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堕ちて行く私

 私の転落の歴史は、ここから始まった。
 今からおよそ三十年前の、ある晴れた日曜日のこと。
 当時小学五年生だった姉は、生後間もない赤ん坊の私を乳母車に乗せ、いつものように子守をさせられていた。
 この頃彼女は、キャーギャー泣き叫ぶひと回りも下の妹の面倒をみることに、ほとほと嫌気がさしていたらしい。
「あー、こいつさえいなければ……こいつさえいなければ、もっと自由に毎日遊べるのに……」
 そして姉の脳裏には、そのとき恐ろしい考えが浮かんだのだった。
 
 私の生まれた函館は、坂の多いエキゾチックな街である。
 坂の上から見る港の景色は、のどかで美しく、人を穏やかな優しい気持にさせてくれる…………はずっなのに! 私の姉ったら、坂の上から乳母車を、港めがけてつき飛ばしたのだ! 当然乳母車はガラガラと音を立て、次第にスピードをつけて勢いよく遠ざかって行ったらしい。
「まっ、あのとき道に大きな石でも転がってたら、今頃あんたはここにいないわねぇ」
 とその後、姉は煎餅を齧(かじ)りながら、しみじみと私に語った。
 しかし、通りかかった人は坂を転がるように落ちて行く暴走乳母車を見て、なんと思ったことだろう。
「ねぇ、どうやってそれは止まったの?」
 私はおそるおそる尋ねた。
「坂っていっても大したもんじゃなかったし、途中からすぐ平らになってたから、自然に止まったんじゃないの? それぐらい私も計算してるわよ」
 と姉は言ったが、最後のほうのセリフは怪しいものである。
 まっ、とりあえず生きてて良かった。
 
