目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No.127気づくこころが美しい

陽岳寺護寺会便り平成23年7月1日No.127

気づくこころが美しい

  7月です。一年の半分が過ぎました。
  今日までの時間の流れを、「もう」一年と考えるか、「まだ」一年と考えるかは、人それぞれです。
  あの地震からは、1、2、3ヶ月、100日と過ぎ、もうすぐ4ヶ月となります。この月日が、長いと感じるか、短いと感じるかも人それぞれ。
  
  考えもつかない事件が起きます。
  9.11、神戸・中越地震、池田小・酒鬼薔薇・地下鉄サリン事件、イラク戦争、東日本大震災、福島原発。
  映画や小説にあるような出来事です。
  テレビ・教科書で、3.10東京大空襲、8.6・8.9広島長崎原爆投下、8.15終戦記念日など繰り返し、私たちの目には見えるけれども、どこか遠い世界の話に感じます。時間の経過でしょうか。
  考えもつかない事件・戦争の起きない世界は無いのです。・・諦めてはいけませんが。
  
  東日本大震災はどうなるでしょう。忘れられていくでしょうか。語り継がなければなりません。
  
  地震の影響か、猛暑への対応か、世間では盛んに節電が叫ばれています。電力会社が節電を呼びかけるのはオカシナ話です。
  
  冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ、カラーテレビ・クーラー・自動車。レンジ、薄型テレビ、食器洗い乾燥機など、新商品として、便利なものとして、続々と電化製品が世に出ています。
  電気を自由に使えるようにと。便利に、新しい機能をと。我々の求めに応じて、電気・電化製品は作られてきた、とも思います。
  しかし、歴代の政府と電力会社の責任は明確で、天災(?)だから免責、となるはずがない。責任も大切ですが、これからが大切です。ひとりひとりが日本を考え、行動しなければならないと、再度明らかになりました。明日では「もう」遅く、今なら「まだ」遅くはない。責任もつ生活。
  極端な節電も問題でしょうか。節電だ!と、マンションの高層階に住む人が、エレベーターを使わずに暮らそうと思えば、階段の往復で一日が終わってしまいます。
  電車などの交通機関を使わなければ、何駅と離れた会社・学校に毎日通うことは出来ません。
  
  テレビやラジオもエアコンも無い。はだか電球、晴耕雨読の生活。働く場所は、住む家のすぐ近く。お風呂を沸かすにも、ご飯を炊くにも、今ではスイッチひとつですが、昔はすべて薪。消し炭を取り、七輪で野菜を煮炊きする。そんな昔の生活は、今よりも良かったでしょうか?
  
  5月の陽岳寺のお施餓鬼会で、修行道場での生活について話しました。
  僧堂とは、生活のなかで我を無くすことに集中する場所です。我を無くせ、いままで持っていた知識も全部捨て去ってしまえと言います。放てば手に満てり、と曹洞宗の道元禅師の言葉ですが、いろいろなことに気付かされます。
  「花も美しい 月も美しい それに気づく心が美しい」
  円覚寺前管長の足立大進老師の言葉です。気付くことの大切さを教えてくれます。
  私たちの周りには、美しいもの・ありがたいことに満ちています。しかし、気付かなければ。
  
  修行道場で気付くこと。いちばんは「親切」です。感謝の念が起こります。
  
  修行道場は、八百屋さんのように野菜を売って生計をたてたり、会社を経営して、お金を稼ぐことはできません。では、どうするか。・・・お布施です。町を托鉢をして、まわるのです。
  托鉢の方法は、修行道場の場所によって違います。円覚寺の場合は、軒先に立って、一軒一軒短いお経をお読みします。鎌倉に住む方々はご存知なので、皆さん托鉢が来たな・・と家から出てきて、おのおの負担のない額をくださいます。
  托鉢に出ますと、お金をいただくことが多いのですが、果物やお米もいただきます。それが後々、自分たちの口に入るわけです。生きる糧です。無ければ、無いだけ。食べられないだけです。
  果物やお米は重いです。また、小銭もたまってきますと重い!ひもが肩にくいこみます。
  しかし、重いのは物だけではありません。気持ちも、です。
  親子で出ていらっしゃって、お母さんが子どもに小銭を手渡し、あげてきなさい、と下さいます。その姿に、思わず微笑んでしまいます。お札を頂戴することは稀で、硬貨の方が紙よりも重いですけれども。その気持ちは、重いのです。その重さは、親切です。ありがたいなと思います。
  
