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遅刻女王

「遅刻をしない、というのは、役者として最低限の基本である」
 養成所時代からこう叩(たた)き込まれていたにもかかわらず、よりによって新人の頃の何年間か、私は「遅刻の三大女王のひとり」という不名誉な名前をちょうだいしている(ちなみにあとのふたり、K嬢、C嬢は私の親友だったりする。類は友を呼ぶのだろうか?)、所属事務所でも赤丸付きの要注意人物であった。
 遅刻だけならまだいいが(いやっ、ちっとも良くないです。すいません。反省してます)、スケジュールが完璧に頭からきれいさっぱり飛んでしまってりることすらあったのだ。
 その日の二本目の仕事をすっかり忘れて家へ帰ってしまい、のんびりお風呂に浸(つ)かっていたら、
「松井さん早くスタジオへ行ってくださいっ、皆さん待ってますっ!」
 と泣きそうな声でマネージャーから電話がかかってくる、なんてことを二、三回やっている。
 CMナレーションの仕事で、「アオイスタジオ」へ行くはずのところを「朝日録音スタジオ」へ行ってしまい、間違いに気づいてタクシーを飛ばしたのだが結局、大遅刻になってしまったことがあった。
「新橋と六本木のスタジオを、どこをどうやったら間違えられるのか?」
 マネージャーに突っ込まれて、はたと気づいた私は、
「たぶん、アオイも朝日も『あ』で始まるからでは?」
 とマジで答え、あきれられてしまった。

「なんで私たちは、いくら怒られても遅刻してしまうのだろう?」
 その昔、三大女王で話し合ったことがある。
「あっ、このままいくと間違いなく遅刻するなぁと思うと、なんだか妙に落ち着いちゃって、『ふぅぅー』ってお茶でもすすりたくなるときがあるのよねぇ」
 遠い目をしてC嬢は言う。
「そうそうっ、わかる! なぜか焦らなくちゃいけないときほど、そんな気持になるのよねぇ、なんなんだろ、あれは?」
 マネージャーが聞いたら「ふざけんなっ!」と怒られそうな私の発言。眠り姫と呼ばれているK嬢は、相変わらずのおっとりした口調でいいわけをした。
「だってぇ、目覚ましを朝、自分で無意識に止めていることに気づかないくらい爆睡いしちゃってるんだもの」。まさしく、K嬢には「爆睡」という言葉がふさわしい。
 彼女はイベントで地方へ行ったときに、ホテルの部屋へ入ってドアを閉めたとたん、グワーっと襲って来た眠気に勝てず、三歩先のベッドへたどり着く前にバタッと床に倒れてしまい、そのまま朝まで眠りこけて、翌日、絨毯(じゅうたん)の模様が付いたホッペでロビーに現れたことがある。
 またあるときは、駅の改札口を出たところで歩きながら寝てしまい、道路の電柱にしたたかに頭を打って目が覚めた、という。
 そして私が、彼女の「眠り姫」たるゆえんを目の当たりに確認したのは、この三人で朝まで語り明かしたときのことだった。
「お腹が空いたから、お洒落にホテルの朝食でも食べに行こう」と私たちは早朝からやっているレストランに入った。
 食事中、K嬢が何ごとか思い出したのか、
「そうそう。ねぇ、ちょっと聞いてぇ、この間ねぇ」
 と話し始めた。
「うんうん」
 向かいに座っていたC嬢と私は、箸を止めて頷いた。
 するといきなりっ! K嬢は「ベシャッ」と、自分のオートミールに顔を突っ込み、スプーンを持ったまま皿の中で眠ってしまったのだ。
 C嬢と私は思わず、「なっ、何が起こったの!?」と、顔を見合わせた。
 これが仲間内では有名な「今しゃべってた女がもう寝てる」事件である。

「K嬢のことはけっこう皆、しょうがねぇなぁって笑って許してくれるのよ。いつも目の下にクマ作ってるし、色が白いから具合悪そうに見えるしさぁ、必死で起きて来ましたっていう悲壮な感じがして得だよねぇ。その点私なんか、自分が悪いのに『こんな不便な所にスタジオ作ったの誰よ!』とか、つい人のせいにして、ふてぶてしい態度になっちゃうから損なのよねぇ」
 私がしみじみしていると、
「あーら、その昔、松井さんはそのふてぶてしさで得をしたことあったんじゃなかったっけぇ?」
 とK嬢が切り返してきた。
 そういえば、そんなこともあったっけ。