 こうして私の転落の日々への幕は、切って落とされた。
 乳母車の転がり落ちるスピードとスリルが癖になったわけではないだろうが、私はしょっ中階段から落ちたり(螺旋階段の上から下まで転げ落ちて気絶したこともある)、なんてことない道で転んだり、池へ落っこちたりする子供だったのだ。当然、生傷は絶えなかった。
 小学二年生のある朝のこと。
 私はランドセルを背負って、隣の同級生の家へ向かっていた。
「久ぅ仁ぃ子ちゃん、おっはぁよぉー」と、学校へ誘いに行くその途中、まだ舗装されていなかった自宅前のじゃり道で、私はどういうわけか突然スキップがしたくなった。
「スキップ、スキップ、ルンルンルン!」と、ひとり踊っていたら、その「ルン」のところで足が絡まり、前向きにバタッと転んで、大きな石の角に思いっきり頭を打ちつけてしまった。
「痛ぁ~いっ!」。倒れたままぶつけた額に手を当てると、ヌルッと生温かい感触がある。見れば手のひらは、真っ赤な血で染まっているではないか。そんなに痛くなかったのに、急に恐ろしくなった私は「ギャ~ッ!」とわめきながら自宅へ駆け込んだ。
 両親はびっくりするほど冷静に、そして迅速に私を抱えて車に乗り込んだ。
 しかし、一軒目病院では、早朝ということもあり「まだ外科の先生が来ていないので」と断られてしまった。
 母は車中で「ここの病院には二度と来ないっ」と、かなり怒っている。
 私は額に当てたタオルが血で染まっていくのを感じつつ、
「あぁ、これがテレビでよくやっている『たらいまわし』というやつなんだわ」
 雨の降る夜に、高熱を出した子供を抱いた母親が病院のドアを泣きながら叩(たた)き続ける映像が浮かんで、気が遠くなりそうだった。
 すると父が、運転席からこう言った。
「心配するな。たいした怪我じゃないんだから、頭は血が出やすいもんなんだ」
「そうなの?」。私は信じられない気持で呟いた。
 ほっとした反面、こんなに血が出てるのに「たいしたことない」なんて言われるのは、とても心外だった。『死ぬかもしれないと思ってたのに』。
 二軒目の病院で、私の傷口を見た先生は、
「んー、三針ぐらい縫ったほうがいいな」
 と、さらりと言った。
「縫う?! 針で?! 生地を縫うみたく?!」
 それを聞いた私が泣き叫ぶわ、大暴れするわで、手足を看護婦さんたちに取り押さえられつつ手術を受けたことは言うまでもない。
 病室のベッドで目が覚めると、母がニコニコして覗き込んでいるのが見えた。
「よかったねぇ、骨も異常ないみたいよ。もう帰っていいって」
 母はさっさと身支度を始めた。
「えっ? もう退院なの?!」。初体験の入院生活がたった数時間で終了してしまう!
「パパはどこにいるの?」
 と私が聞くと、
「会社に行ったに決まってるじゃない」
 とつれない返事。おまけに母は、
「けっこう近いから、家まで歩いて帰ろう」
 と言ったのだ。
『そんな! タクシーにさえ乗れないなんて! 三針も縫う大怪我をしたのに、あんなにいっぱい血が出たのに、誰も心配してくれないっ!』
 額に貼られた大きな絆創膏みたいなのも気に入らなかった。『なんで包帯じゃないのっ?』これでは、ただこぶが出来た程度に見えて、お見舞いに来たクラスメートに「なーんだ、たいしたことないじゃない」と、思われてしまうではないか。
 しかし、事はそれどころではなかった。母が追い討ちをかけるように言った。
「あっ、先生がね、おとなしくしてれば明日から学校に行ってもいいって」
「…………」
 怪我のショックからすでに立ち直っていた私は、「悲劇のヒロイン」になりそこなった自分をひしひしと感じていた。
 ところが、家で布団に横になっていると、母が思わぬことを言って来たのだ。母のこの発言が、ふたたび「悲劇のヒロイン」へのひとすじの光を私に与えることになった。
「病院の先生がね、『ただ転んだにしては傷がちょっと変だな』っておっしゃったのよねぇ。『どういうことですか?』って聞いたら、『誰かに石でもぶつけられた可能性はありますか?』って言うのよ。ねっ、菜桜ちゃんほんとのとこはどうなの?」
 母は、探るような目で聞いてきた。
 ほんとも何も、「調子にのってスキップしてたら足が絡まって転んだ」以外の何ものでもなかったが、そのあまりにお間抜けな答えを言い出しかねて、私はしばらく口をモゴモゴさせていた。
 すると、母はそれを『もしや石を投げた相手をかばってるのでは?』とでも思ったらしく、
「わかった、じゃ、パパに連絡して、ワタル君人形買ってきてもらうから、そうしたら、ほんとのこと、話してくれるかなぁ?」
 と言って来たのだ。これがいけなかった。母も罪なことをするものよ。
 その当時、リカちゃん人形のボーイフレンドである色黒でハンサムなワタル君は、お友達の間で欲しい玩具の人気NO・1であった。私も「みんなが持ってる」と言っては、母に何回かねだっていたのだ。
「ねっ、ワタル君がいいよね?」
 母は明るく念を押した。私は下を向いたまま、
「うん」
 と頷いた。
 夕方になって、姉と兄が学校から帰って来た。ふたりは母から事情を聞いたらしく、すぐに私の枕許へ飛んで来た。
「誰がやったか、言ってごらん! 近所の子なのっ?」
 かたきをとってやるとでもいうような剣幕である。
 もうすっかり私は「スキップをしてて転んだ単なるおばか」ではなく、「何者かに石をぶつけられた可哀相な被害者」になっていた。
「転んだんだってばぁ」というひと言によって、みんなにチヤホヤしてもらえるヒロインの座から引きずり下ろされることになるのは、目にみえている。そしてそう言ってしまうより、今の展開のままにしといたほうがはるかにドラマチックであった。
 それで私は、
「あのね、よく覚えてないの」
 と言って、お茶を濁すことにした。
 そうこうしてるうちに父が、珍しく早く帰って来た。もちろんおみやげのワタル君を持ってである。
 待望のワタル君を手にした私はもうそれに夢中で、すっかり他のことはどうでもよくなってしまった。
「石を投げられたのか? そうだとしたら、誰かを見たのか? 知ってる人か? 男か女か?」
 という矢継ぎ早の父の質問にも、
「ううん、誰も見てないよぉ」
 ほとんどうわの空で、人形をいじりながら、あっけらかんと答えていた。
 すると父は、
「じゃ、その石は遠くから来たのか、近くから来たのか」
 と聞いてきたのだ。
 こんなことから早く開放されて、リカちゃんハウスでワタル君と遊びたかった私は、思い悩んだあげく、少女マンガに出てくる記憶喪失の人のまねをしてみることにした。
「もしかして転んだのかもしれないんだけど、思い出そうとすると頭が痛くなるの」
 末恐ろしい奴である。
 父はそれ以上何も言わず、それから茶の間へ行って、
「菜桜子は転んだショックで少し混乱しているから、そっとしておくように」
 とみんなに告げたらしい。
 
 こんな傷だらけの子供時代を送った私も、中学生ぐらいになると、めっきりドジを踏まなくなり、
「あー、私も大人になったなぁ……」
 とかさぶたのない膝っ小僧を撫(な)でながら、妙に感傷的になったものである。
 それにしてもあんなに頻繁に、転んで頭を打ったり、階段を頭から転げ落ちたりという、私の転落の過去がなければ、もう少し学校の成績も良かったのではないかと思うと未だに残念でならない。


