目次
No.118~
No.118副住職ごあいさつ
No.119かんかんのう
No.120~129
No.123東北地方太平洋沖地震回向その2
No.122東北地方太平洋沖地震回向
No.121あるの、ないの、それとも……
No.120『断捨離』のすゝめ?
No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!
No.125お施餓鬼では僧堂生活について話します
No.126あちら側とこちら側
No.127気づくこころが美しい
No.128無常
No.129「物欲は世界を救う」か?
No.130~139
No130.ドジョウ
No.131「それでも人生にイエスと言う」
No.132ご祈祷
No.133お祝いの言葉の交換
No.134年頭に……
No.135福は外、鬼は内
No.136東日本大震災1周忌回向
No.137悲しみの木
No.138団体参拝・すなお
No.139魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す
No.140~149
No.140我性(がせい)
No.141無事是れ絆
No.142名前
No143畏敬の礼の心
No.144「こわれゆくもの」
No.145平成二十四年度ご祈祷と演芸会無事円成・年忘れ
No.146花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れる
No.147聞く力
No.148赤い風船 ~ 東日本大震災三回忌によせて
No.149陽岳寺 本尊『十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)』
No.150~159
No.150 Have(ハヴ) A(ア) Nice(ナイス) Day(デイ)!
No.151ノアの方舟(はこぶね) 
No.152じぇ!じぇ!じぇ!
No.153盂蘭盆経~目蓮尊者の伝説
No.154在りし日の 背を洗うごと 墓洗う
No.155縁に随って、心法を忘ず
No.156代えがたいもの
No.157物語を信じる
No.158和をもって貴となす
No.159あなたが好き
No.160~169
No.1604年目
No.161はだかの王様
No.162お施餓鬼会

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No.123東北地方太平洋沖地震回向その2

陽岳寺護寺会便り平成23年4月1日No.123                                                    

  あの地震からテレビやラジオでは、ACジャパン(旧・公共広告機構)によるCMばかり放送されています。3月末になって、やっと震災に関連したキャンペーンがはじまったようです。ACのホームページを見ると、全国・支援・地域・NHK共同キャンペーンとキャンペーンごとに種々CMがあり。地域によって、流れるCMが違うんだそうです。
  種々CMが放送されているわけですが、CMで使用されている詩を引用して、陽岳寺は回向文をつくりました(宮澤章二さん「行為の意味」、金子みすゞ「こだまでせうか」の詩)。
  回向とは、自分が積み重ねた功徳を相手にめぐらしふりむけて与えることです。そのために読む文を回向文と、ここでは言います。お経と回向は、セットです。こういうかたちでお経を読んでもいいと思います。
  そして、その回向文をNo.122護寺会便りとして、お彼岸で墓参にいらっしゃった方々にお配りしました。
  春彼岸号をお読みになりたい方は、墓参の際、寺の者に言ってください。または、陽岳寺ホームページより掲載ページを閲覧してください(URL:http://www.yougakuji.org/)。

被災地の安寧と復興を念じ、般若心経を読む(東北地方太平洋沖地震回向その2)

東北地方太平洋沖地震で被災された皆様、関係者の皆様には謹んでお見舞い申し上げます。
あの日から、それなりの日数が経っていますが、日本列島全土に渡り余震は続いていますし、原発は白煙を吹き出し続け、停電・放射線についての情報が続々と入ってきます。関東以外の営業所の機能を強化する企業や、関東から遠くへと疎開する人々もいると聞きます。
それでも、我々は「きっと、そのうち何とかなるだろうし、なるようにしかならない」と自分自身を説得しようとするのだと思いますが、「テレビや新聞を見ていても、どうも良くなる感じがしない」と、鬱々とした気分の方も多いはずです。
私たちの住む町は、日本は、このままどうにかなってしまうのではないか?東北・関東地方全域という広大な被災地の復興は、いつかは解決するんだろうと楽観的に思う気持ちもありつつ、漠然とした不安が心のどこかに沈んでいると思います。
さて、テレビや新聞によって、巨大地震という想定外の事態を憂い、社会には不謹慎、自粛ムードがじわじわと広がっているように見えます。
しかし、スッキリとしない心持ちのまま、心配や不安にさいなまれてまで、「我々には一体何が出来るのだろうか!」と考える必要はあるのでしょうか。『義援金の寄付、ボランティア、献血、節電、買い占めはやめよう、日本経済を潤そう』といった言葉に、あなたは協力しなきゃいけないな、何かをすべきなのだが、と感じていませんか。

