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プロフィール


西嶋一泰@souryukutsu

一九八五年、大分生まれ、東京育ち、現在は京都で独り暮らし。立命館大学先端総合学術研究科の大学院生。専門は民俗芸能の現代史。主な論文は「一九五〇年代の文化運動のなかの民俗芸能 原太郎と「わらび座」の活動をめぐって」 『コア・エシックス』六号、二〇一〇年。サブカル・デジモノも大好物。アユラでは編集を担当。


深津謙一郎

一九六七年三月、東京生まれ。専攻は日本近代文学。好きな作家は村上春樹。現在は共立女子大学で「日本文学演習」や「卒業論文ゼミナール」などを担当。共著書に、『村上春樹と小説の現在』(和泉書院・近刊)、『日本文学からの批評理論』(笠間書院)、『表象の現代』(翰林書房)などがある。


マリン(@marinx)

慶應SFCの大学院生(M2)。西嶋&深津先生とは高校時代からの「幼なじみ」で一〇年来のお付き合い。政治学、政策分析、世論調査などで論文書いてます。二〇一〇年は本厄&大殺界(笑)で大変な年でしたが、残すところもあと少しってことで、がんばりまーす。


イラスト Wreath of Laurel 浅乃ミサキ

http://hinah.fc2web.com/


鼎談解説

『アユラ』第二号鼎談「前口上」

――あるいは、偏った立場による解説めいたもの

深津謙一郎


『アユラ』第二号(二〇〇七年一一月発行)の鼎談タイトルは「二〇四五年の計算不可能性」。この年の四月に刊行された宮台真司と神成淳司の対談本『計算不可能性を設計する』(ウエイツ)を課題図書とし、各自それを熟読した上で討論が行われた。鼎談冒頭の西嶋の言葉を借りるなら、この本では、「社会がバーチャル化・ユビキタス化していくに際して、そのあるべき社会システムを考えるというような問題意識が問われて」おり、とくにそこにおいて、(鼎談タイトルにもある)「計算不可能性」をどのように担保するのかが重要な焦点になっていた。ちなみに、鼎談タイトルのもうひとつのキーワード「二〇四五年」は、東浩紀と桜坂洋による未来学エンターテイメント「ギートステイト」の設定年である。

 鼎談冒頭で行われた西嶋の問題提起は、次のようなものだった。すなわち、『計算不可能性を設計する』の中で「一・五次的現実」という概念に注目したい。これはオフラインの現実である「一・〇次的現実」や、コンピュータの中などオンライン上に構築された「快適すぎて『他者』がいない」「二・〇次的現実」の欠陥を克服すべく提案された概念で、「二・〇次的現実」の仮想空間の中に、「一・〇次的現実」のある種の不条理さ(計算不可能性)をプログラミングした空間、というほどの意味である。今後、我々の生活空間には、こうした「一・五次的現実」が構成されていくだろう。だとすれば、これをどう評価すればよいのか?

こうした観点から、文学を研究する深津には、「プログラミングと文学の違い」、すなわち、「文学は計算不可能性を描けるのか。描けるのであれば、それはプログラミングには無理なのか」という「問い」が。いっぽう、政策を研究するマリンには、「高度な社会設計によって、計算不可能性をも含み込んだ二〇四五年においては、市民社会は意味を成」さず、したがって近代的な意味での「政治」は不要になるかも知れないが、この点についてどう考えるか、という「問い」が投げかけられた。

この「問い」かけに応じた我々の議論がうまくかみあっているかどうか……、むろん最終的には、それは読者それぞれの判断に委ねるほかないのだが、西嶋が「今までにない手ごたえもあった」(「鼎談にあたって」)と自負するように、私自身も、(かみあっているか、否かは別として)この鼎談は参加していてスリリングであったし、三者間に共通するものや違うもの、それにそれぞれの(研究領域の抱える)課題が鮮明になったという意味で、『アユラ』史上ベストワンの鼎談だったと考えている。

   ※

 「では、皆さん、我々の鼎談をお楽しみ下さい……」と言ってここで引っ込めればよいのだが、紙幅を埋めない限りそれは許されないらしい……。そういうわけで、私自身の偏った興味にしたがって、もう少し具体的に鼎談の内容に踏み込みながら、「解説めいたもの」を記してみる。

第一部「バーチャル化と社会」で最初に話題になったのは、計算された計算不可能性(他者性)は、ほんとうに他者なのか、という点であった。この問いを二人に投げかけたのは私だが、いま、あらためて鼎談を読み返してみても、この点については、いまだによく理解できない部分がある。他者性をプログラミングしたプログラムにおける他者なるものは、結局のところ飼い慣らされた他者に過ぎず、それは「一・五次的現実」というより、より完成度の高い「二・〇次的現実」なのではないか、という疑念が払拭できないのである。

