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第二話 洗面器、回収。  七月二十二日



「帰りに、ソーセージ二本、買ってきて」

 玄関でスニーカーを履きかけていた私に、昨日のお化粧とは対照的なスッピンの母が、五百円札を差し出して言った。

「もう、人使い荒いんだから」

「その代わり、好きに使っていいわよ。おつり」

 母はニタリと笑った。うっ、すっかり見透かされている。その言葉には弱い私。態度がころっと変わってしまう。

「ほんと? じゃあポテトチップスとえびせん、買っちゃうね」

「はいはい。じゃあ洗面器とソーセージ、頼んだわよ」

 結局は、母の思い通りに使われてしまう。ポテトチップスは私のお気に入り。かっぱえびせんは詩を書いている時に食べると、不思議と良い言葉が浮かんでくる。この二つを買えるんだから、まあ仕方がない。


 白いTシャツの照り返しが、眩しい。だけど、綿菓子風味の雲は、昨日よりやや多く、天気の心地良さは継続している。歩きながら、手を組んで伸びをした。そよ風が暑さを和らいでくれている。

 小道から道路へ出た時、

「ちょっと待って!」

 妹が追いかけて来て、百円玉を自慢げに摘んで見せた。

「えへへー、れんげもお小遣いもらっちゃったから、つき合うよ」

「いいけど、買い物は後だからね。先に公民館に行くんだから」

 これから洗面器とタオルを回収に行く。昨日、母がそのまま公民館に置いてきてしまった。

「分ってるって、シーコ姉ちゃん」

 れんげも私の名前を「シーコ」と呼ぶ。別に私もそう呼ばれることに抵抗は感じていない。むしろ「しいこ」よりは「シーコ」と呼ばれるほうがなんとなくいい。といっても、本名で呼ぶのは両親と一部の大人たちだけで、大半は「シーコ」と呼んでくれている。まあ、「しいこ」も「シーコ」も大して変わらないから、ほとんど気にしてはいない。あえて不満を言えば、小学校の時から担任の先生が替わるたびに、決まって「雅子」と読み間違いされてしまうことぐらいか。だから、私の名前が少し珍しいことは前から自覚している。れんげは本名が平仮名だから読み間違えられることはないが、やっぱり珍しい名前だから、誰からもすぐに名前を覚えられる。そんな私たち姉妹の名前は父が付けた。私の時は、安産祈願に行った場所で、椎の大木のまわりにたくさんのどんぐりが落ちているのを見て命名し、れんげの時は、生まれる直前に村中の田んぼが蓮花で覆われたから決めたらしい。どちらも、父は何やらお告げみたいなものを感じたからと言っているが、本当かどうかは怪しい。


 れんげは私の横に並ぶと、重ねた手の中で百円玉を転がせた。落ち着きの無さが、その手の動きからこぼれている。

「そういえばあんた、祐輔の家に行くって言ってなかったっけ?」

「それがさあ、ゲストのお兄ちゃん、あんまり外に出たくないらしいんだって。さっき祐輔から電話かかってきた」

 百円玉を転がすのを止め、れんげはつまらなそうに言った。

「ふーん」

 顔色の悪い彼が、頭を下げている様子が目に浮かんだ。ゴロベエ先生は大丈夫だって言ってたけど、本当はどこか具合が悪いのかもしれない。


「せっかく、いろいろ案内しようと思ってたのにぃ」

「あんた、二十一世紀のゲストがやって来たって聞いて、張り切ってたもんねえ。明日は祐輔たちと、ゲストのお兄ちゃんに村を案内するんだって」

「もうみんな会ってるんだもん。早めに会っとかないと、れんげ、出遅れちゃうじゃない」

「あはは、何言ってるの」

 れんげは時々、小学生とは思えないようなおマセなことを言う。本来の時間なら、今の私とほぼ同じくらいの年頃。少しは大人びたことを言ってもおかしくはない。だけど、れんげの場合、夏休みが繰り返す前からこんなふうだ。

