目次
1
2
3
4
5
6
7
8
9

閉じる


1

 最後の日、寛司が披露した手品は、一〇枚の写真だった。
 観客であるはずの僕も指名を受けて舞台に引っ張り上げられた。
 一時間で一〇枚撮影してくること。多くても少なくても駄目で、撮り直しも禁止。
 構えもなしで取り組むには難題だったが、寛司の提案を僕は受け容れた。

 待ち合わせは寛司に教えてもらった喫茶店で、八月の土曜、午後一時ちょうどに到着すると席はほとんど女性客で埋まり、焦茶色の店内はおしゃべりで充満していた。黒のシャツに黒いエプロンの女性が近づいてきて、いらっしゃいませ、と表情ひとつ作らず告げた。「待ち合わせなんですけど」奥を覗きながら言うと、店員は先に歩き出した。ガス灯を模した照明が店内に琥珀色のグラデーションを注ぎ、カウンターの向こうでは店主がコーヒー豆を煎っている。前に寛司がどこまで苦くできるものなのか店主に尋ねると、舌をもぎとるほど苦いコーヒーを出され、「どこまでも」と初老の男は答えたそうだ。
 案内されたのはいちばん奥のテーブルで、寛司の姿はなかった。冷たいものを頼めばすぐ寒くなるだろうと踏んでブレンドを注文し、来る途中に買った単行本を読み始めた。五ページ進んだところで顔をあげた。
「なに読んでんの」
 寛司が僕を見下ろしていた。僕は書店の紙カバーを剥いて表紙を半分露わにした。ふうん、と顎を動かしつつ、寛司は向かいに腰掛けた。緑色のポロシャツにブルージーンズでがっちりした体格を誇張しているようにもうかがえるが、そんな意図はないだろう。僕とふたつ違いで三十も半ばだが、やや伸びすぎの髪や陰影の少ないぼんやりとした顔に「年相応」とか「風格」と形容できる要素はひとつも見当たらず、老けた高校生、というのがしっくりくる。塾講師という生業も影響しているのか、妹と三人でカラオケに行ったときも寛司のレパートリーがいちばん広かった。
「それ、読もうか迷ってたんだ。どう?」
「難解だね、相変わらず」答えながら僕はカバーを戻した。
「その人の文章はいつもややこしいよね。あ、すみません、オ・レ・グラッセひとつ。でも言ってること自体は見かけほどでもないんだ」
「そう?」
「俺はそう読んでる」
 既に六度は読み返した冒頭の一文を改めて辿ってみたが、寛司の言わんとするところは測りかねた。
「言いたいことなんて人にやさしくとか愛こそがとかだったりで、だけど学校の掲示板に貼られた今週のお言葉みたいにまっすぐに書いてもそりゃそうだってことにしかならないから、ややこしい迷路をぐるぐるじんわり辿らせることで読者自身がさもそれを発見したように錯覚させる」
「まあ、それはたいていそうだ」
「みんな先入観ばかりに目を取られすぎなんだよ。こないだもさ、塾の子がドストエフスキーを頑張って読み通しましたって言うんだ。結果、なに言いたいのかぜんぜんわからなかったって愚痴られてさ、あれ何が言いたい話なんですかって訊いてくるから、悪いことしたら駄目ってことだよって返したら、え? そんなこと? とか驚かれて。そりゃ、俺が読んだときにはいろいろ思うところもあったし、いまだに思い返して悩む部分もあるわけだけれど、それはどれも結論とか答えとかじゃなくて、だいたい疑問の形で残ってるもので、答えの候補がハエ取り紙みたいに頭のちょっと上あたりにぶらさがってて、疑問こそ答えだって言ってもかまわない気になるんだけど、真顔で言ってもキモイとかで片付けられるの見えてるからさ……」
「どうした?」
「いや」
 右手で左手の甲を寛司は何度か掻いた。オ・レ・グラッセが運ばれてきた。細長い円筒形のグラスの下層三分の一ほどがコーヒー、その上に牛乳の白く厚い層が積もった飲み物。グラスを傾けると唇に触れるところでふたつの色が静かに混じり合う。メニューがオ・レ・グラッセひとつきりでもその店はやっていける、というのが寛司の見解だった。僕はバッグから縦長の茶封筒を取り出し、テーブルに置いた。寛司はこちらの動作に注意を払わないどころか、耳目が機能を停止したかのようにグラスを持ったまま固まっていた。僕は封筒をもう一押しした。
 妹からの預かり物は義弟への「最後の届け物」とだけ知らされていた。書類は役所に提出済みだと聞いていたから、ふたりの離婚の仲介人になるわけではないとわかっていたものの、しっかり糊付けされた封筒の中身が離婚と無関係のはずはなく、郵送で万に一つでも届かなければ困るものだと妹からは念押しされてもいた。

