目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No.138団体参拝・すなお

陽岳寺護寺会便り平成二十四年五月一日 No.138  

本山妙心寺 団体参拝

  4月13日~14日、京都妙心寺へ団体参拝をしました。
  
  13日夕方、妙心寺隣の花園会館ロビーに集合。
  翌朝、午前9時 微妙殿にて妙心寺住職 河野太通師を導師に迎え、法要を勤めました。
  法務御多端のなか、宗務本所の和尚様方にもご出頭頂きました。
  
  法要後、案内係の和尚様に導かれ、山内参拝へ。庫裡(住まい)・方丈・浴室(明智風呂)のなかを見学。
  そして、通常は入ることが出来ない場所を案内していただきました。
  ひとつは、妙心寺の開基 花園法皇さまの御殿である玉鳳院。
  もうひとつが、隣接している妙心寺山内で最も古い建物で、妙心寺の開山 無相大師を祀るお堂である開山堂。
  
  檀家総代の宮坂氏の推薦により、その後、伏見へと移動。昼食をとり、酒蔵・寺田屋などを見学しました。
  そして天明 伏見義民伝のご縁がある御香宮神社へ。
  33代目宮司の三木善則氏にご祈祷、またお話しをうかがいました。
  平成に入ってから修理をして、極彩色が復元された本殿。神輿祭の期間のみ特別公開される通称「千姫神輿」など拝見しました。
  なお御香宮では、「伏見義民顕彰碑」があり、毎年5月18日、慰霊祭が伏見義民顕彰会などの方々により執り行われています。
  
  陽岳寺の本堂前にある碑は、京都伏見の町人七人衆の代表3人(文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛)のお墓です。
  
  たいへん有意義な二日間でした。第2回 団体参拝をお楽しみに!

  すなお

  人は生きている限り、多くの刺激を受けています。
  その刺激の「差」を比較して優劣をつけず、ただあるがまま受け止めるにとどめよ!と仏教は説きます。
  
  人生山あれば谷あり。良いこともあれば、嫌なこともあるでしょう。
  自分の気持ちがコロコロと変わるように、自分のまわりも変わってしまうものです。
  それでも、どうか自分の思うようにと願ってしまうのが人間なのですが。そして思うようにいかないが為、苦しむ。
  
  では、どうしたらいいかと考えます。
  その答えの一つは、私たちが本来持っている、素直さを思い出すことではないかと。「差」を「差」として認めるということ。
  
  『ダイバーシティ』という言葉があります。その意味は、『多様性の受容』、アメリカが発祥だそうです。
  
  人種や宗教、性別などの差を「差」として認めつつ、全体として調和のとれた世界をめざそう!という理念から生まれたと考えられています。
  
  素直になれ!と言われても、素直になれないものです。それでも、私たちは素直であったはずなのです。
  その素直さを思い出せば、人間の生活への見方が変わります。
  
  仏教の語る世界観は、私個人だけで存在するものなど無いと示します。
  そこにあるのは関係性、縁起です。
  
  自分と家族。日本と外国。地球と宇宙。人間と自然。内と外。
  関係性のつながり、その境はあいまいなものです。
  だからこそ時と場合によって、それぞれ同じ場所が際立って見えたり、違う場所が際立って見えたりします。
  
  すべては全体を含めてのことです。
  ものごとの本質は、周辺事情でしかないのではと思います。
  
  あいまいな境は区別することで分かりやすくなるかもしれません。しかし、感情や理性を超えたところを見ると。
  
  想定外と想定内の境は明確でしょうか。スイッチのオンオフ、0か1、正解か不正解。
  以上の関係性は互いがあってこそ存在します。では、グラデーションと見ては。
  
  私個人だけでは存在できないからこそ、関係性によって形作られる。
  その姿を素直な気持ちで見れば。
  
  どうしたらいいか。素直さから起こる、その問いこそが生きる力なのでしょう。         (副住職)