 その日も、私はアニメのテレビシリーズのオーディションがあるのをすっかり忘れて、一本目の仕事を終えてから(朝の十時開始の三十分アニメの録音は普通、午後二時には終了する)、ショッピングをし、友人と食事をして深夜に帰宅してしまったのだった。
 家へ着いて留守電を聞くと、
「松井さーんっ、いませんかぁーっ、今午後六時です、オーディション、あるの忘れてまーすっ、至急連絡してくださーいっ!」
「松井さーんっ、松井さーんっ、お願いっ、連絡くださーいっ!」
 とマネージャーが叫んでいるのが何回も入っていた。そして最後には暗い声で、
「もう、諦(あきら)めました。……明日、電話待っています」
 という恨めしそうなメッセージで終わっている。
「ヤバ~っ、またやってしまった!」
 後悔先に立たず。慌ててももう遅い。
 社長の吊り上った目を想像してゾッとなりつつ、翌朝、謝罪の電話を入れると、意外な答えが返ってきた。
「お情けで今日、最後にひとりだけオーディションしてくれるそうだから、行って来るように」

「そんなもの、むこうだって気を悪くしてるのに、受けたって受かるわけないじゃない」
 私はひとりブツブツ言いながら、そのオーディション会場のスタジオへの急な坂を汗を拭き拭き上がって行った。
「ヒィ~っ、日射病で死ぬぅー!」
 夏真っ盛りの八月の午後だったから、そりゃあもうクソ暑かったし、こんな勾配(こうばい)のきつい坂道を、受かるはずのないオーディションのためにエッチラオッチラ歩いている自分に、だんだん腹が立ってイライラしてきた。こういうとき悪い癖で、すぐ自暴自棄になって、全宇宙ごとブッ飛ばしてしまいたくなるのだ。いけない私……。
 しかし物事というのは最後までわからないものである。その不機嫌な顔したまま、ふてぶてしくセリフを読んだのが、受けた役の「生意気で性格悪い女の子」のキャラクターにぴったりだったらしく、私はまんまと合格してしまったのだ。
 これだから遅刻はやめられない(っていうのは真っ赤なウソです! 関係者の皆さま、もうしませんっ、ほんとです。松井は生まれ変わりましたっ。もう遅刻は絶対しませんっ……たぶん。だってぇ、私っ、電車の人身事故や車両事故に遭いやすい体質なんです。これほんとっ。でもぉ、それ以外は遅刻しないはずです! いやぁ、しなけりゃいいなと。きっとしないんじゃないかなぁ、しないと思うよー。しないことを切に祈りたいっ!)。

 ちなみに、今この業界でどんな「遅刻のいいわけ」が流行っているかご紹介しよう。
「車が込んじゃって」
 だと、東京の末期的交通渋滞を知ってて車に乗るとは「このバカ者っ!」と一喝されてしまう恐れがあるので、そういうときは、
「電車が込んじゃって」
 というのが有効だ。相手は一瞬、
「ふーん」
 と煙(けむ)に巻かれ、
「あっ、なんだそれっ」
 と気づいたあとは笑ってごまかす、という手の込んだ(どこが?)いいわけである。
 もうひとつ、
「外国人に道を聞かれちゃって」
 というのがある。これは日本人の外国人コンプレックスをグサッと突きながら、
「国際親善のためならしょうがないよねっ」
 という気を相手に起こさせるという、奥深~い(どこがじゃ!)いいわけである。
 あなたは、どっちを試してみます?

