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第1章

 ――さぁて、そろそろ帰るか。
 私はペンを置いた。
 今日の放課後は残って、たまった宿題を一気に片づける予定だったが、急に気が変わった。
「あぁ~、めんどくさいっ! やってらんない!」
 プリントを鞄に詰め込んで、ずんずん出口に向かう。
 中学の校門を出たとき、時刻は四時を回っていた。辺りはもう暗くなりかけていた。
「日が短いなぁ」
 と呟いたとき、後ろから声が――
「おーい、姫っ」
 振り向くと、同じクラスの龍哉が校門のところから手を振っていた。近所に住んでいる幼なじみで、もう十年来のつき合いになる。名字は如月。月の異名が名字なんて、珍しいと思う。
 ところで「姫」というのはあだ名で、私の本当の名は浅水緋芽子。本名を書くのが面倒なので、いつも略して「姫子」あるいは「姫」にしている。もちろん学校に提出する書類や答案用紙には使えないけどね。
「一緒に帰ろうぜ」
 追いついた龍哉が息を弾ませて言った。
「いいよ。てゆーか、あんたもまだ残ってたの?」
「そう。委員会が長引いちまったんでな」
「ふ~ん、大変ねぇ」
 並んで歩く。
 街路樹の枝が風に揺られる。まだ残っていた葉が枝を離れ、宙を舞う。
 私は短いスカートを押さえた。
「――ところで、姫」
「ん?」
「今日、姫の家に行ってもいいか?」
「…なんだよ、いきなり」
「最近行ってないから、たまには行こうかと思って」
「まぁ、いいけど」
「この前、また新しいコンピューターを買ったって言ってたな」
 そう。何を隠そう、私はいわゆるハッカーとして、裏の世界では名の通った存在なのだ。そのうえ学校においてさえ、私の技量は多くの生徒や教員の知るところとなっている。
「うん。サーバーをね、買ったんだ」
 嬉しそうに言った。
「えっ、サーバーっていったら、企業とか研究機関で使うもんだろ?」
「うん。でも、私は一般のユーザーとは違うからね」
「確かにそうだな。だがいくらお前でも、そんな高いのをよく買ったな?」
 龍哉は感心したように言って、横目で私を見た。
「う、うん」
「その金はどうした?」
「……」
 私は何も言わず、うつむきき気味に足を進めていた。今は理由を知られては困るから。
「ま、いいや。詮索しないでおくか」


 そんな会話をしているうちにマンションに着いた。ちょっと新しい、高級マンション。
 エレベーターホールに入って、△ボタンを押した。上のランプを見ると、最上階の七十階から降りてくるようだった。
「いいよなぁ……」
 龍哉が呟く。
「何が?」
「緋芽子がだよ。高級マンション。しかも独り暮らし」
 瞳を輝かせる龍哉。
「独り暮らし、したいの?」
「ああ、うちは狭い家に三人家族でさ。なんかこう、落ち着かなくて」
「ふーん。そうなの」
 そういう私は独り暮らし。母は三年前、出張先の外国でテロ事件に巻き込まれて他界。父も心労から、後を追うように亡くなった。
 以来、私は両親が遺した財産でひとり生きている。幸い父は財界きっての資産家だったから、今のところ金銭面での不自由はない。
 遠い親類に後見人がいるが、私の自由を最大限に尊重してくれる人だ。必要以上の干渉はしないのか、それとも面倒なだけか、最近では携帯メール以外、便り一つよこさない。
 ――チーン。
 エレベーターの到着を告げるベルが鳴り、ドアが開く。
 女の子が一人、乗っていた。メールでもしていたのか、携帯電話の小さな画面を食い入るように見つめていた。
 ふと私たちの姿を見上げ、こんにちはと挨拶する。
「こんにちはぁ」
 と私。
 龍哉も一応、会釈をした。多分、同じマンションの住人なのだろうと思って。
「さっきの人、誰?」
 摩天楼の天辺に向かうエレベーターの中、龍哉が聞いた。
「下の階に住んでる子。てゆーか、同じ学校でしょ。後輩だよ」
「あれ、そうだっけ? そうか、どっかで見たことあると思ったら」
 ――チーン。
 そうこうするうちに、エレベーターが私の住んでいる最上階に着いた。二人で突き当たりの部屋まで歩く。
 私はドアを開けた。「さ、どうぞ――」


 長い廊下を案内し、私は龍哉を自分の部屋に連れてきた。
 そこで龍哉の目にまず飛び込んだのは、壁一面を埋め尽くす大量の本だっただろう。コンピューター関連の書籍なのだが、棚に入りきらない本が床に散乱していた。
 龍哉はそれを目で追っていき、部屋の隅にある大きな黒い箱にたどり着いたようだった。
「まあ座りなさい」
 私は窓際にあるふかふかした椅子を指さした。
 龍哉はそこに座り、背もたれにもたれかかった。
「広いなー。いいよな、ほんと」
「うん」
「窓から見える景色もいいし」
「うん」
「でも散らかってるなー」
 確かに私の部屋はあまりきれいではなかった。龍哉が来ると分かっていれば、少しはかたづけたのに。
「とても女の子の部屋とは思えんぞ」
 龍哉が言った。
 私は無言で二つのコップに麦茶を注いでいた。
「はい、どうぞ」
「お、サンキュっ」
 差し出された焦げ茶色の液体を飲む龍哉。うっ、にげぇ! と顔をゆがめた。
 別にわざとじゃないけどね。
 龍哉が文句を言おうとするのを察した私は、すかさず部屋の隅にある大きな黒箱を指差した。
「これよ、これ」
「ん、この冷蔵庫がなにか?」
「ち、違うよ。サーバーコンピューターだよ」
「へぇー、これがサーバーか。てっきり冷蔵庫のようだけどな」
 物珍しそうに眺める龍哉。
 私は解説を始めた。
「CPUは4・2GHzのを四機搭載していて、RAMは合計六十四GB。HDDの容量は七百TBで、通信は光回線を用いて毎秒……」
 専門用語ばかり出てくるので、パソコンにそれほど詳しくない龍哉にとっては、ただ頭を悩ませただけのようだった。だが、とにかくそれがたいへん性能のよいものだということはわかっただろう。普段は寡黙な私が自慢したくなるくらいのだから。
「――以上でハードの説明は終わり。わかった?」
「ああ、だいたい……」
 龍哉は思わず唾を飲んだ。


