目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No.151ノアの方舟(はこぶね) 

陽岳寺護寺会便り平成25年6月1日№151

ノアの方舟(はこぶね)

 『3.11後の思想家』(2012年1月30日左右社発行)という本に、ジャン=ピエール・デュピュイというフランスの哲学者の書いた、『ツナミの小形而上学』という本の内容を、社会学者の大澤真幸氏が執筆していました。
 『ツナミの小形而上学』には、旧約聖書創世記第六章に書かれていたノアの方舟を、ノアを預言者として登場させ、洪水を、「世界の破局」とした逸話として書かれてありました。
 旧約聖書の方舟の逸話は、神エホバは、民への怒りを顕した洪水により、地球上のすべてを滅ぼそうと考えます。そして、神は、ノアに方舟を造らせ、種の保存をノアに命じて、契約を結びます。その内容は、報復そのものです。
 「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる世界のすべての生きものにも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」と。

 陽岳寺では、平成25年3月11日が近づくにつれて、福島原発の悲惨な事故と、その後の顛末から、万が一被災が収束に向かったとしても、使用済み核燃料という終息の道が見えないことを考えていました。将来にわたって決して終わることのない問題として、法要に、どう表現すればよいののか、『ツナミの小形而上学』を参考にしたのです。

《 ノアは預言者となって、毎日街に出ては、洪水により、人も動物も植物も亡びることを人々に訴えます。しかし誰もノアのいう言葉を真実とは思いませんでした。
 ノアは、どうしたら人々が興味を示してくれるか、信じてくれるのか考えました。そこで、彼は、愛する子供か配偶者を亡くした者にしか許されていない行為として、古い粗末な衣をまとい、頭から灰をかぶりました。そして、街に向かいました。
 すると、ノアのまわりには野次馬たちが集まり、口々に質問を浴びせます。
「誰か亡くなったのか?どうしたのだ、と人々は尋ねます。
 ノアは、「多くの人が亡くなった」、「しかも亡くなったのは、あなたたちだ」と答えます。聴衆は、笑います。
 「その破局は、いったい、いつ起きたんだ!」と尋ねられると、ノアは「明日だ」と答えます。
 人々はどよめきをまじえながら、おおぼら拭きか、嘘つきの眼差しでもって、ノアを見つめます。そこで、ノアが語りました。
 「明後日(あさって)は、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているのだ。洪水がすでに起きてしまったら、今あるすべては、まったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が、今あるすべてと、これからあるだろうすべてを、流し去ってしまえば、もはや、思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうのだから。そうなれば、死者と、死者を悼む者の間にも、何の違いもなくなってしまう。私が、あなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼(いた)むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだから」と。
  こう言って彼は自宅に戻り、急いで、身につけていた衣服を脱ぎ、顔に塗っていた灰を落として、方舟づくりにとりかかります。
 晩になると、一人の大工が扉をたたき、ノアに訴えます。「方舟の建造を手伝わせてください。あの話がウソになるように」。
 さらに夜が更けてくると、今度は屋根職人が、「手伝わせてください。あの話が間違いになるように」と言って二人に加わりました。 》
 この寓話は、未来に起きる確かな破局から、今何を考えなければ、そして実践としなければと、我々に警鐘を与えるものです。

 さて、仏教の具体的な時間の考え方は、今という時間を持つことによって、時間は、過去と未来という相反するものとして、分離することを見つめます。しかも、分離することにより、却って、結びつけられている事実を見据えます。このことは、直線的な時間の流れがあるのだと考えるのではなく、今は、過去と未来を根拠として在り、しかも同時に、過去も未来も、今を根拠として在ると気づくのです。
 そして、その同時性を持つが故に、その今は、次々に過去に流れ込んで、現在に生まれると見えてきます。ここから過去は不滅となることができます。そして、未来は、次々に現在となって消えてゆくと現実をとらえます。
 しかも、時は現在から現在への流れしかありません。このことから、今という現在の意味は、現在が、限りない過去を含んで、今にあり、未来は現在として消えることから、未来は常に現在として顕されるものとしてあります。
 過去・現在・未来とは、時の全体の流れでありながら、現在から現在へと、時の流れは、流れながら、現在にいて流れない現在でなければなりません。絶対の現在、現在の永遠性、また、時間の前後際断とはこのことをいいます。現実の時間は具体的に、流れないものが流れ、流れるものが流れないとなります。

