目次
賢者様の仲人事情【第一部】
賢者様の仲人事情【第一部】
序章
序章~不幸は突然訪れる~
第一章 姫君の危機
第一章 姫君の危機【1】
第一章 姫君の危機【2】
第一章 姫君の危機【3】
第一章 姫君の危機【4】
第一章 姫君の危機【5】
第一章 姫君の危機【6】
第一章 姫君の危機【7】
第一章 姫君の危機~霊界通信~
第二章 傍らにいつも
第二章 傍らにいつも【1】
第二章 傍らにいつも【2】
第二章 傍らにいつも【3】
第二章 傍らにいつも【4】
第二章 傍らにいつも【5】
第二章 傍らにいつも【6】
第二章 傍らにいつも【7】
第二章 傍らにいつも【8】
第二章 傍らにいつも【9】
第三章 月の雫
第三章 月の雫【1】
第三章 月の雫【2】
第三章 月の雫【3】
第三章 月の雫【4】
第三章 月の雫【5】
第三章 月の雫【6】
第三章 月の雫【7】
第三章 月の雫【8】
第四章 姫君と近衛隊
第四章 姫君と近衛隊【1】
第四章 姫君と近衛隊【2】
第四章 姫君と近衛隊【3】~丘陵のエヴァンス~
第四章 姫君と近衛隊【4】
第四章 姫君と近衛隊【5】
第四章 姫君と近衛隊【6】
第四章 姫君と近衛隊【7】
第四章 姫君と近衛隊【8】
第五章 届かない声
第五章 死者達の晩餐
第五章 心を喪失した姫君
第六章 皇太子失踪
第六章 皇太子失踪【1】
第六章 皇太子失踪【2】
第六章 皇太子失踪【3】
第六章 皇太子失踪【4】
第六章 皇太子失踪【5】
第六章 皇太子失踪【6】
第六章 皇太子失踪【7】
第六章 皇太子失踪【8】
第六章 久遠に貴方を想う
終章
終章~最後のサクリファイス~

