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変な仕事

 声優の仕事というと、アニメや洋画の吹き替えだけだと思っている方が多いだろうが、それは意外と多岐にわたっていて、テレビやラジオのCMや番組ナレーション、CD・ラジオドラマ、アニメ等の主題歌や挿入歌のレコーディング、サイン会、アニメ誌の取材を受けたり、イベントのゲストや司会、社員教育ビデオに出演したり(顔出しと呼ばれる)することもある。つくづく、なんでも屋だなあと思ってしまう。まっ、いろいろあるから面白い、との言えるのだが。
 友人の声優は、街中(まちなか)でみかんを一個ずつ無料で配る仕事をやらされたとき、「何がいやって、タスキに『みかん娘』って大きく書いてあったのが恥ずかしかった」と言っていた。風変わりな仕事というのは、プロダクションに入りたての新人のときにやらされることが多い。
 私の場合もそうだった。
 仕事の内容がよくわからないことに多少の不安を感じたまま、スタッフの男の人数人と、私はバンに乗っていた。
 たしか、カラオケのビデオを撮る顔出しの仕事で、マネージャーの言葉を借りれば、「あっという間に終わる」はず、であった。
 着いた場所は、郊外にある大きな団地の一室だった。その部屋の住人がスタッフと知り合いで、半日貸してくれたらしい。
 主婦らしい赤ちゃんを抱いたその住人がドアを開けてくれたとき、私は内心ホッとした。だって新人の私にはマネージャーは付いてきていないわ、スタッフは全員男だわ、知らない家に連れて来られるわ、自意識過剰になって、けっこう緊張していたのである。
 仕事はいわゆるよくお店で流しているカラオケビデオの撮影で、小林幸子さんの『女の円舞曲(ワルツ)』というバリバリの演歌に合わせて、ひとりでワルツを踊るというものだった。
「ひとりで、ですか?」。私はあきれた。『バカみたいじゃない?』。
「そーそーっ、松井ちゃんは、男に振られて打ちひしがれてる女の人なわけよ。家に帰ると、ひとり身の侘(わび)しさが、辛く悲しく胸を締めつける……。そして別れた彼を思いつつ、ワンツースリー、ワンツースリー、こうっ、軽やかにステップ、ステップ」
 細身のディレクターは『自分でやったほうがいいのでは?』と思うぐらい、スマイリー小原を彷彿(ほうふつ)とさせる腰つきで踊った。
「家でひとりで?! 男に振られて踊りますか!?」
「踊るんですっ」。ディレクターはきぱりと言った。
『そうか、そんな変な女だから振られるんだな』。私は一応、納得した。
「そしてぇっ、歌のサビッ、クライマックスで、こーゆうふうにぃ、ネグリジェをはためかせて、オーバーにぃ、ソファに倒れこむっ」
 彼はそう言いながら、本当にドンッという音をたててソファにバウンドした。けっこう背中が痛そうだった。
 しかしっ、そんなことはどうでもいいっ。私には彼の言葉の一点が、非常に聞きずてならなかった。
「ネグリジェェェェェェ!?」。頭の中はぐるぐる回転した。
『いやっ、ネグリジェといってもいろいろある。普通の綿ローンで出来た花模様の乙女チックなやつとか、薄手のジャージィで出来たハウスウエアのようなのとか。そうっ、決してスケスケの、あのっ、ナイロンで出来たフリフリのネグリジェだけが、ネグリジェではないはずだ』
 しかし、祈るような私の願いは見事に打ち砕かれた。アシスタントディレクターが出してきたのは、黄色のベビードールという、丈が異常に短い最悪のネグリジェであった。もう一枚、ピンクのロング丈の「これぞネグリジェ」というものも用意されていたが、こちらのほうとてスケスケであることに変わりはない。