おのれこそ おのれのよるべ
おのれを措きて 誰のよるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲ん

これは、法句経にある言葉です。この言葉は、「私自身にしか私を救えず、この私を置いて誰が私を救えるだろうか、よく制した私しか本当に私を救ってはくれない」と、いいます。
「私のことは私が一番よく知っている!」と思っていても、テレビで被災地の様子を見続け、スーパーやコンビニで買い急ぐ人々を見続ければ、人知れず自分知れず「小さな不安・心配」はつのっていくのでしょう。いくら自分で自分が正常だと思っていても、それは本当でしょうか?はたから見ても分からない。まして、自分でも分からないものです。
私はお悟りを得た、と言いふらす輩を貴方は信じられますか。ただちに影響はない、という言葉を貴方は信じられますか。私は大丈夫だ、と言う自分を貴方は信じられますか。
信じるのも、疑うのも、心です。心とは、よりどころがなく、かといって決して無いとはいえないものです。あるようでない、ないようであるのが、心なのだと思います。
地震によって大きく揺れうごく大地に触れ、私たちの心も揺れうごきます。海から大地へと大きな波が押し寄せるように、心には不安・心配といった様々な波が寄せては返すのです。
そんな自分自身の揺れる心に触れたとき、人は、こころの水面が波打ったとしても、次第に収まること。水中に泥や土が舞い上がったとしても、いつか水は澄むこと。底深き淵には、揺るぎない心安らかなるところがあることに気付くのだと思います。

底深き淵の 澄みて
静かなるごとく 心あるものは
道をききて こころ やすらかなり

法句経にある言葉です。この言葉は、「底の深い湖は、澄んで濁ることのないように、賢い人々は、真理を耳にしているがゆえに自分自身の心を澄み沈めている」と、いいます。
地震や津波、報道によって、怒り・悲しみ・恐れといった感情がこころ波打ちますが、揺らす心は自分自身なのだと気付けば、私には沈める心もあるはずだと気付きます。
心中がざわめき、よどもうとも、いつか心を冷静に見つめ正せば、なごみ、安らぎ、穏やかな心があることに気付くことができます。
哲学者・西田幾多郎氏の短歌に『わが心深き底あり 喜びも憂いの波も とどかじと思う』とあります。
想像もつかない人の心の奥深さを考えてみれば、我々はみな仏の心・無心を持っているのではないかと思うのです。底の抜けた先があると。無心とは心がないことではありません。
般若心経とは、心を学ぶお経です。
人は、般若心経の核心である、仏の智慧を対照的に悟ることはできません。ですが、その仏の智慧を生きることはできます。なぜなら、この世界で私が生きて、その同じ世界の中で、他人と交流し、相い支えあって、そのすべてが、空を本質としているからです。
どこにも、本体をもつような存在はなく、すべてがつながっている。しかし、その繫がっているものを対象化して見れば、世界は固定されてしまいます。
  般若心経の心とは、ただ生きることです。ただ一瞬一瞬を生きることです。ただひたすらに生きていること、きっと、それは自己が創り出した不安や恐怖を忘れることでもあると、気づくでしょう。
  だからそんな自己が創り出した不安や恐怖に降り回されずに、大きく深呼吸することで、空っぽの心を私に訪れさせることも大切なことだとわかるでしょう。自分自身から逃れることができないことがわかったら、心の本質を学びましょう。『般若心経』の根本的な視点です。
1000年に一度という地震が起きて、テレビや新聞で被災地が、原発がと、日々刻々変化して報道されます。そのたびに私たちの心は揺れます。そんな揺れる心に従うことを知れば、少しでも安らぎが取り戻せればと思います。一瞬一瞬をひたすら生きるなかに、世界は仏心で溢れるでしょう。
それでは、これから般若心経をお読みします。2011-03-11東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々、被災し避難している方々、警察・消防・自衛隊員、ボランティアの方々、津波にも地震にも遠い場所で生活している方々。日本、世界のすべての人のためにです。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事をお祈りいたします。みんなが助け合い、一生懸命に生きる姿から、改めて日本の素晴らしさに気付いた人は多かったはずです。そんな日本に住む我々だからこそ、必ず立ち上がれると、日本・被災地の安寧と復興を念じおります。
<読経 般若心経>                      (陽岳小副住 真人合掌)
○彼岸、また終わった後にも、多くの方が墓参に来てくださいました。家の中に閉じこもるのではなく、お墓にお参りする功徳とは、祈りですが、「とんでもないことが起きたね。だいじょうかい。ありがとう。そばに居るからね。ありがとう」と、こんな声を聞きたくて、もしかして、お墓参りをしたのではないかと思っています。
この地震で陽岳寺に大きな被害はなかったものの、多くの墓石が、地震に揺らいだようです。さお石や台石がほんの少し動いたもの、目地が取れてしまったものもあります。
今、石屋さんが調べています。中には台石をはずして石を据え直さなければならないものもあるそうです。次にも被害を出さないように、どうしたらよいかを考えております。早急に結論を出して、お知らせ致します。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:32:04

