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第1話 残された携帯電話

第1話 残された携帯電話

 その日の朝早く、わたしは新幹線を利用し、名古屋から東京に着いた。東京駅から電車を乗り継ぎ、午前中に世田谷区にあるS警察署に寄った。そこで、事故捜査の参考資料として警察が弟の部屋から持ち出していた数点の物品を、両親の代理として受け取った。
 担当だった斜視気味の刑事の前で、一点一点書類と照らし合わせて確認する作業がもどかしかった。紙袋に詰めた弟の持ち物を骨箱のように両手で抱えて、わたしは電車で東中野にある弟の部屋に向かった。
 前日に名古屋の実家から連絡しておいた引っ越し業者による見積もりが午後早くに済み、引っ越しは翌日に決まった。
「まず貴重品を別にして、ご自分でお持ちください。衣類やこまごまとした物の荷造りだけをしておいていただければ、あとは全部こちらで運びます」
 見積もりに来た男は言い、引っ越しの手引きの冊子を残して去った。

 

 携帯電話を使い、引っ越しの期日と荷物の運搬の詳細について実家の母に知らせた。警察署での手続きが完了したことも伝えた。
 用意しておいた言葉は、最後になって一気に早口でまくし立てた。
「わたし、しばらく東京にいる。光太(こうた)のことを忘れるためにも、しばらく美術館や展覧会を回って絵でも見ていたいの。大学のほうは心配いらない。学園祭が近いから、みんなろくに授業に出ていないし――」
 不意をつかれた形の母は、予想通りわめき出した。
「そんなのずるいわ。お父さんもあなたも、いつもそうやって私を見放すのね」
「こっちでは、岸川(きしかわ)さんの所に泊まらせてもらうから、大丈夫」
「あなたは大丈夫でしょうけど……」と母は声を詰まらせた。「香織(かおり)お願い。私を一人にしないで。置いてきぼりは、いや」
 泣き脅しが始まりそうな気配になってきた。光太の死以来、母は情緒が不安定になり、「子ども返り」のような精神状態になっている。母は、わたしを頼る標的として選んでいる。それがうっとうしくてたまらない。
「またそんな子どもみたいなことを言っている。あの人と違って、わたしはやるべきことはちゃんとやったでしょ? 少し休ませてほしいの」
 わたしは、母と別居中の父を「あの人」と呼んでいる。
「そんなのいや。だめよ。ねえ、お願いだから」
「寂しかったら、光枝おばさんの所に行けばいいじゃない。別に、わたし、もう帰って来ない訳じゃないんだから」
 そう口にしたあと、言い方がまずかったことに気づく。
「当たり前です。もうこれ以上、家族が減るのはいや」
 案の定、弟の死を思い出させる結果になってしまった。
「学園祭が終わるまでだから、すぐに帰るって」
「だめ」
「熱帯魚に餌をやるのを忘れないでね。光太の形見よ」
 意地の悪い言い方だと思いつつ、わざと弟の名を出す。
「死んでも知らないわ――。いいえ、あんなの殺してやる」
 今の母の精神状態ならやりかねないと思う。
「わたしが帰ったとき、一匹でも死んでいたら、お母さんの猫たち、皆殺しにするわよ」
 母の心の状態がこちらに伝染してくる。
「まあ、ひどい」
「餌は三日に一度よ。耳かき三杯――。聞いてる?」
「もう、勝手にしなさい」
「本当? じゃあ、勝手にさせてもらう。電話だけは毎日必ず掛けるからね――。言っておくけど、そっちからの呼び出しには出ないわよ」
 母とのやりとりは、こうして終わった。その後すぐに、母の姉である光枝おばさんにも電話し、切り口上で一方的に留守中の母のことを頼んだ。わたしはこの伯母も苦手だ。母の実家の女性たちは、みんな金銭的に細かく、しかも意地が悪い。

 

 わたしは弟の衣類や日用品の荷造りに取り掛かった。弟の財布は手元にあるが、貯金通帳やほかの貴重品については、どこに何があるのかが分からない。引っ越し業者を信頼するほかない。
 業者が置いていった段ボール箱に衣類を詰めている途中、クローゼットの中に洗濯がされていない衣類がかたまっているのを見つけた。死の直前まで弟が身に着けていたのだと思うと、いとおしくてならない。一枚一枚丁寧に畳んで箱に収めていった。
 洗濯してあるものとは違う。一度素肌に触れたり、体温や汗を通した衣類は、手にしっとりとなじんできて、わたしは無意識のうちにその感触と匂いのとりこになっていた。
 長い間穿いていたと思われるひときわ柔らかい感触のジーンズを手にしたときには、思い切り鼻を押し当てずにはいられなかった。長く置きっ放しにしたコーラのような、酸っぱく哀しい匂いがした。

 

