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所変われば、具も変わる

 急に、スキヤキが食べたくなった。
 よしっ、早めに仕事が終わったら、スーパーで買い物して、おうちで作って食べよっと。
 スタジオのロビーのソファで出番待ちをしていた私は、ほかほかの湯気を出してグツグツいってるスキヤキを思い描いて、ひとりニヤニヤしていた。
 エートぉ、何が入ってるんだっけねえ、スキヤキって。ん~、まずは、牛肉だろ、しらたき、焼き豆腐に、春菊、それから……ん?
 あと何だっけ? めったに鍋物なんかしない私は、どうしても思い出せない。たまたまそばにいた某プロダクションのマネージャーに助けを求めることにした。
「ねっ、Sくん、スキヤキってどんなものが入ってるんだっけねぇ?」
「やだなあ、なにひとりで真剣な顔してんのかと思ったら、晩ご飯の心配してたんですかあ」
「なんだか、無性に食べたくなっちゃたのよねえ」
「エ~、スキヤキですかあ。スキヤキっていったら、やっぱり、肉ですよ。まっ、普通はマトンか豚肉ってとこですかねえ」
「……」。マ、マトン?
「えっ? マトン、入れませんか?」
 彼にひるむ様子はない。
「ちょ、ちょっと、あなた、もしかして出身は……」
「はい、北海道です」
 やっぱりだ。羊肉の本場といえば、なんといっても我が故郷、北海道である。
 しかし、豚肉はまだしも、マトンのスキヤキなんて、聞いたことも見たこともなかった。少なくとも、うちは違った。
「や~、僕んちでは、昔っから、マトンだなあ。友達の家で食べたときも、たしかそうだったと思うけど」
「じゃ、初めてお店で食べたとき、変だなあって思わなかった? あっ牛肉だ、って」
 私は素朴な疑問をぶつけてみた。
「べつに。だってほら、家庭料理とよそゆきの外食じゃ、使う材料が全然違うことってあるじゃないですか」
 ごもっともである。我が家でも、鳥肉ではなく、なんとなくいつも冷蔵庫の中にあるハムやベーコンで、ケッチャップと炒めたケッチャップごはんが「チキンライス」と当たり前のように呼ばれているし、シーフードサラダも、蟹缶よりもっぱら安くて手軽なカニカマボコが活用されている。洒落(しゃれ)たレストランでは許せないことも、家で食べるぶんにはいっこうに差し支えなく、それどころかかえってその味のほうが好きだったりする。
 そう、家は家、外は外なのだ。
「ねっ、あとは? あとはスキヤキに、どんなもの入れるの?」
 もしかしたら、マトン以上にとんでもないものが出てくるのではないかと、私は興味津々だった。
「そんな、普通ですよ。春菊とかあ、玉ネギとかあ」
「ふーん、なーんだ、野菜類は普通なんだ」
 私がつまんなそうに言うと、向かい側に座っていた女の先輩(ちなみに三代続いた江戸っ子)が、
「ちょっと待ってよ」と、話に割り込んできた。
「黙って聞いてたんだけど、あんたたち、普通スキヤキに、玉ネギは入れないでしょう! 昔から、長ネギに決まってるのっ」
 いきなり喧嘩腰である。
「ええ、長ネギも入れますけど、玉ネギも入れるでしょ、ねぇ?」
 私は隣のSくんに同意を求めた。
「はい、うちは玉ネギだけですけど」
