目次
前書きと註記
前書きと註記
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第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業
第1節 戦国乱世
第2節 《分詞構文》という了解
第3節 カンマの有無を契機とする「制限的修飾」と「非制限的修飾」
第4節 「特定」の諸相
第4節 「特定」の諸相(承前)
第5節 「脈絡内照応性」と「カンマ」の関係
第5節 「脈絡内照応性」と「カンマ」の関係(承前)
第6節 「脈絡内照応性」と世界の揺らぎ
第二章 個々の読解の在り方を吟味する
第1節 【読解 その1】について
第2節 【読解 その2】について
第3節 【読解 その3】について
第4節 【読解 その4】について
第5節 【読解 その5】について
第6節 【読解 その6】について
第三章 《分詞構文》という副詞要素、これで不都合はなかった
第1節. 格別の不都合は生じなかった…文末の-ed分詞句の場合(1)
第2節. 講師経験豊かであればこそ…文末の-ed分詞句の場合(2)
第3節. やはり不都合は全く生じなかった…文中の-ed分詞句の場合
第4節. 不都合は生じようもなかった…文頭の-ed分詞句の場合
第四章 そして不都合が生じた
第1節. 発端(その1)…ネット以前なら不可能だった
第2節 発端(その2)…特例が続出した
第3節 欠落した範疇との対峙
第五章 分詞句の解放に向かって
第1節 「欠落した範疇」という出口
第2節 「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」
第3節 もう一つの「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」
第六章 開かれた世界へ
第1節 異邦人の孤立
第2節 「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」になぜこだわってきたのか
第3節 ある教科書が自ら身を置いた窮境
第4節 「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について  その一
第4節 「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について  その二
第4節 「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について  その三
第4節 「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について  その四
第4節 「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について  その五
第4節 「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について  その六
第5節 解読という誘惑
第七章 開かれた世界から
第1節 《分詞構文》と主辞補辞……分詞句の場合
第2節 《分詞構文》と主辞補辞……形容詞句・名詞句の場合
第3節 文頭・文中に位置する「カンマを伴う形容詞句・名詞句」
第3節 文頭・文中に位置する「カンマを伴う形容詞句・名詞句」 (承前)
第4節 "Using ......"や"Referring to ......"
第5節 「文章体」なのか、「文語体」なのか
第6節 何が曖昧なのか その一 「簡潔さ」と「曖昧さ」
第6節 何が曖昧なのか その二 「解消されるべき先験的曖昧さ」と「解読」
第6節 何が曖昧なのか その三  文形式①中の-ed分詞句の特性
第6節 何が曖昧なのか その四  文形式②中の分詞句の「時制」と「法[mood]」
第6節 何が曖昧なのか その五  「暗黙の主辞」の曖昧さ
第6節 何が曖昧なのか その六 文形式③中の分詞句の「法[mood]」
第6節 何が曖昧なのか その七 「相[aspect]」の曖昧さ
第6節 何が曖昧なのか その七(承前)
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引用文献
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前書きと註記

前書きと註記

 こんなことを言われた。

「一言で言うとどんなことが書いてあるのか、その本には」

 無理からぬ問いだった。


  少し乱暴な言い方をするとこうなる。

 日本の学校英文法の世界で多年にわたり流布している《分詞構文》という了解は砂上の楼閣にして迷妄である。本稿はこの迷妄を晴らし、「カンマを伴う分詞句」の新たな理解を築き上げる試みである。


 もう少し丁寧に、二言で言ってみる。


 一つには、
  《分詞構文》はまず副詞要素であり、時には名詞修飾要素である、という通説(「カンマを伴う分詞句」に関わる問題の所在 参照)に代わるものとして、「カンマを伴う分詞句」はまず名詞修飾要素であり、時には副詞要素である、という考え方を提示した。


 一つには、
  ある発話が受け手にある程度了解されるには、発話自体と受け手の双方に一定の条件が整っていることが要件である、ということを述べた。


 本稿という発話にはそうした条件がどの程度整っているのかは発話それ自体に語らせるほかない。受け手についていえば、『ポール・ロワイヤル論理学』を読 んでこれが極めて優れた著述であると感じられる人には、『ポール・ロワイヤル論理学』及び『ポール・ロワイヤル文法』を読むチョムスキーは秀抜な読み手で あると感じられる人には、本稿という発話を必要にして十分な程度了解していただけるであろうし、『言葉と物』(ミシェル・フーコー)を読んで面白いと感じ られる人には、本書をある程度面白いと思っていただけるであろう。


   ただ、正直な思いは、読み通す(新たな思考回路を経巡る)のは大変であろうなぁ、というものだ。従って、 「この前人未到の荒地にこれいじょう奥深く踏みこまぬうちに踵をかえせ、先へ進むな」などと言挙げするまでもないのだ。


 本書の読み方について著者から一言。

 本稿の記述の妥当性を精査検討してやろうという読者以外は、注の記述は目を通すにしても深入りを避けるのは一つの読み方である。本文を上回る文字数から成る注は、殆ど著者である私自身のためのものと言っていい。暗い夜道を照らし出すため自分の足もとにその都度灯した明かりである。


