目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No.1604年目

陽岳寺護寺会便り平成26年3月1日No.160

【お彼岸法要のお知らせ】

申し込み不要・自由参加

お彼岸法要、お中日に

3月21日2時半~

今年から春や秋のお彼岸に法要を、と考えています。どうぞご参加ください。

 

l  日時 平成26年3月21日(金・祝日)   

   午後2時半~ お彼岸法要

l  備考 事前申し込みは不要です

だれでも参加できます

 

今年から春や秋のお彼岸に法要をと考えています。申し込み不要、お中日(3月21日)の2時半からスタートです!

通りすがりだろうと、親戚だろうと、お墓がなかろうと、護寺会員だろうと、参加自由のものをです。

年回忌とは、ある意味、節目です。毎年やってくる祥月命日も節目、お彼岸も節目です。ふだん忙しくて法要に参加できない方でも来寺できるようにと考えています。陽岳寺の法要を体験していない方もいらっしゃるはずです。どうぞご参加ください!法要は短い時間です。お待ちしております。

【コラム】4年目

「どうして上司は分かってくれないのだろう。(わたしは頑張っているのに!やきもきしているのに!そんなつもりじゃないのに!タイムリミットがあるのに!)」

「あの人の考えていることは、まったく分からない。(なんでそういう風に思うのかな、バカなのではないか、ものを知らないのではないか)」

人は追い詰められると、自分のパターンにはまって、まわりが見えなくなります。まわりが見えなくなるということは、自分以外のことを考えることができない、自分の世界の論理でものを見るということ。他者の存在が消えるのです。

消えるのは他者だけではないようです。

「自分は、なぜあんなことをしてしまったのだろうか。(自分で自分が分からない)」

自分の存在も見失ってしまう。

《本当の自分はどこにいるのか?》

この疑問にふりまわされて悩むことを『自分探し』と言ったりしますが、どこかに自分がいなければならない、と自分で自分を追い詰めているために出てくる行為のようです。冒頭の上司をこころのなかで責める人も、他者を理解しない人も。ではなぜ悩むのでしょうか、まわりが見えなくなるのでしょうか、自分のパターンにはまるのでしょうか。

ひとつには、自分に自信がないから。

ひとつには、環境や周囲の影響。

これらに共通していることは自覚がない、ということです。自分のパターンが絶対だと信じている人はそのように思い込んでいるのですから、自覚はありません。環境や周囲の影響は目に見えませんから気付きにくい。

人のしぐさや考え方は、環境や周囲の影響でその人に浸透していきます。

『生き方や考え方を変えるには、付き合う人や場所を変えること』と古人は言いました。

わたしたちは、環境に適応する能力を持った生きものです。しかし、この能力は一長一短。パターンにはまれば生きやすくもなれば、はみだせば生きにくくもなる。あちらを立てればこちらが立たずは当たり前なのに、従来パターンでどうにかしようとして失敗する。

解決の糸口は、見えないものを言葉にすることです。目に見えるかたちに自分でしてみることです。習慣(自分で自分を追い詰めている、自分のパターンに逃げ込んでいる、色眼鏡で見る)という自分で自分の見えない持ち物を点検していくと、なに・どこに自分を持っていたのかに気付きます。

2011年3月11日金曜日、東日本大震災が起こり、今年で4年目となります。

キズナという言葉が流行し、地縁に注目があつまりました。しかし、その後キズナという言葉は地縁よりも狭い血縁へと、意味が閉じてしまいました。信用信頼は、家族や血縁にしかないのだというあきらめ。その家族や血縁というキズナは、血が混ざらないと、他人をいれないと広がらないという事実を見ないキズナです。自覚がない。

キズナを血(同じ・変えられようのない・可能性が広がらないもの)というパターンに落とし込んだのは誰でしょうか。

それをしたのは、わたしたちだという自覚。環境や周囲の影響に同調することは楽ですが、キズナを血縁という可能性に狭めてしまったように、わたしたちは自分で自分の首をしめる。自覚がなければ、上司のことも分からず、他人の考えも分かりません。

すべて認識のずれです。自分と他人の、認識のずれ。自分のなかにもある、認識のずれ。

あなたは本当にそう思っているのか。自分はイヤだ、好きだ、分からないことだ、と断じていないか?

