目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No130.ドジョウ

陽岳寺護寺会便り平成23年10月1日No.130

ドジョウ

 平成23年8月29日、菅直人首相の後継を決める民主党の代表選で、述べた野田佳彦氏が、詩人相田みつをさんの作品を述べられました。(相田みつを作品集「おかげさん」ダイヤモンド社)
どじょうがさ
金魚のまねすることねん
だよなあ
    - みつを -
 「ドジョウはドジョウのままで、いいんだ」と、泥の中にひそむドジョウの泥くささに強烈なアピールとして心ひかれた人が多かったのではないでしょうか。
 ダイアモンド社には、この作品集に対して問い合わせが殺到したと聞いております。もっとも、ドジョウには、シマドジョウとフクドジョウがいて、おとなしいドジョウと金魚に食いつくドジョウから、噛みつき方がささやかれるほどでした。ペット業界や、どぜう屋さん、安来節までもが一時的にブームとなったそうです。
 この作品は、政界という足の引っ張り合いに見える、泥くささの世界に生きる野田氏を、そのまま清新なイメージに転換させる響きがあります。
 マスコミの解説では、「他人と比較しなくてよいのだ」と、その背景には、何か独善という、独り善がりな思いがただよっているような気もいたします?
 この詩に登場する、ドジョウと金魚は、金魚は優れたもの、ドジョウは土の中に生きることしか能のないモノにたとえられそうですが、本当にそうでしょうか?
 
 「ドジョウがさァー」と、ドジョウは自分のことをドジョウとは言いませんし、自分を指すこともしませんが、指すのは人間のなせることです。
 しかし、このドジョウは、金魚をめざしたことは確かです。金魚がうらやましかったのか、ドジョウのままでは居られない心があったということでしょうか。擬人化して、もがき苦しむのも、金魚に根拠を持てば、気持ちは理解できます。
 人も同じように、夢を持ちながら達成する人もいるし、いつの間にか忘れてしまう人もいます。お金持ちにあこがれ、何かのきっかけでそのようになる人もあるでしょうし、思い続けながら、なれない人もいます。人生を達観した言葉にも見えます。
 でも、子どもに、最初から「ドジョウは金魚のまねすることねんだよなあ」、「ドジョウはドジョウのままでいいんだ」とは言えないことです。もしかして、金魚のまねをして、金魚に成ったドジョウもあるかもしれませんから。

 この作品は、思いを抱いた「ドジョウがさ、金魚のまねすることねんだよなあ」と、元のドジョウに成ったとき、今までのドジョウと違う、高らかにドジョウを謳歌するドジョウの誕生と見えるのです。
 今の自己を否定したことから、肯定にたどり着いたプロセスが見えます。きっとその時のドジョウは、フナやアユ、ハヤやウナギにナマズも、それぞれが輝いて見えたのではないでしょうか。

 妙心寺のホームページに、宗旨(しゅうし)について記してありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 お釈迦様は、「生老病死」の命題に悩み、出家した後、初めは苦行を修しました。
 やがて、この6年(または7年)間の苦行では道は開けないとして、12月1日から一週間、深い禅定に入られました。
 そして、12月8日に、暁の空に光る明星を見て「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」などの言葉を発せられ、悟りを開かれたとされています。
 自分と他が一つ、「自他不二(じたふに)」という境地からこの世を見たとき、今、この地球や宇宙は皆自分の家であり、その中の生きとし生けるものは皆自分の家族である、という大いなる慈悲心が開けるのです。
 それまでは苦行に耐え、自分を磨こう、善いことをしよう、生老病死の苦しみを超克しようという自己本位の行いがありました。
 しかし、自他不二を体得し、その大いなる眼(まなこ)で眺めると、この世のすべてのものは「あるがまま」なのだと「気付いた」のです。それがお釈迦様の悟りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ドジョウという自己が、現実において金魚のドジョウか、ドジョウの金魚か不明ですが、成りたいと、金魚という対立する関係において自己を否定したとき、ドジョウのままで良いのだと気付かされます。
 真理が見えた、現実の世界構造が見えたからこそ、否定から肯定へと向かう道となります。別の言葉で言えば、スミレはスミレのままでよいし、ぺんぺん草はぺんぺん草を生きる道があることが見えてきます。
 そこには、世界にただひとつの独立した、ぺんぺん草、ドジョウ、スミレと、そして自も他もと。この構造こそ、相対的な世界を生きるすべとなるはずです。
 「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」とは、スミレはスミレのまま、ドジョウはドジョウのまま、自他無二とは、世界が一つと成ることで、逆にそれぞれが独立した存在であることを表現した言葉のはずです。
 それを人生に喩えてみれば、老いてまだ坂を登るが如くあるから、老いが豊かであるのではないでしょうか。老いて、若さに立てば老いは姿を変えるものですと……だから、ドジョウはドジョウのままでいいんだと……