 私はゾッとした。『逃げ出したい……』。
 うろたえる私の様子には目もくれずディレクターは、明るく言った。
「んーっ、この長いほうがいいかなぁーっ? 松井ちゃん、とりあえず、両方着て見せてくれる? それから、どっちにするか決めよう」
 私は二枚のネグリジェを渡されて、重い足どりで奥の部屋へ入って行った。
『どうしよう……』
 さんざん悩んだ末に、私は意を決して着替えることにした。
 二枚ともいっぺんに着ることにしたのである。いちばん下には最初から着てたスリップ、その上には黄色のベビードール、そのまた上にはピンクの丈長のネグリジェと、都合三枚着込んだことになる。
『よしっ、これならどこにライトを当てられても、スケる心配はない』
 スタッフは体のアチコチが不自然にデコボコしているネグリジェ姿で出て来た私を、いぶかしげに見ていたが、
「これで、いきますっ。すっごく寒いんですっ、中にスリップ着ましたっ!」
 という、鬼気せまる迫力に押されたのか(哀れに見えたのか?)、
「わっ、わかりました、じゃ、これでいきましょう」
 ということになった。
 そのあと、妙に着膨れしたネグリジェ姿でひとりワルツを不気味に踊り(いつまでもリズムがとれないのでディレクターは、トライアングルで一、二、三、とリードする係までさせられていた)、そしてなぜかトランプを口にくわえて上目遣いをしたりして、最後には例のソファに倒れ込み、撮影は終了した。
 後日、飲んでる席でふと口を滑らせたせいで、その『女の円舞曲』をかけてみようということになり、私は出来上がったカラオケビデオを初めて見た。
 自分で大人っぽく化粧したつもりの顔は狸みたいだったし、ネグリジェはやっぱりボコボコしていて、おまけにひとりで踊るワルツは狂女のそれだった。
 友人たちは、お腹をよじらせて大笑いしていた。
 だが、ディレクターの狙いがそこにあったはずはなく、案の定その会社の仕事はそれから一本も、私の所には来なかったのである。


新幹線尻丸出し事件

 長い人生の中には、誰にでも穴があったら入りたいような、思い出すのも恥ずかしい出来事のひとつやふたつあるものだ(私には、百個ぐらいありそうな気もするが)。
 その中のひとつを、恥を忍んでお話ししよう。
 それは、アニメビデオのイベントに出演するために、大阪へ行った帰りの新幹線ひかり号の中で起こった。
 名古屋を過ぎて、あとは東京までノンストップで二時間弱、『今夜中には、家に着けるなあ』なんてことを考えつつ、さっきからずっと行きそびれていたトイレへ行こうと私は席を立った。
 トイレのある連結部の通路の所に来ると、「松井さんっ」と前の方から私を呼ぶ声がした。見ると、若い男の子が立っている。この人なつっこい笑顔には見覚えがあった。
「あぁ、たしか、今日イベント会場にいらしてましたよね」
「えっ、覚えててくれたんですかあ、感激だなあ。僕、松井さんのファンなんです。見送りに来て、つい一緒に新幹線に乗ってしまいました」
 いやはや危ないことを言う。
「でもあなた、東京へ着いても、もう帰りの列車ないんじゃない? どうするの?」
 私はこの衝動的行動力のある少年の今夜の寝床が、心配になって来たのだ。
「いいんです。学校も春休みだし、東京のおばさんの所に泊めてもらえるように電話しましたから」
 彼がにっこり笑って言うので、安心して、
「あっそう、じゃ、気をつけてね(さ、トイレ、トイレ)」と、立ち去ろうとした。
 すると、
「サインをいただけないでしょうか?」
 と色紙を出してきたのだ。それも三枚も。
 私は、『あの~、トイレへ行く途中だったんですけど』と訴えたかったが、グッとこらえて、『わざわざ大阪から追いかけて来てくれたのだから』と自分に言いきかせ、一枚一枚丁寧にサインをした。