No.122東北地方太平洋沖地震回向

陽岳寺護寺会便り平成23年3月19日No.122東北地方太平洋沖地震 回向

  地震から数日、テレビでは、社団法人ACジャパンのCMばかり流れています。ホームページを見ると、全国・支援・地域・NHK共同キャンペーンとキャンペーンごとに種々CMがあり。地域によって、流れるCMが違うんだそうです。
  種々、CMが放送されているわけですが、「見える気持ちに。」「こだまでしょうか」からそれぞれ詩を引用させてもらいました。
  ACのCMをみて、回向文をつくりました。回向とは、自分が積み重ねた功徳を相手にめぐらしふりむけて与えることです。そのために読む文を回向文と、ここでは言います。お経と回向は、セットになっているのです。
  
  東北地方太平洋沖地震 回向-思い祈り願い、般若心経を読む
  2011年3月11日金曜日の午後3時前、東北地方太平洋沖で、1000年ぶりといわれる巨大地震がおきました。いまも余震がおこり、日本だけでなく世界全体が注目しています。
  今回の地震では、揺れだけではなく、津波の被害も甚大でした。10mをこえる津波が各所を襲いました。津波が、海や川から陸地へと向かっていったのでした。
  港や防波堤をこえ、土砂や車、家々を巻き込み、黒い津波となって、いたるところを呑み込み、浸水したのでした。人々は建物や高台などの高いところに逃げ、津波を知る・知らずに関わらず逃げ遅れた人々がたくさんいました。地震と津波で交通が分断され孤立する場所がたくさんありました。海や川をただよい、たどりつく人々もいました。先に逝った親しい人たち、安否不明の人たち。
  そこから離れた場所では、電車がとまり、建物や道路が倒れたり、壊れたりしました。遠い家まで歩いて帰る人たち、帰れない人たち、ガス・水道が止まり困る人たち。
  連日、テレビやラジオでは被災地の様子が放送されています。
  被災地の光景を実際目にしたら、わたしたちは何を考えるのでしょうか。すべてを為す気がおきず、どうしていいか分からず、ぼんやりとしているのでしょうか。
  テレビやラジオで被災地の様子を見聞きして、わたしたちは何を思うのでしょうか。しばらく経ち、ふと我に返って、心配になって、自分を忘れて、不安に振り回されて、目的もなく、本能のままに、衝動的に動き回るのでしょうか。
  自分の意志で、自覚した心で行動することが、いかに難しく、大事なことなのか。空しさを埋めようと、ただひたすらに、やみくもに行動するから、自分でも収拾がつかなくなるのでしょう。不安にかられ食べ物の買い占めに走り、デマに惑わされる。空しさにさいなまれる。なぜあの人はいなくなり、なぜ私は生きている。
  
  その空しさは、形ある物はいつか壊れ、移りゆくことに気付かされた証なのだと思います。人が空しさを感じることは、人生を歩むことです。そして次に、心の空しさを感じ、その心の空しさを充たすために必要なことはなんでしょうか。
  心とは、よりどころがなく、かといって決して無いとはいえないもの。あるようでない、ないようであるのが、心なのだと思います。
  その心の空しさを、どうにかしたい。正しく充たすためには、どうしたらいいでしょうか。
  詩人の宮澤章二さん作で、ごま書房新社が出版している「行為の意味―青春前期のきみたちに」という本の中に次のような詩があります。
  
