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昭和18年 新兵教育 【1】

戦局まさに激化せし時、昭和18年4月20日。

桜花爛漫と咲き、新緑の中に小鳥さえづる好季節であった。老いたる者、若き者、男女問わず、死力を尽くして各持ち場を守らねばならぬ時局でありました。
私は17歳にて香焼島川南造船所※に徴用され勤務す。
肉体的あるいは精神的にも初めて体験する苦労は、実にしのび難き日々の連続でした。何よりも空腹に耐えることであった。

いかなる苦難に直面しようとも、ますます愛国心に燃え、18歳にて海軍志願に踏み切る。
歓呼の声に送られ元気ハツラツと奈留島※を出発するにあたり、希望がかなえたと嬉しき中に、二度と帰れぬ思い、さらに老いたる父母を残して行く胸中はまさに裂けそうな思いでした。郷土奈留島が霞と化すまで名残を惜しむ。
ふと気付きし時は、長崎が間近に達していた。
いつまでも残した家族の安否は忘れられぬ私だったが、これからの重大な任務を考えると何もかも忘れることに努力す。決して親不孝なわけではなかったが実に残酷な思いでした。届かぬ思いと知りながら、郷土へ向かって心の中でお詫びを叫び続けた。
間もなく波静かな海上を統べるがごとく長崎港に入港。すでに私の心はいっそう海兵団へと馳せていた。すぐに汽車にて佐世保に向かい3時間の旅もつかの間、佐世保駅ホームにすべり込む。ホームに降り立った時はいつしか郷里のことを忘れ、案ずるゆとりはなかった。すぐに旅館に落ち着くも、厳しい軍隊生活が待っている。まったく未知の世界に飛び込む前夜である。
突然面会の人ありて2階の階段を小走りに降りてみると、下士官※が待っていた。
「Fですか?」声をかけられ、少し身の引き締まる思いで返事をすると色々話しかけて下さいました。
勇兄の遺骨を持って来ていただいた人でした。姓がFということで思いがけぬ人がわざわざ旅館まで自分を訪ねて励まして下さったこと、心から感謝し力強く思いました。



香焼島:現在の長崎県香焼町。戦前は造船業や炭坑によって栄えた島で、戦時中は日本軍に対して輸送船を大量生産していた。
奈留島:現在の長崎県五島市奈留町。五島列島を構成する島の一つ。
下士官:士官と兵との間に位置する下級幹部。旧日本海軍では上等兵曹・一等兵曹・二等兵曹などの総称。

昭和18年 新兵教育 【2】

一夜が明けて佐世保を出発、相之浦海兵団※へと向かう。

若き志願兵ばかりで、しかも愛国心に燃え元気なツワモノ同士である。誰の顔にも希望が満ちているようにうかがえた。18歳の私は一番の若年であったが、誰にも負けるものかと心に誓い元気に入団したのである。さぁ未知の世界だ、緊張は隠せない。
早速身体検査が行われ、無事に待望の合格と確定。直に軍服に身をつつみし時、喜びと、初めて味わう軍隊の厳しさと、胸中は複雑でありました。第16分隊第2教班に編成され、いよいよ軍隊教育の第一歩である。分隊長海軍中尉 森田、分隊士海軍兵曹長 手柴、教班長海軍上等兵曹 村上の下で、本格的な教育が始まる。
何事も誰に頼ること断じて許されぬ。3ヶ月の教育で心身ともに鍛え、強き兵隊になること胸に秘め頑張る。経験なき人には到底想像もしがたい別世界でありました。
諺に志願して来る馬呆もいる、という言葉をよく耳にしていたが、私にはどうしてもそうは思えなかった。物事は人によって考え方が色々異なるものです。
希望で来たためか日増しに厳しくなる教育課程は実に想像を絶する苦しみばかりであったが、その過程の中で面白みを感じ、精神的にはよほど楽でありました。若者の良き修養の場所であった。教育中は苦しみに耐えきれず逃亡する人も多数いたが、実に悲しいことでした。
教育中の苦しみを挙げるなら数限りなきため、2、3挙げてみよう。
特に苦しい思いをしたのはタンテー教練(ボート)でした。競走で一位になれば幸せであったが、二位以下は全体責任の罰則を受ける。誰もが罰則を受けたくないがために、肉体的にも精神的にも限界に達するほど力走するのであった。無事に教練を終え食卓につく時こそ唯一の楽しみであった。
1教班16名で、15教班にて1分隊をなす。当番によって大きなテーブルに食事が用意され、普通ならば空腹を舌鼓しながら満たすのであるが、罰を終えねば食事にありつけぬことは確実であった。
罰則には色々あり何をやらされるのかはわからない。
「全員テーブルを上にささえ!」の号令で、食事が用意されたままのテーブルを頭上高くに差し上げる。両隣の分隊も我らと同様である。もし一人でも気を緩め、力を抜こうものなら、その教班の食事は一瞬にして崩壊することは誰もが十分承知のことである。
如何なることでも落伍することは許されない。止めの号令があるまで必死で頑張る。少し残酷に思えるかもしれぬが、どんな罰則にも団結力を養う要素を含み、残酷でないことに気付く。
次に野外演習である。完全武装しての実戦さながらの演習にくじけてはならぬ。これまで体験した苦しみを全過程に活用し全力を注ぐ。
また、装砲教練(大砲)も忘れられぬ。苦しみを乗り越えて実施部隊へ配属の折は、必ず砲術と希望に燃える。