 なのに彼は、
「あの、僕の名前と、日付と、ここに座右の銘を書いてもらえませんか?」
 と言うではないか。名前と日付だって今の私には省きたいところだというのに、
「ザァユウノメイ?」
「トイレ」の三文字しか頭に浮かばなくなっていた私は、そこに「トイレに行かせて!」と書きたかったが、それではあんまりなので必死で笑顔を作り、「ガッツ!!」と記した。
 すでに限界にまで達していたのだが、彼が立っているすぐ後ろのトイレには、なんとなく入りにくい気がして、私は二両先のトイレへ小走りで駆け出した。
『よかったあ、空いてる』。ドアを閉めて用をすませ、ホッとしたのもつかの間、私が立ち上がろうとすると、
「ガチャッ」
 とドアの開く音が後ろでした。
「ん?」と振り向くと、一瞬、慌てたような男の人影が見えて、ドアがまた「ガチャッ」と音をたてて閉まった。その間、わずか数秒の出来事だった。
「どっ、どういうこと?!」
 身支度を整えてから、気を落ち着かせてよく見ると……。
 あのとき慌てていた私は、こともあろうに! ドアの鍵を掛けずにトイレへ入っていたのだ。
 そして次に来た男の人が、それと知らずにドアを開けて、あとは……。もう考えるのもいやだった。
 とにかく「誰かが後ろから私のお尻を見たっ!」というのは、絶対的に確かなことだった。
 私はトイレの中で考えた。
『もし、今の男の人がさっきのファンの男の子だったら?! いやっ、いくらなんでも、それでは運が悪すぎる』『ちょっと待てよ。今、私が出て行って、ドアを開けた男の人が、まだ前に立っていたら? ……そうだっ、あと五分はここにいよう。そうしたらその人も諦(あきら)めて、他の車両のトイレへ行くに違いない』
 ……………トイレの中で五分が経過した。私の頭には、またさっきとは違う、恐ろしい考えが浮かんできた。
『私の顔は後ろ向きだったから、きっとよく見えてはいないはずだ。それはよしとしても……、この服っ、この服は目に焼き付くほど、派手だ……』
 私の服は、イベントの衣装として着ていた、エメラルドグリーンの色鮮やかなスーツだったのだ。
『まずいっ、この色は覚えられているに違いない』
 私が乗客の通路を通ったときに、
「あっ、トイレで見たエメラルドグリーンの女だぁ!」
 とその人が言い出さないとも限らない。そして、団体客のひとりで、
「さっき話しただろっ。アイツだよ、アイツ」
 なんて指をさされでもしたら……。「クスックスックスッ」と車内に広がる、笑いのさざ波……。
 私の妄想は膨らんでいった。
 その間、約三十分。
 さすがに私も『いつまでもここにいられるわけじゃない』と観念して、スーツの上着を脱ぎ、髪で顔を隠し、少しでも「別人」に見えるようにして外へ出たのだった。
 なるべく目立たないようにコソコソ歩いて自分の座席へ向かうわずかの距離が、私にはやたらと長く感じられた。
 しかし想像していたことは何ひとつ起こらず、ホッとして席に座り込むとマネージャーが、のんきに聞いてきた。
「ずいぶん遅かったねぇ、もう着いちゃうよぉ。何かあったの?」
 疲れきった私には、
「べつに」
 と答える気力が残されているのみだった。



愚かなあやまち

 かつて、「思い込み間違い歌シリーズ」というのが、ある雑誌の読者ページでえらく流行ったことがある。
 有名なのは、童謡の『赤い靴』の話だ。歌詞に「異人さんに連れられて行っちゃった」というところがあるが、それを「ひい爺さんに連れられて行っちゃった」とか「いい爺さんに連れられて行っちゃった」と、勘違いして覚えてしまった人がけっこう大勢いて、「ひい爺さんやいい爺さんが連れて行ったのなら、そんなに暗くなることもないのに」と、内心思っていたというのだ。その投稿コーナーを読むたびに大笑いしたものである。
