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©Karin Sonoyama/Sakoyan


第五話 お風呂の後だと大変らしい。  七月二十六日



「お風呂、後で入るね」

 台所で洗い物をしながら、お気に入りの歌を鼻で奏でている母に、私は背中越しに声をかけた。

「あら、どうして」

 振り向いたその顔は、予想通り、機嫌が良い時のものだった。

「これからちょっと、ギターの練習するから」

「はいはい、どーぞ。でも、遅くならないうちに入りなさい」

「はーい」

「それから、ギター、あんまりうるさくジャンジャカしないでよ」

「大丈夫、ジャンジャカなんて弾き方、しないから」

 普段ならこうはいかない。「何言ってるの! 早く入りなさい!」なんてことを言われる。だから、母に何かお願いごとをするときは、鼻歌が聞こえた時に限る。レパートリーは二曲。中条きよしの『うそ』と、細川たかしの『心のこり』。今日は『心のこり』を軽快に奏でている。

 とはいえ、こんな時の母は人の話を半分も聞いていないから、どんなお願いでも却下されることはほとんどない。だけど度が過ぎると、後々、「そんなの聞いてないわよ!」なんて事態になっちゃうから、それなりに控えめなお願いごとにしている。

 母の機嫌が良い訳は、プロ野球の裏番組が見られるから。晩ご飯を早々に済ませた父に、さっき、誠次郎おじさんから電話で呼び出しがあった。

「ミーティングに行ってくる。ちょっと遅くなるから」

「はいはい、いってらっしゃい」

 とたんに母の顔がほころびた。

 父たちのミーティングというのは、歓迎会の打ち合わせとか、村に本来の時間が戻った時の対処法を話し合うため、ということになっているが、それは建前。ようするに、野球バカトリオ同士で集まって、巨人を肴にお酒を飲みたいのが本音。場所は誠次郎おじさんの家だと決まっている。母にとって、このミーティングは大歓迎。我が家のテレビは、巨人の試合の時だけは父がチャンネルの主導権を握っているから、母は「野球より、プロレスを見た方がずっとまし」なんて愚痴を普段はこぼしている。別にプロレスファンってわけじゃない。野球が嫌いなだけだから、それ以外の番組なら何だっていいのだ。母がこれほど野球嫌いになったのは、好きな番組が、野球放送のせいで何度も放送中止になったことが、一因らしい。

 と、まあそんなわけで、ビール瓶を小脇に抱え、飛び出して行った父を見送りながら、母のご機嫌な『心のこり』の鼻歌が始まったというわけだ。

「れんげぇー、テレビ、何やってるう?」

 一人でテレビを見ていたれんげに、母は洗い物を続けながら声をかけた。

「これからババとテツノツメの試合、やるって!」

 久しぶりに、れんげもご機嫌そうな声で応えた。

 今日もやっぱりゲストに会えず、肩を落として帰って来た。だけど半分あきらめたみたいで、夕食後は、すっかり普段のれんげに戻った。野球よりはプロレス、というのはれんげも同じ。母のように野球が嫌いというわけではないが、いつの間にファンになったのか、このごろやけにプロレスのことに詳しい。だから今日は、お風呂を早めに上がって、さっきから嬉しそうにテレビを占領している。男の子っぽい趣味に、このところ、ますます磨きがかかっている。

「あら、おもしろそうね」

 母はそう言って洗い物のスピードを速めると、ふたたび私のほうを振り向いて、

「椎子も見る?」

 と、誘った。

「だから、私はギターの練習なんだってば」

「そう?」

「そう!」

 やれやれ、やっぱり聞いていない。

 私にとっては、ラジオやレコードを聞いていた方がずっとまし。野球だろうがプロレスだろうが、今は何をやっていてもテレビに興味が無い。…と言いたいところだが、本音はちょっと違う。私が野球に興味が無い『ふり』をしているのは、野球に触れたくないから。どうしても、吉澤先輩とのことを思い出してしまう。登校日に先輩の席に座るのと、野球の話で先輩のことを思い出すのでは、焦心度が全然違う。野球の話題に触れると、つい、動揺してしまう。そんな私の気持ちなど知る由もないから、父は、鬱陶しいほどテレビにかじりついて野球を観戦している。それを横目に、私はいつも興味が無い『ふり』をしている。

 それはともかく、母が野球に対して露骨に嫌悪感を抱くようになったのには、もう一つの経緯がある。それは、夏休みが繰り返すようになる数ヶ月前の出来事が発端となった。父が突然、新聞広告を指差し、ビデオテレビというものを買おうと言い出した。「好きな番組が、何度でも見られる優れものらしいぞ! 三十万だけど、月賦だとなんとかなる!」と、興奮した様子で母を説得しようとしたが、父の魂胆が、巨人の試合を繰り返して見ることだと察した母は「思い出は心で見るものなの! そんな高価なもの、必要ないでしょ!」と、一蹴した。で、「それより、テレビを買い替えたほうがましよ!」という強引な意見で、それまでポンコツだった我が家のテレビは、クイントリックスという最新式のテレビに替わることになった。そのかわり母は、半べそをかきそうになってた父に、巨人の試合が放送される時間だけは、チャンネルの主導権を与えるという情けをかけることになったのだ。皮肉なことに、夏休みが繰り返すようになって、買い替えたばかりのテレビで、同じ番組を何度も見るハメになってしまった。「まったく、計算外だったわ」と、巨人の試合が放送されるたびにため息をつき、母は複雑な表情を浮かべている。

