目次
賢者様の仲人事情【第一部】
賢者様の仲人事情【第一部】
序章
序章~不幸は突然訪れる~
第一章 姫君の危機
第一章 姫君の危機【1】
第一章 姫君の危機【2】
第一章 姫君の危機【3】
第一章 姫君の危機【4】
第一章 姫君の危機【5】
第一章 姫君の危機【6】
第一章 姫君の危機【7】
第一章 姫君の危機~霊界通信~
第二章 傍らにいつも
第二章 傍らにいつも【1】
第二章 傍らにいつも【2】
第二章 傍らにいつも【3】
第二章 傍らにいつも【4】
第二章 傍らにいつも【5】
第二章 傍らにいつも【6】
第二章 傍らにいつも【7】
第二章 傍らにいつも【8】
第二章 傍らにいつも【9】
第三章 月の雫
第三章 月の雫【1】
第三章 月の雫【2】
第三章 月の雫【3】
第三章 月の雫【4】
第三章 月の雫【5】
第三章 月の雫【6】
第三章 月の雫【7】
第三章 月の雫【8】
第四章 姫君と近衛隊
第四章 姫君と近衛隊【1】
第四章 姫君と近衛隊【2】
第四章 姫君と近衛隊【3】~丘陵のエヴァンス~
第四章 姫君と近衛隊【4】
第四章 姫君と近衛隊【5】
第四章 姫君と近衛隊【6】
第四章 姫君と近衛隊【7】
第四章 姫君と近衛隊【8】
第五章 届かない声
第五章 死者達の晩餐
第五章 心を喪失した姫君
第六章 皇太子失踪
第六章 皇太子失踪【1】
第六章 皇太子失踪【2】
第六章 皇太子失踪【3】
第六章 皇太子失踪【4】
第六章 皇太子失踪【5】
第六章 皇太子失踪【6】
第六章 皇太子失踪【7】
第六章 皇太子失踪【8】
第六章 久遠に貴方を想う
終章
終章~最後のサクリファイス~

閉じる


第一章 姫君の危機

試し読みできます

第一章 姫君の危機【1】

「何で、何でオレ子供できてんの!? まだレオンと結婚してないのに!」

 ぶっ。

 午後のお茶を飲みながら(ティリスは手をつけていない)半泣きで言ったティリスの言葉に、品行方正小笠原流家元くらいのカタリーナともあろう者が、お茶を吹いた。
「姫様……?」
「オレ、知らないうちにレオンと結婚したの!? あいつ、また勝手にオレの知らないところで式挙げたの!? ひでえよ!」
 いやあな予感を覚えて、カタリーナは極めて沈痛に、こめかみを押さえた。
「姫様、一つお伺いしてもよろしいかしら」
「なに。」
 皇子に文句たらたら半泣きで、ティリスがカタリーナを見る。
「どうして、皇子と結婚するのを先延ばし、先延ばしになさっていたんですの?」
 皇帝辺り、大いに楽しみらしくて大乗り気なのだが、皇帝が話を進めようとする度に、ティリスが「まだいいよ」の一言で片付けてしまうのだった。
「どうしてって、だって、結婚したら子供ができるだろ?」
「――姫様、結婚しなくたって子供はできます」
「えっ……、ええ!? マジ!? どうや――」
 はっと、ティリスが息を呑む。サーっと、その顔から血の気が引いた。直感的に理解したらしい。
「そんな……だって、じゃあ、なんでオレ生まれてんの!?」

 ぶっ。

 不覚にも、カタリーナはまたしてもお茶を吹いた。
「そ、そうですわね……それについては、シグルド王国最大の謎と言われていますわ――」
 さすがお姉様。動揺を即座に押し隠した。
 シグルド国王ファーマイヤと、その王妃タスマニア。なるほど、二人は伝説的なまでに、成立したのが奇跡と呼ばれる組み合わせだった。あからさまに国王の片思いで、娘の目から見ても、それは揺るぎの無い事実だったようだ。
 
“ 結婚さえすれば、子供は生まれるわ ”
 
 そんな、ありがちな母親のたわごとを、娘が真実より遥かに説得力ある答えとして、この年まで信じてしまうくらいには。

 バンっ!

 乱暴にドアが開けられて、珍しく息急き切って駆けつけた様子のレオンが、顔を見せた。
「あ、レオ……」
 レオン皇子、開口一番。
「ティリス、おまえ、どうして子供がいるんだ。誰の子供だ!」
「だよなあ!? おまえもそう思うよな!?」
 ワナワナと握りこぶしを震わせて、バン! とカタリーナが机を叩く。
「あんったの子に決まってるでしょーが!」
「……僕の……?」
 怪訝そうにカタリーナを見て、次には眉をひそめて疑わしげにティリスを見て、レオン皇子。
「僕はティリスと結婚していない」
 ――ゴゴゴゴゴ……。
 お姉様の背後から、真っ黒な暗雲が立ち込めるように、殺意に近い怒気が立ち上った。
 折も折、浮かれた様子のゼルダ皇帝が顔を出してみたり。
「姫や、姫や~ わしの初孫とは本当かのう!?」
 振り向きざまの、お姉様の行き場のない怒りを込めた、激しい二段蹴りが炸裂した。
「ぐああぁっ」
「……初ひ孫でしょう……!? そんなことより!」
 地の底から響いてくるような、初めは、静かな声だった。
「一体、皇子にどういう教育をなさったんです……! 姫様が御懐妊と聞いて、この馬鹿皇子、言うにこと欠いて誰の子供とは何事なんですかっ!」
「う、うぬう……? カタリーナ姫や、姫のために若ぶりたいじじの気持ちを、わかっておくれでないかのう」
「どうでもよろしい! 教育は!」
「う、うぬぬぬ。『どうやるか』は教えたが、『どうなるか』は教えんかったかのう……」

 ドカ! バス! ゴキ!

 ……最後、何だか危険な音がしてました。

     *

「どういうことだ」
 いつにも増して不機嫌に、険しい表情で、レオンがティリスを問い詰める。
 たんたんたんと、床を打つ靴先までもが腹立たしげだ。
「ティリス、僕を騙したのか」
 ――実は、レオン皇子は初め、正しい認識を持っていたのだ。
「だ、騙したわけじゃねーよ!」
 ところが、これをティリスが自信満々改めさせて、あまつさえ、だからと求婚を断り続けてきたものだから、今、皇子は心底、ティリスを疑わしい、疑わしいと思うのだった。
「だって、仕方ないじゃんか! オレ、母上にそう教わって……し、信じてたんだから!」
 ティリスが泣きそうになっているのに気付いたレオンが、少し、首を傾けてティリスをのぞいた。
「な……、何だよ……」
「じゃあ、騙したんじゃないのか?」
 ティリスがこくりと頷くと、レオンがふいに、にやっと笑った。
「ふ、僕の言い分が正しかったな。あの時、僕も母上に教わったと言ったはずだ。おまえ『十の時なら、ガキ扱いされたんだよ。あしらわれたんだって』とか言ったが、子供扱いされてあしらわれたのは、おまえの方だったわけだな。僕は信頼されていた」
「――くっ……!」
 くそう、こいつ憎たらしい! 悔しい! 一言も言い返せねえっ!!
 手をワナワナ震わせて悔しがるティリスを、レオンがフフンと、余裕と優越感に満ちた顔で観察してくる。
「な、何だよ! 信じてたのに……! 母上なんて、母上なんて、大っ嫌いだーーー!!」
 泣いて駆け去ろうとしたティリスを、それまで傍観していたカタリーナが、無情にもぴしゃりと止めた。
「姫様、妊娠中の全力疾走はいけません」
「オレは駆け去りたいんだっ!!」
 いくら姫様のお望みでも、こればかりは聞けませんと、仁王立ちしてカタリーナが首をふる。
「それから、レオン皇子。あなたはいい加減、少しは姫様をいたわりなさいな! だいたい、知っていながら十五歳の姫に手を出したなど、言語道断! 恥を知りなさい!」
「……? どうしてだ」
 まあまあと、わかっていないレオンの代わりに、ゼルダ皇帝が仲裁に入った。
「カタリーナ姫や、もう十五歳の姫を、毎晩同じ寝所に眠っていながら無視するなど、失礼千万じゃ。ティリス姫は、王子と偽ってまでレオンを誘惑しに来たわけじゃしのう。据え膳されたら、食わねば男の恥と――」

 バキ! ガス! ゴキ!