 私の友人も子供の頃、堺正章さんの『さらば恋人』の冒頭の歌詞「さよならと書いた手紙」というのを「さよなら東海、たてがみ」と、「そりゃ、JRのCMか?」と言いたいようなわけのわからない思い違いをしていたにもかかわらず、何の疑問も持たず歌っていたという。だから未だにこの歌を聞くと「ライオン」の姿が頭に浮かぶらしい。なんとなくわかる気がする。
 この間テレビで「懐かしのフォークソング」というようなタイトルの番組を見ていたら、さだまさしさんが歌う『精霊流し』がかかって、その下にグループ名として「レーズン」とテロップが出た。悪意はなかったにしろ「グレープ」を、カサカサにしぼんだ「レーズン」と間違えるなんて、あんまりである。しかし、おかしかった。あははは。
 人のことを笑っている場合ではない。最近私も愚かな間違いを指摘されて、赤っ恥をかいてしまった。
 それは、歌詞ではなく、漢字の読み間違いだった。
 ある共通の知人のお葬式のことが話題に上がったときに、私が暗く沈んだ声で、
「残された奥さまは『ゴウナキ』してました」
 と言うと周りはなぜか、キョトンとした顔をしている。中のひとりが、
「それを言うなら号泣(ゴウキュウ)でしょ」
 と笑いながら訂正してくれたのだが、すごいショックを受けてしまった。だって、恥ずかしながら私はこの年まで「号泣」は「ゴウナキ」だと信じて疑わなかったのだから。あ~、穴があったら入りたい。
 しかし、わが身をかばうわけではないが、こういった類の思い違いは、毎日のように「台本を読む」という仕事をしている都合上、よく目の当たりにする出来事なのである。
「突如(とつじょ)」というのを「とっきょ」だと今の今まで思っていたとか、「詳細(しょうさい)」を「くんさい」あるいは「ようさい」と読んでいたとか、意外に皆ひとつくらいは愚かな思い違い「漢字」を持っているものである。
「お侍(オサムライ)さ~ん」という台詞を「お侍(オマチ)さ~ん」と読み違えた声優さんもいて、そのときはスタジオにいた全員が爆笑してしまった。
 先日もこんなことがあった。
 私はスタジオの中で数人の先輩の役者さんと、風邪対策についての雑談をしていた。
「やっぱり、栄養を摂らないといけない」と、いつしか話は「精のつく食べ物」へと移行していった。
 誰かが「鰻はいいよね、きも吸いのキモも元気が出るしね」と言ったのを聞いて、私はかねてから感じていたあることを、思いきって口に出してみたくなった。「皆もそうでしょ? ウフフ」という気持ちを込めて。
 「だけど、あれって、食べるときちょっと恥ずかしくないですか? ねえ」
 すると、そこにいた人たち全員から、
「なんで?!」
 と一斉に聞き返されてしまったのだ。詰め寄られた私は、
「エッ? エッ?」
 と一抹の不安を感じながらも、
「だって、きも吸いの『キモ』って、鰻のオ○ンチ○じゃないんですかぁ?」
 またもや、愚かな思い込みを大公開したのであった。
 当然スタジオはドッと湧いて、なかには笑いすぎてお腹を押さえ苦しがっている人もいる。
「えーっ! 違うんですかあ? でっ、でも、形もそんなふうだし、うちの母が声をひそめて『精がつくから我慢して食べろ』って言うからてっきり。それに、あのぅ、キモっ玉って言いません?」
 私は苦し紛れに余計なことを口ばしっていた。
「それじゃあ、キモっ玉かあさんは、オ○ンチ○のついてるような(下ネタばかりですいません)威勢のいいおっかさんってことかぁ?」
 先輩はあきれながら突っ込んできた。