  3/11の地震で鎌倉市は停電したそうです。ただ僧堂はいつも暗いですので、ろうそくがあります。いつも不自由なので、かえって何不自由なく暮らせていたようです。
  水は横井戸からきていますし、ご飯を作るにも、お風呂を沸かすにも、ガスではなく薪ですから、停電・断水・断ガスは問題ありません。ただ、そういう生活なだけ、というわけです。
  それでも、「ただ、そういう生活」を送ることができることは有り難いことなのだと。日々の生活への感謝に、気付くことができた。そんな地震だったと修行道場の雲水は話していました。
  いま私たちは、便利なものに囲まれて生活できています。感謝しているかと問われたら?
  
  「大いなる ものにいだかれ あることを けさふく風の すずしさに知る」
  妙心寺管長でした山田無文老師の句です。無文老師が結核の療養中、縁側で風に当たっていたときです。風は空気が動いていると気付き、鉄の棒でガツンと殴られた気持ちになりました。
  「私はこの空気に育まれ、養われていたのに、今まで空気のあることに気付かなかった。空気が寝ても覚めても休みなく抱き締めてくれていたのだ。泣けて泣けて仕方がない、俺は孤独ではないぞ。生きよ生きよとおれを育ててくれる大きな力がある。俺は治るぞ」と思ったそうです。
  
  私たちは、さまざまなことやものに支えられて生きています。
  エレベーターが動くのは、電車で通勤通学出来るのは、お施餓鬼に出席できるのは、お盆を迎えられるのは、今わたしが生きているのは。
  護寺会便りを送ることができるのも、数え切れないご縁・無限のいのちのつながりの賜物です。
  今このときに繋がっている、わたしたちの命がとても偶然とは思えないことだと。ありがたいなァと、感謝して暮らしていければ。気付くことは、幸せなことなのではないかと思います。
  修業道場での生活に区切りをつけて、深川に帰ってまいりました。祖先と皆様とのつながりを、現住職から後へと、つないでいきます。
  お盆は、祖先とわたしとのつながりを思う、ひとつの機会です。先に逝った親しい人たちを偲ぶこと、毎日を送ることができると感謝することが、孝行・供養なのだと思います。 (副住職)

★お盆は7月13日(水)~16日(土)です。◎深川仏教会では、7月25日(月)午後7時より、深川高橋河畔(清澄通りと交差する小名木川)にて灯籠流しを行っております。一霊千円以上にて、仏教会灯籠に戒名あるいは先祖の名前を記して川に流します。陽岳寺で、受け付けております。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:37:29

No.128無常

陽岳寺護寺会便り平成23年8月1日No.128

無常

 小説家の村上春樹さんが、6月9日にスペインのカタールニャ国際授賞式のスピーチ「非現実的な夢想家として」原稿全文が毎日新聞の夕刊に三日間にわたって掲載されました。
 彼は、東日本で被災された日本人に対して、無常観という言葉を使っていました。
『我々は無常という移ろいゆく、儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。おおきな自然の力の前にでは、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています……」と。
 「しかし、それと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちたもろい世界にありながら、それでも、なお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです』と、記していました。
 そういえば、川端康成も、ノーベル賞のスピーチで、ものの哀れ、あるいは、ワビやサビの美意識をうたっていたことを思い出しました。無常観からわき出した言葉でした。

 あの東日本大震災後、原発の暴挙も含めてですが、日本は大きく変わったことを考えます。陽岳寺も、3月、4月、5月、6月、7月と、法事の回向中にこの問題を大きく取り上げました。そして6月の回向に、何が変わらせたのかと仮説を立てました。

《「東日本大震災後、多くの人が、人が生きる意味の問いに直面したのではないかと思います。その結果、今までの普通に暮らしていた日常の普通さを疑い、物質よりも絆、友、家族の意味を再構築しようとしているようです。
 昨年は、無縁社会が話題になっていましたが、震災以降は、何が人を動かすのか、動かされた私に意味を見出そうとしてるようです。
 たとえ原発の事故が収束したとしても、不安は20年30年と日本を覆います。そして津波の映像を繰り返し目撃した者にとって、寄せては引く波に、流され翻弄されたのは、私たちの普通の暮らしだったのです。
 それは、また、自然の驚異と、制御不能となった人間の欲求が作り出した原発の暴挙に翻弄されたものは、”私の中の死”ではなかったか。

