目次
福島第一原発と、日本の使命
1945年
第一章  なぜ故郷を捨て、日本へ向かったのか
日ユ同租論
日本人がアブラハムの子孫だとしたら…
ひとつの民
小惑星探査機「はやぶさ」
地の果て、日本へ
アザレスへの道
第二章  ツロについての託宣
ツロと日本
両義預言
三つの命題が一致した
一神教と多神教
エゼキエル書のツロ
あなたは二度と再び勝ち誇ってはならない
昭和天皇
第三章  祟り神
主はツロを顧みられる
謎の聖句
ヨブ記
略奪文化
大いなる正午
原初の神
無謬性による思考停止
第四章  バビロンについての託宣
アメリカが日本の障壁となっている
大いなる群衆
核戦争
滅びが全能者から来る
中国の命運
エジプトについての託宣
よこしまな血族
士師エフタの娘
第五章  幼形成熟の果てにあるもの
教母社会と教父社会
男と女の存在理由
出生率の低下
人間幼形成熟説
おおかみは子羊と共にやどり
四つのタイプ
母なる神
第六章  日系人
預言と予言
エレミヤ書によるアメリカ滅亡預言
ホピ族に伝わるアメリカ滅亡預言
キリストによる終末預言
忘れられた遊女
不幸な日本
良いいちじく
悪いいちじく
新しい契約
本音を語らせて頂く
終章  安息日の主
子供たちの明るい笑い声が満ちる時

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第一章  なぜ故郷を捨て、日本へ向かったのか

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日ユ同租論

「なぜ、日本はこんなに特殊なのだろう」と感じたことはないだろうか。
「日本には特別な使命があるのではないか」と思ったことはないだろうか。
「なにか日本人は大切なことを忘れてしまっている」と考え込んだことはないだろうか。

 その答えが旧約聖書に書かれているとしたら。そしてその答えが日本の明るい未来へと、一筋の光を投げかけているとしたら。

 旧約聖書に描かれた日本の命運をキーとして、旧約聖書の謎と疑問を一つ一つ解き明かし、明らかにしていく。

 

 

 そもそも旧約聖書とはどのような書物なのだろうか。

 キリスト教会からすると、「旧約聖書」とは天地創造の神が「ユダヤ人を含むイスラエル民族」に与えた古い約束である。一方「新約聖書」は神が「キリスト教会」に与えた新しい約束である。したがって「旧約聖書」の約束は更新されたことになるので、イスラエル民族への古い約束は無効とされたのだと信じている。けれどユダヤ人達は「旧約聖書」の約束(契約)は有効であると今でも信じている。したがってユダヤ人は新約聖書を認めない。あたりまえだ、キリスト教会に迫害を受け、虐殺され続けた歴史を持つユダヤ人が「新約聖書」を認めるわけがない。

 では「新しい約束」について、旧約聖書自身はどのように語っているのだろうか。詳細は後述するが、旧約聖書」には「終末の日に、神が個人に対して新しい約束をする日が来る」と記述されている。つまり「キリスト教会」のような組織に対して約束するとは記述されていない。旧約聖書の視点からすると、特定のキリスト教会組織が神との約束(契約)をするなどということはありえないのだ。では、「古い約束」とはどのような内容なのだろうか。我々日本人と、どのようにかかわってくるのだろうか。

 

 糸口は「日ユ同祖論」にある。日本人もユダヤ人も同じイスラエル民族であり、アブラハムから派生した十二支族の一部が日本に来たという説である。けれど旧約聖書がただの歴史書に過ぎないのであれば、「日ユ同祖論」についていくら考察しても、それはユダヤ民族と日本人の類似性だけを研究しているに過ぎなくなる。


 けれどもし、旧約聖書が「神の言葉」であり、日本人のルーツがイスラエル民族であるのならば、「とんでもない」事となる。

 旧約聖書は、「天地の創造者である神がイスラエル民族を通して、人類がその神の意思に従って生きる時に祝福がある」という約束である。したがってイスラエル民族である日本人が人類に「神の意志」を示さなければならないことになるのだ。はたして日本人のルーツはイスラエルにあるのだろうか。いや、それ以前に、旧約聖書は「神の言葉」なのだろうか。