  「こころ」はだれにも見えないけれど
  「こころづかい」は見える
  「思い」は見えないけれど
  「思いやり」はだれにでも見える
  
  仏壇やお墓は、祈り願う場所です。しかし、その祈りや願いは届くことはないのでしょう。それならば、祈り願うわれわれが、私たち自身の祈りや願いを聞かなければならないのかもしれません。
  「こころ」「思い」はだれにも見えません。それでも、祈り願わずにはいられないのは、空しさを充たそうとする「こころ」「思い」によるのでしょう。そして、その「こころづかい」「思いやり」という行為として、だれにでも見えるとき、その空しさは、気づきや確信によって心が充たされ、心の中に生きるということになるのだと思います。
  般若心経とは、心を学ぶお経です。「こころ」「思い」の本質とは、空しさを感じ、さらに空しさを生きることなのだと思います。
  仏壇やお墓だけが、祈り願う場所とは限りません。あなたが思うところは、いつでも、どこでも祈り願う場所になります。テレビの前も、ラジオの前も、布団の中も。
  
  「こだまでしょうか」という詩があります。詩人の金子みすゞさん作です。
  
  「遊ぼう」っていうと
  「遊ぼう」っていう。
  「ばか」っていうと
  「ばか」っていう。
  「もう遊ばない」っていうと
  「遊ばない」っていう。
  そうして、あとで
  さみしくなって、
  「ごめんね」っていうと
  「ごめんね」っていう。
  こだまでしょうか、
  いいえ、だれでも。
  
  ことばは、人から人へと「こだま」します。ことばだけではなく、祈りや願いも「こだま」します。
  先に逝った親しい人たちは、わたしたちに、ことば、祈り、願いを届けてくれるでしょうか。教えてくれるでしょうか。自分の意志で、自覚した心で、ことば、祈り、願いを行動することが、心の空しさを正しく充たすことなのでしょう。
  それでは、これから般若心経をお読みします。東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々、被災し避難している方々、自衛隊員、警察、消防、ボランティアの方々、津波にも地震にも遠い場所で生活している方々。日本、世界のすべての人のためにです。みんなの、みんなにより、みんなのため、ご冥福、ご多幸、ご無事をお祈りいたします。
読経 般若心経    (副住職)

No.121あるの、ないの、それとも……

陽岳寺護寺会便り平成23年3月1日No.121あるの、ないの、それとも……

 谷川俊太郎の詩に、『黄色い鳥のいる風景~ポール・クレーの絵による「絵本」のために』があります。

とりがいるから そらがある
そらがあるから ふうせんがある
ふうせんがあるから こどもがはしってる
こどもがはしってるから わらいがある
わらいがあるから かなしみがある いのりがある ひざまずくじめんがある
みずがながれていて きのうときょうがある
きいろいとりがいるから すべてのいろとかたちとうごき
せかいがある

 この詩を読むとき、「鳥がいるから、空がある」と、実は、「つがっている」と詩を書いている詩人こそ、ものがたりを想像する、それは、つなげていることに気がつくでしょう。しかも自由にです。
 でも「鳥がいるから空がある」とは、普通書かないのではないかと思うのです。「そらがあるから、とりがいる」と……。
 鳥の進化の歴史からは、空があったから、何ものかが鳥となったはずです。谷川俊太郎という詩人は、そんなことお構いなく、結びつけてゆくことを遊んでいると、思いませんか。しかもまったく自由にです……。
 人は世界とつながりながら、自分自身を存在するモノとして意味づけているともいえます。意味づけなければ、人は生きていけないとも考えることができます。世界で起きている出来事を見ているとつくづく思うのです。独裁者がいるから自由が欲しいのであり、自由ばかりだったら、もしかしたら、強烈に導いてくれる指導者が欲しいかもしれません。
 だからこそ、「すべてのいろとかたちとうごき せかいがある」と、谷川俊太郎の詩はここから先は、読者のイメージに任せています。
 現実のつながった世界は、心ともいえるものです。現実には、憎しみやねたみがあり、保身や欲望があり、自我を強大にした結果、戦争があり、多くの善良な人の死もあることは歴史の事実です。
 さらに、つながった世界を見れば、死後もあるのだと思いたいし、死後のその後も、ずっとつながってゆくことに気づかないでしょうか。極楽も天国も地獄もです。
 でもこれは、自由に在るでつながったことで、かえって、人を不自由にもたらすこともあるわけです。仏陀釈尊は、もしかして、そんなことを考えたかどうか、解らないけれど、存在と所有という問題に道筋を描いてくれたと思っています。

