目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No.134年頭に……

陽岳寺護寺会便り平成24年1月1日No.134

年頭に……

 東日本大震災に遭い、陽岳寺のあらゆる昨年の法事一つ一つに、下記の言葉を添えて、般若心経や金剛般若経をおよみいたしました。
 《東北地方太平洋沖地震と津波の影響で亡くなられた方々、人知れず今も多くの悲しみを秘めた心を持つ方々、未だに立ち直れない方々、あれから時が止まった方々、その方々のために、「忘れない、日本!」が寄り添うことになると思います。  
 今も被災し避難している方々、除染作業に携わる自衛隊員、警察、消防、ボランティアの方々、津波にも地震にも遠い場所で被災しなかったけれど、痛みとして心が共鳴し見守ってくれる方々。その方々のために、「頑張れ日本!」が必要と思うのです。
 もちろん、今日の法事の主人公のためでもあります。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事、ご健闘を、般若心経にて心よりお祈りいたします。皆様もご一緒に大きな声でおよみ下さい》と。
 3月11日の大震災が発生したとき、陽岳寺にとっても正面から見据えて、法要の内容にして向かわなければならないと、新命副住職に話しました。新命副住職は、「もう考えているよ」と、彼が作った上記の内容を、お彼岸の法要から試み続けています。
 あの津波の映像を繰り替えし見た者にとって、被災した山や川や海、そして街の写真や映像、現地にて目撃したものにとっても、繰り返し繰り返し、被災地にこの言葉を発することが私たちの日本人の務めであるように思ったからです。幾度も祈ったとて、祈りに終わりがあるように思えない大災害でした。そして毎月、被災地の状況に合わせて作り替えました。
 もちろん原発の暴挙に苦しみ、さいなむ人たちに向けてもです。東日本大震災で被災し亡くなった人を含めて、生きている人たちのためにも読むべきだと強く思いました。
 そして、被災し非難し、復興にたずさわる人たちを含めて、また心配して心を痛める人たちのため、毎回毎回、お経を読んだきっかけを、東日本大震災が創ってくれたことに気づきました。通夜や葬儀にも、このお経を読むときは、必ず被災地のことを思いました。
 一昨年前のお施餓鬼会の法要に向けてのことでした。この震災を予感したわけではないのですが、地球温暖化や、無縁社会が叫ばれるようになってです。格差社会や鬱病にあえぐ姿が見受けられるようになってです。背後に、人間の弱さや愚かさが大きく見えていました。そのとき、神さまのことを考えたのです。
 禅宗のお坊さんとしては、珍しいかもしれません。でも日本に生まれて、日本で育ったものとしては、ごく普通のことだとも思っています。それに、もともと回向の中に「三世の諸佛諸菩薩、もろもろの天界に遊びし神々、地上に住まう神々精霊」という言葉を捧げていますので、今さら、なのですが「どうして、こうも不幸なことが起こるのだろうか」とです。
 もともとインドでも中国やアジアでは、多神文化の地です。その神々の地に仏教は誕生しました。神々がいたからこそ、誕生したともいえます。
 それは、人間の絶対的な平等、迷信や不合理・占いなどを排除し、造られた倫理観を説かず、人間として真の自己に目覚めることを重視したともいえます。
 そのために、正しく見て、正しく考え、正しい言葉を使い、正しい行い、正しく生き、正しい務めをして、正しく思い、正しく心を修めることが必要だと説いたのです。もちろん、その時代は身分差別や、生まれや職業、障害、貴賤による差別の社会だったからです。