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第一章 姫君の危機【7】

「申し訳ないことをしたね。てっきり、気付いていて、あえてレオンに委ねているのかと……差し出がましいかと、思ってしまったものだから」
「……あ、いいんだ……うん。使い方は教えてもらってたし、ふつう、気付くと思うよ……」
 さっきまでとは別の意味で、ティリスは少し、泣きたかった。
 レオンなんて、最初から、ああいう奴だったのに。
 ロズが最初から、心配して切り札を持たせてくれていたのに、どうして気付かなかっただろう。――使えない。
 ティリスはとすんと寝台に腰を下ろすと、そこに置いたやや大きめのぬいぐるみを、持ち上げた。
 最近元気がないからと、レオンが心配して、四歳の贈り物にくれた物だ。
 鳥のぬいぐるみながら、羽の類が省略されていて、おにぎりめいて見えた。
「――あのさ、ロズ。レオンて、オレのこと、どう思ってるのかな。これと一緒なのかな……」
 抱き締めると落ち着く、可愛いやつ。
「レオン、オレがレオンのことどう思ってても、関係ないみたいに言ったんだ。……オレ、つわりひどくて……レオンと相性悪いんじゃないかって、子供、オレとレオンの子供なんて、いていいのかなって、不安で……教本も、全然、修められないし……だめだったらどうしよう、この子どうなるんだろうって、ぐるぐる、してた……」
 だいたいが、何もかも、インチキなのだ。
 アシュレイナ姫のこと。他の姫のこと。
「最初はさ……レオン、気が狂ってるって聞いて、そんなこともあるのかなって、思ってた。わかんなかったけど、オレ、こいつ好きかもって……こいつなら、気が狂っててもいいやって、思ったんだ。なのに、話、違うだろ? レオン、おかしくないし、かっこいいし、優しいし……お妃様になりたい姫君、たくさんいて。オレなんかがレオンを独占するの、白い目で見られるんだ。レオンのためにならないって、みんなが言うんだ。でも、そんな……、本当かもしれないけど、そんなこと、今さら言われたって! オレ、オレもう、烙印がなくてもレオンがいないと……つらくて、寂しくて、たまらないのにっ……!」
 これ以上そばにいて、これ以上好きになったら、取り返しがつかなくなりそうだった。
 今でさえ、もう手遅れなくらい――
「ここにいたくて、子供までいて、なのに、今さら資格ないって、言われ……うっ……」
 込み上げる何かがあって、ティリスは顔を覆った。
 つらかった。
 つらくて仕方なかった。
「ロズ、オレ、おかしいのかな。ずっとつらかったんだ。なのに、レオンにひどいことされたら、気持ち、楽になって……オレ、レオンに羽交い絞めにされた時、殺されるかもって、本当に殺されるかもって、思ったんだ。――なのに、」
 彼女を殺すと言ったレオンは、きっと、本気だった。加減もなしに押さえ付けられて、刃物を突きつけられて、どんなに怖かったか、知れない。
「レオン、オレがどんな思いしてもいいのかな。物みたいに思ってるのかな。……それとも……」
 声が、震えた。
 否定されたくない、そうだと認めて欲しい、レオンがその手で与えてくれた、望みがあったから。
「オレも、レオンにどんな思いさせてもいいの……? レオンのためにならない、どんなに傷つけることでも、そばにいたいと思って……いいの……?」
 ロズは、その時確かに微笑んだと思う。腐った顔に表情はなく、雰囲気だけだったけれど。
 穏やかな声が、答えた。
「その通りだよ、姫」
 ――感、極まった。
 だから、楽になったのだ。
 言いたくても決して言えなかった言葉、全部、レオンが無理やり言わせてくれた。
「姫、あなたがレオンを愛してくれることが、レオンにとってどんなに救いであるか、わかるだろうか?」
 ティリスは違うと、かぶりをふった。
「レオンは、愛なんていらないんだ。いらないって言ってた。あいつ、死体だっていいんだ」
 ロズは緩慢に、首をふった。
「それがレオンの真実なら、レオンはあなたを選んでいない。レオンが求めるのは、そばで笑ってくれる愛なんだ。それ以外のものを、レオンは価値あるものとは認められない。姫、レオンがあんな風に優しく笑うようになったのは、あなたがレオンを許してからなんだ。あなたが初めて、許してくれた。土気色の顔をして、失った両親の亡骸を、亡骸と認められず構うレオンを、そのままで。――レオンの正気は、あなたが見つけ出してくれたものなんだ。先刻、あなたを押さえつけ、壊しかけたレオンを、恐ろしいと感じたかもしれない。けれど、あの姿こそが、あなたに出会う前、狂っていると言われた、レオンのものだから」
「……そ……」
 そんなこと、あるんだろうか。レオン、あんなに優しいのに。
「レオンの心は確かに壊れているんだ。レオンの愛し方は、呪いと変わらない。レオンにとって、失うよりつらいことはなく、それを予感した時には、正常であれば働く歯止めがきかない。レオンのやり方は、多くの場合、不幸を生み落としてしまうだろう」
「……」
 そう、だ。ああいうことされたら、確かに、つらい人の方が多いよな。
 多いっていうか、相思相愛じゃないと、ものすごく悲惨だ。
「姫、あなたはレオンを愛してくれるから。レオンの束縛に――レオンは全てを求めるけれど、あなたなら、レオンに応えてくれると思う。レオンも全てをあなたに与えるだろう。姫、命も未来も、魂の全てまでもレオンに与え、カムラとレオンに、約束されていない未来を、導いて」
 レオンが望むなら、レオンを抑える生贄にさえなってくれるだろうねと、期待しているんだよと、ロズが人畜無害な様子で、言ってのけた。