 ところで、私はこの鼎談の中では一貫して、アンチ「二・〇次的現実」の側にたっている(つもりだ)。むろんそれが快適で、便利で、ある意味では民主的ですらある、という点は同意できなくもない。しかし、そこには「〈自由〉がない」というのが、私が「二・〇次的現実」に与せない最大のポイントである。では、ここで言うところの〈自由〉とは何か? それはこの文脈で言えば、プログラムの外部を想像する想像力が担保された状態、というほどの意味である。あるいは、「いまはこうあるが、しかしこうではないかもしれない可能性を選択肢として思い描ける状態」と言いかえてもよいかも知れない。

 ここで話が逸れるが、私の講義中、しばしば話題が現代思想に「脱線する」。たとえば、近代的な権力のありようとポストモダン的な権力のありようの違いは何か、というような話である。その際、両者の違いについて説明する比喩(これは東浩紀が用いていたのだと思う。出典を失念してしまったが……)として、某ファストフード店のイスの話を持ち出すことが多い。ファストフード店側としては、効率よく客を回転させることが売り上げ向上に繋がるから、できるだけ客に長居をしてほしくない。近代的な権力観に拠れば、店内のあちこちに、「長居は他の客の迷惑です」というような内容の貼り紙を掲示して、客の良心に働きかけようとするだろう。これに対し、ポストモダン的な権力観に拠れば、客側の反発を買いかねない貼り紙などという行為はいっさいせず、イスを硬くする(長時間坐っていることが苦痛になるようなイスを設計する)ことで、客の身体に直接働きかけようとするだろう。

 近代的権力モデルでは、かりに客が貼り紙の要請に応じたにせよ、客自身の中で、「自分は貼り紙の要請に応じたが、しかし(それにより、かりに店側から不愉快な注意を受けたとしても)拒絶してそこに居座ることもできた」という、いまこうあるのとは別のありようを思い描くことが可能である。自分は嫌々ながら権力に服従しているのだ、という感覚は、その権力が及ばない(その権力を転覆させた)外部への想像力を喚起するのである。これに対して、ポストモダン型の権力モデルでは、客は自らの快/不快の行動原理に従っているだけで(尻が痛くて不快だから店を出る)、自分が権力に絡め取られていることを自覚しないまま、したがって権力の外部などというものを喚起する余地も想像しないまま、権力機構の中に取り込まれてしまう。前述の言い回しを使うなら、人は「快/不快の行動原理に従っているだけで」、「いまはこうあるが、しかしこうではないかもしれない可能性を選択肢として思い描けない状態」に置かれるのである。

こうしたことを確認した上で、話をまた本筋に戻すと、「快適すぎて『他者』がいない」「二・〇次的空間」という言葉から私が連想するのは、こうしたポストモダン型権力モデルなのである。そして、これももういちど繰り返すなら、プログラミングされた他者の存在により、より野蛮な「一次的現実」の他者に触れなくとも、「生々しい現実」に触れたと錯覚させる「一・五次的現実」と、すべてがプログラミングされた「二・〇次的現実」との差異が、私にはよく分からない。ということは、つまり、「一・五次的現実」が単純にポストモダン型権力モデル(環境管理型権力)に見えてしまうということなのである。

第一部を読み返してみると、上述の理由で、「一・五次的現実」に懐疑的(というより、否定的)な深津と、西嶋の議論が平行線を辿っているように見える。西嶋もまた、(恐らくは)「二・〇次的現実」をポストモダン型権力モデルと捉え、それに対するオルタナティブを目指している。それは深津と同じである。とすれば、二人の違いは、はやくからメディアの変容に柔軟に対応し、その結果、「二・〇次的現実」とは決定的に違う「一・五次的現実」の差異(可能性)が理論的・感覚的に理解できる西嶋と、その差異がイメージできない深津の世代差? に還元できてしまうのかも知れない……と言ってしまえば、それは身も蓋もない話だろうか?