 社会のあらゆる差別に対して、その差別を直視し、「正しいこととは?」と、みずから考えて、行うことを説いたのでした。それが苦しみから遠ざかることだからです。
 そのために、「人は行為によって……自己である」という言葉が誕生したわけです。仏教は、そんな状況の世界に、絶対の自由や平等を宣言したのでした。
 東日本大震災の引き金を引いたものについては、科学の進歩を待たなければどうしようもないことです。もし予見できたとしても、予知できても、人間の知恵で備えることはできますが、こうした大震災を止める手立てはありません。地球を自由に科学で操ることなど、今は、考えることもできないことです。地球は生きているのですから。昔から、神々という言葉で、人間は祈っていました。
《仏教は神々を、縁起の法により神々の場所に在らしめます。在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は縁起そのもの。
在るものを在らしめる神々よ
在るものを無さしめる神々よ
無いものを在らしめる神々よ
無いものを無さしめる神々よ
 空や山や川や海を、鎮めたまえ。町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ。》
 結局災害がないようにと祈るほかにないことに気づきます。それは、人間の思い上がった心を見つめて、無力さからの力強い歩みを促すことでもあると気づきました。
《そして、この世界にあって、慈悲と智慧をつかさどるもろもろの仏たちよ。
思い通りに行かぬ苦しみを救うよう、どうかわたしたちの祈りや願いを 聞き届け給わんことを。
 そして、慈悲と智慧を、人々に巡らせるもろもろの菩薩たちよ。
 仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、我が心の鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ることを導き給え。
 そして、この世界のすべてのひとたちの命を与え、家族から、仲間から、この地上から旅立っていった多くのひとたち。
 また、さらにこの世界のあらゆるところで、お腹をすかせている人たち、お腹をすかせて亡くなった人たち。
欲張りな人たち、欲張りなままに亡くなった人たち。
不幸な人たち、不幸なままに亡くなった人たち。
怒っている人たち、怒ったままに亡くなった人たち。
悲しんでいる人たち、悲しんだままに亡くなった人たち。
すべてのいのちが 満たされて、やすらかになりますように、共に、真実に目覚めることができますように。
 そして、この祈りにより、わたしたちの心に、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心を巡らせたまわんことを》と、年頭に向かって回向いたします。
◎それぞれの足もとに、幸せが見つけられますように、気づくことを祈念申し上げます。◎昨年の一月護寺会便りNo.119に、落語の『らくだ』をのせました。そして最後の落ちは立川談志の、らくだがじっと雨を見つめるシーンに寂しさを重ねたものでした。怒り、悔しさ、情けなさ、必死さに、最後は涙と笑い。古典を現代の人情に仕立てた人でした。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:44:03