「だってさあ、ゲストのお兄ちゃんに会ってないの、うちの家族でれんげだけなんだもん。みんなずるいよ。お母さんだって、一声掛けてくれれば良かったのにさ」

「昨日、ちゃんと説明したでしょ。ゲストに会うために公民館に集まったわけじゃないって。だいいち、みんなが大騒ぎしてる時に、二度寝してたあんたが悪いんでしょうに」

 私がわざと呆れてみせると、

「だって、ラジオ体操の日は、二度寝しないと眠いもん」

 と、れんげは言い訳しながら顔を背けた。

 昨日、彼が目覚めたのは、みんなが解散して四十分ほど経ってからだった。起きてしばらく、公民館に居残った私たち出迎え組みの顔を、ぼーっと眺めていた。ほどなくして、彼のお腹がキュルルと悲鳴を上げ、静香おばさんが慌てておにぎりを差し出した。大急ぎでこしらえて持って来てくれたおにぎり五個、彼はそれをむさぼるように食べた。

「大丈夫かい? ゆっくり食べて」

 キクばあちゃんが、湯のみに注いだ冷えた麦茶を渡すと、彼はコクリとうなずいたものの、その後溜め息をついてうなだれてしまった。状況を理解しないまま気絶し、目が覚めてもやっぱり知らない場所にいたのだから、きっと悪夢が続いているような心境だったのだろう。やがて静かに顔を上げ、

「すみません」

 と、か細い声で謝った。


 食事の後は高井和先生に促され、お風呂に入ってもらった。五右衛門風呂の踏み板の使い方がわからず、かなり戸惑ったようだけど、およそ一時間かけて、たまりにたまった垢を洗い落とし、すっきりと小ぎれいになって上がってきた。おかげで鼻にツンとくる臭いはすっかり取れていた。

 静香おばさんが気を利かせて持って来た、少し大きめの白い半袖シャツと黒いズボンに着替えたおかげで、かなり若返って見えた。けれど、顔色の悪さはやっぱり同じだった。その後、公民館から出ようとしなかった彼をみんなで説得し、静香おばさんと祐輔の家に連れて行った。移動中、彼はずっとうつむいたまま歩いた。なぜか、歩き方が少し、ぎこちなかった。ゴロベエ先生が言った通り、よほど気の弱い人なのか、何を聞いても、

「すみません…すみません…」

 と、謝り続けるばかりだった。

「君は何も悪くないよ。気分が良くなるまで、遠慮せずに、ゆっくり休むといい」

 高井和先生がなだめると、

「すみません…」

 やっぱりか細い声で謝った。

 結局この日、彼の名前も、年齢も教えてはもらえず、汚い恰好の理由も一切分らなかった。こういった場合、私たちはしつこく問わないことにしている。不安を煽りかねないからだ。ゲストの口数が少ないのは、彼に限ったことではない。さすがに気絶した人は居なかったけれど、今まで訪れたゲストの半分くらいは、到着して二日は、ほとんど会話を交わさずに過ごしてる。中には三日間もお世話係の家に籠り、その間、ずっと無言だったゲストもいたほどだ。とにかく、彼について分ったことは、二〇〇九年からやって来たってことだけだった。


 キクちゃん商店の前を通りかかった時、ひと声かけようと、私はお店の中をのぞいてみた。

「あれ? いないのかな…」

 キクばあちゃんの姿が見えない。れんげが裏庭にまわってみたけれど、

「やっぱり、居ないよ」

 首をかしげながら戻って来た。散歩にでも出かけているのかな? ばあちゃんは時々、裏山のもちこし川上流に、散歩がてら、山菜やふくれもちの葉っぱを取りに出かける。

「お買い物、留守番ノートだね」

 と、れんげはガラス戸に顔をくっ付けた。

「そうだね」


 キクちゃん商店では、ばあちゃんが居ない時にはお店番がわりに柱に掛けてある留守番ノートで買い物をすることになっている。ノートの下に置いてある小さな網かごにお金を入れ、その金額と買った品物の名前、それから自分の名前を留守番ノートに書き込む。おつりがある場合は、後日、お店に行った時に貰うことになっている。もちろん、こんな時にズルをしようなんて人はこの村には一人も居ない。時間が繰り返していること以外は、とくに特徴の無い平凡な村だけど、唯一これだけは他所に誇れるところだ。悪ガキたちだって、きちんと代金を払ってノートに記入していく。