 ――ちょっと待て。そこのゾンビ。

「い、いいけどそんなっ! だって、オレ、レオンのそばにいるのいやじゃないしっ! や、優しいんだから!」
 ロズが微笑ましげな様子を見せて、ありがとうと、礼を述べた。
「姫、レオンが本当にあなたの痛みをどうでもいいと思っていたら、侯爵の言葉に狂気を見せたりしない。レオンの望みを、あなたが傍で笑っていることだと仮定して、思い出してごらん。レオンがどれだけ追い詰められたか、わかるよ。――あなたになら、きっと」
「……」
 ロズは、やっぱり知っていたんだなと思った。彼女がしてきたこと――
 
“ ティリス? ”
“ さわんな! ”
 
 何の非もないレオンの手を、冷たくふり払い続けた。
 わけも言わなかった。これ以上好きになりたくないなんて、レオンを失うこと、どんなに恐れているのかなんて、言えなかった。
 それでもレオンは、ずっと、優しかった。
 彼女が応えられなくても、傷つけるばかりでも、馬鹿みたいにおとなしく、彼女の気が変わるのを待ってた。
「レオン……これくれたんだ」
 へんな鳥の、ぬいぐるみ。
 夜になると、レオンが彼女を抱いて寝ようとするのも、拒んだ。
 
“ じゃあ、手をつないで寝る ”
“ それもだめ! ”
 
 レオンは黙って彼女の夜着の袖をつかむと、その袖だけは、離そうとしなかった。
 じゃあ、袖をつかんで寝る、と言おうとしなかったのは、多分、それもだめ、と言われると思ったからだ。もう十日以上、毎晩のように繰り返して、レオンはその度、最後は黙って彼女の袖をつかんで、それで我慢して寝てた。
 どんな思いでいただろう。どんな気持ちで待っただろう。
 政務から、疲れて帰ってくるレオンにさえ、冷たくした。――八つ当たり、した。
「怒ればいいのに、どっか行っちゃったなと思ったら、レオン、疲れてたのに、これ……へんな鳥、わざわざ街まで出て、買ってくるんだ」
 
“ おまえ、どうして元気がないんだ? ”
“ ……。これ、何? ”
“ 四歳の贈り物にやる。店主に、元気が出るものが欲しいと言ったら、これがいいと勧められたぞ ”
“ ――へんな鳥。 ”
“ 元気になったか? ”
 
 思い出して、ティリスは微笑みをこぼした。レオン、可愛かった。
 けれど、あの時はただ、逃げるしかできなかった。
「レオン、絶対につらかったんだ。我慢とか、すごく苦手だろ?」
 どうしていいかわからないで、めんどくさがりのくせに、こんなの買ってきた。
 わがままのくせに、彼女が許すの、待ってた。
 許されないとならないことなんて、レオンは本当のところ何一つ、していなかったのに。
 そんな時に、投げつけられた言葉が。
 
“ あなたのものじゃなかった頃、ティリス様は今よりずっと、朗らかでお幸せそうでしたわ! ”
 
