No.147聞く力
陽岳寺護寺会便り平成25年2月1日 No.147
聞く力
聞く力とは、自然や大いなるものと一つになる力のことです。
そして、その力を私たちは皆持っている、そう思います。
寄物陳思、きぶつちんし。
物に寄せて思いをのべる、という心理があります。万葉集にみえる、和歌の技法のことです。
これは、恋心を自然の情景にたとえてうたうこと。人を恋しいと思う気持ちを、波や花に託してよんだそうです。
単純に「好きだ!」と言葉でダイレクトに伝える。強い主張をこの技法からは感じられません。
自分はこのような気持ちでいたのだ、という証明が奥に見えます。
ひとつ例として紹介いたします。
「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知ら得ぬ恋は 苦しきものぞ」(大伴坂上郎女 巻8~1500)。
「夏の野草の繁みに埋もれて咲いている姫百合の花のように、相手に知られない恋は苦しいものだ」
現代の我々にはまわりくどいように感じる寄物陳思。
この和歌をみますと、聞いてほしい、わかってほしい、あなたに聞こうという姿勢になってほしい。という願いを感じないでしょうか。
また、人間という小さな存在の発する、少ない言葉よりも。自然という大きな存在に重ねることで、表現に深みや厚みを出すことができるようにも。
なにか大いなるものの声を「聞く力」を持つ日本人だからこそ。この和歌を詠むことが出来たのでしょうし、和歌から自然の声をきくことができるのだと思います。
この「聞く力」の大切さを、お釈迦様は説いている。そう考えたことがあります。
二月一五日は御釈迦様の命日と言われています
入滅の前、弟子たちに請われ、最後の説法をしました。それが有名な『自灯明、法灯明』です。
『汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように。』
『身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。』
他への依頼心を捨てよ、とおっしゃったのです。
法を、仏の教えととるか、世の理ととるか分かれますが、これで絶対だ・ずっと手をかけずにいてもよいというものはない、ということです。
究極にいえば、いままで学んできた仏教の教えに頼ることさえも止めよ、と。
私は御釈迦様の教えを聞いて実践している、だからこのまま行じていれば大丈夫という慢心が生まれるかもしれない。
お釈迦様は、そのように危惧したのではないかと。
諸行無常、世の中はすべてうつりかわる。うつりかわるどんな時代においても、暮らしていく真理はある。世の理をあるがままに見よ、聞けよ、と。
その時代時代の声を聞いていきなさい。そういう見方ができないでしょうか。
聞く力は、もっと些細なことにも当てはまるわけです。
たとえば、茶室へと続く露地にある留め石。竹をつかった柵。
「これより立ち入り禁止」と書かれていませんが、そのサインをうけとめることができるのは日本人だからです。
鎌倉にいたとき、外国からの観光客はみんな理解できず、またいで中へと入っていました。
線引きがされている、ここから先は何か違う空間ではないかという感受性です。
外国からの観光客だけではなく、日本人がサインに気付かない場合もあります。
ただその感受性も、使わなければ磨かなければ、くもっていくばかりかもしれません。
テレビでは、CMも番組もうるさくて仕方ありません。あなたが聞かなくてもいいから話しますとばかりに。作った笑いは際たる例です。CMでは、なぜ貴方が・・と出てこなくてもいい社長が悪目立ちしています。
「三方よし」といいますが、買い手・売り手、そして世間の三方がよかったよかったと納得できなければ商売ではない、という考え方があります。
本当にうるさく、短い時間だから我も我もと言葉や音楽をぶつけてくる印象しか持てません。世間は眼中にないようです。私と貴方が良ければ、別にいいじゃないですか、と。
慣れてしまえば楽かもしれませんが、作られた笑い声にひきづられた笑いは、本当に自分のものと言えるか・・。
静かなメッセージを聞く耳を持っている私たち。
言い換えてみると、静かなメッセージに気付くことができる。気付く心を持っている。その心と身を一つにすることができる人間。つまり、静かなメッセージと一心同体になることができる私たち、とも考えられないでしょうか。
はじめに挙げた寄物陳思とは、恋の感情を自然のものに例えての表現です。自分を自然に重ねるわけです。
しかし、本当にそこには「いまの自分」があるでしょうか?
言葉がものや自然に魂を与える、と言えますが。そのなかに私はいるのでしょうか?
