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街の天使

 その日、明は二人の客を取ったが、一人目の客から一万五千円をもらっただけで終わった。それとトランクス一枚が減った。

 二人目の客だったその老人は、下着、服、靴、靴下、鞄といった、明が身に着けている物だけにしか興味を示さなかった。

 ホテルのベッドの上に正座した老人は、裸になりなさいと言っておきながら、明には目をくれずに、明が脱いでいく物を次々と手に取り、シーツの上に丁寧に並べていった後、断るような目線をちらりと明に送ってきた。

 明がその視線を無表情に受け止めると、今度は大事そうにまた一つ一つ手に取り、表面を撫でたり、裏返してみたり、鼻に近づけるといった動作をした。明は裸のままベッド脇に立ち、シーツの上に座り込んでいる老人の様子を斜め上から眺めていた。ぼーっと突っ立っている自分が馬鹿みたいだと思った。

 明の裸体など、その老人にとってはどうでもいい様子だった。明の存在を半ば無視し、明が身に着けていた物だけに執着している。明は身をかがめて、ジーンズの腿のあたりの匂いを嗅いでいる老人の耳元でささやいた。

「どうですか」

「いい匂いだ」

「そうスか」

「うん」

「あげましょうか」

「このジーパンを?」

「別に構わないスよ」

「いくらで」

「新品が買えるくらいで」

「これ、もっとはき古せばいいのに」

「トランクスもいいっスよ。三千円でどうですか」

「こういうものは買うより、盗んだ方がいい」

 明はどきりとした。目の前にいる温厚そうな老人の口から出る言葉とは思えなかった。

「そうスか」

「うちに来れば見せてやるよ」と言って、老人は薄い笑みを浮かべた。

「たくさんあるんですか」

「三百点以上」

「点、ですか」

「警察ではそう数えるよ」

 このじいさん、下着泥棒でもして捕まったことがあるのか。明は、老人に興味を持った。

「だいぶ処分したからな。前はもっとあったよ」

「で、きょうはどうしましょうか」

 そう言いながら、床屋じゃあるまいし――と明はため息を飲み込んだ。

 こちらがリードしなければならない客もいる。特殊な趣味やこだわりを持った客には戸惑う。六十代なのか七十代なのか、それ以上なのかは知らないが、このじいさんは何がしたいんだろう――。客が何を求めるかを、相手の身になって考えてやらなければならない。そう思うと、気力がなえた。面倒だった。

「一人でやるところを見ますか」

 以前、それだけで満足する客がいた。部屋に入ってからサングラスをかけ、花粉アレルギー症用みたいな大きなマスクをしてバスルームに入り、ドアを細めに開けて、ベッドの上にいる明の動作を覗き見ていた。

 夕方のラッシュアワーに山手線に乗って痴漢をさせてくれ。そんな要求を口にした客もいたが、明は断った。これを着なさいと、相手が学生服をボストンバッグから取り出したときに、急に嫌気がさした。その客には、明と同様に路上や公園で客をとっているタツルを紹介した。

「何か、やってた?」

「スポーツですか? サッカーを少々」

「なるほど」と、言って老人は明の足を見た。

 生まれつき腿が太い明はいつもその嘘をつく。相手はたいてい、やっぱり――とか言って納得する。実際には、帰宅部だった。水泳と答える場合もある。ただの鳩胸と筋肉との区別がつかない者が多い。

「煙草吸うかい?」

 明はゆっくりと首を左右に振った。

 老人は、端っこに手提げのループがついた大きめの鞄を開けた。その鞄は、昭和を設定にしたテレビドラマに出てくる借金取りを連想させた。妙に膨らんでいる。中身が気になった。明の思いを察したのか、鞄の口を自分自身のほうに向けて、すばやく中からキャビンマイルドを取り出し、ズボンのポケットからライターを出した。

 

「風呂に入っておいで」と言われた明は、財布だけタオルにくるんでバスルームに入った。客の中には、体を洗わせないまま相手をさせる者もいる。匂いが好きそうな老人が、風呂に入るように言ったのが気になった。さっきの警察の話も気掛かりだ。明は大急ぎでシャワーを浴びてバスルームから出た。

 老人への警戒心もあったが、客との時間は早く終わるに越したことはない。

「ずいぶん早かったね。ゆっくりで、よかったのに」

 老人は不満げな顔をしている。ベッドの上には、明の身に着けていた物が、見た目にはさきほどと変わらない位置に並んでいる。

「わたしがいいって言うまで、風呂に入っていてくれないか。ちゃんと、お湯を張って浸かりなさい」

「はあ?」

「見ていられると、落ち着かないんだ」

 本気でいらついているのか、声がかすかに震えている。

「わっかりました」

 逆らっても仕方ない。年に免じて、おとなしく言うことをきくことにする。今度は念のため、鞄だけをバスルーム脇の脱衣かごに入れ、ドアを半開きにし、かごを見えるようにしておく。

 明自身もそうだが、鞄の中をやたら調べたがる者がいる。明が客をとり始めたころ、シャワーを浴びてくると、「君って、本当に十九? もっと若いでしょう。職業柄、そのへんは敏感なんだ」と、自慢げにカマをかけてきた自称予備校講師がいた。その男がバスルームに入っているうちに、ベッドの下に男が隠していた財布の中を覗いた。社員証から、本当は警備会社の従業員だと分かった。

 蛇口の湯を止める。バスルームの換気扇が低い音を立てて回っている。老人の吸う煙草の煙が漂ってくる。明は湯船に足を入れ、腰をかがめた。久しぶりに首まで湯に浸かる。 眠気が襲ってくる。

 

     *

 

 明が小学五年生だったときのことだ。

 当時住んでいた町で中学生や高校生たちの学生鞄や体育用の服を入れるスポーツバッグが盗まれることが続いていた。大抵は書店かゲームセンターで鞄を店の前に置き、目を離している間にとられてしまうらしかった。それが決まって男子生徒のものだった。

 いったん学校から家に帰った後、自転車に乗って近所の商店街を流すのが、明の楽しみの一つだった。買い物途中の人びとや、下校の児童や生徒たちを巧みに避けながら、通りや路地の端から端を出来るだけ速いスピードで抜けて行く。それが楽しくて仕方なかった。

 駅からほぼ放射状に広がる幾筋かの商店街のうち、嫌な記憶のある通りが一本あった。その町に引っ越して来たばかりのころ、その通りのパチンコ屋の前で、高齢の女性と一緒に歩いていた幼児を自転車で引っ掛けたことがあった。

 道の左側を背の低い老女と手をつないで、てくてく歩いていたその子が、握った手を離さず腕をいきなりピンと伸ばし、体を右に傾けるのが見えた。ぶつかると思い、何とかハンドルを右に切ったが、ペダルに乗せた左足がその子の肩に触れ、二人の前に進み出たときに後ろでギャーと泣き叫ぶ声が聞こえた。

 片足を地面に着けたまま自転車を止めて振り返ってみると、黄色のセーターを着たその子が真っ赤な顔をして泣いている。男の子か女の子かは分からない。柔らかそうな耳たぶだけが妙に白く清潔そうに見えた。周りの人たちが一斉にこっちを見ている気がした。数秒間、迷った記憶がある。そのまま逃げた。

「おい、止まらんか」と、大人の男の声がした。

 以来、その通りを自転車で抜けるさいには、いつも緊張した。あのときの自分を目撃していた人が、辺りにいるのではないか。突然目の前に大人が現れて通せん坊をする。ちょっと降りなさい――と呼び止められる。周りを人びとが取り囲む。

 毎晩、布団に入り寝付く前のとりとめのない空想の中に、幼児を自転車で引っかけた場面と、通りで大人たちに行く先をさえぎられる場面が、その後たびたび現れた。夢に見ることさえあった。どういうわけか、その場面を思い起こすと必ず勃起した。

 その通りには、パチンコ屋の二軒先にコンビニがあった。店員がうるさくないそのコンビニでは、比較的容易に雑誌の立ち読みができた。夕方になると決まって、ガラス張りの店の外には、中学生や高校生の鞄やスポーツバッグが固まって置かれていた。万引き防止のために、周辺の学校の生徒たちには持ち物を店の軒下に置かせる。商店街で、そんな暗黙か公然のルールがあったのかもしれない。

 怖いと思いながらも、その通りに行くことが快感になっていた。そのため、その日も、びくびくしつつ自転車で通りを流していた。例の自転車事件から、それほど日が経ってはいなかった。