 それから私たちは他愛ない話をして、気がつくと時刻は六時を回っていた。龍哉は遅くまで邪魔するとわるいからと帰って行った。
 広い室内に、いつものように独りになった。
 とりわけ龍哉を意識したことはなかったが、いなくなってしまうと寂しくなるものだ。できればもう少しいてほしかった。
 私は仕方なく携帯電話を開き、友人たちからのメールに一通り返信を終えた。
 それから居間にもどり、独りでは広すぎるソファーに腰を下ろし、テレビのリモコンを押した。さわがしいバラエティー番組が映し出され、何度かチャンネルを変えたが、結局興味を引くものがなく、電源を切ってしまった。
 再び静まりかえる室内。
 ――寝よう。例の計画は夜やればいい。
 私はリモコンを使って空調の温度を上げた。そしてそのまま横になり、まぶたをおろした。

1
最終更新日 : 2011-04-05 15:04:37

第2章

 トルストイが「信仰のない人間の生活は動物の生活である」と述べたように、人間は宗教を必要とする生き物らしい。
 実際、いつの時代もいたるところで、神や信仰が人間の手によって創り出されてきた。
 ときには戦争の根源となり、ときにはナポレオンの言うように「庶民を黙らせる都合のよい目くらまし」となり。
 私がこのことに気づいたのはほんの数ヶ月前のことだった。人の集まるところに神が生まれるのなら、ネットの世界に神が生まれても不思議ではないと。
 現に、ネットの掲示板には犯行予告が書き込まれている。まるで目に見えない、誰かからの啓示を求めるように。
 現代において、携帯電話への信仰は神社の御守以上に厚いようだ。人々の誰もが携帯を持ち、肌身離さず持ち歩く。片時も手放さないのは、それがないと不安になるから。携帯はこの場にいない誰かから、お告げを受けるための機械としての役割を持つ。
 しかし、これはあくまで信仰であり、現実に神となるものが存在するわけではない。
 ネットに執着する現代人も、本を正せば砂粒のように孤立した個人にすぎない。その時々で適当な誰かが、適当な返信を与えているだけだ。
 だけどこの孤立した大衆を、ネットの神の信仰という共通の価値観で束ねることができたなら、その利用価値は計り知れないだろう。
 だから私はある作戦を立てた。――孤立した現代人をネットの神への信仰で束ね、私がそこに神として君臨するための。
 もうだいぶ眠った。そろそろ始めないと。
 よいしょっ。
 私はソファーから跳ね起きた。

 翌日の朝――
「ふぁぁ~~~~~~」
 大きなあくびをする。
「あぁ~~~。まだ眠いよぉ~~」
 眠いので片目だけ開けて、現在時刻を確認する。
 壁に掛けられた古風な振り子時計は、十二時七分前を示していた。
 一気に眠気が吹き飛んだ。
「やばぁっ! もうこんな時間っ!?」
 ベッドから跳ね起きた。
 昨夜、例の計画に根を詰めすぎたせいか、目覚ましを止めて二度寝してしまったようだった。
「ああ~、給食が~~」
 私にとって遅刻は珍しいことではなく、むしろ日常的。だが一応、焦る。
 バッグに適当な教科を書詰め込み、セーラー服に着替え、携帯を持ち、化粧もほどほどに部屋を飛び出した。
 こともあろうに、エレベーターは一階に止まっていた。ボタンを押してから来るまでの時間が妙に長く感じられる。
「あぁ~~~。早く来てよ~」
 苛々する。急いでいるときとは大抵こういうものだ。
「あぁー、待ってられんっ!」
 私はは反対側にある非常階段目指して駆け出した。
 非常階段の扉に鍵がかかっていないことは知っていた。扉を勢いよく開け、螺旋階段を駆け下りる。多分こっちのほうが速い。
――カンカンカンカンカン。
 足早に非常階段を駆け下りる。
 もう何回分降りただろうか。夢中で駆け下りる私には分からなかった。
 とにかく必死に走った。もうだいぶ一階に近づいただろう。
「きゃっ!」
 不意に悲鳴を上げた。階段を踏み外したから。
 そして数段転がり落ち、ものすごい勢いで何かにぶつかった。
 どうやら一階の壁に衝突したらしかった。
「くぅぅ~~、いったぁーー」
 適当に教科書を放り込んだ鞄があまりに重く、バランスをくずしたのが原因らしい。
 だいぶ速度が出ていたのだろうか、全身に激痛が走る。そして私の意識は……だんだんと……‥失われて…………いった………………