 マトンでは、袂(たもと)を分かったふたりであったが、広大な玉ネギ畑を見ながら育った北海道ペアは、ここへ来ていっきに結束した。
 カレーに必要不可欠なように、私にとってスキヤキの中のそれはけっこう重要なポジションをしめていたのだ。
「そんな、玉ネギを入れたスキヤキなんて邪道よ!」
 先輩は怒り出した。
 私たちは、「だ、だって、入れるんだもん」とオロオロするばかりである。
 そこへ、新人の女の子が、横から、
「あの~、モヤシも入れますよねえ、普通」
 と探るような目で言い出したではないか。
 私が「えぇぇ~?!」と動揺していたら、今度はうちのマネージャーが、
「白菜を忘れちゃ困りますよ」
 と自信満々の発言である。
 それから先は、「いや、うちは、きのこ類や豆腐は入れません」という人がいるかと思えば、「えのき茸もシメジも入れる」「たけのこは、絶対入れてほしい」と言う人もいたり、「そんなのは、聞いたこともない」と突っぱねる人もいれば、「あっ、それ今度入れてみよう」と言う人もいて、いつの間にかスタジオのロビーは、スキヤキの具の話題でもちきりである。
 しかし、話はそこで留(とど)まらず、具を食べ終わったあとの「第二ラウンド」の論争へと移っていった。
「煮詰まった割り下に、からめて食べるうどんがたのしみでねえ」
「オレは、餅のほうがいいなあ」
 私は、年配の役者さんふたりの会話を聞きながら、
『我が家は、最後は何にも入れないで、次の日、残った具の上に卵をのっけて、スキヤキ丼にして食べてたっけなあ』
 と思い出して、生唾をゴックンと飲み込んだ。
 すると、今まで静かに台本のチェックをしていた男の子が、すくっと顔を上げ、
「えっ、それは、大根のほうがいいですよ」と、きっぱり言ってきたのだ。
「うちは、いちばん最後に、大根を入れるんです。翌日は、味が染みて、それはうまいんです」
 なるほど、美味しそうである。さらに彼は続けた。
「あれっ? 普通、ほとんどの家では、そうしませんか?」
 これ、これ、これよ。みんな、自分ちの「スキヤキ」を「ごく普通の」と、はなっから決めつけているのだ。
「大根ねえ…………」。あまりの突飛な具の出現に、私たちは何も言い返せなくなった。
 いや、もちろん、スキヤキに大根を入れてもいいし、モヤシを入れてもいいし、その家のオリジナリティや地方色が出てても、それが家庭料理っていうもんで、まったく構わないことだと思う。だいたい、何が正統派か、なんてなかなか言えるものじゃないしね。
 でも、こうまでみんなが「我が家こそが一般的」と思い込んでいることに、私は驚いてしまった。そういう自分も、長年食べ続けてきた「玉ネギ入りスキヤキ」が「当たり前」だと、確信していたひとりなのだが。
 スキヤキでこれだけの珍説が出てくるのだから、こうなると他の料理も調べてみたくなる。
 料理だけではない。もしかしたら、家庭という一種の密室で、その家族だけが「普通」だと思っている、ものすごく「変なこと」が実は、行われている可能性だってある。
 よそんちを覗いて「それ、オッカシ~」ってなものを発見して、ガハハと笑い飛ばすのも、けっこう楽しいかもしれない。
 意外に自分ちが、いちばん変わってたりして……。ゲッ。