 困ったことに、この頃の父は、画面に向かって野次を飛ばすようになった。私たちの冷ややかな視線をあびていることなど、まったく臆していない。夏休みが繰り返す前はまだ良かった。巨人が勝っても負けても、わりと大人しく観戦していたし、仕事の都合で遅くなることが度々あったから、そんな時は裏番組をたっぷり見られた。だけど今は、ほぼ毎日のようにテレビの前に居座って、声援を送ったり野次を飛ばしたりしている。車で四十分もかかる町の建設事務所に務めていた父は、夏休みが繰り返すようになって、奥野川中流域にある、川魚の養殖試験場で働くようになった。だから、試合が放送される前には、きっかり時間通りに帰ってくる。そこそこの巨人ファンのくせに、よくもまあ、毎回、同じ結果の試合を飽きずに見られるものだ。本人は「俺も、誠ちゃんみたいな熱狂的な巨人ファンを目指す!」つもりらしい。誠次郎おじさんは、他の事はマイナスに考えるくせに、野球中継の時だけは例外のようで、巨人が負けると解っている試合でも、いつかきっと逆転して勝ってくれるという信念を抱いて応援しいてるらしい。父もその域に達しそうな、このところの観戦ぶりに、私たち家族は呆れ果てている。




 清行兄さんから教わった通り、6弦から順にチューニングをしていく。普通よりも太めの弦らしいけれど、1弦がやけに細く感じる。キリキリと音が聞こえてきそうだ。弦が切れたら、次の夏休みまで弾けなくなるから、慎重に糸巻きのペグをひねっていく。

「ふう、オッケー」

 無事に1弦のチューニングを終え、ほっと息をつく。次に、ギターコード集を見ながら、Gのコードを押さえてみる。ちょっと小指が押さえにくいけど、Fよりは簡単。右手の親指で、6弦から1弦までをゆっくりとつま弾いていく。震える弦から心地好い音がはじけ、部屋中を満たす。 

 清行兄さんが、フォークソング部のために無期限で貸してくれたモーリスのフォークギター。一昨日から、リードギター担当の私専用となっている。母は、私がギターを抱えて帰って来たのを見て「リコーダーもろくに吹けなかった椎子が、ギター?」と、ちょっとけげんそうな顔をしていた。私の音楽的センスの無さは、どうやらとっくに見抜かれていたっていうのは歯痒かったが、母のその態度は、かえって私のやる気に火を付けた。

 太めの弦だけあって、かなり力を加えて押さえないと音がかすれる。もしも、お風呂上がりだったら、ふやけた指先に弦が食い込んで、痛い目に遭っていたところだった。前もって清行兄さんから、夜に練習する時は、お風呂を入る前が良いと教えてもらっていたから、助かった。

 Gの次はA、その次はC、次はD、さらにEマイナー、Aマイナー、Dマイナー、比較的簡単なコードを一通り弾き流す。当たり前のことだけど、違うコードを弾くたびに、違う和音が響く。そこにいちいち感動してしまう。しばらくのあいだ、そんなふうにコードの練習をした後、私は本題に取りかかった。ギターを抱えたまま、カセットで例の曲を聞く。練習曲、NSPの『さようなら』のコード進行を解明するのだ。

 淋しそうな曲は、マイナーコードで始まるものが多いらしい。イントロだけを再生し、まずはAマイナーで試してみる。…音が合わない。カセットを巻き戻し、もう一度再生。今度はEマイナーで弾いてみる。音が合うまで、そうやって何度も繰り返す。音楽が得意な人だと、曲を一回聞いただけで、簡単にコード進行が分かるんだろう。音楽的センスの無い私は、そうはいかない。実は昨日、清行兄さんに解明してもらったほうが速いなと、安易な気持ちで相談に行った。そしたら、

「コード進行? そんな器用なこと、俺にできる訳がない」

 と、首をあっさり横に振られてしまった。パート分けのアドバイスもしてくれたし、有名なモーリスのギターを持ってたぐらいだから、当然、ギターが上手いのかと思ったら、まともに弾けるのは『禁じられた遊び』の数小節と、陽水の『心もよう』のイントロだけだそうで、「格好付けで買っちゃったもんだから、夢中になったのは最初のちょこっとだけ。ぜんぜん練習してないから」らしい。それでも、基礎のいくらかは覚えているからって、チューニングの仕方と、人差し指で全部の弦を押さえるコツ、それから、コードの読み方と、スリーフィンガーという弾き方のコツを教えてもらったのは大収穫だった。

 その後、対策を講じようと由美と光子に電話をかけたら、二人とも、私以上に音楽のセンスが無いから任せる、って言い張る始末。しかたがないから、自力で解明するしかないと思った私は、カセットで曲を聞きながら、片っ端からコードを弾いてみて、音が合うものを探し出そうと考えた。悲しいほど地道な方法ではあるけれど、コード進行さえ解れば、演奏の第一歩が踏み出せる。がんばって、地道に解明するしかない。と、思っていたら、

「あ、これだ!」

 最初のコードを、あっけなく四回目の繰り返しで探し当てた。Gマイナーだ。

 一時間ほど過ぎたところで、ほとんど解明できた。出だしはGマイナー、その次はF、一つ飛ばしてまたGマイナー、コード進行はこのパターンの繰り返しだってことが分かった。意外と短時間で解明できたから、私って、本当は音楽のセンスがあるのかも…なんて勘違いしそうになったけど、飛ばした一つがどうしても分からない。ギターコード集に載っている、半分以上のコードを試したけど、どれも音が合わない。だけど、大半を解明できたのは上出来。次の部活まで時間はたっぷりある。慌てる必要もない。今日はここまでにしておこう。