自然に託した和歌の中の私から、恋心を抜け出ているのいまの私です。そうでなければ、自然と一体にはなれないからです。
「相手に知られない恋は苦しいものだ」という感情は、苦しいと思う自分を俯瞰している状況がなければ出てきません。
「恋は苦しい」の真っ只中にある人は、自分の苦しさをはかることも、気付くこともできないでしょう。
詠み人は、どこかで自然や大いなるものからのメッセージを聞いたのかもしれません。
そこに苦しいの真っ只中にいる自分を見つけた、聞いたのでしょう。苦しいと一つになっていた自分を、自然と一つになっている自分に重ねたのです。
お釈迦様は聞くための気付き、聞いたのちの確認も大切だと仰っています。自然や大いなるものの存在に気付き、声を聞いて、どうなのかと確認する。
聞いて分けるばかりではいけないようです。
昨年の二月号、住職が節分によせて書いていました。
二月三日は節分ですが、「鬼は外、福は内」と豆を投げます。
外と内、どこかで分けることをしているわけですが、その結界はどこにあるのでしょうか?また、鬼と福とは、どのように違うのでしょうか?
留め石や、竹の柵は、こちらとあちらを分ける結界です。結界により違いはあるけれども、分かれる前を考えれば自然と私たちの違いなどありはしない。
その感受性ゆえの弊害をも、お釈迦様は『自灯明、法灯明』と説いています。(副住職)
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
陽岳寺護寺会便り平成25年3月1日No.148
2011年3月11日の東日本大震災。あれから二年が経ちます。
また、親しかったあの人がいなくなって何年経ったのでしょうか。時間が経つにつれて、人の心は動き、変わっていくものです。その確認のチャンスが墓参や法要にはあります。もちろん、この護寺会便りにもです。そのチャンスを活かして、現実の生活を豊かにしていくために、諸行無常を「受け入れる」ことの意味を考えてみました。「受け入れる」とは、つらいときも、楽しいときも、すべてを日常という幸せに変える、私たち人間がもつ力のことです(副住職)
赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
赤い風船が針にさされて破れても、心配はいらないよ
こわがることはない
目に見える風船はたしかに消えてなくなってしまう
だけど
中の空気は、お外に行って、このお空の空気とひとつになるだけだ
風船がやぶれて、風船の姿かたちは見えなくなるけれど
中の空気がお空の空気とひとつになるだけだ
我々の命も
死んでも終わりにはならない
大きな命と合流をして
また新たな命になってうまれてくる
だから、心配はいらないよ
病に伏せる子どもに、こう言ってきかせた父親である和尚さんがいました。
子どもながらに、この子は自分の命が短いと分かっていたようです。
この自分が消えてなくなると言われた時に、死というものをどう受け止めることができるでしょうか。まして子どもですから、きっと不安があったはずです。そんな時、こわがる子どもを見て、父親は優しく声をかけたのでした。
自分なんていうものは、風船と同じで、はじけて消えてなくなる。
しかし、その根本は、中の空気と外の空気とひとつになる。そして大きな命と合流して、また新たな命となってうまれてくる。この永遠なるものに気付いたとき、人は死の恐れから解放されるのだと。
おととしの3月11日、この自分が消えてなくなるんだということを、日本中の人が、同時に、思い知らされました。まるで病に伏せる子どものように、死という事実をつきつけられたのでした。波にさらわれた人、地震や津波のニュースを見た人、私たちのことです。
そして東日本大震災の事実の大きさを、人々は受け入れることができませんでした。その副作用として、私だけは大丈夫だと買いだめに走り、情報は大切だとデマが横行しました。
二年経った今。問題は山のようにありますが、時が経つにつれて、人々は受け入れるようになりました。受け入れなければ生きていけないからでもありましょう。受け入れることとは、生きることだと言い換えられるほどにです。それはつまり、受け入れることには、現実を豊かにしていく糧というチャンスがあると考えました。
生きることとは、受け入れることだと言えます。それでは、人は何を受け入れていくのでしょうか?それは、縁・出会いと言ってもよいのですが、“出会ったものごとすべて”とします。
たとえば、取捨、順逆、喜びと悲しみなど。私たちの出会うものごとには、対照的に見えることがあるようです。比べてみたときに、だいぶ違ってみえることです。その出会いの中から自分に良いことだけを受け入れること。それは同時に、悪いことの受け入れない癖にもなります。
