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プロローグ

  地上に舞い降りた寒気の固まりが、人や建物にかき乱されて、鋭い切っ先を持ったつむじ風に分岐した。少女の肩に掛かる長い黒髪が、つむじ風に弄ばれるように靡いているのだが、本人はこの世界に心を閉ざすように、気にする気配がない。
 ここは地元に密着したこじんまりした商店街だが、取り囲む住宅地に恵まれて、店にも行き交う人々にも活気がある。ハンバーガーショップのウィンドー越しに見える店内に、賑やかにはしゃぐ彼女と同世代らしい高校生の少女の一団がいる。一瞬、視線が合った一人は窓の外の少女から目を逸らし、少女もまた無関心を装って別の対象を求めて視線を移動させた。
 時々、少女は歩調をゆるめて、豊かな商品が陳列された周囲のショーウィンドーを覗いたが、その視線は定まらず、彼女は求めるものを得ることが出来ていない事を窺わせている。事実、彼女は歩きつつ、無表情でため息をつくことがある。
 商店街の中央の広場の時計は4時半を回っており、この季節、あと一時間もすれば空は赤黒く変じて急速に闇に包まれる。少女は学校の後、図書室にとどまるわけでもなく、友人と楽しく交わるわけでもなく足早に帰宅した。そこにも居場所がないように、スケッチブックを抱え、小物が入ったバスケットを手に提げてここにいる。少女は街の景色の一部にすぎず、彼女に特別な注意を払う者はなく、彼女に流れ込む人々の意識は、北風が吹き抜けてゆくように彼女の存在とは関わりがない。
 彼女には特別な目的地があるわけではなく、スケッチのネタを探すと言うことを心の中のいい訳にして、時間や人から逃げるように背を向けて、小さな町を彷徨っているのである。
 彼女は広場の時計台を囲む花壇の縁に腰をかけて、携行にはやや大きすぎるスケッチブックを抱え直した。そのスケッチブックに注ぐ視線が柔らかく、彼女の心の拠り所らしい。この僅かな空間だけに彼女の居場所がある。
 

1 孤独な魂の出会い 晴れの日のテム

 すすむは全てのものに背を向けるように絵本を見つめた。
 すすむの意志に従う所有物は、すすむの目の前の5冊の絵本だけ。おばあちゃんが部屋を去るのを待って、すすむは5冊の絵本を腕に抱えて部屋の隅に配置して回った。部屋の四隅に一冊づつ。
 残った一冊は、部屋の中央に。
 
 さきほど、おばあちゃんに絵本を散らかしてはいけないと注意された状況だった。すすむの仕草が少し遠慮がちだったのは、罪悪感と言うよりも、自分の遊びをどう説明して良いかわからなかったからである。
 そして、すすむが自分の遊びを説明する言葉を持ちたいとも思わなかったのは、大人の言葉が嘘を重ねて塗りつぶされているのを知っているからに違いなかった。
 すすむはパンダの絵本を抱えて、部屋の中央からやや窓よりを、背中を丸めてころんっと転がっててみた。
 続いて、畳の上をごろごろと転がってみた。すすむはつまらない表情のままだ。別に、深い意図はない。すすむがたった一人で退屈をまぎらわせる遊びの一つである。
 この遊びを中断させたのは、さっき、おばあちゃんが持ってきたホットケーキである。この聖域に遮断したい違和感のある雰囲気を拡散させる。
 すすむは転がるのを止めて、うつぶせに寝転がったまま、ホットケーキを眺めた。ホットケーキは二枚重ねで、幼い彼にとってボリュームがありすぎる。すすむはホットケーキから目を逸らして、抱えた絵本を開いた。そして、お母さんの口調を再現しながら声に出して読んだ。
 