  ◎陽岳寺史上、初の団体参拝でした。
  ◎ご意見・ご感想お待ちしています。
  ●訂正●No.137裏面17行目『「始め」→「終わり」に相対する意味です。』

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最終更新日 : 2013-07-20 15:48:34

No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す

陽岳寺護寺会便り平成24年6月1日No.139

魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す

 道元禅師の、正法眼蔵現成公案という文章の中に、「魚は水を出づれば忽ち死す」と書いてあります。魚を人に、そして魚に相対する水を、空気や人の生きる条件のものに当てはめてみると、かえって平凡な言葉こそ、真実を現していると思うのです。人と空気、人と環境、人と自然と言葉を代えれば、生命論の決まりごとが見えてきます。
 気象庁は5月16日に、岩手県大船渡市の二酸化炭素の濃度が、月平均400PPMを越えたと報じていました。この結果は森林破壊や地球環境をより悪化させ、化石燃料の消費を強く抑制しないと、地球全体の温度の上昇を抑えることが必要です。だからといって、原子力に頼ることはできませんので、世界は節電を考えなければなりません。そのためには資本主義や功利主義の考え方を変えることが、未来の世界に対する私たちの責任と思っています。そして一人一人が、「これは地球にとって善いことであろうか」……と考えることが必要なのだろうと思っています。もしかして、人間の存在が地球を痛めていると思わないためにも。
 中央公論の平成24年5月号に、作家の高村薫氏が、『だからわたくしは仏教に期待する』と、提言していました。
 内容は、仏教の「縁起」という原理に、改めて注目することでした。世界は永遠の事象の連なりによって生成している。なぜ私は生き残り、「あの人」が死んだのか。そこに決定的な理由など存在しないのだと。
 こう考えてみて、「縁起」の観念によって、発想の転換が起こったという。生きることと死ぬことが表裏一体だからこそ、「この命を大事にしない法はない」と感じるようになったといっていました。
 お施餓鬼にもお話しいたしましたが。仏教の論理は、世界は相反して相対してあるという相即(そうそく)の論理です。
 人は世界や環境の要素として含まれていると同時に、世界や環境を含んで人は、誕生し存在します。この関係の中は、含んでいながら含まれているし、含まれていながら含んでいるという事実です。 
 人間が地球に生き続けるかぎりは、環境を、世界を、地球を守らなければいけないことは自明の理です。自然に優しく、いたわることは、また自然から人間への優しさやいたわりに触れることだからです。何よりもこの事実に気づくこと、ここからもう一度考えてみたいのです。
 人間は、環境、世界、地球そのもの自身です。このことに気づけば、含むことによって、また含まれることによって、各々の人間が独立とした存在であることが理解できると思います。
 人間の生きる根拠は環境にあり、同時に環境も人間の存在を根拠にしています。そしてその根拠の場所は、今とここにあります。その今とここは、今は過去と未来を含んで、ここは空(そら)や地球内部、もしかして太陽や宇宙をも含んでいます。人間が如何に、そんなこと知らなくとも、一人一人の命は、こういう関係の中にあるということが、仏教の縁起論です。仏教の時間論は、今しかありません。
 過去や未来、今にしかありません。これは現実です。このことは、過去は今をより所としてあり、未来も今をより所としてあるということです。
 同時に、今は過去をより所としてあり、そして未来を寄りどころとして、今は在り、現在においてあるということです。
 今しかない時間に、過去や未来が含まれているなら、過去も未来も変化するということです。
 これは当然、放射線による汚染や二酸化炭素の400PPMは、地球を汚染していることだと注目すれば、電気代が安いとか、高いとか、石油や天然ガスがよいとか、考える前に、我々の未来も過去も、いまここにあることに気づけば、今、考えなければならないことばかりです。
 今しかない、だから、今楽しまなければならないとすれば、当然、何年、何十年、何百年、何千年後の未来は消滅した姿になっているでしょう。これは過去私たちが生きていた事実も生滅し、今の根拠である未来が無くなることでもあります。時間の生滅という破滅は、場所の喪失になつがってしまうでしょう。
 今しか無いからこそ、考えて行為する自己を自覚することが仏教の縁起です。
 仏教の縁起は、あれ在ればこれ在りは、あれ無ければ、これ無しです。事実の連なりというのでしょうか、でもですよ、一人一人、地球にとって、一つでも役に立つことを、汚している人間としては、徹底して考える時間を持つことは必要なことです。
 お釈迦樣は、本当にすごいです。
 「人間は、その行為によって自己がある」と、「生まれによって、職業によって、育ちによって自己があるという考えはない」と。「行為によって自己がある」と。
 手を洗う私、食事をする私、もちろん、私が手を洗うことなのですが、私が食事をするのですが、でもいつも、行為によって自己私があると、放射線の汚染を考え続けることによって自己があると。ボランティアするところに自己がある。
 雑踏を急いでいて、肩がぶつかり、頭にきたからと、人をナイフで刺すところに自己があるでは、悲惨です。
 だいたいナイフを所持して日常成り立っている自己も悲惨に思えるのですが、すべては行為によって自己、私があるわけですから、その私は、縁起によって成り立っている私であり、縁起をさらに動かす私です。反省というもつぐなうということに於いても、すべては、自己以外のものと相対する関係の中に流れる思いです。その思いは自分がつくりあげるものですが、仏教は、それを”我”といって、根源悪といたします。
 縁起的に言えば、自己の人格も、自己が対象とする人格を認めるところに、あるはずなのです。真の人格とは、他者を含んであるわけです。自己の人格の例から言えば、実は、自己を無にして、他者を認める、あるいは聞くこと、そのことによって自己の人格が成り立っている現実を悟ることでもあります。
 「魚は水を出づれば、忽ち死す」この言葉は、自己の有り様をまた語っています。
◎お施餓鬼の法要は、今年から5月の第3土曜日と変更になりました。大勢の皆様の参加により、お施餓鬼会ができましたこと、嬉しく思います。歴史の勤めですから……私は。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:49:24

