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プロローグ

 琵琶湖の西岸坂本、比叡山の麓に日吉大社がある。
 その年の秋、京都百万遍大学文学部教授岡田道祐(おかだ・みちすけ)は、男の叫び声で午睡の夢を破った。
「先生、出ました」佐伯孝弘(さえき・たかひろ)だった。
 岡田は境内の能舞台遺構をみるために作業所にいた。三年越しの近江能研究も最後のつめに入り、出そろったものはすでに整理半ばまで進んでいた。調査も終わりに近く、今週のはじめから久しぶりに現地に来ていた。
「佐伯君、蛇でも出たのか」岡田は呟いた。
 岡田はベッド代わりのソファーから起き上がり、横にある三十年来使い込んだ古机に座りなおし、佐伯を待った。
 汗をかき顔を紅潮させて佐伯が作業所に入ってきた。
「あ、先生お休みのところ。出ました、出たんですよ」
「出たって、君、今更何かが出るわけないじゃないか」
 岡田の頭の中では、調査はすべて終わっていた。金曜日までの成果を待って二週間休暇をとり、十一月からゆっくりまとめようとしていた矢先だった。
「先生、とにかくこちらへ」佐伯は手招きした。
 後を追って、岡田は小走りに現場に向かった。
 現場は、斜面にかけて二十メートル四方ほどの縄張りの中だった。若い佐伯助教授、アルバイト学生三名だけという小所帯の遺構調査作業だった。古代の遺跡のように壺や埴輪を探しているわけではなく、小さな遺構を整理しているというのが発掘の現状だった。

 

 能舞台跡地の北側傾斜地側面に小さな祠(ほこら)のような空洞が見つかり、中から緑青の浮き出た銅製箱が発見された。巨漢の佐伯が斜面に背を預け休憩していたとき、立ち上がりざま左手がずぶずぶと土中にもぐり込んだ結果だった。箱は縦横三十センチ程度の方形だった。
 学生が、祠のなかに箱を置いたまま、写真を撮っていた。岡田にうながされた佐伯は、別の学生から大型シャーレを受け取り箱を載せた。作業所に運び古机の上にそっと置いた。またひとしきり写真が撮られた。
 岡田が慎重に開けてみると、もう一回り小振りの桐箱があった。外の銅板と桐箱の廻りには木炭がすきまなく敷き詰められていた。岡田は続けて桐箱を外に出し蓋を開けた。中に面があった。箱書きはどこにもなかった。
 岡田には、最初その面が何か分からなかった。彼は何度となく近江能面に接してきたが、それらとは別種の異様な面だった。能面だとするなら黒尉(こくじょう)、神事能で使われる黒い翁(おきな)の面に似ていた。
 岡田は手にとって、まず面裏をたしかめた。
「佐伯君」小さなうなり声をもらした。
 凹面の左頬に朱でうっすらと文字が浮かんでいた。岡田の顔が喜色におおわれた。
「佐伯君!」
「は、はい先生、書き付けがありますね」
「ああ、『元雅』と読める」
「元雅……、えっ、観世元雅(かんぜもとまさ)でしょうか?」
「おそらくな」
「一応、時代もあいますね」佐伯が意気込みだした。
「確かに。断代できる」
「こりゃ、先生、えらいことです、お宝です」佐伯が急にそわそわして、周りをうかがうような素振りを見せた。
 だが「お宝」が出たというのに、岡田は即座にもとの冷静な顔付きになった。
「しかし、佐伯君、おかしいぞ」
「先生、箱は確かに時代ものです。この炭はこのあたりだと、越前南条郡大切(おおぎり)のものと考えられますし、朱を使った書き入れも、最近はよく見つかることだし、それになんといっても近江能面の地元ですから……、何か?」
「何故埋められていたんだ。それに君ね、この面(おもて)を見てなんとも思わないのか」
 佐伯は岡田から手渡された面を正面から見た。
 仮設の作業室にアルバイトも全員集まってきた。面と古机の上に置かれた箱をのぞき込みだした。
 佐伯はルーペを出し克明にみた。
「先生、こりゃいたずらでしょうか。なんかわからない獣(けもの)、狼に似ていますね、……獣面ですよ。これが近江の古能面だとすると、ぼくには初めてのものです」
 佐伯は独り言を言いながら、またひとしきり眺め続けていた。

 

 岡田は残り二日を残して早々と能舞台遺構を閉めた。研究報告書のための基本データは三年目の今年春にはまとまりかけていた。ここ数カ月の遺構調査自体は落ち穂拾いのようなもので、次の研究テーマのためのアイドリングだった。アルバイト学生との約束もあったので、早めに印鑑を書類に押させて、約束通り残り二日間の賃金も支払った。後始末を佐伯と彼らにまかせた。
 岡田は京都の百万遍にもどり、休暇予定を取り消して面を調べだした。試料検査にも回さず、あくまで自分の経験と目を使った。その間、教授会も講義も居留守を使い研究室にこもり、ひたすら能面をながめ、参考史料と照らし合わせ、古文書を閲読し、頭の中に渦巻く不審が解きほぐれるまで待った。
 一週間目の夕刻になり、ようやく岡田は結論を出し、佐伯を部屋にいれた。