 


カンユ泥棒

「カンユ」というものをご存知だろうか?
 先日、二十代前半の男の人に聞いたら、
「知らない」とあっさり言われて驚いた。
「えっ?! 幼稚園で毎日食べなかった? カワイのカンユ」
「いいえ、ぜんぜん。それって、どんな食べ物なんすか?」
 反対に聞き返されてしまった。いつ頃から幼稚園では、子供に「カンユ」を与えなくなってしまったのか? なんだか私は、「カンユドロップ」を知らずに育ったその若者が、とても気の毒になって、どうにか感じをつかんでもらおうと、やけに、ムキになって説明した。
「あのね、きれいな濃いピンク色をしたゼリーでね、ちょっと弾力があるんだけど、グミってほどじゃないのよ。大きさはマーブルチョコぐらいで、外側に白い粉砂糖がまぶしてあるの。周りが固くて、噛むとグニュっと柔らかいあの感触がよかったのねぇ。歯にくっついたりもしたけど。とにかく、甘くて、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しかったのよ、これが」
 うっとりして語っていると、その彼は食べてみたいと思ったらしい。
「へーっ、じゃ一度買ってみようかなぁ、それってどこで買えるんすか?」
「えっ? ど、どこって……」。私は答えに詰まってしまった。そんな! カンユを買うなんて大それたこと、考えたこともなかった!
 あれは、幼稚園の先生が毎日一個(ごくたまに二個)くださる貴重な品で、そんじょそこいらでは売っていないもんだと、五歳の頃からずーっと思っていた、愚かな自分に気がついたのである。
「大人の人が(もう気持ちは幼稚園児)、鳥目に効くって言ってたから、たぶん薬局にあるんじゃないの。だって、スーパーやお菓子屋さんで見たことないもん」
 そうだ! だから、あれは特別なルートでなければ手に入らないのだと、子供心に思い込んでいたに違いない。
「じゃあ、ビタミン剤みたいなもんか」
 若者は言った。
『あぁ、私の神聖なるカンユドロップにそんな言い方するなんて……』
 そして先日、タイミングよく私の所へ六十粒入りのカンユが一缶、送られて来たのだ。それは、芸能人健康保険組合(っていうのがあるんです)が黒字還元で会員にプレゼントしてくれた「健康食品セット」(ビタミンC剤とかクロレラとか)の中のひとつとして入っていた。
 まさに、憧れの「カワイのカンユドロップ」である。缶の裏には、「成人は一日三粒」と書いてあったが、一度でいいから口いっぱいに頬ばってみたかった私は思いきって十粒ぐらいを手のひらに載せてみたのだが、どうしてもいっぺんにパクッと食べることができない。
「カンユを一度に食べると鼻血を出す」と言っていた子がいたのを思い出したのだ。私はちびちびと一個を時間をかけて味わうことにした。
 広がる甘い香りとともにカンユにまつわる懐かしい話も、昨日のことのように蘇って来たのである…………。
 毎日午前十時頃に決まってそれは、幼稚園の先生の手から厳(おごそ)かにひとりひとりに配給されることになっていた。たった一個しかもらえなかったから、いとおしそうに周りの粉砂糖だけをまず舐(な)める。手がベタベタになりながら、しゃぶっていても、あっという間にお腹へ入ってしまった。当時、園児の誰もが『いつかカンユをムシャムシャと、お腹いっぱい食べてやる!』という大いなる野望を抱いていたに違いない。
 その日の午後、皆はもう帰り始めているというのに、私はトイレへ行きたくなって、ひとり出遅れてしまった。
「もう誰も残ってないだろうなぁ」と思いながらカバンを取りに教室へ戻ってみると、A子ちゃんがぽつんと上を見上げて立っていた。
 彼女の目線の先をたどってみると、果たしてそこには棚のいちばん上に置かれた、カンユの大きな缶があった。
『こんなに近くに、こんなに無造作に、大事なカンユが置いてあったなんて』
 私は驚いた。『なんで今まで、気がつかなかったんだろ?』。
 A子ちゃんはポカンとした顔で、ずーっとカンユの缶を見ている。
「ねっ、もしかして、アレ、食べたいの?」
 と私が聞くと「うん」とA子ちゃんは頷いて、すがるような目で、こっちを向いたのだった。その眼差しは、「なおちゃん、お願いっ、きっとあなたならできる!」と訴えかけているようだった。
「なぁーんだ、それなら私が取ってあげる」
 ええかっこしいの私は、つい胸を張って、言ってしまったのだ。
 そして棚の前へ椅子を置き上へのって、思いっきり背のびをしてカンユの缶へと手を伸ばした。しかし、もうちょっとのところで届かない。
「がんばってぇ!」A子ちゃんは下から応援してくれている。
「う~んっ、う~んっ、それっ」と、何回か飛んだり跳ねたりした甲斐あって、指先が缶に当たったそのとき、ガラッと扉が開いて、担任のすみれ組みの先生が入ってきたのだ。
「ゲッ、まずいっ」と、私はとっさに伸ばしていた手を引っ込めた。でも、椅子の上でアタフタしている姿は、どうみてもウサンくさかった。
 観念してガックリとうなだれていると、髪を後ろでひとつに束ねたトワ・エ・モア(懐かし~)の白鳥英美子さん似の先生は、意外なことに、
「あらっ、まだお教室に残っていたのね」
 といたって優しい口調で、話しかけて来たのだ。そして、こうのたまわれた。
「じゃ、なおこちゃんとA子ちゃんには特別に、カンユでもあげましょうかねぇ」
 その唐突な発言にアッケにとられながらも、私たちふたりは無邪気に喜んで、トワ・エ・モア先生からそれぞれ二個ずつカンユをご馳走になったのだった。
「なんかわかんないけど、ラッキー!」というのが当時の私の感想であったが、今考えると相当図々しい。
 それに引きかえ、怒られて親に連絡されてもしょうがないことをした私に、神様のごとき温かい手を差し伸べてくれた、あのトワ・エ・モア先生はなんと偉大な人であろうか! あれから一度の万引きも経験せず(威張ってどうする!)グレることなく生きて来られたのは、彼女のあのときの優しさのおかげのような気がしてならない。
 今頃先生はどうしているのだろう。きっと、とても良いおかあさんになっているんだろうな。