No.140我性(がせい)

陽岳寺護寺会便り平成24年7月1日No.140

我性(がせい)

 人の我は、もともと強いものなのでしょうか。釈尊仏陀は、「人は生まれによってあるのではない。行為によってある」と話されました。
 そこにひそんでいる言葉を探せば、過去における生まれや育ち、環境において人は在るのではない、今ここに生きる行為によって在るのだと理解できるでしょう。だからこそ、今ここの行為を大切にしたいと……
 その行為に於いてある私は、単なる私でもなければ、単なる私で無いものでもありません。私と私でないものが矛盾を含みながら、同時に結合するところに、我々の行為があり、それが私となります。
 法句経というお経の言葉です。
 『施しても施したという思いを起こさず、ことをなしてもなしたという思いを起こさない。それは母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、与えたという心を起こさず、病む子を看病しても、看病したという思いを起こさないのと同じである。ただそれが賢いことであり正しいことだからするのである』と。
 この一文から「看病するときは看病に徹して、人にものを与えるときは与えることに徹して、行為に徹して生きなさい」と聞こえてまいります。それが賢く、正しいことだからなのですが、看病に徹する一つ一つに行為の中に、大丈夫だろうか、元気になって欲しい気持ちは既に含まれていると思えるからです。判断・吉凶・運命・善悪・損得による行為は心を起こしたものだ、禅宗から言うと「無心」ということでしょうか。
 釈尊自身は、行うことは行うことに徹して、そこに何ものにも左右されない自在なる心があると指摘しながら、しかもその自在なる心には、動かされて行うことを含んでいることをも指摘するものです。