 ドジョウやスミレ、ぺんぺん草やタンポポとして、空間的に独自のモノとして存在しています。それは、他と区別されて、各々が差別によって数々と存在するということです。これが世界の有り様なのだと、この現実の世界を一とすれば、不一と、一つに非ずと、多の方向を示します。
 春になれば梅や桜の花が開き、秋になれば黄色く色づき、冬には枯れてと、人もそのように生きているはずなのです。人も植物も生きとし生けるもの百花繚乱として、それがそのまま一となります。
 家族も、学校も仕事場も、国も、一にして多、不一にして、異に非ずの関係こそが、現実の有り様となっているはずです。学校のクラスが一つに成るためには、生徒である多の個別は、それぞれが独立とした存在であり、そして、障(さわ)りや妨(さまた)げのないモノとしてあって、はじめて一つであるといえます。
 この同時という視点こそが、「ドジョウはドジョウのままに」生き、スミレはスミレのまま花を咲かすことが、世界は慈悲に満ちあふれている表現となるはずです。
 大乗仏教は、よく「自位に住す」「法位に住す」といいます。それぞれの真理、如実の真理に拠り所を持って生きると。そこに、ドジョウは、真の自己となります。これを、あるがままに生きる、住す、または、あるがままを拠り所とするといいます。
 一は多に、多は一に(まるで三銃士の言葉のようです)、これこそが、「自他不二」ということです。体得しても、しなくても、無心となって働き、生きる行為や姿こそ、自他不二と思っています。(和尚)
◎早いもので副住職が、修行から帰って1年2ヶ月です。地震があり、津波があり、放射線の汚染も、台風15号の災害、そして円高による日本の不景気は、雨に添い、風に添ってと、何とか年月を過ごしてきました。
 そんななかにも、10月8日、副住職が結婚します。総ては命の営みのなかのこととして、目出度くもあり、目出度くもなし。だけれども、やはり親としては目出度くもあり、二人して担う責任という見えない重さに目出度くもなしか……、ここは悩むのです。 

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最終更新日 : 2013-07-20 15:40:35

No.131「それでも人生にイエスと言う」

陽岳寺護寺会便り平成23年11月1日No.131                                                   

  「それでも人生にイエスと言う」

  「それでも人生にイエスと言う」
  V.E. フランクルという方の本があります。内容については触れません。書名を知り、とても良い言葉だな、と私は思いました。
  この言葉は、イエスと言い続けることを示します。
  そして、その「イエスと言う」ことは、主体性を持ちつつも、自然につむぎだされることと思います。
  「イエス」を人生の何に対して言い続けるのか。それは「出会い」です。
  人は、おのずから、みずから、生きている。
  「人生」とは、イエスと言い続けること。出会うことの繰り返しだと思いました。
  独りよがりかもしれない出会いです。
  
  生きていれば、色々なことに出会います。人だけでなく、動植物、事件、考えなど、すべてです。
  自分だけが、また、多くの人が、出会うこともあります。
  気付かずに過ぎ去ること、また、とても衝撃を受けることもあります。
  報道や教科書など伝聞により出会うこと、また、直接見聞きして出会うこともあります。
  