 さて、『ツナミの小形而上学』によるノアの方舟の寓話から、洪水によって世界が流される意味は、人間にとって過去・現在・未来がなくなることを示唆しています。
 それは意味の記憶とエピソードとしての歴史という記憶が生まれることもなく、現在から現在へという、永遠の未来の流れも失われると語っています。
 このノアの物語は、現在を変えなければならない。そして過去を変えないためには、洪水という未来からの視点で、現在の選択肢を選ぶことが、いかに大切かと説いています。
 だからこそ、原発事故の必然性を徹底して考えることで、その事故を回避する自由を我々は常に現在に、持っている証明ともなると考えることができます。
 今だからいえることは、過去にもいえたことでもあるのですが、もし過去に、原発の事故が、地震や津波、構造上の欠陥として現実に未来に起きるのだと想定していたなら、3・11の現実の事故という真実は、無かったこと、ウソの事故になったのです。
 ノアの予言する洪水と、原発に被害が生ずるという未来から見ると、過去の真実は、幻の事故になっていたことがわかると思います。
 そして、現在に於いて新たな予言者ノアの方舟は、大型化して地球という乗り物になっているのではないかと考えることができないでしょうか?
 今という現在に次々と誕生する歴史を絶やさないために、そして、はるかに遠い未来のあらゆる世代の人たちに伝えるためには、今、現在となって消える未来を絶やしてはならないと思うのです。
◎5月18日(第三土曜日)のお施餓鬼法要は、昨年よりも参加者が多く、盛大に終わりましたこと、感謝申しあげます。◎東京のお盆は7月13日から16日までですが、お盆は申し込みにより、家々にまつるお位牌や仏壇を巡っています。      (和尚)

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最終更新日 : 2013-07-20 16:10:14

No.152じぇ!じぇ!じぇ!

陽岳寺護寺会便り平成25年7月1日No.152

じぇ!じぇ!じぇ!