やがて新兵教育卒業も間近に迫る。
すでに過去の反省もできるようになっておりました。


※相之浦海兵団:当時、横須賀、呉、佐世保、舞鶴にそれぞれ海軍の新兵教育を行う海兵団が置かれていた。佐世保ではこの相之浦海兵団が新兵教育の場所となった。

昭和18年 新兵教育 【3】

短き3ヶ月間の教育は実に苦しかったが、分隊長始め、分隊士、ならびに教班長ともども涙を流す教育姿がいたましく思えてならなかった。団結心を養成し強き兵隊を戦場に送りだす場であり、私なりに感謝の気持ちを得たことは幸せでした。でも他人の気持ちを知る由もなく。
一日の日課を終えて吊床につく時は安堵の時間である。
緊張の連続で心身ともにヘトヘトに疲れた体を休め、何事もなかったかの如くシーンと静まりし頃、消灯ラッパが鳴り響く。深い眠りにつく者、また一日の反省にふける者、あるいは郷里を思い浮かべる者、様々に時間は過ぎたであろう。私にはラッパの音はどうしても郷里を案じさせる様なやさしい音色に聞こえてならなかった。

もう一度両親に会いたい。

色々と郷里を案ずる間に深い眠りにつく。眠りはつかの間のごとく起床ラッパで跳ね起きる。
起床ラッパは消灯ラッパと対称的で、「今日も一日元気で頑張れよ」と元気づけられるような音に身を引き締め行動に移るのでありました。苦しい体験こそ必ずや実践において役立つことは疑いの余地もなく、自覚して頑張ったのであります。

教育期間中の楽しい思い出はあまりないが、長く記憶に残るのは第一回の佐世保市内外出である。旅した経験が少ない両親が我が身もいとわず、ご馳走をもって矢岳練兵場に面会に来て待っていてくれた時の嬉しさは何にも代えがたき思いでありました。
思いがけぬ再会であった。たとえ短い数時間ではあっても、厳しい生活の中から解放され、両親と膝を交え、また親友にもご馳走を勧め、楽しいひと時を過ごしたのである。二度と会えぬ思いだった両親に再会できた喜びを噛みしめながら帰団の途につく。

すでに新兵教育卒業は数日後に迫っていたが、配属部隊をまだ知らされていなかった。
一線部隊に配属され如何なる苦難に体当たりしようと耐え得る気力と自信を身につけた時期であった。

昭和18年 新兵教育 【4】

大野ヶ原演習を終えて無事に教育を終了し、最後の外出日であった。
矢岳練兵場にて再度思いがけぬ喜びと出くわすことになる。
良兄が北支※より大村に帰隊していた時であり面会に駆けつけていた。実に夢見たような思いでした。兄も軍人の身でありしため、限られた時間一杯楽しく過ごした。

いよいよ卒業の日を迎え、苦楽を共にした友とも別れ別れに散る日である。
昭和18年7月21日。広大な練兵場には、真新しい軍服に身を包みし水兵、機関兵、整備兵、主計兵の良友がぎっしりと整列し、卒業式が挙行された。
一人ひとり志望を問われ、私は教育中より艦砲※を念願していたため艦隊勤務で砲術を志望したのであるが、決して希望通り配属されるとは考えていなかった。
果たして艦隊勤務か、南方か、北方なのか、それとも内地勤務なのか。まったく不明であった。気の苛立つ中にいよいよ命令下る。

即日、佐世保海兵団4・7分隊へ入隊の名を受く。
互いに別れを惜しみながら相之浦海兵団を退団す。



北支:現在の中国北部。河北・山西・山東・綏遠・チャハルの5省を指す。
艦砲:艦砲または艦載砲。艦船に搭載された火砲のこと。

実施部隊配属  【1】

昭和18年7月21日

同日、心新たに佐世保海兵団4・7分隊へ入隊。戦地に向かう者、戦地より帰団する者、3000名の大きな部隊である。
古い兵隊と接した経験のない私にとって、新兵教育期間中には見られぬ戸惑いばかりである。新兵当時の厳しさはまだまだ序の口というところでした。到底筆では表現できない、前途には計り知れない苦難が待ち構えいることは確実である。決してひるむことなく、どこまでも頑張り抜く決意を誓った。
毎日の訓練も実に厳しい。日課の中に必ず立付が行われていた。立付とは各地の前線へと送り出す編成のことである。私も今日か明日どこへかと待ちかねる思いで友を送り出す見送りの毎日でありました。

この本の内容は以上です。


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