 部屋の角にギターを立て掛け、背伸びをした。力みすぎたのか、左腕が少し張っている。いつのまにか汗もだいぶかいている。網戸に虫がへばりついていないのを確認し、顔を近づけ、外の空気に触れる。今夜は無風で蒸し暑い。だけど、部屋の中より外がわずかに涼しく感じる。ふと、遠くで小さな光が舞っているのに気が付いた。遅れボタルだ。奥野川には、台風の影響で天気が悪くなる八月中旬頃まで、時々姿を見せるホタルたちが生息している。そういえば、夜はレコードばかり聞いていて、このところ、外の様子はまったく気に留めていなかったっけ。部屋を暗くして、久しぶりにじっくり眺めてみようかな。そう思って明かりを消そうとした時、れんげが、手のひらを怪獣のように拡げながら、開けっ放しのドアから姿を見せた。

「おっもしろかったよーっ」

「何が?」

「ババ対テツノツメ!」

「ああ、プロレスね」

「ババがね、こんなことされて、顔が血だらけになっちゃってさあ、もう、大変だったんだから!」

 手のひらに力を込め、れんげは自分の顔をつかむ真似をしてみせた。

「ひゃー、怖い。あんた、そんなもの見て、よく平気だね」

「まあね」

 あたりまえのように、れんげは胸を張る。

「で、馬場は勝ったの?」

「ううん、けっきょく引き分けになっちゃった。二人ともリングの外に出ちゃって」

「へえー、馬場って意外と弱いのね」

「というより、テツノツメが強すぎるんだけどね。…あ、テツノツメっていうのは技の名前だからね。ほんとうはフリッツ・ホン・エリックっていうレスラーなんだ」

 と、また胸を張った。

「アハハ、それくらい知ってるわよ」

「あれ、そうなの?」

「だって、有名だもん」

「シーコ姉ちゃん、プロレス見ないくせに、よく知ってるね」

「そりゃあー、いくら私だって! 他にも知ってるわよ。ビル・ロビンソンとか、デストロイヤーとか、それから…」

 れんげは忘れているだろうけど、私が小学五年生の頃までは、時代劇やドラマ、クイズ番組など、大人向きの番組を家族全員で見ていた。プロレスもその一つ。どれもべつに好きで見ていた訳ではなかったけれど、あの頃は他に見るものがなかったから、時代劇の決め台詞やクイズ番組の司会者の口癖なんかを、冗談でよくれんげと真似し合っていたっけ。プロレスの場合は、ジャイアント馬場や他の日本人のレスラーはもちろん、外人レスラーなのに、なぜか日本人の味方をしていたビル・ロビンソンやデストロイヤーの名前は自然に覚えた。さらに、人間風車とか、四の字固めとか、彼らの十八番の技の名前まで覚えてる。それから…、ロープの上からムササビのようにジャンプする、覆面のレスラーもいたっけ。名前は…そうそう、カラス、ミルマス・カラスだ。

「…それから、ミルマス・カラスとか!」

 お返しとばかりに、今度は私が胸を張った。だけど、れんげの顔が勝ち誇ったようにニヤけた。

「それ、ミルマス・カラス、じゃなくて、ミル・マスカラスだからね」

「えっ? ア、ハハハ…、そ、そうなの」

 ううっ、このところ、れんげに打ちのめされてばかり。姉の立場が危うくなりそうだ。時々、プロレス技を掛け合ってふざけている男子たちならともかく、なんで女子の私が、興味の無いプロレスごときの話題で、れんげに打ちのめされなきゃならないのか、ちょっと腑に落ちないけれど、まあこんな時は、

「それより、ねえ、ホタル見ない?」

 話題を変えるのが一番だ。

「あ、遅れボタル? 見る見る!」

「暗くして見ようか。そのほうが見やすいから」

 部屋の明かりを消し、網戸を全開にして、二人で窓に並んだ。

「わあっ!」

 思わず揃って声が出た。網戸越しではハッキリと解らなかったけど、キクちゃん商店と祐輔の家の明かりの中間辺りで、二十ほどの光の群れが、優雅に舞っている。今まで、これほどの数、見たことが無い。なんてきれいなんだろう。ゲスト専用のバスの、あの不思議な光の粒もきれいだけど、夜のホタルのほうが断然きれいで素敵! れんげも私も、言葉を忘れてしばらくの間見入っていたら、ふと、祐輔の家の窓明かりに、影が浮かんだ。

「あ、お兄ちゃん!? 」

 れんげは思わず、窓から身を乗り出し、

「ほらっ、絶対に二十一世紀のお兄ちゃんだよ!」

 まだ姿を見たことがないはずなのに、そうだと決めつけた。確かに影はそれっぽい。祐輔らしい小さな影と並んでいる。さらにれんげは、興奮気味に手を振った。

「ちょっと、れんげっ、危ないわよ。それに、手を振っても、向こうからじゃ暗くて解らないよ」

「あ…、そうか」

 やがて小さな影が動いて、明かりが消えた。

「もしかして向こうも、ホタル、見ているのかもね」

 私はれんげの肩に触れ、静かに言った。

「お兄ちゃん、元気になったのかな」

「そうかもね」

「明日、会えるといいなあ。そしたら、頭痛も吹っ飛ぶよ!」

「大丈夫よ、きっと…」

 なんだかそんな気がした。

 彼が祐輔の家に閉じ篭って今日で六日目。ゲストが籠るのは珍しいことではないけれど、一週間も続いたことはなかったし、歓迎会も近づいている。だから、今日も肩を落として帰って来たれんげを見て、さすがに私も心配になっていた。もちろん、影だけでは詳しいことは解らない。しかしその様子が、なんとなく穏やかな気持ちでホタルを見ているように感じ、私はほっと息をついた。すると、