 ひとつ言えることがある。聖書に描かれた神を否定しようとしても旧約聖書に勝てないのだ。なぜなら旧約聖書は神の実在について論じているのではなく、それをただ当り前の事としているからだ。我々が水や空気の存在を全く疑っていないように。

 

 


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日本人がアブラハムの子孫だとしたら…

 明治時代、スコットランド貿易商ノーマンクラウドが著した「日本古代史の縮図」に端を発した「日ユ同祖論」は近年ますます熱を帯び、今ではユダヤ人側からの研究も進んでいる。

 

「日ユ同租論」を一言で説明するならば、「神の祝福を受けた旧約聖書の民、アブラハムの子孫が十二支族に分かれた。内、十支族の行方が分からなくなり、聖書の歴史からぷっつりと姿を消した。その『失われた十支族』の一部が日本にたどりついた。だからこそユダヤ文化と日本文化には共通点が多いのだ。」とする説である。
 「失われた十支族」についてイスラエルの聖書時代の歴史を交えて説明する。

 

 族長アブラハム(前17世紀)によりイスラエル民族の記録は始まる。やがて12支族に分かれた子孫は400年間エジプトの奴隷となり、紀元前13世紀にモーセが民族をエジプトから連れ出す。モーセが紅海を真っ二つに割って、十二支族をローマ軍の追撃から逃がしたとされる時代だ。
 ダビデ王の時代(前10世紀)に統一イスラエル王国として十二支族が一つとなった。しかしソロモン王の死後、南北に分裂し、サマリアを首都に十支族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする南王国ユダに分かれた。つまりユダヤ人は十支族に含まれない。
 北王国は紀元前721年にアッシリアにより滅ぼされ、十支族はアッシリアに連行された。
 その十支族がなぜか故郷サマリアには帰らず、どこかへ消えてしまったのだ。

 

 前置きはこれまでとして、まずは本書に関連する歴史的背景をダイジェストし、数々の祝福の言葉(ある意味預言)を手掛かりに、なぜイスラエル民族の一部が日本の地を目指したのかについて考察したい。そしてそのために、二つの前提を建てることをご了承頂きたい。ひとつは「失われた十支族のうち、少なくとも一支族が日本に来た」こと、もうひとつは「預言は成就する」ということ。もしその二つの前提が矛盾を起こし破たんしたならば、どちらかの前提もしくは両方の前提が間違っていることとなる。

 

①イスラエルの民(十二支族)の祖とされるアブラハムには、神からの特別な約束があった。それは「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記15章5)との祝福である。その約束は若いころから不妊であり、九十歳を過ぎ、当然閉経後であった妻サラによって成就し、嫡子イサクを得る。神はアブラハムの信仰を試すために最愛の息子イサクを燔祭としてささげることを求め、アブラハムはその無茶な要求に従う。アブラハムが少年イサクを縛り、薪の上に載せて刃物で刺し殺す直前、神の使いが来て命令を撤回する。そしてアブラハムにはその信仰に対する報酬が告げられた。

 

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこのことを行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22章15~18)

 

*アブラハムは燔祭に使う薪を息子イサクに背負わし燔祭の場所まで連れていったのだが、その姿は十字架を担うキリストの予告とされている。が、本編には関係のないことなので、今後余計な説明は省く。
 江戸中期の国学者、菅江真澄によると、諏訪大社の御頭祭において少年が「御贄柱」に縄で縛られ、竹のむしろに押し上げられる。そして神官が小刀を振り上げ、まさに少年を突き刺そうとする時に、馬に乗った使者が現れ、それを止めるという儀式が行われていたそうだ。残酷だとのことで明治4年からは儀式が簡素化されているが、まさにアブラハムが息子イサクを殺そうとするシーンを彷彿させる。
 ここで特に重要なのは「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」との言葉である。それは後に生じる十二支族への祝福の言葉なのだ。もしも日本人がアブラハムの子孫ならば、日本が世界を祝福し、幸せな世界にする」との預言になる。後にイサクがヤコブを祝福する言葉も十二支族が該当するが、その場合多少ニュアンスが違ってくる。以下創世記27章29節。