 また、《分詞構文》という通説に代わるものとして本稿が提示した考え方の骨子をまず把握したいと考える読者は、第一章第4~6節はとりあえず飛ばすのも読み方の一つである。


 独力で一から考えることなどできるわけもない。取り分け次の方々(の記述)には大変お世話になった。

Grammaire générale et raisonné(通称Grammaire de Port-Royal 『ポール・ロワイヤル文法』)の著者であるA・アルノー/C・ランスロの両氏、La logique ou l'art de penser(通称La Logique de Port-Royal 『ポール・ロワイヤル論理学』)の著者であるA・アルノー/P.ニコルの両氏、A COMPREHENSIVE GRAMMAR OF ENGLISH LANGUAGE の著者であるRandolph Quirk, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, Jan Svatrvikの各氏、Parts of Speech 及び Syntax の著者であるGeorge O. Curme氏、『改訂版 英文法総覧』の著者である安井稔氏。




 生の英語資料を電子的に無料で収集できたからこそ本書は成立した。The New York Times ON THE WEB (http://www.nytimes.com/)(二千十一年三月末から実質的に有料になってしまった)を始めとする数々のサイトの恩恵を十二分にこうむった。感謝している。

 

  本稿を執筆する傍ら、収集・分類を続けた「カンマを伴う分詞句」を含む文例については、現代英語力標準用例集(二千十一年四月現在、大規模改築中)の「必須事項」の頁の「」参照。

 

 本文中のカギ括弧入りの数字(例えば[1-1])はウエッブ上にある注。インターネット接続状態でのみ閲読可能。 


   引用文献の略記(PEU, PEG, CGEL)については、引用文献の頁参照。


  

 最後に本書の分量について一言。本書の頁数は「52ページ」と紹介されているが、400字詰め原稿用紙に換算した場合、ダウンロードされる本文は七百枚弱、ウエッブ上にある註は約九百六十枚、合わせて千六百枚強である。かなりの分量であることをお知らせしておく。



(前書きと註記 了)

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目次


『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)


――《分詞構文》という迷妄を晴らす試み――

目 次


 第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

   1.戦国乱世
   2.《分詞構文》という了解
   3.カンマの有無を契機とする「制限的修飾」と「 非制限的修飾」
   4.「特定」の諸相
   5.「脈絡内照応性」と「カンマ」の関係
   6.「脈絡内照応性」と世界の揺らぎ 


 第二章 個々の読解の在り方を吟味する

   1.【読解  その1】について
   2.【読解  その2】について
   3.【読解  その3】について
   4.【読解  その4】について
   5.【読解  その5】について
   6.【読解  その6】について


 第三章 《分詞構文》という副詞要素、これで不都合はなかった

   1.格別の不都合は生じなかった…文末の-ed分詞句の場合(1)
   2.講師経験豊かであればこそ…文末の-ed分詞句の場合(2)
   3.やはり不都合は全く生じなかった…文中の-ed分詞句の場合
   4.不都合は生じようもなかった…文頭の-ed分詞句の場合


 第四章 そして不都合が生じた

   1.発端(その1)…ネット以前なら不可能だった
   2.発端(その2)…特例が続出した
   3.欠落した範疇との対峙


 第五章 分詞句の解放に向かって

   1.「欠落した範疇」という出口
   2.「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」
   3.もう一つの「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」


 第六章 開かれた世界へ

   1.異邦人の孤立
   2.「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」になぜこだわってきたのか
   3.ある教科書が自ら身を置いた窮境
   4.「カンマを伴う分詞句」の「暗黙の主辞」の在り方について
      その一 文形式④中の分詞句とほぼ等価であると見なせる分詞句 の場合
      その二 文形式④(S+V…名詞句[=分詞の暗黙の主辞] + ,分詞句.)の場合
      その三 文形式①(S[=分詞の暗黙の主辞]+,分詞句, +V….)の場合
      その四 文形式②(S[=分詞の暗黙の主辞]+V…,+ 分詞句.)の場合
      その五 文形式③(分詞句,+S[=分詞の暗黙の主辞]+ V….)の場合
      その六 まとめ
   5.解読という誘惑


 第七章 開かれた世界から

   1.《分詞構文》と主辞補辞……分詞句の場合
   2.《分詞構文》と主辞補辞……形容詞句・名詞句の場合
   3.文頭・文中に位置する「カンマを伴う形容詞句・名詞句」
   4."Using ......"や"Referring to ......"
   5.「文章体」なのか、「文語体」なのか
   6.何が曖昧なのか
      その一 「簡潔さ」と「曖昧さ」
      その二 「解消されるべき先験的曖昧さ」と「解読」
      その三 文形式①中の-ed分詞句の特性
      その四 文形式②中の分詞句の「時制」と「法[mood]」
      その五 「暗黙の主辞」の曖昧さ
      その六 文形式③中の分詞句の「法[mood]」
      その七 「相[aspect]」の曖昧さ


   注 

    「第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業」の注

          [注1-1]~[注1-58]