 そのつながりを考えてみると、心の世界では、選択であり束縛あり、意味と無意味、価値と無価値、もっといえば、善いことと悪いこと、幸福と不幸、死と生、順逆の関係の中に、よくいう自由とは、何と自分に対して責任を問うことかと思うのです。
 意味づけは、評価という形で表現することもできます。その評価に一つでも傷がつけば、その傷を多数の人は問題にします。自分でその傷を消そうとすれば、その世界からアウトしなければ、傷は消えないこともあります。しかも、評価の履歴はその世界に入会したときから記録となり、まるで、その人物を意味づけています。評価の履歴こそがつながっている人であると意味づけるからです。
 インターネットのヤフーやAmazonドットコムにしても、その評価が自分の価値を意味づけてくれることに気づきます。
 考えてみれば、怖いことでもあります。意味づけられた私は、私であって私でないからです。なぜなら変わり続けることを本質とするならば、一瞬の今を生きる私は、過去の私や未来の私ではないはずだからです。
 そんな価値を保つことを考えてみれば、つながっていることが不幸になることもあります。それは、人の価値こそが、インターネットの世界に生きる財産だとしたら。例えば、今流行のフェースブック、何億という人間がフェースブックの中でつながることを意味あることと、自分の価値を築こうとしているからです。その価値に縛られることになります。人生は相対的なつながっている世界に生きるゆえに、得たり失ったり、保守や革新、富や貧富、その結果が歩みであるかのようです。

 そのつながった歩みの悲喜こもごもを、般若心経では、縁起はないのだと否定しています。本来縁起はないとです。悲喜こもごも有ると思っていることは、本来無いのだと、これは仏陀釈尊と、深く般若波羅密を行じた観世音菩薩の言葉でもあるのです。
 さて、仏教はもう一つの見方を提案しています。
 「とりがいなかったら そらがない」、「そらがなかったら ふうせんがない」です。
 でもです。在ると無いに共通する心のはたらきは、無いと在ると心に画いたモノであるならば、これも意識による意味づけです。在るということ、無いということを意識において持ち続けることこそ、無明あるいは無知と仏教はいいます。確かに初期仏教では、無いことを求め続けて涅槃にたどりつくことを考えた人々もいました。でもそれでは、自由さも無くなってしまいます。自由とははたらきだからです。怒ったり、笑ったり、喜んだり悲しんだりという自由さ、しかも、その怒りや笑い、喜びや悲しみとらわれない自由さこそ、禅の目指す道であり、般若心経の教えなのだと思っています。

 「わらいがあるから かなしみがある いのりがある ひざまずくじめんがある」と。
 実は、谷川俊太郎は、何も無い、真っ白なキャンバスに、言葉で鳥を描き、空を画き、風船を画いていることに気づきました。
 そう、最初は真っ白な、何も無いモノに在る、あるいは、居ると書き付けていることです。何も無いトコロに、空という、無というところから、在ると居るが浮かび上がり、紡がせているモノは、存在でしょうか。存在だとしたら対照的な事物なはずです。
 自由につなげている世界は、もともと何ものも束縛されない世界であり、対象として捉えることができないモノのようです。あえていうなら真っ白なキャンバスと。

 しかもその真っ白なキャンバスには、たくさんのモノが書いてあるけれども、谷川俊太郎が創作したこの詩を読むことによって、浮かび上がってくるような、初めから私の心は「わらいがあるから かなしみがある いのりがある」と、真っ白なキャンバスには描いてあるような気がするのです。しかも、在ると居るで、つながっているものは、もっと考えてみると、空間だけではなく、時間もつなつながっているし、歴史も含めて記憶や行為まで、すべてつながっていることに気づきくのです。だからこそ、すべては自由につながっている。空であり無であることが前提となっているのではないでしょうか。だから、どうせ描くなら、与えられた善いことをたくさんたくさん描きたいものです。真っ白なキャンバスのはたらきとしてです。(住職)
◎寒さと暖かさが互いにせめぎ合いながらも、春彼岸を、迎えようとしております。
 お彼岸は、3月18日(金)から24日(木)までで、21日が彼岸の中日です。 

No.120『断捨離』のすゝめ?