私に似た人

 泉ピン子、一キロメートル先から見た本田美奈子、若乃花関のお嫁さんの栗尾美恵子、みなしごハッチ、工藤夕貴、可愛かずみ、紺野美沙子、川上麻衣子、中島はるみ、カメ、ヒラメ、エイ、ウーパールーパー、ネオンテトラ、エリマキトカゲ(敬称略)。
 以上は、私が過去に一回でも「似ている」と言われたことのある方々の名前である(まっ、なかには、異論を唱えたい人もいるでしょうが)。
 
 ウーパールーパーが、一躍アイドル動物としてもてはやされたときには、「ウーパーちゃん」とあだ名を付けられたりして、喜んでいいのか悲しんでいいのか、複雑な心境になったものだ。
 私がウーパールーパーの実物を初めて見たのは、ブームもとっくに過ぎた頃、旅行で行った温泉地のホテルでだった。玄関の隅の薄暗がりに、ひっそりと忘れられたように水槽に入れられたウーパーちゃんがいた。
 噂にたがわず、そのつぶらな目と目の間はしっかり離れていた。「菜桜子の目の間で待ち合わせをしたら、広すぎて相手と会えないらしい」というギャグまである私は、ウーパーちゃんに会ったとたん、なんだか離れ離れになっていた妹(弟?)を捜し当てたような気がした。私たちはジィーッと見つめ合ったまま、しばし身動きができなかった。
 
 最近、七十年代のファッションが流行っているせいか、奥村チヨさんをテレビでよく見掛けるようになった。
 すると急に周りから、彼女に「似てる! 似てる!」と言われ出したのだ。
 乗りやすい私は、カラオケで『恋の奴隷』や『終着駅』をマスターして、受けを狙っているが、この歌マネがけっこういいセンいっているらしい。音域も声質もピッタリで歌いやすいのが勝因だろう。
 そういえば、アニメや洋画でも、外見が自分とどこか共通しているキャラクターを配役されることが、なぜか多い。骨格が似ていると、声のイメージまで似てくるものなのだろうか。
 しかし逆に、まるで似ていないものを似せようとするのは、かなり骨が折れることである。
 もう何年も前の話だが、ナレーションの仕事で、有名人の物真似を要求されて、ほとほと困ったことがあった。
 それは「何とか博」とかいうイベントのラジオCMで、「○月○日、いよいよ開催です。皆さんのご来場をお待ちしてまーす!」なんていうコメントを読めばいいはずだった。
 スタジオのブースの中で、私が何回かコメントのテストをしていると、
「うーん、もう少し聖子ちゃんに似せて、読んでもらえないかなぁー」
 とディレクターが言って来たのだ。
「へっ?」。目が点になった。
 たしかに、その「何とか博」のイメージタレントとして松田聖子さんが起用されていて、テレビでイメージソングも歌ってはいたが……。
「あっ、聞いてない? 松田聖子ちゃんに声が似ている人をって、事務所に頼んだんだけど」
 ディレクターは怪訝(けげん)そうに言う。
 私は、事の次第を素早く察知した。うちの事務所のマネージャーは、「聖子ちゃんに声が似ている人」というディレクターからの要望に対して、「いつもカラオケで聖子ちゃんの歌を歌っている松井菜桜子」がポッと頭に浮かんだのだ。いや、きっとそうに違いない。
「あのぉー、よくぅ、カラオケでは歌ったりするんですけどぉ、でも、声なんて全然似てなくてぇ、彼女は少しハスキーボイスでしょう? 私はぁ、どっちかというとぉー……」
 グチグチいいわけをした。するとディレクターはとんでもないことを言って来たのだ。
「じゃあ、ちょっとここで一曲歌って、気分出してみてよ」
「なんで私が、そんなことまでせにゃならん! それじゃあ聖子ちゃん本人に頼めばいいじゃん」と言ってやりたかったが、そんなことを言えば、「予算とスケジュールがとれないんだよ」という悲しい答えが返って来るのは、容易に推測できた。これ以上ガックリきたくなかった私は、開き直って『青い珊瑚礁』を熱唱してやることにした。
 しかしやっぱりその歌も、そのあと読んだナレーションも、ちっとも似ていなかった。それでも「汗と涙と努力」だけは認めてもらえたようで、スタッフからねぎらいの言葉をいただいて、私は帰路についたのだった。
 