「椎子、お風呂、早く入りなさい」

 下から母の声が響いた。

「あ、はーい」

 慌てて明かりをつけると、まぶしさで目がくらみそうになった。

「さて、さっぱりしてくるか!」

 手を組んで私が伸びをすると、れんげが前に回って、

「そういえば、お母さんに言われてたんだ。お姉ちゃんに、早くお風呂に入るように言っといてって」

 と、頭を掻きながら舌を出した。





第六話 瓜を食べながら虜になる。  七月二十七日



 ほおづえをついて、しばらく目を閉じてみる。こんな日は詩でも書こうと、朝ご飯を済ませてすぐに机に向かったものの、一行書いただけで、続きの言葉がなかなか浮かんでこない。目を開け、ノートを閉じて、私は窓に顔を向けた。外は朝から湿っている。キクちゃん商店よりもずっと向こうのバス停で、いつも悠然な態度で停車しているバスが、雨のためか、お尻を向けて寂しそうに見える。

 雨音は聞こえない、静かな霧雨の日曜日。朝から出かける人は、ほとんどいない。バスの点検を日課にしている運転手の小松さんでさえ、今日はお休みと決めている。なのにれんげは、さっきから慌ただしい。お気に入りの赤のスカートだの、ピンクの靴下だの、あれこれ催促し、「お母さんはれんげの召使いじゃないのよ!」と、母に怒られている。今日も祐輔の家に出かけるらしい。今度こそ、二十一世紀のお兄ちゃんに会えるって、張り切っている。昨日の私の予感が当たるといいけど。

「練習…するか」

 いつもなら、雨の日は大きな音を立てないようにしている。だけど、今日は大丈夫のようだ。れんげの様子も、晴れた日と変わらない。

 私はギターを手に取り、Gマイナーを押さえた。スリーフィンガーに挑戦してみる。親指と人差し指と中指を使って、清行兄さんから教わった通りに弾く。

「タンタタタタタタ、タンタタタタタタ」

 声に出して拍子をとる。指が思うように動かず追いつかない。今度はFを押さえて弾いてみる。とたんに音がかすれた。右手に集中しているせいか、左手の、弦を押さえている人差し指が浮いてしまっている。イメージはつかんでいるつもりだけど、結構難しい。GマイナーとFを交互に押さえながら、スローモーション並みのスピードで、スリーフィンガーを何度か繰り返した。滑らかに弾けるようになるまで、まだまだ先は長い。 

 今度はヘッドフォンを着けてカセットを聴く。前回の登校日に借りておいた音楽室のヘッドフォン、着けてみるとずしりと重い。再生ボタンを押す。『さようなら』のイントロに集中し、出だしのギターの音を探る。

「タンタタタタタ…?、タンタタタタタン?」

 スリーフィンガーのようだけど、微妙に違っているようにも聞こえる。巻き戻してもう一度確認しようとしたとき、

「シーコ姉ちゃん! シーコ姉ちゃん!」

 れんげがいつの間にか横に立って、私の肩を揺らした。

「あれ、アンタ、まだいたの?」

「お兄ちゃんっ!」

 れんげは、私がヘッドフォンを外す前に声を上げた。

「お、お兄ちゃん? お兄ちゃんって…、ゲストの?」

 息を一つついて、れんげは首を縦に振った。

「ゲストがどうしたの?」

「来たっ!」

「来たって…ここに?」

 今度は、雨の日には見せたことの無い満面の笑みで、大きく二回うなずいた。

「こ、この前はどうも」

 彼は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、そんな…」

 つられて私もおじぎを返す。

 父の背中に隠れていたれんげは、ひょいと顔を出し、悪ガキたちといっしょに玄関に立っている彼を睨んだ。まるで不審者を見るように警戒している。本当は嬉しくてたまらないくせに、照れ隠しでそういう態度をとっている。

 彼は、初日に公民館で着替えたものと同じ、白のシャツと黒のズボンをはいている。ボサボサだった髪は、後で小さく束ね、少しはスッキリして見える。だけど、だいぶ伸びた無精髭が、初日の時の野暮ったさを漂わせている。

「まあ、ここじゃなんだから」

 と、父が居間に上がるように勧めた。頭を掻き、彼は迷っていた様子だったが、背中を祐輔と寛太に強引に押され、よろけそうになりながら靴を脱いだ。


「まあ、どうしましょ。お化粧してないわ」

 普段からスッピンの母は、座布団を差し出し、大げさに照れた。彼は座布団の横に膝をつくと、

「あの…、僕、足が悪くて、正座ができないんです。失礼な座り方しても、いいでしょうか」

 小さな声で言った。

「まあ、そうだったの…。どうぞ、楽にして」

 母は慌てて右手で促す。ぎこちない歩き方は、そういう訳だったのか。ズボンの上からでは、不自由そうには見えないけれど、いったい、何があったのだろう。

 うつむいたまま、彼は静かに膝を崩して座った。祐輔と寛太は付き添うように両脇に座り、私たちも向かい合わせで腰を下ろした。わずかに気まずい空気が流れる中で、私は彼の顔を見た。良くなったとまでは言えないけれど、顔色の悪さは、幾分薄れたような気がする。

「それにしても、元気になって良かった!」

 父がぎこちない笑顔で切り出した。

「いろいろと…、すみません」

「そんなに気にしないで。ここは、ほら、特殊な村だから。…もう聞いた?」

 そう言って母が麦茶を差し出すと、祐輔が「話したもんね」と、胸を張った。

「なかなか、まだ信じられなくって…」

 彼はうつむき加減だった視線を、さらに下に落として言った。

「そりゃそうだよねえ」

 もっともらしく、父は腕を組む。

「でも、このままでは、皆さんにご迷惑をかけるばかりだし…。だから、あの…、まずはお詫びをしようと思って…」

「あらまあ、そんなに気を遣わなくったって、いいのよー、ほほほほ」

 母は、恥ずかしいほどの甲高い声で笑った。いつかの格好良いゲストの時に比べれば、だいぶトーンが下がっているけれど、今まで無関心だったくせに、この変わりようといったら。やれやれ、開いた口が塞がらない。

