奢(きゃしゃ)なわりには顔は下ぶくれで大きな造作の容貌になった。
『光太は女にしても美人だけど、香織は光太の出来損ないみたいね――』
 かつて、口の悪い親戚の女が幼いわたしたち姉弟を前にして言ったことを覚えている。

 

 不意に窓の外から男の子のものらしい低めの声がした。つぶやくように何か喋っている。わたしは聞き耳を立てた。
「……本当だよ。ここから見えたんだ」
 前のほうは聞き取れなかったが、済ました耳にそんな言葉の切れ端が飛び込んで来た。さらに同じ声の主がささやき、それに応えてほかの声の笑いが起きた。笑い方から、淫(みだ)らな内容の話らしいと感じる。
 立ち聞きしている自分の行為が、はっきりと窓に映っているような気がして焦りを覚える。窓を閉じた二階の部屋からは子どもたちの話の詳しい内容までは分からない。そっと窓を細めに開けて、上からのぞき見してみたい誘惑に駆られる。
 外はまだ明るい。蔓(つる)と葉と花のパターンを織り込んだ緑のカーテンの薄い柄の部分に、オレンジ色の西日が透けて見える。
 再び笑いが起こった。声の響きから、男子児童ばかりのように思える。ますます外が気になる。記憶では、窓の外には大型の普通車が一台通れるほどの幅の道が伸び、このアパートと道路はブロック塀でさえぎられているはずだ。
 笑いの後に沈黙が続いている。子どもたちが立ち去る足音が聞こえてこない。小学五、六年生くらいの男の子たちが、西日に照らされた塀に映る自分たちの影に向かってくすくす笑いながら並んで放尿している。そんな光景が頭に浮かぶ。

 

 小学一年生のときだった――。
 わたしは、光太を含む四、五人の男の子たちと川原にいた。川の流れの緩やかな部分を石で囲って一時的な池を作り、その中に迷い込んでくる魚を閉じ込めて遊んでいた。
 突然、リーダー格の英二という三年生が川に向かって放尿し始めた。それに習って、男の子たちが次々とズボンを下ろしたりジッパーを外した。並んだ男の子たちは性器を見せ合いながら、くすくす笑った。わたしと光太だけがその様子を後ろから眺めていた。
 当時、光太はしゃがんでおしっこをしていた。ほかの男の子たちのように立ってできないこともなかったが、緊張して時間がかかったり、ズボンの下のほうをしばしば濡らして満足にはできなかった。かがんで放尿する癖は、姉のわたしやほかの女の子たちばかりと遊んでいたことから身に付いたのかもしれない。注意する年長の者もいたが、光太はしゃがんでするほうが落ち着くらしく、一向にその習慣を変えようとはしなかった。
 先に用を足した英二がジッパーを上げながら、わたしたちのほうを向いた。
「光太、おまえもこっちへ来て小便をしろよ」
 英二が弟を呼んだ。隣に目をやると、弟は眉間(みけん)にしわを寄せて口をとがらせ、泣き出しそうにも見えるほど真剣な顔をしている。以前だったら、こんなときの弟は頼りなげな表情で助けを求めるまなざしをわたしに向けたものだった。
 弟はわたしを見ないで、男の子たちのほうをまっすぐ見ている。わたしは弟の迷いが消えていくのをとっさに理解した。きっと弟は英二たちのほうへ行くだろうと確信した。放心したように弟の細い体がすっと前に伸びた。
 弟が男の子たちの所へ走って行くのを見たくなかったので、わたしは体を回して川と逆の方向に歩き始めた。本当は駆け出したかったが、わざと普通に歩いた。目の前の物が目に入らず、頭に血が上るのを感じた。
 悔しかった。きーんと耳鳴りがしてきて、背後の男の子たちの声と川の流れの音がはるか遠へと去って行くような気がした。硬い石ころばかりの所から柔らかい草地に足を踏み入れたとき、わたしはようやく振り返ることができた。
 石の囲いの隅に大きな魚でも追い込んだのか、男の子たちが頭を寄せ合っているのが黒いかたまりとなって見えた。その向こうに夕日を受けた川面(かわも)がオレンジ色に輝いていた。

 

 あのときも、ちょうどこれくらいの時刻だった。目の前には、記憶の中の色と同じオレンジの光があった。