| 作者 | 浅茅原 竹毘古 | 状態 | 完成 | ||
|---|---|---|---|---|---|
| カテゴリー | 小説・ノンフィクション (文芸) | 価格 | 300円(税込) | ページ数 | 12ページ (Web閲覧) 123ページ (PDF) |
| タグ |
|
||||
| 評判 |
|
ブクログ | みんなのレビューをみる | ||
| ダウンロード |
PDF(845.9KB) ePub(249.4KB) 0 ダウンロード |
||||
| 外部連携 | |||||
| ブログパーツ | この本をブログで紹介する | ギフト | |||
やまとしうるはし、と読むタイトルの由来はいろいろありますが、基本的には倭建命=日本武尊=やまとたけるのみこと、の歌の一部です。倉敷の大原美術館で、棟方志功さんの「大和し美し」柵という大型の版画作品を観たこともあります。棟方志功さんがどんなお気持ちで造られたのかは分かりませんが、そういうタイトルを付けるという点では、似通った心性なのかもしれません。
この作品は、いわゆる普通の文芸小説です。事件も殺人もトリックもまったく御座いません。世間でいう、ミステリとか推理小説ではなく、また古代史、時代小説でもありません。もちろん私小説でもないし、お笑いでもないし、バイオレンスでもなく、エンターテイメントとは対極に位置します。要するにわかりにくい小説です。
この作品は、いわゆる普通の文芸小説です。事件も殺人もトリックもまったく御座いません。世間でいう、ミステリとか推理小説ではなく、また古代史、時代小説でもありません。もちろん私小説でもないし、お笑いでもないし、バイオレンスでもなく、エンターテイメントとは対極に位置します。要するにわかりにくい小説です。
この本には試し読みページが 1 ページあります。
試し読みできます
☆
浅茅原竹毘古。私の本名である。人によっては、おかしな名前だね、と云う者もいる。なるほどと思う。私はこの名前を時折、我知らずつぶやいている。何故か、自分の名前なのに、まるでそうでない様に思うことがあるからだ。もちろん父の姓は確かに浅茅原で、竹毘古と名付けたのも当の父だ。卒業、入学、就職の際、戸籍を見ればそこには自分の名が間違いなく書いてある。だが一度変に思うと。いくらたしかめてみたところで――何か心の底にしこりが残った。そうして又、幾度となくつぶやいてみる。あさじはらたけひこ。たとえば後ろから呼びとめられた時。その名を聞くと、私は驚ろいてあたりを見回す。そいつは一体どんな奴なんだ、……。すぐに相手が近寄ってくる。私は自分の名を忘れた私に、今度はひどくとまどってしまう。私はその事を相手にさとられまいと、脇の下や掌がぬれていることもたびたびあった。
いつだったか、ある女が私の名を見て、まるで夕暮の竹薮から滲み出した様、……。そう云った事がある。その言葉のどれをとっても、夢か幻――実在していないものをさしている様で、私はあわてて自分の両足をしかと大地に確かめたものである。そう云えば、私の生家は深い竹薮の奥にあって、まだ物心つかぬ頃、そこでころげまわった記憶がある。近くの山の頂きに、小さな光が灯るまでは、一日中竹林の中で遊んでいた。タ暮の薮を背にして玄関に立った姿を見て、母は多分――滲み出した様な子――そう思ったに違いない。
しかし、当時の私は浅茅原竹毘古と云う、自分の名前に今ほどの疑念を持ってはいなかった。竹毘古、その名に充分実在感を抱いていたはずである。
私は私を疑ってはいなかった。
何改私は今、浅茅原竹毘古と名乗っているのだろう、……。
いつだったか、ある女が私の名を見て、まるで夕暮の竹薮から滲み出した様、……。そう云った事がある。その言葉のどれをとっても、夢か幻――実在していないものをさしている様で、私はあわてて自分の両足をしかと大地に確かめたものである。そう云えば、私の生家は深い竹薮の奥にあって、まだ物心つかぬ頃、そこでころげまわった記憶がある。近くの山の頂きに、小さな光が灯るまでは、一日中竹林の中で遊んでいた。タ暮の薮を背にして玄関に立った姿を見て、母は多分――滲み出した様な子――そう思ったに違いない。
しかし、当時の私は浅茅原竹毘古と云う、自分の名前に今ほどの疑念を持ってはいなかった。竹毘古、その名に充分実在感を抱いていたはずである。
私は私を疑ってはいなかった。
何改私は今、浅茅原竹毘古と名乗っているのだろう、……。