「いえ、この前、こちらのお嬢さんに、いろいろとご迷惑をおかけしたみたいで。…どうもすみませんでした」

 彼が私を見て、また謝ったものだから、

「そんな、迷惑なんて全然かかってないです」

 私は慌てて手を横に振った。

「そうよ。この村はね、何も無い所だけど、ゲストをもてなすことが唯一の取り柄なの。だから、旅行した気分でいてくれれば、私たちも気が楽なんだから」

 母がそう言うと、彼はやっぱり、申し訳なさそうに頭を下げた。

「あ、名前、まだ聞いてなかったね」

 父が思い出して膝をトンと打つと、

「あらやだ、そういえば私たちだって、まだ名乗ってなかったわよね。ほほほほほ」

 母がまた甲高い声で笑った。

 まずは私たち家族から名乗った後、彼は一通り、自己紹介を始めた。その間、前もって聞いていた祐輔と寛太は、自慢げに何度も鼻を人差し指で擦っていた。

 ゲストの名前は、小堀透さん。二十一才。独身。未来では、東京で一人暮らしをしているという。凄い! 東京に住んでいるってだけで尊敬してしまう。職業はフリーター。デザインの勉強をしながら、仕事をしているらしい。

「フリーター…?」

 聞いたことのない職業に、みんなきょとんとしてしまった。祐輔たちも、仕事については聞いていなかったようだ。

「あ、あの…、フリーターっていうのは、なんていうか…アルバイトみたいなもの、です…」

 透さんは頭をかきながら説明した。私には、なんとなく謙遜しているように思えた。デザインの勉強をしているくらいだから、もしかして、このだらしない着こなし方も、未来の最新ファッションなのかもしれない。

「とにかく、どんな仕事でも、勉強しながらっていうのは、立派なことよー」

 と母は感心し、私もうなずく。

「ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」

 さっきから妙にそわそわしていた父が、唐突に話を切り替えてきた。この態度、なんか、悪い予感がする。

「もしかして、未来で戦争が起こって、日本が大変なことになっていない?」

 やっぱり。予感が的中してしまった。

「ちょっと、アナタ!」

 母は眉間にシワを寄せ、睨みつけた。私の視線も母に加勢する。せっかく和やかになった空気を、父は暗い妄想をぶりかえして、自ら壊そうとしている。

「戦争…ですか?」

 案の定、透さんは困惑している。

「起こってないの? 第三次世界大戦」

「世界大戦? は、はい。ないです。とりあえず、日本は平和ですけど…」

 きっと「このおっさんは、いったい何を言い出すんだ?」なんてことを、思っているに違いない。

「ご、ごめんなさいねー。もう、この人ったら、変なこと言ってー。そうよねえ、戦争なんて、起こるわけないじゃないよねえ、ほほほほほっ!」

 母は笑ったが、その声はあきらかに怒っている。しかし正直に言えば、父たちの妄想だと分かっていたものの、内心、私も多少は心配だった。これで一安心。祐輔と寛太も同じだったようで、二人は胸を撫で下ろして息を吐いた。

「ちょっと失礼して…誠ちゃんに電話して、安心させなきゃ」

 父が腰を上げると、母は呆れてため息をついた。

「あの、僕も…そろそろ失礼します」

 今度は透さんが、腰を浮かした。

「あら、もう? ゆっくりしていけばいいのに」

「これから、キクばあちゃんとこに行かなきゃいけないんだよ。それからゴロベエ先生とこと、高井和先生のとこにも」

 代わりに祐輔が言った。まるで、透さんのマネージャーのような口ぶりに、私はうっかり吹き出しそうになった。

 透さんがゆっくりと立ち上がると、祐輔と寛太も慌てて立ち上がった。どうやら、初日に迷惑をかけた人たちへのお詫び行脚、ということらしい。

「いっしょに行く!」

 今まで大人しくしていたれんげが、名残り惜しそうに手を挙げた。不審者を見る目付きから、いつのまにか、憧れる人への眼差しに変わっている。

「大丈夫?」

 れんげのおでこに、私は手を添えた。

「平気!」

「椎子、付いて行ってあげなさい」

 母の指示に、私は静かにうなずいた。

 れんげの体の中には、人工の細い管が通っている。頭に溜まった水を、お腹に流すためだ。れんげは一年生の時、頭に水が溜まる難病にかかり、手術を受けた。成功率が半分以下で、父と母も覚悟を決めた大手術。幸いなことに手術は成功し、その後、奇跡的な回復を見せ、予定よりも早く退院できた。完治した訳ではないが、溜まった水を管で抜くことで、体調もほとんど問題ない。激しい運動も出来るようになった。だけど雨の日になると、気圧のせいなのか、後遺症なのか、わずかに頭痛がするらしい。夏休みが繰り返すようになって、時々、ゴロベエ先生に診てもらっているが、先生は専門外だから、詳しいことは解らないらしい。しかし、命に関わるものではないのは確かとのこと。とはいえ、これはれんげの自己申告ではあるけれど、前に一度だけ、大きな音が引き金になって、瞬間的な激痛に見舞われ、気を失いそうになったことがあったらしい。だから私たち家族は、雨の日は大事をとって、大きな音をたてないように注意している。でも、今日のれんげは、とても調子が良いようだ。


 柔らかい雨音の中を、私たちは集団登校のように列を作ってキクちゃん商店へ向かっている。私の家からキクちゃん商店はすぐそこ。案内するほどの場所ではない。けれどれんげは、何かせずにはいられないのだろう。先頭に立って、