「しんしんと こなゆきが そらに まう やまおくの むらのことでした」
 
 すすむは、字が読める年齢ではない。ただ、幼児の素直さで、母親が読み聞かせてくれた語り口を記憶していて、口調を真似て繰り返しているのである。
 熱いシチューの香りが漂う丸木小屋の中で、母子のパンダがお父さんパンダの帰りを待つ光景が、絵本のページから溢れるように広がった。すすむはこの描写に、ホットケーキの記憶を重ね合わせて覚えている。
 お母さんはホットケーキを食べるすすむに寄り添って、この絵本を読んでくれたのである。すすむはシロップが滴る一枚目を食べながら、お母さんの声を聞いた。お腹が一杯になったすすむが、二枚目を意味もなくつつき出すと、お母さんは食べ物を粗末にするすすむを叱る。
 ただ、叱り方は優しく、あらかじめ定められた台本どおりのように、残りのケーキを自分が食べてしまうのだった。すすむは、お腹の脂肪を気にしながら遠慮がちにシロップをかけるお母さんの姿や、ホットケーキの咀嚼のために中断するお母さんの声のリズムが好きだった。
 しかし、今、すすむの目の前には冷めかけたホットケーキがあるだけだ。
 すすむは記憶から目を背けるために、くるくると頭を動かして部屋の中を見回した。おばあちゃんが几帳面に掃除をしていて、僅かにタンスの上には、博多人形や小さな額縁に入った写真や何冊かの本が置いてあるのだが、彼が手を伸ばしても手が届かない。変化があるように見えながら、彼のような幼児には殺風景な空間だった。
 ふと、手の届く場所にあった白い毛糸のマフラーが目に入った。すすむはそのマフラーをしてこの部屋から公園に逃げ出すことに決めた。
 
 マフラーを外出の目印にして台所へ行くと、おばあちゃんはセーターの上からジャンパーまで着せて、すすむをまん丸にした。風邪をひかないことが、一人で外出させてもらうための条件だった。
「ご飯の準備が終わったら、ついて行ってあげるのに」
「いいの」
 すすむは玄関に向かってかけだした。おばあちゃんは、教師の目つきをして鋭く指摘した。
「車には気をつけるのよ」
 そして、くどく付け加えた。
「道路に飛び出しちゃダメよ」
「はーい」
 すすむはよい子の返事をして、青い小さなプラスチックのバケツの中で、黄色の柄の付いた赤いスコップをカチャカチャ音をさせてアパートの部屋を飛び出した。
 おばあちゃんはそんな孫を見送りながら、孫の心を考えた。
(今日一日は、平穏に過ごせるかもしれない)
 そして、息子と嫁、すすむの父母の関係にため息をついた。
 