 パチンコ屋を無事通り過ぎると、コンビニの前に人垣が出来ていた。それを見て明がとっさに頭に浮かべたのは、自分が起こしたあの自転車事件だった。一瞬引き返そうとしたが、好奇心には逆らえず、人だかりの横を自転車でゆっくり通り過ぎた。

「何やってんだ、てめえは」

「起きろよ」

「前にやったのも、おまえだろ」

 低音だがまだ子供っぽく聞こえる、中学生くらいの複数の声が聞こえた。

 取り囲んでいるのは大人の男が半分、詰め襟姿の生徒が半分だった。さらにその周りにセーラー服の生徒や大人の女性もいる。ガラス張りのコンビニ店内からも、何人かが外を覗いている。明は、いったん自転車を止めた。サドルに腰掛けたまま、一方の足を地面に着け、もう片方をブラブラさせ、頭をかがめて人垣の下に目をやった。

 いくつもの足の間から、男が両膝を抱えてうずくまっているのが見えた。そばには大きな紙袋が口を開けて転がっている。何やら自分がうずくまって罵倒されているような、映画か夢の一場面でも見ているような気がして、明はその光景に見とれていた。

 結局その男は、通報を受けた警察官に連れて行かれ、鞄泥棒が捕まったというニュースは、しばらくの間その町の話題となった。逮捕に助力した中学三年の男子生徒が表彰されたという、もっともらしい噂も聞いた。

 小学生だった明は、その男がなぜ男子生徒の鞄ばかりを盗んでいたのか、いろいろ想像してみた。その事件について語る町の人びとの口調は、ためらいがちで歯切れが悪かった。変態とか、頭がおかしいとか、変質者とかいう言葉を盛んに聞いた。そうした言葉を耳にするたびに明は、どきどきした。そんな自分の感情を持て余した。

 場面が飛び、小学校六年生のときに、デパートのトイレで小便をしているところを隣の便器に来た男に覗き込まれ、性的に興奮したことが頭に浮かんだ。その男に対していだいた気持ちと、あの通りでいくつもの足の間から垣間見た、両膝を抱えてうずくまっている男に対して覚えた感情とが重なる。どこか似ている。そんな気がした。

「もういい」

 声がした。

 浴槽の中で眠り込み、夢を見ていた自分に明は気づいた。

「もういい」

 老人が呼んでいる。明は、急いでバスタオルを使い浴室を出た。ベッドの上で、さきほどとほぼ同じ位置に並べられている衣服を拾い上げる。

「これでいいんですか」

 湯にのぼせた明は、ふらつきながら服を着る。

「まだ何かしてもらいたいの? 年寄りはふつう、もっとしつこい?」

「とんでもないっス」

 本心だった。こんな長い間、湯に浸からせておいて、とんでもないぜ。それにしても、このじいさんは何をしていたのだろう。下着やジーンズに何か付いていないか、気が気でない。「メールチェックさせてください」と、一言断る。鞄の中のケータイを出し入れするさいに、ほかの中身に目を走らせた。居眠りをしている間に、鞄を開けられた可能性も否定できない。財布を覗き、前もって老人からもらってある金額を確かめる。

「金、返します」

 相手が気を悪くするかもしれないと思いながらも、明は半分気まぐれで言った。

「どうして? ビジネスだろう? 取っておきなさい」

「おれ、何にもしてないっス。久しぶりに、湯に浸かっただけです――」

 

 本当かどうかは知らないが、初めて高校生とお茶を飲んだと言って感激した客から、喫茶店に付き合っただけで一万円ももらった、と知り合いの高校一年生が言っていた。ベンツに乗せてもらいドライブをしただけで三万円を渡された、という嘘っぽい話を別の高校生から聞いたこともある。そういう客を、この街の天使と呼ぶそうだ。そんな話を明は思い出した。

 このじいさんは、天使とは程遠い。きっと年金暮らしでもしてるんだ――。明は想像する。老人にホテル代だけは出させても、商売として金を取る気にはなれなかった。

 結局老人は明が返すと言った金を受け取った。その後、老人がご馳走したいと言うので、明は一緒にラーメン屋へ入った。食べながら明は、老人と雑談をした。

「名前は何て言うの? 源氏名でいいけど」

「アキラです」

「きっと変わった漢字を当てるんだろうね。今の子どもたちの名前は、難しくて読めない」

「明るいの明です。本名です」

「ずいぶん素直な名前だなあ」

 ものを食べるときの老人は、幸せそうでいい顔をしていると、明は思った。店を出る間際に、明はレジの脇にあるトイレに入って、急いでトランクスを脱ぎ、丸めてジーンズの後ろのポケットに突っ込んだ。

 老人は例の借金取りみたいな鞄のほかに、伊勢丹の手提げの紙袋を持っていた。明はその紙袋を代わりに持ってやりながら、老人を送って行った。駅で老人が切符を買っている間に、明はジーンズの後ろに手をやった。すかさず紙袋に突っ込む。

 老人とは、地下鉄の改札口の前で別れた。


(了)

【※実は、この『街の天使』は、本書収録の『たぶん面白半分』の兄弟なのです。すばる文学賞(集英社主催)の最終候補5作に残って落選した、『ストリート・キッズ』という作品を、ばらばらにして出来た短編のうちの2作です。】

 







爪を切る

 今、私はそわそわしている。ある日が近づいているからだ。

 私は2008年用の手帳をメモ帳代わりに使っている。最初のほうのページに、2008年つまり去年と2009年の年間カレンダーが見開きで載っている。カレンダーには、黒と青と赤のポールペンで色分けした、●や○や/やチェックマークが施されている日が各月にいくつかある。

 髪をカットした日。医院に行った日。病院に行った日。補聴器の電池を交換した日。補聴器の調整をしてもらいにいった日。自室の掃除をした日。母の寝室を掃除した日。銀行で預金を下ろした日。そういった日に印がついているのだ。その中に、赤で○をした日がある。母の足の爪を切った日だ。

 

 母は足が悪い。腰も悪い。内臓もよくない。母の介護は、わけあって同居している人と私の2人が役割を分担して行っている。母は10年ほど前から、正座ができない状態になっている。歩行の際には、手すりを使うか、誰が手を握って一緒に歩いてやる必要がある。

 家では付き添いながらなるべく歩くようにさせている。スーパーでは手押し式のカートを使わせて、足を動かす訓練の代用もしている。ショッピングセンターや公共の施設などでは事故を避けるために、そうした場所に備えてある車椅子を利用させ絶対に歩かせない。転倒が何よりも怖いからだ。

 あの年で転倒し骨折をすれば、手術は無理だ。やむなく寝たきり状態になるだろう。同時に、認知症が急速に進行するにちがいない。そのような事態だけは、絶対に避けたい。

 母は生後間もなく小児麻痺にかかったらしい。医師の措置が功を奏したのか、奇跡的に歩けるようになった。だが、片足を軽く引くという後遺症と付き合っていかなければならない身になった。もっと重い後遺症をかかえている人たちがたくさんいるのだから、自分は本当に運がよかった。母は、よくそう言う。

 私は母子家庭で育った。幼かったころには、どこかへ出掛けるごとに母の自転車の荷台にしがみ付いていた。ある時、母の自転車の乗り方、正確に言えば最初に勢いをつけて自転車のサドルにまたがるまでの様子がほかの人たちと少し違っているのに気が付いたことを覚えている。

 片足が曲がらないのだ。その悪いほうの足をかばうために、アンバランスな乗り方を余儀なくされていたのだった。あれっ、変だな。そう思ったが、口には出さなかった。

 

 今、私は手帳のカレンダーを見ている。右ページの下にある11月19日を示す「19」という数字が、赤いボールペンで丸く囲まれている。つまり、12月19日前後に母の足の爪を切らなければないということになる。カレンダーを見ると、12月19日は今週の土曜日だ。

 誕生日。

 母が私を産んでくれた日――。

 

 私の気分は落ち着かない。はっきり言えば、嫌な気持ちだ。

 現在、母は椅子には座れても、床に腰を下ろした際には正座ができないために、両足を投げ出す格好になる。膝が思うように曲がらないので、足に手が届かない。当然のことながら、自分で自分の足の爪を切るのは無理だ。