ハワイ親孝行旅行

「そうだ、たまには親孝行でもするか」
 と思い立ったのは、一昨年の春のことだった。
 北海道から東京へ出て来て早十数年。親と離れての暮らしも、それだけ経ったということになる。
「昨日うちの母親とデパートへ行ったんだけどねぇ……」
 自宅から通っている子がこんな話をするたびに、けっこう羨ましがっている自分がいた。
 母が上京して来たときになぜかいつも仕事が立て込んでいる私は、開拓しておいた好物のそば屋へもいつまでも連れて行けないでいた。様子を見に慌しくやって来て、また慌てて父の元へ帰っていく母とここしばらく仕事にかまけて、落ち着いて話もしていなかったことに気づいたのだ。
「よしっ、旅行にでも連れてってやるかあ」
 私は母娘水入らずの旅行を計画することにした。
 しかしこの思いつきを後悔する日がほどなくやって来ようとは、このときの私にはまだ知る由もなかった。
「どこへ行きたいの?」と電話すると、即座に母は、
「ハワイがいい」と答えた。
 仕事の都合上、五日しか休みが取れなかったので、
「ハワイは日付変更線を超えるから、実質三泊ってことになっちゃうの。グアムかサイパンにしたら? それにおかあさんは海外旅行初めてだから、飛行機の中の七時間ってこたえると思うよ」といくら言っても、
「いやっ、絶対ハワイがいいっ」と聞かない。
 なぜ彼女はそれほどまで「ハワイ」にこだわったのか?
 そのわけはハワイ親孝行旅行の一日目のディナーショウのときに、明らかになったのだった。
「ダニー・カレイキニショー」は、私たちの宿泊先から車で十五分ほど行った「カハラヒルトンホテル」で毎夜開かれている、フラダンスのコーナーもある観光客向けのものだった。
 ハワイの「杉良太郎」と呼ばれているダニーさんの歌うハワイアンソングと巧みな話術を、母も十分満足してくれるだろうと、これを前に一度見たことのあった私は確信していた。
 さて、ステーキのフルコースをふたりともきれいにたいらげ、
「このあとフラダンスがあってね、それからいよいよ、ダニーさんの歌だよぉ」
 と私はわくわくして言った。すると母は、
「ちょっとトイレ」
 と席から立ち上がったのだ。
「ひとりでわかる? 大丈夫?」
 私は心配して声をかけた。
「大丈夫よ。ここは日本語が通じるんだから」
 母はやけに強気で、レストランを出て行ったのである。
 そしてそのまま、三十分以上帰って来なかったのだ。
 レストランの照明は落とされ、客席はほとんど真っ暗になり、とっくにフラダンスは始まっている。
 知り合いの旅行代理店の人が気をきかせて、私たちをいちばん前のテーブルに着かせてくれていた。だから、ぽっかり空いた母の席は舞台の明かりに照らされて、やたらと目立ってしょうがなかった。
「真っ暗で自分のテーブルがわからなくなったんじゃなかろうか?」
 周りに目をこらしたが母の姿はなかった。
 ドンドコドンドコドンドコというフラの太鼓のリズムに合わせて、私の心臓の鼓動も速くなってきた。
「遅すぎる……」。フラダンスを楽しむどころではない。
『まさかとは思うけど、トイレで何かあったのでは……?』『どこから見ても間違いなく典型的日本のおばさんである母は、トイレで日本人=金持ちと思っているギャングかなんかに、誘拐されたってこともありうる!』。物騒なことばかり浮かんで来て、私はいてもたってもいられなくなった。
 するとその様子を見て、胸の内を察してくれた日本人系のボーイさんがそっと「おかあさんがトイレから帰って来ないのか?」と、英語で耳打ちしてきた。
「イエース、イエース。」なんとなく意味がわかった私が答えると、彼は「自分が行って来る」と胸に親指を立てるゼスチャーをして、にっこり微笑んだ。そして「Don't worry!」と言うとすぐ、母を捜しに行ってくれたのだ。
「異国の地 触れる情けに フラダンス」と一句が浮かんできそうなほど、彼の親切がありがたかった。
 だってここで私まで席を立ってしまったら、すでに真ん前で歌い始めているダニーさんに「つまんないから帰る!」と言ってるようなものだ。同じ舞台に立つ者としてそのショックが身に染みてわかってる私には、とてもそんなことはできなかった。それに、なんてことなく母が帰って来た場合、このショーのために払った二〇〇ドルがもったいなさすぎるっ! と、この場を離れることに躊躇(ちゅうちょ)していた(私ってケチ?)。
 しばらくすると、さっきの親切なボーイさんが帰って来て、私に向かって悲しそうに首を振った。そしてもうひとりのボーイさんと一緒に、またレストランから消えて行ったのだ。
「げーーっ、いよいよヤバイッ!」
 ダニーさんには悪いが、歌なんてもうどうでも良かった。私はあからさまに後ろを向き、薄暗い店内に母の姿を捜した。