受け入れない癖のついた人は、喜びや楽しみを受け入れることができません。片方だけしか受け入れようとしないのは、両方を見ないようにしている現れだからです。「喜びがあるから悲しみがあり、悲しみがあるから喜びがある」という事実を認めなければ、どちらも得ることはない。
生きるとは日々を暮らすということであり、それを日常と言うわけですが。3.11の東日本大震災は非日常でした。しかし波にさらわれた人にも、ニュースを見た人にも、日常はやってきます。
たとえ悲しみにくれていても、笑ってしまうこともあるでしょう。その光景は、不謹慎ではなくて、日常が返ってきた証拠。喜びも悲しみも、両方を受け入れることができている証なのだと思います。辛いことがあっても、かならず日常性は強くなる、という助けがここにはあります。
しかし、受け入れることを目的や前提にしたり、課せられた受容というものは、人生を豊かにしていく糧とはならない。受け入れさせられることは、人生のゴールではないからです。無条件に肯定するのではなくて、自分で考え自分で受け入れること。それが日々を暮らしていくということ、さらに言えば自分自身を大事にすることです。
ただ自分自身を大事にしようと思っていても、自分の心に入りきらないものを受いれざるを得ないとき、楽勝だと思っていたら心のなかで大きくなっているとき。無理するときがあるかもしれません。取り返しのつかないことになるときもあると考えたならば。受け入れなくてもいいものもあるという救いも必要です。
受け入れるということは、答えることの難しい問いを保持しつつ、閉じないでいることです。どのように向き合うか、自分ですこしずつ答えを出していくということです。
それが、諸行無常といわれるこの世界を生きる智慧です。諸行無常を受け入れることです。
すべては動き変化するというこの大きな真実を、東日本大震災は、巨大な自然の変化として私たちに実感させました。
それはつまり、私たちはあの東日本大震災に加担しているということです。3.11のことを気遣い、配慮をし、関心を持つということです。責任を持っているのです。俯瞰することは難しいけれど、みんなで共有することで、この世界を良くすることができるということです。
普通の暮らしの大切さは日常の中にあったのですが、みんな忘れていたわけです。すべては動き、変化するという自然。その自然を受け入れることが生きるということに、気付かされた。
変化を人が受け入れるとき、自分が愛すべき存在だと気付きます。愛すべき存在であることの幸せ、日常の幸せ。幸せとは、変化する今・ここ・わたしが基点となります。
幸せを私たちが考えるとき、それは自分自身、また家族のことが第一なはずです。それが自然なことです。そして、自分の幸せを誰かと共有するために、幸せな私が誰かのそばにいることが誰かの生きる力となるのだと、私は思います。
“寄り添う”ということですが、永遠なるものと私たちは寄り添っているのです。変化するこの世界を受け入れている。二年経った今、「受け入れる」ことの意味を確認することです。
不幸と言われるかもしれないけれど、絶望はしない。死とは、この世に別れを告げるとき、赤い風船が割れるときだと考えてみれば。針にさされて鳴るパチンという音は、別れを告げる音でもあり、永遠なるものと一つになる「さようなら」「ありがとう」という言葉なのだと思います。
すべてのものが絶え間なく動き、変化するこの世界。
諸行無常という、この大きな真実を受け入れるとき。人は、自分が変わってしまうことを楽しめるのだと思います。そして、他人が変わることを許すことだってできる。「受け入れる」とは、諸行無常とはポジティブなことなのです。◎お彼岸は、3月17日(日)~23日(土)です。◎今年のお施餓鬼は、5月18日(土)第三土曜日です。皆様の参加をお待ちしております。
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
陽岳寺護寺会便り平成25年4月1日No.149
今年も春彼岸に多くの方が墓参されました。もちろん、まだお骨の入っていないお墓にお参りされる方も。
さて、今回の護寺会便りの内容は、陽岳寺の本尊について、です。
何かのテレビ放送で「お墓参りする前に、ご本尊にお参りしましょう」と言っていたそうです。そういえばよく知らないということで、陽岳寺のご本尊は何ですか?と、何人かの方に聞かれたのでした。
陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