 誰だって、あんなにむごい現実を見れば考え方や生き方が変わるものです。
 そして、本当に大切な物は、何だったのかと考えることを悟らせたような気がいたします。そこから、新たな希望や願いが生まれなければならないと、信じています。
 それは、自分の中にわき起こる生きるという希望であり、自分の中の死が、必死になって訴え、働きかけているといえないでしょうか?
 自分の中の死は、普段生きていることに追われて、それこそ、全く見えないことです。でも今回の地震や、原発不安、放射線の自然に与える影響を考えてみれば、自分の死や、家族の死が、一人一人の心の中に叫び続けていると考えることが出来るのです」と。
 そして自分の中の死を、あちら側と言い換え、あちら側はこちら側を根拠として在り、こちら側はあちら側を根拠として、同時に在ると喚起させました。その結果、あちら側のことがこちら側によって、決めなければならないと、それは、自分らしく生きよ!と心がけたのでした。》

 そこに、平成23年7月9日、毎日新聞朝刊で、「さようなら、私はお墓に避難します」という、南相馬市の93歳の老女の悲鳴が届きました。
 大きく破壊された町や村に住んでいる人たちの不安と悲しみは、未だに過ぎ去った傷を抱え込んでいます。惨状と悲惨さの中に暮らさざるをえない現実は、こだわり以前の悪夢のようです。その悪夢から一向に進まない現状では、今を生きることの辛さばかりが積み重なっています。
 無常を生きる日本人は、どう生きたらよいのでしょうか?
 
 村上春樹氏は、「我々は無常という移ろいゆく、儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。おおきな自然の力の前にでは、人は無力です。」と書いていましたが、移ろいゆく世界を、どこで眼にしていたのか、聞いていたのかと、不思議な疑問を持ちます。

 何故なら、自分自身の移ろいこそ、今回の東日本の大きな事件であり、渦中の中の流された私の移ろいこそ、悲惨だったからです。
 東日本復興構想会議から、震災への提言が平成23年6月25日に発表されました。そのタイトルは、まさしく「悲惨の中の希望」がテーマでした。
 これは、日本人おのおのにとって、悲惨の中の、混乱の中の、寂しさの中の、いたたまれない中の、辛さの中の、癒やされない中の、希望のことです。希望は芽であり、きっかけでもあるのでしょう。もちろん大きな希望であれば幸いですが、その希望は、つなぐことによって光がさしてくるといい、つながれていたとの気づきでもあります。

 さて、仏教では、眼は、眼自身を見ることできないと説きます。無常も同じです。無常も無常自身そのものを見ることも、聞くこともできません。
 なぜならば、移り変わるものを見つめる眼は、心は、移り変わらないものとしてあるからです。この関係を考えてみると、移り変わるものは、移り変わらないものを根拠として在り、移り変わらないものは、移り変わるものを根拠として、同時という世界に在るからです。仏教では、その同時を、中道(ちゅうどう)といいます。
 この対立している構造を、言葉を変えていえば、次のようになります。

 生きていながら生かされていることとは、生かされていながら、生きていることと同時です。これは、生きていることを自己肯定とすれば、生かされているは自己否定です。自己肯定しながら自己否定され、自己否定されたことで、自己が肯定されると。
 含んでいながら含まれている。見守っていながら見守られている。包んでいながら包まれている。部分で在りながら全体である。結ばれているから独立している。離れていても連帯している。選んでいながら選ばれている。失っていながら得たモノが有る。無心となっていながら満ち足りている。この関係こそ、色即是空・空即是色という般若心経の要素です。そして、この有り様の同時という視点こそが、揺れる心の無常世界を活きる智慧となるものです。

 なぜなら、これはすべてが、無心(自己否定という)を本質としているからこそですが、これはまた、金剛経の、AはAでないことによってAであるという関係です。
 妻は妻を否定することで、妻となる。妻の根拠は夫に在るといえば、夫を根拠にして、妻という立場はあるといえます。これは、夫も同様な関係にあるといえます。
 だから、妻は妻自身にはなれません。見えません。聞けません。無常と同じことです。