 母の足の爪は、角質化してかなり厚くなっている。白癬というみずむしの一種が爪に入り込んで起こっているものらしい。飲み薬による治療法もあるそうだが、現在毎食後に5錠ほどの薬をやっとの思いで白湯と一緒に飲み込んでいる年寄りに、これ以上薬を飲ませるのも酷だ。みずむしは、別に命にかかわる病気でもない。

 そんなわけで、私が月に1度、2種類の爪切りとやすりを使って手入れしている。これが物理的に、そして精神的にかなりの負担になる。

 まず、腰が悪い私にとって、相当無理な姿勢を取らなければならなくなる。この時期には、母の足を冷やさないように、部屋を暖めなければならない。母の足は小児麻痺の後遺症で爪が一本一本いびつな形をしているために、角質化した部分を丁寧に削り切り磨くとなると1時間近くを要する作業になる。

 私は母と対面したり、一緒にいるのが苦手だ。沈黙の1時間がしんどくてたまらない。しかも、足の爪を切るたびに、なぜか、いつも同じ重苦しい記憶がよみがえってくる。断片的なお決まりの記憶が、次々と頭の中を駆けめぐるのだ。それだけで、精神的に参ってしまう。

 

 そんなわけで、カレンダーを見てその日を意識するようになると、居ても立っても居られない気持ちに襲われる。早く済ませてしまおうと思い、予定日の数日前にやってしまうこともある。嫌だなと思いながら、予定日を過ぎてしまうこともある。頓服で飲むように指示されている精神安定剤を服用するという手もあるが、薬に弱い私の場合には、眠気のために手元がくるう可能性があり危険だ。

 こんなことで悩んでいる気持ちは、ほかの人にはなかなか理解してもらえないと思う。悩みを打ち明けても、この親不孝者め、と叱りつけられるのが落ちだ。

 いつも昼食後の比較的元気な時に、えいっと気合を入れてやるのだが、きょうはぐずぐずしているうちに時機を失してしまった。

 ああ、嫌だな。

 今目をつむれば、一瞬のうちに1週間ほどの時が過ぎ去っている――。年甲斐もなく、そんな荒唐無稽な空想を、さきほどから何度も心に描いている。

 
(了)





プチプチ  第一話  夏の制服

 午前十時を過ぎて、佐久間秀行はようやく二階へ上がる決心をした。階段を上りきると、廊下を挟んで二つのドアがある。左側のドアの脇に、固定電話の子機が充電器に収めて置かれている。二階にはこの数年間足を踏み入れたことがない。二階は秀行のテリトリーではなくなっている。秀行は左側のドアの前に立った。
 ドアを開けるなり、熱せられた空気の匂いに不意打ちされた。南に面した部屋だ。建材のいがらっぽい匂いに混じって、乾燥した草に似た匂いが漂っている。懐かしさに包まれる。

 自分の体臭が、世界中を不快にしているのではないか――。そう悩んでいたころが思い出された。二十年以上も前のことだ。中学生だった当時は、下ろしたての靴下の匂いでさえ、気になって仕方がなかった。男の匂いを発し始めた自分が存在することが許せなかった。


 昨夜、妻の有佳は午後十一時に帰宅した。息子の啓一がまだ帰っていないと聞いても、別段心配したふうではなかった。
「友達の家にでも泊まるつもりなんでしょ。前にも、そんなことがあったじゃない」
「あの時はちゃんと電話があっただろ」
「それが、小学生だったころと中学生になった今の違いよ」
「何人かの友達の家に電話をして、あたってみたほうがいいんじゃないのか?」
「大丈夫。あれくらいの年になると、たまには親に無断で家を空けたくなるものよ。まして明日は月曜日でしょ。ブルー・マンデー。わたしだって、十代のころは日曜の晩になるたびに家出の決心をしていた。実行はしなかったけどね」
「でも、電話をして来ないのは変だ。茉莉も何も聞いていないって言っているし――」
「だから、これは彼がわたしたちに向けて送ってきたメッセージなのよ」
 秀行は鳥肌が立った。妻が息子の啓一を指すときに口にする「彼」という言葉に、なぜか近親相姦じみた響きを覚える。
「メッセージって、どんな?」
「反抗に決まっているじゃない。あなたはお母さん思いのいい子だったから、そんなことはなかったかもしれないけど、うちの兄や弟たちはしょっちゅう家出や無断外泊をしていた」
 啓一が朝になっても帰宅していなかったり、それまでに連絡をして来なかったら、その時点で具体的な対策を講じればいい。じたばたしても仕方ない。それが有佳の意見だった。事故や事件という言葉が頭に浮かばないのだろうか――。そう思いながらも、秀行は反論しなかった。さらに別のある可能性を心配する思いが頭にあったが、そのことについて話す気はなかった。
 思っていることは、できるだけ口にしない。それが、結婚してからの秀行が徐々に身に付けていった習慣の一つだった。何を言っても意見が合わないという、あきらめがある。妻に対してだけではない。人間は分かり合えないという絶望だった。
 結局、啓一は夜が明けても帰っておらず、連絡もなかった。そろそろ携帯電話を許可するか――。そんな考えが秀行の脳裏をよぎった。
 今朝、出勤間際の有佳が言った。
「あなた、きょうは夜勤だったよね。昼間にちょっと彼の部屋を調べてみてくれる? まさか置手紙とか遺書なんてないと思うけど、念のため。学校への連絡は、わたしがしておくから」
 置手紙、遺書――。どきっとするような言葉を口にしながら笑みを浮かべている有佳の顔を、秀行は見つめた。その時になって初めて、自分が自殺の可能性を排除していたことに気づいた。
 有佳の兄の一人が首つり自殺をしている。その話を有佳から聞いたのは、二人が結婚を誓い合った日の夜だった。「母の父も同じ死に方をしているの。そういう家系なのかもしれない」。ベッドの中で、背を向けた格好で有佳は言った。そのとき有佳を振り向かせ、思い切り抱きしめたことが思い出された。


 書き置き――。大きな身震いを一つしてから、秀行は息子の部屋の中へと大きく足を踏み入れた。
 じきに啓一が帰って来るかもしれないと思い、ドアは開けたままにしておく。まず窓際にある机の上に目をやった。デジタル式の時計以外に何も置かれていない。ため息が漏れた。手紙のたぐいが置かれていないのを目にして安堵はしたが、何もないことでかえって不安が増すのを感じた。
 一番上の引き出しの取っ手を見つめる。中も見る必要があるのだろうか――。秀行は机から目をそらせて、傍らのベッドに目をやった。きちんと掛けられたベッド・カバーには、腰掛けた跡すらない。
 ベッドの隣の本棚に視線を移す。ここも不自然なほど整然としている。最上段には、ゲームソフトのケースがきれいに並べられている。その下の段に収められた本の背に目を走らせ、本が種類ではなくサイズで分類されていることに気づく。
 部屋全体を見回した。壁にはカレンダーもポスターも学校の行事表さえ張られていない。床には紙くず一つ落ちていない。息子が自分そっくりなのに驚くと同時に、緊張が解ける。部屋に入るなり覚えた懐かしさと既視感の正体はこれだと思った。中学と高校生時代の自分の部屋の雰囲気によく似ている。書棚にある本の並べ方まで同じだ。

 

     *

 