一般には「観音さま」といわれますが、この観音さま。じつは変身します。その変化身の一つが『十一面観世音菩薩』なのです。『十一面をもつ観音さま(観世音する菩薩)』。
ここでの『菩薩』とは、成仏をめざす途中にいて、人々と共に歩み、教えへと導く象徴のことです。成仏をめざしているので、仏さまではありません。が、成仏しているけど、成仏を認められていない菩薩もいます(ややこしいですね)。
観音さまは自分の成仏をおいてでも、みんなと一緒にいたい、という願いを持っています。現世利益や救済の信仰が出てきて、観音信仰は日本で広まりました。
つぎに『観世音』についてですが、もとはサンスクリット語。日本語訳が他にもあります。
般若心経のはじめ「観自在菩薩行人般若・・・」とあります。「観世音菩薩」「観自在菩薩」「光世音菩薩」「観音菩薩」と、いろいろあるんですね。
『世』の人々の『音』声を『観』じて、その苦悩から救済する菩薩。ゆえに『観世音』。
智慧をもって『観』ることにより自由『自在』の力を得、救済する菩薩。ゆえに『観自在』。
諸説ありますが、ほぼ似たような意味のようです。おこった順番はよく分かっていません。
そして、頭部にかかげる『十一面』。はじめに、観音さまは変身すると言いました。
観音さまが世間を救済するのに、人々の条件に応じて、いろいろな姿形になります。観世音菩薩普門品第二十五(観音経)では、33の姿になると言われていますけれども。三十三間堂の33は、ここからとのことです。ちなみに、深川にも江戸三十三間堂といって、京都のものを模したものがあったそうな。
観音さまは変身するようになったわけですが、その一つが『十一面観世音菩薩』なのでした。ほかには、千手観音・馬頭観音・如意輪観音・水月観音などがあります。
仏教の教えそのものの象徴が如来で、より身近な存在として現世利益や救済の信仰の対象が菩薩。みんな、求められて存在していると言ってよいでしょう。
仏像という存在自体、はじめは無かったものが、像として崇拝されるようになったことを考えても納得できることです。
さて、仏像安置のかたちとして、本尊の両脇に脇侍を起くことがあります。お釈迦さまのとなりに、普賢菩薩・文殊菩薩を置くようにです。
じつは観音菩薩は阿弥陀仏の脇侍なのですが、観音信仰の隆興により独尊として崇められるようになりました。なので、本尊として観音さまが崇拝されているのは普通のことなのです。
そんな十一面観世音菩薩が陽岳寺の本尊です。脇侍として、地蔵菩薩と毘沙門天を安置しています。彼らを引き連れての意味に、智慧と慈悲、勇みと情け、を住職は考えています(No.110)。
この十一面観世音菩薩の頭部には、十一の顔があります。その顔は、正面は慈悲の3面、左には怒る瞋面(しんめん)の3面、右には菩薩の面にして牙や角をした3面、後には大きく笑う面、頭の頂上には阿弥陀仏をいただいています。
それぞれに、母の顔や父の顔、先生や子ども、親切にしてくれた顔、怒ってくれた顔、励ましてくれた顔、心配してくれた顔でもあります。
私たち人間にもいろいろな顔があるわけですが、観音さまにも血の通った部分を感じます。
ただ、人間味あふれる部分だけではないのが、十一面観音菩薩です。人間に、十一も顔があったら怖いですし、変身するのも怖いです。
観音さまは、その人の想い・置かれた場所・悩み・悲喜こもごも。それぞれに姿形を変え、言葉を変え、見守り、語りかけてきます。その声を見てほしい、聞いてほしい。そのためには。・・その機会のひとつが、陽岳寺での法要です。年回忌、お施餓鬼やご祈祷などの法要に、檀信徒のみなさんに参加してほしい理由の一つです。
先日、奈良の東大寺に行ってきました。ご縁をいただき、二月堂でのお水取りにお参りしてきました。ここにも十一面観世音菩薩の姿があるのです。
奈良時代から毎年かかさず行われてきた法要、修二会(しゅにえ)。修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」、東大寺二月堂の本尊・十一面観音に罪過を懺悔して除災招福を祈る、悔過という儀式のことです。
その法会の期間は長く、2月18日~3月15日で2月中は別火といって支度期間。3月に入ってから本行となり、3月12日の夜中に行われるのが「お水取り(おみずとり)」。いつからか、修二会そのものをお水取りと呼ぶようになったそうです。おたいまつ、とも。
知っていようと、知らずにいようと、私たちは日々さまざまな過ちを犯しています。その過ちを、二月堂の本尊 十一面観世音菩薩の御前で懺悔するための、悔過会です。
その内容は、鎮護国家・天下泰安・風雨順時・五穀豊穣・万民快楽。自分たちだけのために行をするのではなくて、自分とは一見関係ないように見える人やもののためです。