 私のように、いろいろな人に「似ている」と言われやすい人間もいれば、「その人って誰に似てるの?」と聞かれて、たとえがぜんぜん思い浮かばないタイプの人間もいる。どっちが得なのかはわからないが、その人に「似ている」ことで、なんだか自分のことのようにいい気持ちになれるときがあるものだ。
 表彰台のいちばん上で、うれしそうに金メダルをぶら下げている女の子が、ブラウン管に大写しになったとき、私は思わず、「あっ」と声を出してしまった。
 その子は、子供の頃の私に、うりふたつだったのである。それはもうっ、そっくりとか似てるとかいう次元じゃなくて、まるで若き日の私そのもの。北海道の両親からも「ねっ、見た? あんたにも水泳やらせておくんだった!」と、興奮してわけのわかんない電話がかかってくるくらいだったんだから。
 私が似てるのか、むこうが私に似てるのか。
 その人は、三年前のバルセロナオリンピックの女子平泳ぎの金メダリスト、岩崎恭子ちゃん、当時十四歳。
 その翌日、アニメの仕事で録音スタジオへ行くと、来る人来る人私の顔を見るなり、
「よおっ、いつスペインから帰って来た?」
「金メダルおめでとう」
「生きてるうちで、いちばん嬉しかったんだって?」
 ひどいのになると、
「おまえも昔は、あんなふうに初々しかったよなあ」。大きなお世話である。
「あのあとすぐ、バルセロナから専用機で帰って来たんですぅ」
 と、何人の人に答えたかしれない。
 
 お調子者の私も、さすがにそのネタに飽きて来ていた、ある日のこと。
 日曜日のせいか、ガラガラの総武線に乗って、私は仕事場へ向かっていた。両国あたりで、品の良い老夫婦が乗って来て、私の向かい側の席へ座った。
 しばらくすると、その老夫婦が何やらヒソヒソと内緒話を始めた。本人たちは内緒話のつもりでも、静かな車内のこと、向かいの席の私には丸聞こえ状態であった。
「ばあさんっほらっ、前に座っている女の子、何て言ったかなあ? ほらっ、あの子に似てるよ、あの子にほらっ、えーっと……」
「いやですよぉ、おじいさんたら、そんなにジロジロ見たら悪いですよっ」
「しかしよく似とる。ほらっ、何て名だっ? あのっ、ほれっ、こないだ平泳ぎで金メダルとった……んーーっ」
「あぁあぁっ、そういえばそっくりねえ」
「えーーっとっ、ほれっほれっ、んーーっ、んんんんっ、出てこんっ!!」
 こんなことを、目の前で延々やられてごらんなさい。
 私はお尻のあたりがムズムズしてきて、『えーーいっ、もう我慢できないっ!』
「それはもしかして、私が岩崎恭子さんに似てるというのではないですかあ?」
 とデカイ声で言ってしまったのだ。
 すると、おじいさんはえらく喜んで、
「そうだっ! 岩崎恭子だっ」
 どうしても思い出せなかった名前がやっと出て来たので、胸のつかえがとれたようだった。
 ここで黙ってしまうのも、なんだか気まずいので、
「よく似てるって言われるんです」
 と私が言うと、
「おじいさんっ、よくねっ、言われるんですってっ!」
 おばあさんは、嬉しそうに繰り返して言った。まるで「私たちは間違っていなかった」と言いたげに。
 老夫婦はその後、
「どうもありがとう」
 といく度もおじぎをしながら、お茶の水駅で降りて行った。
 私はなんだか、とても良いことをしたような気になった。


美人のつくり方

「鏡よ鏡よ鏡さん、世界でいちばん可愛い女の子はだぁれ?」
「それは、菜桜子さん、あなたです」
 今思えば図々しいにもほどがあるが、ある時期まで私は本気でそう信じて疑わないオメデタイ奴だった。えっ? 何を信じていたのかって? だからあ、世界一可愛いのは自分だと、マジで思っていたんだってば(キャ~、お願いっぶたないでえ)。
 テレビや雑誌を見ても私の自信は、どういうわけかこれっぽっちも揺らがなかった。どんな超一流のモデルや女優も「たいしたことはない」と感じていたのだ。
「化粧も濃いし、おっかない顔ぉぉぉ。やっぱり可愛さでは私にかなわないわ。ウフッ」
 私にとって、「プリティ」は、「ビューティフル」の上をいく、最上級の美を表現する言葉だった。
 