     「第二章 個々の読解の在り方を吟味する」の注

          [注2-1]~[注2-23]

     「第三章 《分詞構文》という副詞要素、これで不都合はなかった」の注

          [注3-1]~[注3-7]

     「第四章 そして不都合が生じた」の注

          [注4-1]~[注4-6]

     「第五章 分詞句の解放に向かって」の注

          [注5-1]~[注5-14]

     「第六章 開かれた世界へ」の注

          [注6-1]~[注6-48]

     「第七章 開かれた世界から」の注

          [注7-1]~[注7-95]


 引用文献一覧


 日本語索引

 

 English index


 


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第1節 戦国乱世

第1節 戦国乱世

 カンマを伴う分詞句[1-1]の読解[1-2]をめぐっては、日本の学校英語の世界は戦国乱世であるといっていい。教師一人一人が一国一城の主である。これはつまり英語学習者一人一人が、ということでもある。

 文例(1―1)は高校用教科書の一冊からの引用である。


 (1―1)
 A big Martin Marina rescue plane, containing a crew of 13 men, quickly took off. ("New Encounter English Ⅰ", p.18)
 〈
マーティン・マリーナ号という大型救援機は、乗員十三名を乗せて[とともに]、すぐに飛び立った。〉(私訳)(斜体・太字と下線は引用者)


 この英文に見られる分詞句の読解は教師によりてんでんばらばら、さながら百花斉放である。ただ、読み解かれ方は多種多様でありながら、「訳出」〔日本語 への言い換え〕は「私訳」に近い形でほぼ統一されることになる。この英文の場合には、分詞句の読解と訳出との間に際立つ相関性は見て取れないだろう[1-3]


  この分詞句の読解の様々な在り方を以下に列挙してみる。 


【読解その1】

 付帯状況[1-4]を表す《分詞構文》(副詞的句[1-5])である。非制限的関係詞節(形容詞節)で書き換えても意味内容[1-6] の違いは感じられない。ただ、《分詞構文》(副詞要素)を副詞節で書き換えることはあっても、関係詞節(形容詞要素)で書き換えることはしない。


【読解その2】

 《分詞構文》である。非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられず、関係詞節で書き換えられる。


【読解その3】

 《分詞構文》もしくは「直前の名詞句を説明する形容詞要素」である。どちらかといえば形容詞要素であると考える。


【読解その4】

 《分詞構文》である。非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられない。ただし、書き換えた場合の非制限的関係詞節は副詞節に近いと考える。


【読解その5】

 非制限的名詞修飾要素(即ち名詞句を非制限的に修飾する要素)である。非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられず、関係詞節で書き換えられる。


【読解その6】

 直前の名詞句を説明する形容詞要素である。非制限的関係詞節で書き換えても意味内容の違いは感じられず、関係詞節で書き換えられる。ただし《分詞構文》(副詞要素)なのか形容詞要素なのかという議論は重要とは考えない。


 以上、大概の読解の在り方を集約してみた。とは言え、現段階では想いも及ばぬような読解の在り方が他にもありそうな気もする。


 これらの読解の在り方一つ一つの吟味は第二章で行う。その前にまず、第2節では《分詞構文》についてその一般的考え方を、第3節では「制限的修飾と非制限的修飾」についてその一般的区別を確認しておく。


(第一章 第1節 了)


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第2節 《分詞構文》という了解

第2節 《分詞構文》という了解

     日本の学校英文法の世界で、《分詞構文》がその形態、その文法的機能[1-7]、その「日本語への言い換え[1-8]」などの点でどのように考えられているかを、次いで、《分詞構文》という了解を共有する読み手が時に示すことのある姿勢を簡単に紹介する。


   《分詞構文》の考え方については次のように概括できよう。


   「分詞句の暗黙の主辞[1-9]が導く節」を副詞的に修飾する分詞句を《分詞構文》とする。《分詞構文》と「分詞句の暗黙の主辞が導く節[1-10]」との間に成立しているとされる関係については、そこに多様な在り方(論理的関係)を解読可能であり、その在り方は「時系列関係」「因果関係」「状況的関係」など多岐に渡る。《分詞構文》は文頭・文中・文末[1-11]のいずれにも位置する。
   分詞句が名詞修飾的な機能を発揮する場合と異なり、副詞要素(《分詞構文》)としての機能を発揮するには、文字で表記された場合、カンマを伴うことが条件とされている。
   文章体の表現であり、慣用表現的分詞句は別として、日常会話で用いられることは少ない。[1-12]

  

   「《分詞構文》という了解」に窺える特徴は、「カンマを伴う分詞句」が実現している諸関係[1-13]の内、あらかじめ対母節関係(A)に排他的地位を与え、その関係(A)を、「カンマを伴う分詞句」と母節の意味内容の間に成立している関係(B)に還元した上でその関係(B)の在り方を解読し、その結果突き止められた「関係(B)の種々の在り方[1-14]」を、今度は、対母節関係(A)にあらかじめ排他的地位を与えたことの根拠にしている[1-15]ように見えるという点である。