 懸命だったレオンにとって、どれくらいの絶望だっただろう。
 そのうち元気になるんじゃないかと、何も返らないのに、一生懸命やって、我慢も一生懸命にして、取り戻せる日を待った。なのに、他ならぬ彼自身が、彼女の笑顔を奪うんだと、聞かされて――
 どんなに、悲しかっただろう。どんなに、真っ暗な気持ちになっただろう。
 レオンは自分がどんなにつらいかなんて、言わない。
 それを知るティリスが黙っていた以上、カタリーナが誤解するのは、必然だった。
「レオンが死体にしたがるはずだよ、こんな――っ!」
 震える声で、吐き捨てた。
「……姫、レオンが死体でもいいと言うのはね。失うくらいなら、亡骸でも抱いていたいということなんだ。だけど、本当は良くなんてないんだよ。あの子はあなたが死んでしまった時、命を絶とうとしたんだ。死ぬよりも、あなたを失うのがつらいだけで、死んでいいことなんて何もない。あの子が、愛なんていらないと言うのは、両親が、愛していたからあの子を庇って亡くなった。あなたが、愛しているからあの子を傷つけまいとして、離れようとする。そういうことに、耐えられないというだけなんだ。そういう愛は、いらないというだけなんだ。あの子がどんなにあなたを愛し、愛されたがっているか、わからないかい、姫?」
「……」
 ティリスは唇を噛んで、かぶりをふった。
 わかる。
 ――そうだ、あの烙印、レオンの痛みだったんだ。離れるのも、束縛して苦しめるのもつらかったのは、レオン自身。
「オレ、レオンに酷いことした……! オレ、謝ってくる!」
 なくすのが怖いとか、つわりで苦しいとか、なんで、そんな下らないことで悩んでたんだろう。レオンがずっとつらかったのに、目の前で悲しそうな顔してたのに、何一つ、してやれなかった。
「反省したか?」
「え? わ、うわっ!?」
 振り向いたら、いた。
「な、なななんでここにいるんだよ、おまえ!? 政務は!?」
「おまえに石榴の烙印をかけて、僕を追っても追わなくても苦しいようにして置いてきたと言ったら、角女が怒った」

 
――ぶっ。

「怒んないわけないだろ!? それ!」
「む?」
 ティリスをじっ、と観察して、そのあごに指をかけて、思案するような様子を見せるレオン。
 あんまり苦しくなさそうだぞと、首を傾げた。
 
 ――う゛。
 
「元気になったのか?」
「え? えと……それは、な?」
 フ。
 レオンは口の端に笑みを刻むと、上機嫌にティリスを引き寄せ、口付けた。
「ひゃっ」
 もう、いちいち了承なんて取らなかった。思いのままに抱き締めて、遠慮もなく、耳や首筋に優しいキス。
「ちょ、ちょっと、何すっ」
「元気になった」
「――!!」
 何でわかんだ、こいつは!
 烙印を解こうとしてか、ティリスの首の付け根に目をやったレオンが、不思議そうに首を傾げた。烙印を落としたはずの肌を、指でなぞる。
「……? 烙印が、ないな……」
「そ、それはっ!」
 ――どうしよう、どうしよう、どうしよう!?
「あの、あのな、オレがおまえのこと好きだから、烙印はもう、いらないんだ。絶対、おまえの傍から離れたくないって思ったら、消えちゃったんだ。愛の力ってすごいなっ!」
 何言ってますか姫君。
「……」
 ――苦しい。
 苦しい言い訳だ。さすがに騙されないかも。
 レオンの表情が、あからさまに険しくなった。
 冷や汗を流すティリスに、
「今までは、あんまり僕が好きじゃなかったということか……?」
 ――そ、そう来るのか!?
 ティリスがいよいよ返答に窮して固まると、ロズが助け船を出した。
「自覚がなかっただけで、今までも、姫はレオンを好いていたよ。烙印の支配力は、術者への思いに比例する。よく、効いていたね」
 ――ロズ、ナイス!
 そうだったなと、こくりと頷いて、レオンがもう一度、ティリスを見た。
「ティリス、自覚したら消えたのか?」
 こくこく。
 レオンは機嫌よく笑うと、ティリスを抱き上げた。
「わっ」
「ティリス、僕が好きなのか?」
 それを聞くか! 今か!
「う、うん……」
 レオンの首にしがみつきながら彼女が頷くと、レオンが艶のある流し目で彼女を見、微笑むものだから、ティリスは真っ赤になってうろたえた。どきどきする。
「どれくらい?」
「ど、どれくらいって、そんなっ……き、聞かなくていーの! おまえ、知ってるんだから! 言わないからっ!」
 レオンの指が、つと、ティリスの背筋をなぞった。
 ぎゅっと、しがみつく彼女の耳元に、誘惑した。
「知らない。聞きたいんだ、言え」
「い、言わない! 言わないったら、言わ――あっ!」
 無造作に体に聞いてみたり。
 ――この馬鹿、どこでこういうこと覚えてくるんだよ!?
「だめっ……」
「言うんだ。言わないと、手をつないで寝る」
 ティリスは軽く目を見張り、レオンを見た。
 首筋に遊んでいたレオンの指を、そっと、自分の指に絡めて止めた。その指先を握って、うつむいた。
「……レオン……、オレ……」
 唇を噛んで、それから、ティリスは顔を上げた。
「おまえのこと、好きだ。好きだよ。でも、教本がどうしても、修められないんだ」
 懸命な様子を見せるティリスを、レオンはただ、怪訝そうに見るだけだった。
 ティリスは祈るような気持ちで、レオンのマントをぎゅっとつかんだ。震える声で、尋ねた。
「それでも、オレ、おまえのそばにいていい……? ずっと、いていい……?」
「……」
 レオンが、当たり前だと言って、抱き締めてくれるのなら。
 信じようと思った。
 自信も何もなくても、レオンが抱き締めてくれるのなら、頑張れる。できるだけのこと、するから。
 けれど、レオンはティリスを寝台に残し、
「レオ――」
「だめだ」
 残酷なまでの冷たさで、言下にはねつけた。
「なっ、何で! そんな……!」
「馬鹿も休み休み言え。どうして、たかだか二十一巻のものが、修められないんだ」
「ちょ、たかだかって!」
 無理だろ!? 二十一巻なんて、修められんの、レオンとカタリーナくらいのもんだ!
「馬鹿っ!」
 怒って枕を投げつけたティリスを、レオンも険しい目で見て、乱暴に、その腕をつかみ上げた。
「たいがいにしろ。修めていたアシュレイナを、おまえが帰せと言ったんだ。どうしたいんだ!」
「ど、どうしたいって、そんなの、どうできるんだよ!」
 何で。
 信じて、好きだから、懸命に頑張ってきたんじゃないか。
 これ以上、どうできるって言うんだっ!
「修めるのか、別に正妃を取って欲しいのか、二度は聞かない。決めるんだ」
 ティリスは息を呑んで、レオンを見た。
「べ……つに……?」