 NHK朝の連続小説を、楽しく見ています。そこで、たまには、朝ドラで感じたことを、護寺会便りに書いても良いのかと思いつつ、書いてしまいました。

 海に潜って、海女シーズンの最終日に、やっと一つのウニを捕獲したアキは、それまで、ウニが捕れなくて、夜な夜な眠れず、眠ろうとして、「ウニが1つ、ウニが2つ、ウニが3つ、……」と、数えていたのが印象的でした。
 その連続テレビ小説『あまちゃん』も、北三陸の故郷編から、後半に、2009年の夏、東京編となりました。
 主人公のアキは、母春子の春、夏ばっぱの夏から離れて、この物語の行き着く先は、いつのまにかアイドル誕生の物語だったのかな?と、少し興味をそがれつつも、主人公の表情の豊かさ、懸命さに、久しぶりにテレビの1チャンネルを押させられています。
 後半に入るや、東京上野に一人出てきたアキは、何やら戦後の「ああ~上野駅」のように、眠れぬ夜を迎えて、いくらウニが1つと数えても、ウニが500を越えたら、限界です。
 故郷の北三陸の名産である琥珀を、洞窟で一人掘る小田勉(おだべん=俳優塩見三省)さんは、駅側にあるお店のカウンターの隅で、一人琥珀を磨いていました。
 アキは、ウニの次に、カウンターに座る、「勉さんが1人、勉さん2人、勉さんが3人、勉さんが4人」坐らせていました。
 母 春子から常套句のように、「いじめられ、引きこもりで……」と言われているアキにとって、「春子が1人、春子が2人、春子が3人……」と「トンがった春子」が出てくれば、益々眠れなくなってしまいます。
 祖母夏が登場して、「夏ばっぱが1人、夏ばっぱが2人、夏ばっぱが3人……」も、眠れなく理由もありそうです。
 面白いことに、夏ばっぱの眠る姿も、眼を半分開いて眠るのですが、アキも同じまぶたを閉じずに眠ります。
 まぶたを閉じずに「ウニが1つ、ウニが2つ、ウニが3つ……」と、姿勢が横臥しているか、座っているかの違いがあるけれど、共に、雑念が入らぬことを考えれば、何やら坐禅の姿に似ています。
 坐禅には、数息観(すうそくかん)といって、「1~つ、2~つ、3~つ」、あるいは「ひと~つ、ひと~つ……」と数えながら坐る方法もあります。息は、1~つと、静かにですが最後まで息を吐き切ります。姿勢は、坐禅のように足を組んでも、椅子に座っていても、正座でも、立っていても可です。経行(きんひん)と言って歩いてもよいのです。
 しかも、腹式呼吸で息を3秒吸い、7秒長く息を吐くことを心がけたら、なんと「美木良介のロングブレスダイエット」に通じることもあるかもしれません。
 そのとき舌先を上あごに軽く付ければなおよく、さらに「無~」と意識しながら鼻で息を吐くことも、呼吸法は身体を維持管理する基本であり、長生きのもとは長息なんて、しゃれていると、心も統一、そのことは、吐き出すものが意識の中に埋もれている汚物のような気もいたします。
 始めは「1~つ」あるいは「無~」と意識するのですが、意識せずにできるようになれば、それが、坐禅です。「動中の工夫」といって、自分なりに考えて、自然に自分のものとなったら、それでよいのです。
 呼吸や言葉に徹するのですが、きまりは、眼が半眼です。目を閉じれば寝てしまう経験から、布団に就いたら、「1~つ、2~つ、3~つ……」と、息を深く吸い込んではき出します。数字には意味がなくて最適の、就寝グッズです。このグッズは、ウニもいいけれど、連想をさせないものがよいでしょうか。選ぶモノによっては妄想をおこすからです。
 さて『あまちゃん』の脚本家である宮藤官九郎(くどうかんくろう)という人は変な人?で、「歩いているときも、やたら、妄想を巡らしている」と、インタビューで答えていました。
 仏教からいうと、妄想は対立概念を持っていて、どちらかというと、否定されるべきものですが、宮藤官九郎の言う妄想は、否定されるべきものではなく、自分を際立たせるもののようです。
 願いや思い、あこがれや希望は……、引きずられなければとても大切なものです。妄想もそうですが、妄想にとりつかれるのではなく、生活の中で、妄想という思いを断ちながら、思いを歩む、そこに自己があるのでしょう。
 アキが言いました。「アイドルの衣装を着て、お座敷列車や海女ソニックで、歌を歌ったとき、自分が頑張ることで、周りのみんなが勇気づけられたり、元気になってくれたみんなが喜んでくれたことが嬉しかった」と、そこに新しい自分を発見したということなのでしょう。
 考えてみれば、「アイドル」こそ、妄想の頂点という現実であり、ドラマには、それ以外に「居なくていい人」が数多く登場して、アイドルを創り上げてゆくように思えます。
 宮藤官九郎は、中高一貫して「小泉今日子」がアイドルだったと、インタビューで話していましたが、その好きなところは「トンがっていたところ」と言っていました。まるで『あまちゃん』の春子のキャラクターであり、見ている私にとっては、一番違和感の原因です。あえて、「トンがっている」キャラは、何に?どうして?と意味はなく、「トン」に意味があるように思えます。
 さて、朝ドラの食卓は、故郷編で、忠兵衛、夏、春子、アキ、家族の食事をしている風景に、今の時代を見るようでした。現実の故郷も同じように変わっているのでしょうか。1人1人、パンやうどん、おにぎりに、そば、スパゲッティーに、ハンバーグと、食べ物が違うし、食べる時間もまちまちでした。まるで、スーパーやコンビニで買ったものをテーブルに乗せたようにです。それでいて、台所で菜っ葉を包丁で刻んでいるのです。
 このドラマの季節は、三世代の女性、アキ、春子、夏の名前の通り、春から夏、そして秋へと、忙しく駆け抜けていくのでしょう。
◎人にとって何よりに増して一番の記念日は、誕生日です。命をいただいたことへの感謝への思いはそれぞれ違うものです。では亡くなった人にとって、命日とは、「日限をきめる」とあります。与えられた命を全うしたことを意味しますが、そこには残された者にとっては、悲しみもあり、慈しみもあり、やはり喜びもあり、それが法事として表現されます。命日は、月々、一年一年、そして回忌となって廻ってきます。その廻ってくる日は、やがて自分にも廻ってきます。その日を逃さないことも生きているものの勤めです。
☆ようがくじ坐禅会「不二の会(ぷにの会)」7/23(火)19:30~21:30☆
HP→ http://www.puninokai.com/ Facebook→ http://www.facebook.com/puninokai/