  直接・間接に関わらず、なにかに出会うこと。
  目を開けていれば、視界は入ってきます(こんにちは副住職です)。鼻が詰まってなければ、嫌なにおいも、芳しい香りも入ってきます。胸に手を当てれば、鼓動を感じます。音がします。風を感じます。重力を感じます。
  これらすべてを出会いとすれば、「いま、ここにいる、わたし」を大切にしようと確信します。しかし、出会うからこそ、「いま、ここにいる、わたし」の確信が揺れることもあるでしょう。
  目の前にある事実。それが、自分の考えていた世界を逸脱していたとしたら?
  実は、まだ出会っていなかっただけ。それでも人生にイエスと言えるのが私たちです。
  
  先日、同宗連(『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議)主催による、第60回「同宗連」研修会に参加しました。2日に分けて、講師の方3名(トランスジェンダーの方々)の講演を聞きました(「セクシュアル・マイノリティについて」上川あや氏(東京都世田谷区区議会議員)、「宗教者とセクシュアル・マイノリティ」森なお氏(日本基督教団牧師・兵庫教区主事)、「性同一性障害について」虎井まさ衛氏(作家))。
  お話を聞いて思ったのは、「性・性別とはなにか」ということでした。
  男であるか女であるかは誰にでも分かることではなく、医学的にも性別の判定が難しいのです。とりあえず、分かりやすさとして、性を男・女で別にすることが続いています。
  「性別」には社会制度がついてまわり、枠から外されているままの人たちは、婚姻・医療・仕事など、とても苦労をし続けていきます。
  自分の性を考えることは、人生をどのようにして歩んでいくか考える上で、とても大切なことです。「いま、ここにいる、わたし」は何なのか。ふと立ち止まって、点検することは大事です。
  見たくないもの、嗅ぎたくない臭い、聞きたくない音、親しい物事との別れ。受け入れたくない出会いがあるでしょう。しかし、受け入れないためには、受け入れなければ出来ないことです。
  だからといって、すべての出会いを受け入れることはできません。殺人や無意味な開国はいけません。イエスと言い続ける「主語」を遮ることはいけないことなのです。「人は、おのずから、みずから、生きている」ことを遮ることは、人の尊厳を傷つけることです。この「人」は、他人でしょうか、自分でしょうか。
  「主語」とは?誰が出会いにイエスと言い続けるか?それは、「自分」以外にはいません。
  
  私は外向的か内向的かと聞かれると、内向的だと思います。外で遊ぶことは、あまり好きではありませんでした。小学校では、担任の先生のおかげで、やっとプールに慣れることができたと記憶していますし。中学校に入って、バレーボール部に数ヶ月いましたが、やめてしまいました。大学生に入って、いわゆるガテン系のアルバイトをしようとも思いませんでした。
  子どものころと、26となった今を比べるのはナンセンスかもしれませんが、外向的傾向は増したとは思います。私よりももっと外向的な人もいるでしょうし、大人になってより内向的になる人もいるでしょう。
  外向的なら、自分から進んで出会うことが多い、イエスと言う数が多ければ人生が豊かである、とは申しません。出会いの多さと人生の豊かさに相関関係はないでしょう。ただ、機会の格差はあるかもしれませんが。
  外に出ていけば、視野が広がるでしょう。それでも、外向性に関係なく、(滅多にない)出会いもあるはずです。運まかせの出会い、といえばいいでしょうか。
  陽岳寺は、皆さんとの月一回の出会い、この護寺会便りを大切にしています。顔を突き合わせてとなると、墓参・お盆などでしょうか。ツイッター、ホームページや電話をすれば、いつでも出会うことは出来ます(http://www.yougakuji.org、http://twitter.com/yougakuji/)。
  