「よしっ、ショーは諦(あきら)めた。私もここを出て捜そう」
 と膝のナプキンをテーブルへ置いたときだ。ふたりのボーイさんにエスコートされて、母が入口からひょっこり現れたのだ。
 かなり注目をあびたにもかかわらず、平然と客席についた母に、ボーイさんが身をかがめて「お嬢ちゃん、泣いてた、シクシク」と手振りを交えて冗談っぽく言ってくれた。
 しかし母は、少しも動じることなく、
「あらヤダ、アンタ心配してたの?」
 とぬかしたではないか! 怒りで爆発しそうだった。あんなに母の身を案じてやきもきしていた私に向かって、「アンタ、心配してたの?」はないでしょーーっ!!
「今まで何してたのよっ!」
 ショーの最中であることを多少は気にしつつ、小さくしかし語気は荒く問いつめた。
「えーっ、ちょっとホテルの庭を散歩してた」
 母は悪びれずに言う。
「さっ、さんぽしてたあぁぁぁ?!」
 その声はレストランに響き渡り、私は舞台の上のダニーさんから「キッ」と睨まれるハメになったのだ。
「話はあとっ」と母は言うと、テーブルのワインをグイッと飲み干し、舞台に向かってにっこりしたのだ。
 ショーが終わって、泊まっているコンドミニアムへ向かうリムジンの中で私たちはひと言も口をきかなかった。
 母のために、移動はすべて高級リムジン、ハワイでいちばん良いコンドミニアムのそれも三十二階の海も山も見えるスィートルームをキープして、ふたりだけのプライベートツアーという贅沢な旅行に私は大枚はたいたのに、
「初日からこの仕打ちはないでしょーー!!」
 私の怒りは、部屋へ着いてからも収まらなかった。
「ねっ、なんで?! なんでショーの最中に散歩してるわけ? タダじゃないのよあれは!! ねっ、そこんとこわかってんの?!」。もうヒステリー状態である。
「だってぇ、ワインに酔っちゃってぇ、少し酔いをさまそうと思って、夜風に当たりに庭へ出たら迷っちゃってねぇ、どうしよう? って思ってたらボーイさんが捜しに来てくれたのよ。ねっ、菜桜ちゃん、ハワイの人って親切よねぇ、ホント」
 母には反省の色がまったくない。
「あのねぇっ、あの真ん前の席で、私がどういう気持で座ってたと思う? ダニーさんだって、あのあと私たちが険悪だから、イヤそうにこっち見なくなっちゃったじゃないのよっ! あれは相当怒ってたと思うわよっ。だいたい、このショーは、ハワイの『杉良』だっていうからお母さんも喜ぶかなって、わざわざ予約したんじゃないのよっ」
 そう、母は杉良太郎さんの大ファンでファンクラブにも入っているくらいなのだ。
 ある日、函館の実家へ帰ったら、「やあ、おかえり」と胸にSR(Sugi・Ryotaro)と刺繍(ししゅう)がしてあるジャンパー(ファンクラブの通販で買ったらしい)をそうとは知らずに着ている父に出迎えられ、オルゴールを開ければ『すきま風』が鳴り出し、やれやれと寝る時には桜吹雪の杉良サイン入りの毛布を掛けられるという、杉良太郎さん一色の我が家に驚いたことがある。
「それが余計なことだっていうのっ」。母はそう言うと、そっぽを向いた。
『余計のことって何??』。母に詰問した。
「ハワイの杉良なんて、そんなニセ者ぜんぜん見たくなかったのよっ、最初っから」
『えっ? 熱狂的ファンとはそういうものなの?!』
 複雑な中年女性の心理に納得しかけたが、いやいやそれで許すわけにはいかない。
「じゃ、なんで初めからイヤだって言わないのよっ」
 私はショーの代金二〇〇ドルがますます惜しくなってきた。すると母は子供のように呟いたではないか。
「カハラヒルトンには行ってみたかった。杉さんのハワイの家がカハラ地区にあるっていうから」
 開いた口がふさがらなかった。
 つまり、こういうことらしい。
「ハワイに来たいと言ったのも、そこに杉さんの家があるからで、彼が家族をそこに住まわせるほどに気に入っている場所を、一度自分もこの目で見てみたかった」と。
 で、
「もしかしてカハラヒルトンの庭に出れば、それらしい家でも見つかるのでは?」
 と考えたというのだから、あきれる。
「あのさぁ、カハラったって広いんだからさぁ」
 私がホノルルの地図を出して来て言うと、
「ううんっ、ほんとは家に行きたいわけじゃないの、それは家族の人の迷惑になるから」
 と目を潤ませた。これではまるで、恋する乙女である。
 母はただ、「ハワイに着いてカハラに来た。杉さまの家に近づいた」というだけで、十分満足したらしい。こうなるともう、これ以上「なにをかいわんや」である。
 私はグッタリ疲れて、倒れるようにベッドへ横になった。
「あぁーっ、菜桜ちゃん、お風呂場の窓の景色もきれいよぉーっ!」
 遠くの方からする母のはしゃいだ声を聞きながら、残された日程の間に間違いなく起こるであろう珍事を憂慮しつつ、私は深い眠りへ落ちて言ったのだった。