功徳を振り向けるところが大切です。
日本全国の各寺院では、年回忌、お施餓鬼やご祈祷などの法要を行っています。その法要は、有縁無縁三界万霊、参詣される檀信徒や地域の方々のためでもあります。
人々の幸福、罪過の懺悔を願う私たちの心はもとより、縁というこの世界の理解を進めることが大切です。本尊を迎えるということは、その本尊の声を聞くということ。陽岳寺での法要は、十一面観世音菩薩の物語でもあるのです。
今年のお施餓鬼は、5月18日(土)第三土曜日2時~です。
副住職がお話します。皆様の参加をお待ちしております。
山門大施餓鬼会は、近隣の和尚様方を呼び、陽岳寺にとって長い過去をさかのぼっての有縁無縁の亡くなられた方々を、みんなで感謝し祈りを捧げようとする集まりです。
また陽岳寺檀信徒の縁につながるご先祖様も供養しようと催される法要です。今回も、東日本大震災津波等で亡くなられた方々、被災された方々、何らかの形で被災地に添ってかかわっている方々に対しても、ご冥福や、ご無事、ご多幸の回向をしたいと思います。
後日、施餓鬼についてのお知らせを、郵送いたします。
参加にて、当日に出席の方は人数を明記して、欠席の方は「欠席」と明記して、はがきか、ファクスにてお早めにお知らせください。不参加・欠席の方は、はがきの投函およびファクスとも、ご遠慮願います。参加はするけれども、当日欠席の場合、和尚が代わってお参りいたします。
参加費1万円に卒塔婆1本含みますが、さらに追加の方は1本につき3千円申し受けます。お塔婆に戒名を記入ご希望の場合は、戒名を明記して下さい。無記名の場合は、その家の先祖代々各霊位といたします。
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
陽岳寺護寺会便り平成25年5月1日No.150
Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
ここ数日、日本の方ではない人々とお話しする機会が多かったのですが。別れ際、かならず言われる言葉がありました。それは・・・
「Have A Nice Day!」
さようなら程度の意味で使っているのでしょう。
「よい一日を」という意味ですが、この言葉は相手のことを気遣う優しさの表れのようです。
挨拶とはなんとなく聞き流してしまう言葉ですが、ここですこし考えてみたいと思います。
「よい一日を」のよい一日とは、どのような一日なのでしょうか?
わたしにとってよい一日なのか、あなたにとってよい一日なのか。わるい一日で無いなら、よい一日といえるか。
仏教には、西洋の人間観とは大きく違う部分があります。
それは、絶対と言えるパーソナリティなど考えられない、としていることです。
なればこそ、仏教は絶対ではないもの、つまり人間の心の動きの中に興味を見出します。
心の動き=人間らしさ、だと仏教は考える・・と言ってもいいかもしれません。
仏教は人間の心の動きの中に興味を見出すと言いましたが、よいわるい両方ともにです。
むしろ、わずかでも心の動きが生まれるのならば、老いも病いも、花も美味なる料理も、“よい”と考える。
こう考えてみると、「よい一日」とは・・よいわるいを超越した一日のことだと捉えることが出来ると思います。かといって、とても大きく動かされる出来事が頻繁に起こってもらっては困るわけですが・・。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ
新潟の三条市にて起こったかつての地震。被災した山田杜皐に宛てた良寛の手紙の一文です。
頑張れ!と言われるまでもなく十分に頑張っている、そんな人間に宛てた一見冷たすぎる、しかし温かな言葉。
災難に遭う時節も、死ぬる時節も、Nice Dayに通じていると思いました。そして、つぎの禅語を思い出したのでした。
唐の時代、雲門文偃(うんもん ぶんえん)という禅師がいらっしゃいました。彼による禅語や逸話は現在も有名です。ひとつには、茶掛けにもあります、「日日是好日」という言葉です。
【白文】
示衆云、十五日已前不問爾、十五日已後道將一句來。代云、日日是好日。(雲門匡真禪師廣録)
【書き下し文】
(雲門が)衆に示して云く、十五日已前は爾に問わず、十五日已後一句を云い将ち来たれ。
(雲門が)代わって云く、日日是好日。
【現代語訳】
雲門禅師が修行者たちに言いました。「これまで(十五日以前)のことは、あなたたちには尋ねないぞ。これから(十五日以後)のことについて聞くのだ、さぁ何か一句を言え。」
修行中、禅問答は日常茶飯事。いろいろな問いが、いろいろな時に投げつけられます。さぁ雲門禅師の問いかけに応えられるものはいたのでしょうか?