 部屋のドアから駆けだしてアパートの階段を降りると、そこは隣のアパートに挟まれた路地である。さっきまで、すすむが窓から観察していた樹木があって、すすむは彼に敬意と親愛の情を込めて『モクモク』と名付けている。
 すすむは立ち止まってモクモクの幹をこんこん叩いて挨拶に替え、自転車にぶつからないよう駆けだした。小さなバケツの中でスコップがからからと寂しく賑やかに鳴っている。
 すすむの幼い体でようやく駆けることの出来る狭い道を通り過ぎると、前方から車のエンジン音が聞こえ、絶え間なく続く大小のエンジン音は、交通量の多さを想像させた。
 すすむは遮るよう現れたガードレールで足を止めた。片側二車線の黒いアスファルトの道路と、左右に行き交う車が、すすむの行く手を遮ったのである。すすむには激しく流れ下る大河にも見えた。
 道路の向こうに目をやると、夾竹桃が並ぶ壁がある。壁の高さは、すすむの背丈の倍はあり、ブランコやコンクリートの白い山の頂上が、夾竹桃の壁の上にはみ出して見えていた。去年、すすむがおじいちゃんちに来た時に、夾竹桃の赤い花を見たことがある。
 しかし、目の前の生け垣に花はなく、その緑は車の排気ガスやほこりや泥にまみれてくすんでいる。
 立ち止まったすすむの左15メートルばかりのところに、白く描かれた横断歩道は、アスファルトの川に架かる橋のよう。その橋を渡り終えたすぐ向こうが、公園の入口である。
すすむは入り口にめがけて横断歩道を駆けた。
「いやん」
 突然、すすむは驚いて悲鳴を上げた。北風よりもずっと質の悪いつむじ風が、この幼児の鼻先を撫でて行ったのだ。一瞬の間をおいて、車のクラクションがすすむの耳を貫いた。運転手が窓から顔を出し、すすむを振り返って何か怒鳴っているが、よく聞こえない。
 すすむは放り投げてしまったバケツとスコップ拾い上げ、今度こそ信号が青になるのを待って道路を渡った。
 以前は、住宅地の中にあって、遊び回る大勢の子供が居たに違いない。しかし、今はオフィス街や町工場に飲み込まれかけた公園である。間もなく夕方を迎える公園にいるのは、すすむ一人だけだ。
 しかし、寂しくはない。すすむは大人から切り離されて、開放感すら感じているのである。
 すすむがその周囲をまわれば僅かに数分という手ごろな大きさの公園である。四方をぐるりと夾竹桃の生け垣に囲まれている。西と東の右の隅が入口として開いているだけで、夾竹桃の枝も、細長い葉も、余り密ではなく、側に立つと向こう側が透けて見えるほどだ。
 しかし、公園の中にいて、回りをぐるりと緑のカーテンに囲まれていると、ここが回りの人や建物から隔離された土地のように感じられるのである。
 すすむの砂場は、公園の入口近くにあって、すぐ側にペンキの剥げたシーソーがあるのだが、その支柱はさび付いていて鈍い音を立ててきしむ。シーソの横には鉄棒があって、すすむは自分の背丈より少し高い鉄棒をくぐって遊ぶことがある。
  公園のまん中には、水の止まった小さな噴水。ずいぶん長く水が止まっているらしく、もともとの役割を忘れてしまったように乾ききって、風に埃が舞っている。その横にはブランコ、冷たく凍り付いたようで、すすむはこのブランコが揺れるのを見たことがなかった。
 その斜めにコンクリートの小山。中にはトンネルがあって、頂上からはぐるりと螺旋状に滑り台がついていた。すすむは人々に忘れられた滑り台を滑り降りて、積もった埃で衣服が汚れるという経験をしている。
 公園にもう一つある入り口の側には、木の切株に似せたコンクリートの円柱の腰掛けが5つ、曲線を作って並んでいるが人の姿はない。すすむはその切り株が冷え切って腰を下ろすとお尻が冷たいという経験をしていた。
 公園として、ひと通りの遊具がある。ただ、楽しく遊び回る子ども達だけがいない、すすむ一人の遊び場だ。贅沢すぎる寂しさがある公園だった。
 すすむは、いつものように砂場のまん中に居座って、砂を盛り上げて山を作り始めた。しばらく夢中になって、砂を盛り上げたり、山腹を手の平で叩いて固めたりしながら、寂しさを忘れた。忘れるために、その作業をした。
 すすむの構想通りの砂山が出来上がってみると、それは、すすむ本人もほれぼれするような代物で、彼が側に立つと、すすむの膝より少し低いくらいの高さがあり、その直径は彼の歩幅に換算して2歩分近くもある。その山腹は滑らかで、でこぼこ1つない。山頂がなだらかに丸いのは、彼が手の平で丁寧に整形したからだ。
 芸術家が自分の納得の行く仕事が出来た時の仕草で、すすむは作品からちょっと離れて、立ったりしゃがんだり、砂山の回りを回って視点を変えてみたりして作品を丹念にチェックした。
 やりがいのある重労働に、すすむは少し額に汗をかいた。彼はマフラーを外してシーソーの端っこに掛け、手の甲で汗を拭った。
 木々をすり抜けて来る風の冷たさが心地よく、この時だけは北風が彼に好意を抱いているように思われた。すすむはちょっとお腹を突き出して腰に手を当てたり、頬に手を当てて考え込んだり、一通りの満足の仕草をした。
 少し間を置いて、彼は辺りを見回した。自分の作品に同調してくれる人影を捜したのである。
 公園の中では強い風が生け垣の夾竹桃の葉を揺らし、すすむの周囲から押し寄せる葉擦れの音が不安をかき立てただけだった。
 