 世の中の意味が、対立しているもので成り立っているならば、無常の根拠は、無常でないものを根拠としてある筈です。それは、移り変わらないものとして、絶対や永遠ともいえるものですが、移り変わらないものとした、私たちの思い込み、独断こそが、無常を際立たせるともいえます。
 実は、本当に不思議なことですが、昨年から、断捨離というブームが、東日本大震災の伏線として、日本にあったのではと、奇妙に思えてなりません。この断捨離こそ、無常なるが故に、執着を離れるという発想でした。

 無常を見つめる常なる自分自身は、無常を含んで生きているという事実に、移り変わることが常とするなら、その常とする自覚から、我執や執着の事実から、解放されることこそ、無常を生きる智慧です。しかも解放された自己は、無常を根拠としながら、無常を離れている。
 東日本大震災こそ、無常なるものとするなら、想定外や独断から出る偏見こそ移り変わらないものとして、また困惑極めるものとして、証明されてもいます。想定外や独断、思い込みは、自己を省みるという否定を忘れたものだからです。
 またこうも考えることができます。無常は無常でないものに触れることで、無常を生きることができると。無常でないものとは、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心とも考えることができ、突き動かされた私の心です。
◎7月のお盆は、暑かったものの、8月のお盆はどうなるのでしょうか?節電、放射線による汚染と、円高やユーロ不安、混沌とする世界を生きる智慧は、やはり、動かされた自分に気づくことでしょうか。それとも生きろと叫ぶ自身の死に気づくことからでしょうか。暑い夏、皆様ご自愛専一に、今するべきことに気づくことです。(和尚)

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最終更新日 : 2013-07-20 15:38:22

No.129「物欲は世界を救う」か?

陽岳寺護寺会便り平成23年9月1日No.129

「物欲は世界を救う」か?

  新聞を見ていたら、下記の題をしたコラムがありました。
  「物欲は世界を救う」
  まさにキャッチコピー。世界経済を救うのは物欲だそうです。
  
  3月11日の地震・津波から、もうすぐ半年です。東日本大震災は、2011年のキーワードの1つです。
  とある現職知事は、震災に対する日本国民の対応について問われ、被災者の方はかわいそうだと言いつつ、「津波をうまく利用して、我欲を1回洗い落とす必要がある。(中略)これはやっぱり天罰だと思う」と語りました。のち発言を謝罪します。
  いわゆる「天罰」発言について、どのように扱うかは私たちの自由です。けしからんと切り捨てる、見て見ぬふりをする、前後文脈を見ないことには判断できないと保留する、よくぞ言ったと賛成する。何・だれに対しての、どのような発言か、見定める。
  
  たいせつなことは、どのように受け取り、どのように処理するか。
  
  本屋さんに行くと、スピリチュアル系(?)の書籍コーナーがあります。そして、そこに並んでいるのは、お坊さんたちの本。
  「心のお医者さん」、息苦しい世の中を生きるためのよすがを、お坊さん・仏教に求めているのでしょうか。
  日本の仏教は、最初の最初・・・お釈迦様がお悟りを得た時代のものとは、だいぶ違っています。大変な幅がありますし、それを許すゆとりがある宗教なのだと思います。しかし根本は同じです。
  その根本とは、人生とは悩むことであり、その苦しみからの解脱・お悟りは得ることが出来る。悩まなければ救われない。そこに禅宗の特色を出すならば、解脱・お悟りの方法は「坐禅」であるということです。
  では、お坊さんにしか解脱・お悟りは得られないのかというと、そうではありません。
  「行住坐臥」、動いている時も、静かにしている時も、すわっている時も、横になっている時も、いついかなる時も坐禅。ふだんの暮らしが坐禅・修行と言えます。
  臨済宗中興の祖、白隠禅師は「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」とも言うほどです。
  