 佐伯は期待で待ちきれない様子だった。
「先生、どうでしょう? ひょっとして誰かの、明治期のいたずらでしょうか?」
 観世流能楽の始祖達の姿が世間に知られるようになったのは、明治時代に初めて、観世宗家の伝書『世阿弥十六部集』が公開されて以来のことだった。佐伯は、初期観世能研究に関連した「悪戯(いたずら)」の可能性も口にした。
「書き付けは観世元雅(もとまさ)の自筆だ。要するに、天河(てんかわ)に奉納した元雅の面と同じ時代のものだ。間違いない」
 この研究室で天河と言えば、奈良県吉野郡天川村の天河大弁財天社をさす。中世の永享二年(1430)に世阿弥の後継者だった観世元雅が天河社に面を奉納し、それには自筆の認めがある。
「それだけですか」佐伯は未練がましく言った。
「ああ、実証的にはそれだけだ。だが、それでもすごい話じゃないか。元雅は天河社だけでなく、近江能の元祖日吉大社にまで面を奉納したことになるじゃないか」
「ええ、しかし先生。天河社のは確か墨書だったようですね?」
「うん」岡田は目を閉じた。
「それに、先生。ぼくはこんな能面を見たことがないですよ」
「そう、私もはじめてだ。鬼気迫る相をしているな」岡田は執務机の桐箱を見た。
「仮に、坂本日吉・観世元雅奉納獣面(けものおもて)とでも、命名しようと考えている」
「先生、ぴったりです」佐伯は目礼をした。
「ところで佐伯君、君はほら、近江能と観世のことで何か考えはあるか?」
「と、もうしますと、犬王の話でしょうか」
「じつは、ちょっとした文献をこの一週間、じっくり見てみたんだよ。一条家に伝来した犬王に関するものなんだ」
「先生。犬王関係の文献は、ほとんどなかったはずですが。何か御存知だったんですか?」
「うん」岡田は曖昧に口をにごした。
「ぼくは初めてうかがいますよ。先生、お手伝いできることはないでしょうか」
「いや。君は今回の最終報告書をそれなりに形をととのえてくれたら、それで良い。あまり若い内に奇書、稀書には手を出さない方が無難だ。身を滅ぼすからね」
「先生、……」
 岡田は佐伯の無言に答えて銀縁の眼鏡を手で触り、十年近く使っている文学部の薄くらい教授室を見回した。
 この歴史分野は、最近でこそ遺物や遺構と文献とがバランスよく扱われるようになったが、以前は文献中心の弊害もあり、あまりにそれを重視した結果、つまらない偽書に踊らされ、研究者として全うできなかった者たちも多い世界だった。
「近江能の創始者、件(くだん)の犬王道阿弥(いぬおうどうあみ)に関する『犬王聞書(ききがき)』というのが、あってね」
「それは」佐伯は絶句した。
「能面とあわせて考えると、なかなかに、すごいことになってきた」
「聞き書きというのは、初めてうかがいますね。犬王が直接記したものですか?」
「いや、伝・二条良基(にじょうよしもと)だ。ぱっと見には、一級史料なんだが……」
 佐伯は、岡田のいつもとは違う煮え切らなさにいらついてきた。「先生、閲覧できませんでしょうか。今回の報告書に少しは華をそえたいですから」
「今は、無理だ。犬王聞書についてはまだ正確なことを話せない。それに私が持っているのは借り物の複製にすぎない、……。そうそう、佐伯君、しばらく黙っておいてほしい」
「はあ。近い内にご発表なされるわけですね」
「いや。まだしばらくは」
「すごい発見じゃないですか。研究室もひさしぶりに賑わいますよ」佐伯は日頃の恭順さを捨てそうになりながら、食い下がった。
 中世近江能の研究は、古代史考古学にみる遺跡発掘などとは異なり地味な領域だった。何か古文書が出たり、遺構が見つかっても世間の耳目を集めることはほとんどなかった。
「実はね、犬王関係は先代以来、私にとっても禁句なんだ。君がまだ教養部にいたころかな、ちょっとした事件があってね。それが今でも絡んでるんだ」
「すると、例の重文、国宝問題ですか?」
 佐伯は教授の顔色をうかがうように、おそるおそる口に出した。
「やはり、少しは耳にしているようだな」
「いえ、ほんの少し」と、唇をなめた。
「まあ、いずれ時間をとって君にもじっくり説明しておこうとは思っていた。それまでは、今回の獣面と犬王文書とを不用意に結びつけたり、口外しないでほしい」
「わかりました」佐伯はあっさり引き下がった。

 

 その時、教授室をノックする音がした。岡田は少しあわてた様子で時計を見た。
「ああ、佐伯君今夜はこれでおしまいだ。ちょっと客との約束がある」
「では、明日昼過ぎに参ります。午前中は図書館に詰めておりますので」
「そうか。じゃ明日」
 佐伯が辞すると入れ替わりに初老の男がドアをすり抜けるように入っていった。薄暗い文学部廊下だったことと、部屋の照明がドアにはばまれて、佐伯は顔を確認できなかった。数秒間ドアの外に立ち止まったが、話し声も物音もなく、研究室はしんと静まりかえっていた。


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