 カタン ……

 涙で、視界が歪んだ。
 修めるなんて無理だ。
 別の姫、正妃にしろなんて、レオンのこと気が狂うほど好きなのに、言わせ……っ!
「……っ!」
 レオンの腕をふり払い、窓まで走った。
 もう、いやだ。
「ティリス!?」
 窓から身を躍らせようとしたティリスを、レオンがすんでのところで止めた。
「放せよ! おまえ、オレなんかいらないんだ! もう、もうこんなのやだ! 二十一巻どころか、教本、第一巻も修められないっ……! 修められないからっ! おまえのこと、こんなに好きなのに、オレが……!? オレにどのくらい烙印が効いたか、おまえ知ってるんだ! オレがどれだけ泣いたか、おまえ知ってるんだ! なのに、他の姫、正妃にしろなんて、言わなきゃいけないのかよ! ひでえよ! もうやだ!!」
 ボロボロにしゃくり上げ、泣き喚くティリスを、レオンが背中から抱き締め、押さえたけれど、収まらなかった。ティリスはレオンに抵抗して暴れ、その腕から抜け出そうと暴れ、敵わないと知ると、無駄にレオンの腕を叩いて、何度も叩いて、顔を覆った。
「――いらなくない」
 ただ、かぶりをふった。おしまいだ。もう、何もかも。
「僕の声が聞こえないのか……? どうして泣くんだ」
 ――泣いてる?
 レオンの腕の中、確かに濡れた両手を見、ティリスは薄く笑った。急に無抵抗になり、彼女を捕らえるレオンの腕を、震える指先で、胸に抱くようにした。