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最終更新日 : 2013-07-20 16:11:02

No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説

陽岳寺護寺会便り平成25年8月1日No.153

盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説

  いま日本でのお盆のおこりは、「盂蘭盆経」というお経です。このお経から、「縁」「恩」という現実的な考え方を私たちは得ることができる。そう私は思っています。

  

  ナザレのイエスに12人の使徒(高弟)がいるように、お釈迦さまにも10人の弟子(十大弟子)がいらっしゃいました。そのうちの一人、目蓮尊者に注目したのがこのお経。

  登場人物は、三人。目蓮尊者、(目蓮尊者の)亡きお母さん、お釈迦樣です。

  夏の修行中、目蓮尊者は「神通力」が身についたことに気付きます。

  そして、神通力の一つ。「天眼通」という真理を見通す目で、死んでしまったけれども、いま自分の母親はどうしているのかを見ることになります。

  すると・・亡き母親は餓鬼道に堕ちていたのでした。

  「天眼通」とは真理を見通す目のことですから、なぜ母親が餓鬼になっているのかも分かります(餓鬼とは、いつもお腹ペコペコの鬼のこと。だけれども、食べ物を食べたくても手に取ると燃えてしまう、水を飲んでも砂になる等、求めても手に入らない状態)。

  その理由はなんだったのか?お母さんが目蓮尊者のことを大切に思ったがために、慳貪(けんどん・物を惜しんでむさぼること)の行為をしていたから・・なのでした。

  たとえば・・他人の子どものことまで考えがおよばず、自分の子どもの健康だけを考える。成長するにつれ、小学校・中学校・高校・大学と良いところへ入ってほしいと思い、他人の子どもを排してでも、無視してでもと、必死の努力をする。しあわせな結婚をしてほしい、安泰な会社に就職してほしいと、一生懸命に願う。

  普通の母、健全な母のすがたに見えますが・・仏教ではひとつの慳貪の姿と見ます。

  目蓮尊者は「神通力」を持っていますから、なんとかお母さんを助けようとします。

  でも自力で助けることができません。そこで目蓮尊者はお釈迦樣に相談します。母を救うためにはどうすればよろしいでしょうか?・・するとお釈迦樣は、

  『7月15日、夏の修行の最後の日。すべての修行僧に施し(もてなし)をすれば、母にも先祖にもみんなにもその施しは届くであろう』と答えました。

  目蓮尊者は願いをおこし、施しをすることで、修行僧たちによって母を救ってもらうことができたのでした。・・めでたしめでたし。

  

  このお話しには色々な教訓を見ることができそうです。

  ひとつ目、亡きお母さんが餓鬼になっている設定。ちょっとあり得ない話ですが(死後の世界は不識、分からないものですから)、『もしかしたらそうなっているかもしれない』という想像力を持て!と私たちにすすめます。

  ふたつ目、本人が気付いている・気付いていないに関わらず、やったことの結果はすぐか・いつか分からないが、なんらかの形となって出る。

  みっつ目、自分以外の人・これからの人間に、わたしたちは頼む・たよることが出来る。

  よっつ目、同時にたよらざる得ないし、たよることへの感謝・敬いの気持ちの大切さ。

  そして、この伝説の底辺にある言葉が「恩」「縁」です。親がわたしのためにしてくれたことへの「恩」、親・わたし・これからの人という「縁」。

  仏教は「関係」という視点でものごとを見ていきます。私とまわりには色々な「関係」がある。「関係ない」という「関係」もあるでしょう。それが「縁」です。

  「恩」とは、“今につながる「縁」について考えること”。

  「命があって当たり前」「金はらってるんだから良いだろう」という考えかたは関係そのものを否定するもの。今につながる「縁」を考えていないようです。

  「関係ない」という関係性まで大切にする、縁を大切にすること。それが「恩」です。

  「関係」という視点にたつと、「ある・ない」という境界の不思議さに気付きます。本来はグラデーションであることに“便宜上”区切りをつけている不思議さに、です。

  ふだんの生活のなかでは気付きにくいことです。“便宜上”の区切りが本物の区切りになっている。そこで特別に意識する期間を設けたひとつが、お盆なのではないかと。「ご先祖様が帰ってくる」「関係ない人のことも考える」・・関係あるないの超越、という現実的な考え方を得る“ゆたかさ”がお盆です。