 根拠のないその確固たる自信に、陰りが射し込んできたのは、中学生になって、しばらくしたある日のことだった。
 クラスの男の子たちが「すっげ~色っぽい」とか「憧れちゃうよなあ」と噂していた三年生の北村先輩と、トイレの洗面所でその日偶然、初めてのご対面となった。
 私は対抗意識を丸出しにして背中をシャンと伸ばし、「フンッ」てな目付きで彼女を威嚇(いかく)した。ほらっ、この評判の先輩に、『世界一キュートな女の子の存在を、知らしめておく必要がある』と思ったのだあねえ。
 洗面所の鏡に映る彼女を、私はこの機会に観察することにした。
『ふんふん、まっ、スタイルがいいのは確かだわね』
 北村先輩は、ショートヘアの背の高いグラマーな女の人で、目はクリッと大きく、鼻もスッとしてて、彫りの深い、今思えばかなりの美人。にもかかわらず、私の結局の感想は、「なんだか老けてない?」であった。
 あんまりジロジロ見ていたので気がついたのか、鏡の中で視線を合わせた彼女がツカツカっとやって来て、すぐ隣で立ち止まった。
 そして、ニッコリと微笑み、私の頭を撫(な)でながら言ったのだ。
「まあ、可愛い子ねえ」
 私は身動きができなくなった。子供扱いされて怒ったのではなく、ライバルの意外な発言と、見上げたときに飛び込んできた彼女の包み込むような愛らしい笑顔に、びっくりしたのである。キラキラと輝く瞳が目に焼きついた。
 近くで見ると、髪は栗色で、肌は透き通るように白く、そしてふくよかな胸は優しく揺れている。クラスの男の子たちが騒ぐわけが、なんとなくわかった気がした。ショックであった。私と全然似てないのに、それでもこれほど魅力的な女の人が、こんなに身近にいたなんて。
 自分とは違う種類の「ビューティフル」もほんの少し認める気持になると、急に心配になってきた。『世の中には、北村先輩のように性格も良くて、きれいで可愛い女の人が、探せば大勢いるのではないだろうか』。
 私の心に、少しずつ謙虚な気持が生まれていくのがわかった(遅いんだよっ)。
『私は……』『私は、世界一可愛いのではなく、もしかして……日本一ぐらいなのかもしれない』(だめだこりゃ)
 
 家へ帰ってから、「私は、しょせん、日本一程度なのかも」と、今日の北村先輩の話を母と姉に伝えると、ふたりは大笑いするばかりである。私は憤慨した。
「何がそんなにおかしいのよっ」
 すると姉は、ピタッと笑うのをやめて、
「ねっ、菜桜ちゃん、あんたほんっきで、自分が世界一可愛いんだって思ってたの?」
 とあきれたように聞いてきたのだ。
「うん」。当然じゃないと頷くと、また姉は「ガハハハ」と笑い転げた。私はムキになっていた。
「だって、だって、だって、おかあさんが、いっつも『菜桜ちゃんは、世界一可愛い』って言ってるじゃないのよぉ」
 そう、年の離れた末っ子として生まれた私は、母から事あるごとに、
「可愛い、可愛い、あんたは世界でいちばん可愛いわあ」
 と十数年間言われ続けて大きくなったのだ。私はその言葉をただ信じて、これまで生きてきただけである。姉はまだ笑い続けている。
 しかし、母はもう笑ってはいなかった。かなり慌てた様子で、
「あのねっ、菜桜ちゃん、ちょっと誤解があったようなんだけど、おかあさんが『可愛い』って言ったのは、おかあさんにとっては、っていう意味なの。よその人がどう思おうと、おかあさんにとっては、菜桜ちゃんは世界一可愛いってことなのよ」
 母は諭すように言った。
「そうだったのぉぉぉー? よその人はそう思ってないのぉ~?!」
 青天のへきれきとはこういうことをいうのだろう。
「じゃ、ホントのところ私は、世界一どころか日本一ですらなかったのか?!」。私のアイデンティティがガラガラと音をたてて崩れて行くようだった。
「そうならそうって、最初から、言ってよね~」
 母は(そういう気はまったくなかったのだろうが)いうなれば「あんたは世界一可愛い」という洗脳を、日々私にしていたようなものである。
 そして長い年月かけてその言葉は、私の中にごく自然に浸透して、確固たる自信を築きあげていった。
「そうだ、私は世界一可愛いんだ」
 だから、テレビにどんなアイドルが出て来ても、都会からあかぬけた転校生がやって来ても、「ハンッ」と高ビーな態度で動じることなくいられたのだ。一分の疑問の入り込む隙もない、この鉄壁の自信、これを洗脳と呼ばずして何と言う。
 しかし、「教祖」である母は、
「そうではなくて……」
 と簡単に「教え」をひるがえした。
 どっかの宗教団体の末端信者のように「そんなはずはない」と、にわかには信じられない気持ちだった。
 私はその晩、寝込んでしまった。
 