No.135福は外、鬼は内

陽岳寺護寺会便り平成24年2月1日No.135

福は外、鬼は内

 白隠禅師の著した「白隠禅師坐禅和讃の冒頭に、「衆生本来、仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷りなく、衆生のほかに仏なし。」と説きます。
 私もそうでしたが、自分のどこが、何が仏なのだろうかとの問いが、含まれています。 自分の境遇や持っているものを比較したり、その比較したものに振り回されてばかり、欲しい、うらやましいと。その欲しいとか、うらやましいの中身は、多くは金銭にかかわるものであるし、また、病気であったり、身体的なもの、生まれによるものもあるかもしれません。
 2月3日は節分ですが、「福は内、鬼は外」と、まるで、節分のような自分自身の心の葛藤が見えるようになってきました。
 小さい頃もそうでしたが、大人になっても、節分は「福は内、鬼は外」です。でもよく考えてみると、それを言わせているのは、自分の中の鬼ではないかと考えたこともありました。
 もっとも、「福は内、鬼は外」と見えるようになっても、相変わらず自分の心の中には、「福は内、鬼は外」と染みついたモノの見方が住んでいるようです。
 だからこそですが、例年の5月の陽岳寺のお施餓鬼でも、「仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ります。このことが施餓鬼会をおこなう理由となるのでしょう。」と言い続けています。
 考えてみると、本当は福も鬼も心の中に一体として生きていることを思うのです。だから、いわせているモノは誰なのだとうと問うことに意味があると思っています。
 何故なら、「福は内、鬼は外」と言わせ続けることで、人間の心の内に善と悪、綺麗なものと汚いもの、量の多いもの、質の高いもの、高価なもの、綺麗なものなどの選択を知らぬうちに染みこませている気がいたします。えり好みする習性を植え付け指すのではないかとです。
 しかし、禅宗の世界に入って、そんな心の葛藤を見ることができるようになって、「福は内、鬼は外」であるものの、ただ、内と外にわずらわされていると、考えることができるようになり、幾分かは、楽になり、物事が見えてきたような気がいたします。でも錯覚かもしれませんが……
 初期仏教のスッタニパータ、初期といっても、もっとも釈尊の生の声を反映したものですが、そのスッタニパータに、『慈しみの経』があります。
 一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 いかなる生きもの生類であっても、怯(おび)えているものでも、強剛なものであっても、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目にみえるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸せであれ。
 何人も他人を欺(あざ)いてはならない。
 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人を苦痛を与えることを望んではならない。
 あたかも、母が己(おのれ)が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。
 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。
 この『慈しみの経』こそ、どこにいても祈りの言葉となるもです。それこそ、仏壇でも、怒りや寂しさに覆われたときでも、自分の心を癒やしてくれ、そして自分の心を見つめさせるものです。
 仏教の目指すものは、私もまだできないけれど、「福は外、鬼は内」ではないかと思います。そして、「誰もが幸せであるように」と、祈ることができるようになれることが、今、日本も世界も必要としていることでないかと思ったいます。
 さて、釈尊仏陀は、誕生したとき、七歩、歩いて天を指さし、地を指し、「天上天下唯我独尊」と伝えられています。
 人間一人一人、世界にあって個人の絶対の自由さを宣言するものです。しかし、自分の自由さなんて何もない。いつも他人の言うことばかり気になって、一つも自分らしさなどないぞと、思っていないでしょうか。このことは、自分のどこが何が絶対の個人の自由さなのかの問いにつながります。
 鎌倉時代、栄西禅師の著した興禅護国論の序に、「大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
 日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や。」
 人間の心は、だれでも、この自由さを秘めています。だから、正反対の心もあるのだと思っています。そして執着からくる不自由から脱するため、人はこの絶対の自由を手にいれようと、もがくのですが、この作業をやめたときこそ、実は、得ることができるのだと禅は主張しています。
 2月3日の節分という節目、分け目は、そんな人間の心に、「福は外、鬼は内」こそが、天上天下唯我独尊と、切り替えるヒントを与えてくれるものでもあります。(和尚)
◎お彼岸は、3月17日(土)から23日(金)の期間です。
◎今年のお施餓鬼は、5月19日(土)第三土曜日です。今年は住職がお話しをいたします。 皆様の参加をお待ちしております。
◎本山妙心寺団体参拝を考えています。日程は4月13(金)~14(土)、現地集合・現地解散です。13日の夕方、花園会館チェックインできるのは少人数。参加される方はお電話ください。先着数名です。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:44:57

No.136東日本大震災1周忌回向

陽岳寺護寺会便り平成24年3月1日No.136

  昨年3月11日の東北地方太平洋沖地震から、約1年。人は、年単位で思い起こす生き物です。
  親しかったあの人がいなくなって何年でしょうか。現地にいるかたも、現地にはいないけれど日本という国にいるかたも、思いをめぐらし、般若心経をお読み下さい。    (副住職)

  ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころ ~3.11東日本大震災1周忌回向

  2011年3月11日午後2時46分。モーメントマグニチュード9.0の大地震が起きました。日本の三陸沖を震源とする地震と、その地震に伴う津波によって、多くの命が奪われました。
  津波は、岩手、宮城、福島、茨城、千葉などの広い範囲に及びました。命を落とされた人々は、阪神大震災のときよりも多くなりました。戦後最悪の災害です。
  その東日本大震災から一年が経ちます。
  3月11日から、一日一日。1、2、3ヶ月、百日と過ぎ、半年が過ぎて。一年という時間は長かったでしょうか、短かったでしょうか。人が生きるということは、自分という経験で裏打ちすることとも言えます。その自分という経験は、時間という揺らぐ心そのもの。あるようでない、ないようである、揺らぐ心そのものですから、自分・人が生きるということは、確かなものだと自信を持って言うことが難しいことです。
  人はいろいろなものに思いを馳せます。あの場所。あの匂い。あの音。あの時間。
  その理由は、どうしても何かしらの意味をつけたがるからでしょうか。人は自分という思いを起こす生き物です。
  大震災から今日までの時間の流れを、「もう」一年と考えるか、「まだ」一年と考えるか。どんな意味を見いだそうとしているのでしょうか。
  私たちが感じるその時間の長さ・短さは、私たちの命から溢れる思いのたけです。
  風評が流れようと、放射線が降ろうと、生きるのは私たちの命あってこそです。石にかじりついても、この心臓は、この身体は動こうとします。
  
  考えもつかない事でした。映画や小説にあるような出来事。今見えているこの世界は何なのか。テレビやラジオや新聞で、私たちの目には見えるけれども、どこか遠い国のことではないか。
  
  これからも続いていく人生のなかで、どうしても無視できないことはたくさんあります。
  次から次へと目の前を過ぎ去っていく時間は、ひとつひとつ片付けていかないと、たくさんの宿題となって戻ってきます。どうしたらいいか。この問いこそが生きる力です。命そのもの。
  大きな宿題となって私たち個人個人の判断に迫ってきます。新聞をとるにも、就職をするにも、お店で何か買うにも、人と知り合うにも。すべては、無関心ではいられません。
  しかし、どうすればよいのでしょうか。誰の言っていることが本当で、信じればいいのか、行動すればいいのか。生きていけばいいのか。あまりの情報の多さに目を背けることも、逃げることもできず。どこかに正解があるはずだと、求め、彷徨う。
  だれでも不安や恐怖を持っています。「目に見えない」「いつ来るか、いつ終わるか分からない」。自分にとっての拠り所を求め、彷徨う旅は、いつ終わるのでしょうか。
  
  ここに一つの答えがあります。それは、「絶対の答えはない」ということです。同時にそれは、「人それぞれに、答えがある」とも言えます。
  ある一定の答えが出るまでには時間が掛かります。何度も話し合い、聞くことです。話すということは、道を進むことだからです。そして、その道を進むまで、進む途中を、静かに見守りましょう。そのためには戒めを持って暮らしていくことです。
  仏教では人が生きていくなかで戒めを持つようにといいます。そして禅宗では今という一瞬一瞬を生ききるように!といいます。
  過去の歴史を学び、未来の暮らしを見据え、いまを生活すること。過去と現在と未来。過去は過ぎ去った事実であり、未来は未だ来ない事実ですが、いま目を閉じて思い出し、想像してみれば、過去も未来も現在という一瞬の時間に現われることに気付きます。この時間は、過ぎ去った事実も、未だ来ない事実も、私という存在のなかにいるということです。そこで戒めを持たなければ、振りまわされて自分という経験を積み重ねることさえ出来ず、捨て去ることも出来ない。
  
  大地が揺れて、建物が揺れて、海が揺れて、世界・すべてが揺れました。考えても考えても、想定外のことは起こります。人が変わることは本当に難しいことです。いくら想定内を求めても、心の揺さぶられる力が働きます。そして、もとに戻ろうと、良くなったり、悪くなったりを繰り返していく。この揺り戻しがあるからこそ、人も町も強くなる。
  
  失ったこともあるならば、得たこともあるでしょう。
  揺れる心があるのだと。ゆるゆると生きていくのだと。それは、ゆるぎないこころ。
  人を・自分を思いやるこころがあるのだと。それは、ゆるすこころ。
  
  ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころ。
  あまりの情報の多さに目をとらわれないで。目先の優しさにとらわれないで。
  生きることに真剣に向き合っていれば、人間は自ずと変わっていく存在です。
  すべては単純なことです。この身と心をもって、生きているという事実です。
  生きることへの問いは、手近にある優しさだけでは説明できません。死への問いも含まれます。もちろん安心と信頼は生きる糧ともなります。
  なぜ生きるのか。偶然にも受けたこの生は、なんなのか。この命・人生は自分から生まれたいと望んで受けたものか。この命・人生をどのように受け取るのか。この偶然を素直に受け入れるだけでいいのか。その問いを、認識する機会を得たのだと。
  この一年という区切りは、旅立った多くの人たちの命を通じた、大きな問いかけです。
  
  オーストラリアの洪水も、ブラジルの洪水も、インドの寒波も、ニュージーランドの地震も、あれから一年です。過ぎ去った一年は、どこへもいきはしません。
  いろいろなことが起こります。しかし具体的には知らないことばかりです。時は過ぎていきます。それでも私たちにとっては、毎年毎年、その日その日を暮らしていくだけです。
  そしてこの時間という事実に、人は思えることがあるのだと思います。ふと立ち止まって、言葉にしてもいいし、胸にひめて置いてもいい。もやもやしてもいいし、筋を通してもいい。
  たしかに大きな出来事です。世界が変わるでしょう。そんな変わる世界を諸行無常といい、諸法無我を変わる自分といえば、目指すところの涅槃寂静とは私たちが戒めを持って暮らすこと。
  
  それでは、これから般若心経をお読みします。この読経にのせて、この想いにのせて、ゆるゆると、ゆるぎないこころ、ゆるすこころを思い起こしてください。
  この読経は、先に逝った多くの人達のためにです。そして、生きているものたち、日本・世界のすべてのためにです。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事をお祈りいたします。 <読経 般若心経>

◎お彼岸は、3月17日(土)~23日(金)の期間です。◎今年のお施餓鬼は、5月19日(土)第三土曜日、今年は住職がお話しをいたします。皆様の参加をお待ちしております。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:46:09