 皇帝の各急所に、二人分の攻撃が決まった。
「来たくて来たもんか! だいたい、誰が誘惑したんだっ!!」
「あなたが男の尻を追いかけて、人質に連行したんじゃありませんの! この変態が!!」
「何と!? 誤解じゃ! わしが手を出してみたいと思った男は、後にも先にもセデスただ一人じゃ!」
「いるのかよっっ!!?」
 ティリスの盛大な突っ込みが入ったこの発言に、珍しくもレオンさえ、少しばかり引いた顔をした。
「う、うぬ? おお、安心せい、レオン。カトレアが女のカンで見張っておるものじゃから、最後まで、手出しはできなかったからのう。父は健全じゃ」
「……え……? と、セデスって誰?」
 何だか嫌な予感を覚え、思わず聞いたティリスに、レオンが淡々と答えた。
「僕の父上だ。――そうか……おじい様は、隙のある方術師が好みなんだな」
 ティリスは頭痛を覚え、沈痛にこめかみを押さえた。娘婿に手を出す舅って……。
「と、に、か、く! オレは誘惑なんてしてないからな!」
「……そうかのう?」
「そうだよ!」
 と、レオンが軽く指でティリスの肩先を叩き、振り向かせた。
「なに?」
 甘く笑って一言。
「誘った」
「な、ななな何言ってんだ、誘ってない!」
 くっくっくっと、うろたえるティリスをレオンがおかしがる。かと思えば、ふいにティリスを見詰め、どきっとしたティリスが退こうとするのを、上手に壁際まで追い込んだ。
「誘った」
「さ、誘ってないったら! ……や……あっ……!」
 口付けが、誘うように降りる。それでいて隙がない。
 ティリスがどう動くか知り尽くしたレオンは、あらかじめ、退路を断つのだ。
「ちゃんと、僕を求めて呼んだぞ」
「だ、だって! そんなの、おまえが死霊術使うからじゃないか……!」
「逃げられないようにしただけだ。呼ぶようには命じていない。おまえが、自分の意思で呼んだんだ。誘ったぞ」
 さっと、耳まで赤くなるティリスを、レオンがさらに追い込んだ。衣装の合わせから、上手に手を差し込んで、柔らかな胸のふくらみに指を滑らせる。
「やめっ……! て、何で誰もいなくなってんだ――っ!」

 姫君の危機は、まだまだ、始まったばかり。

試し読みできます

第一章 姫君の危機【2】

 ぴちょん。
 ぴっ ぴちょん。
 
 陽光が差すことはない、聖アンナ霊廟地下墓所。
 今そこに、小さな燭台(しょくだい)の灯に照らされた、数名の方術師の影が見えた。
「聖アンナの御遺体は、まだ見つからないのか」
「……エンヴァル大司教、恐れながら、御遺体はやはり、生贄に滅ぼされたのではないかと――」
「あり得ん。復活祭の日、この私が直に方術をかけ、生贄の自由を奪ったのだから。動くことすらできなかったはずだ」
 重い沈黙が、冷たい石室を支配した。
 カムラ帝国の方術師たち――
 聖アンナ神殿は今、大変な危機に直面している。
 建国からの永きに渡り、カムラ帝国には唯一無二の、聖アンナと呼ばれる本物の天使が存在し、その天使が方術師たちに力を貸してきた。
 ところが、天使を降ろし、その依り代となるはずだったサクリファイス(生贄)が六年前に暗殺されてより、歯車が狂い始める。
 サクリファイス不在のまま、翌年には、聖アンナまでもが命を落とした。
 そして、方術の効果が徐々に失われていく中で、神殿はついに真っ二つに割れてしまったのだ。
 死霊術師に支配された現皇室を滅ぼし、天使ではなく神の加護を取り戻そうとする一派。皇室断絶派。
 聖アンナにつながる唯一の手がかり、暗殺されたサクリファイスの遺児、レオン皇太子を生贄に、天使復活に賭ける一派。聖アンナ正統派。
 皇室断絶派が、皇帝の不在を狙って皇太子暗殺に出て、まさかの返り討ちにあった事件が記憶に新しい。
 その報告を聞いた時、聖アンナ正統派の筆頭であるエンヴァル大司教は慄然とした。
「猶予はあるまい。カムラ皇室は死の王朝だ。建国よりこの方、皇室はいつも血と死に支配されてきた。セデスが暗殺された今、その血を継ぐ者はレオン皇太子ただ一人。だが、その最後の希望も、いつ、死神につかまるか――何としても、愚かなる者に暗殺されたり、自害されたりする前に、皇太子には生贄になって頂かねばならん」
 大司教は時折、悪夢を見る。ついに聖アンナの亡骸を見つけ、儀式の準備も整い、皇太子を訪ねると、肝心の皇太子が血まみれになって倒れているのだ。もちろん息はない。最悪のシナリオだ。
 ――そこ。大司教はいったい皇太子を何だと思っているのか、とか、冷静な突っ込みは入れない方向で。
「大司教、この上は、皇太子に直に伺うのはいかがでしょうか」
「馬鹿な」
 聖アンナの亡骸がどうなったのか、確実に知っているはずの人物がいる。生贄となるはずだった、レオン皇太子その人だ。
 ――だが、しかし。
「なぜ生還されたのか、儀式を執り行った聖アンナ霊廟に安置されていた天使の御遺体はどうされたのかなど、聞けるはずがあるまいぞ。皇太子が、何故、我らを糾弾しないのかすら、霧の中だというのに」
 皇太子はかけられた方術の効果で意識も定まらず、夢だと判断したから何も言わないのではと、大司教は考えている。
「直にとは言っても、面と向かってではありません。皇太子が溺愛なさっている姫君に――『月の雫ライティルナ』に、力を貸して頂くのです」
「……『月の雫ライティルナ』だと? あの姫がか?」
「御意」
 月の雫ライティルナ
 それは聖別された人間だ。天使の寵を受ける者であり、本人が望まない限り、あらゆる方術の影響を受けないという。
「ロゼット司祭長、姫は、レダス司祭長の方術から皇太子を庇って重傷を負われたと聞く。月の雫ライティルナではあるまい」
「聞き及んでおります。ですが、むしろ、その時にこそ――姫君には『皇太子を庇って亡くなられた』という話もあるほど。姫君が月の雫ライティルナの資格を得たのはその時ではないかと、私は考えるのです」
 聞いていた誰もが、息を呑んだ。
 月の雫ライティルナ
 それは方術師の誰もが目指す魂の高み。しかし、カムラ帝国の建国より、数名しか確認されていない、半ば伝説と化した存在だ。
「……過去、息を吹き返して月の雫ライティルナとなった例はないが……」
 ロゼット司祭長が、ふっと、表情を緩めた。
「先日、姫君が私の元に、皇太子に神殿をどうこうする意思はない、殺そうとするのをやめてくれと、言いに来られました。自分には誰が一番偉いかわからない、それでも、十分偉そうな人に会えたから、一番偉い人に話を通してくれと――人に見つかったと気付くと、あわてて逃げて行かれましたが」
 逃げ去る姫君にかけられた方術が、光の欠片となって無効化されるのを、司祭長はまさに目の当たりにしたのだ。
 そして、皇太子や天使がなぜ、かの姫君に寵を与えるのか――
 司祭長には、わかる気がした。
 正面から、手続きを踏んで乗り込めば、姫君の身は安全で、話も確実だったのに。彼女はそうしなかった。なぜか。
 神殿を庇ったのではないかと、思われるのだ。
 息をするほど当たり前に。
 逃げる時、秘密だと、姫君は口元に指を一本立ててこう言った。
「中庭にいた人たちはみんな死んだ。レオンもそう言ってる。だから誰も『おまえも暗殺に加担したんじゃないか』とか、疑わないでやって」
 そして、追いかけっこを楽しむように逃げて行った。
 光そのものかのような、姫君。
 
“ 逃げ延びた者がいることは秘密 ”
 
 これほど無礼で奔放で、小さなものを救う密約を、知らない。
「大司教、方術も天使も必要だと、月の雫ライティルナなら、わかって下さるはずと、信じたい」
「……」
 皇太子についても、司祭長の考えは、大司教とは少し違う。
 死霊術師である前に、優れた方術師だったセデス司祭の息子だ。皇太子こそ、神殿を庇って何も言わないのではと、不吉な考えが脳裏をよぎる。
 不吉な、というのは、復活祭が失敗したのは皇太子が抵抗したからではなく、天使が死んでしまっていたからではと、神殿側が考えないようにしている可能性を想起させるからだ。
 復活祭とは名ばかり、儀式の際、天使が死んでしまっていたことは、かつてない。天使の依り代は、生命ある天使とサクリファイスの契約によって交代してきたのだ。
 同じ手順を踏んだとて、死んでしまった天使とでは、駄目なのかもしれない。本当は、その可能性を危惧しないわけでは、ないから――