陽岳寺護寺会便り平成23年1月1日No.119『断捨離』のすゝめ?

2011年のお正月は、2010年の8月に鎌倉・円覚寺から、東京は深川の陽岳寺に帰山して最初のお正月。年末、年始と多くの方が墓参にいらっしゃいました。その際、私は副住職として、これから宜しくお願いしますと申し上げました。
皆さんから、あんなに小さかった子が大きくなって・・・、今年も宜しくお願いします、護寺会便りを読みましたよ!また、新命(しんめい)さんって呼ぶんですね!との言葉をいただきました。
皆さん読んでくれているんだなと嬉しく思い、また、住職がこれまで連綿と続けてきたことの意味を考えさせられるのでした。

今回も住職が年賀状の文面を考えていました。
昨年末、新聞の川柳や投稿欄を見ていると、年賀状についてのものが多く見られました。
『年賀状 生きてる証に 投函し』
これは第23回サラリーマン川柳にあったものです。
まるで年賀状は「元気で生きているよ!」という安否確認手段のようです。やめようと思えば、やめられることです。それでも、手をつなぎたい、つないでいたい。そう思わせるものは、いったい何でしょうか。
陽岳寺の法要の回向に「生まれれば縁が広がり、亡くなれば、また縁が広がる」とあります。
生きることとは、命とは、生きるためにあるのだと思います。なんびとたりとも、その生を邪魔することなど出来やしないのです。たとえ臨床の立場から死んだのだと判断されても、その人を知る人々の心のなかで彼(女)は生きている!
縁あって、鎌倉の円覚寺専門道場にて、3年4か月という時を過ごしました。年賀状を出すことは叶いません。3年もの間、誰とも連絡を取らずにいたので、元日わたしに届いた年賀状の枚数はたったの1枚。さすがに寂しかったです。
つながりがバッサリ断ちきれていた結果なのだろうなと。こうして縁は薄れていくのかと、しかし復活する縁もあるだろう。切っても切れない縁もあるだろうと、思ったのでした。

2010年の新語・流行語に『断捨離(だんしゃり)』という言葉が選ばれました。
最初にこの言葉を知ったとき、仏教用語かと思ったのですが、どうやら違うようでした。断捨離とは、ヨガの「断業」「捨業」「離業」という考え方を応用したもので、自分にとって不要なモノを「断」ち、「捨」て、モノへの執着から「離」れる。
単なる整理術ではなく、身辺を整理することで、そこから更に心も整理すること。10年ほど前、金沢市に住む主婦が提唱したものだそうです。
この『断捨離』という考え方は、インターネットで普及しはじめ、今ではテレビ番組や雑誌で特集をされるほど。私の見たNHKクローズアップ現代(2010/12/16放送)では、「片付かない部屋の断捨離」と「親の遺品の断捨離」について放送していました。
「片付かない部屋」にたまった物を整理していく夫婦、「親の遺品」を数カ月かけ片付ける娘にカメラを向けていました。
子供服にしても、本にしても、遺品にしても、そのものに対する思い入れ・親子や家族の物語・自己投影の結果があるのでしょう。
そっとしておきたい自分がいて、片付けられなくて、そのままにして置いてある。いつかはやろうと思っていても、それが出来ない。
断捨離は、物を捨てるだけではない。その心が正されていないのだから、片付けられず、物が集まっていくばかり。物を整理することで、心の整理もしてしまおう。執着を取り払っていこうと考える。過去の後悔・未来の不安にとらわれ、家の中には物があふれる。今の自分には必要ないものたちばかりなのに、片付けられないと嘆く。
そして、片付けたいことは物だけではなく、人間関係にも及ぶのだとか。