 二年前。秋の祝日のことだった。
 秀行は啓一と茉莉を車に乗せて、郊外に出かけた。その日も、妻の有佳は実家の経営するスーパーへ早朝から働きに出ていた。秀行が十五年勤めた印刷会社を辞め、現在も勤務している倉庫の管理会社に転職して間もないころだった。
 国道沿いのパチンコ店の駐車場に車を入れた。店はショッピングセンターと隣り合っている。子どもたちはショッピングセンターの中にあるゲームセンターへ、秀行はパチンコ店へと別れた。
 玉が出ないのに嫌気がさした秀行は、三十分ほどで店を出た。車に戻り、子どもたちと約束した時刻まで居眠りでもしようかと考えたが、その日の朝刊の折り込み広告に釣り道具店のバーゲンの知らせがあったのを思い出し、ショッピングセンターに入った。
 ゲームセンターの前を通りかかると、出入り口に近いゲーム機に向かってコントローラーを小刻みに揺すっている娘の横顔が目に入った。手前の機械の前に座っているため、体全体が見える。こんなに大きかったかな。スツールに腰掛けた娘の足は、床に届いているどころか、余裕をもって折れ曲げられている。
 秀行はゲームセンターに入り、店内を一周したのち、茉莉の後ろに立った。声を掛けるタイミングを探りながら、娘の背中と機械の画面を見比べているとゲームが終了した。
「啓一はどこ?」
 秀行は身を屈め、娘の耳元で言った。茉莉は驚いた表情で振り返ったが、たちまちしかめ面になった。
「お父さんが見ているからよ」
 機械に負けたことを秀行のせいにしている。
「啓一と一緒じゃないのか?」
「知らない。おじちゃんと、どこかへ行っちゃった」
 茉莉は再び機械に向き直り、ポケットから百円玉を取り出しスロットに滑り込ませた。
「おじちゃんって誰? 知ってる人?」
 次の対戦に熱中し始めた茉莉は返事をしない。秀行はあらためて店内を見回したが、息子の姿はない。
「いいか、お前はここにいろよ。後で迎えに来るから。お金はあるか?」
 秀行は茉莉が握るコントローラーの横に千円札二枚を置いて、ゲームセンターを出た。
 まず廊下のつき当たりにあるトイレを調べた。次にその階の店舗を一つ一つ覗いてみたが、啓一はどこにもいない。
 エスカレーター脇の全館案内図をにらんだ。館内放送で呼び出してもらおうと思い立ったところで、エスカレーターで降りてくる啓一の姿をみとめた。一瞬、啓一は前に立つ二人連れの女性の後ろに隠れるような動作をした。秀行が手を挙げるとつられたように手を挙げてみせた。秀行は無言で息子を迎えた。
「あれっ、茉莉は? ちょっと本屋に行って来るって言っといたんだけど」
 茉莉とは離れるなって、いつも言っているだろう。第一本屋は上の階じゃなくて下じゃないのか。それより、茉莉の言っていた「おじちゃん」って、いったい誰なんだ――。言いたいことが次々と浮かんだが、結局は声には出さずに口の中で転がしただけだった。

 身近に大人の男性がほとんどいない環境で、秀行は育った。母子家庭だった。初めて接した大人の男は学校の教師だった。秀行は男の教師を恐れ嫌悪した。露骨に怖がって避けることはなかったが、恐怖心は男性教師の前での無関心を装った表情や無言という形であらわれた。
 父親となってからは、自分の子どもたちを叱らなければならない状況に直面するごとに、過去の自分が思い出された。すると、叱る気が失せて、言葉が出なくなる。自分は父親の役目を十分に果たしていないという負い目を感じる。
 エスカレーターで降りて来た啓一が、全館案内図の前に立ち、首を心持ち傾げて秀行を直視している。嘘をついている時の妻と同じ目をしていると秀行は思う。二人は目を合わせていたが、秀行のほうが目をそらせた。
「帰ろう」と、秀行は言った。
「もう? ぼく、まだやってないゲームがあるのに。さっきは第一小のやつらが機械を占領していて出来なかったんだ――」

 

     *

 

 秀行は机の前にたたずんでいた。引き出しの中を見るかどうかの決心がつかない。開け放したドアに近づいて耳を澄まし、階下の様子をうかがう。秀行の頭に、ある日の記憶がよみがえる。
 啓一らしき人物が見知らぬ男の助手席にいるのを見たのは、三週間前の月曜だった。
 倉庫の警備の仕事は、ほぼ三日置きに夜勤がある。夜勤の日は一時間以上の余裕をもって午後五時ころに家を出て、出勤までの間に買い物や雑用を済ませる。
 その車は、対向車線から近づいて来るところだった。手前に見える信号が黄色から赤に変わったため、秀行はアクセルから足を離しブレーキを踏み掛けた。そのとき、停止するかと思っていた対向車がいきなりスピードを上げ、赤に変わったばかりの信号を無視する形で右側を通り過ぎて行った。
 秀行は確かに見た。
 短い間の出来事だった。その車を運転している男の真剣な表情。助手席にいるキャップを目深に被った人物が、左胸に手をやりシートベルトを緩め、床の物を拾うかのように前傾姿勢をとる姿が目に入った。顔はキャップのひさしで定かには見えなかったが、ジャケットが啓一の持っているものと同じだった。座高や体形までは分からない。小柄な人物だった。女性にも見えないこともなかった。だが、あれは身を隠した動作に間違いないという気がした。
 その日の仕事中に、夕方に見た場面を何度も頭の中で再現しようと努めた。車が猛スピードで通り過ぎなかったとすれば、交差点を挟んで二台の車は向き合う形に停止していたはずだ。
 やばいよ、向こうから来るヴィッツ。親父の車だよ。止まっちゃ駄目――。
 秀行は、そんな言葉まで想像し、心のうちで何度もあの場面を思い返していた。気が動転したせいか、車の車種や色は、ついに思い出せなかった。確かに見たはずの運転者の顔も記憶から消えた。ただ、二年前に、ショッピングセンターのエスカレーターで女性たちの背後に身を隠そうとした息子の姿と、助手席で前に屈んだ人物の姿が重なる。
 あれは啓一だ。いや、思い違いかもしれない――。秀行の心は揺れた。


 あの時に抱いた感情は何だったのだろう。秀行は、机の前に立ちつくしたまま考えた。自分はあの時の感情について考えるのを故意に避けていた、と思い当たる。あれは、子を案じる親心ではない。恐怖だ。恐怖だとすれば、何を恐れているのか。息子の性癖か? そうかもしれない。だが、それだけではない。自分の中にある何かを恐れているのではないか?
 秀行は、最近の息子の行動へと考えを向けた。家にいない時間が増えた。夜勤の日に、何気ないふうを装って様子をうかがっていると、息子は早い時刻に一度帰宅し、着替えてから出掛けることが多くなった。塾に通っているとは、妻から聞いていない。
 啓一の服装や持ち物にも気を配り始めた。以前と変わったような気もすれば、変わらないような気もする。できれば自分の息子や娘の成長や変化に目を向けたくないという、強い抵抗感が自分の中にあるのを感じる。
 家族を放り出して、どこか遠くへ行きたい――。最近、そんな気持ちにとらわれることがある。その時に必ず思い起こすのは、母親と生まれて間もない自分を置き去りにして家を出たという父親の話だ。多額の借金を作って逃げたと聞いている父親の顔を、秀行は知らない。写真を見せられたこともない。

 

     *

 

 止めどもなくさまよう心を振り切って、秀行は一番上の引き出しの取っ手に手をかけた。こんなことはしなくない――。最もなりたくない人間に自分がなっていくのを感じる。もし何かが隠されているとしたら、それは引き出しの中にはないだろうとも思う。秀行は取っ手から手を離した。
 かつての自分が、母親に見られたくないものを隠していた場所が次々と頭に浮かぶ。押入れの奥にしまった段ボール箱、本棚の後ろの隙間、分厚い本の真ん中のページ。そうした場所にしまわれていた雑誌、写真や記事の切り抜きは、大学に入った年に全て処分した。捨てるという儀式をすることで、あの後ろめたく、それでいて甘美な世界とは決別したつもりだった。
 息子の机の上のデジタル時計は、午前十時三十六分を表示している。秀行は机の反対側にあるクローゼットに向かった。はっきりさせよう。逃げ回っていては駄目だ。ひょっとすると、これは今もなお立ち向かわなければならない、自分自身の問題なのかもしれない――。その問題は、かつてのあの儀式で済んだわけではない。
 クローゼットの前まで来たとき、一階から電話のベル音が聞こえ、少し遅れて二階の廊下に置かれた子機が鳴り始めた。いったん部屋を出て、子機を拾い上げる。思った通り、ナンバーディスプレーには有佳の携帯電話の番号が表示されている。その数字を眺める。電話に出る気がしない。自分の携帯電話を居間のテーブルに置きっぱなしにしてきたのに気づく。
 普段の有佳は秀行の携帯電話のほうに掛けてくる。携帯電話に秀行が出ないので、固定電話のほうに掛けてきたに違いない――。秀行は思う。そうしたことが何度かあった。手に持った子機のベルが止んだ。やきもきしている妻の様子が頭に浮かんだが、今は妻と話す気にはなれない。子機を廊下の床にある充電器に収め、秀行は再び息子の部屋に入った。
 ドアのすぐ横の壁に掛かったハンガーに、胸ポケットに校章がプリントされた白の半袖のシャツと、グレーのズボンが吊るされている。夏用の制服だ。グレーの生地に鼻を近づける。乾いた野の草に似た匂いがする。その匂いを嗅ぎながら、自分はもう二階へ上がることはないだろうと秀行は思った。
 人間は分かり合えない。夫婦はもちろん、親子であっても、きょうだいであっても、分かり合えない。でも、相手を分かろうとし、相手を思いやる努力は必要だ。そう秀行は自分に言い聞かせる。
 息子の部屋を探ることはフェアではない。たとえ、分かり合えなくても、いつか話し合う努力だけはしてみよう。父は母とわたしを捨てた。わたしが話し合える年頃になるまで、待ってはくれなかった。わたしは家族を捨てない。顔を見た覚えもない、話をしたこともない父を、わたしは乗り越えなければならない――。