試し読みできます

第一章 姫君の危機【3】

「う~……」
 何やら低いうなり声が、皇宮に響く。
「う~~~……」
 この世の不幸に押し潰されようとしているような、苦渋に満ちたうめき声だった。
「……皇帝陛下の……御威光を……、……よって? ご尊顔をみだりに……?」
 分厚い分厚い教本との戦い。ティリスは今まさに、カムラ宮廷作法やら、修めるべき豊かな教養とやらに、押し潰されそうになっていた。
「何だっけこれ……昨日、カタリーナに聞いたのに……。何で忘れてんだよ~、オレ!」
 泣きたい。泣きそうだ。泣いてるし。
 婚約披露宴での失態以来、さしものカタリーナさえ、指導中はティリスに厳しい。
 何があったかと言うと、カタリーナの熱心な指導をあざ笑うかのごとく、大切な席でティリスが失敗したのだ。いっぱい。百点満点の、平均六十点の試験で、二十点を取ったという感じだろうか。
 そんな中、妊娠を告知されてしまったティリスを待っていたのは。
「ティリス、具合が悪いのか?」
 政務を終えて戻ってきたレオンを、ティリスは心底うらめしげに見た。
「妊娠中で、動けないんだよ」
「ふうん。動けないとうなるんだな、おまえは。変な奴だ」
 バタンと、ティリスはやや乱暴に教本を閉じた。
「動けないから、どうせ修めなきゃなんないカムラ宮廷作法全21巻を今のうちに修めとけっていうのは正しいよな。正しいよ。でもさあ、やる方の身にもなってみろよ!」
 突然のことに、やや、レオンが驚いた顔をした。ティリスは構わず言い募った。
「好きな剣の一つもふれなくて、乗馬の一つもできないんだぞ!? 毎日毎日毎日毎日教本だぞ!?」
 レオンが訝しげに眉をひそめる。納得いかないようだ。
「まだ3日目だろう。1日多いぞ」

「だまれ。」

 訴えた自分が馬鹿だった。どうやったって、レオンにこの苦悩がわかるはずがない。
「くそう。おいレオン、これ、皇帝権力で修めなくていいことにできねーのかよ!」
「だめだ。皇帝だからと、何もかも勝手にしたら、国が乱れる。秩序は保つんだ」
 ティリスは目を見開いて、次には腹立ちに任せて教本を机に叩きつけた。
 何だよ、それ!
 正論だ。その通りだ。だけど、自分は!? レオン自身はいつだって、めいっぱい身勝手なくせに――!
「……っ……」
 だめだ、オレ、――泣く!
「ティリス?」
「風呂入って寝るんだっ!」
 レオンを振り切って風呂場に駆け込むと、ティリスは両手で顔を覆った。
 涙がどっと溢れた。
 悔しくて、たんたんたんと、風呂場の床を蹴って八つ当たりした。
 何でこんなに悔しいのか、悲しいのか。
 ――わけ、わかんねえ!!――

 泣くだけ泣いて涙も枯れると、ティリスはぼんやり、いつもと何も変わらない、浴室を見た。

 そうか。
 これが、俗にマリッジ・ブルーというやつなのだ。
 きっと、こういう時、妻は夫に殺意を抱くのだ。
 ……くそう……。

( 注・ちょっと違います。 )

 入浴の後、レオンに案外優しくしてもらっても、ティリスの気は一向に晴れなかった。

試し読みできます

第一章 姫君の危機【4】

 数週間が過ぎていた。
 閉じた教本の上に腕を組み、そこに頭を乗せて、ティリスはぼんやりと、窓の外を眺めていた。
「ティリス様……?」
 様子を見に来たらしいカタリーナの声。ティリスは仕方なく、身を起こした。もそもそと、教本を開く。
 目を走らせても、集中力がないのか、頭にはまるで入らなかった。ここ数日、ずっとだ。
 最初の数日は気が乗らないならと、カタリーナも大目に見てくれて、気晴らしにと、劇場や庭園に連れ出してくれた。
 しかし、これが連日ともなると、カタリーナも当然、いい顔はしなかった。
「どうなさったのですか。無駄にできる時間など、本当は、一刻とてないのですよ? 婚儀の手順が覚えられなくて、子供がいるのに結婚できないなんて、前代未聞です」
 ややきつい口調で言い切り、ティリスが読んでいる教本のページを確認すると、カタリーナはいよいよ、態度の険しさを増した。
「ティリス様、昨日より戻っているじゃありませんの! 一体、どういうことなのですか!? こんな馬鹿なこと!」
「――っるさい!」
 バンと、ティリスは閉じた教本を机に叩きつけた。
「ほっといてくれよ!」
「ティリス様、甘えるのもたいがいになさい!」
 何かが、ティリスの中で切れた。
 もう、いやだ。
「出てけ!!」
 カタリーナの表情が強張る。次には手を振り上げて、カタリーナがティリスの肩をつかんだ。
「!」
 息を呑み、カタリーナは動きを止めた。
 ティリスが歯を食い縛り、泣いていたからだ。
「……出、てってくれ……」
 カタリーナは眉を顰めてティリスを見た。
「ティリス様……、妥協します、レオン皇子の言われた通り、3ページで構いません。少しでも進めて下さらないと、お話にならないんです、皇子のそばにいたいのでしょう!?」
「――だ、……黙れ! 出てってくれよ!!」
「ティリス様!」
 このところ、カタリーナ自身、深刻に自分の指導力に自信を欠いていた。正統な、シグルド王室の王女なのだ。ティリスの出来が悪いはずはない。
 そんなに、彼女の教え方が悪いのかと。
 一方、ティリスはティリスで、落ち込んでいた。自信はもとよりなかったが、いよいよできないことを思い知り、どうしていいのかわからないのだ。
 教本は全二十一巻なのに、ティリスは一ヶ月以上、第一巻の最初の章でもたもたしていた。もはやカタリーナにもレオンにも、合わせる顔がない。
 教養作法、完璧に修め、政道にも明るかったアシュレイナ姫を蹴らせてまで、彼女を正妃に迎えさせたのに。
 寵姫はいやだと、彼女だけでなければいやだと、泣いてなじってレオンに他を捨てさせたのに、実質的に、今の彼女には愛玩される以外の能がなかった。このままではまるで、寵姫と変わらない。
 レオンが正しかったのだ。
 寵姫であれば、こんなもの修める必要なんてなかった。
 公式行事にだって参加しなくてよく、望まれた時にレオンに応えれば、そばに居さえすれば、それで良かった。
「――後でまた来ますわ」
 カタリーナは一度、出て行った。
 ティリスは答えなかった。
 ――レオンは。
 レオンは、ありのままの彼女を受け入れて、そのままで、迎えてくれようとした。
 ティリスが教養や作法の類を苦手とすることも、外で勇者ごっこを繰り広げるのが大好きなことも、知っていて、そのままで、迎えてくれようと――して――
「うっ……」
 ティリスは口元を押さえて洗面所に駆け込むと、もう吐くだけ吐いたのに、まだ吐いた。苦しい。何もかもが、苦しい。
 アシュレイナ姫なんて、レオンが寵姫ばかりに溺れても、文句の一つも言わずに、割り切って皇妃を務め上げてくれそうな姫だった。
 レオンは側室にさえ、皇帝や彼女が喜びそうな姫を、選ぼうとしていた。
 レオンはおまえだけだとか愛しているとか、言ってくれない。
 だけれど、いつだって、彼女だけがいればいいという行動を、取り続けてくれていた。ただ、祖父や両親のことも大切にしていて、だから皇太子として、その務めは果たそうとしていた。
 何にも考えていないと思っていたのに、考えていなかったのは、ティリスの方だったのだ。身の程知らずで子供で、必要なことを修められない彼女が正妃で、レオン、これからどんなに困るだろう。どんなに、恥をかいたり責められたりするんだろう。
「ティリス?」
 レオンの声に、ティリスはびくりとして固まった。政務のはずだ。何で――
「どうしたんだ? 角女が心配して――」
「ど、どうもしない! ほっといてくれ!」
 余計なこと――!
 カタリーナが心配してくれているのはわかる。けれど今、どうにもできないティリスには、重荷だった。何かしてもらうだけ、追い詰められた。
「……」
 レオンが黙って様子をうかがっているのが、わかる。
「政務、途中だろ……。戻れよ! オレなんか、ほっとけばいいんだから!」
 レオンがむうと、おまえ、最近毎日ご機嫌ななめだぞと、眉を顰めた。
「ティリス」
 呼びかけにどきっとしたティリスに、レオンが差し出したのは。

 ――梅干し。

「へそにつけておくと、吐かないそうだ」

 ………………。

「それ違う」
 何だ? と、レオンが首を傾げる。
 ティリスは沈痛に額を押さえ、
「船酔いじゃないだろ!?」
「?」
 だいたいどこからもらってきたんだよと、吹き出そうか、厳しく突っ込もうかというところ、ぼろっと涙がこぼれた。
 レオンがびっくりして目を見張る。
「――じょ、情緒不安定なんだっ……!」
 あわてて、レオンを押しのけて洗面所から出ようとしたティリスを、レオンが捕まえた。後ろから優しく抱き締めて、首筋に柔らかく、口付けた。
「……あっ……」
 恐怖が、抑えられない。
 レオンの優しさに、余計、恐怖が増した。
 しゃくり上げるようにティリスが身を震わせると、レオンがどうしたんだと、首を傾げた。
「……お願い……っといて……!」
 どうなるんだろう。
 教本、この十日間、1ページも進んでないと知られたら、どうなるんだろう。
 どうやっても、修められなかったら、どうなるんだろう。
 もし、皇太子妃の器じゃなかったら……? 今さら、レオンを失うことになったら……!?
 