  最初の最初、原始仏教では、人の苦しみの原因を、自らの煩悩ととらえました。そして、解脱・お悟りへの道を求めます。
  三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものです。
  貪とは、むさぼる心。瞋とは、怒りの心。癡とは、真理に対する無知の心。
  三毒にとらわれると、必要以上に求め、自分のちからが及ぶ範囲を知らず、怒り憎み、また求めます。その繰り返し、悪い循環におちいります。
  他人は自分をうつす鏡といいます。ひとは、ものや他人の姿を通して、自分と対話、客観視します。比較することではありません。
  坐禅も同じだといえます。姿勢・息・心をみつめることで、自分をみつめること。世界と一つとなり、また、一つ一つは別個の存在だと尊敬することです。
  
  坐禅とは、日常を点検、意識をもってみることです。
  
  「自分」にアプローチする方法として、『調身、調息、調心』という言葉があります。
  『姿勢を調えて、呼吸を調えて、心を調える』
  坐禅をする上での方法として、『調身(姿勢)→調息(呼吸)→調心(こころ)』という順番を意識することは、効果があると思います。覚えやすいですし、何より・・もっともらしい!
  ちなみに、『調身、調息、調心』は順番ではない、と思います。それぞれが自然・自分・世界への気付き・アプローチです。
  
  生きるために必要なこと「息をする」。
  いやいや、「息をする」だなんて、意志に関係なく呼吸はしている。当たり前のこと。条件として挙げるまでもないことでしょうか。
  食う着るところに、住むところ。人間の営みとしての衣食住は、お金が必要ですし、用意するのも消費するのも大変です。
  なればこそ、衣食住以前の問題として、「息をする」ことは当たり前ではありません。
  生きていることを保証された時間とは、一息の呼吸間だけですから。
  
  一息の間に、ひとは、動き、とどまり、休み、眠りにつき、楽しみ、悲しみ、生き、死に。地震・津波は起き、火災・水害も発生します。
  
  禅の考え方は、手の届かないところにあるのではなく、自分の日常の中にあります。
  そして、点検をしていきます。他人のことをいう前に、自分を見つめるようにいいます。
  
  人は知らずに鬱憤とした気持ちを抑えていたり、ストレスを抱えていたりするかもしれません。何かがきっかけで、抑えきれなくなることもあるかもしれません。
  出来ないときは出来ないし、嫌な感情が起こるときもあるでしょう。そんな自分が嫌で認めたくないことも。自分は他人より優れているはずだ。もしくは、自分という存在なんて毛ほどの価値も無い。
  どちらも同じことです。他と比較してしまうが故のこころです。
  
  あとになって思うことって、あると思います。なんであんなことを、あんなにこだわっていたのか、怒ってしまったのか。もちろん後悔したっていい。怒ったっていいんです。
  物欲がありすぎても、なさすぎても、いいのかもしれません。ただ、そんな自分もいるのだと、気付くことが出来れば。どちらも同じ自分です。どのように受け取り、どのように処理するか。
  では、いざ自分が選ぶとき、どうしましょうか。
  
  「物欲は世界を救う」でしょうか。
  部屋がもので溢れないと分からないでしょうか。全部捨てきらないと分からないでしょうか。
  
  どちらも、同時に、存在します。選んだのか、選ばれたのか。不安定で、揺れるこころを鎮めることは大切です。立ち止まることです。同時存在という成り立ちの中に、人は生きています。
  その成り立ちを考えると、先に逝った親しい人たちを思い、仏壇・遺影・墓前の前にたたずむのかもしれません。                             (副住職)
◎秋の彼岸は9月20日(火)から26日(月)までで、お中日は23日(金曜日・祝日)です。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:39:36

No130.ドジョウ

陽岳寺護寺会便り平成23年10月1日No.130

ドジョウ

 平成23年8月29日、菅直人首相の後継を決める民主党の代表選で、述べた野田佳彦氏が、詩人相田みつをさんの作品を述べられました。(相田みつを作品集「おかげさん」ダイヤモンド社)
どじょうがさ
金魚のまねすることねん
だよなあ
    - みつを -
 「ドジョウはドジョウのままで、いいんだ」と、泥の中にひそむドジョウの泥くささに強烈なアピールとして心ひかれた人が多かったのではないでしょうか。
 ダイアモンド社には、この作品集に対して問い合わせが殺到したと聞いております。もっとも、ドジョウには、シマドジョウとフクドジョウがいて、おとなしいドジョウと金魚に食いつくドジョウから、噛みつき方がささやかれるほどでした。ペット業界や、どぜう屋さん、安来節までもが一時的にブームとなったそうです。
 この作品は、政界という足の引っ張り合いに見える、泥くささの世界に生きる野田氏を、そのまま清新なイメージに転換させる響きがあります。
 マスコミの解説では、「他人と比較しなくてよいのだ」と、その背景には、何か独善という、独り善がりな思いがただよっているような気もいたします?
 この詩に登場する、ドジョウと金魚は、金魚は優れたもの、ドジョウは土の中に生きることしか能のないモノにたとえられそうですが、本当にそうでしょうか?
 