「シーコ姉ちゃんは何を買うの?」

 ガラス戸の前に置いてあるアイス冷蔵庫の中をのぞき、れんげが言った。

「ポテトチップスとかっぱえびせん」

「あ、いいなあ。れんげは何にしようかな…」

 なんて言ってるけど、れんげの視線は冷蔵庫の中から外れない。

「いつものバナナ味のアイスでしょ」

「あれ、分った?」

「そりゃあ分るわよ。冷蔵庫の中、食べたそうにのぞいてるんだもん」

「えへへ、バレたか」

「でも、買うのは公民館に行ってからだからね」

「ほーい!」

 れんげは、食べ物に関しては大変分りやすい。


「あれ? 開いてるよ」

 れんげが公民館の玄関を指差した。近づくと、奥で人の気配がする。

「おじゃましまーす…」

 遠慮がちに中へ入ると、縁側の庭で、キクばあちゃんが布団を取りこんでいた。

「なあんだ、キクばあちゃん、ここに居たんだ!」

「あれまあ、シーちゃんにれんげちゃん、二人揃ってどうしたのー」

 キクばあちゃんは、私の声に驚いた様子で応えた。すると、

「洗面器とタオル、取りに来たの!」

 れんげが、すかさず手を振った。

「ああ、そういえば、郁子さんが持って来てくれたんだったねえ」

 郁子は私の母。

「昨日はバタバタしてたから、誰が持って来てくれたか、分らなくなってたんだよ。ほら、そこに置いといたよ」

 広間の隅に、母好みのオレンジ色の洗面器と、彼が身に着けていた帽子とシャツとズボンが、きれいに洗ってたたんである。しかも、絞りっぱなしにしておいたはずの我が家のえんじ色のタオルまで、きちんとたたんでくれている。

「あ、タオルも洗ってくたの!?」

「ついでよ。ついで」

 キクばあちゃんは、当たり前のように言った。

「ありがとう!」

 前から分ってはいるけれど、ああ、キクばあちゃんって、なんていい人なの。人使いの荒い郁子とは大違い!


「それよりシーちゃん、昨日はご苦労さんだったねえ」

「どういたしまして。キクばあちゃんこそお疲れさまでした」

 私はスカートの裾を摘んで、西洋式のポーズをつけた。

「はっはっはっ、なにしろ大騒ぎだったからねえ」

「ほんと! あの人が気絶した時、私、一瞬頭の中が真っ白になったもの。キクばあちゃんがいなかったら、きっと、私のほうがパニックになってた」

「いいなあ。れんげもその大騒ぎ、したかったなあ」

 羨ましそうに、れんげが口を挟んだ。

「ちょっと、お祭りやってたわけじゃないんだから。そもそも、ゲストが気絶したの、あんたの発明が原因なんだからね」

「発明って?」

「蚊取り線香!」

「蚊取り線香…?」

 あ、時限爆弾と言うつもりが、うっかり言い間違えてしまった。

「もう、いいの!」

 いちいち説明するのは面倒だから、この話は、無かったことにしてあげよう…って言っても、やっぱり納得いかないか。

「シーコ姉ちゃんの意地悪! れんげ、何もしてなんもん!」

 と、れんげが口をとがらせると、

「はっはっはっはっはっ」

 キクばあちゃんは、背筋を伸ばしながら笑った。


「ねえ、キクばあちゃん。布団、持って帰るの?」

「あい」

 キクばあちゃんは可愛げにうなずいた。「あい」は「はい」の昔の言葉。村ではキクばあちゃんしか使わない。時代遅れの言葉なのに、キクばあちゃんの「あい」は、不思議な魅力がある。なぜか可愛く聞こえてしまう。

「今朝は早くから干してたからねえ。ぼちぼち片付けようと思って」

「そう、ちょうどよかった。布団運ぶの手伝うよ」

「あれ、いいのかい!?」

「後で買い物もあるし、ついでだから。ね、れんげ」

「うん、バナナアイス!」

 れんげは、百円玉をまた摘んで見せた。

「はっはっはっ、じゃあ、お願いしようかねえ」

 留守番ノートよりは、キクばあちゃんが居たほうが、買い物は手っ取り早い。


 キクばあちゃんは掛け布団、私とれんげは敷き布団を二人で持って、その上にタオルと洗面器と彼の服を乗せて運ぼうということになった。どうやら布団は災難に遭うことはなかったようだ。臭いは付いていない。気持ちよくふかふかに仕上がっている。彼の服だって、元からボロボロではあるけれど、あんなに強烈な臭いを放っていたのに。ばあちゃん、よぽど念入りに洗ってあげたんだろう。その蘇った服を持とうとしたとき、側に小さな機械が置かれているのに気がついた。昨日、彼が気絶する前に慌てていじっていた、コンパクトミラーに似た機械だ。