 

「もろもろの民はあなたに仕え、

もろもろの国はあなたに身をかがめる。

あなたは兄弟たちの主となり、
あなたの母の子らは、
あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、
あなたを祝福する者は祝福される」


 なにやら偉そうではある。
 将来、世界中の国々が旧約聖書の神を恐れ、イサクに対する祝福が日本に該当すると本気で信じたならば、どうなるのだろうか…
…日本政府の声明「遺憾の意」に効力が発生することになる。「遺憾の意」は呪いの言葉と化すのだ。ジョークで言っているのではない。日本政府に「遺憾の意」を伝えられた国は震え上がることだろう。


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ひとつの民

② イサクの子ヤコブは四人の妻によって十二人の息子をもうけた。その息子たちがイスラエル十二部族の祖先となったとされている。
父ヤコブに溺愛されていた末っ子ヨセフが17歳の時に、二つの夢を見る。

 

束の夢
・ヨセフとその兄弟たちが畑で束を束ねていた。すると突然、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束はヨセフの束に向かってお辞儀をした。

太陽と月と十一の星の夢
・ヨセフと太陽と月と十一の星があった。すると、太陽と月と十一の星がヨセフに向かってひれ伏した。

 

 当然、兄弟たちは怒り狂った。「束の夢」は兄弟たちが皆ヨセフにお辞儀をすることになるとの意味だし、「太陽と月と十一の星の夢」に至っては兄弟のみならず、太陽と月で表わされる父と母も、十一の星である兄弟たちと共にヨセフにひれ伏すというのだから。
 ヨセフはユダ(ユダヤ人の祖先)を含めた兄弟たちの嫉妬と怒りにより隊商に奴隷として売られエジプトに連れて行かれる。そしてヨセフはエジプトの地において奴隷の身からエジプトの宰相の地位にまで出世する。やがてヨセフはオンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻とし、マナセ(忘れさせるとの意味)とエフライムの二子を得た。
 後に全国的な飢饉が訪れた時、ヨセフは家族を救うため、ひざまずく兄弟たちに、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です」と身を明かし、和解した。

 以上、ダイジェストすると無味乾燥した話でしかないが、実に感動的な逸話なので、創世記37章から45章までご一読を勧める。旧約聖書に描かれる物語は、おとぎ話ではなく、現在にも通じる人間ドラマであることが解って頂けると思う。
 結局、ヨセフが見た夢は成就した。十二人の兄弟と父母がヨセフに膝まづいたのだ。ヨセフが見た夢はすでに成就してしまったので、過去の話で終わったわけではない。後の十二支族の運命を予言した夢なのだから。つまりいつの日か、ヨセフの息子であるマナセとエフライムの子孫がユダヤ人を含む他の十二支族の上に君臨する時代が来るとの預言となる。(十二支族の数え方は煩雑なので説明を割愛し、十二支族で統一する)

 

③ 老齢となったヤコブがマナセを祝福する場面は重要な意味をもっている。以下、創世記48章17~19節

 

ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。そしてヨセフは父に言った。
「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」
父は拒んで言った。
「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」

 

*右手は長男であるマナセの頭の上に置く習わしなのに、ヤコブはわざわざ手を交差して祝福を行った。マナセが何か悪いことをしたわけでもないのに。
 エフライムは「多くの国民」となるのだから、単一民族国家である日本には該当しない。日本に来た十支族の中からエフライムは除外する(多くの国民の一つが日本かもしれないが)。一方長子であるのにヤコブが手を交差して祝福したマナセは「一つの民」となるわけだから日本は該当する。もちろんこの時点ではまだマナセの子孫が日本人となったとまでは確定できないのだが。

 