 カタン ……

「……奴隷にしたら、いいんだ……」
 どんなにしても、手なんて届かない。
 なのに、触れるだけで涙が出るほど好きなんて、滑稽だ。
「……レオン、……どう、したって、オレなんか……――勝手にしろ。教本、オレ、修められないから……最後までなんて、言わなくていいだろ? ――奴隷にすればいいんだ! ここにいる、おまえに従う、だから、もう……!」
 身を震わせるティリスの肩を、レオンが抱き寄せた。
 背中越しに、彼女の顔を覗き込む。
「……言わなくていいと言えば、泣かないか?」
 ティリスが涙をこらえるように唇を噛み、首を横にふる。
「――どうしたら、泣かないんだ……?」

 カタン ……

 何だかひどく強引に、 棚で何かが倒れる物音がした。
「……何……?」
 ティリスが問うと、レオンがスっと、ティリスを放して様子を見に立った。ティリスも気になって、ついていった。
 倒れたのは、棚の一番上に仕舞われていたノートだった。ティリスの身長では、よく見えない。ガラス張りの棚で、風も入らないのに倒れるなんて、ネズミでもいるんじゃないかと考えたティリスが、それを見つけようとする。一方でレオンが、静かに棚の戸を開けて、倒れたノートを手に取った。
「何の本?」
 ネズミを探しながら聞いたティリスに、
「……使うか?」
 手にしたものを見せてくれた。


「……」
 ――カトレアって、誰?
 タイトルの下には、蘭の押し花が装丁されていた。
「僕の母上の形見だ」

 ぶっ。

「お、お母さんの形見ぃ!? カトレアって、じゃあ、お母さんの名前……?」
 そうだぞと、知らなかったのか? と、レオン。
「母上が、同じ教養を修めた時のノートだから、参考になるんじゃないか?」
「……」
 ちょっと、開いてみた。
 本文に矢印。
『何ですの、この決まりは! ばかばかしいです!』
 ――おおっ! 気が合う!!
 それより何より、驚くのは欄外余白だ。ところ狭しと書き込みがある。
『やりましたわ! 質問を見つけました、明日、セデス様に教えてもらいに行けます 何を着て行きましょう。明日こそセデス様を振り向かせたいです』
 ――ふうん。セデス様って、確か、レオンのお父さんだよな。カトレア様が追いかけてたんだ。……カトレア様も、追いつけなくてつらかったりしたこと、あるのかな……。
『これもこれも、十七巻に新式の説明があって無駄ですのに、なぜ一言“旧式の作法で、○○年に廃止”と注釈が入りませんの!?』
 ガンと、殴られたほどの衝撃。
 そこは、カタリーナが飛ばしていいと教えてくれたのに、『でもこの作法は大切そうだから』とか思って、ティリスが勝手に覚えようと頑張っていたところ。
 ――無駄、かよ! あの努力、無駄かよぉ~!
 泣きたい。
 もっとも、覚えようと苦しんだだけで覚えてはいない。
『ああ、セデス様はどうして抱いて下さらないのでしょう。カトレアの美しさが足りないのでしょうか。愛らしさが足りないのでしょうか。カトレアは、もっともっと頑張って、一生懸命に誘惑しないとなりませんわ。明日こそ! もう十四歳なのに、キスもまだなんてありえません!!』