人間関係の断捨離とは、どのようなことでしょうか。縁を切ること?執着を持ってはいけない、自分にとって必要ないものならば縁を切ってもいい、という自己本位な考え方ではない!と思います。
仏教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を教えの特徴としています。そして、無常・無我の世界に、常住や自我を追い求めるために、苦しむ。過剰な執着を良しとしません。
しかし、その執着も縁なのだと思います。「こだわり」という縁です。
片付けられない部屋も、遺品も、心からのこだわりを「捨てる」「無くす」「消す」のではなく、「大切にする」「意識する」「思い出す」「思いなおす」ことで認めてあげる。断捨離は縁の仕分けではなく、物と向き合うことによる自分との会話なのでしょう。
遺品との会話は、先に逝った懐かしい人たちとの会話、そして自分との会話。それは、遺品ではなく、思い出でもいいはずです。「こだわり」も受け入れる。とらわれてもよいではないか!
生まれれば縁が広がり、亡くなれば、また縁が広がる。そう考えると、人はなかなか死ねないのだとも思います。
昔はあったかもしれない繋がり。バッサリ断ちきれていたとしても、それは無くなったのではなく、薄れているだけなのだと考えます。別の道からの縁もあるでしょうし、以前よりも太くなる縁もあるはずです。
縁あって自分が今ここにいる。縁あって自分がここからいなくなる。
お骨の有無にかかわらず、お墓参りにいらっしゃる方々を見て、先に逝った親しい人たちの命は、今ここに生きているのだなと。千の風はそこかしこに、みな平等に吹いているのだなと思ったのでした。
49日忌法要の回向には、こうあります。「人と人とのあいだ、縁とは、根拠、相即といえるものでもあり、拠り所といえばわかりやすいでしょう。だから、貴方から私へのあいだは途絶えてしまいましたが、私の貴方へのあいだは、途絶えていないのです」と。
人は生まれながらにして、貴賎の上下などありません。しかし自分がたくさんの人に守られ、支えられていながら、そのご縁に感謝をしない。自分の満足したいが為にご縁を破っていくのはおかしい。縁を大切にしない人は、ずっと縁を気付かずに暮らしていくのでしょうか。
それでも自分で命を「断」つことはできても、つながりは自分では「絶」つことができない。そう信じています。陽岳寺ができることとは何なのだろうと思います。
学問のすすめでは、学問(さらに言えば実になる学問)の実人生にたいする影響力を述べています。『断捨離』のすすめとは、自分にとって不要な物だと断ちっぱなし、捨てっぱなし、離れっぱなし、~っぱなしにするのではなく、ひとつひとつの縁を大切にすること、受け入れることなのだと思います。
護寺会員の皆様からの年賀状を一枚一枚見ておりますと、住職、母宛とともに、副住職宛ともなっている年賀状を見つけました。昨年、護寺会便りをお送りしてよかった、副住職として私のことを認めてくれているのだなと、嬉しく思いました。ありがとうございます。
今年こそ、よい年であったと、誰もが言えるような、そんな一年の箇であることを願っています。
(陽岳小副住 真人合掌)


No.124飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!

陽岳寺護寺会便り平成23年5月1日No.124

飯を食え、食い終わったら茶碗を洗っておけ!

 今年も見事に、福島の三春の滝桜が咲いたと、新聞に写真が掲載されていました。東日本の誇る桜です。季節は大震災に被災された地域にもかかわらず今年限りの桜の到来を告げていました。
 一方、東京の遅咲き桜は散り、若葉を繁らせ始めています。
 咲く桜、残る桜も、散る桜でしょうか。季節にうながされて咲くのか、咲くことによって季節が生じるのか、いやいや同時と、考えさせられますが、人の思惑も同時に咲き、散ります。私と世界の入り組みに混濁しながら人は生きていきます。
 我を忘れて桜に見入り、その桜そのものとなる。そのうち桜も忘れて、只たたずむ自分がいることに気づくこともあるでしょう。桜を見ながら食事をして、その食事を忘れて桜を見ていることも忘れることもあるでしょう。
 桜もきれいだし、食事もうまい、一緒に見に来た仲間たちも喜んでいると思うこともあるでしょう。
 震災そして原発に汚染された地域で生きるお年寄りのインタビューに答える言葉を聞いて心が傷む。
 「私はこの家で死にたい。この地域から離れない」と、枯れた涙が流れる。無人となった家や地域に、孤立を選択させるものは何なのか。震災そして原発に汚染されたことで咲くお年寄りの花は、死なのか、生きる希望の喪失か、余生・与生・預生とは何かを考えさせられる。
 しかし、本当は、その生が誰に与えられたかなど、考える必要はない。人によっては、神や仏、家族、祖先や血筋から、民族や山河からと意味を見出す人もあるだろうが、それはそれで思うことは自由だし、比較して考えることも自由だ。だけれども、比較し意味を見出したモノからみると、生を奪うことも生じてくると、人は悩むこともあるし、与えられたモノに従属してしまうから厄介だ。預かった預世(よせい)もまた同じことだろう。
 それでもその家で、その地域で、孤立しながらも人は生きている。