 そう、だから私は、「キモのすわった」とか「キモに命じて」「キモを潰(つぶ)す」っていう言葉を、なんて男っぽい表現だろうかと……、いやっ、これ以上、何も言うまい。
「あのねぇ、鰻のきもの『キモ』は、肝臓の『カン(肝)』って書くのよ」と、このとき教えられて、私は初めて、きも吸いの「肝」の正体を知ったのである。
「じゃなに、松井ちゃんは鰻の肝臓を毎回、ドキドキしながら食べてたってわけ?」
 という問いには、返す言葉もなかったが、
「ハイ、鰻重のきも吸い付きに出会ってから十数年、赤い顔して、手で隠しながら、味わわないように無理やり飲み込んでました……」
 と正直に答えると、またまたドッと笑いが起こってしまった。
 そしてしばらくの間そのスタジオで、私の名前は「鰻のキモ」になったのだった。悲しすぎるぅぅぅ。

<後日談>
「私のように、鰻の肝をオ○ンチ○だと思い込んでいる大バカヤローが、絶対に他にもいるはずだ!」と確信した私は、『愚かな仲間』探しを開始した。そしたら、いた! いた! ギャハハハハ! 周りになんと、三人も! みんな一様に、顔を赤くして「えっ?! ち、違ったの……?!」と、あぜんとしていた。ウッシッシッ。私だけじゃなかった、良かったあ!
 しかし、この話を北海道の母に電話で伝えたときに返ってきた発言も「えっ?! ち、違ったの……?!」であったのにはさすがに私も驚いたが、この子にしてこの親あり? だと妙に納得してしまった。



怒りの電車

 ここんとこ電車についていない。
 ケチのつき始めは、ある朝、「やったぁ、セーフ!」と駆け込んだ地下鉄の扉に、ショルダーバッグの紐がはさまってしまったことだった。
 いくら引っ張っても、バックルがしっかりストッパーの役目をして、ストラップが外れない。
 そうこうしているうちに、電車はそのまま出発してしまった。
 アタフタしている私を尻目に若いサラリーマンが、ボソッと呟いたのだ。
「そっちのドア、終点まで開かねぇんだよなぁ」
 いきなり後頭部にガツンとパンチをくらったような衝撃を覚えた。
「そりゃあないよぉ。わたしゃ次で降りたいのに~」という嘆きも虚しく、鎖でつながれた犬のように身動きできないまま、電車に乗っているしかなかった。
 こっち側の扉が開いたのは、お兄さんの言った通り終点の駅だった。
 急いで電車を飛び降りて引き返したのだが、時間のロスは大きく、仕事には大幅に遅刻してしまった。トホホホホ。
 次は夕方のラッシュ時、けっこう混んでいたのに運良く座れた私は、立っている大勢の人から垣間見える前の座席のおばさんを、なんということもなくボケ~っと見ていた。おばさんは口を開けてぐっすり眠りこけている。よくもまぁ、公衆の面前でここまで熟睡できるもんだと、その脱力しきった姿に私はなかば尊敬の念を持ち始めていた(いや、実は人のことは、あまり言えなかったりするのだけどね)。
 と、彼女がガクッと舟を漕(こ)いだそのとき、握りしめていた切符が手からヒラッと足元に落ちたのが目に入った。前に立っている人が気がついて拾ってくれるだろう、としばらくは放っておいたのだが、どうもその気配がない。
 こういうとき、したんぷりできない性分の私は「しょうがないなぁ」と腰をかがめたまま、人をかきわけて切符を拾い、まだ眠り続けているおばさんの手の甲をトントンと軽くたたいて起こそうとした。
 彼女はハッと目を覚まし「ここはどこ? あんた誰?」というような顔をして、私を見ている。
「あのっ、これ、落ちましたよ」
 切符を差し出すと、おばさんは面倒くさそうに、
「どうも」
 と受け取った。
 そして次の瞬間! このおばはんは信じられない行動をとったのだぁ!