 仏教に、随順因果(ずいじゅんいんが)という言葉があります。釈尊仏陀のことを、「大因果人」とお呼びいたしました。
 因果とは、原因があって結果があるですが、これは小学校や中学で、理科の実験をした通りです。しかし、仏教の因果は少し違います。原因は結果という根拠を以っての原因であり、結果は、原因というものを根拠として結果であると考えます。
 原因が先か結果が先かでは、結果は後ではなく、同時です。結果に於いて原因も成立していることが現実の有り様だと仏教はいいます。
 男女が結婚したことによって、夫と妻になるわけですが、結ばれることでこの二人は、別々の妻と夫に分かれると解釈すれば理解できると思います。いつも、同時です。
 さて因果に随(したが)って順ずるですが、”順”という言葉に反するものは、”逆”です。逆を根拠にして、却って順があると考えます。しかもこの随うという意味は、因果による行為を、好きや嫌い、損得勘定等々、心の中に思い描くことなしに、ただ随う、ただ動く、ただ作る、ただ聞く、ただ見る、ただ生きる、ただ助ける、ただ手伝う、ただ考えるということです。
 因果に随うとは、今この文章を書いているさ中に、お寺の玄関のピンポ~ンと、お墓参りのお檀家さんが訪れます。
 お墓参りの方々は月命日、家々の亡くなられた方々の年に一回の祥月命日にお参りされる方もあります。毎週何曜日と決められて来られる方、思い出してときに来られる方々、孫が受験で、自分が入院して退院したので、父母が入院したのでと、各家庭の出来事の折々の吉凶の祈りの場所としても、思いだしたもので……とさまざまです。
 これを、随順因果のお墓参りと言ってもよいと思います。
 外出しようと、今日の天気予報を見れば、お天気マークにより着ていく洋服を考えるものです。雨が降るから傘を持ったりと、外出を控えるのも、随順因果です。
 出会う相手により服を着替えたり、お通夜に黒服を着せるのも、随順因果です。
 自在に私の行為を変えさせるものと言ってもよいかもしれません。これを深信因果(じんしんいんが)とも言い、台所でネギを刻み、子供が受験勉強をする、ワイシャツを洗濯し干す、食事を頂き食器を洗う、薬を飲む、すべて随順因果にして、深信因果です。
 お茶を飲むことも、電車に乗るのも、歩くのも、すべて随順因果であり深信因果です。
 今あげたこれらの行為はすべて、私を動かすものに於いて動かされた私がいます。子供が勉強するのですが、受験というものが子供を動かし勉強をさせます。行為は同じでも、随順因果とは自在でなければ、随順因果とは言いません。
 しかも、この随順因果の交わる場所に時間があります。それは過去と未来が同時存在しているといえるでしょう。過去が今を動かし未来も今を動かし、今の行為に過去は変わり未来も変わります。しかも常に同時因果です。深信因果とは因果歴然(いんがれきねん)であり、明かな理だと……ここに因果必然の理があり、不昧因果(ふまいいんが=因果をくらまさず)とは、因果の真理を明らかにするという意味です。明らかにするわけですから、断念するのでもなく、決めつけるわけでもなく、暑くなればT シャツを着て、冬になればセーターを着ることは、因果をくらまさずに、随順している姿です。
 「お元気ですか」に、「おかげさまで無事に過ごしております」こそ、随順因果を語る言葉です。

 昨年3月11日東日本大震災があり、想定外という言葉が脚光を浴びました。小泉純一郎「世の中には、マサカの坂がある」とも。これは世の中何があるか解らないし、一寸先は闇という言葉もありましたが、成るようにしか成らないし、成らないようには成らないものです。
 火宅無常の世界に生きる智慧は、自己の内の我性に気づくことです。
 白隠禅師や盤珪禅師も「我が身びいきをするな」と説いています。道元禅師は「わが心を先とせざれ」いい、聖徳太子は「それ事をば独断すべからず」といいました。
 古人は「自見すれば必ずあやまる」いい、良寛禅師は「水の上に数書くよりもはかなきは、おのが心を頼むなりけり」と詠っています。
 龍樹菩薩の悟りの言葉は「欲は苦の本、集禍の根、敗徳の実を危くすること、皆これより起こる」といい、「求むれば苦あり、求めなければ苦なし」と。臨済禅師は「求心やむところ、すなわち無事」と説きました。
 「なりたいと幸せねがう人あれど、今の幸せ思う人なし」とありますが、真の生きがいや幸せとは、常に、今ここに在る私においてです。それは時計の針は回りますが、デジタルの時は数字を数えますが、実際の時は、現在から一歩も動かずに、時は流れて、流れないからです。
◎東京のお盆は7月13日~16日です。8月12日は富岡八幡宮神輿連合渡御です。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:50:07

