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時計

 口のきけない少女は泣きながら時計を指さした。母親が調べてみると時計は既に事切れていた。明くる日、屋敷の裏庭で時計に火が点けられた。突然少女が言葉を発した。俺以外と話してはいけない。ずっと時計にそう囁かれていたと言うのだ。猛る炎に文字盤が歪む。立ち昇る紫の煙から呻き声が漏れた。

眠り

 書いているのは私なのだが私ではない。種明かしをすると寝ている間に勝手に原稿が仕上がっているのだ。新作に取りかかる際にはいつも眠りの入口で声がする。「この作品は賞を取る」といった風に。ほら今まさに。「残念だがこの作品が遺作になる」私は深い眠りに吸い込まれていった。

移動

 まただ。一冊の本の位置が変わっている。戻しても戻しても朝になるとその本はある本の隣に移動しているのだ。深夜、本棚から物音がしたので見にゆくと、例の二冊の間に豆本が挟まれていた。手に取ってみる。表にも中にもまだ何も記されていない。私はその子をそっと両親の元に戻した。

レモン

 彼女が唐揚げにレモンを絞ろうとした瞬間、声が出ていた。「おい」大きな声だったのだろう。水を打ったように場が静まり返った。「勝手に絞るなよ」それがいまだに友人にネタにされる2人の馴れ初めだ。だが。「パパ、レモン絞っていい?」今は多数決で負けるのだから仕方がない。「いいよ」

 改行のまったくない本を読んでいた。と、虫の字がとつぜんもぞりと蠢いた。あまりにも密度の高い本を読み続けたために目が疲れたのだ。そう思った。あっ。再び虫の字が動いた。虫は文字列を離れ、行間を一気に駈け抜けてゆく。頁から飛び出した虫は古畳の隙間に潜り込んでしまった。

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