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はじめは、よくあるニュースだと思った。

 

 はじめは、よくあるニュースだと思った。
『本日未明、自営業を営むAさんとその妻が、県内の山中でガードレールを乗り越え、30mほどある崖下へ転落。全身を強く打ち死亡しているのを、地元の住民が発見した。現場は狭い山道となっており、付近にAさんのものと見られる自家用車が駐車されていた。また、Aさんは県内で書店を数店舗経営していたが、経営がうまくいかないことを周囲へ漏らしている経緯もあり、警察は心中と事件の両面から捜査中』
 これと同じようなニュースを、何度目にしてきたことだろう。自分とは関係のないAさん。だがもちろん、それが同じように繰り返されているからといって、事件の悲劇性がなんら薄まるわけではない。当事者にとっても、それを見聞きした者にとっても、絶望的な結末であるという苦い後味だけが残るニュースだ。

 ただ、ごくありふれているがために、人々はそれらをとても簡単に忘れ去ってしまう。大学の、人気のない学生食堂で遅い昼食を食べながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 季節は秋だった。脇に誰かが置いていった新聞があり、読むともなしに眺めていて、ふと目にとまっただけの記事。使い古されたテーブルの上には、ライスとハンバーグと味噌汁、付け合わせは甘く煮た人参とコーン、学生食堂で最もポピュラーなメニュー。読んだ端から忘れ去られ、食べた端から消えていく。
 そして、過ぎてしまえば二度と思い出すことのない、ありふれた日。
 だが、ふと目を上げてテレビのワイドショーを観た時、そのニュースが突然、時間と場所を越えて眼前に迫ってきた。
 スタジオでは、リポーターがAさんの実名と顔写真を紹介していた。その妙に青白い肌に見覚えがあった。
 あれは……
『タチバナさん夫妻には6歳のお子さんが一人いて、難病を患い都内の病院に入院中』
 数秒の間、画面に映された病院は、何度か前を通ったことのある隣町の大きな総合病院だった。
 しばらく動くことができなかった。
 気づくとテレビではもうすでに通販のCMが始まっていて、股関節の筋肉を鍛えることがどれほどダイエットに貢献するか、司会者が懸命にこちら側へ訴えかけていた。


何を言われるかわからなかったし、

 