 「ドジョウがさァー」と、ドジョウは自分のことをドジョウとは言いませんし、自分を指すこともしませんが、指すのは人間のなせることです。
 しかし、このドジョウは、金魚をめざしたことは確かです。金魚がうらやましかったのか、ドジョウのままでは居られない心があったということでしょうか。擬人化して、もがき苦しむのも、金魚に根拠を持てば、気持ちは理解できます。
 人も同じように、夢を持ちながら達成する人もいるし、いつの間にか忘れてしまう人もいます。お金持ちにあこがれ、何かのきっかけでそのようになる人もあるでしょうし、思い続けながら、なれない人もいます。人生を達観した言葉にも見えます。
 でも、子どもに、最初から「ドジョウは金魚のまねすることねんだよなあ」、「ドジョウはドジョウのままでいいんだ」とは言えないことです。もしかして、金魚のまねをして、金魚に成ったドジョウもあるかもしれませんから。

 この作品は、思いを抱いた「ドジョウがさ、金魚のまねすることねんだよなあ」と、元のドジョウに成ったとき、今までのドジョウと違う、高らかにドジョウを謳歌するドジョウの誕生と見えるのです。
 今の自己を否定したことから、肯定にたどり着いたプロセスが見えます。きっとその時のドジョウは、フナやアユ、ハヤやウナギにナマズも、それぞれが輝いて見えたのではないでしょうか。

 妙心寺のホームページに、宗旨(しゅうし)について記してありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 お釈迦様は、「生老病死」の命題に悩み、出家した後、初めは苦行を修しました。
 やがて、この6年(または7年)間の苦行では道は開けないとして、12月1日から一週間、深い禅定に入られました。
 そして、12月8日に、暁の空に光る明星を見て「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」などの言葉を発せられ、悟りを開かれたとされています。
 自分と他が一つ、「自他不二(じたふに)」という境地からこの世を見たとき、今、この地球や宇宙は皆自分の家であり、その中の生きとし生けるものは皆自分の家族である、という大いなる慈悲心が開けるのです。
 それまでは苦行に耐え、自分を磨こう、善いことをしよう、生老病死の苦しみを超克しようという自己本位の行いがありました。
 しかし、自他不二を体得し、その大いなる眼(まなこ)で眺めると、この世のすべてのものは「あるがまま」なのだと「気付いた」のです。それがお釈迦様の悟りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ドジョウという自己が、現実において金魚のドジョウか、ドジョウの金魚か不明ですが、成りたいと、金魚という対立する関係において自己を否定したとき、ドジョウのままで良いのだと気付かされます。
 真理が見えた、現実の世界構造が見えたからこそ、否定から肯定へと向かう道となります。別の言葉で言えば、スミレはスミレのままでよいし、ぺんぺん草はぺんぺん草を生きる道があることが見えてきます。
 そこには、世界にただひとつの独立した、ぺんぺん草、ドジョウ、スミレと、そして自も他もと。この構造こそ、相対的な世界を生きるすべとなるはずです。
 「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」とは、スミレはスミレのまま、ドジョウはドジョウのまま、自他無二とは、世界が一つと成ることで、逆にそれぞれが独立した存在であることを表現した言葉のはずです。
 それを人生に喩えてみれば、老いてまだ坂を登るが如くあるから、老いが豊かであるのではないでしょうか。老いて、若さに立てば老いは姿を変えるものですと……だから、ドジョウはドジョウのままでいいんだと……