“ ここにいたい ”
“ レオンの腕の中にいたい…のに……! ”
 
 震えを止められないティリスの肩に、レオンはしばらく、頭をもたせかけておとなしかった。
 その距離が、無防備に甘えてくれるレオンが、温かくて心地好くて、ティリスは苦しかった。
「……うっ……」
 また、気持ち悪くなって、悪いなと思いながら、ティリスはレオンの腕から逃れた。
 洗面所に駆け込んで、まだ、吐いた。
 涙もぼろぼろ、溢れた。
 役立たずだ。
 わがままなばっかりの、してもらうばっかりの、役立たずだ、オレ――!


試し読みできます

第一章 姫君の危機【5】

 二日後。体調を見てもらうために部屋を空けていたティリスは、戻ってきて、カタリーナとレオンが部屋の前でもめているのに気付いた。

「どうにかならないのか、手に負えないぞ。ティリスのことだ」
 レオンが不機嫌そうに言って、腕を組む。答えるカタリーナの口調も、険しかった。
「――情けない、あなたが、まるでしっかりしないからじゃありませんの! いいですか、物事には順序というものがあるんです。本来ならこういうもの、」
 カタリーナが二度ほど荒く、手にした教本を叩いた。
「全て修めてから、初めて正式に婚姻し、契りを交わすのが筋だったのですわ。それを、合意も資格も確かめずに手を出して、あげく、手に負えないとは、呆れてものも言えませんわ!」
「……」
 よせばいいのに、「言っているぞ」とレオンが突っ込むものだから、いよいよ語気荒く、カタリーナが責め立てた。
「だいたい、あなたは一度だって、ティリス様のことを思いやったことがあるんですの!? あなたが身勝手だから、ティリス様があのように追い詰められるんです! あなたのものじゃなかった頃、ティリス様は今よりずっと、朗らかでお幸せそうでしたわ!」
 ティリスは目を見開き、たまらず、走り出た。
「違う!」
「ティ……」
「違う、そんなじゃない、違うんだ!」
 唇を噛んでレオンに目を向けて、――ティリスは息を呑んだ。
 レオンの両眼が、赤みがかった光を帯び、やり場のない痛みに、揺れていた。
「――レオン――」
 わがままなのは、身勝手なのは彼女だ。
 だって、シグルドにいた頃は、こんな気持ち知らなかった。こんなに、何かを求めたこと、なかった。
 誰かを傷つけても、資格がなくても得たいと思ったことなんて、なかった。
 止められない思いが、傷つけた。大切な二人を。
 カタリーナもレオンも、こんなじゃ……こんな、優しさのないいがみ合い、する二人じゃなかったのに……!

“ ――だめにする ”

 彼女のわがままが、通そうとする無理が、何もかもだめにするんだと、思い詰めた。
 ティリスはきつく唇を噛み、それから、顔を上げた。
 震える声を励まし、言った。
「レオン、オレ、おまえとは別れる。国に、帰るから……」
 両者がいよいよ目を見開いて、ティリスを見た。
「……何……?」
「もう、いやなんだ! ここにいたくないんだ!」
 血を吐く思いでティリスが言った、直後だった。
 レオンに向かい、カタリーナが突如、容赦のない平手打ちを食らわせた。
「なっ――!」
「情けない! 子供がいる状態で、女性の側から別れを切り出させるなんて、あなたはいったい、昼も夜もティリス様と一緒にいて、何をしていたんです!」
 ティリスは息を呑んで、とにかく、レオンを庇いに入った。
「何で、何でレオン責めるんだ! レオンは悪くないじゃないか! オレが……オレが器じゃないのに正妃になりたがって、無理通させて、でも、無理だったって……! 今さら投げ出して国に帰るのに、何で、レオン責めるんだ!」
 どうしていいのかわからなかった。
 カタリーナが怒るのも、本当は、当然だ。カタリーナは、最初から反対だったのだから。それを曲げて通してもらい、協力さえしてもらったあげく、この醜態で。
 ティリスが傷つくと思って、幸せになれないと思って、それで反対していたカタリーナが、怒らないはずがなかった。
 それでも、今はただ一つしか、言えることがなかったから。
「レオンのこと、責めないでくれ……! レオン、悪くないんだ、オレがだめなんっ――」
「そうだ、おまえが悪い」
 背中から乱暴に、抱き込まれた。
「え……?」
 喉元に刃物が当てられていた。
「角女、おまえは行け。何もかも、冗談じゃないな。覚えておけ、シグルドには死体しか、返さない」
「なっ……!」
 瞳を鮮やかな緋に輝かせ、薄く笑むレオンは、カタリーナの目にも危険だった。
「動くな! それとも今すぐ、ティリスを死体にして欲しいか? 一歩でも近付いてみろ、ティリスは殺して、アンデッドにして僕のそばに控えさせる」
「……何を……何を馬鹿な! ティリス様を放しなさい、レオン皇子!」
 レオンはただ笑い、余計、ティリスを押さえ込む腕に力を込めた。ティリスの喉元に当てた刃物の先を、切れておかしくない角度に立て、食い込ませた。
「や……」
「ティリスは僕がこの手で痛めつける。二度と、馬鹿なことを言う気が起きないように」
 レオン、怒ってる――
「カ、カタリーナ、行って! レオン、逆らったら恐い……何、するかわかんない!」
 ククと、レオンが声を立てて笑った。
「……わかるのか? ティリス」
「や……めて……」
 おまえはもう逆らったから、ひどいからな? とレオンが嘲う。
 声は冷たく、すでに、ティリスをなぶるものだった。
「皇子、なぜそのようなこと……! 見損ないましたわ! ティリス様が、ティリス様がどんなにあなたを思っているか、わからないのですか!」
 ティリスは初めて、カタリーナがレオンの前でそれを認めるのを見た。
 けれど、わからないし、関係ないだろうと、レオンは言い切った。
「僕を独りにする思いなど、いらないな。僕は愛してもらえなくていい。ティリスがここにいれば、それで足りる」
 その言葉に、ティリスが恐怖以外の感情を見せ、目を見張るのを、後ろから捕らえているレオンが、見ることはなく。
「いいか、おまえが強硬な態度に出るなら、その分も、ティリスの体に刻む。おまえが奪おうとするなら、その前に、ティリスの心も体も僕が壊して、残骸しか残さない。間違えるなよ、ティリスは僕のものだ。生殺与奪、全て僕が支配する。誰にも、ティリスは渡さない」
 ティリスはぎゅっと、レオンが彼女を押さえ込む腕を、つかんだ。
「カタリーナ、行って――」
 それだけを願った。
 刃物を持たない側の、ティリスを押さえつけていたレオンの手が、服地をつかんで裂いた。
 ティリスが弱く笑って目で願うと、カタリーナもついに、身をわななかせて走り去った。

“ ごめん、カタリーナ ”