変な仕事

 声優の仕事というと、アニメや洋画の吹き替えだけだと思っている方が多いだろうが、それは意外と多岐にわたっていて、テレビやラジオのCMや番組ナレーション、CD・ラジオドラマ、アニメ等の主題歌や挿入歌のレコーディング、サイン会、アニメ誌の取材を受けたり、イベントのゲストや司会、社員教育ビデオに出演したり(顔出しと呼ばれる)することもある。つくづく、なんでも屋だなあと思ってしまう。まっ、いろいろあるから面白い、との言えるのだが。
 友人の声優は、街中(まちなか)でみかんを一個ずつ無料で配る仕事をやらされたとき、「何がいやって、タスキに『みかん娘』って大きく書いてあったのが恥ずかしかった」と言っていた。風変わりな仕事というのは、プロダクションに入りたての新人のときにやらされることが多い。
 私の場合もそうだった。
 仕事の内容がよくわからないことに多少の不安を感じたまま、スタッフの男の人数人と、私はバンに乗っていた。
 たしか、カラオケのビデオを撮る顔出しの仕事で、マネージャーの言葉を借りれば、「あっという間に終わる」はず、であった。
 着いた場所は、郊外にある大きな団地の一室だった。その部屋の住人がスタッフと知り合いで、半日貸してくれたらしい。
 主婦らしい赤ちゃんを抱いたその住人がドアを開けてくれたとき、私は内心ホッとした。だって新人の私にはマネージャーは付いてきていないわ、スタッフは全員男だわ、知らない家に連れて来られるわ、自意識過剰になって、けっこう緊張していたのである。
 仕事はいわゆるよくお店で流しているカラオケビデオの撮影で、小林幸子さんの『女の円舞曲(ワルツ)』というバリバリの演歌に合わせて、ひとりでワルツを踊るというものだった。
「ひとりで、ですか?」。私はあきれた。『バカみたいじゃない?』。
「そーそーっ、松井ちゃんは、男に振られて打ちひしがれてる女の人なわけよ。家に帰ると、ひとり身の侘(わび)しさが、辛く悲しく胸を締めつける……。そして別れた彼を思いつつ、ワンツースリー、ワンツースリー、こうっ、軽やかにステップ、ステップ」
 細身のディレクターは『自分でやったほうがいいのでは?』と思うぐらい、スマイリー小原を彷彿(ほうふつ)とさせる腰つきで踊った。
「家でひとりで?! 男に振られて踊りますか!?」
「踊るんですっ」。ディレクターはきぱりと言った。
『そうか、そんな変な女だから振られるんだな』。私は一応、納得した。
「そしてぇっ、歌のサビッ、クライマックスで、こーゆうふうにぃ、ネグリジェをはためかせて、オーバーにぃ、ソファに倒れこむっ」
 彼はそう言いながら、本当にドンッという音をたててソファにバウンドした。けっこう背中が痛そうだった。
 しかしっ、そんなことはどうでもいいっ。私には彼の言葉の一点が、非常に聞きずてならなかった。
「ネグリジェェェェェェ!?」。頭の中はぐるぐる回転した。
『いやっ、ネグリジェといってもいろいろある。普通の綿ローンで出来た花模様の乙女チックなやつとか、薄手のジャージィで出来たハウスウエアのようなのとか。そうっ、決してスケスケの、あのっ、ナイロンで出来たフリフリのネグリジェだけが、ネグリジェではないはずだ』
 しかし、祈るような私の願いは見事に打ち砕かれた。アシスタントディレクターが出してきたのは、黄色のベビードールという、丈が異常に短い最悪のネグリジェであった。もう一枚、ピンクのロング丈の「これぞネグリジェ」というものも用意されていたが、こちらのほうとてスケスケであることに変わりはない。
 私はゾッとした。『逃げ出したい……』。
 うろたえる私の様子には目もくれずディレクターは、明るく言った。
「んーっ、この長いほうがいいかなぁーっ? 松井ちゃん、とりあえず、両方着て見せてくれる? それから、どっちにするか決めよう」
 私は二枚のネグリジェを渡されて、重い足どりで奥の部屋へ入って行った。
『どうしよう……』
 さんざん悩んだ末に、私は意を決して着替えることにした。
 二枚ともいっぺんに着ることにしたのである。いちばん下には最初から着てたスリップ、その上には黄色のベビードール、そのまた上にはピンクの丈長のネグリジェと、都合三枚着込んだことになる。
『よしっ、これならどこにライトを当てられても、スケる心配はない』
 スタッフは体のアチコチが不自然にデコボコしているネグリジェ姿で出て来た私を、いぶかしげに見ていたが、
「これで、いきますっ。すっごく寒いんですっ、中にスリップ着ましたっ!」
 という、鬼気せまる迫力に押されたのか(哀れに見えたのか?)、
「わっ、わかりました、じゃ、これでいきましょう」
 ということになった。
 そのあと、妙に着膨れしたネグリジェ姿でひとりワルツを不気味に踊り(いつまでもリズムがとれないのでディレクターは、トライアングルで一、二、三、とリードする係までさせられていた)、そしてなぜかトランプを口にくわえて上目遣いをしたりして、最後には例のソファに倒れ込み、撮影は終了した。
 後日、飲んでる席でふと口を滑らせたせいで、その『女の円舞曲』をかけてみようということになり、私は出来上がったカラオケビデオを初めて見た。
 自分で大人っぽく化粧したつもりの顔は狸みたいだったし、ネグリジェはやっぱりボコボコしていて、おまけにひとりで踊るワルツは狂女のそれだった。
 友人たちは、お腹をよじらせて大笑いしていた。
 だが、ディレクターの狙いがそこにあったはずはなく、案の定その会社の仕事はそれから一本も、私の所には来なかったのである。