   「カンマを伴う分詞句」が実現している関係には、その意味内容にまで踏み込めば、種々の在り方を解読可能であるという英文読解経験をもとに、ある在り方には主たる役割を、別の在り方には端役的役割を振り分ける。そこに解読可能である頻度が高い(と感じられる)、あるいは、優位と認められるべきであるとされる在り方の場合、分詞句に表現されている意味内容は、副詞的な修飾関係を実現する日本語表現に置き換えることで再現される、といった体験に依拠して《分詞構文》の文法的機能が語られることになる。

   時に、「カンマを伴う分詞句」が実現している関係の在り方が、「非制限的に名詞を後置修飾する関係詞節」と「関係詞の先行詞」との間に成立している関係の在り方に等しい([1-13]参照)ように感じられる、即ち「カンマを伴う分詞句」がその暗黙の主辞を説明しているように読めるという体験をすることがあっても、そうした体験に基づいて分詞句の「非制限的名詞修飾用法」という範疇が容認されることはないようである。ここで、「カンマを伴う分詞句」が実現している関係の在り方が、「非制限的に名詞を後置修飾する関係詞節関係詞の先行詞との間に成立している関係の在り方に等しいように感じられる」とは、例えば、次のような文例に見られる分詞句が実現している関係の在り方のことである。 

My son, persuaded to enter my business, gave up his plan.
〈私の息子は、私の商売を継ぐように説得されて,自分の計画をあきらめた。〉
(=My son was persuaded to enter my business, and gave up his plan)
(安井稔『改訂版 英文法総覧』、18.3.2…見出し番号)(下線は引用者)
   一方で、この分詞句はその暗黙の主辞との関係では非制限的関係詞節が果たしているのと等しい役割を果たしているように感じられるとは言え、他方、その意味内容の水準においては母節との間に因果関係を解読可能であり、「私の商売を継ぐように説得されたので」という「原因・理由」を表わす日本語表現への置き換えが可能であるとも感じられる。ただし、この分詞句が名詞修飾要素であるのか、副詞要素であるのかを判断する際の論拠は、あくまでも「《分詞構文》という了解」であり、こうした慣習的了解に基づく限り、この分詞句はやはり「副詞要素」であると判断するのが妥当である[1-16]と結論づけられることになる。

   「カンマを伴う分詞句」をめぐって成立している了解を、「カンマを伴う関係詞節」の場合と比べると面白い点に気付く。

   例えば、宮川幸久・綿貫陽・須貝猛敏・高松尚弘『ロイヤル英文法』では「非制限用法の関係詞節の機能」を「先行詞について説明を付け加える」と説明し、次のような文例と書き換えを示し、更に注意書きを添えている。

The milk, which was near the window, turned sour.
(ミルクは窓際においてあったので酸っぱくなった。) ( = …, because it was near the window, …)
* コンマを取って制限用法にすると、ほかにもミルクはあったが、窓際においてあったミルクだけが酸っぱくなったの意にとれる。 (p.569)
斜体と下線は引用者)
(この発話中の"The milk"は、既にその指示内容は特定されている(と話者が判断している)名詞句である。こうした点については次節以降を、特に第一章第4節 「特定」の諸相参照)
("The milk, which ......"に見られる「定冠詞+名詞+非制限的関係詞節」については、第一章第5節の文例(1-4)(*The woman, who was sitting behind the desk, gave me a big smile.)と関連する記述を参照)
   つまり、非制限用法の関係詞節は、意味内容にまで踏み込めば「母節」(上記文例の下線部)との間に因果関係を解読可能な場合もあるため副詞節で書き換えられることがあるにもかかわらず、文法的規定[1-17]に基づき、「先行詞を非制限的に修飾する関係詞節」(先行詞を説明する形容詞要素)であると結論づけられる。

   対照的に、カンマを伴う分詞句は、意味内容にまで踏み込めば、その暗黙の主辞との間に、関係詞節と関係詞の先行詞との関係の在り方に等しい在り方を解読可能であり、関係詞節で書き換えられることもある([1-13]参照)にもかかわらず、「《分詞構文》という了解」に基づき、副詞要素(《分詞構文》)であると結論づけられることになる。


   関係詞節の場合、文法的規定に基づいてその文法的機能が記述される。他方、カンマを伴う分詞句の場合、「《分詞構文》という了解」に基づいて、あるいは、意味内容の水準における「解読と選択」――分詞句と母節との間に、もしくは、分詞句とその暗黙の主辞との間に、(意味内容の水準で)解読可能な関係の諸々の在り方の中から特定の在り方を選択すること――に依拠して、その文法的機能が記述されているように見える。しかしながら、意味内容の水準における分詞句と母節の間の論理的関係と、分詞句とその暗黙の主辞の間の関係を、比較検討した場合、分詞句と母節の関係よりむしろ、分詞句とその暗黙の主辞の関係の方が優位であると感じられ、そうした関係が「主辞と述辞の関係」に等しいと判断されるような事例もたびたび体験されているはずなのである([1-13]参照)。


   《分詞構文》という了解から次のような判断が展開される。

(a) The boys knowing him well didn’t believe him.(形容詞用法)
(b) The boys, knowing him well, didn’t believe him.(分詞構文)