 すすむは小さくため息をついた。作品に向き直って、赤いスコップを握った。作品に手を加えるつもりだ。すすむは短い思案の末、手前の方からトンネルを掘り始めた。少しづつ慎重に堀りすすむめる。山を崩さないように、小さな世界の安定感を崩さないように。
 
 ふと、すすむは硬直したように手を止めた。
 
 しばらく、何かを考えるように全身の動きも時を止めた。誰かが、自分を眺めているような気がしたのである。顔を上げ、おそるおそる視線を正面の道路から右の方にずらすと、夾竹桃の緑のカーテン、続いてブランコが視界の端に入った。
 彼は視線を戻してトンネルを掘る手を動かし始めたが、不思議そうに首を少し傾げたままだ。
 が、やがて、すすむはまた手を休めた。人の気配が強まって明確に存在感を増している。すすむの動きを止めさせたのは、優しい女性の雰囲気だった。彼女の視線は、すすむのためだけに注がれている。唇は閉じてはいるが、微笑む表情に変化することのない安定感がある。彼女の腕は今にもそっと動いて、すすむを背後から包み込みそうな気配を感じさせる。
 しかし、その表情の目の奥に少し寂しさが混じるのはどういうことだろう。そんな明瞭な姿が、暖かな雰囲気に包まれて、すすむの背中の方から伝わってくるのである。すすむは見えない後方に、若い女の人の存在を確信した。しかし、その確信がどこか儚い、変わらない優しさと不安感が入り混じって、今にも消えいりそうなのである。
 すすむはその人が消えてしまう前に、一目、姿を見るために慌てて左の方に振り返った。あんまり慌てたので、振り向きざま、彼は小さく尻もちをついてしまった。その様子がおかしかったのかもしれない。
 
(うふふっ)
 
 女性の柔らかな笑みが伝わってきた。微妙な表情を判別するには距離がありすぎるはずだ。しかし、すすむには好意がこもった感情が伝わってくるのである。
 すすむに伝わる表情が、肉眼で判別したものではなく、女性が発する雰囲気によるものだ。すすむもつられてはにかむように笑った。女の人とは距離が20メートルくらいある。なのに、女性のすすむに対する好感は、直にすすむに伝わって、すすむはその女性が自分のすぐ側で微笑んだ様に感じられるのである。
 