 そして二十年経った今でも、マインドコントロールの恐ろしさを実感することがある。頭のどっかの片隅に「世界一可愛い自分」というフレーズが残っていて、それが日常生活のふとした拍子にひょっこり姿を現すのだ。
「これって、私のために作られた服のようだわあ」と、ブティックで鏡に映る我が身にうっとりしたり、「わあ、可愛い~」という声がどこからか聞こえると、「えっ、私ですか?」と思わず振り返ってしまう。そのたびに、そばにいた友人たちから「ねっ、菜桜ちゃん、その自信はどこから来るの?」とあきれられるのだ。
 しかし先日、三つ年上の従姉妹が電話で思わぬことを言い出して、私は自意識を満足させるとともに、なんだかくすぐったい気持ちになった。
「私ね、娘が菜桜ちゃんのように育ってくれたらって願っているの」
 彼女は、三歳になる我が子に毎日、
「おまえは世界でいちばん可愛いねえ」
 と呪文のように言い続けているというのだ。
「そう思い込ませて育てれば、もとはたいしたことなくても、きっと菜桜ちゃんのように明るくて、華のある子になってくれると思うのよねえ」
 その「もとは云々」というところが多少ひっかかったものの、私はたいそう感激した。なんだか、その子の成長が今からとっても楽しみな「初代・世界でいちばん可愛い私」である。


ヒールのサンダル

 銀座の「イタリー亭」ではなく、練馬の「イタリー亭」というスパゲティ屋さんで、養成所に通う十八歳からの二年間私はバイトしていた。
「アルバイト、ウェイトレス募集、時給四八〇円」の張り紙を見てふらっと入ったその店は、二十坪ぐらいのこぢんまりした、ひと昔前に流行った喫茶店のような感じの店だった(テーブル式のテレビゲームもあった)。
 なぜかいつも頭にスカーフを巻いて決して髪を見せない、三十代後半のママ(スナックでもないのになぜかこう呼べと言われた)と、商社に勤めていた元ラガーのマスターが、交替で出て来ていた。このふたりは妙にワケありふうで、ほんとのところ夫婦だったのかどうか未だによくわからない。だた、コーヒーは美味しかったし、スパゲティもアルデンテに茹であがって、けっこういける味だった。
 なかでも鉄鍋に入った「ミックススパゲティ」というやつは、スパゲティの上に二種類のソースが左右別々にかかっているもので、ミートソースに飽きてきたかなあっていう頃に、ホワイトソースで口直しをして、最後にミートとホワイトがぐちゃぐちゃに混じった微妙な味が楽しめるという、ひとつで三回美味しいスパゲティだった。
 
 さてバイト初日、ママさんの言いつけ通り、ヒールのサンダルとエプロンを持って出勤した。
 昼食時の忙しいピークも過ぎて、やれやれとカウンターで、出されたカレーライスを食べていると、たばこの煙をふかしながらママが話しかけて来た。
「でもさあ、あんたもよく東京に出て来たわよねえ。私もいろいろ知ってるけど、役者になりたいなんて、大変よぉっ。よっぽどキレイでもなくっちゃねえ」
 いきなりグサっとくることを言う。私は黙ってカレーを食べているしかなかった。
「親もよく北海道から娘ひとり出したもんねぇっ。心配してんだろうに。あたしが親なら、絶対東京なんて行かせないわね。函館だっけ? 実家? いいとこじゃないのよぉ。なにも好き好んで苦労することないって。人間分相応ってもんがあるんだから。あんたもそんな大それた夢、諦(あきら)めるなら早いほうがいいわよぉ。若いうちならいくらでも潰(つぶ)しがきくんだからさっ」
 食べてたカレーも辛かったが、「わかっちゃいるけどやめられないのよ、それを言っちゃお仕舞いよ」レベルのことを言われたのがけっこうきつくて、私の簡単に出てくる涙が、ジワジワを溢れてきた。
「やっぱり地道な仕事がいちばんよお、地道ってやつがさあ。ねぇ聞いてる?」
 私が黙っているのをいいことに、ママの話はどんどんリキが入ってきて、いつまでも続きそうだった。
 だんだん腹が立ってきた。『私の一度しかない人生なんだ。あんたの狭い了見と経験だけでケチつけられちゃたまらないっ』
 それに、毎日こんなこと言われ続けて働くのはイヤだった。カーッとなった私は、
「やめさせていただきますっ」
 ときっぱり言って扉の方へ走り寄ったのだが、慣れないヒールのサンダルを履いていたせいか、敷居の所で不様(ぶざま)にすっころんでしまったのだ。
 頭に来て、「こんなものっ!」とサンダルを脱ぎ捨てると、出だすと止まらない涙を流しながら、商店街の坂を駅の方へ駆け下りて行った。ハァハァ息を切らして立ち止まり足下を見ると案の定、私は裸足であった。
 落ち着いてよく考えてみれば、来るとき履いて来たスニーカーと、コートと鞄を店に置きっぱなしである。どんなにくやしくても一回は、取りに戻らなくてはならない。
「あーバカなことした」と私は思い始めていた。せめて靴を履いて出る思慮深さがあったなら……。裸足の寒そうな白い足が、自分自身の惨めさを一層深いものにしていた。
 とぼとぼと坂を戻りかけようとすると、ポンッと肩を叩(たた)く人があった。振り向くと、店のママが私のサンダルを手にして立っているではないか。
「びっくりするじゃないよぉ、いっきなり出てっちゃうんだもん。あんた走るの速いっちゃねぇーっ」
 ゼィゼィ言いながら、東北生まれのママはお国言葉を混じらせて言った。
 ママと私は、それから何も言わずに店へ向かって歩きだした。
 そして少し行くと、ショーウインドーの前で急にママは立ち止まって、
「あっこれ可愛い」
 と言うなり、ブティックの中に私を引っ張り込んだ。
「うんっこれがいい、あんたにはこれが似合うよ」
 あぜんとしている私に言葉を発する隙も与えず、茶色の熊の模様がいっぱい入ったセーターを、あっという間に買ってしまったのだった。
 