新幹線尻丸出し事件

 長い人生の中には、誰にでも穴があったら入りたいような、思い出すのも恥ずかしい出来事のひとつやふたつあるものだ(私には、百個ぐらいありそうな気もするが)。
 その中のひとつを、恥を忍んでお話ししよう。
 それは、アニメビデオのイベントに出演するために、大阪へ行った帰りの新幹線ひかり号の中で起こった。
 名古屋を過ぎて、あとは東京までノンストップで二時間弱、『今夜中には、家に着けるなあ』なんてことを考えつつ、さっきからずっと行きそびれていたトイレへ行こうと私は席を立った。
 トイレのある連結部の通路の所に来ると、「松井さんっ」と前の方から私を呼ぶ声がした。見ると、若い男の子が立っている。この人なつっこい笑顔には見覚えがあった。
「あぁ、たしか、今日イベント会場にいらしてましたよね」
「えっ、覚えててくれたんですかあ、感激だなあ。僕、松井さんのファンなんです。見送りに来て、つい一緒に新幹線に乗ってしまいました」
 いやはや危ないことを言う。
「でもあなた、東京へ着いても、もう帰りの列車ないんじゃない? どうするの?」
 私はこの衝動的行動力のある少年の今夜の寝床が、心配になって来たのだ。
「いいんです。学校も春休みだし、東京のおばさんの所に泊めてもらえるように電話しましたから」
 彼がにっこり笑って言うので、安心して、
「あっそう、じゃ、気をつけてね(さ、トイレ、トイレ)」と、立ち去ろうとした。
 すると、
「サインをいただけないでしょうか?」
 と色紙を出してきたのだ。それも三枚も。
 私は、『あの~、トイレへ行く途中だったんですけど』と訴えたかったが、グッとこらえて、『わざわざ大阪から追いかけて来てくれたのだから』と自分に言いきかせ、一枚一枚丁寧にサインをした。
 なのに彼は、
「あの、僕の名前と、日付と、ここに座右の銘を書いてもらえませんか?」
 と言うではないか。名前と日付だって今の私には省きたいところだというのに、
「ザァユウノメイ?」
「トイレ」の三文字しか頭に浮かばなくなっていた私は、そこに「トイレに行かせて!」と書きたかったが、それではあんまりなので必死で笑顔を作り、「ガッツ!!」と記した。
 すでに限界にまで達していたのだが、彼が立っているすぐ後ろのトイレには、なんとなく入りにくい気がして、私は二両先のトイレへ小走りで駆け出した。
『よかったあ、空いてる』。ドアを閉めて用をすませ、ホッとしたのもつかの間、私が立ち上がろうとすると、
「ガチャッ」
 とドアの開く音が後ろでした。
「ん?」と振り向くと、一瞬、慌てたような男の人影が見えて、ドアがまた「ガチャッ」と音をたてて閉まった。その間、わずか数秒の出来事だった。
「どっ、どういうこと?!」
 身支度を整えてから、気を落ち着かせてよく見ると……。
 あのとき慌てていた私は、こともあろうに! ドアの鍵を掛けずにトイレへ入っていたのだ。
 そして次に来た男の人が、それと知らずにドアを開けて、あとは……。もう考えるのもいやだった。
 とにかく「誰かが後ろから私のお尻を見たっ!」というのは、絶対的に確かなことだった。
 私はトイレの中で考えた。
『もし、今の男の人がさっきのファンの男の子だったら?! いやっ、いくらなんでも、それでは運が悪すぎる』『ちょっと待てよ。今、私が出て行って、ドアを開けた男の人が、まだ前に立っていたら? ……そうだっ、あと五分はここにいよう。そうしたらその人も諦(あきら)めて、他の車両のトイレへ行くに違いない』
 ……………トイレの中で五分が経過した。私の頭には、またさっきとは違う、恐ろしい考えが浮かんできた。
『私の顔は後ろ向きだったから、きっとよく見えてはいないはずだ。それはよしとしても……、この服っ、この服は目に焼き付くほど、派手だ……』
 私の服は、イベントの衣装として着ていた、エメラルドグリーンの色鮮やかなスーツだったのだ。
『まずいっ、この色は覚えられているに違いない』
 私が乗客の通路を通ったときに、
「あっ、トイレで見たエメラルドグリーンの女だぁ!」
 とその人が言い出さないとも限らない。そして、団体客のひとりで、
「さっき話しただろっ。アイツだよ、アイツ」
 なんて指をさされでもしたら……。「クスックスックスッ」と車内に広がる、笑いのさざ波……。
 私の妄想は膨らんでいった。
 その間、約三十分。
 さすがに私も『いつまでもここにいられるわけじゃない』と観念して、スーツの上着を脱ぎ、髪で顔を隠し、少しでも「別人」に見えるようにして外へ出たのだった。
 なるべく目立たないようにコソコソ歩いて自分の座席へ向かうわずかの距離が、私にはやたらと長く感じられた。
 しかし想像していたことは何ひとつ起こらず、ホッとして席に座り込むとマネージャーが、のんきに聞いてきた。
「ずいぶん遅かったねぇ、もう着いちゃうよぉ。何かあったの?」
 疲れきった私には、
「べつに」
 と答える気力が残されているのみだった。




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