  人は、親と出会えば息子・娘となり、祖父母と出会えば孫となり、夫・妻と出会えば妻・夫となり、子どもと出会えば父親・母親となり、孫と出会えば祖父母となり、と。姿や形を変えていきます。しかし、その関係性にある自分を見れば、親の前では息子・娘でしかなく。息子・娘の前では父親・母親でしかない。
  変わる世界を諸行無常と言い、変わる自分を諸法無我と言うならば、目指すところの涅槃寂静は、ただ一瞬一瞬を生きること。一瞬という時間は、終わりと始めという一瞬の繋がりです。その時をただひたすらに生きることが、禅宗の心。無心なる心です。
  気付かない出会いもあるでしょう。でも目をこらし、耳を澄ませてみれば、世界は輝きに満ちているはずです。すべてはシグナルを出しています。何かがあったはずなのに、報道されない。この目の前の人は、自分たち少数者に寛容かどうか。
  
  お釈迦様は無言という答えを出すことがありました。それでもイエス。無言が正解になることもあるでしょう。どんな出会いも、正解だったと、幸せだったと思う願い。それでも本当にそうかと考える。「日々是好日」「直心是道場」「喫茶去」などの禅語が私たちに示してくれています。
  最後に、「それでも人生にイエスと言う」にも掲載されている、タゴールの詩を紹介します。
  
    私は眠り夢見る、
    生きることがよろこびだったらと。
    私は目覚め気づく、
    生きることは義務だと。
    私は働く、すると、ごらん、
    義務はよろこびだった。
  (副住職)
◎先月の護寺会便りにて、結婚報告をしました。多くの方にお祝いの言葉、ご祝儀をいただきました。ありがとうございます。         ◎11月27日(日)ご祈祷と演芸会です。ご参加ください。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:41:35