 この日の出来事はママと私の間で二度と語られることはなかったが、驚くべきことにそれ以来、彼女は私の応援団のように、叱咤(しった)激励を飛ばし支えてくれる存在になったのである。
「あんな前しか見えない子供っぽいときが、私にもあったなあ……」
 とママはみっともなくも必死な私の姿に、自分の若い頃を重ねてくれたのではないかと、今の私はしみじみ思うのである。


ハカナイ恋だったのねぇ

 事件は小学一年の夏、初めてのプール学習の日に起こった。
 私は、買ってもらった真新しいスクール水着が嬉しくて、朝から家中を水着姿で走り回ったり、絨毯(じゅうたん)の上にうつ伏せになって泳ぐまねをしてふざけていた。
 気がつけば、時計は学校へ行く時間を指しているではないか。
「遅刻するわよっ」と母に追い立てられて、私は慌てて身支度を始めた。
 そしてそのとき、ふと、イイことを思いついたのである。
「そうだっ、一時間目がプールなんだから、このまま水着の上に服を着ていけばいいじゃん」
 我ながらなんて頭がいいんだろうと感心してしまった。これなら、脱ぐだけですぐ水着になれるし、荷物も少なくてすむのだ。
 
 初体験のプール学習は何事もなくほとんど水浴び程度で、遊んでいるうちに終わった。
 みんなで更衣室へ戻ってシャワーを浴び、タオルで体を拭いて、さぁ、服に着替えるか、という段になって……私は愕然とした。
「パ、パ、パンツがない!」のだ。
 いくら探しても、それは出てこなかった。
 だいたい、もともとあるはずがない。よーく考えてみれば、最初っから、はいて来てないんだし、持って来てもいなかったのだから。この日の朝、ルンルンしながら水着の上に服を着た私に、プール学習のあとに必要となる「パンツ」のことを考える余裕はなかった。
 タオルにくるまったまま、しばし茫然と立っていた。お友達はとっくに着替え終わっている。
『どうしよう?』
 ここで私は、ある選択を迫られた。パンツの代わりに、脱いだ水着をもう一度着てからスカートをはくか、それとも思いきって、「ナシ」でいくかである。
 髪の毛からしずくがぽたぽたと肩に落ちて、それでなくとも寒気がしているのに、今更ぐっしょり濡れた水着を身につける気にはとてもなれなかった。
『ナシでいくしかない』
 私は悲壮なる決断をしたのだった。
 それからは極端に無言になった。どうも下半身がスカスカして落ち着かない。
 そしてみんなの視線がやたらと気になっていた。残された三時間の授業を、無事バレることなくクリアして、走って家へ帰りたかった。
「早く終われぇぇ、早く終われぇぇ」と念じて、授業などうわの空である。
 そうこうしているうちに、四時間目の終了を知らせるチャイムがやっと鳴った。やれやれとほっとした私は「先生さようなら」のご挨拶もそこそこに、誰よりも早くランドセルを背負い、校門へと駆け出した。
 外へ出て、今まさに我が家への直線コース数キロの道をダァッシュ! しようとしたとき、後ろから「なおちゃぁ~ん、待って~」という声とともに、バタバタとお友達のK子ちゃんとA夫くんが現れた。
「もうっ、なおちゃんなんで先に行っちゃうの?」
 K子ちゃんは私の気も知らず、プンプンである。三人は家の方向もお掃除の班も同じだったので、よくつるんで帰っているのだ。
 そして私は密かに、幼稚園から一緒だったこのA夫くんに対して、ほのかな恋ごころを抱いていたのだった。
 だからぁ、今日はひとりで帰りたかったのにぃぃぃ!
 私の心臓は爆発しそうなくらいドキドキしだした。『もし、ハイテイナイことがA夫くんにばれちゃったら……』。そう思うと、目の前が真っ暗になった。
「ねぇ、なおちゃん、なんでそんなに速く歩くの?」
 K子ちゃんはハァハァ言いながら私に歩調を合わせ、不審そうに顔を覗き込んできた。
 いつの間にか小走りになっていたらしい。
「えっ? ううん、何でもないよ」
 とうわずった声で答えたときだった。ダンプカーがすぐ横をもの凄いスピードでブッ飛ばして行った。
 一陣の風が私たちの間を吹きぬけ、短いフレアスカートを、思いっきりビューンとめくっていったのだ! それは強風で傘が裏返しになったときによくいう、おちょこ状態に近いものがあった。
 とっさに私はスカートをつかんで、しゃがみ込んだが、時すでに遅しの感はぬぐえなかった。ダンプの撒(ま)き散らした土埃の中で、シラ~とした空気が流れていた。
 それでも私はまだ、一抹の希望を捨ててはいなかったのだ。
『もしかしたら、あの猛スピードのダンプに気を取られて、ふたりとも、ハイテイナイ事実に気がつかなかったかもしれない』
 私は気持をやっとこさ立て直すと、さり気なくスカートをパンパンとはたいて、ふたりと目を合わせないようにおそるおそる歩き出した。
 しかしすぐに自分の考えが甘かったことを、思い知らされるのだ。
 心もとないひらひらスカートを手で押さえ、妙にギクシャク歩く私の後ろ姿に向かって、K子ちゃんはついに、言ってはならない最悪の質問を投げかけた。
「ねぇなおちゃん、どうしてパンツはいてないの?」
 ギャァァァー! やっぱり見られていた! 私はもうA夫くんの前でバラされたのが恥ずかしくて、カァーッと顔が熱くなっていくのがわかった。
「K子ちゃんなんか嫌いだぁ~」
 私はスカートの裾をしっかり足の間にはさんで、内股になりながらも脱兎(だっと)のごとく家へと駆け出したのであった。
 