  仏壇は仏さまと、私達と「関係がある」ひとたちを祀ります。精霊棚は私達とは「関係がない」ひとたちを祀ります。“ゆたかさ”がかたちとなって私達の前に現された姿です。

  また、このお経のポイントのひとつは、“ゆたかさ”を得る方法を具体的に教えてくれていることです。それは・・目蓮尊者が修行僧(これからの人たち・自分の子どもでもない人たち)に施しをしているところ。わたしたちは「だれかから受け取った恩を」「誰かに(その恩を)送る」ことが出来る、ということです。

  かといって、自分が恩を受けたかどうか気付かないこともあるでしょう。だれかに恩を送ることが出来ないことも。恩のバトンを受け取ったときにどうするか悩むこともある。

  そんなとき、まったく同じことを、相手に返さなくてもいいようです。ぜんぜん違うことを、ぜんぜん違う相手にパスすることも恩を送ることになるはずです。

  『受けるより与える方が幸いである』これはナザレのイエスが発した言葉として、使徒パウロ登場の近辺で出てくる言葉です。さらに言えば、「与えることによって、なぐさめを得る」「与えることとは許すこと、なぐさめとは出番のことである」。

  恩を送る、与える。すると、なぐさめを得ることができる。与えることが、させてもらったという出番になる。あらたな関係をつくることができた喜びが、なぐさめである。

  お盆とは「縁」「恩」の結晶です。私達の出番によってお盆は風情や季節感のたまものとなるのでしょう。でもそうなると、もしかしたらみんなが出番を発揮しない(実家に帰らない等)とお盆そのものやお盆休みはなくなってしまうかもしれませんね。(副住職)

◎夏は暑いものです。熱中症・脱水症状に気をつけてください。冷房、こまめな水分補給、スタミナ料理。頑張ることも大切ですが、無理をしないことも大切です。

☆ようがくじ坐禅会「不二の会(ぷにの会)」8/23(金)19:30~21:30☆

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最終更新日 : 2014-04-13 10:07:57

No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う

陽岳寺護寺会便り平成25年9月1日No.154

在りし日の 背を洗うごと 墓洗う

  奥さんを亡くされた方が、「和尚さん、なんであのポスターをはがしたんだい?」と言ってきた。「たしかに、あいつの背中を流したことはないよねェ」と。そのポスターには、

  『在りし日の 背を洗うごと 墓洗う』と書いてありました。在りし日を思うと、たしかに奥さんの背中を流したことはないよねェと。

  この方はお墓参りを通じて、亡くした奥様に、アチラ側に意識を向けていらっしゃいました。洗うときには背中を洗っているのだとは思いません。なにも“心”に思っても“無”いのでしょう。それをわたしたちは「無心」と言います。考えてもきりがないので落ちつくところが、「無心」です。

  

  お彼岸は、一年のなかでも特別なお墓参りの期間です。

  お墓参りとは、わたしたちがアチラ側に意識を向ける作法のひとつ。墓前にて目を閉じて手を合わせる。そうやって誰か・なにかのために祈るけれども、こころの中では自分がただひたすら祈っているだけ。不思議なことです。誰か・なにかのために祈ることが、かえって無心になる。アチラ側に意識を向けることが、自分のためにもなる瞬間です。

  母の日の花がカーネーションに対し、父の日の花はバラだそうです(ひまわり等も)。どちらも今年は終わっていますが・・・では、お彼岸の花はなんでしょうか。彼岸花?

