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言わなかったこと

夕方、ぼくが家に帰ると、妹が顔を赤くして、だだをこねているようだった。お母さんが「ほら、お兄ちゃんに貸してもらいなさい」と、クーピーペンシルを妹に貸してやるよう、ぼくに言いつけた。ぼくは「いいよ」と答えて、ランドセルを置き、手を洗っていた。すると後ろに、妹が来て涙声でぼくに言った。
「先生はねえ、クレヨンって言ったんだよ、来週の図工で使うんだよ」

ぼくは、何となく妹の気持ちも、お母さんの気持ちも分かった気がした。多分、妹はクレヨンが欲しいとお母さんににねだって、お母さんはいつものように「お兄ちゃんに借りなさい」と言ったのだ。でも妹にしてみれば、ぼくの12色のクレヨン、折れたり、巻いてある紙がなくなったりしているクレヨンが嫌なのだ。そして、お母さんは30色のクーピーペンシルを使わせたいし、妹はクレヨンと言われたからクレヨン、出来れば新しいクレヨンを持って行きたいのだ。
ぼくは、何となく妹がかわいそうに思えて、小声で「来週までに買ってきてやる」と言ってしまった。妹は、少し遠慮して申し訳なさそうにしていたけれども、すぐに「ご飯だよ」と合図がかかって、ぼくたちは急いで食卓へ行った。

明くる日ぼくは、学校の帰りに文房具屋へ行った。店の中には、12色のクレヨンと、25色のクレヨンがあった。12色のクレヨンでも良かったかも知れないけれど、珍しくも妹にプレゼントをしてやろうという、その時のぼくの気持ちは25色のクレヨンに向かっていた。ぼくのクレヨンは12色だけれども、クーピーペンシルが30色だから、妹が25色のクレヨンを持つことは許せる。そのほうが喜ばれるだろう、ということも分かっていたし。
あいにくその日は、持っているお金が足りなかったので、値段だけ確認して家に帰った。ぼくは、こずかいを集めて勘定して、来週の前日までに2回、ジュースのお金と言って100円、お母さんに貰えば足りることを計算した。妹は、その後ぼくにクレヨンのことを聞かないので、ぼくも言わずにおいてビックリさせてやるつもりでいた。

そして、妹の図工の前日、ぼくはクレヨンのことなど、すっかり忘れていたのだ。ぼくが家に帰ると、「クレヨン借りていい?」と聞きながら、妹は自分のランドセルに、ぼくの使い古しのクレヨンを入れた。「うん、うん」ぼくは、クレヨンのことを思い出して、急に心臓の動きが早くなったりしたけれども、妹は、ぼくが「買ってきてやる」と言ったことを覚えていないようだった。もうすぐ夕食の時間だったけれども、ぼくはあわてて、こずかいを集めて外出した。
本当に、ぼくが「買ってきてやる」と言ったことを妹が忘れているなら、わざわざ買う必要はないのかも知れなかったけれど、実は覚えていて忘れたフリをしているのかも知れない。聞いてみないと分からないことだけれど、聞くことが出来ない。だから買うしかないし、妹が忘れていようと、覚えていようと、25色のクレヨンをプレゼントされたら喜ぶに決まっていた。外は暗くなってしまったけれども、学校近くの文房具屋は、まだ開いていた!

25色のクレヨンを買って、ぼくが家の前まで戻ると、もう夕食の匂いがした。怒られるかも知れないと思ったけれども、妹のためにクレヨンを買いに行った自分を誇りたかったし、怒られる理由はなく、むしろ褒められることだと思った。妹がどんなに喜ぶか、ワクワクしながら家に入った。
玄関で靴を脱いでいると、お父さんが怒鳴った。「何をしているんだ、お前は!」
まさかお父さんが、こんなに早く帰ってきているとは知らなかった。クレヨンのことをお父さんに分かるように説明する自信はなかった。ぼくは「ごめんなさい」と言って、すぐにぼくの机に行った。「手を洗え!」とお父さんが言うのを聞いていたけど、ぼくは聞こえないフリをして、25色のクレヨンを引き出しに隠した。すっかり勢いを失くしたぼくは、妹にそのクレヨンを渡すのを、ある程度ほとぼりが冷めてからにしようと思った。

手を洗って食卓に着くと、お父さんは難しい顔をしていたけれど、妹とお母さんは、二人でなんだか楽しそうにしていた。ぼくが、皆より少し遅れて食べようとすると、「見て!これ!」と、妹がぼくの鼻先にクレヨンの箱を突き出した。思わず顔を引いて、よく箱を見ると、真新しい30色のクレヨンセットだった!
「お前がへそを曲げちゃ困るから、30色のにしといたんだぞ」とお父さんは、わざわざ言った。その言葉のせいかどうかはっきりしないけれども、ぼくは顔が火照ってくるのを他人事のように感じていた。
何か言おうとすると、口が震えるから、ぼくは箸を持った。へそを曲げないように頑張ってご飯を食べた。茶碗をもつと手が震えるので、左手を使わずに食べた。目が涙っぽくなってしまって、見られたくなかったから下を向いて食べた。恥ずかしいのか悔しいのか、よく分からなかったけれども、耳がすごく熱くなった。

妹が、ぼくに気を使って「お兄ちゃんも使っていいんだよ」と言ったから、顔を上げて妹を見ようとしたけど、「まあ、気を使って!」とお母さんが笑いながら言ったから、ぼくは急に意地悪な気分になった。
「ごちそうさま!」ぼくは、妹の30色のクレヨンを奪って、床に新聞広告を広げて「試し書きしよう」と妹を誘った。妹はあわててついて来てぼくの正面にしゃがんだ。ぼくは、やみくもに落書きを始めた。たくさん塗りつぶして、その上に違う色を重ねて、また違う色を重ねて、だんだん汚い色になっていくことを妹に教えてやった。一度にたくさん塗るには、巻いてある紙をはがしてクレヨンを横たえて、黒板消しのようにこすれば早いことを教えてやった。あんまり力を入れすぎると、簡単に折れてしまうことを何度も何度も教えてやった。
そのうち妹は泣いてしまったけれど、ぼくにはそれが、当たり前のように思えた。その直後、ぼくはお父さんに張り倒された。そしてぼくは、泣いた。
泣いたと言うより、近所じゅうに聞こえるような精一杯の大きな声で喚いたのだった。狂った人を真似て。狂ってしまおうと思って。

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