(a)は「彼をよく知っている少年たちは彼の言うことを信じなかった」の意で、分詞句はboysを修飾する形容詞句であり、(b)は「その少年たちは、彼をよく知っていたので、彼の言うことを信じなかった」の意で、分詞句は主文に対して副詞句的修飾関係をもち、分詞構文である。すなわち

(a)knowing him well 〔形容詞句〕= who knew him well 〔形容詞節〕 
(b)knowing him well〔副詞句〕=as they knew him well〔副詞節〕

(中原道喜『マスター 英文法』p.392) 下線は引用者)

   たまたま特定の文法書から例を挙げたが、ある分詞句について、それが「形容詞的句(名詞修飾要素)」であるか「副詞的句(《分詞構文》)」であるかの判断は、ほぼ全ての学習用英文法書・受験関係書を通して、ここに見られる判断が依拠しているのと同じ「《分詞構文》という了解」に基づいている。

   上記(a)と(b)では、同一の語群からなる分詞句が、カンマの有無を契機として、時に「形容詞要素的(名詞修飾的)」な機能を発揮し、時に「副詞要素的」な機能を発揮すると機械的に判断されている。とりあえずさしたる不都合が生じることはない判断であると言っていい。あえて何かしらの不都合を指摘したとしても、今の段階では、見解の相違として片付けられるほどの不都合でしかないだろう。


   別のある参考書では次のような記述が展開されている。

分詞構文の諸形態: ただ“~ing”形ではじまるのばかりが分詞構文ではない。次のようなさまざまな形態が考えられる。

1)~ing……(現在分詞ではじまる)
2)having p.p.……(完了形分詞ではじまる)
3)p.p.……(過去分詞ではじまる)
4)adj.……(形容詞ではじまる)
5)noun……(名詞ではじまる)
6)S’+~ing……(現在分詞に意味上の主語がつく)
7)S’+p.p.……(過去分詞に意味上の主語がつく)
8)S’+adj.……(形容詞に意昧上の主語がつく)

これらの形態が文頭・文中・文尾に現れたときには分詞構文ではないかと考えてよい。

(山口俊治『全解 英語構文』、p.152)

   「文頭・文中・文尾に現われたとき」という記述では、カンマが重要な要素とみなされていることをこの著者に代わって付言しておく。ここでは(特に1~5では)、例えば、「カンマ+-ing分詞句+カンマ」という-ing分詞句や「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」などという-ed分詞句が現れたときには《分詞構文》ではないかと考えて文の読解に当るとよい、という姿勢が紹介されているのである(-ing分詞句、-ed分詞句という用語については[1-5]参照)。

   このような了解に基いた場合、

I pursued my walk to an arched door, opening to the interior of the abbey.(私は、僧院の内部へ通じている弓形の戸口へ向かって歩を進めた)
(清水護編『英文法辞典』,Participial Construction (分詞構文)の項)
   については、
斜体の部分はdoorを形容詞的に修飾し、(異例の)分詞構文ではない
(清水護編『英文法辞典』,Participial Construction (分詞構文)の項)(下線は引用者)
   とわざわざ断らねばならないことになる(この文例については更に[1-49]参照)。


(第一章 第2節 了)

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第3節 カンマの有無を契機とする「制限的修飾」と「非制限的修飾」

第3節 カンマの有無を契機とする「制限的修飾」と「非制限的修飾」

 「制限的修飾」と「非制限的修飾」の一般的区別[1-18]を簡単に確認しておく。形容詞節(関係詞節)においては周知の区別だ。ただし日本語では、これら二様の修飾の在り方は視覚的にも聴覚的[1-19]にも区別されることがないことに注意しなくてはならない。(以下で取り上げるのは形容詞の「制限的用法」と「非制限的用法」ではない。この点ついては本節末を参照)


   私が書店に行き、「推理小説ください」と言っても、店員は応対に困るだろう。「本ください」と言われているのに等しいからだ。私が言葉を継いで、「ディック・フランシスが書いた推理小説」と言えば、私の求めているのがどのような推理小説であるのかが店員に伝わる。「ディック・フランシスが書いた」のように、名詞句の構成要素としてその名詞句の指示内容を絞り込むのに役立つような名詞修飾要素は一般的に制限的名詞修飾要素とされる。これを英語で表現する場合、例えば、“a mystery (that) Dick Francis wrote” となる。この関係代名詞節(下線部)にはカンマは不要である。[1-20]


   非制限的修飾」の場合。

   私から知人への電子メール「"Twice Shy"を貸して欲しい」では、私はディック・フランシスの小説"Twice Shy"を貸してほしいと頼んでいる積りである。「ディック・フランシスの"Twice Shy"」という日本語表現は問題なく許容されるが、「ディック・フランシスの」という名詞修飾要素は、話者である私にとって、"Twice Shy"が何であるのかを明示する働きも、どの推理小説のことであるのかを明示する働きもしない。"Twice Shy"と表記するだけで既に貸して欲しいものを(これが本であることはもちろん)唯一的に特定できていると私は判断している(ところで"Twice Shy"がFred DrakeのCDアルバムのタイトルでもあることを今は簡単に調べられる)[1-21]