 ぶっ。

 ――それは十四歳だからだろ!? セデス様がまともだからだろ!? うわー、どうしようオレ、レオンの非常識の片鱗を見た気がする……そっか、カトレア様譲りなんだ……。

『カトレアのお兄様は、お父様が十四歳の時の皇子様ですのに』

 をい。

 ――ごめん、カトレア様。前言撤回。じじい譲り。

「ティリス?」
 レオンの声に、ティリスははたと我に帰った。
「あ、えと、何?」
 レオンは笑ってティリスのプラチナ・ブロンドに指を絡め、口付けると、
「今日は遅くなる。ロズを控えさせるから、何かあったらロズに言うんだ」
「……」
 そう言って、離れた。
 ――レオン、政務だ。途中で抜けてきて、付き合ってくれてたから……。
 きゅっとレオンの袖をつかんで、頷いた。
「……? 行けないぞ」
 ティリスが袖を離さないものだから、レオンがどうしたんだと首を傾げた。
「あの、……あのさ、ありがとう。それと、……ごめんなさい……」
「?」
「オレ、……わがまま、言った。おまえ、一度だって、オレのこと奴隷にしようとなんて、してない……おまえが、いつもオレのわがまま聞いてくれるから、聞けないわがまま聞かなかっただけのおまえ、なじったりして……オレ……」
 寵姫に溺れてむやみに法を改正しろと、彼女が、わがままを言ったのだ。だから、たとえレオンが他の姫と結ばれたって、我慢――
 浮いた涙を、レオンが唇ですくった。
「……レオン、オレじゃないお妃様、迎えるの……? もう少し、もう少し待ってくれって、言ったら困る……?」
 怪訝そうに、どのくらい待つんだと、レオンが尋ねた。
 ――三十年くらい。
 さすがに、それは言えなくて、無茶だと思いながらも、ティリスは桁を落とした。
「さ、三年くらいっ……」
「待ったら泣かないか?」
「……」
 こくり。
 ふっと、レオンが微笑んだ。
「わかった」
 どこかほっとして、ティリスも微笑み返した。
 三年。
 見込みのない三年かもしれない。けれど、精一杯頑張って、どうしても届かなかったら、諦めようと思った。側室にされても、その時は、納得する。
「あの、さ、三十年だったら……?」
 上目遣いにレオンをうかがいながら、思わず、口を滑らせた。
「三十年? 待つのか?」
「いや、その、あは、あはは、待てるわけねーよなっ……何でも……」
 ぱふ。
 黒衣の、レオンの広い胸に、押し付けられた。
「わかった、その度にねだったら待ってやる。今夜は抱いて寝る、おまえも僕の言うことを聞くんだ」
 ティリスはびっくりして、レオンを見た。
「え……?」
 どうしたんだと、怪訝そう。
 だってだって、三十年だぞ――!?
「き、聞く……!」
 ぎゅっと、レオンの腕が抱き締めた。
 本気だ。レオン、本気で待つつもりだ。
 こ、こいつ馬鹿だ――っ!
「レオン!」
 胸いっぱいに嬉しさが溢れて、ティリスも満面の泣き笑いで、レオンの肩に飛びついた。
 レオンがちょっとバランスを崩して、けれど、危なげなく立て直して、ティリスを抱き直す。
「大好きっ!」

【挿絵】mikoto様


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第一章 姫君の危機~霊界通信~

「セデス様、レオンと可愛い姫の危機です! 今こそ、私たちの出番です……!」
 レオン皇子のやりように、真っ青なセデスお父様。
 お隣で、己が使命に燃えて、握りこぶしのカトレアお母様。
「何か、いい考えがあるのかい? カトレア」
「はい、聞いて下さいっ。今こそ、カトレアのまとめノートが活躍する時なんです! ですから、セデス様もぜひ、ノートを倒すの、手伝って下さいね」
 二人は早速ノートに取り付き、懸命に引き倒そうと試みました。霊魂の身には重労働です。

 えい おー えい おー

 カタン ……

「きゃー、セデス様やりましたっ! 倒れました!!」
「そ、そうだね……っ」
 肩で息をするセデスお父様。

“ 今、何か音がしなかったか? 気のせいか? ”
“ あっちの方からじゃない? ・・・ レオン、見て、すごいこのノート!! まるで、レオンのお母様がオレ達のために遺してくれたみたいだよ! レオンのお母様、すごく賢くて優しい人だったんだ。生きててくれたらどんなに…… ”