「そっちがキクちゃん商店、あっちが奥野川」

 と、得意げに指差した。透さんが元気になってくれたことが、嬉しくてたまらないようだ。

 ゆっくりと歩きながら、透さんは前方に見える奥野川を眺め、呟いた。

「奥野川には、ホタルが棲んでいるんだね」

 思った通り、透さんもホタルを見ていたんだな。予想がピタリと当たって、私はちょっと驚いた。れんげもすぐに気がついて、

「お兄ちゃん、やっぱり昨日、ホタル見てたんだね!」

 と、嬉しそうに傘を回した。

「えっ!?  どうして知ってるの」

「だって、見えたもん。れんげ、お兄ちゃんに手を振ったんだよ」

「ぼくに? い、いつ?」

「実は、私たちも自宅の窓からホタルを見てたんです。そしたらちょうど、祐輔の家の窓に、透さんの影が見えたものだから、妹が思わず手を振ったんですよ」

 私が事情を話すと、

「ご、ごめんなさい。全然気づかなかった…」

 透さんは、また頭を下げた。

「いえ、こっちの明かりは消してたんです。この子、そそっかしいから、一つのことに夢中になると、周りが見えなくなるんです」

「えへへー」

 ニタリと、れんげは笑った。

「なあんだ、それじゃあ気づくわけないよ」

 そう言って祐輔が呆れ、寛太も無言でうなずく。するとれんげは、またクルクルと傘を回しながら、祐輔と寛太に向かって舌を出して応えた。それを見ていた透さんが、静かに微笑んだ。

「ホタル、初めて見たんですか?」

 私は透さんに尋ねた。東京の川はとても汚いと聞いたことがある。きっとホタルは棲んでいないのだろう。

「初めてってわけじゃないけど、あんなにたくさんのホタルは、初めて。と言っても、前に見たのは一度きりなんだ。それも、たったの1匹。もうずーっと前のことだから、昨日見た時、とても懐かしくて」

「東京で?」

「ううん、どこかの田舎でね。ホタルを見たのは鮮明に覚えてるのに、その場所がどこなのか、まったく覚えていないんだ。なにしろ僕が三つか四つの頃の大昔。…あ、この村の時間では、未来ってことになる…か。ちょっと混乱しそうだね」

 透さんは傘を傾け、想い出を辿るかのように空を見た。

「うん、こんらんしてきた!」

 と、祐輔が、れんげのように傘を回すと、無口の寛太も真似をした。

 透さんがホタルを見たのを三歳だとすると、十八年前。二〇〇九年の十八年前って…、一九九一年ってことになる。偶然にもイケイケお姉さんの時代と同じ。だけど私たちにとっては、やっぱり遥か未来のこと。解っていても、不思議な気分になってしまう。

 ゲストの大半は、この村の風景に懐かしさを感じるのか、よく、思い出に浸ることがある。それは私たちにとって、つい数年前の過去だったり、ずっと先の未来だったりする。もうだいぶ慣れたとはいえ、時間のことを考えると、やっぱり混乱してしまう。

「ところで、あの…、椎子さん」

 急に言いにくそうな様子で、透さんは私に顔を向けた。

「はい?」

 と、私も顔を向ける。目が合い、ドキッとした。もの凄く真剣な眼差しで、私を見つめている。

「どうしたの?」

 前を歩いていた悪ガキたちが振り向く。

「あ、あの…」

 言葉を詰まらせ、一瞬、立ち止まった透さんは、

「いや、何でもないです。やっぱり、気のせい…」

 と、視線を背けた。

「気のせい…ですか?」

 首を傾げながら、私も視線を道路傍に移した。胸がわずかに高鳴っている。私は顔が赤くなりやすい。恋をしているわけでもないのに、見つめられただけで赤くなっては、恥ずかしい。悟られないように、そっと息を吸った。と、その時突然、二匹のアオガエルが、すぐ傍の草の上を順番にジャンプした。私は驚いて、無意識のうちに一歩、不格好に飛び退き、よろめいた。

「もう、弱虫なんだから。カエルぐらいで驚かないでよ」

 れんげが傘を回しながら呆れた。

「しょうがねーなあ、シーコ姉ちゃんは。アッハハハハハ!」

 祐輔と寛太が笑い出すと、私も自分の小心ぶりに呆れ、つい吹き出してしまった。透さんもつられたのか、初めて白い歯を見せ、一緒に笑った。

 雨の日のお店には、お客さんはほとんど訪れない。だから、売り場の明かりは消えている。こんな時の店主は、大抵、奥の部屋でテレビを見ている。

「キクばあちゃーん!」

 れんげが真っ先に中に入って声をかけると、

「あーい」

 いつもの昔言葉を返し、キクばあちゃんは薄紫のワンピース姿で現れた。

 いつもだったら、すぐに売り場の明かりを点けるのに、透さんの登場にはよほど驚いた様子で、

「あれっ!?」

 と、しばらく固まったまま、スイッチを点けるのを忘れていた。やがて、ようやく明かりを点けたキクばあちゃんは、それはそれは感激し、元気になって良かったと、何度もうなずきながら透さんの両腕をつかんで放さず、瓜を食べていってと、強引に店の奥に引きずり込んだ。私たちもぞろぞろと後に続き、お店の裏の小さな畑で収穫した瓜を、結局みんなで食べることになった。

「こんなに賑やかなのは、何年ぶりかねえ」

 台所で、ばあちゃんは目を細め、黄金色の三つの瓜を、それぞれ半分ずつに切り分けた。

「手伝うよ」

 私が食器棚を指差すと、

「あい!」

 キクばあちゃんは嬉しそうにうなずいた。きっと、なっちゃんのことを思い出しているのだろう。

 なっちゃんこと夏子姉さんは、岩柿村から二十キロほど離れた町に住む、キクばあちゃんのハトコ。誰からも「なっちゃん」と呼ばれて慕われていた。この村の時間で見れば、透さんと同世代の二十二歳。私から見ても、うっとりするほどの美人。キクばあちゃんが若い頃に美人だったという伝説が広まったのは、なっちゃんの美貌が起因している。