 なんと、彼女を起こすために私が触った方の手の甲を、汚いものでもぬぐうかのように、ゴシゴシと自分のスカートにこすりつけたではないか!
 私は、我が目を疑った。『なっ、なんなの、この人~っ!』
 いやっ、たぶんおばさんは無意識についやってしまったとか(善意に解釈すれば、よ)、異常に潔癖性の人だったとか、ひどく寝起きが悪いタイプだったのかもしれないが、どっちにしたって私はものすごく傷ついてしまった。
「しっ、しどいっ、許せんっ」と憤慨しながら席へ戻ろうとしたら、私の座っていた所には、すでに制服姿の中学生がちゃっかり腰かけていた。
 また、ある夜の山手線の車内では、はた迷惑な大酔っぱらい男と遭遇してしまった。
 年の頃は四十代後半ってことの、酔ってなければキチンとしたやり手のサラリーマンに見えそうなガタイのいいおっさんだったのだが、とにかくこいつの声がばかデカかった。
 ひとりで電車になだれ込んで来て、いきなり車両中に響き渡る声で「だいたい今の総理大臣はだねぇ」と政治の話をしだしたかと思うと、いつの間にか「許せんのは、サリンガス」。まぁこれは同感できるが、「なんだあの、ナタデココってやつはよぉ」とやたらと守備範囲が広い。これを聞いただけでは「けっこう笑えるキャラクターじゃない」と思う人がいるかもしれないが、実際に遭遇してみるとそんな甘いものではなかった。
 このおじさんのいちばんイケナイところは、「他人に話しかける(それもつんざくような大声で)」という点だった。よくいる、無害なモノローグタイプの危ない人ではなかったのだ。
 私は三、四人離れた扉の所に立っていたからまだ良かったが、目の前に座っている女の子は、
「なっ、なっ、そうだろっ? えっ?」
 と顔を覗き込まれるように話しかけられて、どうしていいのかわからずイヤそうにずっと下を向いたままだった。
 吊り革につかまりながら、そのおやじがブンブン体を揺らすので、左右に立っていた男の人たちも怖がって少しずつ間を開け始めていた。
 そしてこいつが、
「ギャアアアア! ハッハッハッハア~!」
 という笑いとも奇声ともつかぬ声を発したとき、『もうっ勘弁ならんっ、ちっとは人の迷惑も考えろっ』。私の怒りは最高潮に達した。
「うるさいっ! 静かにしろっ!」
 と怒鳴ってやろうかと思ったが、さすがに怖かったのでそれはやめた。
 その代わり精一杯眉間に皺を寄せて、思いっきり「キッ」と、酔っぱらいおやじの背中にガンを飛ばしてやった。まっこれが、私にできるせめてもの抵抗だった。
 だがちょうどそのとき、運良くというか悪くというか、おやじがこっちを振り向いた。バチッと目が合ってしまった!
『ゲ~っどうしよう?! 怒らせてしまったかも?』。私は、とたんに怖けづいてオタオタした。案の定おやじは顔を真っ赤にして、
「なんだぁ! テメェ!」
 と身を乗り出してきたではないか!