 服地を裂いて露にした首の付け根に、レオンが口付ける。苦しい。石榴の烙印は、施術も解呪も苦しい。
「震えているな、怖いか? ティリス」
 レオンが愉悦に満ちた声音で言い、満足げに、印を指でなぞった。
「どんな目にあわせてやろうか……」
 最近、方術の癒しの術が使えるようになったんだと、言う。
 関係ないと思っていたら、とんでもないことを言い出した。
「刺して、癒しの術を使って、また、僕の魔力が尽きるまで繰り返すとか、できるな」
 冗談、それ激しく、方術の使い方間違ってる!!
「やだ、そんなのやだ、やめて!」
 レオンが楽しげに、利き手で握り締めた短剣を、喉から致命傷にならない位置に移動させ、突きつけた。
 ちょっと、貸すのか!? カムラの天使、ほんとにこんなやつに力貸すのか!?
「やめて! やだ、こわいやめて! 許して!!」
「なら謝れ、二度と、僕を置き去りにしないと誓え」
 ティリスが絶句すると、レオンが本当に、力を込めた。
「いや、待って! ご、ごめん……ごめんなさいっ……二度と、二度と別れるなんて言わない、言わないからやめてっ」
 胸のつかえが。
「国に帰るのもだめだ、取り消せ。誓えないなら、誓う気になるまで痛めつけてやる。おまえの気が狂うのと、僕の魔力が尽きるのと、どちらが早いか――試してみるか?」
「た、試さない! 帰らない、帰らないからっ!」
「絶対に?」
「ぜ、絶対でいいっ! 誓う、誓うからやめて……!」
 レオンがやっと、突きつけていた短剣を手放した。
 次にはぎゅっと、機嫌良くティリスを抱き締めた。
「待っ……」
 うわ~、レオン嬉しそうだ~!
「方術は便利だ」
 ガクゥと、何だそれと、何だか、泣きたい感じで突っ込んだ。
「おまえ、こんなことでいいのかよ! これで納得できるって、どうかしてんじゃ――」
 ティリスの言葉半ばに、レオンが言った。
「いいなんて言っていない。ここからだぞ? ここから、酷い目にあわせるんだ。怖い目にあわせて、二度と、ここにいたくないなんて言えなくするんだ」
「……え?」
 さーっと血の気を引かせ、何それ? と、誤魔化したい笑顔でレオンを見るティリスに、レオンが魔のある、不吉な笑みで流し目をくれた。
 ――ちょっと、レオン、すごく楽しそうなんだけどっ! やめてくれよ、レオンがこーゆー顔する時、まじ、タチ悪いんだからーっ!
 無駄に抵抗するティリスを、容赦なく追い詰めて、烙印の支配力にあかして、レオンが強制した。
「ティリス、離れたら許さない。失いたくなければ、僕をつかんでいろ」
 彼女が目を見張り、逆らえずにレオンの服の袖をつかむと、満足げに笑ったレオンが、続けて言った。
「僕が好きなら、首に腕を回してもいい」
 ――そ、それはどうなんだ!
 ティリスはいいように、酷い目にあわせてくれる相手なのに、レオンの首にかじりつかされた。何でと思っても、悔しいばかりで、逆らえない。
「国になんて、帰らなくていい。一生、僕のそばにいるんだ」
 レオンが囁いて、ティリスの喉元に指を這わせた。レオンの指が、彼女を弄んで這い回る。首筋に口付けが降り、ティリスがこぶしをぎゅっと握り締めると、レオンの指が軽く、口許に当てられた。それだけで、そんな場合じゃないのに安心してしまい、ティリスは抵抗の気力を削がれた。彼女がおとなしくなると、レオンが指の代わりに唇を、彼女のそれに重ねた。深く口付ける。
 烙印をかけられた状態で抱かれるのは、怖い。
 触れられるだけ、効果が増す気がするから。
 レオンが耳元に、囁いた。置き去りにされる痛みがわからないから、軽はずみにああいうことを言うんだと。教えてやると、かじりつくティリスの腕を、レオンが引き剥がした。
「ここにいろ。部屋を一歩でも出たら、許さない。おまえが、追うことのできないところに行く」
「……レオ…ン……?」
 部屋の扉を開けると、術をかけたままで彼女を中に突き飛ばし、レオンが外側から扉を閉めた。
「そ、嘘!」
「僕は政務に行く。おまえはそこで、しばらく自分が何を言ったか思い知るんだ」
「や、いや! レオン、行かないで! 置いてかないで!」
 烙印を施された状態で突き放されたら、気が狂うような苦痛を覚えること、知り抜いたティリスは半狂乱になった。
「レオン、レオンっ――!!」
 その足音が遠ざかる中、悲鳴を上げて、ティリスは烙印を押さえてそこに崩れた。


試し読みできます

第一章 姫君の危機【6】

 あんまりだ。
 どうして、こんな酷いこと……!
 追わないと、永遠にレオンを失う気がする。二度と、あの腕に、戻れな――
 どっと涙が溢れ、ティリスは身を震わせて、殺し切れない嗚咽を漏らした。
 だけど、だけど追うのは。
 レオンの心臓に、剣を突き立てるのと同じだから。
 錯覚だとわかっているのに、その痛みに耐えられなかった。
「姫――、以前から、言おうかどうか迷っていたのだけどね」
 いつからいたのか、控えの間から出てきたロズが、声をかけた。
「……な……に……?」
 彼女の考えなしの行動が、どんなにレオンを傷つけていて、だから報復されるんだと、そういう話だと思った。この半月間、本当はずっと、レオンの優しさ、踏みにじってきたから。ロズは気付いていたと思う。失うかもしれない恐怖に、レオンがどんなに優しくしてくれても、同じ優しさ、返せなかった。こんな酷いことするところまで、レオン、追い詰めたのは彼女だ。
 苦しくて、苦しくてたまらなくて、切れるほど噛んだ唇から、噛み殺した嗚咽を漏らした。
「石榴の烙印は、聖笛で解呪できるんだよ」

 ……。

 ティリスは素直に、胸の内ポケットに仕舞い込んでいた精巧な笛を、取り出した。
 吹いても平気? と聞くと、ロズがこくりと頷くので、吹いてみた。澄んだ、天上の鳥の声のような、美しい笛の音が響く。

 ――解呪、できた。

試し読みできます

第一章 姫君の危機【7】

「申し訳ないことをしたね。てっきり、気付いていて、あえてレオンに委ねているのかと……差し出がましいかと、思ってしまったものだから」
「……あ、いいんだ……うん。使い方は教えてもらってたし、ふつう、気付くと思うよ……」
 さっきまでとは別の意味で、ティリスは少し、泣きたかった。
 レオンなんて、最初から、ああいう奴だったのに。
 ロズが最初から、心配して切り札を持たせてくれていたのに、どうして気付かなかっただろう。――使えない。
 ティリスはとすんと寝台に腰を下ろすと、そこに置いたやや大きめのぬいぐるみを、持ち上げた。
 最近元気がないからと、レオンが心配して、四歳の贈り物にくれた物だ。
 鳥のぬいぐるみながら、羽の類が省略されていて、おにぎりめいて見えた。
「――あのさ、ロズ。レオンて、オレのこと、どう思ってるのかな。これと一緒なのかな……」
 抱き締めると落ち着く、可愛いやつ。
「レオン、オレがレオンのことどう思ってても、関係ないみたいに言ったんだ。……オレ、つわりひどくて……レオンと相性悪いんじゃないかって、子供、オレとレオンの子供なんて、いていいのかなって、不安で……教本も、全然、修められないし……だめだったらどうしよう、この子どうなるんだろうって、ぐるぐる、してた……」
 だいたいが、何もかも、インチキなのだ。
 アシュレイナ姫のこと。他の姫のこと。
「最初はさ……レオン、気が狂ってるって聞いて、そんなこともあるのかなって、思ってた。わかんなかったけど、オレ、こいつ好きかもって……こいつなら、気が狂っててもいいやって、思ったんだ。なのに、話、違うだろ? レオン、おかしくないし、かっこいいし、優しいし……お妃様になりたい姫君、たくさんいて。オレなんかがレオンを独占するの、白い目で見られるんだ。レオンのためにならないって、みんなが言うんだ。でも、そんな……、本当かもしれないけど、そんなこと、今さら言われたって! オレ、オレもう、烙印がなくてもレオンがいないと……つらくて、寂しくて、たまらないのにっ……!」
 これ以上そばにいて、これ以上好きになったら、取り返しがつかなくなりそうだった。
 今でさえ、もう手遅れなくらい――
「ここにいたくて、子供までいて、なのに、今さら資格ないって、言われ……うっ……」
 込み上げる何かがあって、ティリスは顔を覆った。
 つらかった。
 つらくて仕方なかった。
「ロズ、オレ、おかしいのかな。ずっとつらかったんだ。なのに、レオンにひどいことされたら、気持ち、楽になって……オレ、レオンに羽交い絞めにされた時、殺されるかもって、本当に殺されるかもって、思ったんだ。――なのに、」
 彼女を殺すと言ったレオンは、きっと、本気だった。加減もなしに押さえ付けられて、刃物を突きつけられて、どんなに怖かったか、知れない。
「レオン、オレがどんな思いしてもいいのかな。物みたいに思ってるのかな。……それとも……」
 声が、震えた。
 否定されたくない、そうだと認めて欲しい、レオンがその手で与えてくれた、望みがあったから。
「オレも、レオンにどんな思いさせてもいいの……? レオンのためにならない、どんなに傷つけることでも、そばにいたいと思って……いいの……?」
 ロズは、その時確かに微笑んだと思う。腐った顔に表情はなく、雰囲気だけだったけれど。
 穏やかな声が、答えた。
「その通りだよ、姫」
 ――感、極まった。
 だから、楽になったのだ。
 言いたくても決して言えなかった言葉、全部、レオンが無理やり言わせてくれた。
「姫、あなたがレオンを愛してくれることが、レオンにとってどんなに救いであるか、わかるだろうか?」
 ティリスは違うと、かぶりをふった。
「レオンは、愛なんていらないんだ。いらないって言ってた。あいつ、死体だっていいんだ」
 ロズは緩慢に、首をふった。
「それがレオンの真実なら、レオンはあなたを選んでいない。レオンが求めるのは、そばで笑ってくれる愛なんだ。それ以外のものを、レオンは価値あるものとは認められない。姫、レオンがあんな風に優しく笑うようになったのは、あなたがレオンを許してからなんだ。あなたが初めて、許してくれた。土気色の顔をして、失った両親の亡骸を、亡骸と認められず構うレオンを、そのままで。――レオンの正気は、あなたが見つけ出してくれたものなんだ。先刻、あなたを押さえつけ、壊しかけたレオンを、恐ろしいと感じたかもしれない。けれど、あの姿こそが、あなたに出会う前、狂っていると言われた、レオンのものだから」
「……そ……」
 そんなこと、あるんだろうか。レオン、あんなに優しいのに。
「レオンの心は確かに壊れているんだ。レオンの愛し方は、呪いと変わらない。レオンにとって、失うよりつらいことはなく、それを予感した時には、正常であれば働く歯止めがきかない。レオンのやり方は、多くの場合、不幸を生み落としてしまうだろう」
「……」
 そう、だ。ああいうことされたら、確かに、つらい人の方が多いよな。
 多いっていうか、相思相愛じゃないと、ものすごく悲惨だ。
「姫、あなたはレオンを愛してくれるから。レオンの束縛に――レオンは全てを求めるけれど、あなたなら、レオンに応えてくれると思う。レオンも全てをあなたに与えるだろう。姫、命も未来も、魂の全てまでもレオンに与え、カムラとレオンに、約束されていない未来を、導いて」
 レオンが望むなら、レオンを抑える生贄にさえなってくれるだろうねと、期待しているんだよと、ロズが人畜無害な様子で、言ってのけた。