ハワイ親孝行旅行<日記編>

○月△日 快晴

 さて、ハワイニ日目。
 母に叩き起こされてハナウマ湾へ泳ぎに行く。
 突然だが、私の母ははっきり言って、太っている。記憶では、私が幼少の頃から現在に至るまでずーっと、太っていた。家族皆が残したご飯をかたずけようと食べていたら、こうなってしまったと人のせいにするが、たぶん水を飲んでも太るタイプだと思う。

 その母が、水着になった。それは紺色のごく普通のワンピースだったが、なんと、胸に「ELLE(エル)」というプランド名がプリントされている。まるでLサイズを誇示しているようで笑えたが、見ると海辺では母など問題にならない巨漢のアメリカの御婦人方が、太股をユッサユッサ揺らせて歩いているのだ。その光景に自信をつけたのか、母は上機嫌で砂浜で体を焼いたり、シュノーケリングに興じたりしていた。
 ハナウマ湾の水はとてもきれいで、色とりどりの魚がいる。楽しそうにパン屑をやっている母を見て、
「あぁやっばり連れてきて良かった。昨日のことは帳消しにしてもいいかなぁ」
 と思っていた矢先、ちょっと目を離した隙にまた彼女はいなくなったのだ。
「いいかげんにしてよね―」と浜辺を捜していたら、今回はすんなり日本人の観光客の女の子二人と話しをしているところを発見した。
 母は私の顔を見るなり、とんでもないことを言い出した。
「あっいいところに来た、ねっあんたの今やってるアニメなんだっけ? ちょっとやってみせてあげて」
 母よ、ハワイまで来て仕事をさせる気か?
 そしてその女の子達に、
「後でいらっしゃい、お茶をご馳走するわ」
 と自分の部屋へ招待したのである。うちの親ってなんてアメリカナイズしてるの?!

 その日の午後、人の良さそうな二人の女の子はやって来た。
「あらっ! あなた達の部屋は、ベットルームだけなの?」と得意気に聞いていたところをみると、母はこの32Fのスィートルームを誰かに見せたくてしょうがなかったのだろうと、私はみた。こういう子供じみたところが、母の可愛いところなのだと娘の私は分かっているつもりだが、果たして他人はそう感じてくれるかどうか。
「・・・それでこの子が、この旅行に連れてきてくれたって訳なの」
 母は孝行娘の自慢話をしている。実際ハワイヘ来てからというもの、親子の立場が逆転したように、はしゃぎ出した母のお守り役をつとめていたから、
「そうっ、わたし、親孝行なんです」
 と言いたかったが、そういうわけにもいかない。その上、こんな話が彼女達にとって面白いとはとても思えなかった。

 どういうリアクションをしていいか分からず、しまいに冷汗が出てきた。仕様がないのでコーヒーを入れたり、お菓子を出したりして私はけっこう女の子達に気を使ったつもりだ。「ごめんねぇ」の気持ちを込めて。
「じゃっ、ハナウマ湾で撮った写真送るわねぇ―」
 母が気の毒な二人の女の子を送り出してから、なんだかやけに疲れてしまった。

 夜になって、夕食をとろうとエレベーターで下へ向かっていると途中の階でアメリカ人の夫婦が「ハーイ」と乗ってきた。 「ハーイ」と応えて、ふと隣りを見ると母は彼らと目を合わせないように、しっかりうしろを向き「あたしには話しかけないで」と体を硬直させている。私は吹き出しかけた。
 外へ出ると、寿司屋の看板が目に入った。私は急にサッパリ系の日本食が恋しくなってしまった。
「機内食からずっと、ステーキばっかりだったから今日はここで食べよう」
 しかし母は、口をへの字に曲げて言ったのだ。
「わざわざハワイまで来てお寿司なんて食べたくない。ステーキとロブスターがいい」
 信じられない。まったく胃までタフである。
 そしてモアナサ-フライダ-のレストランで、要望通りステーキを食べ終わると今度は、
「ここのパン美味しいから、残した分包んでもらおう」
 と言いだしたのだ。
「こんな高級レストランで、それはないんじゃないの?」
 私が止めると、自分でさっさとウェイターを呼んで身振り手振りでお願いしだした。
 彼は、にっこり笑って、パンを倍の量にして持たせてくれた。
「菜桜ちゃん、ハワイの人ってホントに親切ねえ~」
 あぁっこれでまたひとつ、母の武勇伝が増えてしまった。誰か彼女を止めてっー!

○月◇日 晴れときどきスコール

 三日目は、免税店やブティックでショッピング。
 カラカウア通りを歩く母は、そこがまるで熱海や箱根の温泉街であるかのごとき無防備さで、突然、
「あっ、菜桜ちゃんこのお店変わってるぅ―」
 と指をさして立ち止まり、人とぶつかったり(謝るのはいつも私)バックのチャックを開けっ放しにしたまま人込みの中へ入って行く。
「お母さん、ここは日本じゃないんだから、お願いだからもっと緊張してっ」
 と何度頼んだことか。しかし彼女は
「ハイハイ」
 と言いながら相変わらずマイペースだった。
 母はどんなショップでも、店員に分かろうが分かるまいが日本語で話しかけ、相手が何か英語で言ってきても聞いちゃあいなかった。そのくせ最後には「ディスカウント!」のひと言で大まけさせた戦利品を抱え、店を後にするのだ。あっぱれである。