 すすむは砂場にお尻を着けたままの格好で、不思議な女性を見た。シーソーの向こう、木の切株の腰掛けのところ。年齢は、すすむよりずっと年上だが、すすむのお母さんに比べれば若くて少女と呼んでもいい年頃である。首にはふかふかの顎まで覆う赤いマフラー、長い髪が方の後ろに伸びている。それから、象牙色の柔らかなセーターと青いジーンズ、そろえた足の先には白のスニーカー。腕は胸の所でX字に組んで大きな本を抱え込んでいる。隣の切株にはクリーム色の籐のバスケットが置いてある。この少女のものに違いなかった。
この雰囲気は、先ほど背中に感じたイメージとそっりだ。
 すすむは立ち上がってお尻の砂を払った。
(しばらくの間)
 すすむはそう感じたのだが、すすむはそのまま少女と見つめ会っていた。
 半分は好奇心、残りの半分は少女の視線に誘われて、すすむは歩き始めた。途中、木立の所に立ち寄ったり、コンクリートの小山の上に登ったり、そこから滑り台を降りたり、屑入れの所にまで寄り道して、相手に興味の無い振りをしながら、視線を慎重に少女に向けたまま放さない。
 すすむはそうやって、ゆっくり、ゆっくり距離を詰めて行った。少女は、すすむを待つように姿勢を崩さず腰掛けたままだ。すすむはようやく少女の元にたどり着いて、相手の正体を探るように首をかしげながら、少女を見上げた。すすむの意図を察する気配がして言葉が投げかけられた。
(ボクのお名前は? )
 胸に抱えた本に顎を乗せるようにして、すすむをのぞき込んで、彼女はそう言った。全く時間の概念の無い言葉で、言葉の最初から最後までが、一瞬のうちにすすむの頭の中に響いたのだ。
「ボク、すすむ」
 すすむは名乗り、急いで付け加えた。
「あれっ、お姉ちゃんは喋らないの? 」
 すすむは自分の名前を口にしてみて、少女の言葉との違いに気づいたのである。すすむに語りかける少女は唇を動かさなかった。
(うふふ)
 少女は心の中で笑った。その声が温かな感情を伴って、すすむの心の中に響いて来る。
(心の中でお話する方が、ずっと仲良しになれるでしょう)
「うん」
 すすむは当り前の事のようにうなづいた。実際、すすむにとって全く不都合は無かったし、むしろ、この新しい遊びは彼の気に入った。
 少女はバスケットを左の切株の腰掛けから右の方に移した。すすむに空いた腰掛けに座りなさいと導いたのがわかった。すすむには少女がそう話しかけたような感情が伝わってきたのである。すすむは少女の横に腰を掛けて彼女を見上げた。地面に付かない足をぶらぶらさせて考えた。
(この人は誰?。何か、普通と違う不思議な人)
 すすむにとって、普通の大人と違うと言うことは信頼してよいということだ。
 彼女は微笑んだままだ。すすむはちょっと体を乗り出して、少女の体越しにバスケットを見た。白い普通の籐製のバスケットに見えるが、何か秘密が隠されているのかもしれない。そう考えると、何か神秘的な光を放っているようだ。
 すすむは少女が大事そうに抱え込んでいる本に目を移した。薄っぺらいが、その大きさはすすむの絵本の倍の大きさがある。何か不可思議な呪文でも書かれているのかもしれない。
 少女が本を抱える右の指先が動いたかと思うと、細長い棒が現れた。
(鉛筆だ)と、すすむは思った。
 今まで本の影に隠れていたものか、それとも一種の魔法で指先に出現したものかよく分からない。
(きっと、魔法なんだ)と、すすむは見当をつけた。
 少女は、すすむの疑問に答えるように、すすむの目の前でゆっくりと本を開いた。中は白い画用紙だ。紙の白さには光沢が無くて柔らかな感じがする。その白い画面のまん中に、すすむの姿があるのだが、砂遊びをする姿は、まだ輪郭線のみで白い。
 少女は、すすむのズボンを鉛筆で濃く薄く黒く塗り分け、髪の一部を強く塗ったかと思うと、指先でその黒さを押し広げて、ふんわりした幼児の髪の柔らかさを表現した。そうすると存在感が加わって、すすむが画用紙の中で生きているかのようにみえる。少女の指先は無機質な線に生命感を込めているような神秘性を感じさせた。
 すすむの足元にはちゃんと砂山も描いてある。すすむは自分の作品が評価されたような気がして、嬉しくなって言った。
「この山には、トンネルもついてるの」
 すすむは画用紙の山を指でつついた。すすむの指が画用紙を撫でる音がする。少女は鉛筆の先を滑らせて、素早くトンネルを描き加えた。
(さあ、このトンネルは、何処に通じているの? )
 少女の声が、すすむの頭に響いた。なにやら異質で興味深い。すすむは半分羨ましさを込めて、少女の顔を見上げた。少女の口元は少し開いてはいるが、全く動く気配はなく、ただ、微笑みを浮かべているだけだが、すすむむの耳元で語りかけるように意図が伝わってくる。
(ねえ? このトンネルは何が通るのかしら? )
 少女は、すすむの心に重ねて問うたが、やはり唇が動く気配はなかった。
「パンダさん」
 すすむは思い付いたように言った。それから少し考えて付け足した。
「パンダさんが・・・・・・、バスを運転してるの」
 少女はバスを描いた。少し、すすむを見つめて、トンネルを通って家に帰るバスを描いた。そして、運転手の帽子をかぶったパンダをその横に加えた。すすむは興奮気味に話を続けた。
「でもね、キリンは首が長すぎてバスには乗れないの。だからペンギンさんの運転する電車の中に寝てるの」
 少女の鉛筆が描き出す線がトンネルの入り口から伸びて画用紙の下の端に届いた。少女はもう一本、同じ様に描き足した。これは電車の線路だ。すすむが考えた通り、2本の曲線には枕木が加わって、ちゃんとした線路になった。
 