   話者の視点からは次のように言える。既にその指示内容は特定されている(と話者が判断している)名詞句について更に何ごとかを語る場合、話者は「非制限的名詞修飾要素」を用いることがある。"Twice Shy, which Dick Francis wrote/ written by Dick Francis"の場合のように、"Twice Shy"について更に何ごとかを語ることになる" , which Dick Francis wrote / , written by Dick Francis”は「非制限的名詞修飾要素」である。この場合、カンマは不可欠[1-22]である。 [1-23]


   例を挙げておく。関係代名詞節はそれぞれ、(1-2)では非制限的関係詞節、(1-3)では制限的関係詞節である。あえて少し端折った形 で引用してみる。

(1-2)
The novel, which especially appealed to me, was written by Hawthorne.
〈その小説は私を殊のほかひきつけたが、ホーソ ンの作であった。〉
(1-3)
The novel which especially appealed to me was written by Hawthorne.
〈私を殊のほかひきつけた小説はホーソンの作であ った。〉
(P.G. Perrin/Jimmie W. Corder『スコットフォースマン 現代英語ハンドブック 第五版』、11.3…見出し番号)(以後『現代英語ハン ドブック』と略記)(下線は引用者)
   同一の語群(The novel)が、(1-2)の場合、その指示内容については非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が既に実現されていると話者は判断しているのに対して、(1-3)の場合、指示内容の「特定」が実現されるには制限的名詞修飾要素をその構成要素とする名詞句[The novel which especially appealed to me]の成立を待たねばならないと話者は判断している。こうした差異を実現し表示し、結果的にその差異が受け手に伝わることを可能にしているのが「カンマ」である。

   Michael Swan, Practical English Usage(以後PEUと略記、数字は見出し番号)では、以下の(1-4)は「カンマ」の用法の「典型的誤り」の例として挙げられている。

(1-4)
*The woman, who was sitting behind the desk, gave me a big smile. (506) (下線は引用者、「*」は不適切な英語表 現であることを示す記号[1-24]。更に[6 ― 1] 参照)
   以下が適切な文として挙げられている。
(1-5)
The woman who was sitting behind the reception desk gave me a big smile.(ibid)〈受付に座っていた女性は私ににっ こり微笑んだ。〉("the reception desk"は原文通り。下線は引用者)
   ただし、こうした記述から、(1-4)中の"The woman"の指示内容については、非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が未だ実現されていない、という示唆を読み取るべきではない。Swanの例の挙げ方が不適切なのである。発話の構成要素となっているある名詞句の指示内容について、非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が――そのような「特定」が既に実現されていることが受け手に伝わるかどうかとは関わりなく――話者の念頭においては既に実現されている場合もある。文字を用いて実現されている発話では、ある名詞句の指示内容については非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が既に実現されていると話者によって判断されているということが受け手に伝わる際に、カンマがその媒介となる([1-12]参照)場合がある。
  

   制限的修飾と非制限的修飾の区別が分節される契機となる「特定」の在り方については次のようにも記述し得る(特定の諸相については次節で詳述する)。


   その指示内容について何ごとかを語り得るほどの「特定」が既に実現されている(と話者に判断されている)名詞句に、その「何ごとか」が名詞修飾要素として添えられる場合、その名詞修飾要素はその名詞句を非制限的に修飾する要素である。このことを逆方向から辿れば、ある名詞句に非制限的修飾要素が添えられる場合、その名詞句の指示内容については何ごとかを語り得ると話者によって判断されており、その名詞句の指示内容には話者のそのような判断の分だけの「特定」が既に実現されている。話者にとってその名詞句はその分だけ既知であるとも言える(「既知」については 本章第5節参照)。


   このとき、その名詞句に添えられる非制限的修飾要素とは、その名詞句の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがら、即ちその名詞句の指示内容の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端の展開である。「(と話者に判断されている)」という記述を繰り返すのは、「その名詞句の指示内容の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端」とは、時にはその名詞句の指示内容の属性ではないことが判明しても、つまりそこに話者の錯誤があっても差支えないからである。


   例えば、アレキサンダーが実際には「フィリップの息子」でないとしても、"Alexandre, qui est fils de Philippe"[Alexander, who is the son of Philip]〈フィリップの息子であるアレキサンダー〉と語り得るのである。以下に見るように、そこには錯誤を指摘し得るということでしかない。

初めの種類の複合語句の場合(関係詞節が説明的である場合…引用者)、そこに誤ちがあっても驚いてはいけない。なぜなら、付随的節[proposition incidente]という賓辞[attribut]は関係詞quiが関係している主体[sujet]についての確言だからである。
"Alexandre, qui est fils de Philippe"〈フィリップの息子であるアレキサンダー〉
の例では、私は、付随的にではあるにせよ、アレキサンダーについてフィリップの息子であると確言しているのであり、もしこれがその通りでないとしたら、そこには誤ちがあることになる。
(Antoine Arnauld / Pierre Nicole, La logique ou L'art de penser, p.117)(以後、通称のLa Logique de Port-Royalを用いる)
   さらに言えば、事実関係には錯誤があるとしても、"Alexandre, qui a été fils de Philippe, a vaincu les Perses."〈フィリップの息子、アレキサンダーはペルシャ人を打ち負かした。〉(ibid)と語ることを私が妨げられることはない。このアレキサンダーがかのアレキサンダーであることに変わりはないのである。