No.132ご祈祷

陽岳寺護寺会便り平成23年11月27日No.132

ご祈祷

 11月20日ブータン国王夫妻が、福島県相馬市の桜ヶ丘小学校を訪問しました。皆様もご存じの如く、小学生を励ましました。
「自分の体験の上に存在し、経験によって大きくなるという心の中の龍。自分の龍を鍛錬して、感情などをコントロールすることが大切」ですと。
 王妃と国王の結婚秘話は、王妃がまだ7才のとき、当時17歳だった国王に「大きくなったら結婚してください」とお願いした時にさかのぼります。
 「大きくなっても覚えていたらね」と伝えた国王は、10年後、17歳になった王妃ペマさんに求婚したのだそうです。
 長い年月を超えて育てた結果のご結婚だったというのです。これも、心の中の竜を育てることと考えられます。
 その10年かけて育てた竜は、怠ると、自分をも襲う竜となるから、用心に越したことはありません。
 その竜の住む人間の身体と心を、私たちはどう所有しているのでしょうか?
 竜を鍛錬し、その竜に感情をコントロールさせるとは、竜とはどういうものでしょうか?
 竜とは、経験を蓄積させる記憶でしょうか。その記憶を考えさせるモノなのでしょうか?
 竜とか、心とか?身体とか、それは、持っているといえるものでしょうか?
 私と発言するものは、私とモノ、身体は、どういう関係において有るのでしょうか?
 考えれば考えるほど、解らなくなりますが、解らなくなっても、私そのものが命であることは解ります。
 本来、命とは瞬間瞬間存在するという、存在そのものです。鳥や植物、昆虫や魚がそうであるようにです。
 それでは、私たちが動物や昆虫、植物と、命として同じで、人として生きるなら、瞬間瞬間どう存在することがよいのでしょうか?
 動物や昆虫、植物が教えてくれるのは、生きる時は生きるに徹して、枯れるときは枯れるに徹して、死ぬときは死ぬことに徹して生きることを教えてくれます。それが瞬間瞬間をどう生きるかの答えです。
 人は、その都度の人生に於いて、今・ここを徹して生きる。悲しみは悲しみのまま、喜びは喜びのまま、考える時は考えるままに、災難に逢ったら災難に逢ったままに、今・ここの、身と心を一つにしてです。
 ブータンの仏教も大乗仏教である限りは、仏性を基として、智慧・空性を理解し、方便・仏性を究めることと、慈悲の実践を説きます。中国に渡ったインドの密教は、日本に渡った以降、中国では消えてしまいました。ですが、日本とチベットには残りました。そのブータンに残ったチベット仏教は、幾度もインドとの交流により中国の影響を受けない直伝の密教文化を形成いたしました。
 しかし、大乗仏教で有る限りは、何よりも、仏性を問題とすることから、その竜は、仏性そのものであると考えることができます。
 その竜は、禅宗の心と同じです、空っぽの心をいい、それは清らかな心であり、このご祈祷の祈りそのものです。今・ここの命です。
 さて、祈りはすべての人間に与えられた宝ものです。
 祈るという行為が、今・ここにあったからといって、世界が平和になったこともないし、戦争がなくなったことはありません。
 むしろ、世界が平和になって、戦争や争いがなくなったとしたら祈りはどう変わって行くのだろうかの問いに、答えがあるように思えるのです。
 ご祈祷、祈りとは、心を開くことです。心が開いていればこそ、本来開かれている世の中を受け入れることができます。
 その開かれた心で世の中を受け入れるとき、世の中と自分が一つになって祈りが実現するといえます。
 心は私たちが生活している日常の中にあるのであって、どこか特定の場所だけにあるのではない。開かれた心とは、透明な心であり、清らかな心であり、平穏な心でもあります。
 透明で清らかで平穏な心が世界をものごとをを見分け、正しいことと間違ったことを区別できる竜にたとえることができるのでしょう。
 たとえ明日、私たちの住む世界が滅びるとしても、日本が世界で最も貧しい国になったとしても、今日、日々新たに生きることを祈ります。
 しかも、善く生きる。そこに天国があるとしたら、それは、どんな災難に遭っても、困難に出会っても、生きる喜び、楽しみを忘れないことではないかと、これこそが無常を生きる知恵なのだと思うのです。
 さらに善く生きる、楽しく生きるとは、自分と世界の関係が、喜びや楽しみそのものであることと気づくでしょう。
 だから、祈りは何かを求めることではなく、ただひたすらなる希望という存在そのもの、それが竜でもあるのだと。来年は、この竜の年、辰年です。
 その竜を育てるために最も必要なことがあります。それは、多くのお経の冒頭にある言葉、「如是我聞」という、聞くという言葉です。聞く対象は、声なき声も含めてです。耳を傾けて聞くということは日頃の鍛錬です。ここにとある禅僧の詩を紹介します。
《空っぽで聞け、耳を傾けて聞くということは、沈黙を身につけるということだ。
沈黙は、自己内面の海だ。
真実の言葉は、内面の海で育つ。
聞くということは、外のものを媒介にして、自分の中で眠っている声を、呼び覚ますことだ。
 耳を傾けて聞くことのできる人は、その言葉から自己の存在を発見する。
しかし自分の言いたいことだけを主張する人は、自分自身を見失ってしまう。
こんな言葉がある。「星たちがしてくれた話を伝えるには、それに必要な言葉が、まず私たちの中で成長しなければならない」
 言葉になるまでは私たちの中で、植物の種子(たね)のように成長しなければならないということだ。
 したがって何かを聞くということは、自分の主張を空にするために、沈黙を身につける時間なのだ。》
◎ご祈祷の司会、冒頭の言葉を記してみました。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:42:22

No.133お祝いの言葉の交換

陽岳寺護寺会便り平成23年12月1日No.133                                                   

お祝いの言葉の交換

  お寒うございます、副住職です。
  この護寺会便りが、みなさんの手元に届く前には、寺族に読んでもらうというチェックがあります。誤字脱字、読みやすいか分かりやすいか。一般?の意見を聞くわけです。
  さて今年、私はお嫁さんを迎えましたので、読んでもらっています。護寺会便りの内容について貴重なご意見をいただきました。
  「大丈夫だよ、いいんだよ。~してくださいね、という許可が多いような気がする」と。
  