「キクばあちゃん、これ!」

「ああ、それ、お兄さんに渡すの、すっかり忘れててねえ」

 そういえば、彼がバス停で気絶した時、キクばあちゃんが拾って預かってたんだっけ。

「何?」

 れんげが興味深そうに覗き込んだ。

「よく分らないけど…」

 私はふと、彼が慌てて耳に付けたり、空にかざしてみたりしていたことを思い出し、

「たぶん…二十一世紀のラジオ…なのかも」

 と、人差し指をおでこにくっ付け、名探偵ばりに推理した。


 彼の服と謎の機械は、後でれんげと一緒に祐輔の家に届けることにした。で、布団を運んだ後、お店の赤電話から、たぶんお昼ご飯の食材を待っているであろう母に「少し待ってて」と電話したら、「晩ご飯用のソーセージだから、ゆっくりしておいで」って言われ、ちょっと拍子抜けしてしまった。

「そしたら、冷たいものでも飲んで、一休みしていって」

 キクばあちゃんがカルピスを作って気遣ってくれた。ありがたい! 体力を使った後のカルピスはとても美味しい。私は一口で飲み干し、れんげは息を切らしながら少しずつ飲んだ。なるべく負担が掛からないように持ったつもりだったけど、さすがに敷き布団は、れんげには重すぎたみたい。

「ねえ、ポテトチップス、食べる?」

 私はお菓子の棚から、ポテトチップス二袋を取り出した。

「え?」

「れんげの分も、お姉ちゃん、買ってあげようか」

「ほんと!?」

 がんばって布団を運んでくれたから、ささやかなご褒美。二人分のポテトチップスを買っちゃったら、魚肉ソーセージ二本のおつりでは、かっぱえびせんまでは買えないけど、かわいい妹のためだ。今日はえびせんは諦めよう。…なんて、久しぶりに妹思いの優しいお姉さんぶりを発揮して、せっかくいい気分になってたのに、

「だったら、れんげ、バナナアイスおごるね! 一本、五十円だから」

 と、れんげは表に飛び出し、冷蔵庫からバナナ味のアイス二本を取り出して、ニカッと笑った。その様子を奥で見ていたキクばあちゃんが、感心した。

「れんげちゃんは、お姉ちゃん想いなんだねえ。はっはっはっ」

 五つも歳が離れた妹に、なんだか一本取られたような気がした。

 途中、奥野川に架かる十メートル足らずのコンクリートの橋の上から、二人並んで下の様子を伺った。甘い香りが漂っている。橋の近くの、白い花をちりばめたクチナシの茂みが川にせり出し、影を落としている。そこに、大小の二匹の川エビが、川底の丸い石の上で休んでいた。

「れんげと、シーコ姉ちゃんみたい」

「あはは、ほんとね」

 私がまだれんげよりも小さかった頃、ここにはたくさんの川エビたちが群れていた。今ではほとんど見かけない。木造の橋がコンクリートに替わった頃から、次第に少なくなっていった。もしも時間が戻ったら、あの川エビたちはどうなるんだろう。できたら、ずっとここに居てほしいな…。そんなことを思いながら、ちょうど二人揃ってアイスを食べ終わった時、