 目を覚ますと、自分の部屋の見馴れた天井が目に入った。シャンデリアをかたどった豪華な照明が、半分ついていた。
 私が自分の部屋にいるらしいことは分かった。でもなぜだろうか。確かにソファーの上で眠ったはずなのに。
「いてっ」
 起きあがろうとして、体中が痛みに襲われた。
 そうか。たしか一度起きて、学校に行こうとしたんだけ。それでその後――
「気がついたか?」
 突如、横から声がした。
「わっ!」
 驚いて声がした方を見ると、龍哉がいた。ベッド脇の椅子に腰掛け、こちらを眺めていた。
「なっ、なんで龍哉がいるのよ!?」
 喫驚のあまり、痛いのを我慢してとっさに毛布をかぶった。
「姫が今日来なかったからな。様子を見に来たんだが、部屋にはいないし、諦めて帰ろうとしたが、一階の非常口付近に倒れている姫を発見し、連れてきたわけだ。」
 喫驚する私とは対照的に、冷静に説明する龍哉。
 私は毛布から出た。
「わるいとは思ったが、勝手に入らせてもらったぞ。あと、冷蔵庫に入ってた麦茶を飲んだ」
 見ると、龍哉の手にはティーカップがあった。
「そっか……」
「目立った外傷や出血はなく、脈もあったから、すぐ病院には連れて行かなかったが、大丈夫か?」
 そう気遣ってくれる龍哉。
 私はベッドから立ち上がってみた。まだ全身が痛むが、立ち上がれたということは、それほどひどい怪我はなさそうだ。
「うん、大丈夫そう。それより龍哉、私が眠ってるとき、変なことしなかったでしょうね?」
 龍哉に指を突きつけてみる。
 龍哉は紅茶を一口飲んでから、
「お前にか? 残念ながら、俺は、階段を走って転ぶようなお転婆娘に興味はないぞ」
 がーん。お転婆娘……
「時計が十二時ちょっとで止まってたからな。大方、給食に間に合うようにと思ったんだろう」
 そこまで分かるのかよ。――え、時計が止まってた?
 私は腕時計を確認した。文字盤のガラスにひびが入り、龍哉の言うとおり、針が止まっていた。母の遺品だけに、悲しい。
 階段から転がり落ちたにもかかわらず、身体には大して影響がなかったのがせめてもの幸運か。
「あれだけ落ちたのに怪我がないって、私、ついてるよね」
「それもあるだろうが、姫の体重が軽いことも影響しただろう」
「え?」
「重力加速度は、物体の重さにかかわらず9・8程度だ。一方で、力は速度と重さの積だ。仮に姫の体重が常人の二分の一とすれば、計算上、衝突時の衝撃は二分の一だ」
 なるほど……
「運ぶのは楽でよかったが、過度なダイエットは寿命を縮めるぞ。さすがに三十キロはまずいだろ」
「はいはいそうですか。――って、なんで私の体重知ってるのよっ!?」
「運んでくる途中、廊下に体重計があったから乗ってみただけだ。」
「乗るなっ!」
 しばらく龍哉に文句を言うこと数十分。

 一通り文句を聞き終わると、龍哉が口を開いた。
「……それはそうと、うちの学校の給食はそんなにおいしいか?」
「え、どうして?」
「姫は給食に間に合うように必死に走ったんだろ? 俺にはそこまでおいしいとは思えないけどな」
「私だってそれほどおいしいとは思ってないよ」
「ならどうして? 姫の貯金なら、いくらでも高級レストランとかに行けるのに」
 私は溜息をついた。
「お店なんかで食べたらお金かかっちゃうじゃない。貧乏人には分からないでしょうけど、私たち金持ちは自分の財産が減らないように節約するのよ」
 それを聞いた龍哉は、ティーカップの中身を空にして立ち上がった。
「じゃましたな。帰るぞ」
「え、もう帰るの?」
 私は壁の時計に目をやった。まだ五時ちょっと前だ。いくらなんでも早すぎる。
 龍哉は床に置いてあった鞄をとった。
「この豪華な屋敷には、俺のような貧乏人はふさわしくないようだからな」
 ありゃりゃ。怒らせてしまったらしい。
 言い忘れてたけど、龍哉は明治時代から続く高級官僚の家系の出自であり、父親は現在、各都道府県の警察を管轄する官庁の幹部職員だという。すなわち、龍哉は日本の将来を担うパワー・エリートの卵。略してパワエリの卵なのだ。
 それだけに矜恃は高い。だからちょっとからかっただけで落ち込んでしまう。そんなことは百も承知だったのに、私としたことが……
 私はあわてて龍哉の腕をつかんだ。
「待って」
 私は龍哉をずるずる引っぱって、元いた椅子のところまで連れ戻した。
「ごめんね。……私、こんな大きい家に独りだと寂しいから、もうちょっといてくれない?」
「しょうがないな」
 そう言いつつ、椅子に腰掛ける龍哉。
 よかった。
 それから龍哉と色々な話をした。私の独り暮らしのこと、龍哉の勉強のこと、今日の学校でのこと――