 何を言われるかわからなかったし、おかしな男と思われても仕方ないだろう。デリカシーのない野次馬と勘違いされる恐れもある。だが、行きたかった。あの出来事を伝えたかったし、何より自分だけに留めたくなかった。打ち明けたい、そう思った。
 午後の授業で単位に必要なものはなかった。だが、例えあったとしても多分こうしていただろう。僕は、あのテレビを観てから昼食もそこそこに大学を出ると、その足ですぐさま隣町の病院へ向かった。自転車で約30分。道中、焦る気持ちを抑え、極力ゆっくりと、頭を整理しながら自転車を漕いだ。どういう対応をされるかわからないが、行くからには冷静に、わかりやすく話したかった。時間軸を整理しながら、あの時、何が起こったのか、何を言われたのか、そして、自分がどうしてこんなことをしているのか、もう一度振り返って、今に至る過程を導く言葉を探した。
 病院の入り口が、先ほどテレビで観た光景と一緒だったため、自分が映像に入り込んだようなちょっとした違和感を感じた。あれは生中継だったと思われるが、すでにマスコミもいないようだ。
 自動ドアをくぐり、初めて中へ入った。清潔さはもちろん、洗練された内装かつ、「綺麗」というカテゴリーを決して踏み越えないシンプルなデザインだ。1階ロビーは2階まで吹き抜けになっており開放感を感じるが、それは単に「現代的で清潔な病院づくり」というマニュアル通りの設計に思われた。
 どこへ行くべきなのだろう。患者も職員も、特に変わった雰囲気は何もない。台風の直撃予報があっさりはずれたような、拍子抜けするほど日常的な風景だった。
 自転車で若干弾んだ呼吸を落ち着かせながら、とりあえず相談窓口へ向かった。一人、カウンターの前におばあさんがおり、何事か、聞き取りづらい会話を続けていた。若干困り顔の女性二人が対応していたので、その後ろで少し離れて立ち、しばらくかかりそうだと考え、もう一度、頭を整理しようとした。
 すると、おばあさんから遠いほうの女性が後ろの自分に気付き、声をかけてきた。
「どうぞ」
 自然な対応に動悸がドクンと反応する。自転車のせいではない。おばあさんの脇を抜け、受付の前へ進む。20代前半、僕と同い年くらいの、やはり清潔感のある女性だった。一言が出ない。
「あの、いや、忙しいところすみません。どう言っていいかわからないんですが」
 沈黙。
 おばあさんはこちらをちらりと見て、「ありがとうございました」と一礼して退散した。
「先程、あの、ニュースを観まして、えと、ご両親が亡くなられて、お子さんが一人、遺されたという、それでこちらの病院がテレビに映っておりまして、入院して治療を受けていると。僕は、関係者というわけではないのですが、父親に当たる方とお会いしたことがありまして、それで、そのことでぜひ、どなたか、お子さんに関係のある方へ、お伝えしたいことがあります」
 何度も頭の中で反芻した言葉だった。緊張の割に、それほど違和感なく伝えられたはずだ。
「それは、どのような御用件でしょう?」
 おばあさんの相手をしていた40代前後の女性も、明らかに怪訝そうな表情でこちらを見ている。
「それが、もしよろしければ、どなたか、そういった相談のできる方と、別室でお話したいのですが。人の目があると、話しづらい部分が若干ありまして」
 受付の女性二人が顔を見合せた。一瞬の躊躇の後、はじめに対応した20代前半の女性が「しばらくお待ちください」と言って、奥のデスクに座っている男性のところへ行き、声をかけた。男性は僕を見て、女性と二言三言話し、席を立って僕の方へ向かってきた。40代後半、眼鏡をかけた真面目そうな印象だった。
「どうも。失礼ですが、ご遺族の関係者の方でしょうか?」
「いえ、お伝えしたいことがあって、関係者かどうかと言われれると、ただ」
 できれば、この場ではあまり詳細を話したくなかった。ちょうど後ろから若い夫婦が子供を一人抱いて来て、受付のもう一人の女性に呼びかけるところだった。
「少しお話させて頂きたい、お伝えしたいことがありまして」
「身分証をみせて頂いてもよろしいですか? ……失礼ですが、学生の方でしょうか?」
「はい。あ、学生証あります」
 肩にかけた小型のバッグから財布を取り出し、学生証を渡した。男性はその裏表を軽く確かめた。特に疑っている様子はなかった。
「わかりました。それでは、お話だけ伺いましょう」

 


通された部屋は

 