No.137悲しみの木

陽岳寺護寺会便り平成24年4月1日No.137

悲しみの木

 ユダヤの寓話に『悲しみの木』がありますが、その木は天国にあるのではなく、日本という国中にも、あるような気がしてなりません。
 この寓話は、人が亡くなって最初にたどり着くところが、天国の入り口にある大きな木の下です。そこで天使が、生前にたどった人生のうちの多くの悲しみを書きしたためて、大きな木の枝に結びつけるようにと告げます。
 死者は、過去を思い出して、その時々の人生の悲しみを思い出し、きっと意味を考えるのだと思います。そして、改めてその悲しみを書きしたため、木の枝に結びます。次に天使は死者に対して、他者が結んだ悲しみの内容を読むようにと告げます。死者は、きっと何日もかけて、人々の物語を読みふけるのでしょう。
 そしていよいよ、死者が読み終わってみると、再び天使が現れ、「来世に生きたいと思う人生を、この多くの死者の悲しみの中から選ぶように」と進めます。
 天使から進められる意味は、「悲しみの少ない人生」を選ぶことです。しかし、どの死者の魂も、最後には、自分の人生を、もう一度選ぶというのです。
 人生とは、誕生から死に至るまで他者から限定され、他者を限定し続けた記録とも言えるものです。その他者は場所も時間も含まれていることに気づけば、。その場所で生きた自分であり、与えられたすべての時を含めての私といえます。
 正月の門松である依(よ)り代(しろ)も、お盆による帰省も、亡くなられた祖霊・祖先たちの帰郷も、生き切ったその場所への里帰りです。
 日本全国の祭礼も、すべては感謝祭でもあり、祖霊たちへのねぎらいでもありました。死者たちも、その死者たちに連なる生者も、その場所と、時間との営みは、一回性という命を生ききった営みです。
 陽岳寺の法要の内容に、「百万回いきたネコ」がありますが、百万一回目にして一回性の生と死を手に入れた猫の物語でした。それだけ自覚しなければ、一回性の生として、命を見ることが難しい例えです。
 一回性という特別な与えられた命は、過去の祖先たちから、未来のこの国に、地域に住むだろう人たちから、与えられた命です。生ききったからこそ、帰ってくると……
 今、そのことを強く意識しなければ、この基本的な与えられた命であることを、そして与えられた命こそが、絆や縁という、世界との関係性の中に今を生きる自分の立ち位置であることを、忘れてはならないと言っているように思えてなりません。
 生きるということは、それだけでも、責任の重さのはずです。何故なら、過去のそして未来の多くの人に支えられて生きるということだからです。
 東日本大震災があり、人と自然に向かって襲う災害を、更に考えました。そして改めて、導いたことは正しいと思うようになりました。その言葉は……
《 仏教は神々を、縁起の法により神々の場所に在らしめます
 在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は縁起そのもの。
 在るものを在らしめる神々よ
 在るものを無さしめる神々よ
 無いものを在らしめる神々よ
 無いものを無さしめる神々よ
 空や山や川や海を、鎮めたまえ。
 町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ。》
 この東日本大震災にて、祈りしかないことを思います。もちろん、災害に対する備えとか、人の知恵で備えをすることは、必要なことです。それでも、どうにもならないものが、在るものを無さしめる、津波も地震も在るものを無さしめました。
 気づいたこともあると思うのですが、在るものが在るということが、亡くなった命を目の当たりにして、生き残って、何故と悩んだ人が多くいたことが在るものが在ることです。こんなに不思議なことはない。
 ただ、ただ鎮めたまえと、人の知識と科学、全身全霊をかけても、どうすることも出来ないとき、人には、祈りしかないことが、はっきりと示されたのではないでしょうか。
 祈りとは、求めることでもなく、お金で買えることでもない、祈りが私たちを助けてくれるとは、祈られていることの自覚です。
 仏教用語として、「阿吽(あうん)」があります。「阿」は万物の始まりであり、一として最初、あるいは一より上はないものとして無限、根源として、宇宙や天地の根元として意味をもたせています。理念の本体ともいわれています。「吽」は究極であり、終わりに相対する意味です。
 阿吽は、創造・維持・破壊、始め・継続・終わりとして、ものごとの根本の原理であるという。その他に、阿は悟りを求める心、吽はその結果として涅槃があります。また出入の息として、阿吽の呼吸として、阿は吐く息、吽は吸う息もあります。相撲の仕切りは、阿吽の呼吸が立ち会いに求められます。
 阿吽は、相対する二つのものを、一つとして表現する語として、始めと終わりという非連続の連続です。その最たるものが「出る息は、入る息を待たない」です。また、過去と未来という時間を含めて創造・維持・破壊を含んでいます。
《 そして、この世界にあって、慈悲と智慧をつかさどるもろもろの仏たちよ。
 思い通りに行かぬ苦しみを救うよう、どうかわたしたちの祈りや願いを 聞き届け給わんことを。
 そして、慈悲と智慧を、人の心に巡らせる、もろもろの菩薩たちよ。
 仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、我が心の鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ることを導き給え。
 そして、この世界のすべてのひとたちの命を与え
 家族から 仲間から この地上から旅立っていった多くのひとたち
 すべてのいのちが 満たされて、やすらかになりますように
 共に、真実に目覚めることができますように
 今、祈るわたしたちの心をなごませてくれますように
 そして、供養するわたしたちの心に、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心を巡らせたまわんことを。》(和尚)
◎5月19日第3土曜日、お施餓鬼会は、午後2時からです。参加をお待ちしています。
◎今年の春彼岸は、「暑さ寒さも彼岸まで」とはいきませんでした。季節の気まぐれな  のでしょうか。それでも、ほとんどのお墓は、お花が春の訪れを告げていました。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:46:56