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小惑星探査機「はやぶさ」

④ 続く四十九章は、ヨセフの子マナセとエフライムに対するヤコブの祝福のみピックアップする。


ヤコブはその子らを呼んで行った。
「集まりなさい。後に、あなたがたの上に起ることを、告げましょう。
…ヨセフは実を結ぶ若木。
泉のほとりの実を結ぶ若木、
その枝は、かきねを越えるであろう。
射る者は彼を激しく攻め、
彼を射、彼をいたく悩ました。
しかし彼の弓はなお強く、
彼の腕は素早い。
これはヤコブの全能者の手により、
イスラエルの岩なる牧者の名により、
あなたを助ける父の神により、
また上なる天の祝福、
下に横たわる淵の祝福、
乳ぶさと胎の祝福をもって、
あなたを恵まれる全能者による。
あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、
永久の丘の賜物にまさる。
これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、
その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
ベニヤミンはかき裂くおおかみ、
朝にその分捕物を分けるであろう」

 

*最後の二行に、あえてベニヤミンへの祝福を入れたのは、ヨセフ(マナセ&エフライム)の祝福との対比のためである。ヨセフに対しては祝福という言葉が六つ入っていて、とてもありがたい祝福なのに対して、他の兄弟には祝福という言葉が一つもない。ベニヤミンはヨセフを隊商に売ったわけでもないのに、たった二行である。それも「かき裂くおおかみ、朝にその分捕物を分けるであろう」との、なにやら悲しい祝福でお終いである。
 ヨセフへの祝福で注目すべきは「その枝は、かきねを越えるであろう」の一文である。その子孫はかきねを越えて遠くへ行くとの意味になる。果たして「かきね」とは何なのだろう。また、「天の祝福」とは何なのか。

  
「永遠の山・永久の丘の賜物」とは地球の全陸地を表す。丘に登ればさらに遠くの丘が見える。その遠くに見える丘の上からはさらに遠くの丘、そして山が見えたならばその山に登ればさらに遠くの山脈が見える。永遠、永久に続ければ、つまりは大陸すべてをめぐることとなる。その賜物である全陸地よりもさらに「まさる」賜物といえば、地球という「かきね」を越えて、宇宙に飛び出すしかない。そこには「天の祝福」があるのだ。
 ここで①の祝福「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」を思いだして頂きたい。星の数ほど人口が増えるのであれば、地球上に収まるはずがない。文字通り、全天の惑星に移住するという祝福なのだ。
 つまり日本民族がマナセの子孫であるならば、宇宙開発によりいつの日にか天に解き放たれるという意味になる。
 非科学的だと思われる読者が大半かと思う。地動説も生まれていない時代に、宇宙開発も無いものだろうと。けれど前提が、「預言は成就する」つまりは天地創造の神からの啓示なのだから、神様はヤコブが祝福した時代から約三千五百年後の月面に、月探査衛星「かぐや」が転がっていることや、小惑星探査機「はやぶさ」が無事「イトカワ」に着陸した後、ボロボロのイオンエンジンに鞭うって地球にサンプルを投下することぐらいはお見通しとの前提で話を進めているのだ。

 お気づきの読者も多いことだと思う。本書の表紙には、「はやぶさ」が大気圏に突入し、燃え尽きながら写した地球の画像を使わせて頂いた。
 とりあえず常識的な、たとえば言語学から導いた「聖書アラビア起源説」あたりの説だと、十二支族の領土権について語られているとのことだが、本書はあくまで「預言は成就する」との前提の元で話を続ける。


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地の果て、日本へ

⑤ 時は出エジプトの時代。①~④の時代から約500年経っているのだから、ヤコブの十二人の息子たちは死に、その子孫である十二支族に対する祝福文である。
 神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの十二部族を祝福した。以下、申命記33章13節から17節

 