2

 寛司を紹介されたのは四年前のこと。妹も東京に出てきて長かったが、四つも年が違えば兄妹といえど付き合いは薄く、生来の経験から互いにベストな距離をキープしていた。結婚の報せも母からまわってきた。ついては食事会を催す運びになったので出席するようにとのお達しで、バツイチの兄など不要だろうと申し出たが、旅費も出すというので久々に九州へ帰った。
 熊本の老舗ホテルで会は開かれた。前日に実家へ帰っていた僕は、両親と三人、タクシーでホテルに向かった。ひどい雨降りだった。車寄せでドアが開くと上品な緑色の制服を着たボーイが僕らを迎えた。なにか挨拶を口にしたのだろうが、雨音が掻き消してしまった。車寄せのガラスの屋根越しに見上げるホテルは、首が痛くなるほど高い。「結婚生活は山登りに似ています」僕の披露宴で上司がスピーチの枕に置いた台詞を思い出した。「おふたりはこれからじっくりと時間をかけて山の景色、そこから見下ろす地上の絶景を満喫しながら、ともに歩んでゆくため、きょう、ここでいっしょになるのです」そんな計画はなかった。妹たちにもないだろう。二九歳の滑り込み、と妹は自称しているそうだ。できちゃった、ではないことのほうがうちの両親にとっては吉報だったようだ。
 格式張ったものではないという話だったので僕も父もジャケットにノータイ、母は濃紺のワンピースを着ていた。エレベーターに乗り込み、目的階のボタンを押したところで人が飛び込んできた。妹だった。オレンジ色のTシャツにデニム地のショートパンツという格好で、汚れたスニーカーは水を含んだ気色悪い音を鳴らした。髪も惨憺たる状態で、唖然とする僕らに妹は「ひさしぶり」と頭を振りながら言った。
「なんだおまえ」父は一歩さがった。
「わかってる、着替えるって」
 妹が真っ黒で大きな紙袋を持ち上げてみせた。エレベーターの扉が閉じた。
「もう時間だろう」父が顔をしかめた。
「先、始めといてよ」
「馬鹿かおまえは」
 エレベーターの扉が開くと、ガタイのいい男が立っていた。チノパンに白いワイシャツを着て、右耳のあたりで髪が跳ね、シャツの襟も右側が折れ曲がっていた。「寛司」と妹は一言だけ残して彼の横を通り抜けてトイレに走った。寛司が頭をさげる。彼についていくと、廊下のソファに寛司の両親が沈んでいた。どちらも七十は超えているだろう。両親というより祖父母の印象で、僕らはほかにやりようもなく、高いところから挨拶した。トイレから駆けてきた妹はまっ赤なワンピースに金色のサンダルという格好で、安物ではないのだろうが、破談の二文字がちらついた。
 食事会は言葉少なに終了した。最後に結婚の日取りについて寛司が切り出し、誰も異存を挟んだりしなかった。
 個室を出ると妹が僕を呼び止め、あらためて寛司を紹介してくれた。
「よかったね、弟」
 意地悪な調子を込めて妹は言った。
「うちの兄ちゃんってさあ、喧嘩するたんびにおまえが弟ならよかったのにって言ってたんだよ。寛司、仲良くしてやってね」
「よろしくお願いします」
「よろしく。あのさ、寛司くん、気になって仕方なかったんだけど、その、襟」
 指摘されて彼は襟を正した。しかし、癖がついているのか、すぐまた曲がった。
「駄目ですね」と寛司は笑った。
「ちょっと、いきなり性格悪いとこ見せないでよ」妹が巨大な紙袋で攻撃してきた。