No.138団体参拝・すなお

陽岳寺護寺会便り平成二十四年五月一日 No.138  

本山妙心寺 団体参拝

  4月13日~14日、京都妙心寺へ団体参拝をしました。
  
  13日夕方、妙心寺隣の花園会館ロビーに集合。
  翌朝、午前9時 微妙殿にて妙心寺住職 河野太通師を導師に迎え、法要を勤めました。
  法務御多端のなか、宗務本所の和尚様方にもご出頭頂きました。
  
  法要後、案内係の和尚様に導かれ、山内参拝へ。庫裡(住まい)・方丈・浴室(明智風呂)のなかを見学。
  そして、通常は入ることが出来ない場所を案内していただきました。
  ひとつは、妙心寺の開基 花園法皇さまの御殿である玉鳳院。
  もうひとつが、隣接している妙心寺山内で最も古い建物で、妙心寺の開山 無相大師を祀るお堂である開山堂。
  
  檀家総代の宮坂氏の推薦により、その後、伏見へと移動。昼食をとり、酒蔵・寺田屋などを見学しました。
  そして天明 伏見義民伝のご縁がある御香宮神社へ。
  33代目宮司の三木善則氏にご祈祷、またお話しをうかがいました。
  平成に入ってから修理をして、極彩色が復元された本殿。神輿祭の期間のみ特別公開される通称「千姫神輿」など拝見しました。
  なお御香宮では、「伏見義民顕彰碑」があり、毎年5月18日、慰霊祭が伏見義民顕彰会などの方々により執り行われています。
  
  陽岳寺の本堂前にある碑は、京都伏見の町人七人衆の代表3人(文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛)のお墓です。
  
  たいへん有意義な二日間でした。第2回 団体参拝をお楽しみに!

  すなお

  人は生きている限り、多くの刺激を受けています。
  その刺激の「差」を比較して優劣をつけず、ただあるがまま受け止めるにとどめよ!と仏教は説きます。
  
  人生山あれば谷あり。良いこともあれば、嫌なこともあるでしょう。
  自分の気持ちがコロコロと変わるように、自分のまわりも変わってしまうものです。
  それでも、どうか自分の思うようにと願ってしまうのが人間なのですが。そして思うようにいかないが為、苦しむ。
  
  では、どうしたらいいかと考えます。
  その答えの一つは、私たちが本来持っている、素直さを思い出すことではないかと。「差」を「差」として認めるということ。
  
  『ダイバーシティ』という言葉があります。その意味は、『多様性の受容』、アメリカが発祥だそうです。
  
  人種や宗教、性別などの差を「差」として認めつつ、全体として調和のとれた世界をめざそう!という理念から生まれたと考えられています。
  
  素直になれ!と言われても、素直になれないものです。それでも、私たちは素直であったはずなのです。
  その素直さを思い出せば、人間の生活への見方が変わります。
  
  仏教の語る世界観は、私個人だけで存在するものなど無いと示します。
  そこにあるのは関係性、縁起です。
  
  自分と家族。日本と外国。地球と宇宙。人間と自然。内と外。
  関係性のつながり、その境はあいまいなものです。
  だからこそ時と場合によって、それぞれ同じ場所が際立って見えたり、違う場所が際立って見えたりします。
  
  すべては全体を含めてのことです。
  ものごとの本質は、周辺事情でしかないのではと思います。
  
  あいまいな境は区別することで分かりやすくなるかもしれません。しかし、感情や理性を超えたところを見ると。
  
  想定外と想定内の境は明確でしょうか。スイッチのオンオフ、0か1、正解か不正解。
  以上の関係性は互いがあってこそ存在します。では、グラデーションと見ては。
  
  私個人だけでは存在できないからこそ、関係性によって形作られる。
  その姿を素直な気持ちで見れば。
  
  どうしたらいいか。素直さから起こる、その問いこそが生きる力なのでしょう。         (副住職)

  ◎陽岳寺史上、初の団体参拝でした。
  ◎ご意見・ご感想お待ちしています。
  ●訂正●No.137裏面17行目『「始め」→「終わり」に相対する意味です。』

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最終更新日 : 2013-07-20 15:48:34


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