「あ、シーコ姉ちゃん、動き出したよ」

 まるで、私たちに見られているのが恥ずかしいみたいに、川エビたちはゆっくりと後退りしながら、石の陰に隠れた。

 突然、近くで自転車のベルが鳴った。ゴロベエ先生だ。愛車を軽快に漕いで、白衣をなびかせながら近づいてくると、橋のたもとでキュッと音を立てて止まった。

「よお、お二人さん」

 先生は、古風な丸渕の眼鏡をずらして微笑んだ。

「おはようございまーす、ゴロベエ先生」

「おはようさん。昨日は大変だったねー」

「いえいえ」

「昨日の椎子ちゃん、立派だったぞー。布団運んだり、みんなに連絡したり、なかなか出来るもんじゃない!」

「あ、ははは…」

 笑いが引きつってしまう。ほとんど、キクばあちゃんの指示だったから、私が立派だった訳じゃない。しかも、爆竹が破裂したのは、私のせいでもある。

「そういえばいつだったか、椎子ちゃんは将来、看護婦さんになりたいって言ってたなあ」

 先生ったら、ずいぶん前に私がチラリと言ったことを、よくもまあ覚えていたものだ。


「きっと立派な看護婦さんになれるぞ!」

 腕組みをしてゴロベエ先生が言った。すると、れんげが驚いた様子で私の服を引っ張った。

「シーコ姉ちゃん、看護婦さんになるの?」

「ま、まあね」

 あくまで願望であって、なれると決まっているわけではない。それに、時間が繰り返している以上、いつまでたっても看護婦にはなれない。

「ところで、姉妹揃って、橋の上で何してるのかね?」

「あ、いえ、届け物があるんです」

 私が祐輔の家を指差すと、

「これ!」

 れんげが小脇の服と帽子を差し出し、

「キクばあちゃんが洗濯してくれたの。二十一世紀のお兄ちゃんに届けてあげようと思って」

 さっきの冷蔵庫の時と同じように、ニカッと笑ってみせた。

「それはご苦労さん。ゲストの青年、昨日よりはだいぶ顔色は良くなってたから、ついでに一声掛けてあげるといい」

「ゲストを診に行ってたんですか?」

 私ったら、川エビに見入ってて、ゴロベエ先生が祐輔の家から出てくるのに、まったく気付かなかった。


「ああ。静香さんから電話もらってね。ゲストがやっぱり元気ないから心配だって」

「大丈夫なんですか?」

「なあに、昼飯も残さず食べたようだし、体は全く異状は無い。まだ口数は少ないけど、明日には気分も落ち着くだろ」

「そうですか。良かったー」

 ちょっと責任を感じていた私は、安心してほっと息をついた。

「ところで、ケータイっていうものを見なかったかい?」

 ゴロベエ先生は、聞き慣れない単語を口にした。

「ケータイ?」

「青年がどこかに落としたらしいんだよ。こんくらいの物らしいんだが…」

 両手で小さな窓を作って、先生は大きさを示した。

「あ、もしかしてこれかな?」

 私が例の機械を取り出すと、

「ああ、たぶんそれだね」

 先生は、眼鏡を掛け直してうなずいた。

「キクばあちゃんが預かってたんです」

「なあんだ、そうだったのか。ずいぶん不安そうな顔しとったから、この夏が終わる時には、必ず手元に戻るから心配ないって言っておいたんだが…、まあこれで安心するだろ」

「よっぽど大切なものなんですね」

 私はそっとタオルに包んで洗面器に入れた。未来に帰ってから、ちゃんと動いてくれると良いけど。

「さてと、キクちゃん商店でパンでも買って帰るかな。じゃあ、ケータイのこと、頼んだよ!」

「はーい!」

 白衣をマントのようになびかせ、自転車のペダルを軽快に漕いで行く先生を、私とれんげは手を振って見送った。

 この村のご意見番でもあるゴロベエ先生の本名は藤島孝作。雷のように怒るからゴロベエというあだ名が付いている。付けたのはもちろん祐輔。だけど、藤島先生って呼んでも、

「ゴロベエで良い」

 って先生は言う。自分でもこのあだ名が気に入っているようだ。誰かが「先生は竹を割ったような人だ」って言ったことがある。丸渕眼鏡と陽水のようなモジャモジャ頭の、ちょっとアンバランスな風貌のおかげで、なんだかいい加減な人に見えるのだけど、実は何でも白黒はっきりつけないと気がすまない。だから、間違った事を言ったり無理をしでかしたりすると、大目玉を食らってしまう。年上のモアイ村長や元ジイだって容赦しない。若い頃の自慢話を何倍も誇張して話す、村の迷ぶつじいさん元ジイが、かつて、お酒はしばらく禁止と、先生に釘を刺されていたにもかかわらず、言うことを聞かずに飲み続け、しばらく体調を崩したことがあった。その時ゴロベエ先生は、鬼のようなもの凄い剣幕で叱りつけた。かといって決して怖い人ではない。普段はとても優しい。


 江戸時代に例えたら、破れ傘なんとかという時代劇みたいに、いざとなったら町人たちの楯になって「てめえら人間じゃねえ! たたっ斬ってやる!」って、悪代官相手に平気で怒鳴り散らすようなお医者さん。そんな先生だから、何か悩み事や迷った事があると、みんなすぐに頼ってしまう。それだけ村の住民たちに信頼されている。だけど、モアイ村長が失踪したあと、代わりに村長を務めて欲しいという住民たってのお願いを、ゴロベエ先生は「面倒くさいのはご免だ」と、突っぱねた。本当に面倒くさいのではなく、何でもかんでも人に頼るのは良くないってことらしい。そもそも岩柿村の住民ではなかったのだから、先生が断るのも当然なのだけど。そのかわりに、モアイ二号がほとんどお飾りの村長代理ってことで話がまとまり、ゴロベエ先生は村のご意見番として崇められることになった。