 ドジョウやスミレ、ぺんぺん草やタンポポとして、空間的に独自のモノとして存在しています。それは、他と区別されて、各々が差別によって数々と存在するということです。これが世界の有り様なのだと、この現実の世界を一とすれば、不一と、一つに非ずと、多の方向を示します。
 春になれば梅や桜の花が開き、秋になれば黄色く色づき、冬には枯れてと、人もそのように生きているはずなのです。人も植物も生きとし生けるもの百花繚乱として、それがそのまま一となります。
 家族も、学校も仕事場も、国も、一にして多、不一にして、異に非ずの関係こそが、現実の有り様となっているはずです。学校のクラスが一つに成るためには、生徒である多の個別は、それぞれが独立とした存在であり、そして、障(さわ)りや妨(さまた)げのないモノとしてあって、はじめて一つであるといえます。
 この同時という視点こそが、「ドジョウはドジョウのままに」生き、スミレはスミレのまま花を咲かすことが、世界は慈悲に満ちあふれている表現となるはずです。
 大乗仏教は、よく「自位に住す」「法位に住す」といいます。それぞれの真理、如実の真理に拠り所を持って生きると。そこに、ドジョウは、真の自己となります。これを、あるがままに生きる、住す、または、あるがままを拠り所とするといいます。
 一は多に、多は一に(まるで三銃士の言葉のようです)、これこそが、「自他不二」ということです。体得しても、しなくても、無心となって働き、生きる行為や姿こそ、自他不二と思っています。(和尚)
◎早いもので副住職が、修行から帰って1年2ヶ月です。地震があり、津波があり、放射線の汚染も、台風15号の災害、そして円高による日本の不景気は、雨に添い、風に添ってと、何とか年月を過ごしてきました。
 そんななかにも、10月8日、副住職が結婚します。総ては命の営みのなかのこととして、目出度くもあり、目出度くもなし。だけれども、やはり親としては目出度くもあり、二人して担う責任という見えない重さに目出度くもなしか……、ここは悩むのです。 

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最終更新日 : 2013-07-20 15:40:35

No.131「それでも人生にイエスと言う」

陽岳寺護寺会便り平成23年11月1日No.131                                                   

  「それでも人生にイエスと言う」

  「それでも人生にイエスと言う」
  V.E. フランクルという方の本があります。内容については触れません。書名を知り、とても良い言葉だな、と私は思いました。
  この言葉は、イエスと言い続けることを示します。
  そして、その「イエスと言う」ことは、主体性を持ちつつも、自然につむぎだされることと思います。
  「イエス」を人生の何に対して言い続けるのか。それは「出会い」です。
  人は、おのずから、みずから、生きている。
  「人生」とは、イエスと言い続けること。出会うことの繰り返しだと思いました。
  独りよがりかもしれない出会いです。
  
  生きていれば、色々なことに出会います。人だけでなく、動植物、事件、考えなど、すべてです。
  自分だけが、また、多くの人が、出会うこともあります。
  気付かずに過ぎ去ること、また、とても衝撃を受けることもあります。
  報道や教科書など伝聞により出会うこと、また、直接見聞きして出会うこともあります。
  
  直接・間接に関わらず、なにかに出会うこと。
  目を開けていれば、視界は入ってきます(こんにちは副住職です)。鼻が詰まってなければ、嫌なにおいも、芳しい香りも入ってきます。胸に手を当てれば、鼓動を感じます。音がします。風を感じます。重力を感じます。
  これらすべてを出会いとすれば、「いま、ここにいる、わたし」を大切にしようと確信します。しかし、出会うからこそ、「いま、ここにいる、わたし」の確信が揺れることもあるでしょう。
  目の前にある事実。それが、自分の考えていた世界を逸脱していたとしたら?
  実は、まだ出会っていなかっただけ。それでも人生にイエスと言えるのが私たちです。
  