 少女の雰囲気が強まった。優しく暖かく、すすむを包み込む雰囲気。その雰囲気が、すすむの中の不安を満足感や期待に変えた。
 すすむはスケッチブックから少女に視線を移して見上げた。少女は相変わらず微笑んでいたが、僅かに開いた口元がゆっくりと閉じ、すすむを映す目に、不思議な真剣な光が加わったかと思うと、すすむはそのまま春香の目の光の中にとけ込むように吸い込まれて行った。
 

 ぽぉーーーーーーー。
 
 間延びした列車の汽笛が、すすむの耳に響いている。
 耳を手で覆いたくなるほど賑やかな汽笛が薄れて消えると、客車は先頭車両からの震動が伝わってがくんと揺れて、すすむに期待感を抱かせる。
(列車が、動き出してどこかに連れて行ってくれる)
 列車の震動は、まるでボールが弾むような揺れかたで、時々、すすむの体が宙に浮く。すすむと少女は客車の中で向かい合って座っている。
 たぶん、運転席にはペンギンがいる。見たわけではないが、すすむはそう確信していた。 彼の目の前に窮屈そうにしかめっ面をしたキリンの頭がある。キリンの頭だけ。首が車両の中をのびて、体は客車の後ろにに在るらしい。
「ああ、頬が痒い」
 キリンはせつなそうに、そう言った。窮屈な列車の中で前足を延ばして、頬を掻くことが出来ないのである。すすむは面白くなって尋ねた。
「ここ? 」
 すすむはキリンの頬を指先で撫でるように掻いてやると、キリンはしばらく黙って気持ち良さそうにすすむに身を任せていた。暖かい頬だが、柔らかな布地の内側にヌイグルミの詰め物の感触がする。やがて落ち着いたのか、キリンはのんびりした声で礼を言った。
「ありがとう」
 赤い舌を出して唇を嘗めて、満足そうに鼻を鳴らした。純朴で平和なキリンだ。
 しかし、すぐに慌てた顔になり顔をしかめた。
「ちょっとすみません」
 若いキリンは、大きなくしゃみをした。少女の髪が勢いよくなびくほどのくしゃみである。線路の上で列車は勢いよく弾んだ。ペンギンがやってきた。これは運転手ではなくて車掌の方だ。職務に忠実な彼は異変の原因を見に来たが、キリンを見ると納得したかのように黙って引き上げて行った。
 すすむはキリンのくしゃみに驚いて、しばらくキリンの頭を見つめていた。少女は乱れた髪を元のように束ねている。
「すみません」
 キリンは詫びた。その言葉ののんびりとした感触と裏腹に、キリンがひどくすまなそうな表情をしているのがおかしくて、すすむと少女は顔を見合わせて笑った。少女はキリンに名乗った。
「私は、春香」
(はるかさんっていうんだ)
 すすむは不思議な少女の名を知って、少し距離が縮まった。
春香の挨拶にキリンが答えた。
「失礼しました。ボクはテムといいます」
「ボクは、すすむ」
「何処から、おいでなの」
 春香は、キリンの頭に聞いた。
「プーの村から」
 キリンのテムは答え、続けて話を始めた。元来、おしゃべり好きのキリンらしい。
「私、天気をみるのが仕事なんです。ご覧の通り、首が長いので雲の様子を見るのに都合がいいんです」
 テムは自慢気である。彼は自慢げに目を細めて話を続けた。
「まあ、私の仲間には海辺の岬で燈台をやってる奴もいるんですが、あれは目が回ります。ランプをくわえて一晩中クルクル回すんです」
 すすむと春香の表情をうかがいながら彼の話は続く。天気予報の仕事が軽く見られたのかと思ったらしい。
「いやいや、天気予報だって大変なんですよ。何しろ雨が降ったら他の人より早く濡れるし、この間なんか雷にやられましたしね。ね? ほら、私の右の角の先が焦げているでしょう? しばらく、体がびりびりしていたんです」
 すすむの見たところ、角の先が少し茶色くなっているのがそれだろう。
「一生懸命仕事して、今度、休暇をもらったんです。今から故郷の村に帰るんです」
 テムはうれしそうである。テムは列車の窓の外に目を移した。そこに住んでいる小鳥の姿までちゃんと見える林、ディフオルメされた木々で縁取られた丸いなだらかな山、力持ちのカバや純朴そうなライオンや働き者のペリカンが住んでいる村の景色が次々と過ぎて行く。こうしている間にもテムのは故郷に近づいているのである。テムの心は踊っているのだ。この若いキリンには故郷で待っている恋人でもいるに違いない。恋人は結婚式の準備にウェディングドレスを縫っているところだ。テムの穏やかな笑顔は、すすむそう言う想像力を湧き立たせる。
「ところで、あなたはどちらまで? 」
 テムはのんびりした口調ですすむに尋ねた。
「家に、帰るの」
 すすむが家という言葉にお父さんとお母さんの存在が込められている。
 すすむは素直に答えたが、すぐに、ずっと以前の家を思いだした。お父さんやお母さんの笑顔のあった頃の家だ。
 すすむはお父さんの背中の暖かさを思いだした。
 すすむはお母さんの両腕の柔らかさも思いだした。
(あっ)
 春香が、しまったと自分の失敗を悔いる叫びを抑えるように、口元に手を当てた。
「あのね、家に帰るの」
 すすむは繰り返した。
「すぐにボクんちに帰るの」
 すすむの目に涙が浮かんだ。
「お父さんとお母さんのとこへ帰るの」
 すすむは叫ぶように繰り返した。
 