 ――ちょっと待て。そこのゾンビ。

「い、いいけどそんなっ! だって、オレ、レオンのそばにいるのいやじゃないしっ! や、優しいんだから!」
 ロズが微笑ましげな様子を見せて、ありがとうと、礼を述べた。
「姫、レオンが本当にあなたの痛みをどうでもいいと思っていたら、侯爵の言葉に狂気を見せたりしない。レオンの望みを、あなたが傍で笑っていることだと仮定して、思い出してごらん。レオンがどれだけ追い詰められたか、わかるよ。――あなたになら、きっと」
「……」
 ロズは、やっぱり知っていたんだなと思った。彼女がしてきたこと――
 
“ ティリス? ”
“ さわんな! ”
 
 何の非もないレオンの手を、冷たくふり払い続けた。
 わけも言わなかった。これ以上好きになりたくないなんて、レオンを失うこと、どんなに恐れているのかなんて、言えなかった。
 それでもレオンは、ずっと、優しかった。
 彼女が応えられなくても、傷つけるばかりでも、馬鹿みたいにおとなしく、彼女の気が変わるのを待ってた。
「レオン……これくれたんだ」
 へんな鳥の、ぬいぐるみ。
 夜になると、レオンが彼女を抱いて寝ようとするのも、拒んだ。
 
“ じゃあ、手をつないで寝る ”
“ それもだめ! ”
 
 レオンは黙って彼女の夜着の袖をつかむと、その袖だけは、離そうとしなかった。
 じゃあ、袖をつかんで寝る、と言おうとしなかったのは、多分、それもだめ、と言われると思ったからだ。もう十日以上、毎晩のように繰り返して、レオンはその度、最後は黙って彼女の袖をつかんで、それで我慢して寝てた。
 どんな思いでいただろう。どんな気持ちで待っただろう。
 政務から、疲れて帰ってくるレオンにさえ、冷たくした。――八つ当たり、した。
「怒ればいいのに、どっか行っちゃったなと思ったら、レオン、疲れてたのに、これ……へんな鳥、わざわざ街まで出て、買ってくるんだ」
 
“ おまえ、どうして元気がないんだ? ”
“ ……。これ、何? ”
“ 四歳の贈り物にやる。店主に、元気が出るものが欲しいと言ったら、これがいいと勧められたぞ ”
“ ――へんな鳥。 ”
“ 元気になったか? ”
 
 思い出して、ティリスは微笑みをこぼした。レオン、可愛かった。
 けれど、あの時はただ、逃げるしかできなかった。
「レオン、絶対につらかったんだ。我慢とか、すごく苦手だろ?」
 どうしていいかわからないで、めんどくさがりのくせに、こんなの買ってきた。
 わがままのくせに、彼女が許すの、待ってた。
 許されないとならないことなんて、レオンは本当のところ何一つ、していなかったのに。
 そんな時に、投げつけられた言葉が。
 
“ あなたのものじゃなかった頃、ティリス様は今よりずっと、朗らかでお幸せそうでしたわ! ”
 
 懸命だったレオンにとって、どれくらいの絶望だっただろう。
 そのうち元気になるんじゃないかと、何も返らないのに、一生懸命やって、我慢も一生懸命にして、取り戻せる日を待った。なのに、他ならぬ彼自身が、彼女の笑顔を奪うんだと、聞かされて――
 どんなに、悲しかっただろう。どんなに、真っ暗な気持ちになっただろう。
 レオンは自分がどんなにつらいかなんて、言わない。
 それを知るティリスが黙っていた以上、カタリーナが誤解するのは、必然だった。
「レオンが死体にしたがるはずだよ、こんな――っ!」
 震える声で、吐き捨てた。
「……姫、レオンが死体でもいいと言うのはね。失うくらいなら、亡骸でも抱いていたいということなんだ。だけど、本当は良くなんてないんだよ。あの子はあなたが死んでしまった時、命を絶とうとしたんだ。死ぬよりも、あなたを失うのがつらいだけで、死んでいいことなんて何もない。あの子が、愛なんていらないと言うのは、両親が、愛していたからあの子を庇って亡くなった。あなたが、愛しているからあの子を傷つけまいとして、離れようとする。そういうことに、耐えられないというだけなんだ。そういう愛は、いらないというだけなんだ。あの子がどんなにあなたを愛し、愛されたがっているか、わからないかい、姫?」
「……」
 ティリスは唇を噛んで、かぶりをふった。
 わかる。
 ――そうだ、あの烙印、レオンの痛みだったんだ。離れるのも、束縛して苦しめるのもつらかったのは、レオン自身。
「オレ、レオンに酷いことした……! オレ、謝ってくる!」
 なくすのが怖いとか、つわりで苦しいとか、なんで、そんな下らないことで悩んでたんだろう。レオンがずっとつらかったのに、目の前で悲しそうな顔してたのに、何一つ、してやれなかった。
「反省したか?」
「え? わ、うわっ!?」
 振り向いたら、いた。
「な、なななんでここにいるんだよ、おまえ!? 政務は!?」
「おまえに石榴の烙印をかけて、僕を追っても追わなくても苦しいようにして置いてきたと言ったら、角女が怒った」

 
――ぶっ。

「怒んないわけないだろ!? それ!」
「む?」
 ティリスをじっ、と観察して、そのあごに指をかけて、思案するような様子を見せるレオン。
 あんまり苦しくなさそうだぞと、首を傾げた。
 