 感動の展開を期待して、胸を高鳴らせるカトレアお母様。
 しかし、

「ティリス!?」
 二人が見たのは、心臓が止まるかと思うような光景でした。あわや、窓から飛び降りそうになった姫を、レオン皇子がすんでのところで止めています。
「放せよ! おまえ、オレなんかいらないんだ! もう、もうこんなのやだ!」

「……き……聞こえなかったみたいだよ……」
 息を切らせてセデスお父様。
「そんな! あんまりですわ、レオン。お母様がせっかく頑張りましたのに! しかも、姫をあんなに泣かせてしまって……!」
「……カトレア、やっぱり、レオンを止めるのが先だ。こんなでは、姫を幸せになんて、」
 レオン皇子の所業があまり悲しくて、つらいお父様がおっしゃいます。
「まあ、セデス様。レオンはとても優しくて、とても賢い子ですのに。姫にも、ちゃんとわかっていますわ。姫は、レオンが好きだから、つらいんですもの。挫けず助けてあげなくては、頑張りましょうね、セデス様」
「え……」
 そうかなと。
 やや疑問に思いながらも、カトレアお母様が言うならそうなのかなと、セデスお父様、再配置です。まずは、倒したノートを懸命に起こし、また、倒しにかかります。
「今度こそ、気付いてもらいます! さっきより強くいきましょうね! せーっ!」

 えい おー えい おー

 カタン ……

「倒れました!」
 目を輝かせてカトレアお母様。今度こそと、振り向かれました。

「……最後までなんて、言わなくていいだろ? ――奴隷にすればいいんだ! ここにいる、おまえに従う、だから、もう……!」
 身を震わせる姫の肩を、レオン皇子が心配そうに抱き寄せています。
「……言わなくていいと言えば、泣かないか?」

「……取り込み中みたいだね……」
 言いながら、カトレアお母様が諦めるはずもないので、セデスお父様はすぐ、元の位置に再々配置です。ノートを戻しにかかります。
「レオン……レオン、あんまりですっ……どうして、お母様に気付いて下さいませんの!? ああっ」
「仕方がないよ。頑張ろう、カトレア」
 それよりも、お父様には気になることがあるのです。
「レオンは、どうして誓えないんだろう。あの子が一言、姫だけを愛することを誓えば、あの姫は誰よりレオンを思ってくれる姫なんだ。許せるはずのない、残酷に過ぎたレオンの仕打ちさえ、許してくれるだろうに……。あの子には、無理に抱いたことで、姫をどれだけ傷つけたか、わかっていないのかもしれない。あの子は本当に、他の姫を妃にするつもりなんだろうか。あんなにレオンを思ってくれる、愛らしい姫を打ちのめして……」
「まあ、セデス様。レオンはちゃんと、姫だけを愛していますわ。ただ、レオンにとって、言葉や肩書きは価値あるものではありませんから……――あっ、セデス様、ごらんになって下さい。レオン、傷ついた姫を、あんなに心配そうに抱き締めて……! 待っていて、レオン! お母様がすぐ、助けてあげます!!」

 えい おー えい … 

 おもむろに回転を始めたお母様、すごい勢いで、ノートを蹴飛ばされました。俗に回し蹴り(?)というやつです。初めてでしたが、愛の力 で決めました。

 カタン ……

「……何……?」
 姫が問い、レオン皇子がスっと、様子を見に立ちました。姫も気になる様子で、ついてきます。

「きゃあ! あなた見て! レオンが気付きました、気付きましたわ!」
「うん、かっこよかったよ、カトレア。だけど、女性はおしとやかにね」
「はい、今日だけ特別ですっ。レオンへの愛ですもの。それより、見て! 姫のあの驚きよう! きっと、私のノートの素晴らしさに夢中なんですっ! 貪るようにお読みになって!」
 少し興味を持ったセデスお父様、ノートをのぞきに行って、なぜか、沈痛な表情で戻っていらっしゃいました。
「……うん、驚いたと思うよ……」


 ――こうして、お母様はついに 愛の力 で勝利を収めたのでした。めでたしめでたし。

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