 とはいえ、私も、そもそも外部が想像できないような「二・〇次的現実」の中で、にもかかわらずその外部があるはずだ、というときの外部を、(どこかべつの場所……という意味の)空間的に実体化するつもりはない。第二部「セカイ系と文学」の基調報告文、および鼎談の中で再三述べた「文学」の可能性はここに関わる。つまり、どんなに精巧にプログラミングされていても、そこに誤読(コミュニケーションの事故)は生じるはずであり、そうした誤読――これを私は文学的事象と名付けている――の中に「二・〇次的現実」の外部が、言わばゲリラ的に立ち現れるのではないか。

 しかし、こう主張する私の立場は、やはりどこかで近代主義的な「理性ある」主体を想定せざるを得ない。どんなに完璧に計算され、構築されたシステムでも、(あるいはだからこそ)誤読(コミュニケーションの事故)はつねにいたるところで生じている〝はずである〟が、それを「事故」と認識し、さらにシステム外部への想像力に結びつけるには、やはりそれなりのリテラシー(近代主義的な理性)が求められるのではないか、という反論に対して有効に応えられる自信を持てないからである。かといって、かくなるうえは……と開き直り、リテラシーを有する(と自認=誤認する?)主体として、「二・〇次的現実」の中で快適さを貪る「動物化」した大衆を「啓蒙する」戦略を選ぶのも、あまりに近代的で気恥ずかしい(と言いながら、日々教壇に立つ自分がいて、これもさらに気恥ずかしい)。

その点から考えると、第三部「ポスト近代の政治」の中で、「他者への共感可能性」や「社会契約による国家と個人の関係再構築」を探るマリンの立ち位置は、徹底して「啓蒙の戦略」に立っており潔いが(と言いつつ、こと政治に関するかがり、深津の立ち位置も、「啓蒙的な」マリンの立ち位置に近いのだが……)、そうした彼の現在(二〇一〇年秋時点)興味が、一九二〇年代~三〇年代の思想家・北一輝に向かっているというのも興味深い。いっぽう、第三部での西嶋は、「動物化」に抗する可能性を個人(主体)ではなく、個人と国家、個人と個人を結びつける地域的・趣味的な中間集団のほうに置いていた。じつは今、次号『アユラ』のための新たな鼎談がゆっくりと進行中なのだが、ここでの議論がこれからどう発展していくか? 我々三者の過去と現在、そして未来を測るうえで、ひとつのマイルストーンになるかと思う。


鼎談にあたって

鼎談にあたって

西嶋 一泰    

 二〇〇七年四月、社会学者の宮台真司とITアーキテクトの神成淳司の対談本『計算不可能性を設計する』が刊行された。本書は、IT技術の近代社会への本格的な進出を議論する非常に刺激的な内容となっており、その詳細は今回の議論の中でも触れられている。思想や文化を専門とする文系の私だが、かねてより情報技術については執心に近い興味を持ってきた。この本で出てきた話題を使って、文系と理系、いやそれよりももっと多くの専門的な知識がこれからの技術と社会について考えられるのではないか、と思いつき、今回の「アユラ」の鼎談のテーマに選んだ。

 鼎談相手の一人で文学研究者でもある深津氏に突きつけたかったのは、「プログラミングは文学たりうるか」という問いである。文学が文字によりその作者の創造の世界を描くものだとするならば、プログラミングもまたしかりである。文学にも多様な作品があるように、プログラミングにも多様な作品がある。文学の方法論を用いてプログラミングへの批評が可能とならないか、そんな私の妄想が今回の鼎談の地下に流れている。

 鼎談のもう一人の相手で政策を研究するマリン氏には、政治という近代を前提とした社会のシステムを、情報技術が浸透していく社会においてどう再構築できるのかという問いを考えてほしかった。技術の発展は、単にそれだけを意味するのではなく、その技術を介して行われるコミュニケーションによって、人と人とのありかたそのものをも変えてしまう。近代のプレイヤーである主体的個人は、ポスト近代において、どのように変化し、扱われるのか。それを考えたい。

 この鼎談は、二〇〇七年一〇月に三週に分けて行われた。第一部は私、第二部は深津氏、第三部はマリン氏によるものとなっている。場所は、アミノユラクの電子掲示板「言論」。掲示板でのやりとり独特のラグがあり、多少読みにくいところがあるかもしれないが、ご了承いただきたい。二〇〇六年に発行した「アユラ」の第一号でも、鼎談を行っているが、今回はより深いところまで議論できていると思う。基本路線はそれほど変わっていないのだが、お互いのコンセンサスが整ってきている分、その立場的な差異もより明確となっている。そして、何よりも、今回の鼎談には、今までにない手ごたえもあった。「話がかみあっている」といえば、たいしたことには聞こえないかもしれないが、打てば響くような、単純な平行線でも、同じ立場のじゃれあいでもない議論ができたかと思う。専門を異にする私たちが、このような形で鼎談を行い、本書を発行できることを嬉しく思う。深津氏とマリン氏には、改めて、感謝を述べたい。そして、この鼎談の議論が、これを読む読者にも届き、共有されるものであることを願いたい。

 

 二〇〇七年一一月九日 京都の下宿先で 本誌の編集をしつつ


01.「計算不可能性」とは何なのか

西 嶋 はい、どうも、西嶋です。今回の鼎談で私が二人に振りたいのは「バーチャル化と社会」というテーマです。文学研究者の深津さん、政治学や経済学を勉強してるまりんさんとも共有できそうな問題だと思います。

 今年の四月にウェイツから『計算不可能性を設計する』という本が出ました。これは社会学者の宮台信司とシステム設計者の神成淳司さんの対談本なんですが非常に刺激的でした。簡単に言えば、これから社会がバーチャル化・ユビキタス化していくに際して、そのあるべき社会システムを考えるというような問題意識が問われていました。お二人はこの本は読まれたんですよね?