 平成23年の3月11日の東日本大震災と津波、そして福島原発の災害から、季節は刻々と変化しています。困難な状況に不安と恐怖に悲鳴を上げる被災者たちの様子をテレビや新聞、また実際に炊き出しに行き、生活必需品を届けに行った人々の声を聞けば聞くほど、痛ましく思える。何かできることはないかと思いつつも、季節は変わる。
 被災者の一人一人が、個別の悩みを抱えながら生きている。全体を見渡そうと思えば、個が消えて、個を思えば全体がかすむ。それでも何とか頑張って欲しいし、無理をして欲しくもないし、明日はどうなるのだろうかと不安に駆られる。人は生きるしかない。

 ふと、「衆生病むがゆえに、我もまた病む」の釈尊の言葉が響きます。私は釈尊ほどの人物ではないし、大それた悟りを持つなどと、とうてい思えないけれど、被災された人や地域を考えるだけで、「我もまた病む」と、同じ気持ちを持つことに気がつきます。
 人だったら、誰もが持つこの「病む心」、もちろん、釈尊仏陀の病みとは、格段に異なるものだろうが、病むこと自体は同質なものだろうと、そこに、釈尊仏陀は居るのだと。自分の心の中に生きている。
 仏教の解説本を読んでいると、釈尊には「自分」「我」がないからこそ、我もまた病むという心が生じると説明されています。無心とか空の心こそ、釈尊仏陀の心なのだと。
 その無心と生きることについて、禅の語録は、何と自由さがあふれて、言葉の魔力に引きつけられることが多いでしょうか。もっとも、その言葉から生きる勇気をもらいます。

 修行僧が趙州(じょうしゅう)禅師に尋ねた。「私の自己とは、どう考えたら、そしてどんなものでしょうか」
 趙州禅師は尋ねた。「ご飯はすんだかね」
 修行僧は答えた。「すみました」
 そこで、趙州禅師は答えた。「すんだら鉢を洗っておけ」

 さらに、臨済(りんざい)禅師は、日頃、みんなに語った。
 『禅はあれこれ思案し造作を加えたりしようがない。ただありのままで在りさえすればよいのだ。衣服を着て、ご飯を食べ、糞をしておしっこをする。疲れたら横になる。愚かなものは私を笑うが、智者ならわかるであろう。古人も「外に向かって工夫をなすは、皆、愚か者だ」と。』

 これらの言葉通りに私たちが行為するとすれば、雲泥の差があるかもしれません。飯を食べるときは、飯を食べることに成りきれ、食べ終わったらもっと食いたい、次の食事は何を食べたいと思いをせずにということです。お掃除をするときは、目前の掃除に成りきることと禅はいいます。
 道元禅師は、「只今ばかりが我がいのちは存するなり」と話されました。それは、今生きている自己の自覚でもあるでしょう。百丈禅師は、「自分が生を受けて、何よりも大きな不思議なことがある。今ここに、坐(生きて)っていることだ(独座大雄峰)」と。時は今、その今は過去未来さらに世界の一切を含んでの今です。
 その今が、行為としてお椀を洗っておけ、洗い終わったら拭いてしまっておけ。行為はつながっているようで、つながっていない。今の連続は連なっています。連続している行為に見えるけれども、実は、一つ一つの行為は独立していて、連なっていると教えられるのです。それも同時にです。それが生きることです。
 「私はこの家で死にたい。この地域から離れない」と、ご飯を食べて茶碗を洗い、服を着て、掃除に洗濯。震災そして原発に汚染されようとも、咲く花があります。しかし、そうは思っても、人は痛ましく悲しいし、憂いを持ちながらも力強い。  (住職合掌)
◎作詞家・新井満氏が震災1ヶ月後、「そろそろ、言葉の力が必要な時期がやってくるのではないかと思っていた。一番苦しい時に人の心を癒すのは、大自然の美しさとその感動ではないか。だからこそ、“希望”という心のパン、詩は命を救う心のパンである。」と新聞に寄稿していました。
◎そして、今年の施餓鬼会では、昨年の夏に僧堂から帰ってきた新命がお話をします。

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最終更新日 : 2013-07-20 15:33:50


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