~この間が存在しています。誰も答えられなかったのか、誰の答えにも満足いかなかったのか分かりません。雲門禅師はしびれを切らします~
雲門禅師が修行者たちに代わって言います。「日日是好日」と。
これからの日々は好日である。
いいことも、わるいこともあるでしょう。それでもどんな時も現実なのだと見据えた上で、生きていくしかない。うつろいゆく世界に身をゆだねる自分を、よりどころとして生きていくしかない。現実が残酷であるからこそ、そのまま救いともなると考えます。
雲門禅師の言う「日日是好日」とは、良寛の「遭う時節」、「よい一日を」のよい一日、と考えることが出来ないでしょうか。
2011年3月11日、東日本大震災。そのほかにも凄惨な出来事は、日々地球上で起こっています。そのような、万が一の不幸をも「よい一日」。
気休めの「日日是好日」ではありません。ちょっと嫌なことがあっての「日日是好日」ではないのです。市販の風邪薬、栄養ドリンクや点滴ほどのものではないのがこの言葉です。
それゆえに私たちが「日日是好日」だと言うことは、なかなか出来ないことでしょう。しかし実際には、私たちは考えもせずに口に出してもいるのです。それは挨拶のことです。
「Have Nice A Day!」日本語ではどうなるでしょう。「いいお天気ですね」「ええ本当に。おかげさまで」。これからのことを、挨拶はみなに問うているのだと考えてみたのでした。
◎4月下旬に、本堂等外壁の塗装をしました。護寺会より273万3千円、陽岳寺より300万円支払いました。熱交換塗料タフコートというもので、照りかえし無し、室温上昇の抑制、保温効果があります。万年塀は光触媒塗料ハイドロカラーテクトというものにて塗装、太陽の光と雨の力によるセルフクリーニング効果があります。◎墓地へつづく地下道の壁も塗りましたので、明るくなりました。塗装については、お施餓鬼会でも皆様にご報告いたします。
No.151ノアの方舟(はこぶね)
陽岳寺護寺会便り平成25年6月1日№151
ノアの方舟(はこぶね)
『3.11後の思想家』(2012年1月30日左右社発行)という本に、ジャン=ピエール・デュピュイというフランスの哲学者の書いた、『ツナミの小形而上学』という本の内容を、社会学者の大澤真幸氏が執筆していました。
『ツナミの小形而上学』には、旧約聖書創世記第六章に書かれていたノアの方舟を、ノアを預言者として登場させ、洪水を、「世界の破局」とした逸話として書かれてありました。
旧約聖書の方舟の逸話は、神エホバは、民への怒りを顕した洪水により、地球上のすべてを滅ぼそうと考えます。そして、神は、ノアに方舟を造らせ、種の保存をノアに命じて、契約を結びます。その内容は、報復そのものです。
「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる世界のすべての生きものにも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」と。
陽岳寺では、平成25年3月11日が近づくにつれて、福島原発の悲惨な事故と、その後の顛末から、万が一被災が収束に向かったとしても、使用済み核燃料という終息の道が見えないことを考えていました。将来にわたって決して終わることのない問題として、法要に、どう表現すればよいののか、『ツナミの小形而上学』を参考にしたのです。
《 ノアは預言者となって、毎日街に出ては、洪水により、人も動物も植物も亡びることを人々に訴えます。しかし誰もノアのいう言葉を真実とは思いませんでした。
ノアは、どうしたら人々が興味を示してくれるか、信じてくれるのか考えました。そこで、彼は、愛する子供か配偶者を亡くした者にしか許されていない行為として、古い粗末な衣をまとい、頭から灰をかぶりました。そして、街に向かいました。
すると、ノアのまわりには野次馬たちが集まり、口々に質問を浴びせます。
「誰か亡くなったのか?どうしたのだ、と人々は尋ねます。
ノアは、「多くの人が亡くなった」、「しかも亡くなったのは、あなたたちだ」と答えます。聴衆は、笑います。
「その破局は、いったい、いつ起きたんだ!」と尋ねられると、ノアは「明日だ」と答えます。
人々はどよめきをまじえながら、おおぼら拭きか、嘘つきの眼差しでもって、ノアを見つめます。そこで、ノアが語りました。