 通された部屋は「地域医療連携室」と書かれた部屋だった。「部屋の名前は気にしないでください。ここが空いていただけなので」と先回りするように言われた。はじめに受付を担当した女性がお茶を持ってきて、そのまま男性の隣席についた。男性はワタナベと名乗った。
「サイトウさん、でしたね。それで、どのようなお話でしょうか?」
「はい。実はその、先ほども少しお話したとおり、僕は以前に一度だけ、今回あの、自殺、されたというお父さんにあたる方と、お話というか出会っておりまして。それが、ふた月くらい前なのですが、深夜、歩道橋の上から飛び降りようとしている方がいまして、それがその方だったんです」
 あれは、夏の始まりの季節だった。深夜、ある文学賞へ作品を応募するために郵便局に行った帰りだった。ギリギリまで推敲した後、当日消印をもらいに郵便局へ向かい、疲労と充実感の入り混じる妙な高揚感を抱えながら帰路についていた。ビールでも買おうかと近所のコンビニへ寄るため歩道橋の階段を上り、最上段の手前で、誰かが歩道橋の手すりを乗り越えようとしているのが見えた。
 正直、幽霊かと思った。ビクッと驚いてしばし呆然と見ていた。慣れない動きで手すりを越えようとする懸命さが、薄暗い電灯の下で樹液を争う甲虫のようになぜか妙にコミカルで生々しく、それが今、眼前で本当に起こっていると気づき、慌てて駆け寄った。どうしようという前に体が勝手に動き、自分でも驚くほど力強く、その人の体を手すりから引き剥がした。
 その人はやや小柄な男性だった。白い長袖のYシャツにジーパンという格好で、靴は脱いでいなかった。組みついた時に煙草と酒の匂いがした。汗ばんだ背中の感触が生身の温かさで手のひらに残った。
 引き戻した勢いで男は歩道橋の床で腰を打ったらしく、しばらく痛みによるうめき声をあげていた。僕は立ったままそれを見下ろす格好になり、なぜか申し訳ない気持ちになったのを覚えている。大丈夫かと声をかけたかったが、男は決してこちらを見ようとはせず、じっと下を向いたまま左手で腰をさすり、時折右手の拳をぶんぶんと振り回し、何事かぶつぶつと呟いていた。察するに、「チクショウ」とか「余計なことをして」とかの、ネガティブな口調であることは間違いなかった。途中で居たたまれなくなったが、しかし、そのまま立ち去ることもできなかった。誰も通らなかったし、見てもいなかったせいで、お互いに居心地の悪さを感じたまま、僕はその間の長さに「ドラマとは違うな」という変な感覚を覚えたほどだ。
「ホント、くそ、勝手に、いいよ」
 やはり、酔っているようだった。恥や悔しさもあるのだろう。待望の第一声だったが、全く言葉になっていなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
「……何が。いいよもう、関係ないから」
 こういう場合、交番へ連れて行ったほうがいいのだろうか。しかし男は僕に背を向けたまま、のそのそと立ち上がろうとしていた。手を貸せる雰囲気ではなかった。そのまま、僕とは反対の方へ歩いて行こうとした。かける言葉がなかった。それでも、死ななくてよかったと思った。眼前で死なれたら、やはり嫌な気持ちになるだろう、と徐々に冷静さを取り戻しつつある頭で考えていた。
 そのとき、男が振り返った。血走った眼で、決して痩せているというわけではなかったが、血色の悪い青白い肌が電灯に照らされて浮かびあがった。初めて顔を正面から見た時になぜか、髭がきれいに剃られている、という部分が印象に残った。
「救ったなんて思うな」
「え?」
「思い上がるな。俺は救われてない。むしろ逆だ。俺の代わりにあんたが家族の面倒見てくれるのか? 金を、あんた……」
 男はじっと僕の眼を見据えた。迫力があった。とっさに「すみません」と言いそうになったが、ためらい、黙っていた。男も次の言葉を噛み殺したようだった。
「……チッ、俺がどれだけの覚悟で飛び降りようとしたか、苦しんで、悩んで。俺は家族のために必死でやったんだ。俺のためじゃない、家族のためにやったんだ。誰にも非難される覚えはない。むしろ感謝されることだ、これで救われたはずだ。それを、あんたがやったのは救いなんかじゃない。証明してやる」
「証明って……」
「見てろ、忘れるな。忘れるなよ。絶対に。証明してやる」
 そう言って、男は立ち去って行った。


白く明るい部屋の中に

 