 夕食時に母がまた「ステーキ!」と言いだすんじゃないかとヒヤヒヤしていた私は、無理やりスパゲティ屋に連れて入った。
「お母さん、ざるそばじゃないんだからズルズル音させないでっ。ほらっ、皆見てるじゃないっ」
 と食べ方を注意したら、たび重なる小言に頭にきたのか、
「も~っ、あんたと一緒だと、緊張して食べた気がしないっ」
 母はプンプン怒りだした。
「どこが緊張してんだよぉ―」と、私は思ったがもう言い返して喧嘩するのも面倒だった。

○月☆日 晴れ ハワイ最終日

 やっと帰国できる。
 帰りの飛行機の中で、隣合わせた台湾の男の人と友達になり、片言の英語で会話をしていたら、彼はハワイのカハラ地区に別荘を持っていて、成田でトランジットして台湾へ帰省するのだという。
 それを知った母は、
「菜桜ちゃんっ、杉さんの家のことを聞いてっ」
 と興奮している。 「カハラ」の人は皆、杉良太郎を知っていると思っているのだ。
 その人の答えは「I don't know」。母は、あからさまにがっかりしていた。
 私が隣の人とそのあともずっと話しているのでつまらなくなった母は、スチュワーデスさんから借りた日本の女性週刊誌をパラパラとめくっていた。
 と、自分も私達の会語に、無理やりにでも参加したくなったのか(まったくなんでそういう発想になるのか、今でも私には理解出来ないのだが)、突然、その雑誌の料理のページにたまたま載っていたサバ(魚の鯖である)を指さし、
「ねっ、菜桜ちゃん、ハワイでも『サバ』を食べるのか聞いて」
 と言うのだ。サバは確かに母の好物である。しかしなんで今、サバなのか?私は、母のあまりに不可解な発言に動揺したが、 一応、サバは英語で何と言うのか考えた。
「魚ヘンに青だから、プルーフィッシュか?」などと思いつつ、 「サバ、サバ、サバねえ」と口ごもるばかりであった。隣の人はフランス語だと思ったかしらん。

 すぐに夕食の時間になって、スチュワーデスさんが「フィッシュorミート?」と、聞いてきた。
 驚いたことに、母はなんの迷いもなく、
「ステーキ、プリーズ!」
 とにっこり答えたのだった。

 松井智恵子・65歳、ウォークマンで杉良の歌を聞きつつ、 一睡もせずに成田へ到着した。分けて貰いたいほど元気である。

引っ越して黄昏て …胸騒ぎのアパート編…

 引越し貧乏とは、まさしく私のことである。なにせ、二年以上同じ所に住んだためしがない。数えてみれば、上京してから、通算十回もお引っ越しをしていることになる。私が飽きっぽいせいもあるのだが、それだけじゃなく、やむにやまれぬ事情で引っ越しをせざるをえないケースもいくつかあったのだ。
 そして最短在住記録には、「たったの一ヶ月半」という輝かしくも、もったいない記録も残している。
 
 七回目の引っ越し先であったそこは、世田谷の二階建てアパートの二階の一室だった、はずであった。「はずであった」というところに、このアパートで最短在住記録作ってしまった理由があった。
 引っ越したときから、『このアパートはどこか怪しい』と私は思っていた。
 ひとつめの謎は、「ドアの数」である。二階は、二〇一、二〇二、二〇三、二〇四と四部屋しかないはずなのに、よおく数えてみるとドアが、五つあるのだっ。キャー!!怖いっ。おまけに、そのひとつ余計な「座敷わらしドア」は、私の部屋のドアの隣にあったのである!
 そして夜ごと隣の座敷わらしドアの辺りから鳴り響く「コツッ、コツッ」と階段を上がるような音。部屋の天井をポルターガイストのごとく震わせる激しい地響きと音楽。
「こ、ここは、お化け屋敷だったんだぁ~」
 あまりに鮮明な怪奇現象に、眠れない日々が続いた。不眠症になりそうになって、一階の大家に相談に行くと……。
 なんのことはない。その座敷わらしドアの奥は三階への階段になっていて、私の部屋の真上にあるペントハウスには、ダンサーをやっている大家のひとり娘がすんでいるのだという。あの地響きと音楽は、その娘がダンスの稽古をしているときのものだった。
「……えっ? ペントハウスぅ?!」。まさに「そんなの聞いてないよ~」である。私は、二階建ての二階、つまり最上階ってことで入居して来たんだから。
 このペントハウスは、下からちょっと見上げたぐらいじゃわからないようにうまく隠して作ってあって、五十メートルぐらい離れて背伸びしてやっと屋根が見えるという、忍者屋敷のような代物だった。
「本当はここ、建築法で三階建てってダメなのよねーっ。そこをなんとかって、大工さんに無理言って、ねぇ大変だったのよぉ、わかるでしょ?」
 大家のおばさんは甘えた声で言ったが、そんなこと私には関係ないっ。
「三階があるなんて契約と違うし、とにかく、夜中のダンス稽古はやめてください!」
 ときつくお願いしてその日は帰ったのだが、事はそれで終わらなかった。
 数日後、私の部屋の真下に住むその大家からの「夜中に風呂場で歌うのは、やめてください。近所迷惑です」という手紙が郵便受けに入っていたのだ。
 それからまた何日かして「勉強している学生さんが迷惑しています」という一通目の続きのような手紙が来た。
 ここでちょっといいわけをさせてもらえば、たしかに昼間は私も大きな声で歌うことがあったかもしれないが、夜中に口ずさんだ覚えがあるのは鼻歌ぐらいの可愛いもので、決して勉学にいそしむ学生さんを邪魔するほどではなかったはずである。
 たぶん大家は、「うちの娘をとやかく言う前に、あんただってけっこううるさいのよっ」てなことを言いたかったんだと思う。
 下には口やかましい大家、そして上にはドンドコ騒々しい大家の娘にサンドされた私は、間借人の弱さをつくづく感じてしまった。
 おまけに、三階のダンスは恋人のダンサーも加わって、前にも増して一層激しくなっていったので、「ここも安住の地ではなかった」と早々と悟り、私は一ヵ月半で撤退することにしたのである。
 