 秀行は、さらに考える。
 物を捨てるという儀式で、葬ったはずの性向について考えるのはよそう。自分の家族を壊したくはない。捨てたつもりのものは、どうしても自分に必要なものではない。ただ、もし啓一にもそうした傾向があるのなら、いつか話し相手になってやりたい。啓一が望むなら。
 きょうは帰ってくるまで待とう。仮眠はとらずに、遅くても午後三時まで待とう。それまでに啓一が帰らなかったら、欠勤すると会社に電話で伝えよう――。
 倉庫管理会社での仕事は気に入っている。夜、ほとんどの人が眠っている静かに流れる時の中で、好きな本が読める。秀行は、きょうの夜勤の合間に読もうと考えている読みさしの小説の筋を思い浮かべようとした。
 再び固定電話が鳴り始めた。廊下に出て子機を拾い上げる。もう、よそう、こんなこと――。受話器をオンにする前に、秀行は後ろ手にドアを閉めた。


(つづく)




 


プチプチ  第二話  煙草のけむり

 スーパーの開店時刻の三十分前までには、店員たちとマネージャーに必要な指示を与え、注意事項を話し終えた。店長をしている弟の剛(たけし)は、きょうも遅刻するつもりでいるらしい。威張り散らしながら、マネージャーよりも実務をこなせない弟の剛の横柄そうな顔を思い出し、佐久間有佳は舌を鳴らした。
「下島さん、あの油の回収については、あくまでもメーカーの責任なんだから、こちらの落ち度と言われないように、お客様への対応にはくれぐれも注意してね。この件で何かあったら、店長には話を通さなくていいから、わたしのケータイにすぐに電話して」
「栄子さん、山下さんのレジが滞(とどこお)ったら、応援してあげてちょうだい。いまいち、あの人、慣れていないから心配なの」
 一番頼りにしている従業員二人に念を押し、「じゃあ、お願いします」と言って頭を下げ、従業員用駐車スペースに向かった。着替える時間が惜しいので、きょうは先週買ったばかりのジャケットとパンツを出勤時から身に着けている。
 ファッションに自信のない有佳は、コーディネートやアクセサリー選びを、行きつけのブティックの店員にすべて任せる。今の格好もアドバイス通りだ。ムーヴの運転席に着いたとき、香水をつけるかどうか迷ったが、結局止めた。


 啓一の通う中学に近づくと、チャイムの音がした。腕時計に目をやる。一時間目が終わった時刻だ。数学を教えている仁平真美には、昨夜電話で事情を話しておいた。
「だったら、今夜から明日の朝にかけては、やっぱり様子を見るしかないんじゃない?」
 真美はそう言い、啓一が朝になっても家に帰っていなかったり、学校にも来ていないようなら、まず二人で話し合おうと提案した。
「いきなり担任に聞くのも変だから、いちおう、啓一君の最近の行動については、それとなく別の同僚に探りを入れておくけど――」
 その言葉を聞き、真美の勤務する中学に啓一を進学させて良かったと、有佳はつくづく思った。
 結局、啓一からは連絡もなく、朝になっても帰って来なかった。いったん帰ってまた外に出た形跡もない。子どもたちが病気の時以外は、息子と娘の部屋がある二階には上がらないようにしている。
「彼、帰ってきたみたい?」と、朝食を食べている娘の茉莉に啓一のことを聞いた。
「知らない」という素っ気ない言葉が返ってきた。
「ドアの開け閉めの音くらいはするでしょうが――」
 自分でも驚くほどの大きな声が出た。茉莉は顔を上げ、トーストとサラダを載せた皿に、わざとフォークを落とした。
「お母さんが自分で部屋を調べてみれば? 第一、アニキの部屋の音なんていちいち気にしていないわよ」
 寝起きで機嫌の悪そうな声が返って来た。茉莉は、その時の気分で、啓一を「お兄ちゃん」、「アニキ」、そして有佳のように「彼」と呼び分ける。夫の秀行は、有佳が息子を「彼」、娘を「彼女」と呼ぶのを嫌がっているようだ。もともと無口で感情を顔に表さず、めったに反論もしない秀行が何を考えているのかは分からないが、雰囲気で分かる。
 玄関の靴箱を覗くと、学校指定の靴二足がそのまま入っていた。茉莉を送り出した直後、有佳は真美の携帯電話の番号を押した。

「――もう一度聞くけど、こういうことって初めてなのね? 了解。実を言うと、今、わたし学校なの。きのうの夜、あなたから電話があったあと、気になってね。あれからすぐに早番の同僚に電話して、けさの早番の選手交代を申し出たわけ」
「本当に? そこまで気を遣ってくれなくてもいいのに」
「未だに独り身のわたくしめは、家庭持ちの同僚にいつもいいようにこき使われる身でもありますので、その点は大丈夫でござる――。きょうの選手交代も、大いに感謝されちゃった。こうやって、普段からポイントを稼いでおくと、いざという時に役立つのよ」
 有佳と仁平真美は、女子大付属で中高一貫の私立女子校の出身だった。有佳はそのままエスカレーター式に女子大に上がり、成績の良かった真美は志望する他大を受験し合格した。女子ばかりの大学に行くのが嫌だと言って、男子のいる大学の理学部に進学した真美が、未だに独身を続けているのが有佳には不思議だった。
 結婚前から、有佳と真美は月に一度は会って食事をしたり、一緒に買い物をしている仲だ。啓一の中学への進学にあたって、今の私立中学に通わせる気になったのも、真美が長年そこで教師をしているからだった。
 夫の秀行は、子どもの教育にはあまり関心はないようで、学校関係の話題で意見を述べたり、口出しをすることは一切ない。そもそも何を考えているか、よく分からない相手と結婚生活を送っている――。有佳はそう思う。とは言うものの、不満はない。自分が理想としている夫婦関係だとすら考える時がある。
 仁平真美が続けて言う。
「――啓一君が、直接学校に来る場合も無きにしも非ずだから、わたし、注意して様子を見ておくつもり。で、もし登校していないようだったら、早番のわたしが、あなたからの電話を受けて、『本日、一年B組の佐久間啓一は病欠。母親から電話有り』って教員室の黒板に書いておくわ。もちろん、担任にも直接伝えておくから」

 

     *

 

 真美が話していた公園はすぐに分かった。学校から早足で五分もかからない場所にある。真美の言う通り、駐車できるくらいのスペースが公園に沿って設けられている。日の当たっていない木陰にムーヴを滑り込ませ、真美を待つ。
 天気はいい。乳児や幼児を連れた母親が、日の当たる滑り台の近くに三組集まって話をしている。公園の向こう側にはコンビニが見える。そちらへ目をやっていた有佳はどきりとした。啓一と同じ制服の生徒たちが三人、通りの角から姿を現し、コンビニのほうへと歩いて行くのが見えた。距離があるためか、そのうちの一人が啓一そっくりに見える。
 髪形と細身の体つきのせいだ。有佳は納得する。よく見れば啓一ではない。制服を身に着け、学校で決められた髪の長さを守っている三人は、遠目には三つ子のようにも感じられる。有佳は体に緊張が走るのを覚えた。無意識のうちに、手のひらに汗をかいている。肩から首にかけて力が入っている。足がすくむ。制服姿の男の子を見ると決まって、昔の嫌な思い出がよみがえる。