 六時を回ったころ、龍哉が再び帰ると言い出した。今度は時間が時間だからしょうがないけれど、寂しいことには変わりない。いつものように独り寂しい時間を迎えるのはいやだ。
 そこで私は思いついた。ふふふ、龍哉を誘惑してやろう。
 私は龍哉を居間に連れて行ってソファーに座らせ、私もその隣にぴったりくっついて座った。
「……なんだよ。こんなに広いんだから、くっつくことないだろ」
 そりゃ広いさ。寝られるんだから。
 私は龍哉に寄り添った。
「ね~、龍哉く~ん」
「急に甘い声を出すな」
「今日助けに来てくれたお礼に、龍哉くんのお願い、何でも聞いてあげるよ。何がいい? 何でもいいよ」
「今度から階段を走らないようにしてくれ」
 即答だった。
「え、あの、そんなことじゃなくて……」
「重要なことなんだ。いくら軽いとはいえ、運んでくるの大変だったんだから」
「う、うん。でもそれだけじゃなくて、もう少し献身的なことで……」
「そういうことなら、たまには放課後の掃除をサボらないでくれ」
「そ、それは前向きに善処するとして……。ほ、ほら、私たちって年頃じゃない? だから――」
「そうだな。来年は受験だから、たまには一時限目から登校してくれ」
 全然だめだ。
「違うよ。そういうのじゃなくてさ、もっと別の……」
「なんだよ、姫の無事と幸せを願っちゃいけないのか」
 その言葉を聞いて私ははっとした。龍哉は自分のことを気にかけていてくれてたのかと。
「そっか、龍哉はそんなに私のことを――」
 だがそれが単なる思いこみであったことを、龍哉の次の言葉で思い知らされた。
「そもそも、姫はタイプじゃないからな」
 がーん。
 私は龍哉の両肩をつかみ、前後に思いっきりゆすってやった。
「このーっ、純粋な乙女心をもてあそんでっ」
「したたかなんだ。これは生来そうだから直せないだろ」
 確かにそうだ。亡き父からも聞いていたが、官僚とはしたたかなものだ。
 私は手を離した。
 龍哉が立ち上がって言った。
「遅くなったな。そろそろ帰るぞ」
「う、うん……」
 私は龍哉について玄関までやってきた。
「じゃあな」
 そう手を振る龍哉を、私は呼び止めた。
「龍哉くん――」
「何だ?」
「もしまた、私の身に万一のことがあったら、また助けに来てくれる……?」
 それを聞いた龍哉は神妙な面持ちをした。
 そして言った。
「ああ。それはいいが、玄関の鍵ぐらい閉めておくんだな」
「えっ、開いてた…?」
「開いてなかったら入れなかっただろ。じゃあな」
 ひらひら手を振って、龍哉は出て行った。
 鍵が開いてたって? そりゃ大変だ。
 私は自分の部屋に飛んでいき、机の引き出しを開けた。
 中にはちゃんと通帳が入っていた。
「よかった~~」
 思わず通帳を抱きしめる私。拝金主義ではないが、お金がなければ生きていけない。
 今度はサーバーの調子が気になった私は、サーバーが置いてある部屋の隅へと駆けていった。
 天井にまで届きそうなほど大きな物体の側面に近寄り、動作状態を示す複数のランプに一つ一つ目をやった。
 特に異常はなかった。
「よかった」
 ほっと息をついて、思わずサーバーに寄りかかる私。
 何事もなくて、本当によかった。もしこれに何かあれば、私が三週間も前から始めてきた計画に水が差されてしまうから。
 さて龍哉も帰っちゃったし、計画の進み具合を確認しますか。
 私は独りデスクに座り、サーバーに接続されていたディスプレイの電源を入れた。
 真っ黒の背景に緑色の文字で、計画の進行状況が一覧表示されていた。私がこの国の征服を達成するまで、あとわずかだった。

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最終更新日 : 2011-03-30 01:24:11

第3章

 目覚ましが耳障りだった。だから止めてしまったらしい。
 私が目を覚ますと、時刻は十二時半を回っていた。給食には間に合わない。
 まあいい。龍哉は私に興味がないということが分かったのだから、今更会いに行く気も起こらない。
 私は再び毛布をかぶった。例の計画なら夜でいい。
 窓の外では雪がちらつき始めていた。


 私がこの国の国民を支配下に置くために作成したプログラムは、それほど複雑なものではないだろう。
 私のプログラムはまず、自動でネットの巡回を行い、連絡先の書き込みを行う。
 書き込みの対象は一般の掲示板、ブログ、プロフィールサイト、出会い系サイトなど様々だ。
 書き込む内容は「メル友になりませんか」「相談に乗ります」「グラスあります」「援助交際しませんか」など複数のパターンから自動生成される。
 それらの内容が私のメールアドレスとともに、ネット上のいたるところに日に何万回と書き込まれていく。アドレスは書き込みごとに違うものが使われる仕組みなので、同一人物による書き込みとは誰も気づかない。
 反響は大きかった。この計画を開始してから数日と経たないうちに、書き込みを見た人々からのメールが、日に何千通と届き始めた。
 だがそれに対応するのもまたプログラムだ。送られてきたメールを解析し、内容に見合った返信を行う。
 送り返す文章は「そうだよね」「大丈夫」「今何してるの?」など予め用意された、当たり障りのない語句から選ばれる。多くの場合、メールでやりとりする内容などこの程度のものがほとんどだから、複雑にする必要はない。
 私が内容以上に気を遣ったのは、返信までの時間だ。人を携帯やネットに執着させ、他に興味が移らないようにするには、メールをやりとりする間隔を極力短くしなければならない。内容なんかより、いつでも一緒にいる感を抱かせることが重要だから。
 その点、私は高性能なコンピューターを用いているから、何万人を相手にしようと返信にかかる秒数はものの数秒だ。それも昼夜を問わず、二十四時間行われる。それにつられてか、私とメールをしている全七千五百万人の平均応答時間はつい昨日、十五分を切った。その時間は今もなお減少を続けているだろう。
 さて、そろそろ状況を確認しないと。
 私はベッドから起きて、ディスプレイの前に座った。
 放っておいても延々とメールを送り続けるシステムを構築しておきながら、私がこうして定期的に操作を行うのにはわけがある。
 一つは進捗状況を確認するため。もう一つはメールの送受信が一定回数に達した相手に対し、ご褒美として私から直々のメッセージを送るのである。
 とはいえここ数日間は、そのような敬虔な信徒の数さえ、私独りでは個別に対応できないほど増加していた。そのためメールを類似の内容ごとに分類し、特定のテーマごとにメールを書き、それを複数に送信するという手段をとった。
 プログラムの表示する情報を眺めていると、私がメールを送ってから、ものの数秒で返信してくる信徒もいる。夜だというのに熱心なことだ。
 私さえ時間を忘れて、メールの返信に勤しんでいた。