認識のずれを自覚して、東日本大震災4年目をむかえたい。そう思いませんか。(副住職)

◎春彼岸は3月18(火)~24(月)日、お中日は21日(金・祝)です。


ごほうび坐禅会:3月26日()19:30

ごほうびYOGA:3月9日()15:30

ゆったり寺ヨガ:3月1529()17:00

ウェブサイト:http://www.puninokai.com

 

http://www.facebook.com/puninokai


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最終更新日 : 2014-04-13 10:24:13

No.161はだかの王様

陽岳寺護寺会便り平成26年4月1日No.161

【コラム】はだかの王様

春や秋のお彼岸に法要を、と今年から考えました。申し込み不要のものをです。

お中日(3月21日)の2時半から、ということで三十名ほどの方々にご参加いただきました。ありがとうございました。

陽岳寺の法要は、住職の工夫のたまものです。お彼岸法要用にと住職の回向の後、すこし私がお話しさせていただきました。「なぜ、住職は法要の内容を工夫しているか」。

お寺とは、ひとつにはなにかを得る場所・置いていく場所です。お参りしてスッキリするのは、なにかを置いていった証拠です。得る・置いていく、そのきっかけは人それぞれ。どこかでひっかかる様に法要の内容を工夫していると考えてみました。

そしてもうひとつ。お寺とは、礼拝施設、祈る場所です。お墓も、お仏壇もそうです。ひっかかった後にチェックをする手がかりとしたい。祈ることは、鏡を見て自分の様子をチェックすること、と言っていいと思います。

毎朝わたしたちは、顔を洗うため、歯をみがくため、お化粧をするため、鏡を見ます。点検し、直すところは直す。何もしないと不快で、モヤモヤします。原因不明の悩みです。

付いていて当たり前の顔を鏡に見るわけですが、当たり前すぎて気付かないこともあるはずです。当たり前すぎて気付かないからこそ原因不明。なにかを得る・置いていくことで、原因不明の悩みの正体に気付くことができる。「当たり前すぎて気付かないこと」に気付くにはきっかけが必要です。童話「はだかの王様」というお話しがあります。

²   仕立て屋が、さも今ここに珍しい布があるかのように王様へ言います。「賢い人にしか見えない珍しい布です」と。

珍しい布が見えない王様は、見栄を張り、見える振りをして洋服を作らせます。家来たちも見栄を張って誉めそやし、王様が意気揚々と街中に披露しに出掛けると街の大人たちもこぞって見栄を張り「すばらしい服だ」と誉めそやします。

しかし、ある子供が王様を指差して「何で王様は裸で歩いているの?」と笑います。子供の言うことが「真実」なのだとようやく気付かされた大人たちは自分の愚かさを恥じる、というお話。

 実力がないのに見栄を張る。やっかみ・比較・思い込み・嗜好をいれる。

『今ここに珍しい布はない』という当たり前すぎて気付く事実を、王様は見栄を張ったせいで、「当たり前すぎて気付かないこと」にしてしまった。さらに、まわりも同調した。

どこかにきっかけが無ければ今いる環境や原因不明の悩みを抜け出せない、というお話しです。法要の内容の工夫は『はだかの王様』の教訓のように、いろいろと意味があるのでは、と住職と掛け合いを見せたのですが・・・。

さて、秋のお彼岸にもお彼岸会法要をいたします。どうぞご参加ください!法要は短い時間です。お待ちしております。


【お知らせ】陽岳寺山門大施餓鬼会5月17日に

 陽岳寺が大切にしている年中行事、5月のお施餓鬼は第三土曜日です。今年は、5月17日。4月の中旬にお知らせを別途郵送いたします。お申し込みください。

l  日時 平成26年5月17日(土)

l  内容 午後2時~ (未定)法話

   午後3時~ 施餓鬼会の法要

l  会費 1万円(回向料・お塔婆一本を含みます。)

l  備考 施餓鬼会前後のお墓参りは混雑します。余裕をもってお越しください。なお、施餓鬼会に参加で、当日欠席の場合も、会費は1万円とさせていただきます。

【寺社フェス】向源(こうげん)

 陽岳寺ではなく、超宗派のお寺イベントのお知らせです。ぜひご参加ください。

l  日時 平成26年4月28日(火・祝日)   

   午後11時~夜まで

l  場所 増上寺

l  申込 ウェブ上にて、チケット販売中

l  公式ウェブサイト http://kohgen.org

 

『過去に学び、未来を信じ、今を生きる。』をテーマに、2014年は増上寺にて開催!