ヨセフについては言った、
「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。
上なる天の賜物と露、
下に横たわる淵の賜物、
日によって産する貴い賜物、
月によって生ずる尊い賜物、
いにしえの山々の産する賜物、-
とこしえの丘の尊い賜物、
地とそれに満ちる尊い賜物、
しばの中におられた者の恵みが、
ヨセフの頭に臨み、
その兄弟たちの君たる者の頭の頂にくだるように。
彼の牛のういごは威厳があり、
その角は野牛の角のよう、
これをもって国々の民をことごとく突き倒し、
地のはてにまで及ぶ。
このような者はエフライムに幾万とあり、
またこのような者はマナセに幾千とある」


*④のヤコブの祝福(十二人の息子に対する祝福)に比べ、モーセの祝福(ヤコブの十二人の息子から派生した十二支族に対する祝福)は宇宙を語ってはいない。はっきり言って、スケールが小さい。が、現実的でもあるのだ。
 おそらく、当時マナセ族が上記の祝福を受けた時には、その祝福の意味がわからなかった事だろう。けれどモーセから祝福を授かってから約600年後、上記の祝福がマナセ族にとって重要となる局面が生じる。それは紀元前721年の出来事だ。十支族の北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、捕虜としてアッシリアに連行されるという事件が起こる。十支族は自分の国と財産を奪われ、アッシリアの奴隷となったのだ。

 想像して頂きたい。何もかも失ったマナセの支族に最後に残された希望の光は、アブラハム、ヤコブ、モーセから授かった祝福である。アブラハムやヤコブからは、自分たちが繁栄するとの祝福を得た。そしてモーセからはその具体的方法を指示されたのだ。


 月や日は方角を表す。太陽や月の昇る方向へ、「いにしえの山々」「とこしえの丘」を越えてゆくならば、いいことあるよという神からの約束である。何も心配はいらない、邪魔する諸国民はあなたがた「野牛の角」で突き刺され、「地のはて」にたどりつくことができるとの祝福なのだ。彼らは新天地を求めて日の昇る方角へ向かった。イスラエルから東へ向かうとどこへたどりつくのだろうか。そう、シルクロードの両端はイスラエルと日本なのだ。したがってイスラエルの地の果ては日本である。


 地球儀をながめたならば解って頂けると思う。日本の場所はとても特異な位置にあるのだ。南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸を除いたほとんどの可住地域から、日の昇る方向を目指し続けて移動すれば、やがて日本に行き着く。マナセの部族は日の出る方角に夢を託し、モーセの祝福文に従って旅立った。
 そしてたどり着いた日本は災害の地であった。地震、噴火、なにより毎年のように襲ってくる台風。どんな災害にもめげず、常に希望を持ち続け、子孫をつないでいったのが我々のご先祖たちなのだ。自分が不幸な目にあっても、それを笑いながらつい話してしまうのは、ユダヤ人と日本人だけだと聞いたことがある。ユダヤ人はその迫害の歴史にめげず、子孫をつないでいった。ユダヤ人も日本人も、自分の不幸を笑えるバイタリティがなければ生き延びることはできなかったのだ。

 


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アザレスへの道

 ⑥アッシリアに捕囚となった十支族がなぜ故郷のサマリアに帰らなかったのか。いったいどこへ消えたのか。聖書にその記述はない。失われた十支族といわれる由縁である。けれど、私が聖書以外で唯一聖典と認め、生涯の研究テーマとしている書物にその答えが示されている。旧約聖書外伝、第四エズラ書である。(第四エズラ書に関しては、いつの日か筆を改めて解説する日が来ると思う。)

 その13章39節から45節。

 

彼おのがもとに他の穏やかなる群を集めしをなんじ見たり。
こはアッスリヤの王シャルマネセルがとりことせしホセアのときに、
おのが国より補囚に連れ去られし十の部族なり。
シャルマネセル彼らを川のかなたへ移し、
彼らは他の国へ連れ行かれたり。
されど、彼らおのれらのみにて互いに計り、
民らの群を離れ、いまだ人の住みしことなき更に遠き国へ行き、
そこにて、おのれらの国において守られざりし律法(おきて)を守らんとせり。
彼らはユフラテ川の狭き道を経て、そこに入れり。
そのとき、いと高き者、彼らのために徴(しる)しを行い、彼らの渡り終わるまで川の流れをとどめたり。
こは、その地方を通りての、一年半の長き道のりなりき。
その国はアザレスと呼ばる。