深 津 読みました。「計算不可能性」=偶然性を設計する、というある種の語義矛盾に引っ掛かりましたね。

マリン 本を読むと、あながち「語義矛盾」ではなくて、実際に「偶然性を設計する」意味や必要性について、具体的な議論が行われているんですよね。

深 津 ただ、設計された偶然性って、ほんとうに偶然性なのか? って思ってしまうけど…。

マリン そこは言葉の問題ですよね。たとえば、「ランダム性」いった方がよいのかもしれない。「ランダム性を設計する」だったらあんまり違和感がないかも。

西 嶋 はい、とにかく「計算不可能性」というのをどのように扱うかというのがこの本の主題です。「計算不可能性」というのは、「偶然性」とも言い換えることができるし、「他者性」と言ってもいい。この「計算不可能性」をいかにバーチャル化した社会で担保するのかが焦点となってきます。

 すいません、まず込み入った議論をする前に、議論の前提となるような概念を提示して起きます。

 この本で面白いのが、「一・五次的現実」という概念です。「一・〇次的現実」っていうのは、今のオフラインの現実です。「二・〇次的現実」っていうのはコンピューターとかの中のオンラインの現実です。普通、バーチャル化する社会に対する批判として、「二・〇次的現実」っていうのは、快適な空間なのかもしれないけれども、快適すぎて「他者」がいない。自己がゆさぶられるような瞬間がない。だから、バーチャル化はダメで、もっと人々は生々しい現実に触れるべきなんだ、というような意見が大勢をしめていると思います。そのような意見への回答として「一・五次的現実」があります。「一・五次的現実」というのは、「二・〇次的現実」の仮想空間の中に、「一・〇次的現実」のある種の不条理さのようなものも要素として構築された空間です。今後このような空間をよりうまく構築できるかが、世界の人々のくらしに大きな影響を与えるかと思われます。

マリン <他者=計算不可能=リスクを抱えたもの>を、居心地の良いユビキタス社会=管理社会は、受け入れられるのかということですよね。

深 津 西嶋さん、とりあえず、ここまでの前提はOKです。

 ただ、何をもって計算不可能性と言うのかの定義は必要。さきほどマリンさんは、偶然性という言葉に換えてランダム性ということを言ってたけど、これは、たとえばガチャガチャで、あらかじめ仕込まれた数種類のうちのどれが出てくるか分らない… みたいな意味? ただ、そうなると、不条理じゃなくなるよね?

マリン そうですね。確かに、ランダム性だと「他者」に内包される不条理や危険といった印象は捨象されてしまいますね。

深 津 たとえば、他者という用語には、「大文字の他者」と「小文字の他者」と二つの意味がある。「小文字の他者」といういうのは、結局、「自己」を二項対立的に補完するもの。「自己」って、関係性の概念だから、自他の境界を引くことによってしか「自己」を定義できない。この場合の、ある種、「自己」に都合のよい他者が「小文字の他者」。「大文字の他者」というのは、自他の境界線自体を破壊(失効)させる外部という意味なんだけど。設計された「偶然性」っていうのは、結局、「小文字の他者」ではないのか? と思ってしまうわけ。そうなると、設計された偶然性って、ただ、居心地の良い空間を補完するだけ? と思ってしまうのだけど。その辺はどうですか?

 そうなるとさ、「一・五次」と「二・〇次」の差異がわからなくなる(笑)

マリン 深津先生の問題意識に相乗りすると、宮台は居心地の良いユビキタス=管理社会に対抗するために、「計算不可能性を設計せよ」と言っているわけだけど、結局、計算不可能性で設計するという行為自体が、管理社会化を促進させるのではないかと思える。この辺りはゲンダイモンダイでも議論したけど、西嶋さんどうですか。

西 嶋 んー、議論が進んでますが、どうしましょう。一応書いた文章があるんですけど、深津さんのほうの問いに答えたほうがいいのかしらん?こちらからのネタフリは実はまだなんですが・・・

深 津 いや、書いた文章を載せてもらっていいよ。また、あとで議論を接続させればいいし。



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