 なんとも情けない話だが、私の「ハカナイ」思い出は、もうひとつある。
 北海道には珍しくもないある寒い雪の日の朝、私は紺のコートにマフラーに手袋、長靴という防寒態勢で、通い慣れた中学校へと向かっていた。
 学校へ着いて教室に入り、石炭ストーブの暖かさにホッとしながら、いつものようにコートを脱いだ。
 なんとなくスースーしている下半身を見ると……! ヒラヒラしてる真っ白いスリップが、いきなり目に飛びこんで来たではないか!
 な、なんと! 制服のスカートをはいていなかったのだぁ!!
 私は慌てふためいてコートを着直し、ゼィゼィ言いながらボタンを下までしっかりと留めた。念のためにもう一度、コートの襟の隙間から覗き込んで確認したが、やっぱりスカートは影も形もなかった。
 さぁ、それからが試練の始まりだった。
 急いで公衆電話へ走り、母に哀願した。
「昨日の晩、寝押ししとこうと思って布団の下に敷いたまま、はいてくるの忘れちゃったのよ~! すぐ持って来て~!」
「用事があるから昼までは無理」
 母の答えはつれなかった。ガクッ……。
 教室へ帰って目立たないように背中を丸めて机に向かっていると、何人ものクラスメートが心配そうに尋ねて来る。
「松井さん、コート着たままよ。どうしたの? 風邪でもひいたの?」
 そのたびにコソコソと耳打ちしなければならなかった。
「実は、スカートはいてくるの忘れたの」と。
 最悪だったのは、一時間目、二時間目、三時間目、四時間目と教科によって先生が変わるごとに、
「松井、教室の中では、コートぐらい脱げ!」
 と怒られ、
「スカートはいてくるの忘れちゃったんです。すいません」
 と毎回説明して、あやまらなくてはならないことだった。もちろん、そのたびに教室は、ドッとわいた。
 ふと横を見れば、憧れの君も大口を開けて笑っている。
 もうっ、やけくそになった私は、黒板にでっかく、
「松井は、スカートをはき忘れたため、コートを着用しています」
 とでも書いておこうかと思ったくらいだ。
 そして、やっと母から紙袋に入れられたスカートが職員室に届けられた昼休み、
「よかったなぁ」と先生たちに笑顔で送られて廊下へ出て、私はハタと気がついた。
「五、六時間目は、体育じゃないのよ!」
 なんだか、やたらと空しい、一日であった。



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