 男の子も含めて男は苦手だ――と有佳は思う。兄が二人、弟も二人というきょうだいの中で育った。仲は悪かった。幼いころから一番上の兄だけが自分の味方だった。きれいな顔立ちをしていて、性格も優しかった。ほかの兄弟は父親に似て、粗野で乱暴だった。しかも意地が悪く、有佳は無視されるか、いじめられるかのどちらかだった。殴られる、小突かれる、つねられる、蹴られるなどは、日常茶飯事だった。家事と店の手伝いで多忙な母親は頼りにならなかった。
 有佳が中学三年生のとき、優しい兄が十九歳の誕生日の前日に自殺した。有佳にとっては、悲しさよりも、亡くなった兄に対する怒りのほうがはるかに大きかった。自分も一緒に、あの世へ連れて行ってくれなかったのを恨んだ。兄がいなくなって、有佳は気づいた。自分は、世界で兄以外の男性に対して好意を持ったことがない。愛したこともない――。
 携帯電話が鳴った。液晶には真美の携帯の番号が表示されている。
「ごめん、連絡が遅れて。今、公園?」
「そう。車、ちゃんと停められたわ」
「申し訳ない。もっと早く電話すれば良かったんだけど、二時間目に理科を教えている同僚がきょう休んでいるんだ。自習って手もあるんだけど、そのクラスはちょっと、いや、かなり問題があって、監督者が要るってわけ。で、急きょ、何でも処理屋さんのわたしに白羽の矢が立っちゃった」
「それと関係あるかは知らないけど、公園の北側にあるコンビニに、そっちの中学の制服を着た生徒が三人、今入っていったわよ」
「本当? 珍しいことじゃ全然ないんだけどね。いちおう、後で調べておく。そんなわけで、ごめん。公園には行けそうもないの。それはそうと、啓一君はまだ家に帰っていないの?」
「きょうは、あの人が夜勤だから、今の時間は家にいるの。後で電話してみる。啓一が帰っていれば、ケータイに連絡が入ってくるはずなんだけど」


 出勤前に、有佳は夫の秀行に対し、念のために二階に上がって、啓一の部屋を調べてみてくれと頼んでおいた。覗くだけでなく、中の様子を調べてほしい、場合によっては机の引き出しや、クローゼットの中も見てくれて構わない。そういう意味で言ったつもりだったが、そこまでのニュアンスが秀行に通じたかどうかは不明だ。

 啓一が小学校六年生になった時点で、子どもたちのプライバシーを尊重し、二階には上がらないようにしようという提案をしたのは有佳だった。秀行は、異存はないと答えた。親たちが二階に上がらないというのは、別に家族で膝を交えて決めた規則ではない。だが、今回は例外だ。万が一、事故や事件に巻き込まれたのでなければ、無断で外泊した息子が一方的にルール違反をしたに等しい。有佳はひとりでそう結論付け、自分を納得させた。
 ひょっとして啓一は、今ごろ、家に帰っているのではないか。有佳は想像する。あの人のことだ、息子が朝帰りをしても、叱りつけるわけでもなく見て見ぬふりをするに決まっている。啓一は啓一で、冷蔵庫を漁って何か食べる物を見つけ出し、キッチンのテーブルでむさぼるように食べているのではないか。常に開け放しになっている、大きな引き戸一枚で隔たったキッチンと居間。キッチンで食べている息子。居間で新聞を読んでいる父親。
 何を考えているのかが分かりにくい人だ。有佳は秀行について、そうした印象をいだいている。きつい性格の人ではない。自分が男だという理由だけで、嵩(かさ)にかかった態度をとるタイプでもない。もともと有佳は、自分を引っ張ってくれる頼りになる男を求めてはいなかった。

 一店舗のスーパーをチェーン化するまでに育て上げた父親が、まだ元気で社長を務めていたころに、新聞の折り込み広告を扱っている印刷会社の外回りとして、各店をよく訪れていた男性――それが秀行だった。デートには有佳から誘った。積極的でないところに惹かれた。
 成り行きで男女の関係になった。存在感や自己主張といったものが希薄な男だった。この人となら結婚してもいいと思い、それとなく心を打ち明けた。意思を確認し合い、結婚の運びとなった。すべては自分がリードした――。有佳は思う。
「佐久間? 覇気のない男やなあ。あいつは、絶対に出世しないよ」
「お父さんが結婚するわけじゃないでしょ」
「勝手にしろ」
 そんな会話が父親との間でかわされた。
 存在感が自殺した兄に似ていると気づいたのは、結婚して間もないころだった。亡くなった兄について考えることを長い間意識的にやめていただけに、そう気づいた時にはショックだった。兄に男を感じたことはなかった。少女時代の自分の周りには、男と男の子たちがあふれていた。男性教師を除けば、女子校だった学校だけが男たちから逃れることのできる場だった。

 

 有佳はダッシュボードの時計に目をやった。十時五分を過ぎたところだ。
 コンビニから三人の制服姿の少年たちが出て来て、公園に入るのが見える。追憶に浸っていた有佳は、鳥肌が立つのを覚えた。成人ではないにしても、男が三人いると体がこわばる。
 二時間目には授業がないから、学校を抜け出してどこかで少し話そうという真美の提案はつぶれた。肩透かしを食った形になった有佳は、車を発進させる気にもなれず、公園内での少年たちの行動を見つめていた。夫からの電話はない。息子の安否が気づかわれる。
 今でははっきりと見えてきた少年たちの顔に目が行く。そのうちの一人の顔に視線を注ぐ。やはり啓一に似ている。その少年が一番背の高い少年に何かを言われて、笑顔を浮かべた。有佳ははっとした。その笑みに死んだ兄の面影を認めた。啓一に、秀行の面差しを感じることはしょっちゅうある。啓一、秀行、死んだ兄の顔が重なる。
 少年たちは、それとなく辺りを見回しながら、公園内の公衆トイレに入って行く。滑り台のそばに集まっている乳幼児を伴った母親たちは、五組に増えている。そのうちの何人かが、トイレに目をやり、顔を見合わせて何かを口にし、しかめ面をしている。
 有佳はムーヴを降り、出入口から公園へと入った。いきなり車から出たために驚かせてしまったのであろう。母親たちの視線を一斉に浴びた。有佳は軽く会釈をした。店で忙しい時などに客に対してする、営業用のスマイルと事務的な挨拶だ。母親たちの半数が、条件反射的に会釈を返してきた。
 自分が仁平真美になったような錯覚に陥る。きみたち、授業をさぼって何やってんのよ。この仁平が、校長室に直行の刑を申し渡す――。真美なら、そう言うにちがいない。空想に耽っているうちに勇気がわいてきた。
 公園のトイレの建物は真ん中の仕切りを境に左右に伸びている。左側にある女性用の部分の大きさからすると、個室は三つくらいだろう。有佳はトイレから二、三メートルの位置で立ち止まった。小学二年生のとき、実家近くの公園のトイレで、同じ小学校に通う四年生の男子児童からいたずらをされたさいの記憶がよみがえる。額と鼻、首筋、手のひらが汗ばんでくるのを感じる。やっぱり、引き返そう――。
 右側の男性用の部分から声が聞こえる。
「聞こえねえよ。もう一度言って――」
 中で、携帯電話を使っているらしい。あの学校では校内への持ち込みは厳禁だと聞いている。
「おれにも話させろよ――」
「あんまり長く使うなよ。おれも掛けるとこ、あるんだから――」
 有佳はわざと靴音を響かせて一メートルほど近づいた。声が止んだ。煙草の匂いが漂ってくる。やがて小声での会話が聞こえ始めた。
 有佳は勇気を振り絞り、咳払いを一つした。声が途絶え、ドアが閉まるような音がした。トイレの建物は、屋根の近くの壁が外へと抜けた構造になっている。立ち止まったまま、有佳は音のしたほうへと目を向けた。
 右端にある上部の壁の辺りがかすんで見える。目を凝らすと、紫っぽいけむりが外に流れ出て、空に昇っていく。三人が狭い仕切りの中で煙草をふかしているさまが目の前にちらつく。男、男、男――。軽い吐き気を催す。有佳は腕時計に目をやった。もう十時半を過ぎている。
 有佳は急いで車に戻った。
 運転席に着くと、助手席に置いてサマーセーターで覆っておいたハンドバッグから携帯電話を取り出し、夫の携帯電話を呼び出す。呼び出し音が鳴るのを十回確認したが出ない。夫は携帯電話を一階に置いたまま、二階に上がっているのにちがいない。もし、そうならば、啓一は、まだ帰っていないことになる。有佳は案じる。
 今度は自宅の固定電話に掛ける。こちらも、呼び出し音が十回鳴っても出ない。再度、携帯電話に掛ける。出ない。また自宅の電話のほうを試す。

 