 ――う゛。
 
「元気になったのか?」
「え? えと……それは、な?」
 フ。
 レオンは口の端に笑みを刻むと、上機嫌にティリスを引き寄せ、口付けた。
「ひゃっ」
 もう、いちいち了承なんて取らなかった。思いのままに抱き締めて、遠慮もなく、耳や首筋に優しいキス。
「ちょ、ちょっと、何すっ」
「元気になった」
「――!!」
 何でわかんだ、こいつは!
 烙印を解こうとしてか、ティリスの首の付け根に目をやったレオンが、不思議そうに首を傾げた。烙印を落としたはずの肌を、指でなぞる。
「……? 烙印が、ないな……」
「そ、それはっ!」
 ――どうしよう、どうしよう、どうしよう!?
「あの、あのな、オレがおまえのこと好きだから、烙印はもう、いらないんだ。絶対、おまえの傍から離れたくないって思ったら、消えちゃったんだ。愛の力ってすごいなっ!」
 何言ってますか姫君。
「……」
 ――苦しい。
 苦しい言い訳だ。さすがに騙されないかも。
 レオンの表情が、あからさまに険しくなった。
 冷や汗を流すティリスに、
「今までは、あんまり僕が好きじゃなかったということか……?」
 ――そ、そう来るのか!?
 ティリスがいよいよ返答に窮して固まると、ロズが助け船を出した。
「自覚がなかっただけで、今までも、姫はレオンを好いていたよ。烙印の支配力は、術者への思いに比例する。よく、効いていたね」
 ――ロズ、ナイス!
 そうだったなと、こくりと頷いて、レオンがもう一度、ティリスを見た。
「ティリス、自覚したら消えたのか?」
 こくこく。
 レオンは機嫌よく笑うと、ティリスを抱き上げた。
「わっ」
「ティリス、僕が好きなのか?」
 それを聞くか! 今か!
「う、うん……」
 レオンの首にしがみつきながら彼女が頷くと、レオンが艶のある流し目で彼女を見、微笑むものだから、ティリスは真っ赤になってうろたえた。どきどきする。
「どれくらい?」
「ど、どれくらいって、そんなっ……き、聞かなくていーの! おまえ、知ってるんだから! 言わないからっ!」
 レオンの指が、つと、ティリスの背筋をなぞった。
 ぎゅっと、しがみつく彼女の耳元に、誘惑した。
「知らない。聞きたいんだ、言え」
「い、言わない! 言わないったら、言わ――あっ!」
 無造作に体に聞いてみたり。
 ――この馬鹿、どこでこういうこと覚えてくるんだよ!?
「だめっ……」
「言うんだ。言わないと、手をつないで寝る」
 ティリスは軽く目を見張り、レオンを見た。
 首筋に遊んでいたレオンの指を、そっと、自分の指に絡めて止めた。その指先を握って、うつむいた。
「……レオン……、オレ……」
 唇を噛んで、それから、ティリスは顔を上げた。
「おまえのこと、好きだ。好きだよ。でも、教本がどうしても、修められないんだ」
 懸命な様子を見せるティリスを、レオンはただ、怪訝そうに見るだけだった。
 ティリスは祈るような気持ちで、レオンのマントをぎゅっとつかんだ。震える声で、尋ねた。
「それでも、オレ、おまえのそばにいていい……? ずっと、いていい……?」
「……」
 レオンが、当たり前だと言って、抱き締めてくれるのなら。
 信じようと思った。
 自信も何もなくても、レオンが抱き締めてくれるのなら、頑張れる。できるだけのこと、するから。
 けれど、レオンはティリスを寝台に残し、
「レオ――」
「だめだ」
 残酷なまでの冷たさで、言下にはねつけた。
「なっ、何で! そんな……!」
「馬鹿も休み休み言え。どうして、たかだか二十一巻のものが、修められないんだ」
「ちょ、たかだかって!」
 無理だろ!? 二十一巻なんて、修められんの、レオンとカタリーナくらいのもんだ!
「馬鹿っ!」
 怒って枕を投げつけたティリスを、レオンも険しい目で見て、乱暴に、その腕をつかみ上げた。
「たいがいにしろ。修めていたアシュレイナを、おまえが帰せと言ったんだ。どうしたいんだ!」
「ど、どうしたいって、そんなの、どうできるんだよ!」
 何で。
 信じて、好きだから、懸命に頑張ってきたんじゃないか。
 これ以上、どうできるって言うんだっ!
「修めるのか、別に正妃を取って欲しいのか、二度は聞かない。決めるんだ」
 ティリスは息を呑んで、レオンを見た。
「べ……つに……?」

 カタン ……

 涙で、視界が歪んだ。
 修めるなんて無理だ。
 別の姫、正妃にしろなんて、レオンのこと気が狂うほど好きなのに、言わせ……っ!
「……っ!」
 レオンの腕をふり払い、窓まで走った。
 もう、いやだ。
「ティリス!?」
 窓から身を躍らせようとしたティリスを、レオンがすんでのところで止めた。
「放せよ! おまえ、オレなんかいらないんだ! もう、もうこんなのやだ! 二十一巻どころか、教本、第一巻も修められないっ……! 修められないからっ! おまえのこと、こんなに好きなのに、オレが……!? オレにどのくらい烙印が効いたか、おまえ知ってるんだ! オレがどれだけ泣いたか、おまえ知ってるんだ! なのに、他の姫、正妃にしろなんて、言わなきゃいけないのかよ! ひでえよ! もうやだ!!」
 ボロボロにしゃくり上げ、泣き喚くティリスを、レオンが背中から抱き締め、押さえたけれど、収まらなかった。ティリスはレオンに抵抗して暴れ、その腕から抜け出そうと暴れ、敵わないと知ると、無駄にレオンの腕を叩いて、何度も叩いて、顔を覆った。
「――いらなくない」
 ただ、かぶりをふった。おしまいだ。もう、何もかも。
「僕の声が聞こえないのか……? どうして泣くんだ」
 ――泣いてる?
 レオンの腕の中、確かに濡れた両手を見、ティリスは薄く笑った。急に無抵抗になり、彼女を捕らえるレオンの腕を、震える指先で、胸に抱くようにした。

 カタン ……

「……奴隷にしたら、いいんだ……」
 どんなにしても、手なんて届かない。
 なのに、触れるだけで涙が出るほど好きなんて、滑稽だ。
「……レオン、……どう、したって、オレなんか……――勝手にしろ。教本、オレ、修められないから……最後までなんて、言わなくていいだろ? ――奴隷にすればいいんだ! ここにいる、おまえに従う、だから、もう……!」
 身を震わせるティリスの肩を、レオンが抱き寄せた。
 背中越しに、彼女の顔を覗き込む。
「……言わなくていいと言えば、泣かないか?」
 ティリスが涙をこらえるように唇を噛み、首を横にふる。
「――どうしたら、泣かないんだ……?」

 カタン ……

 何だかひどく強引に、 棚で何かが倒れる物音がした。
「……何……?」
 ティリスが問うと、レオンがスっと、ティリスを放して様子を見に立った。ティリスも気になって、ついていった。
 倒れたのは、棚の一番上に仕舞われていたノートだった。ティリスの身長では、よく見えない。ガラス張りの棚で、風も入らないのに倒れるなんて、ネズミでもいるんじゃないかと考えたティリスが、それを見つけようとする。一方でレオンが、静かに棚の戸を開けて、倒れたノートを手に取った。
「何の本?」
 ネズミを探しながら聞いたティリスに、
「……使うか?」
 手にしたものを見せてくれた。


「……」
 ――カトレアって、誰?
 タイトルの下には、蘭の押し花が装丁されていた。
「僕の母上の形見だ」

 ぶっ。

「お、お母さんの形見ぃ!? カトレアって、じゃあ、お母さんの名前……?」
 そうだぞと、知らなかったのか? と、レオン。
「母上が、同じ教養を修めた時のノートだから、参考になるんじゃないか?」
「……」
 ちょっと、開いてみた。
 本文に矢印。
『何ですの、この決まりは! ばかばかしいです!』
 ――おおっ! 気が合う!!
 それより何より、驚くのは欄外余白だ。ところ狭しと書き込みがある。
『やりましたわ! 質問を見つけました、明日、セデス様に教えてもらいに行けます 何を着て行きましょう。明日こそセデス様を振り向かせたいです』
 ――ふうん。セデス様って、確か、レオンのお父さんだよな。カトレア様が追いかけてたんだ。……カトレア様も、追いつけなくてつらかったりしたこと、あるのかな……。
『これもこれも、十七巻に新式の説明があって無駄ですのに、なぜ一言“旧式の作法で、○○年に廃止”と注釈が入りませんの!?』
 ガンと、殴られたほどの衝撃。
 そこは、カタリーナが飛ばしていいと教えてくれたのに、『でもこの作法は大切そうだから』とか思って、ティリスが勝手に覚えようと頑張っていたところ。
 ――無駄、かよ! あの努力、無駄かよぉ~!
 泣きたい。
 もっとも、覚えようと苦しんだだけで覚えてはいない。
『ああ、セデス様はどうして抱いて下さらないのでしょう。カトレアの美しさが足りないのでしょうか。愛らしさが足りないのでしょうか。カトレアは、もっともっと頑張って、一生懸命に誘惑しないとなりませんわ。明日こそ! もう十四歳なのに、キスもまだなんてありえません!!』