「明後日(あさって)は、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているのだ。洪水がすでに起きてしまったら、今あるすべては、まったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が、今あるすべてと、これからあるだろうすべてを、流し去ってしまえば、もはや、思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうのだから。そうなれば、死者と、死者を悼む者の間にも、何の違いもなくなってしまう。私が、あなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼(いた)むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだから」と。
こう言って彼は自宅に戻り、急いで、身につけていた衣服を脱ぎ、顔に塗っていた灰を落として、方舟づくりにとりかかります。
晩になると、一人の大工が扉をたたき、ノアに訴えます。「方舟の建造を手伝わせてください。あの話がウソになるように」。
さらに夜が更けてくると、今度は屋根職人が、「手伝わせてください。あの話が間違いになるように」と言って二人に加わりました。 》
この寓話は、未来に起きる確かな破局から、今何を考えなければ、そして実践としなければと、我々に警鐘を与えるものです。
さて、仏教の具体的な時間の考え方は、今という時間を持つことによって、時間は、過去と未来という相反するものとして、分離することを見つめます。しかも、分離することにより、却って、結びつけられている事実を見据えます。このことは、直線的な時間の流れがあるのだと考えるのではなく、今は、過去と未来を根拠として在り、しかも同時に、過去も未来も、今を根拠として在ると気づくのです。
そして、その同時性を持つが故に、その今は、次々に過去に流れ込んで、現在に生まれると見えてきます。ここから過去は不滅となることができます。そして、未来は、次々に現在となって消えてゆくと現実をとらえます。
しかも、時は現在から現在への流れしかありません。このことから、今という現在の意味は、現在が、限りない過去を含んで、今にあり、未来は現在として消えることから、未来は常に現在として顕されるものとしてあります。
過去・現在・未来とは、時の全体の流れでありながら、現在から現在へと、時の流れは、流れながら、現在にいて流れない現在でなければなりません。絶対の現在、現在の永遠性、また、時間の前後際断とはこのことをいいます。現実の時間は具体的に、流れないものが流れ、流れるものが流れないとなります。
さて、『ツナミの小形而上学』によるノアの方舟の寓話から、洪水によって世界が流される意味は、人間にとって過去・現在・未来がなくなることを示唆しています。
それは意味の記憶とエピソードとしての歴史という記憶が生まれることもなく、現在から現在へという、永遠の未来の流れも失われると語っています。
このノアの物語は、現在を変えなければならない。そして過去を変えないためには、洪水という未来からの視点で、現在の選択肢を選ぶことが、いかに大切かと説いています。
だからこそ、原発事故の必然性を徹底して考えることで、その事故を回避する自由を我々は常に現在に、持っている証明ともなると考えることができます。
今だからいえることは、過去にもいえたことでもあるのですが、もし過去に、原発の事故が、地震や津波、構造上の欠陥として現実に未来に起きるのだと想定していたなら、3・11の現実の事故という真実は、無かったこと、ウソの事故になったのです。
ノアの予言する洪水と、原発に被害が生ずるという未来から見ると、過去の真実は、幻の事故になっていたことがわかると思います。
そして、現在に於いて新たな予言者ノアの方舟は、大型化して地球という乗り物になっているのではないかと考えることができないでしょうか?
今という現在に次々と誕生する歴史を絶やさないために、そして、はるかに遠い未来のあらゆる世代の人たちに伝えるためには、今、現在となって消える未来を絶やしてはならないと思うのです。
◎5月18日(第三土曜日)のお施餓鬼法要は、昨年よりも参加者が多く、盛大に終わりましたこと、感謝申しあげます。◎東京のお盆は7月13日から16日までですが、お盆は申し込みにより、家々にまつるお位牌や仏壇を巡っています。 (和尚)