『キャ~、もう絶対絶命、だっ誰か助けてえ!』。心の中で叫びつつ、私はズリッと後退りした。
 ところがこのおやじは大声で、思わぬことを言い放ったのだ。
「なんだぁ! テメェ! 『宮沢りえ』みたいな顔して睨みやがってぇ」
「…………へっ?!」。車内は水を打ったように静かになった。
 天と地がひっくり返ったって、『宮沢りえ』に似ているとは思えない私は、振って湧いたようなこのおやじの発言に、クラクラとめまいがした。
「こりゃ、ギャグかよ?」と、恥ずかしさのあまりうつむいていたら、こっちの気もしらず、おやじはフラフラと扉の方へやって来て、次の駅でさっさと降りようとしている。
 そして振り返りざまに、
「じゃあなぁ! 宮沢ぁ!」
 という捨てゼリフを私に残し、消えていったのであった。
『なんなのよぉ、いったい!』。私は、おちょくられたような怒りを覚えた。
 しかしその一方で、
『まっ、サラリーマンもいろいろと大変なんだろうなぁ。たぶんあの人も相当ストレス溜まっちゃってるんじゃないの? ちょうど中間管理職って感じだしぃ』
 とおやじをかばう気持も、なぜかフツフツと沸き起こってくるのだった。
 目的地へ着いて、電車を降りる頃には、
『それにしても、あたしが宮沢りえだって! だいたい年がいくつ違うと思ってんのよ、あははは。…………。案外イイヤツだったかもしれない』
 という結論に至っていたのである。女ごころってぇのは、わからないもんだよねぇ。



所変われば、具も変わる

 急に、スキヤキが食べたくなった。
 よしっ、早めに仕事が終わったら、スーパーで買い物して、おうちで作って食べよっと。
 スタジオのロビーのソファで出番待ちをしていた私は、ほかほかの湯気を出してグツグツいってるスキヤキを思い描いて、ひとりニヤニヤしていた。
 エートぉ、何が入ってるんだっけねえ、スキヤキって。ん~、まずは、牛肉だろ、しらたき、焼き豆腐に、春菊、それから……ん?
 あと何だっけ? めったに鍋物なんかしない私は、どうしても思い出せない。たまたまそばにいた某プロダクションのマネージャーに助けを求めることにした。
「ねっ、Sくん、スキヤキってどんなものが入ってるんだっけねぇ?」
「やだなあ、なにひとりで真剣な顔してんのかと思ったら、晩ご飯の心配してたんですかあ」
「なんだか、無性に食べたくなっちゃたのよねえ」
「エ~、スキヤキですかあ。スキヤキっていったら、やっぱり、肉ですよ。まっ、普通はマトンか豚肉ってとこですかねえ」
「……」。マ、マトン?
「えっ? マトン、入れませんか?」
 彼にひるむ様子はない。
「ちょ、ちょっと、あなた、もしかして出身は……」
「はい、北海道です」
 やっぱりだ。羊肉の本場といえば、なんといっても我が故郷、北海道である。
 しかし、豚肉はまだしも、マトンのスキヤキなんて、聞いたことも見たこともなかった。少なくとも、うちは違った。
「や~、僕んちでは、昔っから、マトンだなあ。友達の家で食べたときも、たしかそうだったと思うけど」
「じゃ、初めてお店で食べたとき、変だなあって思わなかった? あっ牛肉だ、って」
 私は素朴な疑問をぶつけてみた。
「べつに。だってほら、家庭料理とよそゆきの外食じゃ、使う材料が全然違うことってあるじゃないですか」
 ごもっともである。我が家でも、鳥肉ではなく、なんとなくいつも冷蔵庫の中にあるハムやベーコンで、ケッチャップと炒めたケッチャップごはんが「チキンライス」と当たり前のように呼ばれているし、シーフードサラダも、蟹缶よりもっぱら安くて手軽なカニカマボコが活用されている。洒落(しゃれ)たレストランでは許せないことも、家で食べるぶんにはいっこうに差し支えなく、それどころかかえってその味のほうが好きだったりする。
 そう、家は家、外は外なのだ。
「ねっ、あとは? あとはスキヤキに、どんなもの入れるの?」
 もしかしたら、マトン以上にとんでもないものが出てくるのではないかと、私は興味津々だった。