「ぼくは気が進まない。フェアではない気がする」
「フェアじゃないことをしたのは、彼でしょ?」
「啓一がフェアかフェアではないかは、まだ決まったわけじゃない」
 昨夜、秀行が珍しく口にした反論の言葉が思い出される。あの人、もしかしたら、二階に上がっていないかもしれない――。もしそうなら、どうして電話に出ないのだろう?
 有佳は、家の固定電話と夫の携帯電話を交互に呼び出し続けた。
 全身が汗ばんでくる。冷房を入れようとダッシュボードに手を伸ばしたとき、公園の北側に仁平真美の姿を認めた。トイレにはまだ例の三人が閉じこもっているはずだ。生徒指導か。仁平真美の腕前を見物できるかもしれない――。有佳はわくわくした。
 有佳のムーヴを見つけたのだろう、真美が携帯電話を持ったほうの手を振り、合図を送ってくる。
 交互に二つの番号を呼び出している間に、真美はこの電話に掛けてくれていたにちがいない。やっぱり、あの人って頼りになる――。孤独と不安感が消え、有佳は安堵感に包まれた。呼び出し音は、まだ続いている。携帯電話を耳に押し当てながら、有佳は車のドアを開けた。


(了)






プチプチ  第三話  プチプチ

 佐久間茉莉が、シャッターを下ろした本屋のある角を曲がったところで、道路の向こう側から誰かが手を振った。近視気味の茉莉が目を細めると、真っ赤なキャップを被った兄の啓一だった。
「うそー」
 茉莉は思わず叫び、辺りを見回した。知っている人に見られたらまずい、という考えが先に立った。啓一が手招きをするので、左右を確認し、車道を渡って兄と向かい合う。
「大丈夫だったの?」
「ドライブのこと?」
 茉莉はうなずく。
「ドライブは大丈夫。でも、その後で、ちょっと盛り上がっちゃって、帰るに帰れない状態になったんだ」
 啓一の血走った目と、何か妙にほんわりとした顔つきから、ひょっとしてと思う。
「お酒飲んだんでしょう?」
「やっぱり、臭う?」
「はあ、してみてよ」
 開いた兄の口からは、アルコールというより、煙草と涼しげなガムの匂いがした。
「ここじゃ、やばいから駅前に行こう。リュックは、おれが持つ。この紙袋と交換――」
 言われるままに、茉莉は背負(しょ)っていたリュックを肩から外し、啓一に渡した。啓一はリュックを右肩に掛け、二つ折りにして左脇に抱えていたジーンズショップの紙袋を開けた。中からブルーのキャップと長袖のシャツが出てきた。茉莉はキャップに鼻を近づけたが、変な匂いがしなかったので、素直に被った。
「もっと目深に被らなきゃ、ガキだっていうのが、ばれちゃうよ。ほら、おれみたいに、こんな感じに被ってみな」
 啓一は自分の被っているキャップの庇(ひさし)を下げて、いったんうつむき、そのまま顎を突き出した。
「それって、馬鹿みたいに見えるよ」
「ちょっと大げさにしてみただけ」
 茉莉は、キャップを脱いで髪を整えた後、キャップを思い切り目深に被った。
「これじゃ、前が見えないじゃないじゃん。人にぶつかっちゃう」
 二人は同時に笑った。
「そのまま、のけ反ってみな。二、三メートル先が見えるくらいに」
 そり返った茉莉は、後ろへ倒れそうになった。啓一の右手が素早く背中に回ってきて、茉莉は抱きとめられた。
「こういう被り方をしていると、威張っているみたいに見えない?」と、茉莉は思ったままを口にした。
「突っ張っている感じがするだろ」
「そう、そんな感じ」
 体を寄せ合っていた二人は、それぞれが互いに後ずさりをする形で離れた。
「これも」と言って、啓一が赤と黒のチェックのシャツを差し出す。
 茉莉は庇を上げた。
「嫌よ、これは――。男臭いんだもん」
「我慢しろよ。後で何でも欲しいもの買ってあげるから」
 茉莉は、Tシャツの上に長袖のシャツをしぶしぶ羽織った。
「ま、こんな感じかな」
 啓一は茉莉を見て、納得したような表情をした。

 

     *

 

 平日の駅前は、土日と違って歩く人がみんな怖い顔をしている――。茉莉は思う。
「こんなに人がいる場所に来て、平気?」
「人がたくさんいるから、安全なんだ。うちの近所なんかにいてみろ、すぐに誰かが学校や家にちくるに決まってる」
「校区のPTAの人たちとかが、その辺で見回っていそうじゃない?」
「平日のこの時間は、心配ないって。それに、きょうは月曜だろ? 土日に行事のあった学校で、振り替え休日にするところが多いから、意外と安全なんだ」
 そう言った啓一が、駅の真ん前にあるビジネスホテルの中に入ろうとする。気後れして立ち止まった茉莉に、啓一が言う。
「ここの公衆電話は周りがうるさくないし、ちょっと奥まった場所にあるから、やばい電話が掛けやすいんだ」
 さっさとロビーを進んでいく啓一を、茉莉は早足で追いかけた。

「……そういうことですので、娘は午前中にお医者様に診てもらい、大事を取ってきょうはお休みさせます。五年一組の佐久間茉莉でございます。飯島隆広先生によろしくお伝え願います。あっ、失礼ですが、もう一度、先生のお名前をうかがってよろしいですか? 横山先生ですね。分かりました。では、ごめんくださいませ」
 啓一は頭まで下げてそう言い、受話器をそっと緑色の電話機に戻した。茉莉は兄の演技に感心した。以前から、啓一は女性の声を真似るのがうまかった。母親の真似は、声変わりした今のほうが真に迫っているような気がする。
 二人は、ビジネスホテルから外に出た。駅の付近を歩いていると、この時間なら学校にいるはずの児童や生徒の私服姿が目につく。兄の言った通り、振り替え休日にちがいない。茉莉は少し安心した。

 

     *

 

 駅前のファーストフードの店で、朝食メニューを選び、茉莉は禁煙フロアの二階に上がった。窓側の席にいた高校生くらいに見える私服の女子三人が、席を立つ気配を見せていたので、茉莉はすかさず三人の横に立った。
 三人のうちの一人が視線を合わせてきたので、茉莉はそっぽを向いた。ガンをつけられているような気配を感じる。それとも、やっぱり、この格好が変なのか――。茉莉は考える。キャップを目深に被ったまま自分の足元を見ているうちに、席が空いた。
 三人はトレイを持って行ったが、テーブルには食べこぼしが残っている。椅子にも、マフィンのかけらがこぼれている。茉莉は汗臭いシャツの袖で椅子のごみを素早く払い、リュックと紙袋をそれぞれ二脚の椅子の上に置いて席を確保した。
 紙ナプキンを取って来て、茉莉がテーブルの上を拭いていると、注文した品を二つのトレイを重ねた上に載せた啓一が、危なっかしい足どりで階段を上ってくるのが見えた。兄の帽子の被り方を見ていると、なぜか笑いが込み上げてくる。
 兄の無断外泊のせいで張りつめた雰囲気の漂う家から出て、数分も経たないうちに、朝帰りをしてきた当の兄が突然目の前に現れて、「変装」をさせられ、あれよあれよという間に、学校への欠席届けの電話が終わり、休日でもないのに、今こうして午前の駅前に来ている。その目まぐるしい展開を振り返ると滑稽でならない。テレビドラマみたい――。茉莉は思う。
「何がおかしいの?」
 そう言われると、余計、おかしく思えてきて、同じフロアのほかの客が振りかえるほど、大笑いをしてしまった。
「ご、ごめん。と、とまらないの」
 ようやく声が出た。笑いが収まったところで会話になった。
「きょうは、お父さんの夜勤の日だよな?」という啓一の言葉に答える形で、茉莉は昨夜と今朝に盗み聞きした両親の会話を、できるだけ忠実に兄の前で再現してみせた。かなりナーバスになっている父親と、平気な振りをしながら内心動揺しているのが見え見えの母親とのやりとりの数々――。
「ふーん。おれがお父さんとお母さんに、反抗というメッセージを送っているんだって? ねえ、反抗期って、いつなのか知ってる? おいらって、今、反抗期?」
 笑い出した兄につられて、茉莉も声を出して笑った。
「そうそう、お父さんて、『お母さん思いのいい子』だったんだって」
「死んだおばあちゃんのことだろ。そうだろうな。あの人、真面目でいい子だったって感じがする。おれは苦手だな、ああいう性格の人。お母さんのほうが付き合いやすい」
「わたしは、お父さんのほうが好き。お母さんは、手の内が分かるっていうのかなあ――。お互いに何もかも、お見通しって感じがして嫌だ。でも、お父さんは、何を考えているのかが分かんない。いろいろうるさいこと言わないし、かといって、ちゃんと、わたしたちのことを見ていてくれる。だから好き」
「ふーん。逆だな。おれはお父さんのほうが、お互いに何もかもお見通しって感じがして、嫌だなあ。お父さん、きっとおれのこと全部分かっているような気がする」
 茉莉は、ガラス越しに見える駅前のロータリーから、右隣の席にいる啓一のほうを向いた。兄は窓の外の風景をじっと見つめている。
「全部って、ああいうことも含めて全部?」
「うん、ああいうことも含めて全部」
 もしかすると、わたしたち、今、すごくシリアスな話をしているのかもしれない。何だか、わくわくしてきた――。茉莉は思う。