 次の日が来た。給食に間に合う時間は過ぎていた。
 仕方がないので、買い置きしてあった食材で済ませようと冷蔵庫を開けたが、ここ数日間家に閉じこもっていたせいで、もう食べられそうなものはなくなってしまっていた。
「どうしよう」
 空っぽになった冷蔵庫に呟く。
 テレビの予報では雪が降るとのことなので、いまから街に出かけるのも大変だ。
 そこで思いついた。信徒たちを使おう。
 私には、私のために昼夜を問わずメールの返信に時間を費やしてくれる敬虔な信徒たちがいる。利用するために手懐けているのだから、ここで使わない手はない。
 自分の部屋に戻った私は、とりわけメールのやりとりが多い信徒に対し、私に食べ物を送るよう命じる同一内容のメールを大量送信した。
 反応は早かった。
 二十分も経たないうちに呼び鈴が鳴ったので、何かと思って出てみれば、ピザの宅配だった。代金はすでに注文者がネットで支払ったそうだ。
 それから寿司の宅配。スーパーのお使いサービス。段ボールに菓子パンを詰めたもの――。
 私が風邪で病床から出られず、お腹を空かせているというように誇張してしまったせいか、いざ私を危機から救おうとばかりに、次から次へと食べ物が送られてきた。
 いくらなんでもこれはやりすぎだ。食べきれないもの。
 忠誠心が高いのはいいけど、次からはもう少し使い方を考えなければならないと、ピザをほうばりながら私は思ったのだった。


 ピザを数切れ食べ終わった私は、送り届けられた食材をできる限り冷蔵庫や棚にしまった。
 だが寿司だけは対応に困ってしまった。高級店のものなのだが、独りですぐに食べきれる量ではないし、生ものだから日持ちしない。
 仕方がないので、私は寿司桶を持って部屋を出た。先日すれ違った後輩のユリアと一緒に食べようと。
 余談だが、そのユリアはドイツ人と日本人の混血らしい。だからジュリアではなく、ユリアというのだそうだ。
 ユリアの部屋はすぐ下の階なので、エレベーターに乗るまでもない。今度は転ばないよう、ゆっくり階段を下りる。せっかくの高級なお寿司だから、大切に運ぼう。
 ユリアの部屋の前までやってきた私は呼び鈴を鳴らした。もう四時を回っているので、きっと帰宅しているだろう。
 待つこと数十秒。返事はなかった。
 あれ、おかしいな?
 諦めて踵を返しかけたとき、不意にドアが開いた。
「――はーい。あれ、緋芽子先輩?」
 携帯を片手に出てきたユリアに、間髪を入れずに寿司を差し出す。
「お寿司、要る?」
 ユリアは驚いたようだった。そりゃそうか。
「……ど、どうしたんです、これ?」
 怪訝そうな顔をするユリア。
「ちょっと手違いで来ちゃったの。一緒に食べない?」
「い、いいですよ。どうぞ」


 ユリアの部屋に上がらせてもらい、ユリアとともに食卓を囲む。あまりないことなので、なんとなく新鮮な感じがする。
 テーブルの中央には寿司桶が置かれている。
 私はまず大好きなマグロを食べてみた。うん、さすが高級店のマグロだけあっておいしい。
 私が感動する一方、ユリアは携帯の操作に熱中しており、寿司にはまったく手をつけようとしていないことに気づいた。
「ねえユリア、食べないの?」
 訊いてみる。
「ちょ、ちょっと待ってください。今このメールを送り終えたら……」
 ユリアはしばらくしてから携帯を閉じた。そして携帯をテーブルの端に置き、割箸を割った。
「では、いただきます――」
 ユリアがそう言い終えるが早いか、テーブルの上の携帯から軽快な楽曲が鳴り響いた。
 ユリアは箸を置き、携帯を開いた。
 操作が終わると、ユリアは携帯を片手に玉子を食べ始めた。
 玉子を半分ほど食べかけたところで、携帯が鳴った。ユリアは再び操作を始めた。
「ねえ、ユリア……」
「何ですか?」
 携帯から目線を逸らさずに答えるユリア。
「ドイツでも、食事中に携帯やってもいいの?」
「分かりません。ユリア、日本から外に出たことありませんから」ユリアは目にも留まらぬ速さでキーを押していた。「でも日本では、みんなやってると思います」
 確かにそれはそうかもしれない。
 でもせっかく持ってきたのだから、どうにか気を引かないと。
 そう思った私は勝手にユリアの箸をとり、食べかけになっていた玉子をユリアの口に近づけた。
「はい、あ~ん」
「……あ~ん」
 ちっとも玉子の方を見ようとしないユリアの口に、慎重に玉子を入れてやる。
 お、ちゃんと入った。
「おいしいでしょ? もっと食べていいんだよ」
「ユリア、玉子が食べたかったんだけど……」
 いま食べさせたのが玉子なんだけど……。
 私はテーブルから乗り出して、ユリアの顔をのぞき込んだ。
「いったい誰とメールしてるのよ?」
「メル友です。こまめにメールをくれる、思いやりのある方なんです」
 ふーん。
 ユリアが続けた。
「でもその方がお風邪を引いてしまい、お腹が空いて困っているそうなんです。だから食べ物を送ってほしいそうなんです」
 風邪で? まさか…
 私は自分の携帯を取り出し、アドレス帳でユリアのアドレスを確認。そしてネットに接続し、自分のサーバーにリモート・ログイン。メールやりとりの対象に、ユリアのアドレスが含まれていないか検索した。
 ……あった。しかも平均応答時間十分未満の優良信徒に分類されてるし。
 私はユリアのアドレスを送受信の対象から外すよう、サーバーに指示を送った。
 これでよし。これでやっとユリアは平穏に食事ができる。
 私は携帯をしまった。
 ユリアもメールの送信を終えたらしく、携帯を閉じた。
 二人で黙々と寿司桶をつつく。このペースでいけば、あと半時間で完食できるはずだった。
 ところが十五分も経たないうちに、ユリアの様子に不審な点が。携帯電話を開いて確認するという行動を、一分おきに繰り返すようになってしまったのだ。
 しかもその間隔は徐々に短くなっていき、今や携帯の待ち受け画面とにらめっこになってしまった。
「どうしたの、ユリア?」
 原因は分かっているが、一応訊いてみる。
「来なくなっちゃったんです、メールが。いつもすぐ返してくれてたのに、どうしたんだろう。ユリア、嫌われちゃったのかな……」
 今にも泣き出しそうな声で言うユリア。
「死んじゃったんじゃない? メールのやり過ぎで」
 ちゃかしてみる。
 しかしそれを聞いたユリアは真っ青になった。不意に立ち上がり、何か懇願するように携帯を握りしめたまま、左右に行ったり来たりし始めた。文字通り、右往左往だ。
「どうしようどうしよう……。いつもユリアの悩みを聞いてくれてたのに。いつも側にいてくれる、大切な人だったのに」
 ついにユリアは床にへたりと座り込み、泣き出してしまった。
 私は仕方なく再度サーバーにログインし、ユリアへのメールの送信を再開させた。
 私が処理を終えて携帯をしまった瞬間、ユリアの携帯が鳴った。途端、ユリアの顔に色が戻った。
「よかったぁ~~~。無事だった~~」
 着信したメールを確認し、携帯を抱きしめるユリア。あまり心臓に近づけると、電波が体に悪いと思う。
 だがそのような心配は、次のユリアの言葉にかき消されてしまった。
「よかったぁ~。ユリアの天丼、食べてくれたんだ」
 ちょっと待った。
 今ユリアはなんと言っただろうか?
「ユリア、もしかして天丼の出前を頼んだ?」
「はい、頼みました」
 がーん。もう食べきれないって。
 ユリアは嬉しそうに携帯を握りしめつつ、私は泣く泣く食事を再開した。