  母の日や父の日は、母・父に感謝をとくにあらわす日。お世話になっている人に感謝をあらわすことの大切さを考えれば、お彼岸は亡き人に感謝をとくにあらわす日となるでしょう。墓参候補日は祥月命日、月命日、誕生日、結婚記念日、思いたった日などありますが、お彼岸は盆暮れ正月に並んでの墓参週間。

  9月といえば、中秋の名月。運動会。秋のお彼岸です。彼岸とは雑節(ウナギを食べる土用も雑節)。お彼岸はお盆と同じく、季節の移り変わり・風情をかもしだすものです。

  先月号、お盆休みを取らなければお盆は無くなってしまうかも・・と書きました。今月はさらに言ってみます。ちょっと強引ですが、わたしたちがお墓参りをしなければ、お彼岸(アチラ側)も無くなってしまう・・かもしれません?

  彼岸は季節の移り変わり・風情ということで、陽岳寺も春・秋のお彼岸を盛り立てています。みなさんも墓参にいらっしゃいます。とても有難いことだと感じています。秋というとお彼岸なのだ、という意識は自然なことなのでしょうか。

  彼岸とは「かの岸」、アチラ側のことです。向こうにアチラ側が見えるということは、此岸「この岸」コチラ側に私たちはいる、ということになります。ではアチラ側とはなんでしょうか?仏教的に言うと、悟っている状態・極楽浄土のことです。

  春分と秋分の日は、夕日が真西に沈みます。その延長線上にあるのは西方極楽浄土、その彼岸に行きたいのでどうするか?修行をする。そんな期間がお彼岸だったのです。春と秋は気候がいいので修行をするのに適しているから・・という説もあります。

  ただ・・いまの時代、修行といってもピンときません。修行=アチラ側に意識を向けることとしたなら、分かっていただけると思います。

  臨済宗では、亡くなるとお浄土に行くんだよ、とは言いません。しかし、「アチラ側」とは申します。霊魂の存在云々は置いておきます、話しても分からないことは分からない。では分かっていることはなにか、「それでも、やっぱり」という心情が大切ということ。

  7月や8月のお盆にくらべると4日間ではなく、お彼岸は一週間。長いです。長い分、最初の日を「彼岸の入り」、春分・秋分の日を「お中日」、最後の日を「彼岸明け」といって大切にします。また、お彼岸前後の土日にお墓参りされるかたは多いですよね。

  お彼岸のような季節の移り変わり・風情とは、何かに付けてはお墓へと人を導くものです。それは何故か?そのお墓のしたに眠るものたち、親しかった亡き人、アチラ側、もちろん今生きている人への「追慕」のため、彼らに「出会う」ためだと思うのです。

  追慕しなければ、想ってあげなければ、出会わなければ・・・その気持ちが皆さんを墓前へといざなうのかと思いました。

  修行も、墓参も、共通するテーマは「意識をアチラ側に向ける」ことのようです。お彼岸に動かされる私達の心はここにあります。

  一期一会という言葉があります。あなたとの出会い(一会)は人生のなかで一回きり(一期)という意味です。茶事からのことわざで、チャンスは一度きりなのだから最高のおもてなしをしましょう、となるわけなのですが。

  かといって、目の前にいながらも出会っていないことがあるかもしれません。同じ空間にいるのに生返事、いてもいなくても同じ状態のことです。お茶をお出ししても、気持ちが通じていない。せっかくのチャンスなのに活かしきれてない!と・・普通ならなるでしょう。しかしそれもまた、一期一会ではあります。

  さらに言えば、お茶をお出ししてお話しもして、お互い笑い合えたなら一期一会をやりきった!ことと言えるかも分からないことです。

  出会えていなかったのなら、それもそれで一期一会、よいではないか・・と言えたら素敵なことです。無心の思いやりからの、最高のおもてなしがあってこそ。

  一期一会は一回きりの出会いの状況を言いますが、無心の思いやりそのものも一期一会。

  お墓参りも同じことが言えそうです。「追慕」のため、「出会う」ため、とは言うものの、本当に会うことができるかは分かりません。こちら次第のことです。でも、無心になって墓参すれば一期一会となり、それはつまり出会ったことになるのではないかと。

【墓参の作法】墓石を洗い、拭き、清める。花入れもキレイにして、花・水・好きなものやお線香をお供えして、目を閉じて手を合わせる。

  ・・そのとき何も考えていない時間は数秒はあるはずです。ここで私はアチラ側に出会えていると考えます。相手を思いやるということは私心がないということ。無心であることが一期一会の前提条件でもあり、一期一会そのものとなるのですから。