  先日、同宗連(『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議)主催による、第60回「同宗連」研修会に参加しました。2日に分けて、講師の方3名(トランスジェンダーの方々)の講演を聞きました(「セクシュアル・マイノリティについて」上川あや氏(東京都世田谷区区議会議員)、「宗教者とセクシュアル・マイノリティ」森なお氏(日本基督教団牧師・兵庫教区主事)、「性同一性障害について」虎井まさ衛氏(作家))。
  お話を聞いて思ったのは、「性・性別とはなにか」ということでした。
  男であるか女であるかは誰にでも分かることではなく、医学的にも性別の判定が難しいのです。とりあえず、分かりやすさとして、性を男・女で別にすることが続いています。
  「性別」には社会制度がついてまわり、枠から外されているままの人たちは、婚姻・医療・仕事など、とても苦労をし続けていきます。
  自分の性を考えることは、人生をどのようにして歩んでいくか考える上で、とても大切なことです。「いま、ここにいる、わたし」は何なのか。ふと立ち止まって、点検することは大事です。
  見たくないもの、嗅ぎたくない臭い、聞きたくない音、親しい物事との別れ。受け入れたくない出会いがあるでしょう。しかし、受け入れないためには、受け入れなければ出来ないことです。
  だからといって、すべての出会いを受け入れることはできません。殺人や無意味な開国はいけません。イエスと言い続ける「主語」を遮ることはいけないことなのです。「人は、おのずから、みずから、生きている」ことを遮ることは、人の尊厳を傷つけることです。この「人」は、他人でしょうか、自分でしょうか。
  「主語」とは?誰が出会いにイエスと言い続けるか?それは、「自分」以外にはいません。
  
  私は外向的か内向的かと聞かれると、内向的だと思います。外で遊ぶことは、あまり好きではありませんでした。小学校では、担任の先生のおかげで、やっとプールに慣れることができたと記憶していますし。中学校に入って、バレーボール部に数ヶ月いましたが、やめてしまいました。大学生に入って、いわゆるガテン系のアルバイトをしようとも思いませんでした。
  子どものころと、26となった今を比べるのはナンセンスかもしれませんが、外向的傾向は増したとは思います。私よりももっと外向的な人もいるでしょうし、大人になってより内向的になる人もいるでしょう。
  外向的なら、自分から進んで出会うことが多い、イエスと言う数が多ければ人生が豊かである、とは申しません。出会いの多さと人生の豊かさに相関関係はないでしょう。ただ、機会の格差はあるかもしれませんが。
  外に出ていけば、視野が広がるでしょう。それでも、外向性に関係なく、(滅多にない)出会いもあるはずです。運まかせの出会い、といえばいいでしょうか。
  陽岳寺は、皆さんとの月一回の出会い、この護寺会便りを大切にしています。顔を突き合わせてとなると、墓参・お盆などでしょうか。ツイッター、ホームページや電話をすれば、いつでも出会うことは出来ます(http://www.yougakuji.org、http://twitter.com/yougakuji/)。
  
  人は、親と出会えば息子・娘となり、祖父母と出会えば孫となり、夫・妻と出会えば妻・夫となり、子どもと出会えば父親・母親となり、孫と出会えば祖父母となり、と。姿や形を変えていきます。しかし、その関係性にある自分を見れば、親の前では息子・娘でしかなく。息子・娘の前では父親・母親でしかない。
  変わる世界を諸行無常と言い、変わる自分を諸法無我と言うならば、目指すところの涅槃寂静は、ただ一瞬一瞬を生きること。一瞬という時間は、終わりと始めという一瞬の繋がりです。その時をただひたすらに生きることが、禅宗の心。無心なる心です。
  気付かない出会いもあるでしょう。でも目をこらし、耳を澄ませてみれば、世界は輝きに満ちているはずです。すべてはシグナルを出しています。何かがあったはずなのに、報道されない。この目の前の人は、自分たち少数者に寛容かどうか。
  
  お釈迦様は無言という答えを出すことがありました。それでもイエス。無言が正解になることもあるでしょう。どんな出会いも、正解だったと、幸せだったと思う願い。それでも本当にそうかと考える。「日々是好日」「直心是道場」「喫茶去」などの禅語が私たちに示してくれています。
  最後に、「それでも人生にイエスと言う」にも掲載されている、タゴールの詩を紹介します。
  
    私は眠り夢見る、
    生きることがよろこびだったらと。
    私は目覚め気づく、
    生きることは義務だと。
    私は働く、すると、ごらん、
    義務はよろこびだった。
  (副住職)
◎先月の護寺会便りにて、結婚報告をしました。多くの方にお祝いの言葉、ご祝儀をいただきました。ありがとうございます。         ◎11月27日(日)ご祈祷と演芸会です。ご参加ください。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:41:35


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