 白く明るい部屋の中に沈黙が訪れた。暗い雰囲気を避けようとして視線は行き場をなくし、普段は気にならない浮かんでいる塵にばかり目がいった。まるで沈黙を形にして部屋を満たしているようだった。
 話している間に思い出したことや、あるいは時間が前後していることもあった。だが概ね整理して話せたと思った。そして話し出すと、そこまで複雑な出来事じゃないということにも気づいた。正直、自分が背負っていると感じていたものが案外軽いのではないかと感じて、逆にホッとしたほどだ。
「つまり、それで、あなたは……」
 男性は言葉に詰まった。たぶん、言葉を選んでいるのだろう。
「いえ、すみません。自分でもうまく言えないんです。本当は、大した出来事じゃないのかもって今、話してて気づきました。ニュースを見た時は、絶対に誰かに伝えなきゃって思ったのですが、でも、こういう出来事があったってだけで、それが」
「いやいや、話して頂いてありがとうございました。お気持ちはわかる気がします」
「……辛いですね」
 女性のほうが初めて口を開いた。今まで気付かなかったが、単に清潔というよりむしろ少し日焼けした、活発な印象の女性だった。髪の先がくるんとはねているせいかもしれない。
「一つお伺いしたいのですが、その話は、もうどなたかにされたのですか? つまり、たとえばマスコミとか」
「いえそれは、これが初めてです。誰にも、友達とか身内とか、そういった人にも話したことがなくて。どう言っていいかわからなくて。正直、自分でも整理できなくて」
 そう、怖かったのだ。うまく言えない感情だったが、話してみて気づいた。自分が少なくとも善意のつもりでしたことが、相手に恨まれるような結果になり、それを誰かに話したら証拠が残ってしまうようで、そこから出来事が大きくなってしまう不吉な予言のような気がしたのだ。誰にも広げないことで、何事もなく過ぎ去ってほしかった。だが、決して忘れることもできなかった。
「そうですか。それはよかった。よかったというか、つまりその件ではいろいろと問題がありまして。いや、問題というか、まぁ当然というかデリケートな部分ですね、それでできれば、その話を他ではなさらないで頂きたいです」
「もちろん、そうだと思います」
「あと、もう一点お伺いしたいのですが、この話をされて、それで何か、ご要望というか、こちらに望まれることがあるのでしょうか?」
「いえ、望むとかではなくて、すみません、自分でもそこのところをどう言っていいのかわからないのです。言いにくいのですが、その……」
 言葉が見つからず言い淀んだ。だが、言いたいことは思いのほか明確だった。
「…つまり、責任を感じています。自分があの時したことは、決していいことにはならなくて。だってあの時はあの男性一人でしたが、今度は夫婦二人で、その、心中の可能性もある、と言われて、それなら、あのとき止めないほうがよかったのではないかと。それに、あのときあの人に言われたことを、誰か関係の方に伝えるべきなのか、それとも自分がこのまましゃべらずにいるべきなのか、それもわからなくて。ただ、お子さんが病院に入院しているということを聞いて、それで、話すべきじゃないかと思ったのです。なんというか、どのような責任になるのかわかりませんが、少なくとも亡くなった人の言葉というか、したことを、どなたかに伝えるべきかと。でもよく考えたら、先に警察へ行くべきだったのかもしれません」
「…そうですね、確かに。捜査に影響するようなことですしね」
 女性が頷きながら言った。男性がそれを受けて言った。
「わかりました。とりあえず、こちらで受けさせて頂きます。しばらく待ってもらえませんか? そうですね、警察へもこちらから連絡します。その、今状況が非常にデリケートですので。それで、はっきりとしたことは言えないのですが、この件に関しましては、こちらで一度引き受けまして、後日、改めてこちらからご連絡するという形でよろしいでしょうか?」
「はい。相談というか、面倒をかけるようになってしまって、すみません」
「いや、そんなことは本当にないですよ。あ、連絡先と、学生証をもう一度、あの、コピーさせてもらってもいいでしょうか?」
「もちろん、構いません」
「じゃ、ヨシザワさん、お願いします」
「はい」
 ヨシザワさんと言われた女性が学生証を受け取り、コピー機があると思われる奥の部屋へ行き、機械音が聞こえた。そして、戻ってきた女性が学生証を返す時、僕の眼を見ながら力強く言った。
「大丈夫です。あなたは正しいことをしました。決して、間違ってないです」
「…え?」
 男性も頷きながら言った。
「そうですよ。その通りです」
「……いや、ありがとうございます」
 本当にそうなのだろうか。僕は、御礼の言葉を返すことしかできなかった。虚空へ放り投げたボールと変わらない、誰にも届かない感謝のように感じた。


それから実際に電話がかかってきたのは

 