3

 二度目に会ったときも寛司の襟は折れ曲がっていた。結婚式の二週間ほど前、東京でのことだ。
 妹に呼ばれ、日本家屋を模した居酒屋へ行った。ふたりはまだで、先にビールを飲み始めた。一杯目を飲み終えるころに妹たちが到着した。「すみません、おそくなって」寛司が頭をさげた。白とグレーのチェックのシャツの右襟がみっともない形をつくって、あらぬ方向を指している。妹は口も開かず、どかっと座った。結婚中止の報せでも持ってきたかと僕は訝しんだ。寛司はベレー帽を被っており、一向に脱ぐ気配もなかった。
「もうさ、兄ちゃんやってくんないかな」唐突に、妹が言った。
「なにを?」
「両親への手紙。もー、やだ。めんどくせー」
 ビールを注文し、乾杯したあとも妹の話題は感謝の手紙に腹が立つというばかりで、寛司はといえば運ばれてきた料理を取り分けたりしていた。そんなにイヤなら段取りから外せという僕の助言を、妹は尖った目つきで押しのけた。
「そんなわけにいかないのわかってんでしょ? 自分ときもやってたじゃん」
「失敗例を参考にすべきとは思わないけどな」
「はいはい」
 妹がトイレに立つと、寛司はチーズフライをひとつ右手にとった。見ると、左の掌を開いて上に向けている。そこへフライを載せた。とっくに冷えているだろうから心配はなかったが、なにをやっているのかわからなかった。
「イタダキマス」
 甲高い声がどこからか聞こえてきた。寛司の声は低いはずだし、なにより彼の口は微動だにしていない。なんか言った? そう訊こうとした矢先に寛司の左手は五本の指を折り曲げてチーズフライを覆い隠した。そして、さも波打っているかのように指を順番に動かし、その動作にあわせて「ムシャムシャ」と、やはり甲高い声が聞こえた。最後に「ゴチソウサマ」とその声は言った。真顔で脈絡なく腹話術を披露する寛司を僕は面白く見ていたわけだが、それで終わりじゃなかった。閉じた左手の指を端から開いていくと、なにもなかった。チーズフライどころか、衣のかけらひとつ落ちていない。
「手品?」
 こちらの問いに答えるかわりに寛司は握り拳をつくった右手をテーブルの上に置いた。指が開かれるとそこにチーズフライが横たわっていた。無傷で。その姿が見えたのはわずか一瞬で、寛司はそれをぱくりと食べてしまった。頬に添えられた左手が彼の耳元へ近づき、「オイシー?」と訊く。寛司は咀嚼のリズムにあわせて何度かうなずいた。
「モウイッコ!」
 陽気な声が聞こえた。左手が、いつのまにかチーズフライをもうひとつ握っていた。寛司が大口を開き、今度はスローな動作でチーズフライを食べた。
「にいさんの趣味ってなんですか」
 前置きなく切り出され、ショーが終わったのだと僕は理解した。
「強いていうなら読書、あと、写真が少しかな」
「ぼくも同じです。でも読書も写真も趣味としては弱い、信頼が薄い印象あると思いませんか」
「信頼?」
「当たり障りなさすぎというか、私はつまらない人間ですって喧伝してるみたいな」
「ああ、まあ」
「だからぼくは手品教室に通ったんです」
「なに、もう手品の話?」
 戻ってきた妹は寛司の肩に手を置いて座った。
「それよりどうする? プレゼント」
 話題は手品から両親への贈り物へ移った。
 さらに一時間ほど過ぎただろうか。お色直しのあいだ、新郎はどうしていればいいのかと寛司に訊かれた。
「友達とかがビール持ってきてくれるから、新郎は新郎で楽しくやってりゃいいよ。時間になったらスタッフが連れ出してくれるし」
「そうだ、寛司、わたしがいないあいだに手品やれば?」閃いたというふうに妹が勧めた。
「いいよ、そんな」
「ね、鳩出してよ、鳩」
 シルクハットから真っ白な鳩がはばたく場面を想像し、それならめでたい席にぴったりかもしれないと僕は考えた。
「じゃあ」
 もったりとした口調で言ってから、寛司はベレー帽を脱いだ。頭の上に白い物体が載っていた。おしぼりで作った、不格好な鳥だった。妹が苦しそうに笑った。
「今やってなんて言ってないじゃん! ていうか、いつ? いつから仕込んでた?」
 妹がおしぼり鳥をつまみあげ、テーブルの上に置いた。僕も笑った。
 そうして寛司は僕の弟になった。