「そんな、普通ですよ。春菊とかあ、玉ネギとかあ」
「ふーん、なーんだ、野菜類は普通なんだ」
 私がつまんなそうに言うと、向かい側に座っていた女の先輩(ちなみに三代続いた江戸っ子)が、
「ちょっと待ってよ」と、話に割り込んできた。
「黙って聞いてたんだけど、あんたたち、普通スキヤキに、玉ネギは入れないでしょう! 昔から、長ネギに決まってるのっ」
 いきなり喧嘩腰である。
「ええ、長ネギも入れますけど、玉ネギも入れるでしょ、ねぇ?」
 私は隣のSくんに同意を求めた。
「はい、うちは玉ネギだけですけど」
 マトンでは、袂(たもと)を分かったふたりであったが、広大な玉ネギ畑を見ながら育った北海道ペアは、ここへ来ていっきに結束した。
 カレーに必要不可欠なように、私にとってスキヤキの中のそれはけっこう重要なポジションをしめていたのだ。
「そんな、玉ネギを入れたスキヤキなんて邪道よ!」
 先輩は怒り出した。
 私たちは、「だ、だって、入れるんだもん」とオロオロするばかりである。
 そこへ、新人の女の子が、横から、
「あの~、モヤシも入れますよねえ、普通」
 と探るような目で言い出したではないか。
 私が「えぇぇ~?!」と動揺していたら、今度はうちのマネージャーが、
「白菜を忘れちゃ困りますよ」
 と自信満々の発言である。
 それから先は、「いや、うちは、きのこ類や豆腐は入れません」という人がいるかと思えば、「えのき茸もシメジも入れる」「たけのこは、絶対入れてほしい」と言う人もいたり、「そんなのは、聞いたこともない」と突っぱねる人もいれば、「あっ、それ今度入れてみよう」と言う人もいて、いつの間にかスタジオのロビーは、スキヤキの具の話題でもちきりである。
 しかし、話はそこで留(とど)まらず、具を食べ終わったあとの「第二ラウンド」の論争へと移っていった。
「煮詰まった割り下に、からめて食べるうどんがたのしみでねえ」
「オレは、餅のほうがいいなあ」
 私は、年配の役者さんふたりの会話を聞きながら、
『我が家は、最後は何にも入れないで、次の日、残った具の上に卵をのっけて、スキヤキ丼にして食べてたっけなあ』
 と思い出して、生唾をゴックンと飲み込んだ。
 すると、今まで静かに台本のチェックをしていた男の子が、すくっと顔を上げ、
「えっ、それは、大根のほうがいいですよ」と、きっぱり言ってきたのだ。
「うちは、いちばん最後に、大根を入れるんです。翌日は、味が染みて、それはうまいんです」
 なるほど、美味しそうである。さらに彼は続けた。
「あれっ? 普通、ほとんどの家では、そうしませんか?」
 これ、これ、これよ。みんな、自分ちの「スキヤキ」を「ごく普通の」と、はなっから決めつけているのだ。
「大根ねえ…………」。あまりの突飛な具の出現に、私たちは何も言い返せなくなった。
 いや、もちろん、スキヤキに大根を入れてもいいし、モヤシを入れてもいいし、その家のオリジナリティや地方色が出てても、それが家庭料理っていうもんで、まったく構わないことだと思う。だいたい、何が正統派か、なんてなかなか言えるものじゃないしね。
 でも、こうまでみんなが「我が家こそが一般的」と思い込んでいることに、私は驚いてしまった。そういう自分も、長年食べ続けてきた「玉ネギ入りスキヤキ」が「当たり前」だと、確信していたひとりなのだが。
 スキヤキでこれだけの珍説が出てくるのだから、こうなると他の料理も調べてみたくなる。
 料理だけではない。もしかしたら、家庭という一種の密室で、その家族だけが「普通」だと思っている、ものすごく「変なこと」が実は、行われている可能性だってある。
 よそんちを覗いて「それ、オッカシ~」ってなものを発見して、ガハハと笑い飛ばすのも、けっこう楽しいかもしれない。
 意外に自分ちが、いちばん変わってたりして……。ゲッ。


 



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