   「あえて少し端折った形で引用」と述べておいた例文(1-2)と(1-3)の原文は以下のとおり。Swanの例の挙げ方(及びその例に関する判断)が不適切である理由に思いが至るはずである[1-25](更に本章第5節参照)。これらの例について語るべきことは既に語った。

(1-2a)
Last month I read a novel and a biography. The novel, which especially appealed to me, was written by Hawthorne.〈先月 私は小説を一冊と伝記を一冊読んだ。その小説は私を殊のほかひきつけたが、ホーソンの作であった。〉
(1-3a)
Last month I read several novels and a biography. The novel which especially appealed to me was written by Hawthorne. 〈先月私は小説を数冊と伝記を一冊読んだ。私を殊のほかひきつけた小説はホーソンの作であった。〉
(『現代英語ハンドブック』, 11.3)(下線は引用者)
  
付記

   形容詞の「制限的用法[restrictive use]」と「非制限的用法[nonrestrictive use]」については一部の学習用文法書にも簡単な記述が見られる。前置形容詞が名詞を「制限的に」あるいは「非制限的に」修飾する場合に関する記述である。殆どの学習用文法書で形容詞の用法は、限定用法[Attributive Use](名詞の前後に置かれて名詞を修飾する)と叙述用法[Predicative Use](SVC,SVOCなどの中でCの働きをする)の二種類に大別されている。Attributive UseとPredicative Useには殆ど場合「限定用法」「叙述用法」という訳語が充てられている。ただし、restrictive useとnonrestrictive useについては、大勢としては「制限的用法」「非制限的用法」という訳語が充てられる一方、一部の文法書では、「限定用法」「非限定用法」という訳語が充てられている。ちなみに形容詞の「制限的用法」と「非制限的用法」の区別は、形容詞の「限定用法」に関する記述中に見られる。


  ここでは素朴な疑問が涌き起こっても不思議ではない。「制限(的)」と「限定(的)」はどう違うのだろう、と。あれこれの学習用文法書に目を通した結果、私にはとうとう分からなかった。


  別の疑問。Attributive Useに「限定用法」という訳語を充て、restrictive useにも同じ「限定用法」という訳語をもし仮に充てなどしたら、「限定用法」の中に「限定用法」と「非限定用法」の区別があることになってしまうのだろうか(そんないい加減な言葉遣いをもってして文法を解説する著者はいないであろうが……。いた。)。


   木村明『英文法精解』中の「形容詞の限定的用法と非限定的用法restrictive and nonrestrictive use」という一節に以下のような記述がある。木村はAttributive Useに「付加的用法」という語を、Predicative Useには「叙述的用法」という語を充てている。

(1)名詞の範囲が、形容詞によって制限を受ける場合の用法を、限定的用法といっている。たとえば、
     a. a tall boy(背の高い少年)

(2)これに反して, 形容詞が単に名詞の性質、属性を説明するにとどまる場合の用法を、非限定的用法といっている。たとえば
     b. tall John(背の高いジョン)(p.217) (下線は引用者)

   続けて次のような注意書きとともに、関係詞節による書き換えが示されている。。
このような形容詞の用法は、関係代名詞の二つの用法と一致している。
I saw a tall boy. = I saw a boy who was tall. ― 限定的用法
I saw tall John. = I saw John, who was tall. ― 非限定的用法
(p.217)
   微妙な領域にあえて踏み込んだことを非とする理由はないにしても、「このような形容詞の用法は、関係代名詞の二つの用法と一致している」はより慎重な言葉遣いが求められる記述であるし、等号を用いての書き換えは不適切な記述であることを指摘せざるを得ない(「このような形容詞の用法」については、[1-18]参照)。あえて日本語に置き換えてみるが、「のっぽのジョンに会った」が「ジョンに会った。彼は背が高かった」と等価ではないと感じ取るにはさほど鋭敏な語感を求められるわけではない。"the beautiful Princess Diana ['Princess Diana, who is beautiful']"(CGEL, 5.64)〈美しのダイアナ妃〉;〈ダイアナ妃、彼女は美しい〉のような記述を見出せはするとしても、である。CGELのこの記述は、"beautiful"が非制限的用法の形容詞であることを示しているのであり、等号で結ばれるべき書き換えを示しているわけではない。

   江川泰一郎『改訂三版 英文法解説』では、関係詞の非限定用法(Non-restrictive Use)の一節中で、「限定と非限定の区別は形容詞にもある」として、以下のような文例が挙げられている。同書の「形容詞には直接に名詞を修飾する限定用法(Attributive Use)と動詞の補語になる叙述用法(Predicative Use)とがある」(p.92)という記述をもとに判断すれば、以下の文例中に見出せるのは「限定用法」の形容詞である。そして「限定用法」の中に「限定と非限定の区別」を認められるということである。