 それから実際に電話がかかってきたのは、三日後のことだった。その日はバイトもない土曜日で、10時すぎに起き、冷蔵庫にあるもので適当にご飯をすまそうと思っていた。一人暮らしもだいぶ慣れたもので、たまにあまりにも美味しすぎる料理を作ってしまい、寂しくなる時さえある。だが、今日は完全に手抜きで、目玉焼きと昨日のご飯をチンしてすまそうと考えていた。携帯が鳴ったのはちょうど卵をフライパンで蒸している時で、そろそろ仕上げのクレイジーソルトでもかけようと蓋を開け湯気で眼鏡を曇らせている最中、着信音に気付き慌てて火を止め、リビングのテーブルに置いてある携帯を取った。ディスプレイには見慣れない数字が並んでいた。
 かけてきたのは、この前対応した男性ではなく、小児外科の医師だった。「突然お電話して申し訳ない」と前置きしてから、「ぜひお話をお伺いしたいので、再度、来院してくれないだろうか」との申し出があった。「話の内容によっては、こちらからお願いしたいことがある」と。
「お願い、ですか?」
「電話では言いにくいので、来て頂いたときにお話しします」
 非常に落ち着いた、親しみやすい声だった。
 今日の都合を聞かれ、今日は特に何も予定がないことを伝えると、もしよければ午後1時に小児科の外来に来てほしい、と言われた。こちらもそれで異存はなかった。
 病院まで自転車をこぎながら、電話での会話を思い出していた。大した関係者でもない自分がお願いされることは何もないはずだ。だが、悪い気もしなかった。大学3年の秋に就職活動を始める者も多かったが、自分はどうもその気になれず時間が空いていた。だから用事があるというだけで少し気分が良かったし、何より自分が受け入れられた、という手ごたえが喜ばしかった。この三日間、連絡が来ないどころか、もしかしたら変質者として処理されたのではないか、と考えていたからだ。
 それにあれ以来、この事件が一切報道されなくなったことも気がかりだった。ネットにも取り上げられていなかった。世間はこんな片隅のニュースなど簡単に忘れ去ってしまい、自分までその波に呑み込まれたように感じた。
 1時より少し早かったが、時間を潰す場所もなく、とりあえず言われた通り小児科の外来へ行ってみることにした。相変わらず清潔な白い建物の中にあって、少し意外なことに、小児科の区画だけは完全に別個の暖色系の色で塗られていた。デザインも、たぶん子供を意識したのだと気づく、曲線的で多少入り組んだ造りになっていた。
「外来の受付に名前を言ってほしい」と言われていたので、自分の名前を受付の女性に伝えた。この前、相談窓口にいた女性と同じ制服だった。そういえば、彼女はまだ相談窓口にいるのだろうか? ふと思って後ろを振り返ったが、ここからは壁があって病院の中央にある受付カウンターを見ることはできなかった。
 すぐに、「サイトウさん」と聞いたことがある声で呼びかけられた。向き直ると、白衣を着た白髪の男性がすぐ脇に立っていた。
「先ほど電話をかけました、小児外科のミツイと申します」
「あ、サイトウです。先ほどは、どうも」
 それでは、と案内されて診察室に入った。最近病院へ来ることはなかったが、ベッドと椅子と机、そして総合病院にありそうな最先端っぽい機械が何台か置かれていた。小児科らしく、アンパンマンの折り紙や小さなぬいぐるみもいくつか置いてあった。
「お忙しいところ、お呼び立てしてすみません」
 年の頃は40代後半だろうか。いかにも小児科という感じの柔和な顔立ちの先生だった。いくぶん髭の濃さが目を引いたが、髭にもだいぶ白い毛が混じっていた。
「いえ。学生なので、特に忙しいとかはないので、構いません」
「そうですか、そう言われると助かります。ところで、事務課のワタナベより伺いました。私はアヤカちゃん、あの先日亡くなったタチバナさんの娘さんですが、彼女の主治医をしています。あなたもその節は、いろいろあったようですね。故人を悪く言う気はありませんが、とても残念なことでした」
「タチバナ」という苗字を聞いて先日のニュースを思い出した。忘れていたが、あの人はそんな名前だったのを思い出した。