 

*アザレスとは地名ではない。ヘブライ語の発音からすると「もう一つの土地」、あるいは「果ての地」の意味であるという。
 なぜ彼ら十支族が故郷サマリアに帰らなかったのか、その理由が書いてある。「いまだ人の住みしことなき更に遠き国へ行き、そこにて、おのれらの国において守られざりし律法を守らんとせり」。つまり、彼ら十支族は「誰も住まない」未開の天地を目指したのだ。その目的は、回心である。誰にもじゃまされない場所で、先祖が従った旧約聖書の神に立ち返り、律法を守ろうと決心したのだ。
 ユフラテ川は堰き止められて、彼らは東へ向かった。けれど私は九支族(エフライム族はすでに除外している)すべてが日本に来たとは思っていない。マナセの部族以外は、誰にも邪魔されない土地さえ見つかればそれでよいのだ。たとえばチベット高原のような誰も住まない土地があればそれでよいのだから。
 彼らはそれぞれに自分だけのアザレス(新天地)を目指し、分散した。エフライムの支族も「多くの国民」となるとの祝福から、分散して世界中に広がり「多くの国民」となったことだろう。

 けれどマナセの支族だけは違う。日の昇る方角の果ての果てまで行き、ヤコブの祝福にあるように「一つの民」になろうという明確な目的があったのだ。
 そして日のいずる土地、日本にたどり着いた。


 二つの命題を検証してみよう。
「失われた十支族のうち、すくなくとも一支族が日本に来た」という命題と「預言は成就する」という命題とは矛盾しない。けれど命題が矛盾しないからといって、預言が成就したとは限らない。
 仮に、①から⑤までの祝福が神から下った祝福ではなく、アブラハム、ヤコブ、モーセらの口から出まかせの祝福だったとしても、マナセの支族が日本に来た可能性は高い。
「おまえはあの巨人の星となるのだ」と父一徹に言われて巨人軍に入団した星飛馬のように、先祖の言葉を真に受けたマナセの支族が、祝福文に従って、東の果ての果てで一つの国、日本を創ってしまったのではないのか。
 なにより、日本にたどり着いたマナセの支族にとって、火山や地震の巣窟であり、台風の通り道である日本が祝福文にあるように豊かな「賜物」に満ちた楽園だったとは思われない。雄大な草原で、数えきれない羊や牛たちが優雅に草を食べているような土地ではなかったのだ。マナセの支族にとっては、せっかく苦労して東の地の果てまで来たのに、いいことないじゃないか、話が違うじゃないかということになる。彼らは「祝福文」に騙されたと思ったかもしれない。したがって別に預言(神の歴史介入)を持ち出さなくても、マナセの支族が日本へ渡ってきたのは、聖書の歴史が自然に導いた結論ということで十分なのだ。
 したがって今後、「失われた十支族のうち、すくなくとも一支族が日本に来た」との命題を「マナセの部族が、東の果てに国を作ろうとして向かった先が日本である」というさらに正確な命題に変えることを了解頂きたい。


「すべての盾を貫く槍」と、「すべての槍を跳ね返す盾」とを並べて売っていたならば、少なくとも槍か盾、どちらかが間違っている。対して、「すべての盾を貫く槍」と「すべての槍に貫かれるという情けない盾(盾なのか?)」とを並べて売っていた場合に矛盾はない。だから間違っているとはいえない。つまり正しい…とまでは言えないのだ。実際に実験して検証しなければなんともいえない。
 たとえば②のヨセフが見た夢は神からの啓示であり、ヨセフがエジプトの宰相の地位に就いたことにより成就したとされている。が、同時期の日本は縄文後期時代という、気が遠くなるほどに昔の話であり、当然考古学的な物証はなく、検証のしようがない。
 したがって次章では、「預言は成就する」という命題を検証するために、近代日本においても検証しうる命題を一項目追加する。