The patriotic Americans have great respect for their country's constitution. (p.77) (下線は引用者)
   この形容詞を「限定用法」と解釈すれば、「(アメリカ人全体の中の愛国的アメリカ人、すなわち)一部の愛国的アメリカ人は自国の憲法を大いに尊重している。」となり、「非限定用法」と解釈すれば、「(アメリカ人は愛国的であり)そもそも愛国的なアメリカ人は自国の憲法を大いに尊重している。」となる。

   Noam Chomsky, Cartesian Linguistics の注72に、制限的[determinative(restrictive)]関係詞節から派生するのか、説明的[explicative (nonrestrictive or appositive)]関係詞節から派生するのか曖昧であるような「形容詞+名詞」構造[adjective-noun constructions]の例として、Jespersenから次の文例が引用されている。

The industrious Japanese will conquer in the long run.(p.99)(下線は引用者)

 この「形容詞+名詞」構造が「説明的関係詞節」から派生していれば、「(そもそも)勤勉な日本人は、結局は苦難を克服するだろう」と解釈され、「制限的関係詞節」から派生していれば、「勤勉な日本人は(日本人の内、勤勉なものは)結局は苦難を克服するだろう」と解釈される。


   Jespersen, The Philosophy of Grammarでは、この文例には次のような記述が続く。

この文は次のいずれの意味なのか。一民族としての日本人は苦難を克服するだろう、なぜなら彼らは勤勉であるから、なのか、それとも、日本人の内の勤勉なものは苦難を克服するだろう、なのか。(p.112)
   この疑問を解きほぐす多少の手掛かりにもなりそうな記述をCGELは残している。国民を表わす名詞に付加された場合、「形容詞は通常、非制限的である。」(7.25)として次のような例を挙げている。
the industrious Dutch ['the Dutch, who are industrious'](ibid)
   実に簡潔な裁断である。


   別の手掛かりとして、"the Americans"や"the Japanese"の指示内容にまとわりついている「ぶれ」を考えてもいい。


   CGELは「国民を表す形容詞は、全体としての国民ではなく、国民の一部を指示するために用いられることがある。例えば、国を代表する団体や軍隊。」(7.25, Note[b])(以下の例で言えば、"the English"や"the French"は、「国民全体」を指示する場合と、「国民の一部」を指示する場合があるということだ)と記述し、次のような例を挙げている。

The English lost against the Welsh in the final.〈イングランド(チーム)は決勝でウエールズ(チーム)に敗北した。〉
In 1796 the French invaded northern Italy. 〈1796年、フランス人[軍]はイタリア北部に侵攻した。〉(ibid)
   このような場合、"the French"は「仏国民全体」ではありえないことは話者と受け手に共有されている類の了解である。そのため、イタリア北部に侵攻したのは「フランス人の一部からなるフランス軍」であるという了解は受け手の内部で円滑に成立する。

   曖昧さの生じる主たる要因は、『改訂三版 英文法解説』から挙げた例について言えば、この発話だけに依拠したのでは「話者の思い」([1-25]参照)を斟酌し難いということである。受け手は十分な情報を示されていないということであり、この発話にはいずれにせよ脈絡が決定的に欠けているということである。話者が「アメリカ人はそもそも愛国的である」と認識していれば、ここでは「非限定的解釈」が成立することになる。その場合、「愛国的な」は「アメリカ人」に通有の属性であると話者に意識されているということになる。"The patriotic Americans have great respect for their country's constitution."のような、「話者の思い」が名詞句の指示内容を左右しかねない発話では、受け手が「話者の思い」を斟酌し得るか、受け手がそれを斟酌することを可能にする情報を示されていない限り、受け手にとって指示内容は曖昧であるとしか感じられないのである。


   語りすぎないのも智恵の一態である。次の程度に収めておくのは、ある意味では賢明である。

限定用法は、必ずしも、名詞の適用範囲を制限するとは限らない。a beautiful girlのような場合は、制限的用法であるが、white snowなどでは非制限的である。
(安井稔『改訂版 英文法総覧』、10.1.1)
非制限的用法:修飾する名詞の持っている性質を強調して示したり、叙述に主観的・感情的要素を加えるもので、ほかと区別する働きはない。
white snow(白い雪)the blue sky(青空)poor Mary(かわいそうなメアリー)
*whiteは本来白い雪の色をさらに強調し、poor Maryは叙述に主観的・感情的要素を加えるにすぎない。
(『ロイヤル英文法 改訂新版』、p.264)
   以下は更に簡略な記述ではあるが、決して不正確ではない。
意味の上では[semantifically]、修飾要素[modifiers]は主要語[head]に対して「説明的['descriptive']」情報を付加し、しばしば主要語の指示内容[reference]を制限する[restrict]。(CGEL, 2.31)
   名詞に前置された形容詞が名詞を「非制限的」に修飾する場合については更に[1-18]参照。

  

(第一章 第3節 了)



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