 なっちゃんは高校生の時から、毎年、夏休みになるとキクばあちゃんのところへ泊まりがけで遊びに来ていた。身寄りの少ないキクばあちゃんは、年が離れていることもあって、本当の孫のように可愛がった。村の住民たちにも大人気で、なっちゃんがお店番を手伝う時には、村の男子たちは言うまでもなく、隣村の男子たちまでもが、一日に何度も駄菓子を買いに足を運んでいたほど。その頃のキクちゃん商店は、それはそれは大変な賑わいをみせていた。時間が繰り返すようになって、お店はもうずっと、静かでいる。

「はい、おまたせー」

 瓜を乗せたお皿を、私が次々と居間のテーブルに並べていく。その皿に、れんげがスプーンを添えていくと、祐輔と寛太が囃し立てるように手を叩いた。

「さあさあ、食べようかねえ」

 砂糖ポットを抱えたキクばあちゃんが、どっこいしょと席に着く。すると、透さんは突然頭を下げた。

「あの…、この前は、ご迷惑をおかけしました」

「あれ、そんなもん、全然気にしなくてもいいのに」

 なんだか透さんは謝ってばかりいる。そういえば初日も、ずっと謝っていたっけ。

「それより、早う食べて」

「は、はい、いただきます…」

 しかし、どこから食べていいのか解らないようで、スプーンを手に取ったまま戸惑っている。

「瓜は初めてかい?」

「はい…」

 透さんは小さな声でうなずいた。するとれんげが、

「じゃあ、やってあげる!」

 と、種をスプーンで丹念に取り除き、残った瓜の器に砂糖をたっぷりとまぶした。

「砂糖といっしょに、すくって食べるんだよ」

 れんげに促され、遠慮がちにフォークで削った瓜の果肉を口に運ぶと、透さんは「おいしい」と微笑んだ。祐輔と寛太が、また手を叩いて囃し立てた。

 瓜を食べながら、透さんはキクばあちゃんに自己紹介を始めた。といっても、ほとんどは祐輔とれんげが口を挟み、二人の説明合戦になった。その間、キクばあちゃんはとても嬉しそうに聞いていた。なんだか、ちょっとした歓迎会ムードになった。雨の日は、いつもひっそりとしているキクちゃん商店。今日は久しぶりに賑やかな時間が流れている。


「じゃあ、透さんの仕事はデザイナーなのかい?」

 瓜を食べ終わる頃、キクばあちゃんの口から、外見とは不釣り合いな言葉が飛び出した。意外なことだが、キクばあちゃんは大のテレビ好きで、村の誰よりも流行に敏感だったりする。私たちが未来からの訪問者を「お客さん」ではなく「ゲスト」と呼ぶようになったのは、実はキクばあちゃんのアイデア。村の話し合いで「お客さん」に決まりかけていたとき、「ゲストにしたらどうかね。高橋圭三も、お客さんを紹介するときに『今週のゲストはだれそれ』って言うてるよ」と、ひいきにしている番組の司会者の台詞を例に出し、みんなを納得させた。

「いえ、いろいろと事情があって、今はデザインの勉強をしながら、フリーターをやっているんです」

「ほおー、リータァー…」

 キクばあちゃんはもっともらしくうなずき、聞き間違えた。流行に敏感なはずなのに、横文字はよく聞き間違えたり言い間違えたりする。こんなところがあるから、流行り言葉を口にするハイカラなキクばあちゃんには、まったく嫌味がない。

「やだあ、ばあちゃん、リーターじゃなくって、フリーターよ」

 私が訂正すると、悪ガキたちが吹き出した。

「あら、フリーターね、ハッハッハッ。まあどっちにしろ、ターが付いてるから、透さんは立派だよ」

 キクばあちゃんは、チータという愛称で呼ばれている演歌歌手の大ファン。そのくせ、いつも「チーター」と間違って呼んでいる。大ファンのチータ…いや、チーターに呼び方が似たフリーターの仕事をしている透さんは、きっと立派な人だと思い込んでいる。かなり強引な思い込みではあるけれど、少なくとも、透さんは悪い人には見えない。それにしても、フリーターって、いったいどんな仕事なんだろう。私たちもまだ詳しくは聞いていない。と、思っていたら、

「正確には派遣って言って…、ようするにアルバイトみたいなもので、登録している会社から、いろんな仕事を与えられるんです」

 透さんは、頭を掻きながら説明した。

「ほおー、じゃあ透さんは、その会社に通っているのかい?」

「いえ、仕事がある場合は、会社からケータイに連絡が入るんです」

 そういって、ジーパンの後ろのポケットから、あの機械を取り出した。

「それって、ラジオじゃないんですか?」

「何言ってんだよ、シーコ姉ちゃん。これ、電話なんだぜ!」

 祐輔が自慢げに腕を組んだ。

「電話っ!?」

 私とれんげは、思わず身を乗り出してケータイに顔を近づけた。寛太もまだ聞いていなかったようで、目を見開いて、口をパクパクさせている。私以上に機械音痴のキクばあちゃんも、さすがに驚いている。ラジオだと思ってたものが、まさか、電話だなんて!