  ただ・・一期一会だとしても、会えなくても、会うならば何かを話したいものです。子どもが生まれたから、亡くなっているけれども盆暮れ正月の挨拶に、進学・就職・結婚の報告。なにかの度の墓参は、わたしたちの心情のあらわれでした。

  仏壇に手を合わせることも、お骨の眠る墓前にたたずむことも、お骨はないけれども家の象徴として石塔にお参りすることもです。

  それにしても不思議なことです。出会うため、追慕・報告のため、何かのために私達は墓参します。何かのためにと頑張ることで、かえって無心となることができるのですから。

  墓参しても会話ができるわけではありません。会うことができるわけではありません。それでも、話したい、出会いたい。失った言葉や出会いを求めて、墓前にたたずむ人間を私達は理解できます。

  仏道修行の目的はコチラ側からアチラ側に行くことですが、なんのことはありません。コチラ側もアチラ側も隔てなければ全部一緒です。そう考えれば、すでにアチラ側に自分はいたわけですし、コチラ側に亡き人もいるわけです。

  すでに与えられていた他者の言葉のなかに、私達は生きている事実に気づく。その人の言葉ではないものに、その人の言葉を聞くことができる。アチラ側に意識を向けること、無心となることで、私達の人生はもっと豊かになる。

  お寺も皆さんとのかかわりを大切に思っています。墓参の際は立ち寄って欲しいと思います。(副住職)◎9月23日がお中日。20~26日が秋のお彼岸です。

☆ようがくじ坐禅会「不二の会(ぷにの会)」9/28(土)19:30~21:30☆

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最終更新日 : 2014-04-13 10:08:43

No.155縁に随って、心法を忘ず

陽岳寺護寺会便り平成25年10月1日No.155

 縁に随って、心法を忘ず

 「踏飜(とうほん)す七十九余霜、万事縁に随って心法(しんぽう)を忘ず」

 陽岳寺として、9月29日、部内(ぶない)のお寺さんでご不幸があり、葬儀に参列いたしました。部内とは、臨済宗妙心寺派にとって東京周辺の区域を東京教区といい、陽岳寺は教区内の第5部に所属しています。その5部は、江東区、墨田区、葛飾区、神奈川の三浦半島の一部を含むエリアに当たります。

 うかがった葬儀のお寺さんは、お寺からいえば、「となりのとなり」という近さです。そして京都南禅寺僧堂の大先輩でもあることから突然の訃報は、「6月にお目にかかったときは、足の運びに不自由はあったものの、どうしたのだろう」と疑問が浮かびました。 しかし疑問は浮かぶものの、現実として、亡くなったという重さが身に染みます。

 葬儀は、住職である息子さんの修業した鎌倉建長寺の管長、吉田正道老師でした。その老師の葬儀での引導の冒頭が、「踏飜(とうほん)す七十九余霜、万事、縁に随って心法(しんぽう)を忘ず」でした。

 79歳で遷化されたのですが、お寺を守ることを含めて、79年の人生はすべて所縁に随って歩んだものであり、その一歩一歩の歩みは自己を忘じての歩みだったと、禅宗の境涯をほめたたえたものでした。

 79年の人生を集約して「縁に随って」と、「心法を忘ず」という重みを、あらためて深く思い出します。

 修行の道場では、修行僧として365日、生活の中で所作の繰り返しにおいて学ぶのですが、すべては縁起の故の行為です。その行為に、道場での師匠は、山門に至れば、食事をいただけば、食事がすめば合掌と。朝起きたら顔を洗い、食事をしたら食器を洗い、会社に行く。人と談じたら笑い、考え、按じて、愁い、祝いと。不自由なものなど何一つないではないかと。心を外に求めるなと。

 さて、江東区では、今年の4月から、全小中学校に対して「学びのスタンダード」に取り組んでいます。その内容は、前日に必要な学習用具を準備し、授業の始まりの時間を守り席に着き、授業の始めと終わりに挨拶をし、背筋を伸ばして姿勢で座り、声の大きさを考えて丁寧な言葉遣いをし、話している人を見て最後まで静かに聴きますと。

 名前を呼ばれたら「はい!」と返事をして、提出物の期限を守り、学年ごとに時間を決めて自ら計画を立てて家庭学習に取り組むことを、「学びのスタンダード」として実践し始めました。