3.11 震災以降、私たちの生活は大きく変わりました。生活そのものだけでなく、何を考え、何を基準に行動するのかという精神性を重んじるようになり、「お寺」に対する興味が増えています。

心安らかに、未来への希望を失うことなく日常を生き続ける精神の強さ。それは環境など外のものではなく、自分自身の心の内にあることに人々は気付き始めました。そのあらわれの一つが「お寺ブーム」。私たち日本人の心の深いところにある日本古来の文化的なルーツへの関心です。

しかしながら、精神性を重んじるようになった人々の思いに応えるには、ブームという一過性のものでは足りません。向源は数年前から開催していますが、2020年のオリンピックイヤーを目指して継続開催しています。

向源では、そのような思いに応えられる幅広く多様性に富んだコンテンツをご用意。その中から、参加者に自分の興味にあったものを選択、実際に体験することができます。

お寺という非日常の空間に身をおいて、雑音から脱してゆっくりと自己と向き合った中で見つけた、大切な目標に向かう源となるイベントが寺社フェス「向源」です。

同封したフライヤー・公式ウェブサイトをご覧ください。ご家族やご友人にも、御紹介いただけると幸いです。チケット販売中!(副住職)

『ワークショップ』Deep増上寺・ウルトラ木魚で人形供養・厄除け祈願・写経・写仏・念仏・消しゴムハンコ法話WS・経典をナナメから読む会・仏教プラクティス・死の体験旅行・お守り作り・極楽箸で心と向き合う・坐禅・いけばな・写真教室・書の時間・和綴じ製本・塗香&匂い袋づくり・能体験・水引・戦国武将マルチタスク茶会・お寺de囲碁 『物販ブース』

『法要ライブ』雅楽&舞楽(大本山増上寺雅楽会)、天台声明(天台宗青年僧有志)法楽太鼓(真言宗豊山派有志)

LiveHaruka nakamura LABO Ambient Session 2・テニスコーツ・小川晃一

 

『講演』禅僧 松山大耕×脳科学者 中野信子


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最終更新日 : 2014-04-13 10:25:45

No.162お施餓鬼会

陽岳寺護寺会便り平成26年5月17日No.162

お施餓鬼会

 この4月に作り替えた通夜法要の一部です。

 《 陽岳寺の建つ深川は、川と海に囲まれた町です。

 その、とうとうと流れ続ける川を、橋の上から眺めた場合、橋の上に立つ私を今の私とすれば、上流の川は私の誕生以前から続く私であり、これより下流の川と海はその後の私であり、川は私の総てであると言えば、上流の川は眼には見えないけれど、今も流れて在り、下流の川は海に今流れ込んで同時にあるといえるでしょう。

 自分が今、存在すると言うことは、総ての時と空間が、私を表現してくれていることだと、仏教は教えます。

 その全ての時間は、今、橋の上に立つことにより、時間の空間化となって、上流と下流に分かれることを意味いたします。

 今という時間を持つことによって、時間は、過去と未来という相反するものとして、分けれることを見つめます。しかも、仏教の具体的な時間の特色とする考え方は、分かれることにより、却って、過去と未来に結びつけられている今の事実を見据えます。

 このことは、直線的な時間の流れがあるのだと考えるのではなく、今という時間に、ここに立つということで、過去と未来は誕生し、その今は、過去と未来を根拠として在ることになります。しかも同時に、過去や未来は、今を根拠としなければ存在しないと気づくのです。

 そして、その同時性を持つが故に、その今は、次々に過去に流れ込み、現在に生まれると見えてきます。ここから過去は不滅となることができます。そして、未来は、次々に現在となって消えてゆくと現実の姿をとらえます。

 過去・現在・未来とは、時の全体の流れでありながら、今から今へと、時の流れは、流れながら、現在にいて流れない今でなければなりません。

 釈尊仏陀の話される、絶対の現在、現在の永遠性、また、時間の前後際断とはこのことをいいます。

 現実の時間は具体的に、流れないものが流れ、流れるものが流れないことにおいて、時間は成立しています。

 次に、仏教の具体的な場所・空間の考え方です。川の話を思い出せば、橋の上に立つという行為です。

 釈尊仏陀は「行為によって自己・私がある」と語っています。つまり橋の上に立つことで時間と同時に、空間も区別されて、私と空間が誕生しなければなりません。

 このことは、私という存在は私以外の空間があって、つまり根拠にして在るということになります。同時に空間も私を根拠にしてあるという事実に気づくのです。しかも、今と同じように、私が立つ”ここ”は、必ず”ここ”から”ここ”へですので、場所という広がりは、時と同じく、”ここ”を根拠にして成り立っていることに気づきます。