「本当は携帯電話って言うんです。それを略して携帯って呼ばれていたんですけど、いつのまにか訛って、ケータイって呼ばれるようになったんです。今は機能しないから、通話はできないけど」

 透さんはケータイの由来を説明すると、また頭を掻いて申し訳なさそうにした。

「あの、ここでは、未来の機械は機能しないんです」

 すかさず私が事情を話す。

「そうみたいだね。祐輔君から事情は聞きました。最初はバッテリー切れかなと思って…」

 と言いかけ、透さんは急にハッとなって私を見た。

「お礼を言うのをすっかり忘れてた。ケータイ、椎子さんとれんげちゃんが、届けてくれたんだってね。どうもありがとう」

「そんな、お礼だなんて。ついでに届けただけですから。ね、れんげ」

 嬉しそうに、れんげはうなずく。

「それに、最初はキクばあちゃんが預かってくれていたの」

「そうだったんですか。キクさん、どうもありがとうございました」

 もう何回目か分からないけど、透さんがまたまた頭を下げると、

「あらぁ、キクさんって。キクばあちゃんでいいよぉ。ハッハッハッハッ」

 ばあちゃんは思いっきり照れた。

 この前、ゴロベエ先生が言ったように、よほど神経の細かい…いや、よほど繊細な人なのかもしれない。透さんは、もうずっと謝ってばかりいる。それとも、頭を掻いたり、下げたりするのが癖なのかしら。とにかく、今はそんなことより、ケータイ!

「これ、いったいどうやって電話かけるんですか? コードもないのに…」

 その仕組みがまったく理解できない私は、不思議でならない。

「電波で繋がるから、コードは不要なんだ。だから、電波の届く場所なら、どこからでもかけられるんだよ。かける時はこうやって開いて」

 蓋を開けるように開いて、透さんはそれを耳に当ててみせた。

「トランシーバー…みたいなもの?」

 しかし、アンテナらしきものは付いていない。

「ちょっと違うかな。ケータイはトランシーバーと違って、たとえば日本のどこかの公園を散歩しながら、ニューヨークにも、パリにも、ロンドンにも、世界中どこにでも電話がかけられるんだ」

「世界中!!」

 ニヤケている祐輔を除き、みんな声を揃えて驚いた。

 さらにその後、透さんはケータイの機能のいくつかを説明し、私たちをもっと驚かせた。相手の番号をいちいち回さなくても、電話をかけることができるっていうのも凄いけど、一番驚いたのは、ほとんどの人がケータイを持ち歩いているということ。なんと小学生までもが、自分専用のケータイを持っているという。しかも特定の人には、どんなに長電話しても、ほとんど電話代はかからないっていうから羨ましい。ちょっとした電話をかける時でさえ、親の目を気にしなきゃいけない私たちにとって、やっぱり二十一世紀って、凄すぎる! フリーターのことはすっかり忘れ、私たちはケータイにすっかり心を奪われてしまった。

 ほどなくして、お店の電話に静香おばさんから祐輔へ連絡が入った。先にゴロベエ先生のところに電話を入れた静香おばさんは、二人がまだ顔を出していなかったものだから、キクちゃん商店で、祐輔が何か悪さをしでかしているんじゃないかと思ったようだ。

「悪さなんかするわけねーだろ。昼飯? あと三十分じゃ、先生のとこまでまわりきれないよ。だって、ばあちゃんの瓜、ごちそうになってたんだからさあ。もうちょっと待っててよ」

 祐輔の口調は、またしてもマネージャー気取り。どうやら、お昼が近いから、早く切り上げなさい、ってことらしい。電話を切って、やれやれとため息をつく祐輔を見て、こんな時にケータイが使えたら、さぞかし便利だろうな、と私はつくづく思った。

「後片付けはいいから、早う行っといで」

 というキクばあちゃんの好意に甘え、私たちは食べ散らかしのテーブルはそのままに、急いでゴロベエ先生と高井和先生のところへ向かうことになった。まずはゴロベエ先生。

「透兄ちゃん、あそこ!」

 外へ出てすぐ、れんげが中学校よりもずっと手前にある教員住宅を指した。二つの住まいを一つに繋げた、長屋風造りの教員住宅。それが仲良く二棟並んでいる。そこの一つにゴロベエ先生は住んでいる。元々、この村の住民ではなかったゴロベエ先生は、一棟が空き家になっていたのを、同じ状況だった小松さんと分け合って、仮住まいとして使用している。その次は中学校の宿直室を自宅代わりにしている高井和先生。高井和先生もこの村の住人ではなかった。前は、隣村の下宿先から学校へ通っていた。本来なら、自分が教員住宅に住む権利があったのを、中学校の宿直室でじゅうぶんだからって、ゴロベエ先生と小松さんに譲ってあげたのだ。

 大異変が起こったあの時、夏休み最後の日ということもあって、クラブ活動で登校していた生徒たちも、大半の先生たちも、翌日の始業式に備えて早めに帰宅していた。教員住宅に住んでいる四人の先生の内、二人の先生がたまたま用事があってこの村を出ていた。高井和先生は、やり残しの仕事を片付けるために、一人で職員室に残っていた。ゴロベエ先生は、隣町の診療所からたまたま往診に来ていた。小松さんは乗客ゼロのバスを休ませ、停留所で一休みしていた。そのバスにモアイ村長は駆け込み、バスとともに消えてしまった。その瞬間に時間が後戻りして、この村から出ていた人はいなくなり、残っていた人だけが時間に取り残された。そんなわけで、三人は岩柿村の新たな住人となった。

 教員住宅を挟んで、ここから中学校までゆるやかな上り坂が続く。歩きの時間だけでも合計で十分近くはかかる。今日は夜まで降り続く静かな雨の中を、私たちは急ぎ足気味に歩いた。その間、悪ガキたちの傘は、せわしそうに回り続けた。いつのまにか、透さんと私の傘も、悪ガキたちの傘につられ、歩くスピードとは対照的にゆっくりと回っていた。




第七話へつづく…



illustration  SAKOYAN


この本の内容は以上です。


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