 これらスタンダードの一つ一つは「縁に随って」であり、実践そのものが「心法を忘ず」となっているかと、自己への問いかけにつながっています。

 仏教で「心法を忘ず」とは、「無念、無心、自性、自己、心性、真人、真仏、真如、法身、仏、あるいは神」とも言い替えています。

 しかし、どうしてこんなに言い方がいろいろあるのかと考えれば、心法も法も同じ内容でありながら様々に言い方、呼び方が替わるということから、言ってしまえば、あるいは呼んでしまえば、固定的対象的なものとなって独立して戸惑いを誘うことから、本来は、「言えば違う」ということが正しい認識なのでしょう。しかも、認識すら認めることと考えれば、それすらも拒否するものです。

 その「縁起の故に空、」と、「縁に随って心法を忘ず」を、うまく説明した和尚がいました。沢庵禅師です。

 不動智信妙録に、「かように心を忘れきりて、よろずのことをするのが上手の位なりといい、舞の例をあげて、舞をまえば手に扇とり足を踏む、その手足をよくせん、扇を能くまわさんと思うて忘れきらねば上手とは申さず候。

 いまだ手足に心が留まらば、わざは面白かるまじき也。尽く皆心を捨て切らずしてする所作は皆悪しく候」という。

 道元禅師から言わせれば、「仏法とは自己を習うことなり。自己を習うとは自己を忘るることなり。自己を忘るるとは、万法に証せらるるなり」です。

 古人は、これを「物となって見、物となって聞く」と、含蓄ある言葉として残しています。このことは「私」となっていないということです。

 縁に随っての行為の中に、第一人称の私が存在しないことを考えると、日本語の言葉遣いに共通するから不思議です。

 つい口にでた、「思うのだけれど」に、識者は、「誰が」と私を指します。そこで「私は、思うのですが」に、仏者は「私とは誰か」と問いかけます。その私は昨日の私か、さっきまでの私か、「今の私は過去の私ではないし、未来の私でもないはず」です。

 言えば違うことを考えれば、私とは、絶え間なく行為から行為する私であって、行為を離れて私というものはないはずです。

 行為によって私と規定される私こそ実体的な私であり、同時に、行為を規定する私ともなるのですが、この私は考えられた私となります。行為を離れて私はないことが現実の姿であり、時は今です。その今の私こそ、もっとも具体的にして個性的な私です。時は今から今へと考えれば、対象的に捉えられた私は、先ほどの私であり、昨日の私ともなり、未来にいるであろう私となって、「作られたものから、作るものへ(私)」、空の故に縁起となって、西田幾多郎により哲学された私となります。

 仏教は、昨日の私、先ほどの私、未来の私と考えるそこに、迷いの根源があると言います。行為し続ける一瞬一瞬に私があることを思えば、生き続ける、その一瞬一瞬に徹することは、自己を忘じて、生きろと肯定的です。しかも、その肯定されたものは、否定的なものの裏付けによって成り立っていることが、具体的です。

 否定しなければならないのは、抽象的に思い描いたものは考えられた自己の独断、断ずべきは対象的に考えられた自己への執着であるのである。我々の自己が宗教的になればなるほど、己を忘れて、理を尽くし、情を尽くすに至らなければならない。

 道元禅師は、「明らかに行持(行為)の今は自己に去来出入するにあらず。然して、今という道は行持(行為)より先にあるにあらず。行持(行為)現成するを今という」。

 「行持(行為)によりて日月星晨あり、行持(行為)によりて大地虚空あり、行持(行為)によりて依正身心あり、行持(故意)よりて四大五蘊あり、行持(行為)これ世人の愛處にあらざれども、諸人の実帰なるべし」

 一切法は行持(行為)の現成にあるという道元禅師は、今から今へと見て行きます。絶対現在の自覚にあるということなのでしょう。

 「万事縁に随って心法(しんぽう)を忘ず」と同時に、心法忘ずるが故によく縁起すると見えてこないでしょうか。

◎秋の彼岸には天気が不順にもかかわらず、多くのお檀家さん家族に墓参して頂きました。 有り難うございます。忘れられることは偲びがたいことです。    (和尚)


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最終更新日 : 2014-04-13 10:09:28


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