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1.二つの名の下に



 風が渡る。

 固い織の飾り一つないチュニックを、愛馬レノの白いたてがみを、草が波立ちそよぐ平原にただ一人

立つ、ユーノの額の毛を巻き上げて。

 目を閉じて、その冷たさと強さをじっと味わう。

 たとえようもなく、独りだ。

 けれど、それでいい。

 大事な人が笑うなら。

 平和に憩うこの国を守れるなら。

 僅かな間の幻にしか過ぎないとしても、破滅を気づかせないために全力を尽くす、皇女として、人と

して。

 きっと、そのために生まれてきた。

 そのためだけに生きているのだ。

「父さま、母さま、レアナ姉さま、セアラ」

 つぶやいて、ユーノは目を開く。

「……サ、ルト」

 守り切れなかった。

 傷みに唇を噛む。

 こぶしを握り締めて俯く、ユーノの前髪を風が散らす。

 引くな。逃げるな。たじろぐな。

 一歩たりとも怯むんじゃない。

 この手には命の約束がかかっている。

「……っ」

 ふいに一瞬、甘い花の香りがして、はっと顔を上げた。

 微かな予感に体が震える。

 それを、怖い、と感じた。

 初めて胸の奥に疼く気持ちだ。

 不安が募る。

(何?)

 誰か年経た友人がいれば、微笑みながらこう教えただろう。

 それは誰かを愛したいという声だ。

 お前が誰かに愛されたいという願いだ。

 これから始まる大きな物語の予兆なのだ、と。

 だが、ユーノにはそのような友人はいない。

 ユーノはまだ気づかない。

 魂を揺さぶる出会いが、もうそこまでやってきている。


 震えを振り払うようにユーノが顔を振った、次の瞬間、

「ユーノ!」

 苛立った叫び声が背後から響いた。

「ふ」

 苦笑まじりに振り返ると、茶色の馬が駆け寄ってくるのが視界に入った。草を蹴散らし、地響きをた

てて迫ってくる。その遥か後方から十数騎、同じようにまっしぐらに、平原に立つユーノを目指して皇

宮の親衛隊がやってくる。

「遅いぞ、ゼラン!」

 ユーノは快活に笑いながら、馬の首を巡らせた。

「あなたが速すぎるのだ!」

 色白の顔に黒い口髭を逆立てた親衛隊隊長が顔をしかめる。

「見なさい! 誰も付いて来れていない!」

「訓練不足じゃないの?」

「訓練は十分です!」

 胸を張って言い切ったゼランに、一瞬ユーノは唇を歪めたが、すぐにくすくす笑った。

「そうかなあ」

「本当に……あなたが男であれば……」

 ゼランはユーノのすぐ側までやってくると、息を切らせて肩で大きく息をついた。

「似たようなものだよ」

 ユーノは肩を竦めた。

「あなただって、ユーノ、と呼んでいるもの」

「……では、本名でお呼びいたしましょうか、ユーナ・セレディス皇女、と」

 ぷ、とユーノは吹き出した。

「自分じゃないみたい」

「男名の方がお気に入りですからな」

「うん」

 はあ、とまた嘆息する相手に、今度は優しく微笑む。

(ユーナ・セレディスは、いない)

 胸の中に響いた声は切ない。

 目を閉じて、その声を深く押し込める。

 どこにもいない。

 それでも、その小さな声は抵抗するようにユーノの胸の底でもがいて跳ねた。

(わかってる)

 素っ気なく応じて、ユーノはその声を切り捨てる。

(もう言うな)