   パン!!
 
 手を打ち鳴らす音がして、すすむは目を開けた。春香がスケッチブックを勢いよく閉じた音だった。春香は二人の旅を終わらせたのである。
 すすむの目の前の景色は、元の公園だ。すすむは木の切株に座っている。すすむと春香を包むのは冬の景色。冷たいコンクリートの山、水の出ていない噴水、風に揺れるブランコ。
 

 春香は、すすむを引き寄せるように、すすむの肩に腕を回して感情を伝えた。
(ごめんなさい)
 すすむは目元ににじんだ涙を手の指先で拭って、春香を見上げた。すすむの目を見ながら春香は繰り返した。
(本当に、ごめんなさい。悪いことを思い出させたわね)
 
 北風の舞う空が赤い。
 二人はしばらく黙ったまま夕日に染まっていたが、やがて、春香は鉛筆を筆箱に戻した。それから、蓋付きのバスケットを膝にのせて、ゆっくりとその蓋を開けた。不思議な少女はこの中に魔法の道具、知らない世界に旅立つ為の夢の道具を持っているかも知れない。
 すすむは中をのぞき込んだが、期待は外れで首を傾げた。バスケットの中には小銭入れとハンカチの他、残念なことに、魔法の道具らしいものは見えなかった。春香は筆箱をバスケットにしまい込んだ。
 すすむは察した。春香は帰り支度をしているのだ。すすむは不安そうに、彼女を見上げて必死に彼女との関係を繋ごうとした。
 この人を失ってしまうのは寂しすぎる。
 この人が独りぼっちなのも寂しすぎる。
 