  大丈夫だよ、~してもいいからね、と許可を与えるばかりでは、傍若無人・野放図でもいいんじゃないか、と思われても仕方がありません。勉強しなくてもいいんだよ、命を粗末にしてもいいんだよ、人を傷つけてもいいんだよ、という極論も許されるかに見えます。
  
  そんなことはありません。「許し」は同時に、「誓い」も必要となります。この関係は、義務と権利の関係とは違います。
  
  9月末、ブータンのティンレイ首相が、被災地・福島県相馬市の桜丘小学校を訪問しました。そして11月18日に、同じ地へ訪れたブータン国王夫妻。
  「君たちは龍を見たことがありますか?私は見たことがあります。龍は私たち一人一人の中にいる。自分の経験を食べておおきくなるんだ。年を重ねれば、その龍は強くなる。自分の龍を大事にしないといけないよ」と、ブータン国王は小学生を、日本国民を励ましました。
  
  3月の震災以後、現地の方々の心から溢れる思いは、如何ばかりかと思います。
  そして、震災直後、日本全国において、テレビやラジオや新聞、悲惨な状況や、神妙な面持ちの人間ばかりの放送が続きました。日本に住む人々は、強い人間ばかりではないでしょうが、連日連夜ひどいんだひどいんだ、とだけ流されたら。
  みんな無縁社会などネガティブキャンペーン好きな面はもうお腹いっぱいなはずでした。神妙な面持ちをしていなければ不謹慎だ、と暗に臭わすテレビやラジオや新聞。
  みな不安なのです。この一言につきます。
  
  自分は大丈夫、普通の精神状態、ちゃんと判断できている。・・・通常では起きないことが起きているのだから、みな不安になるのは当たり前です。
  一呼吸を置こうとしても、テレビ・ラジオ・新聞の報道、余震がどんどん来ていました。そして、揺れは、外側からの揺れだけではありません。
  気持ちの動揺は動揺を呼び、不安は不安を呼び、大きく育ちます。心が揺れると冷静さを失ってしまい、揺れを重ねてしまう。それは何故か?
  揺れた後は、揺れる前よりも事態は複雑になってしまうから。どうしたらいいのかと選択肢が増えて、どうにもならないんじゃないかと固まってしまうからです。みずから困難に困難を重ねてしまう。難易度を上げてしまう。
  
  我々は、経験という栄養を、不安という枝葉に伝える為、生きているわけではありません。自分という樹幹を育てたい。喜びの種をまきたい。
  経験は知識のままならば、役に立ちません。歴史を繰り返す。不安から買いだめしてしまうし、ご飯が美味しいから食べ過ぎる。分かっちゃいるけど、やめられない。
  その場その場で絶っていかなければなりません。一呼吸置く。それは、お茶を飲んでもいいし、深呼吸でもいいし、窓の外を見てもいい。ミスが続いていると思わなくてもいい。
  
  年賀状も震災仕様になっているとニュースで聞きました。
  今年の年賀状は「寒中お見舞い」として出す。「一日も早い復興を心より祈念いたしております」などと災害や復興を気遣う文例にする。賀詞・祝詞や「お慶び」など祝いの言葉を使わない「年始状」と位置付けたデザイン。
  
  情けは人のためならずという言葉があります。ひとこと、感謝のことばを言ってみれば、重い気持ちは軽く。暗い気持ちは明るくなるはずです。そして、心からの感謝の言葉となって、まわりめぐって、自分へと返ってきます。
  あと1ヵ月で2011年も終わり、2012年となります。節電・自粛で喪中のようかと思えば、イルミネーションやクリスマスの飾りで町が彩られ、年末年始・お正月ムードにがらっと変わります。「旧年中はお世話になりました。今年も宜しくお願いします」と新年のあいさつ、お祝いのことばの交換です。
  そのことばの交換の意味は、期待と現実との葛藤からです。不幸に対して強くあろうと、来年も良い年としようと。誓わずにはおられず、心から溢れる思いが形となっているのだと思います。幸せを、復興を、自身の心の平穏を誓ってください。
  前後際断。忘前失後。3月のあなたは、3月のあなたの思い。今のあなたは、今のあなたの思いです。それ以上でも、それ以下でもない。
  悲しみも、苦しみも伝播します。しかし、希望や幸福も伝播するのです。交換しましょう!
  