「ふーん。じゃあ、会えなかったのか」

 コップにビールを注ぎ、父が相づちを打った。

「もう、がっかり」

 れんげは口をとがらせ、むくれた。

「まだ、ショックが抜けていないのよ。昨日の今日だし」

 母はソーセージかき揚げを山盛りにした皿を、テーブルの真ん中に置いた。ニンジンとタマネギに、刻んだ魚肉ソーセージが程よく絡み、カラリと揚がっている。れんげの表情が、たちまち笑顔に変わった。

「でも、体は異状無いって。ゴロベエ先生が言ってたよ」

 箸と小皿を並べながら、私は母に言った。すると、

「そうかあ…」

 父が、なぜか心配そうな顔をした。


 彼の品物を届けに行った私とれんげは、結局、彼には一目も会えなかった。祐輔の家では、彼の控えめないびきが漏れている部屋の前で、祐輔と寛太が、つまんなそうに時間をつぶしていた。診察が終わり、ゴロベエ先生が引き上げたとたん、どうやら、溜まっていた疲れがいっきに出たらしい。私は静香おばさんと、れんげは祐輔たちと世間話を少ししただけで帰って来た。れんげが、お昼ご飯を食べてからもう一度祐輔の家に行ったけれど、彼はやっぱり熟睡したままだったようで、がっくりと肩を落として帰って来た。


「じゃあ、まだ名前も分らないってわけね」

「そうなの。分っているのは二十一世紀からやって来たってことだけ」

 茶碗を受け取りながら私が母に答えると、

「まいったなあ…」

 父がぼそりとこぼした。

「どうしたの?」

「だって、心配じゃないか」

「心配って、たった今、異状無いって先生が言ってたって、椎子が言ったじゃないの」

「いや、ゲストのことじゃなくて…」

「じゃあ何なの?」

「未来のことだよ」

「……」

 母の眉間に、一瞬シワが寄った。

「なになに?」

 れんげは、公民館での出来事を断片的にしか聞いていないから、話しに加われず、じれったそうにテーブルを手のひらで連打した。

「本当に未来で戦争が起こっているのか、一刻も早くゲストに確かめたいと思ってさあ」

「あなた、誠次郎さんの言ったこと、本気で信じてんの?」

 ますます母の眉間にシワが寄る。心霊現象好きな母も、さすがにこの件に関しては付き合っていられないようだ。


 母にとっては、妄想を信じているってことより、野球バカトリオの一員として、みんなの前で怒られたってことが、よっぽどみっともなかったらしい。だから、この件には触れたくないのだ。昨日、公民館から戻ったあとも「あーっ、恥ずかしいっ!」って、何度も愚痴ってたっていうから。

「なになに?」

「いや、でも、誠ちゃんのあの真剣な顔、尋常じゃなかったからさあ」

「何の根拠もない妄想だってことで終わったものを、わざわざ、ほじくり返さないの! いい加減にしないと、テレビ、禁止するわよ! どうせ今日のオールスターだって、巨人の選手、ヒット打たないんでしょうに!」

 母の脅しに、

「むむむーっ!」

 父は頭を抱えて唸った。


 父の心配も解らないわけではないけれど、そのせいで、テレビが見られなくなっては困る。この場合は、

「そうよ、お父さん! また、ゴロベエ先生に怒られちゃうわよ!」

 母の味方になるのが賢明だ。

「で、でもさあ…」

 私と母は思わず顔を見合わせ、

「でもも、ストライキもないのっ!」 

 ゴロベエ先生のセリフで、ピタリと口を合わせた。すると父が、

「うわわぁー…」

 昨日の公民館の時のように、また情けない顔をした。

「なになになになにっ?」

 れんげがしびれをきらして声を上げた。すかさず父の真上のオンボロ柱時計が、ボヨーンと、いかにも間の抜けた音で、七時半の合図を送った。





第三話 音楽的センスは、ほぼ無い。  七月二十三日



 麦茶を入れたコップに、窓の外が映っている。真ん中を、水滴がゆっくりと通り過ぎて行く。その様子をぼんやりと眺め、優しい歌声に私は耳を傾けている。賑やかな昼下がりを、メロディに乗って、水滴がなだめて行くように感じる。木陰で休んでいるように、部屋の空気が和らいでいる。