 このことから、空間とは、世界や宇宙の全体でありながら、”ここ”から”ここ”へと、空間の広がりは、広がりながら、”ここ”にいて広がらない”ここ”でなければなりません。絶対の”ここ”、”ここ”の永遠性、また”空間”の前後左右の截断とはこのことをいいます。 》

 釈尊は現実の縁起(えんぎ)の法においては、現在生起といい、すべての時と空間は現在において生起するというのですが、これは別の言葉で言えば、現在に於いて結びついているということです。このことは、同時に結びつくことで、現在に於いて分かれるのだという事実を見つめます。

 その現在とは、今・ここという現実の私に係わっていることが理解できます。過去と現在という相反して絶対に交わらないものが、交わるのは、分かれながらも繋がっている自己の中に自己を映しながら、知る知らないにかかわらず、人は自己自身を形成して行きます。

 西田幾多郎師は『場所的論理と宗教的世界観』の中で、「自己の中に自己を表現し、自己自身を表現することによって自己自身を形成して行く。」と記していますが、何がというと、「矛盾的自己同一的世界」ということです。このことこそ、「自己と世界の在り方」ですが、相反するものが矛盾を媒介としてつながっている世界です。

 お施餓鬼は、お寺が媒介として、参加する方々の一期一会の総供養となるのですが、今を生きる私たちの生まれる以前の過去を含めての法要です。

 チベット「死者の書」の世界(中沢新一著 角川ソフィア文庫)にある言葉で、       誕生のときには、あなたが泣き

        全世界は喜びに沸く。

        死ぬときには、全世界が泣き

        あなたは喜びにあふれる。

        かくのごとく、生きることだ。

 世界の世は時間であり、界は空間であることから、世界とは今・ここということなのですが、今・ここに生起することのみに自覚している傾向に支配されているのが、今の時代の特徴です。

 お施餓鬼の経文の冒頭は、「若し人、三世一切の、仏を知らんと欲せなば、まさに、世界の一切は、おのれ自身の心が造ると、観ずべし」です。

 この仏という意味は、「矛盾的自己同一的世界」と同意味です。何故なら、おのれ自身の心が造るとは、同時におのれ自身の心が造らされていくということが含まれているからです。

 これが現在生起という意味なのですが、現在、様々な起きている事実は、縁起により起こることですが、同時に起こらされての起きるです。動き動かされ、動かされ動くと、人は勝手に生まれて、生きていくということではないはずです。すべてに因果の法則が支配しています。この法則を飛び越えることはできません。

 「誕生したとき、あなたが泣き、全世界は喜びにあふれる」

 世界とは時間と空間ですので、ここには過去に連綿としてつながる命からの今の表現という一期一会が記されています。

 「死ぬときには、全世界が泣き、あなたは喜びにあふれる」

 私にとって喜びあふれた死は、人の生きようとして重たい言葉です。このように生きるためには、一瞬一瞬を悔いなく生きる連続の時間に気づくことだと考えられます。

 これはチベットの書に記されている

言葉なのですが、考えてみると、この世を旅立っていったすべての人の、私たちへの問いかけと受け取れることができないでしょうか?

  私の中に脈々と流れる尊い血という歴史。今・ここに、いっしょに、いるから……。

  ここから、尊い私が、生まれた。

  ジテンキジンシュー  我ら、汝等に、この食を、施さん。 

  たとえ、あの人たちの声が聞こえなくとも、今、話しかけたい

  たとえ、あの人たちが食べなくとも、好きだったものをお供えしたい。

  たとえ、あの人たちの喜ぶ顔が見えなくとも、お花をお供えしたい。

  たとえ、あの人たちの姿が見えなくとも、手を合わせたい。

  もう、あの人たちと巡り逢うことができないから、何度でも、お香を献じたい。

  もう、あの人たちと巡り逢うことができないけれど、何度でも、感謝を捧げたい。

 お施餓鬼の、餓鬼に施す意味は、私たちの心に潜んで現れる餓鬼という醜さに気づくことです。

 そこで、法要は、「仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造りたまへ」と祈ります。

 

 今年も、各家々の時代をさかのぼって、家族から、親戚から切り離された多くの先に旅立たれた人への思いと、すべてを残して旅立っていた人の思いを、そして死者からの問いかけを、お施餓鬼の法要は、結びつけたいと思っています。


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最終更新日 : 2014-04-13 10:27:56

この本の内容は以上です。


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