 兄が、知らない男の人たちとドライブをしたり、その人たちの家に行ったりしているのが、気になり始めたのはいつからだろう? 茉莉は考える。二年ほど前かな。あれは、わたしが三年生で、お兄ちゃんが五年生だった時だった気がする。ああいうことは、お父さんやお母さんには話してはいけないことだっていうのが直感的に分かった。
 茉莉の頭に、以前の数々の出来事がとめどもなく浮かぶ。

 お兄ちゃんとテレビを見ていて、お兄ちゃんが、わたしと同じように、かっこいい男の子ばかりに目をやるのに気づいた――。今は、それが当たり前になっている。でも、初めて気づいた時って、いつだっけ? それで、いつの間にか、お兄ちゃんと一緒になって、あの子がかっこいい、いや、こっちの子のほうがかっこいいとか、男の子の話題で盛り上がって、きゃーきゃー言うようになっていた――。それが普通だと思っていた。
 そのうち、そういうのが、ちょっと変だという感じがだんだんしてきた。学校のクラスの男子たちや、ほかのクラスや学年の男子たちが、そういうふうじゃないって、分かってきたからかもしれない。
「お兄ちゃんのこと、かっこいいって言っている友達がいるんだけど――」
 わたしが四年生の時に、そう言ったら、「ぼく、女の子には興味ない」って、お兄ちゃんがはっきり言ったから、「そうだよね」なんて、何となく返事したけど、あれってよく考えると、すごく変なことだった。でも、わたしはお兄ちゃんが嫌いじゃないし、わたしのお兄ちゃんは世界でひとりしかいないし、別にちょっと変でもかまわないって思うようになった。
 よくテレビで、女の人みたいな喋り方や仕草をする男の人たちや、女の人みたいな格好をして出てくる人たちがいるけど、お兄ちゃんはああいうのとも違う気がする。男の子同士や男の人同士や男の子と男の人とのエッチなマンガや小説があるけど、あの世界と似ているのかな。同じクラスの森下萌や田口好なんかが、はまっている世界。だとしたら――。
「茉莉、眠いの?」
 気が付くと、茉莉はテーブルに両肘をついて、うとうとしかけていた。「ちょっとね」
「歩こうか?」
「うん」

 

     *

 

 二人は駅前の小さなデパートに入った。あちこちの店やコーナーを見てまわる。
「さっきの茉莉の話だと、お母さんがお父さんに、おれの部屋をチェックするように言ってたんだろう? やばいものは、置いていないはずなんだけど、やっぱり気になるなあ。とにかく、お父さんは苦手なんだ」
「わたし、お父さんがお兄ちゃんの部屋をチェックするなんてこと、絶対にないと思う」
「どうして、そんなこと言えるんだ?」
「分かんない。でも、分かる」
「何、分かんないこと言ってるんだよ」
「理由は分かんない。でも、お兄ちゃんの部屋をチェックしたりしないってことは分かるって意味。分かる?」
「分かった」
 二人は同時に笑った。
「ねえ」
「何?」
「わたしも、お兄ちゃんみたいに、プチしちゃおうかな」
「やめとけ、女の子は危ないって」
「男の子でも危ないのに?」
「うん……。確かに、いろんな、やばい話も聞いているけど」
「あの人たちから聞いているの?」
「あの人たちとか、いろんなところから――」
「いろんなところって?」
「…………」啓一は立ち止まり、空を見上げた。「いつか話す。きょうは話したくない」
「じゃあ、お泊りの家出はやめておくから、きょうみたいに、お兄ちゃんと一緒の昼間の家出なら、たまにはいいでしょ?」
「プチじゃなくて、プチプチか」
「プチプチ? それっていいかもしんない」
 二人は、また声を出して同時に笑った。

 

     *

 

「まだ車があるから、お父さんは確実に中にいる」
 家を見下ろす位置から、兄が言う。
 二人は家の斜め向かいにある、アパートの四階の廊下で身を屈めている。

「頭が痛いから早退したとか言って、わたしが中の様子を知らせようか?」

「それは、やめておこう。学校に病欠だって電話をしてあるから、話がややこしくなる」
 茉莉は、そのアパートが嫌いだった。二人が家の様子をうかがっている四階建ての細長いビルは一階が不動産屋で、二階から上がアパートになっている。
 三階と四階に男の人がひとりだけで住んでいる部屋が数室あって、ドアの横にある風呂場かトイレらしい小窓が少し開いていて、人影がちらつくことがある。きっと、うちを覗いている人がいる――。茉莉はそう信じている。
 二人はその建物の最上階の廊下にいる。フェンスを被うパネルの後ろで屈んで身を隠している兄から離れて、茉莉はネームプレートを順に読んでいき始めた。こいつか――。以前、小窓からはっきりと顔の見えた若い男の部屋の表札にある氏名を茉莉は読み上げた。
「おれ、自首する」
 知らない間に、脇に兄が立っている。
「うそー」
「だって、いつまでも帰らないわけにはいかないじゃん。あんまり心配させても悪いし」と言って、啓一はキャップを脱ぎ、髪を整えるような手つきをしてから被り直した。
 さっきまでの元気が、急になくなったように見える。寝不足で疲れたのかな――。茉莉は心配する。
「お兄ちゃんはプチの自首ね。わたしは、プチプチの自首をする」

 茉莉は励ますつもりでできるだけ明るい声を出して言った。兄は無表情のままだ。お父さんに似ている。茉莉は思う。


 二人は、家に向かった。茉莉の目に映る兄の足どりは重い。
「お兄ちゃん」
「何?」
「わたし、お兄ちゃんの味方だよ。どんな時でも、味方だよ」
「アニメかマンガのセリフみたい」
「本気なのに――」
 茉莉はがっかりした。足元の煙草の吸殻を蹴る。兄は右手の人差し指で、顎の先を押すような仕草をしている。考えごとをしているときの癖だ。お父さんと同じことやっている。その仕草を目にするたびに茉莉は思う。
「ぼく、大人って嫌いだ」と兄がいきなり言った。小声だが、口調ははっきりしている。「本当は、同年(タメ)くらいがいいんだ。大人は汚い。体も頭の中も。でも、学校のやつは、駄目。こういうことは、学校には持ち込みたくない」
 考えていることを、そのまま口に出しているような話し方に聞こえる。
「…………」
「あの人たちの知り合いで、中二が一人いるんだ。住んでいる所がちょっと遠いんだけど」と顎から指を離し、啓一が茉莉の目を見て言う。
「その子のこと、好きなんだ?」
「ケータイ、欲しいよな」と、茉莉の質問には答えず、啓一は話題を変えた。
「お母さんなら、ちょっと押せば許可してくれそう。子どものプライバシーの次は、子どもの権利なんて感じでさ」と茉莉が言った。
「そんな話をしているの、聞いたの?」
「そうじゃないけど、何となく、じきに言い出しそうな予感がする」
「だとしても、今回のおれのプチと、茉莉のプチプチのダブルパンチで延期かも」
「じゃあ、団結して脅迫しようよ。ケータイ買ってくれないなら、二人でプチするって」
 相変わらず元気のない兄を追い抜き、茉莉が門扉(もんぴ)を開ける。家の中から電話の鳴る音が聞こえてくる。振り向くと、兄が二階を見上げている。電話の音は鳴り止まない。お父さん、何をやってるんだろう――。茉莉は思う。
 背後に兄の靴音を耳にしながら、茉莉はハーフパンツのポケットに入った家の鍵を探る。駅前の店で兄が買ってくれた一万円もするウサギの形をしたアクセサリーが、鍵と一緒に出てきた。茉莉はウサギだけをポケットにしまい、玄関のドアへとスキップで向かった。

 
(了)







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