  『バスのなかで』 坂村真民
  この地球は一万年後
  どうなるかわからない
  いや明日
  どうなるかわからない
  そのような思いで
  こみあうバスに乗っていると
  一人の少女が
  きれいな花を
  自分よりも大事そうに
  高々とさしあげて
  乗り込んできた
  その時わたしは思った
  ああこれでよいのだ
  たとい明日
  この地球がどうなろうと
  このような愛こそ
  人の世の美しさなのだ
  たとえ核戦争で
  この地球が破壊されようと
  そのぎりぎりの時まで
  こうした愛を失わずに行こうと
  涙ぐましいまで清められるものを感じた
  いい匂いを放つまっ白い花であった
  
  坂村真民さんの『バスのなかで』という詩です。このような愛を、私たちは持っているのだと、失わずに行こうと。それぞれに、どこかに、夢も希望もあるのだと。
  雨にも負けず、風にも負けず。どうぞ、よい年でありますよう、祈念申し上げます。
◎11月の最終日曜、本年も無事、ご祈祷と演芸会を終えることが出来ました。ありがとうございました。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:43:19

No.134年頭に……

陽岳寺護寺会便り平成24年1月1日No.134

年頭に……

 東日本大震災に遭い、陽岳寺のあらゆる昨年の法事一つ一つに、下記の言葉を添えて、般若心経や金剛般若経をおよみいたしました。
 《東北地方太平洋沖地震と津波の影響で亡くなられた方々、人知れず今も多くの悲しみを秘めた心を持つ方々、未だに立ち直れない方々、あれから時が止まった方々、その方々のために、「忘れない、日本!」が寄り添うことになると思います。  
 今も被災し避難している方々、除染作業に携わる自衛隊員、警察、消防、ボランティアの方々、津波にも地震にも遠い場所で被災しなかったけれど、痛みとして心が共鳴し見守ってくれる方々。その方々のために、「頑張れ日本!」が必要と思うのです。
 もちろん、今日の法事の主人公のためでもあります。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事、ご健闘を、般若心経にて心よりお祈りいたします。皆様もご一緒に大きな声でおよみ下さい》と。
 3月11日の大震災が発生したとき、陽岳寺にとっても正面から見据えて、法要の内容にして向かわなければならないと、新命副住職に話しました。新命副住職は、「もう考えているよ」と、彼が作った上記の内容を、お彼岸の法要から試み続けています。
 あの津波の映像を繰り替えし見た者にとって、被災した山や川や海、そして街の写真や映像、現地にて目撃したものにとっても、繰り返し繰り返し、被災地にこの言葉を発することが私たちの日本人の務めであるように思ったからです。幾度も祈ったとて、祈りに終わりがあるように思えない大災害でした。そして毎月、被災地の状況に合わせて作り替えました。
 もちろん原発の暴挙に苦しみ、さいなむ人たちに向けてもです。東日本大震災で被災し亡くなった人を含めて、生きている人たちのためにも読むべきだと強く思いました。
 そして、被災し非難し、復興にたずさわる人たちを含めて、また心配して心を痛める人たちのため、毎回毎回、お経を読んだきっかけを、東日本大震災が創ってくれたことに気づきました。通夜や葬儀にも、このお経を読むときは、必ず被災地のことを思いました。
 一昨年前のお施餓鬼会の法要に向けてのことでした。この震災を予感したわけではないのですが、地球温暖化や、無縁社会が叫ばれるようになってです。格差社会や鬱病にあえぐ姿が見受けられるようになってです。背後に、人間の弱さや愚かさが大きく見えていました。そのとき、神さまのことを考えたのです。
 禅宗のお坊さんとしては、珍しいかもしれません。でも日本に生まれて、日本で育ったものとしては、ごく普通のことだとも思っています。それに、もともと回向の中に「三世の諸佛諸菩薩、もろもろの天界に遊びし神々、地上に住まう神々精霊」という言葉を捧げていますので、今さら、なのですが「どうして、こうも不幸なことが起こるのだろうか」とです。