4

 手品教室の講師は四十半ばの猫に似た顔立ちの男性マジシャンで、いつも同じ黒いビロードのジャケットを着ていたという。いくつものタネが仕込まれた一張羅だった。百貨店主催のカルチャースクールで見つけた講座で、レッスンは隔週、受講者は寛司を含めて五人。一度の授業で一つか二つのマジックを教わる。専用の道具は不要で、フェイスタオルやゴムボール、新聞紙、ジュースなどを持参した。「日用品でできるマジック」がテーマだった。
 寛司と僕はすっかり打ち解け、仕事帰りに落ち合って飲みに行くこともあり、手品教室の話も飲んでるときに聞いた。
「慌てないことが基本だって最初に叩き込まれて、一度タネを仕込んだなら、あとは流れの中で最適な瞬間をじっと待つこと。見せたい部分だけを見せるためには、その場ですぐに驚かせようなんて考えてはいけない。場の流れを制御するのはプロにも難しいんだから、素人ならなおさらだって」
「じゃあ、無駄に終わるタネもあるわけ?」
「あるある。あと、マジックの仕上げは元に戻すことだって言われた。お札破ったり、剣突き刺したり、コップの水を消したりするけど、どれもやりっぱなしじゃない、確実に復元できることが前提で、見る側もそれは期待してるってか信頼してるっていうか、つまりさ、ほんとは誰も変化なんて望んでないんだ」
 おしぼり鳩のマジックを僕は教わったが、誰かに披露したりはしなかった。手品によって寛司との仲が深まることもなかった。僕たちを結びつけたのは読書と写真だった。小説を貸し借りするのが習慣となり、古書店を巡るときにも寛司の傾向を購入の検討材料に入れるようになった。
 写真について言えば、僕は構図を優先する。寛司は直感でシャッターを切った。構えて指先に力を加えるまでの時間がまるで違う。
 初めてコンパクトデジカメを手にいれたとき、一日にきっかり一〇枚撮影するというルーチンを寛司は自らに課したそうだ。最初の数日は被写体を慎重に吟味した。悩みに悩んで切り取った場面は夜店で買ったおもちゃのように、翌朝には色褪せて見えた。ある日を境に、即座にシャッターを切るようになった。気にかかるものが視界に入ると反射的にレンズを向け、画面を見ずにボタンを押す。そんな乱暴なやり方でも、ハズレを引く率は日に日に減っていったという。
 僕も一日一〇枚に挑んでみたが、仕事で遂行できない日が続き、ひと月と続かず頓挫した。掻き集めた写真たちをディスプレイ上に並べてみれば、僕の写真は額に入れるもので、寛司のそれは記憶に近い。妹を撮ったものもいくつか見せられた。どれも知らない顔だった。

5

「寛司は中身知ってんの?」
 渡したばかりの封筒を僕は指さした。
「想像はつく。にいさんは?」
「知らない」
「気になる? ならここで開けるけど」
「いいよ」
「見ちゃダメって言われてる?」
「じゃないけど」
 寛司は封筒を手に取り、軽く振ってみせた。カシャカシャと軽い音が響いた。万国旗だの一輪の花だのが出てきそうだったが、そこにはタネも仕掛けもなかった。
 コーヒーを飲んでしまった。女性客たちの笑い声は絶えず、愉快な空気の襞に隠れるように僕らは会話を続けた。
「ところでにいさん、すこし時間ある? これから……、一時間くらい」
「あるけど」
「デジカメ持ってる?」
「ああ」
 僕はバッグから黒いコンデジを出した。これから一時間で一〇枚の写真を撮影してこないかと寛司が提案した。互いのデジカメを交換して。
「なんで」
「記念みたいじゃない?」
「記念?」
「そう。今日の心情を写真に託して贈りあう」
「なんか、あれだな、俺と寛司の別れ話みたいな」
 そして僕たちは、いったん店を出た。
 喫茶店は傾斜のきつい坂道の途中にあって、僕が上へ、寛司が下へ向かった。外の暑さは乱暴なほどで、日陰を飛び石みたいに渡り歩いた。並びには雑居ビルがしばらく続き、その先にパチスロの店が一軒あった。賭け事にのめりこむ人々は絵になるかもしれないと思い、オレンジの看板を目指しながら、そこで採取できるだろう構図を想像した。だが、大音量のマーチを浴びると気後れしてしまった。店内で遊ぶこともなく撮影していれば追い出されるに決まっている。隠し撮りでは満足いく場面など撮れない。そもそも、一時間で一〇枚は難題だ。
 道が平坦な場所に出て建物たちの背が低くなった。影は短く、僕は壁に寄り添って歩いた。白い壁が続いた。寛司たちの披露宴を思い出した。
 白々しいほどの好天の日。生活感の抜け落ちた高級住宅街に紛れた式場でのこと。白壁と濃緑色の樹木に囲われた夢の国。親族紹介に出席するため早めに到着した僕はカメラ片手に庭園をうろついた。噴水近くの茂みに、ねぼけまなこのこびとの置物を見つけた。こういう写真もあっていいかと判断してその場にしゃがみこみ、最適なアングルを徐々に追い詰めるように探っていった。納得できる絵がディスプレイにはまったとき、シャッターを切った。画面が暗転し、撮影したばかりの一枚が表示された。
「いいの撮れました?」
 背後から声をかけられ、びっくりして振り返ると光沢感のあるグレーの衣裳を着た寛司が僕を見下ろしていた。
「花嫁は準備中だし、出歩くのはみっともないとスタッフに言われましたけど、にいさんの姿が見えたものだから」
 寛司はそう説明して、はにかんでみせた。

読者登録

中山智幸さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について