No.141無事是れ絆

陽岳寺護寺会便り平成24年8月1日 No.141

  皆様にお送りしている小冊子「花園」は、臨済宗妙心寺派の宗務本所が編集発行しているものです。
  鎌倉にある円覚寺も小冊子を編集発行しております。わたしのもう一人の師匠、管長・横田南嶺師が寄稿していました。
  平成二十四年うらぼん号の全文を掲載します。
(中略~読みたい方は~お寺にお越しください~)  

  無事是れ絆

  前にも書いた記憶がありますが、この護寺会便りが皆様のお手元に届くまで、寺族によるチェックがあります。
  この141号は書き直して、三回目。まったくオッケーをもらえません。
  えーこんな文章を載せるの?ちょっと重いんじゃない?話の筋が通ってない!本の目次を見ているようだよ!
  ひどい言われようです。ごめんなさい。
  それならばと、老師のお言葉を紹介することとしました。
  
  円覚寺の夏期講座での、老師の言葉です。
  『よく自殺の問題があると「いのちの尊さ」「いのちの大切さ」が声高に叫ばれます。けれども、ああいう言葉は、残念ながら叫べば叫ぶほど無力に思われるのです。』
  
  昨年の震災や、今年のいじめと、「いのちの大切さ」が問われます。
  しかし問われれば問われるほどに、叫ばれれば叫ばれるほどに、本質がどこか置いていかれている様な気がします。
  横田南嶺老師は、「無事是れ貴人」という言葉を紹介してくださいました。平素な言葉で分かりやすくです。
  何かがあったとしても、ああよかった、無事だった。また、まわりの人のそんな思いに気づくことができれば。
  すでにそもそも自分も皆も貴い人間なのだと。感謝の気持ちを手を合わせることで確かめます。 (副住職)
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│ お知らせ                          │ 
│ 円覚寺管長 横田南嶺老師のDVD      │ 
│が出来ました。                      │ 
│ インタビュー・私がいた修行道場    │ 
│の風景も紹介されています。          │ 
│(検索「臨黄ネット御用達市場→禅    │ 
│文化研究所」)                      │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│                                    │ 
│http://shop.rinnou.net/shop/A125    │ 
│/QSgyt6ZbX/syoinfo/692              │ 
└──────────────────┘ 


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最終更新日 : 2013-07-20 15:51:44

No.142名前

陽岳寺護寺会便り平成24年9月1日 No.142

  名前

  仏教の開祖である「お釈迦様」は、いろいろな名前をお持ちでした。
  
  「ガウタマ・シッダールタ」は、出家前の名前。
  「仏陀(ブッダ)」は、サンスクリット語で、目覚めた人・体解した人・悟った者などの意味が、個人名化したもの。
  「釈迦牟尼(しゃかむに)仏」は、釈迦族の聖者という意味の尊称。
  「釈尊(しゃくそん)」「釈迦如来」「世尊(せそん)」など。
  
  仏教という視点を外してみれば、彼は「(シャーキャ族の)王子」でしたし、「(妻子持ちの男)夫・父」でした。
  
  なぜ彼はこのように色々な名前で呼ばれたのでしょうか。
  それは彼が、私たちと同じ人間だから、縁という世界に生きる者だからです。
  
  どんなものにも、名前や呼び名があります。
  しかし、その名前や呼び名は、状況によって変化します。
  たとえば、私は副住職ですが、「副住職」「新命(しんめい)さん」と呼ばれます。
  住職は、「ご住職」です。
  陽岳寺の和尚への視線のなかで、違いを探ろうとすると・・こうした違いが呼び名にあらわれます。
  