「ねぇ、キリンのテムさんはどうしたの? 」
(うーん。いろいろな用事や事件が起きてなかなか故郷に帰れないの。それでも、テムの恋人はテムが帰ってくる日をじっと待ってるの。いつまでもね)
 すすむは首を傾げた。お母さんに語り聞かせてもらう物語はハッピーエンドのものばかりだった。
 その経験から言えば、テムは無事に故郷に帰り着いて短い休暇の間に恋人と結婚式を挙げ、明るい暮らしが待っているという結末が見えていたはずだ。
 いつ帰るか分からない人生の伴侶を待ち続ける恋人の存在が、すすむの心に違和感を漂わせた。すすむが見上げた春香の顔と、孤独が癒せる日を待ち続けるテムの恋人の姿が重なった。
 
(この人は、他の大人とは絶対に違う)
 そういう確信がある。すすむは本能的に、春香に自分と同じ孤独の香りを嗅ぎ取ったのである。春香は、敏感にすすむの気持ちを察して笑った。
(そんな寂しい顔をしないで。明日の夕方にまた、ここで。さあ、早くお帰りなさい)
 心に直接響く言葉の中に、嘘や疑念を感じさせるものが全く無い。すすむは安心した。確かに地面まで赤く染まって地面に影が長く延びている。おばあちゃんと約束した帰宅の時間である。よい子でいるためには、おばあちゃんとの約束は守らなければならないだろう。それに、早く帰ってこの新しい友達の事を報告しなくちゃと考えたのである。
 
 すすむは木の切株の腰掛けから降りて、春香の正面でお辞儀をして言った。
「さようなら」
 信頼感を感じさせるすすむの声が春香の耳に届き、何か期待感のこもった感情と共に、春香の言葉が、すすむの心に届いた。
(さようなら)
 すすむは忙しい仕草で砂場まで走って、バケツとスコップの砂を払って、スコップはバケツの中にいれて左の手に下げた。それからもう一度、切株を振り返ると、まだ、春香はじっとそこにいた。春香もバスケットを片手に立っていて、片手をあげてすすむを見送っている。すすむも手を振って応えると、また夕日に目をやって慌てて公園の入口へ走りだした。
 早く帰って、おばあちゃんに新しい友達が出来たことを報告しなければならない。すすむは笑顔で駆け出した。
(忘れものよ)
 すすむの頭の中に春香の声が響いた。すすむが振り返ると、春香はシーソーの所に立っていて、すすむのマフラーを拾い上げている。すすむはさっき自分が脱ぎ捨てたのを思いだした。春香はすすむの側までやってきて、すすむの傍らにしゃがみ込むと、やさしい手つきで、彼の首をマフラーで覆いながらすすむの頭の中に語りかけた。
(いい? 私と会ったことは、誰にも話してはだめ。二人だけの秘密)
 それから、バスケットをすこし睨んだかと思うと、その蓋を開けて中から大きなクッキーを3枚、すすむのために取り出した。春香はクッキーをティッシュに包んですすむに与えた。春香との約束を守る報酬なのである。その自然な動作をすすむは見逃さなかった。
(さっきまで、こんなお菓子なんて入ってなかったはずだ)
そう思ったのである。おねえちゃんはすすむの顔をのぞき込んで微笑んだだけだ。
 そして、少し考えてから付け加えた。
(それから、私と会いたいときには、一人で来てね)
 すすむは少し不思議に思ったが、クッキーをポケットに大切にしまい込みながら素直にうなづいた。友達を失うことを恐れたのである。しかし、残念でもある。すすむは振り返りながら、少しづつ公園を離れた。新しい友達を見失わないように。
 
 春香もまた、初めて出会った幼児を好意的に見送った。すすむが公園の入り口を出て横断歩道を渡る辺りまで、ゆっくりと手を振っていた。幼児が視界から姿を消すと、バスケットまで戻って冷たく冷えた切り株の椅子に腰を下ろして物思いにふけった。
 あの幼児から入り乱れて伝わってきた記憶や感情を整理したのである。すすむの体験や感情がわずかな間に彼女に流れ込んで来ていた。彼女が普通の人間と異なる能力の1つである。彼女はこの能力を呪いつつもその呪縛から逃れることが出来ずにいる。
 目をつむってみると、春香の脳裏ではあの幼児の日常が自分で体験したかのように再現される。
 


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