 すべて食べ終えたのは、夜が更けてからだった。
 ユリアに別れを告げた私は、自分の部屋に戻った。玄関ドアの前には、お盆に載った天丼が置かれていた。
 いくら本名こそ明かしていないとはいえ、部屋番号で気づかなかったのだろうか、ユリアよ……

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最終更新日 : 2010-12-06 14:31:58

第4章

 それからというもの、私は何の不自由もない安楽な暮らしを送っていた。
 お腹が空けば食べ物を送らせることができる。お金がなくなれば私の口座に振り込ませることができる――
 後はこうやって、徐々に信徒たちを私の命令に従うことに慣れさせていけばいい。信徒たちの興味が他に移らないよう、返信を絶やさないよう注意しながら。
 私は信徒たちから集めたお金を使い、さらなる信仰の拡大を目指してコンピューターの処理能力を増強した。
 私が配下におく信徒の数は、鰻登りに増えていった。


 ある日、私は父の書斎にいた。特にすることもなかったし、ここ数週間休んでいる学校に、今更顔を出す気にもなれなかったから。
 窓が一カ所しかないので、室内はあまり明るくない。私がここに立ち入るのは専ら、浅水家の財産にかかる書類を探すときか暇なときだ。
 生前、父の使っていた革張りの椅子に腰掛け、足で床をけり、くるくる回転してみる。四方の壁を埋め尽くす書物が次々と視界に入る。
 その中の一つが目に入ったとき、私は足で急ブレーキをかけた。立ち上がって、本棚から一つの本――介護現場の実情について書かれた本――を取り出した。
 そういえば父は生前、事業で稼いだお金の一部を、いつも老人ホームに寄附していたっけ。年々深刻さをまして止まない、介護現場の人手不足の解消につながればって。日本を、誰もが安心した老後の生活が送れる国にしたいって、言ってたね。
 志半ばで死んじゃって、残念だったね、お父さん……
 私は本を抱きしめた。涙が出てきた。
 最近ではあまりないと思っていたけど、まだ時折昔のことを思い出して悲しくなることがある。
 本を戻した。
 そのときふと、信徒の存在を思い出した。
 自分の部屋に行き、ディスプレイに向かった。全国の信徒に命ずる内容は、地元の老人ホームでボランティア活動をすること。
 メールの送信を終えた私は、天国の父に語りかけていた。もうすぐお父さんの願いが叶うからね、と。


 翌日の昼、ソファーに寝っ転がり、何気なくテレビを眺めていた私は、あるニュースに釘付けになった。
 全国各地の老人ホームに、今朝早くから大量のボランティアが出現したという。
 マイクを向けられた施設職員は「突然のことで驚いているが、人手が足りず困っていたので助かる」と話していた。
 インタビューを受けたボランティアたちは「親しい友人の勧めでやってきた」「入居者にも職員にも感謝され、来てよかった」などと語っていた。
 思いの外早かった成功に、私は胸をなで下ろした。父の願いを叶えることができて、本当によかったと。
 私は自分の部屋に向かい、信徒たちに労いの言葉をかけるとともに、今後も活動を継続するように指令を出した。


 計画を始めてから、三ヶ月が経とうとしていた。
 ある日の昼下がり、私はいつものようにソファーに横になって、信徒からの食べ物が送られてくるのを待っていた。
 ところがこの日は、いつまで待っても呼び鈴が鳴らなかった。
 私はそれでもしばらくソファーでごろごろしていたのだが、夕方になっても誰も来ないので、これはおかしいと思った。よいしょと起きあがり、サーバーの確認に行った。
 私はてっきり停電したか、サーバーが不正侵入されたかのどちらかだと思っていた。
 だが煌々と輝くディスプレイの表示を見るに、そのいずれでもないことが判明した。そもそも私が、私の管理するコンピューターに侵入を許すなどあり得ないことだった。
 はてな。
 ではなぜ急に食べ物が届かなくなったのだろうか。
 私はキーボードを叩いて、プログラムの作動状況に異常がないか調べてみた。
 特に変わったことはなかった。メールは正常にやりとりされているし、信徒からの平均応答時間はたったの十秒だし――
 ちょっとまった。十秒などという数値が、本当にあり得るだろうか?
 いくらあのユリアのように頻繁にメールを確認していたとしても、十秒でのメール返信を続けるなんて人間業じゃない。
 信徒の数も異常だった。――二億八千万……ってネットの契約者数はおろか、日本の総人口を超えてるじゃない!
 私は急いでキーボードを叩き、原因を調べてみた。
 原因は簡単なことだった。
 多数のアドレスから、同一内容のメールが数秒おきに大量送信されていたのだった。平均値が減少したのも頷ける。
 表示上は別個の信徒のアドレスだが、おそらくコンピューターを使って同一人物が送っているのだろう。
 私が何かを要求するときは、とりわけ返信時間の短い敬虔な信徒を選んで送るから、そのアドレスばかりにメールを送ってしまったのだろう。
 私はその大量に送られてきたメールの内容を確認してみた。

