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序章

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 浅茅原竹毘古。私の本名である。人によっては、おかしな名前だね、と云う者もいる。なるほどと思う。私はこの名前を時折、我知らずつぶやいている。何故か、自分の名前なのに、まるでそうでない様に思うことがあるからだ。もちろん父の姓は確かに浅茅原で、竹毘古と名付けたのも当の父だ。卒業、入学、就職の際、戸籍を見ればそこには自分の名が間違いなく書いてある。だが一度変に思うと。いくらたしかめてみたところで――何か心の底にしこりが残った。そうして又、幾度となくつぶやいてみる。あさじはらたけひこ。たとえば後ろから呼びとめられた時。その名を聞くと、私は驚ろいてあたりを見回す。そいつは一体どんな奴なんだ、……。すぐに相手が近寄ってくる。私は自分の名を忘れた私に、今度はひどくとまどってしまう。私はその事を相手にさとられまいと、脇の下や掌がぬれていることもたびたびあった。
 いつだったか、ある女が私の名を見て、まるで夕暮の竹薮から滲み出した様、……。そう云った事がある。その言葉のどれをとっても、夢か幻――実在していないものをさしている様で、私はあわてて自分の両足をしかと大地に確かめたものである。そう云えば、私の生家は深い竹薮の奥にあって、まだ物心つかぬ頃、そこでころげまわった記憶がある。近くの山の頂きに、小さな光が灯るまでは、一日中竹林の中で遊んでいた。タ暮の薮を背にして玄関に立った姿を見て、母は多分――滲み出した様な子――そう思ったに違いない。
 しかし、当時の私は浅茅原竹毘古と云う、自分の名前に今ほどの疑念を持ってはいなかった。竹毘古、その名に充分実在感を抱いていたはずである。
 私は私を疑ってはいなかった。

 何改私は今、浅茅原竹毘古と名乗っているのだろう、……。