  しかし、和尚という視点を外してみれば、二人とも「向井さん」でもあり、「父と息子」ともなります。
  
  名前や呼び名は、状況によって変化します。
  相手を結びつきのなかで認識することによって、私も、相手も、お互いの存在が具体的になるからです。
  相対することによって、はじめて名前が付けられるといえます。
  会社なら、部下がいて上司がいる。店員やバイトがいて、店長がいる。
  
  役割が名前となるもの。
  さいたるものは家族の一員としての自分でしょう。
  人は、親と出会えば息子・娘となり、祖父母と出会えば孫となり、兄と出会えば妹・弟となり、子どもと出会えば父親・母親となり、と名前や呼び名を変えていきます。
  しかし、その関係性にある自分を見れば、親の前では息子・娘でしかなく。息子・娘の前では父親・母親でしかない。
  
  夫婦も同じことがいえます。
  妻と夫の関係はお互いがいてこそ、夫婦として認められます。
  お互いを尊敬し、感謝をせずに、夫婦というかたちを取り続けることは難しいことです。
  
  うつりかわる自分という存在を、確固たるものとして持ち続けることは大変なエネルギーのいることです。
  尊重しあい、支え合うことは、その誰かと生きることを楽にしてくれるかもしれません。
  韓国の法頂和尚の詩「存在に向かう生き方」、はじめの部分です。
  
命をあたかも所有物のように思いなすから
われわれはその消滅を恐れる。
命は所有物ではなく
瞬間瞬間にあることだ。
  
  自分の名前。自分の役割。自分の命。
  たしかに名付けられはしたが、世間の人は母親はこうあるべきだ父親はこうあるべきだとそう言うけれど。
  命をあたかも所有物のように思いなすから、その消滅を恐れる。
  
  このことは、私たちがある癖を持っていることを教えてくれます。
  自分が自分であることを疑わないために、なんでも自分中心に考えてしまう癖です。
  その癖とは、私たちと自然はどうやって共存してきたか、今日の私たちの歴史から地球の歴史を考える等の行為を断じます。
  
  いろいろな名前や呼び名を持つということ。
  生きるということは、姿や形を変えていくことです。
  そのことに気付けば。
  世間の言う、こうあるべきだという言葉に振り回されたりしないでしょう。
  しかし、母親として父親として、自分として。瞬間瞬間あるように、なすことができるのではないかと。
  
  思ったことがあります。
  夫は朝行ってきますと仕事に出かける。妻は子育てに忙しく家にいる。夜、お腹はペコペコで、疲れて家に帰ってくると、ご飯の用意がない。
  こんなとき。妻は家にいるのだから、外で仕事をしていないのだから、夫のためにご飯くらい作るべきだ・・と非難するか?と。
  子育ては大変です。家事も大変です。週に数日くらいなら仕方ないか?出前でも取るか?でも、ご飯くらい用意してくれよ・・。そう思うのは人情でしょう。
  でも、私たちは生きています。人情に動かされるのも私たちですが、考えることができるのも私たち。
  さらに、そんな思いも超えることができるのも私たちです。
  
  その命、役割、名前は、所有物ではない。あたかも所有物のように思いなすことを止めよと法頂和尚は教えてくれます。
  
  私たちが自然にひかれるのは、こういう点なのだと思います。
  風は「風の存在意義は云々」と思って吹いているわけではないでしょう。それでも、風は風自身ビュウビュウと吹く。風は風に没入しながらも、風としてあらねばならない姿にくらまされていない。
  自然はもともとひとつです。
  風によって種が運ばれ、雲がわき、雨を降らす。そよ風、はげしい風、冷たい風と徹します。
  だから、その名前や役割に固執しても、無関係だと意気込んでも、自分ではない。
  風は「自分は風だ」と思わないように。
  
  名前は、物事を区別すると同時に、結びつけることでもあります。世界は一つ。
  名前や役割を拠り所とするなかで、置かれた場所に徹することが自分となる。
  
  名前や呼び名に没入しながらも、「こうあらねばならない姿」に自身を振りまわされない。「生きるわたし」でいたいと思います。      (副住職)

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最終更新日 : 2013-07-20 15:52:55


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