 神様気取りのあなたへ
 あなたのやり口はわかっています。私も同じ方法で幾万もの人間を虜にしていたというのに、最近返信が遅いからどうしたのかと思えば、あなたとメールをしているじゃない。
 私の大切な奴隷たちを奪わないでよ。
 今の状況が長引けば、お互いにとって不利益なのは言うまでもない。どちらが本物のネットの神か、白黒つけようじゃない。

 末尾には待ち合わせ場所と日時が書かれていた。日時はあす正午。場所は私の知らないところだった。
 場所は分からなくても、携帯にはナビ機能があるから大丈夫。何かあれば連絡だってすぐとれるし、恐れることはないはずだ。
 よし、決着をつけよう。
 私はメールを自分の携帯に転送した。そして外出の準備をし、今日は明日に備えて早く寝ようとベッドに潜り込んだのだった。

 翌日の朝、私は携帯電話のナビ機能に導かれて家を出た。
 時刻は午前八時。今日は平日なので本来なら登校する時間だが、今はそれどころではなかった。ネットに君臨する神の座を巡る戦いが待ち受けているのだから。
 しかし私自身、決着をつけるとはいえ、それがどのようなものになるかは想像もできなかった。
 けれども大丈夫。私には携帯電話と、それによって束ねた幾千万もの信徒がいる。
 サーバーがメールをやりとりする対象からは予め、挑戦状が送られてきたアドレスを抜いておいた。
 たとえ私が危機に瀕しても、いつでも道ばたにいる見ず知らずの同志たちが助けに来てくれる――
 その安心感からか、私の足取りは軽快だった。
 携帯の指示通り、すでに何本もの電車に乗り換えた。中には新幹線もあったかもしれないけれど、改札にピッと携帯をかざしているだけの私には、そんなことはどうでもよかった。
 最後に知らない駅で降車した。そして知らない街を、知らない野を、携帯の画面だけ見つめたたまま歩き続けた。
 そしてとうとう私は、見ず知らずの相手が指示した時間、指示した場所にやってきてしまった。
 猫の子一匹いない平原。私はその真ん中に突っ立っていた。
 なんだ、誰もいないじゃん。遅刻なのだろうか。それとも私に怖じ気づいて逃げたのだろうか。
 いずれにせよ、相手と連絡を取らねばならないだろう。私は挑戦状の送り主のアドレス宛に、メールを送信した。
 返信はすぐに来た。
 寝坊をしてしまったので、待ち合わせ場所を変更してほしいとのこと。
 時間にルーズなやつだ。仕方ない。移動しよう。
 私は新たに指示された場所をナビに入れ、次の行き先を表示した。それほど遠くない場所のようだった。
「なんだ、近いじゃん。首を洗って待ってろよ」
 私は意気揚々と歩き始めた。


 見つめていた携帯電話の画面に、ぽつりとしずくが落ちた。見上げれば、雨。
 少しは上を見て歩くんだった。
「どうしよう。傘、持ってきてないよ……」
 辺りは暗くなりかけていた。二度目の目の目的地に向かい始めてから、かれこれ数時間が経過していた。
 雨足は次第に強さを増し、雨から雪へ変わり、吹雪のようになっていった。
 せっかく来たけど、もう今日は引き上げた方がいいかな。だいぶ家から遠くまで来ちゃったし。
 でも大丈夫。帰ろうと思えばいつでも携帯が導いて――
 そう思っていた私は、携帯の画面を見て絶句した。
 電波の感度を示す棒が一本もなく、代わりに赤く「圏外」の二文字が表示されていた。
 これではナビ機能を使うことや信徒に指示を出すことはおろか、誰とも連絡を取り合うことができない。
 私は携帯を高くかざしてみた。だけどその表示が変わることはなかった。
 飛び跳ねてみた。ぶんぶん振ってみた。駆け回ってみた――
 その様はまるで、近くに誰かがいれば、私が狂っていると思うほどだっただろう。
 現に私は、私が駆け回って地面の石に足を取られ、力なく雪の上に倒れ伏したときに、自分が狂っていることを知った。
 くじいた足では立ち上がれず、また数時間にわたって山中をさまよい歩いた私には立ち上がる気力さえ残されていなかった。
 辺りにはもう雪が積もっていた。そして私の上にも。
 頬に降り積もる雪が冷たい。
 次に生まれたときは、今以上に現実の人間関係を大切にしよう――最後にそれだけ誓って、私はまぶたをおろした。