 目をぱっと開けて、ユーノはゼランを追ってようやく辿りつき始めた隊員達に笑いかける。

「ユーノさまぁ!」

「ゼラン隊長ぉ!」

「お前達は恥ずかしくないのかっ! 小娘一人にしてやられおって!」

 きりきりしたゼランの怒声が響き渡って、ひや、と数人が首を竦めた。

「いや、だって……ユーノ様は女じゃないですよ!」

「そうそう、とても人間とは思えません」

「辺境にいるという、人の姿をした魔性のものが化けてるとか」

「ふぅうん」

 口々に遠慮なしの暴言を吐く連中にユーノは目を細めた。体を起こしてレノの手綱を操り、ゆっくり

と最後の一人の周囲をぐるりと回る。

「私が魔性、ねえ?」

「あ、あ、いや、その、ものの例えということで!」

 相手はひくりと引きつった。

「いいのかなあ………そんなこと言って? 仮にもあなたが仕えてる皇女なんだけど?」

「あ、あの、えーとえーとえーと」

「ゼラン? 礼儀作法がなってないんじゃないのか?」

「御存分に」

「うわああ」

 ゼランが冷たく言い捨てて相手が悲鳴を上げた。



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2

「ちょ、ちょっと、ユーノ様」

「うーん、何してもらおうかなあ。一日剣の相手してもらおうかなあ」

「うわ」

「何、その、うわって」

「いや、だって、ユーノ様の剣の相手したのって、翌日一日は寝込むじゃないですか!」

 半泣きになった相手ににやにやしながら、ユーノはうなずいた。

「そうみたいだね。鍛え方が足りないんだろ、こーんな小娘にしてやられるんだからさ?」

 ちらっとゼランを見てやったが、相手は知らぬ顔だ。

「隊長! ユーノ様! 俺、明日は家に帰って子どもと遊ぶ約束しててですねえ!」

「う、そ」

「は?」

 ぺろ、とユーノは舌を出した。

「嘘だよ、何慌ててんのさ」

 相手がほっとした顔になって、露骨に深い安堵の息をつく。

「ちぇ、ゼラーン、まだ皆はあはあ言ってるから、先に帰るよ?」

「え、あ、待て、ユーノ!」

「はっ!」

 うろたえたゼランにあっさり背中を向け、ユーノはレノに声をかけて走りだした。

 こら、また置いていかれたではないか、この馬鹿ものども!

 背後で叫ぶゼランの声、うげええととかひえええとか情けない叫びが響き渡るのにくすりと笑って、

どんどん速度を上げてセレドの街に戻っていく。

(そうだ、ユーナはいない…………誰にとっても)

 叩きつけてくる風に押さえ切れなかった声がまた小さくつぶやいた。


 セレド皇国は大陸の南、内陸部にある小国だ。

 穏やかな気候は穏やかな人民を育てるのか、安定した治世は200年に及び、現在のセレディスは4世、

美しい妻ミアナ皇妃と三人の皇女とともに慕われながら敬われている。

 皇女三人は上からレアナ19歳、ユーナ17歳、セアラ15歳の花の盛り、セレディス皇の目下の悩みは

各々にいつどんな契りの相手を見つけてやるかということだという平和さ。

 だが、真実は、いつも二つの顔を持つ。


(ユーナ、ユーノ、ユーナ、ユーノ)

 レノを走らせ続けているユーノの頭の中には、二つの名前が入れ替わり立ち替わり閃いては消えてい

く。

 ユーナは女名、ユーノは男名、その間で不安定に揺れている自分。

 考えても仕方のないことだ、自分はユーノとして生きるしかないのだ。

 そう思いつつも、最近ときどき妙に気持ちが揺れる。

(ずっとこのままでいくしかないのか)

 ずっと一人でいるしかないのか。

 諦めたはずの想いに揺さぶられて耐え切れず、今日のようにどこまでも、駆けられる限りの速度でど

こか遠くへ駆け去って行ってしまいたくなる。

(そんなことは、無理なのにな)

 どこまで逃げても逃げ切れるわけはない。

 どれほど逃げても自分の気持ちからは逃げられない。

 そんなことはわかっているのだが。

 それに、ユーノが逃げたが最後。

(セレドはカザドの手に落ちる)

 果てしなく権力と血を求めるカザドの王、カザディノの手に。

 ユーノは首を一つ振って、速度を落とした。

 中央区、すり鉢状になったこの国の皇宮のある街の門が見えてきている。

 もっとも、門といっても灰色の石で作られたニ本の門柱のみだ。国境を示す区切りでしかない。兵が

立つわけでもない。

 そんな警戒をしなくても大丈夫だと人々は信じている。

 そう。

 人々は信じ切っている。




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