 警察から返された物の中に、携帯電話と充電器があった。充電がフルになっている。事故の捜査をするに当たっても、利用されたことがうかがわれる。
 S署から名古屋の家に最初の電話があったときには、取り乱している母に代わってわたしが応対した。自動車事故とほかの可能性の両面で捜査をしていると言われた。
 弟の携帯電話のデータを見ることには抵抗がある一方で、好奇心もあった。仮に弟が日記を残していたとすれば、わたしは焼却するかシュレッダーで処分するだろうと思う。日記らしきものは今のところ見当たらない。
 戻ってきた物の中に、ブルーの表紙のアドレス帳があった。めくってみると、氏名、住所、電話番号が明記されたものは少なく、そのほとんどが名古屋市内か愛知県内の住所だった。中学と高校時代の友人のものに違いない。
 都内とその近辺の住所が記されたものもある。男性のフルネームと電話番号が記されたものばかりだ。さらにカタカナやひらがなで書かれた名字だけや、名字なしの男の名や、ヒロ、マーちゃんといったあだ名らしい性別不明の名に添えられた携帯電話の番号がたくさん書かれていた。
 万が一携帯電話をなくしたさいに備えてのメモと考えられないこともない。弟には割と慎重な面があった。いずれにせよ、不透明な印象のするアドレス帳だった。その違和感はどこから来るのだろうと考えているうちに、ふと気付いた。女気がない。
 あのような事故に巻き込まれた弟は、この東京でいったいどんな生活をしていたのだろう。わたしは新幹線で東京に向かう間にも、そのことばかりを考えていた。
 アドレス帳をめくっていて、そうした疑問を晴らす鍵の一部に触れたような気がした。アドレス帳にざっと目を通した後は抵抗感がなくなり、弟の残した携帯電話のデータを見ることに対するやましさは消えていた。
 携帯電話の電源を入れる。S署で受け取ったときには、電源は切られていた。メールはない。警察が削除したのか、そもそも弟がメールをあまり使っていなかったのか、読んだメールをこまめに削除していたのか。「電話帳検索」を出し、登録された名前と番号をざっと見ていった。女気がない。アドレス帳と同じ印象を受けた。明らかに女性と分かる名が極端に少ない。
 島田香織――。わたしの携帯電話の番号はフルネームで登録されていた。名字が添えてあるのがよそよそしくもあり、わびしい。

 

 年子だったため、上京するまでの弟についての記憶は、自分の過去とほぼ重なる感じがする。毎日同じような生活を続けてきたという思いがある。姉弟としては他人から不思議がられるほど仲が良かった。実際、互いに隠すことはあまりなかったような気がする。わたしの初潮、弟の初めての精通についてさえ、互いに知っている。そこまで話す仲だった。
 女気がないというのは、距離を置いて暮らすようになったために感じた印象だと思う。よく考えると意外なことではない。むしろ納得できる。そういう子だった。
 弟はあまり強い自己主張をする性格ではなかったが、大学進学については希望を曲げなかった。どうしても東京の大学に入ると言い張って、息子を遠くに離したくなかった母を困らせた。せっかく推薦を受けて合格した地元の大学へは進まなかった。わたしから見ても高望みだと思われる都内のミッション系の大学を第一志望にして譲らなかった。
 なぜその大学にこだわるのかと、わたしは尋ねた。
「だって、格好いいんだもん」
 あきれるような理由が返ってきた。
「浪人してまで行くわけ?」
 さらに追究した。
「名前に『院』がつく格好いい大学なら、どこでもいい」
 それなら、ここはどうかといって「学院」が最後につく名を挙げてみた。
「格好いいじゃん。そこって、東京にあるの?」
「そうよ。でも、女子短大なんだけど」
「入れてくれるんだったら、そこでも別に構わない」
「本気?」
「とにかく東京に行きたいんだ」
 わたしには、答えにならない答えとしか思えなかった。でも、そうした会話には慣れているため、説教じみた意見を述べることなく聞き流した。
「予備校生もやってみたいし、来年駄目だったら、専門学校でもいいし――」
 いかにも弟らしい言葉だった。これも聞き流した。

 

 アドレス帳にも携帯電話のデータにも、女気がない。家族の干渉から逃れた弟が求めていたものは、そうした状況だったに違いない。姉であるわたしは確信に近いものを覚えた。
 どういう経緯で弟が、ある男性と知り合い、その人の車の助手席に乗っていて事故死したのかは分からない。でも、その男性と一緒にいたことだけは、すんなりと理解できる気がした。
 携帯電話の電源を入れたことで、これまで封印されていた箱の蓋を開けたような心境になった。何が出てくるのかは分からない。何も出てこないのかもしれない。弟の携帯電話と手帳をデスクの上に置き、わたしは荷造りの作業に戻った。