 サビの裏声が、ジンと心に響く。風のファースト・アルバムのB面ラストの曲『お前だけが』。私のお気に入りのアルバム、どの曲も素晴らしい。なかでも『お前だけが』は、特に好き。何度聞いても飽きない。むしろ、聞けば聞くほど好きになっていく。私が買った数少ないアルバムだから、ひいきめに聞いているわけじゃない。何よりもこの曲は、終わった後も優しい余韻に浸らせてくれるから。…なんて、うっとりとしていたら、いつの間にかプレイヤーのアームが、レコードの溝から離れようとしている。私は慌てて、ラジカセの録音一時停止ボタンを押した。

「次は、どれにしようかな…」

 カラーボックスの前にしゃがむ。横置きで使っている、三段のカラーボックス。右側の段に、愛しいLPレコードたちが、びっしり五十枚ほど詰まっている。

 プレイヤーにかけるレコードを選ぶたびに、いつかのゲストが言っていたことを思い出す。未来じゃ、フォークなんて聞いている人は、ほとんどいないって言っていた。奥野川の川エビたちと同じ運命なのかしら。きっと二十一世紀じゃ、唄う人も聞く人もいなくなって、フォークは絶滅しているのかもしれない。そう思うと、どのレコードたちもますます愛おしくなる。


 たくろう、陽水、チューリップ、かぐや姫…、ちょっと前のフォークのレコードは、だいたい一通り揃っている。ビートルズやサイモン&ガーファンクル、カーペンターズなど、外国の音楽のレコードも少しはあるけど、大半は日本のフォークソング。中段のシングルレコードは約三十枚、全てフォークソング。私の宝物。とは言っても、実は私が自分で買ったのは三枚だけ。あとは全部貰いもの。音楽好きの美奈子姉さんから譲り受けた。美奈子姉さんは、子供の頃からずっと遊んでもらっていた、かつて私の家の近所に住んでいた親戚のお姉さん。私がフォーク好きなのは、美奈子姉さんの影響をたっぷり受けているから。


 私が中学に入学する直前のことだった。美奈子姉さんの家に遊びに行ったとき、

「これって、なかなか良いわよ」

って、陽水の『氷の世界』と、たくろうの『元気です』のLPを聞かせてくれた。「何だか、凄い!」聞いている途中で、体の中に電気が走ったような気がした。それまで歌謡曲しか興味がなかった私は、その日、フォークに目覚めた。以来、すっかり虜になった。

 それからというもの、毎日のように美奈子姉さんのところへ出かけ、レコードを聞かせてもらった。だけど、二学期が始まった頃に、美奈子姉さんは都会の人のところへ嫁いで行くことになった。そして、

「荷物になるし、もう聞かないから」

 って、嫁いで行く前の日に、全部のレコードを二箱の段ボールに詰めて置いて行ってくれた。美奈子姉さんのことだから、フォークに目覚めた私のために、要らないふりをして譲ってくれたのだろう。本当は、まだまだ聞いていたいレコードも、きっとあったはず。だから、美奈子姉さんの分まで、私はずっとこのレコードたちを聞き続けていたい。たとえ、時間が戻ったとしても、いつまでもずっと。

 夏休みが繰り返すようになって、私がフォークソング部を作ったのは、そんな思いがあるから。


「ラストは、やっぱりこれだな」

 たくさんの候補の中から、陽水のシングル『夢の中へ』を選んだ。目当はA面ではない。風のLPレコードと入れ替え、B面に針を落とす。ラジカセのボタンをもう一度押し、一時停止を解除する。陽水の曲の中で、私が一番好きな『いつのまにか少女は』。ピアノとベースのイントロが素敵なこの曲は、歌詞よりもメロディが気に入っている。

 テープの残量が少ないけれど、なんとか入りそうだ。この曲を入れて、選曲用のテープが完成。このA面には、好きな曲と比較的唄いやすそうな曲を選んで私が録音した、フォークベスト全集が、裏のB面には、NSPのファースト・アルバムの曲が入っている。夏休みが繰り返す前に、同級生の美香子が、NSPのレコードを持っていなかった私のために録音してくれたもの。明日の部活で、一年の由美と光子の三人でこのテープを聞く。演奏するための練習曲を決めることになっているのだ。