「やれやれ。また気を失っているのか」
 遠くの方から、そんな声が聞こえてきた。私は夢を見ているのだろうか。
 そしてその後、身体がふわりと宙に浮くような感覚。ああやっぱり、私は死んだんだ。
 親不孝な娘でごめんなさい。これから謝りに行きます。
「おや、少し太ったようだが、あいにく乗せるべき体重計もないしな」
 耳元でそんな声が聞こえてきた。
 間違いない。私が聞き間違えるはずがない。この声は――
「――龍哉っ!」
 私は思わず叫んでいた。
「おわっ」
 びっくりする龍哉。あわてて私を落としそうになる。
 気をつけてよ。
「気づいてたのかよ」
 龍哉が言った。
「龍哉、どうして……?」
 私の目からは涙があふれていた。
「助けに来るって約束だっただろ」
「でも、どうしてここが……?」
「姫 が最近姿を見せないから、心配してたんだ。クラスのやつが言うことには、きょう姫が歩いているのを見かけたが、私服だったし、明らかに学校とは違う方向へ 向かっていたと」私を抱きかかえたまま歩きながら答える龍哉。「気になって姫の部屋に行ってみれば留守。諦めて帰ろうと思ったが、すれ違うやつがいたから 見てみれば、特殊な形状のイヤホンをしてたんだ。ひょっとして公安部かと思って電話で父に確認すれば、やはりそうだ」
「うそっ、公安の人……?」
「姫は公安の情報収集能力を甘く見すぎだ。日に何億ものアドレスにメールを送って、マークされないとでも思ったか」
「……な、何億ものって、そこまで知ってるの?」
「だ いたいの話は父から聞いた。心配になった俺は、姫の現在地を教えるように頼んだんだ。大まかな位置は携帯の基地局の位置で把握でき、俺はそこに向かった。 だが問題は正確な位置だった。姫が山の奥深くまで迷い込んだせいで、こっちで用意したヘリでは捜索ができず、結果として他省に協力を依頼しなければならな くなってしまった」
「それってまずいの……?」
「姫の想像以上にな。協力してもらうということは、他省に借りをつくるということだ。庁益を損なったと、父が立腹でね」
「龍哉、怒られるの?」
「だろうな。本来なら見殺しにしてもよかったところ、俺のわがままを通してもらったんだからな」
「……ごめんなさい」
 謝ってもどうしようもないかもしれないけど。
「ならせめて、あの冷蔵庫みたいなのを公安に譲渡してくれないか? そして姫が今までどんなことをどのようにしてきたのか、包み隠さず話してくれ」
「えっ?」
「気づいているだろうが、ネットに君臨する神のごとく振る舞う者は、姫一人じゃない。もし今後、他の者たちが人々を操り、犯罪に利用するようなことがあれば、その対策には、姫の教えてくれる知識が大いに役立つはずだ。そうすれば俺への叱責も、少しは軽くなるだろう」
「うん。そうするよ」
 龍哉に抱かれて山中を進んでいくと、やがてプロペラの音が聞こえてきた。見れば遠くの方に、二機のプロペラを備えた大型のヘリコプターが停まっていた。
 プロペラの音は次第に大きくなっていき、ついには耳障りなほどになった。乗り込んだヘリの中で、隊員と思しき人たちが私を介抱してくれた。
 担架に横たわった私は、龍哉を手招きし耳打ちした。
「助けに来てくれたのはとってもありがたいんだけれど、費用は後で請求されるよね? いくらくらいかな……」
「姫が払いたいならそれでも構わないが、一応、通常の演習の費用として計上されることになっているそうだ」
「へ? そうなの?」
「知らない。聞かなかったことにしてくれ」
「う、うん……」
 ここは素直にパワエリ万歳と喜ぶべきだろうか。
 やがてヘリコプターは浮かび上がり、空高く舞い上がった。行き先は霞ヶ関の合同庁舎だそうだ。
 いま気づいたけど、携帯は転んだとき、あの雪山に落としてきてしまったようだ。
 でも後悔はしていない。私はそれ以上に大切なものを得られたのだから。
 私は龍哉の手を握った。
「ねえ、龍哉」
「ん、何だ?」
「これからもずっと、一緒だよね?」
「ああ」
「これからもずーっと、ずーっと一緒だよね?」
「ああ。一緒だ」
「結婚する?」
「かもな」
「かもなじゃなくて、確約してほしいの」
「それは無理な注文だな。官僚っていうのは、確定的なこと言わないんだ」
4
最終更新日 : 2010-12-06 14:32:11

エピローグ

 エピローグ


「いってらっしゃいませ」「いってらっしゃいませ」
 走り去る黒塗りの高級乗用車に、龍哉と二人して礼をする。
 場所は龍哉の家の前。
 あの事件から二ヶ月後、私は龍哉と一緒に暮らしていた。要するに、引き取ってもらったのだ。
 私のマンションの一室はもう引き払った。亡き両親との想い出の詰まった場所だったけれど、もう戻ることはない。私は新たな私として、新たな人生を始めるのだ。
「姫、俺たちも行こう」
 龍哉と並んで通学路を歩く。
 学校まで半分と言うところまで来たころ、龍哉が言った。
「少し急ごう。間に合わないとまずい」
「大丈夫だよ。ゆっくり行こうよ」
「授業に遅れるわけにはいかないだろ。俺はいつも走ってきてたんだ」
「え~。ちょっとくらい遅れたっていいじゃん。そもそも見送りの時間が遅くない?」
「官僚は九時半出勤だから仕方ないんだ。それに俺たちはこれからしっかり勉強しないといけないだろ」
 俺たち?
 私は自分を指差して言った。
「私も?」
「もちろん。如月家が代々、高級官僚を輩出してきた家系であることはことは姫も知ってるだろ。姫は今やもう、如月家の長女なんだからな。しっかり頼むぜ、姉さん」
 がーん。私までも……
 そう、龍哉の誕生日は十月七日。私の誕生日は十月五日。私はたった二日違いで龍哉の姉になったのだった。
「ほら、行こう。たとえ前途多難だろうと、俺がついてる。俺たちはずっと一緒だって言っただろ」
 言い終えるや否や、龍哉は私の手をとった。
 私は龍哉に手を引かれ、学校までの道のりを駆けていった。
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最終更新日 : 2010-12-06 14:32:21

この本の内容は以上です。


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