「その、ここであなたがタチバナさんと出会ったことについて、これ以上伺う気はありません。今日お越し頂いたのは、実は少し違う話です」
「はい」
「失礼ですが、あなたの学生証も拝見しました。文学部に通われているんですよね? あなたを信用できると見越してお話ししますので、これからの話は、是非とも他言無用でお願いしたいのですが」
「…わかりました」
 流れるように話が進むので、頭の中でシナリオができているんだろうな、と感じた。
「まず、あなたのことについて話させてください。というのも実は、私はあなたを知っているのです。もちろん、現実に出会っているわけではなく、具体的に言うと、タチバナさんからもらった最期の電話で、あなたのことを聞きました。
 タチバナさんは、ご夫婦とも非常に真面目な方で、毎日病院へお見舞いに来ていました。ただ、たぶん疲れていたんでしょうね。会社というか、経営がうまくいっていないということも、噂で知っていました。それに真面目だからこそかもしれませんが、プライドが高い面もあったようで、看護師と話しても『大丈夫』としか言わなかったそうです。顔色もあまり良くないので、知り合いの心療内科を勧めたのですが、拒まれました。力不足だったと悔やんでいます。
 実は最期の電話というのが、本当に事件の直前にかかってきた電話でした。深夜、私は当直だったのですが、タチバナさんには私の携帯の番号を教えていましたので、病院ではなく直接かかってきました。この病院にはアヤカちゃんのような難病の子が何人か入院していますが、私は原則、そういった子たちの親には、いつでもお互い連絡できるように自分の携帯の番号を教えます。それだけで信頼を得られるケースも多いのです。
 電話の声を聞いて、すぐお酒を飲んでいるな、と感じました。酒乱の気がある人なのかもしれません。『とにかく、娘をお願いします』と言われました。『金のことは今弁護士に頼んだから』と。上ずった、非常に切迫した口調でしたので、異常な事態というのはわかりました。『落ち着いてください』と言いましたが、こちらの声はほとんど届いていないようでした。
『先生には一つお願いがある。これから起こることを、娘には絶対に教えないでくれ。妻も隣で寝ている。睡眠薬を飲んだから終わるまで起きない。妻も疲れたと言って、こうなることを望んだ。だが、ヤケになってるわけじゃない。悩んで選び取った結果だ。人間いつか死ぬ。絶対に終わる時が来る。だから、どんな死に方をするかだけだ。娘もいつかわかってくれる。娘のために、私たちは死ぬ』
 そう言われて、『今どこにいるのか、早まったことはするな』と強い口調で言いました。『アヤカちゃんはきっと治るから、両親が死んだら悲しむぞ』と。
『大丈夫。とにかく、娘を助けてくれ。命が助かれば、その後は問題ないよう弁護士に頼んだから』と繰り返されました。電話を切られそうな雰囲気でした。
『ダメだ、なんで死ぬんだ。電話を切らないで、死なないでくれ』と頼みました。その後しばらく、沈黙がありました。何か、言葉を選んでいるようでした。
『死なないことが救いじゃないよ、先生。ただ生きてるだけでは、誰も救われない。先生なんて世間知らずだからな』そこで、あなたの話が出たのです。
『前に一度、飛び降りを止められた、若い男に。学生か、やっぱり現実を知らない風だった。だがそれじゃダメだ。こんなに俺も妻も悩んだのに、あんたらは簡単に敗者と決めつけるな。俺は敗者じゃない。見下すなよ。むしろ勝つんだ。娘が助かりさえすれば、後は死んだら勝ちだ。わかってないよ先生、報われない苦労をするために娘が助かって、何の意味がある? ここで死んで、証明してやる。敗者はお前らだ。先生は娘を助ければいい。後は俺がなんとかする』
 そこで、電話を切られました。あとはニュースで見た通りです。弁護士から翌日電話があり、あくまで故人の遺志を尊重してほしい、と言われました」



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