 フォークソング部は、元々、音楽室に好きなフォークのレコードを三人で持ち寄って、足の付いた古いステレオで聞くだけの、いわゆるレコード鑑賞クラブだった。やがて、自分たちでもギターを抱えて、弾き語りに挑戦してみようということになった。きっかけは、陽水の『氷の世界』を鑑賞していたとき、音楽室にあったクラシックギターを、光子が曲に合わせて冗談で弾く真似をしてからだった。まったくギターを弾けない光子が、その時、なんとなく様になって見えた。もしかしたら、私たちもできるんじゃないの? 由美も私も、ふと、そう思った。よくある勘違い。だけど、せっかくフォークソング部って名前なんだから、聞いているだけじゃつまらない。三人でフォークグループを結成して、何か演奏してみよう! と、その日のうちに三人の意思が固まった。とはいうものの、私たちはレコードを鑑賞することは得意でも、ギターはもちろん、楽器一つ弾けやしない。正直に言えば、音楽的センスはほぼ無いに等しい。まあしかし、文化祭で演奏するわけではないし、お気楽な部活なんだから、誰も文句はあるまい!

 無事にテーブの録音が終わり、麦茶のおかわりのために一階に降りると、れんげがいつのまにか戻って来ていた。タイミング良く、冷蔵庫から麦茶ポットを取り出している。

「お帰り、れんげ」

「ただいま…」

 ポットをテーブルに置きながら、れんげは溜め息をついた。

「やっぱり、だめだったの?」

「うん。今日も部屋に閉じこもったまま」

「そう。残念だったね」

「やれやれだよ」

 今日こそは、二十一世紀のお兄ちゃんを案内するんだって、張り切って祐輔の家に出かけて行ったのに、やっぱり、だめだったか。

「でもね、お兄ちゃん、昨日の晩ご飯と今朝の朝ご飯、とっても美味しそうに食べたんだって」

「じゃあ、もうすぐ元気になるわね」

「だといいけど…」

 麦茶をコップに注ぎながら、れんげは肩を落とした。


「あ、私も麦茶ちょうだい」

 コップをテーブルに置いて、れんげと向かい合わせの席に着く。

「はいどうぞ」

 ポットを傾けながら、れんげはまた溜め息をついた。よっぽどがっかりだったんだな。

「元気出しなさいよ。あんたが落ち込んでどうすんの。きっと、すぐに案内出来るわよ」

「だと…いいけど…。あれ? ところでお母さんは?」

「出かけたよ。たぶん、福恵おばさんとこじゃないかな。回覧板届けなきゃって、言ってたから」

「回覧板って、歓迎会の準備のこと?」

「たぶんね」

「歓迎会、できるかなあ」

「大丈夫よ。まだ一週間も先なんだから」

「そうだよね! まだ一週間も先だもんね!」

 れんげは、あっという間に立ち直った。ゲストの彼や心配性の由美と違って、呆れるほど都合の良い性格をしている。


「ねえ、シーコ姉ちゃん」

「なあに?」

「お兄ちゃんの時代って、何年先?」

「二〇〇九年だから、…三十四年後よ」

「三十四年! 凄ーい! れんげが、えーっと、いくつになってるんだっけ?」

 驚いて、れんげはまともに足し算が出来ないでいる。

「あはは、何動揺してるのよ。あんた今、八歳だから、四十二歳…に、なって…!」

 今度は私が驚いて、言葉に詰まってしまった。私が四十七歳になってる! れんげも私も、今の母よりもずっと年上。私なんか、もしも早めに結婚しちゃったら、孫がいてもおかしくない年齢じゃないの! 二〇〇九年って遥か彼方の未来だって感じがして、今まで意識していなかった。自分の歳に置き換えて考えたら、とたんに、私の未来に暗雲が立ちこめた。やっぱりこの村は、時間が繰り返していたほうが、都合がいい。

「…あれ? シーコ姉ちゃん、どうしたの?」

「あ、あははは…」

 思わず笑いが引きつった。初日に頭をよぎった、キクばあちゃんと私を重ね合わせた姿が、また、じわじわと浮かんできてしまった。



第四話へつづく…

illustration  SAKOYAN


この本の内容は以上です。


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