 もともとインドでも中国やアジアでは、多神文化の地です。その神々の地に仏教は誕生しました。神々がいたからこそ、誕生したともいえます。
 それは、人間の絶対的な平等、迷信や不合理・占いなどを排除し、造られた倫理観を説かず、人間として真の自己に目覚めることを重視したともいえます。
 そのために、正しく見て、正しく考え、正しい言葉を使い、正しい行い、正しく生き、正しい務めをして、正しく思い、正しく心を修めることが必要だと説いたのです。もちろん、その時代は身分差別や、生まれや職業、障害、貴賤による差別の社会だったからです。
 社会のあらゆる差別に対して、その差別を直視し、「正しいこととは?」と、みずから考えて、行うことを説いたのでした。それが苦しみから遠ざかることだからです。
 そのために、「人は行為によって……自己である」という言葉が誕生したわけです。仏教は、そんな状況の世界に、絶対の自由や平等を宣言したのでした。
 東日本大震災の引き金を引いたものについては、科学の進歩を待たなければどうしようもないことです。もし予見できたとしても、予知できても、人間の知恵で備えることはできますが、こうした大震災を止める手立てはありません。地球を自由に科学で操ることなど、今は、考えることもできないことです。地球は生きているのですから。昔から、神々という言葉で、人間は祈っていました。
《仏教は神々を、縁起の法により神々の場所に在らしめます。在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は縁起そのもの。
在るものを在らしめる神々よ
在るものを無さしめる神々よ
無いものを在らしめる神々よ
無いものを無さしめる神々よ
 空や山や川や海を、鎮めたまえ。町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ。》
 結局災害がないようにと祈るほかにないことに気づきます。それは、人間の思い上がった心を見つめて、無力さからの力強い歩みを促すことでもあると気づきました。
《そして、この世界にあって、慈悲と智慧をつかさどるもろもろの仏たちよ。
思い通りに行かぬ苦しみを救うよう、どうかわたしたちの祈りや願いを 聞き届け給わんことを。
 そして、慈悲と智慧を、人々に巡らせるもろもろの菩薩たちよ。
 仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、我が心の鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ることを導き給え。
 そして、この世界のすべてのひとたちの命を与え、家族から、仲間から、この地上から旅立っていった多くのひとたち。
 また、さらにこの世界のあらゆるところで、お腹をすかせている人たち、お腹をすかせて亡くなった人たち。
欲張りな人たち、欲張りなままに亡くなった人たち。
不幸な人たち、不幸なままに亡くなった人たち。
怒っている人たち、怒ったままに亡くなった人たち。
悲しんでいる人たち、悲しんだままに亡くなった人たち。
すべてのいのちが 満たされて、やすらかになりますように、共に、真実に目覚めることができますように。
 そして、この祈りにより、わたしたちの心に、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心を巡らせたまわんことを》と、年頭に向かって回向いたします。
◎それぞれの足もとに、幸せが見つけられますように、気づくことを祈念申し上げます。◎昨年の一月護寺会便りNo.119に、落語の『らくだ』をのせました。そして最後の落ちは立川談志の、らくだがじっと雨を見つめるシーンに寂しさを重ねたものでした。怒り、悔しさ、情けなさ、必死さに、最後は涙と笑い。古典を現代の人情に仕立てた人でした。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:44:03


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