 しかし養成所の頃、ここ以上に上の階の騒音に悩まされた部屋があった。
 それは三番目の我が家であった、練馬区のアパートの一階に住んでいたときのことである。
 入居して一年ぐらいで、二階に若い夫婦者が引っ越してきた。一見感じの良いカップルだったこのふたりの、深夜の喧嘩がそれはそれはもの凄かった。
 ある夜のこと、私が「さて寝ようかな」と布団に入ると二階から突然、悲鳴が聞こえた。
「ギャー助けてぇ! 殺されるぅー! イヤァァァァ!」
 女の叫び声とともに、ドーンッ、ズズズーッと、人が倒れて引きずられているような音がした。続いて、
「この野郎! ふざけんじゃねえっ!!」
 と男の怒鳴り声がする。ガッシャーンとガラスが割れた音が響いたかと思うと、
「堪忍してっ、堪忍してっ」
 女が泣きながらわめいている。安普請のアパートでは一階と二階の天井という仕切りはあってもないに等しく、ちょっと大きな声を出せばぼとんど筒抜け状態であった。
 私の頭の中には、「髪を引きずり回されて泣き叫んでいる血だらけの女を、鬼のような形相で殴り続ける男の図」が生々しく出来上がっていた。
 こっ、これはえらいことだ。警察に電話を! と、私は受話器に手を伸ばした。
 すると上の声が急にピタッと、静かになったのだ。あんな大騒ぎのあとだけに、あまりにシーンとなるのも不気味なものである。私は椅子の上へのり、背伸びをして耳を澄ませた。
 しばらくすると微かに、
「う~んっ、う~んっ」
 と女の苦しがっている声が聞こえてくるではないか!
 これはいよいよいけないっ、警察っ警察っ! と、ダイヤルを回しかけたら今度は、
「キャッキャッキャッ」
 と女の笑い声がする。そしてまた「う~んっ、う~んっ」と、息も絶え絶えのかすれ声。
「…………」
 うら若き乙女の私にも、次第に様子がわかってきた。二階の奥さんは、本当に苦しくてその声を出しているのではないと……。
 夫婦喧嘩は犬も喰わない、今鳴いた鳥がもう笑った、嫌い嫌いも好きのうち、男と女の間には暗くて深い河がある? という人騒がせな事件であった。
「しっかし、男と女ってやつはわからない」と、そのとき私はつくづく思ったものである。
 
 そんなはた迷惑な喧嘩が何回も続いて(飽きもせず毎回同じパターンであった)、「あぁ、ここも安住の地ではなかった」と、私は四回目のお引っ越しを決意したのであった。
 
 私が三回目と七回目のお引っ越しから学んだこと
 
一つ、外観や広さにこだわるより、防音構造は買ってでも欲しい宝であると知るべし。
<特に、私のように声出して稽古をしなければならない仕事の人、ミュージシャン、落語家、浪曲師、バナナの叩(たた)き売りの人などにとっては必須条件と言えるでしょう。そして大騒ぎするのが大好きな友人がたくさんいる人も。また電車や車の音といった騒音には意外にすぐ慣れるものですが、隣や上の人の生活音はいつまでも気になったりします。だから私は、選べるものなら「最上階・角部屋」をおすすめします>

二つ、大家の上には住むべからず。
<騒音のことだけじゃなく、たとえば「下の階に水漏れしちゃった!」という場合にも、大家が相手だとそれじゃなくても分が悪いのに、なお一層住みづらくなってしまいます。大家が下にいるから「心強い」と、大家が近くにいないから「気が楽」を比べたら断然、「気が楽」のほうに軍配を挙げたい>



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