 ぶっ。

 ――それは十四歳だからだろ!? セデス様がまともだからだろ!? うわー、どうしようオレ、レオンの非常識の片鱗を見た気がする……そっか、カトレア様譲りなんだ……。

『カトレアのお兄様は、お父様が十四歳の時の皇子様ですのに』

 をい。

 ――ごめん、カトレア様。前言撤回。じじい譲り。

「ティリス?」
 レオンの声に、ティリスははたと我に帰った。
「あ、えと、何?」
 レオンは笑ってティリスのプラチナ・ブロンドに指を絡め、口付けると、
「今日は遅くなる。ロズを控えさせるから、何かあったらロズに言うんだ」
「……」
 そう言って、離れた。
 ――レオン、政務だ。途中で抜けてきて、付き合ってくれてたから……。
 きゅっとレオンの袖をつかんで、頷いた。
「……? 行けないぞ」
 ティリスが袖を離さないものだから、レオンがどうしたんだと首を傾げた。
「あの、……あのさ、ありがとう。それと、……ごめんなさい……」
「?」
「オレ、……わがまま、言った。おまえ、一度だって、オレのこと奴隷にしようとなんて、してない……おまえが、いつもオレのわがまま聞いてくれるから、聞けないわがまま聞かなかっただけのおまえ、なじったりして……オレ……」
 寵姫に溺れてむやみに法を改正しろと、彼女が、わがままを言ったのだ。だから、たとえレオンが他の姫と結ばれたって、我慢――
 浮いた涙を、レオンが唇ですくった。
「……レオン、オレじゃないお妃様、迎えるの……? もう少し、もう少し待ってくれって、言ったら困る……?」
 怪訝そうに、どのくらい待つんだと、レオンが尋ねた。
 ――三十年くらい。
 さすがに、それは言えなくて、無茶だと思いながらも、ティリスは桁を落とした。
「さ、三年くらいっ……」
「待ったら泣かないか?」
「……」
 こくり。
 ふっと、レオンが微笑んだ。
「わかった」
 どこかほっとして、ティリスも微笑み返した。
 三年。
 見込みのない三年かもしれない。けれど、精一杯頑張って、どうしても届かなかったら、諦めようと思った。側室にされても、その時は、納得する。
「あの、さ、三十年だったら……?」
 上目遣いにレオンをうかがいながら、思わず、口を滑らせた。
「三十年? 待つのか?」
「いや、その、あは、あはは、待てるわけねーよなっ……何でも……」
 ぱふ。
 黒衣の、レオンの広い胸に、押し付けられた。
「わかった、その度にねだったら待ってやる。今夜は抱いて寝る、おまえも僕の言うことを聞くんだ」
 ティリスはびっくりして、レオンを見た。
「え……?」
 どうしたんだと、怪訝そう。
 だってだって、三十年だぞ――!?
「き、聞く……!」
 ぎゅっと、レオンの腕が抱き締めた。
 本気だ。レオン、本気で待つつもりだ。
 こ、こいつ馬鹿だ――っ!
「レオン!」
 胸いっぱいに嬉しさが溢れて、ティリスも満面の泣き笑いで、レオンの肩に飛びついた。
 レオンがちょっとバランスを崩して、けれど、危なげなく立て直して、ティリスを抱き直す。
「大好きっ!」

【挿絵】mikoto様


試し読みできます

第一章 姫君の危機~霊界通信~

「セデス様、レオンと可愛い姫の危機です! 今こそ、私たちの出番です……!」
 レオン皇子のやりように、真っ青なセデスお父様。
 お隣で、己が使命に燃えて、握りこぶしのカトレアお母様。
「何か、いい考えがあるのかい? カトレア」
「はい、聞いて下さいっ。今こそ、カトレアのまとめノートが活躍する時なんです! ですから、セデス様もぜひ、ノートを倒すの、手伝って下さいね」
 二人は早速ノートに取り付き、懸命に引き倒そうと試みました。霊魂の身には重労働です。

 えい おー えい おー

 カタン ……

「きゃー、セデス様やりましたっ! 倒れました!!」
「そ、そうだね……っ」
 肩で息をするセデスお父様。

“ 今、何か音がしなかったか? 気のせいか? ”
“ あっちの方からじゃない? ・・・ レオン、見て、すごいこのノート!! まるで、レオンのお母様がオレ達のために遺してくれたみたいだよ! レオンのお母様、すごく賢くて優しい人だったんだ。生きててくれたらどんなに…… ”

 感動の展開を期待して、胸を高鳴らせるカトレアお母様。
 しかし、

「ティリス!?」
 二人が見たのは、心臓が止まるかと思うような光景でした。あわや、窓から飛び降りそうになった姫を、レオン皇子がすんでのところで止めています。
「放せよ! おまえ、オレなんかいらないんだ! もう、もうこんなのやだ!」

「……き……聞こえなかったみたいだよ……」
 息を切らせてセデスお父様。
「そんな! あんまりですわ、レオン。お母様がせっかく頑張りましたのに! しかも、姫をあんなに泣かせてしまって……!」
「……カトレア、やっぱり、レオンを止めるのが先だ。こんなでは、姫を幸せになんて、」
 レオン皇子の所業があまり悲しくて、つらいお父様がおっしゃいます。
「まあ、セデス様。レオンはとても優しくて、とても賢い子ですのに。姫にも、ちゃんとわかっていますわ。姫は、レオンが好きだから、つらいんですもの。挫けず助けてあげなくては、頑張りましょうね、セデス様」
「え……」
 そうかなと。
 やや疑問に思いながらも、カトレアお母様が言うならそうなのかなと、セデスお父様、再配置です。まずは、倒したノートを懸命に起こし、また、倒しにかかります。
「今度こそ、気付いてもらいます! さっきより強くいきましょうね! せーっ!」

 えい おー えい おー

 カタン ……

「倒れました!」
 目を輝かせてカトレアお母様。今度こそと、振り向かれました。

「……最後までなんて、言わなくていいだろ? ――奴隷にすればいいんだ! ここにいる、おまえに従う、だから、もう……!」
 身を震わせる姫の肩を、レオン皇子が心配そうに抱き寄せています。
「……言わなくていいと言えば、泣かないか?」

「……取り込み中みたいだね……」
 言いながら、カトレアお母様が諦めるはずもないので、セデスお父様はすぐ、元の位置に再々配置です。ノートを戻しにかかります。
「レオン……レオン、あんまりですっ……どうして、お母様に気付いて下さいませんの!? ああっ」
「仕方がないよ。頑張ろう、カトレア」
 それよりも、お父様には気になることがあるのです。
「レオンは、どうして誓えないんだろう。あの子が一言、姫だけを愛することを誓えば、あの姫は誰よりレオンを思ってくれる姫なんだ。許せるはずのない、残酷に過ぎたレオンの仕打ちさえ、許してくれるだろうに……。あの子には、無理に抱いたことで、姫をどれだけ傷つけたか、わかっていないのかもしれない。あの子は本当に、他の姫を妃にするつもりなんだろうか。あんなにレオンを思ってくれる、愛らしい姫を打ちのめして……」
「まあ、セデス様。レオンはちゃんと、姫だけを愛していますわ。ただ、レオンにとって、言葉や肩書きは価値あるものではありませんから……――あっ、セデス様、ごらんになって下さい。レオン、傷ついた姫を、あんなに心配そうに抱き締めて……! 待っていて、レオン! お母様がすぐ、助けてあげます!!」

 えい おー えい … 

 おもむろに回転を始めたお母様、すごい勢いで、ノートを蹴飛ばされました。俗に回し蹴り(?)というやつです。初めてでしたが、愛の力 で決めました。

 カタン ……

「……何……?」
 姫が問い、レオン皇子がスっと、様子を見に立ちました。姫も気になる様子で、ついてきます。

「きゃあ! あなた見て! レオンが気付きました、気付きましたわ!」
「うん、かっこよかったよ、カトレア。だけど、女性はおしとやかにね」
「はい、今日だけ特別ですっ。レオンへの愛ですもの。それより、見て! 姫のあの驚きよう! きっと、私のノートの素晴らしさに夢中なんですっ! 貪るようにお読みになって!」
 少し興味を持ったセデスお父様、ノートをのぞきに行って、なぜか、沈痛な表情で戻っていらっしゃいました。
「……うん、驚いたと思うよ……」


 ――こうして、お母様はついに 愛の力 で勝利を収めたのでした。めでたしめでたし。