目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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 時刻は午後三時半。まだまだ暖かい空気が、夕方の訪れを感じさせてくれない。

 老先生は自分の家に向かいあい、タバコを取り出して火をつけた。

「素数はむかしからその存在が定義されていた。数の性質を研究する数論という分野で重要な役割を担い、大活躍したのだ。素数にまつわる定理や性質が数多く発見され、数学を代表する一大役者となった。一方で、素数の不思議さについて、古くから議論されてきたことがある。それは、素数は無限に存在するのか、という疑問への答えだ。これはさほど難解な問題ではない。紀元前三世紀にすでに解決されている。エウクレイデス、英語名でユークリッドという数学者が『原論』という数学書の中で証明したのだ。この証明は今は説明しない」

 自分の家を見上げる老先生の横顔は、授業中のそれとも雑談中のそれとも異なるものだった。僕が見たことのない表情だ。だから、何を考えて話しているのか、よくわからなかった。巧と有里も不思議そうに老先生に視線を集中させている。

「その後、十八世紀に素数の逆数の和が発散することが発見された。発散するのだから、和が無限大になるということだ。つまり、副次的に素数が無限に存在することを表している。その証明に、先の調和級数が発散するという事実が用いられている。そして、これを証明したのが、十八世紀最大最高と謳われる数学者、レオンハルト・オイラーだ」

 老先生が見つめる先にはレオンハルトと書かれた看板があった。見つめる視線は暖かい空気を射貫いてまっすぐ看板の文字に届いている。老先生は、本当にオイラーを尊敬しているんだろう。

「すごい人なんですね」僕は言った。

「ふふ、そうかもしれんね」老先生はタバコを消してこちらに向き直り、やや表情をこわばめて真剣な面持ちになった。「数学者は二十代がピークだと言われている。そのためには十代での積み重ねが大切だ。何も君たちに数学者を目指せと言っているわけではないが、君たちはこのレオンハルトで数学に触れ、少なからずこの世の真理を目の当たりにした。それを生かし日々精進してこそ、本当の知性が身につくのだ」

 僕たちの肩に順番に手を置きながら、老先生はまっすぐな声で言った。

「毎日、進んでいきなさい」


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「さて、戻ろうか」老先生は玄関のドアへと消えていった。僕も続こうとすると、有里が目の前に立ち、「ちょっと待って」とけん制した。

 有里は巧の耳元で何かささやいた。巧は笑って「老先生には俺から話してやるよ」と言って、玄関へと歩いていった。

「どうしたの?」僕は有里にきく。

「ちょっと恥ずかしいから。これからきくこと」

 珍しいこともあるもんだ。誕生日のマジックだろうか。

「あれ、どうだった?」

「あれって?」

「ほら、あの平安神宮のよ」

「へ?」

 僕はぽかんと間抜け面で有里を見た。有里は有里で、期待の表情から怪訝な表情へと変化していく。

「まさか、あんた無視したの?」

「え、じゃあもしかしてあのおばあさんって有里の」

「信じらんない!」

 有里の怒鳴り声をはじめて聞いた。すごくキーが高くて、アニメキャラクターみたいだ。将来は声優なんかどうかな、なんて言ったらゴミ扱いされるだろう。

「じゃあまさか自販機のお茶も有里の仕込み?」

「一番苦労して手まわししたのに! なんで無視するのよ!」

 怒られている。激しく理不尽だと思ったけど、正当な反論をしても、聞く耳を持ってくれないだろう。

「いやまさか、おばあさんの孫が有里だなんて思わなくてさ。そんな偶然信じなかったんだ。それにあのときは正直お茶がほしかったから。本も読みたかったし」

「受け取ってないってことは、あそこにまだ置きっぱなしになって」有里は玄関に走って「巧! 私のカバン持ってきて!」とさけんだ。忘れ物した主婦が旦那さんに怒鳴っているみたいだ。ただ巧は有里の尻に敷かれたりはしないだろう。いやな妄想してしまった。

「なんだよもう」とぼやきながらも巧はカバンを持ってきて有里に放ってよこした。

「あの馬鹿が馬鹿ミスしたから、今から行ってくる」僕を指さして有里がまくし立てた。馬鹿じゃないと主張したかったけど、有無を言わさぬ雰囲気にのどのあたりで主張はしぼんでしまった。

「なんか知らねえけど、気をつけてな」こんな状態の有里にすら気遣えるなんて、やっぱり幼馴染だな、と感心する僕に巧は、

(お前何したんだ?)

と声に出さず言った。僕は両手の平を空に向けてアメリカンアクションをとった。もうさっぱりだよとばかりに。

 ずんずんと僕の鼻先まで顔を近づけ、「行くわよ」と有里が言った。

「どこに?」僕はきいた。

「いいから来い」脅すように言われて、僕は仕方なく有里のあとを追った。


105

 賀茂川沿いの中学校前のバス停で有里と一緒にバスを待つ。とても機嫌が悪そうな上、走ってきたから興奮して肩が細かく上下している。話しかける雰囲気じゃなかった。

 黙ったまま苦痛の時間をすごしているうちに、バスが北のほうから滑り込むように停車し、僕たちはすぐさま乗車した。運の悪いことにふたりがけの座席しか空いていなかったから、僕は吊革を持って立っていることを選択したんだけど、有里が僕の腕を引っ張って無理やり僕を座席の奥に、文字通り蹴り込んだ。そして自分はそのとなりに腰かけて、ふうと息をはいた。バスは何事もないかのように発車したけど、周囲の乗客は何事かと、僕たちを見ていた。

「あんまり暴れないでよ。みんな見てるじゃない」僕は有里に向かってささやいた。蹴られた太ももが痛かった。加減せずにクリーンヒットさせてくるからとても痛い。巧はこの暴力によく長年つき合ったものだ。

「全部あんたが悪い」どすの利いたうす暗い声だった。「せっかく私が手間をかけて準備したってのに。あのくそばばに愛想振りまいて抱き込んで、パ、お父さんにかなり無理言ってちょっと脅して自販機に細工してもらったのよ」

「いやでも学外まで有里の手が及んでるなんて気づかないしさ」

「あのばばから私のこと聞いて、ぴんとこなかったの?」

「いやそりゃ名前を聞いたとき、もしかして、とは頭をよぎったけど。確認するにはおばあさんと話さないといけなかったし、そんな気分じゃなかったんだ」

「たしかにばばと話すのは面倒よ。なんか辛気臭いしゃべり方するしね。でもなんとなく感じとるべきよ」

「そんな無茶な」

「もうしゃべんな」

 バスが着くまで、有里は貝のように口を閉ざし、となりに座る僕を漬物石のように扱った。おかげで居心地が悪く、僕は諦めて黙ったまま窓の外を眺め続けていた。


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 降りたところは、昨日本屋を探して迷い込んだ繁華街だった。今日は昨日に増して人の数が多い。昨日と同じ人たちにいくらかかさ増ししてあるんじゃないか、と思えるほど顔ぶれに見覚えがあった。たぶんみんな休みの日にやることがなくて、ひたすら繁華街を練り歩いてひまをつぶしているんだろう。

「こっち。時間も微妙だから、走るわよ」駆けだしていく有里のあとを追っていった。

 鴨川にかかる橋を渡り、三条駅ビル交差点の信号を待っている間も有里はそわそわと勇み足を踏み続けていた。じつに滑稽な様子だったから、僕はあたかも他人を装い有里から距離をとった。「旅の恥は掻き捨て」なんていうけど、それは羞恥心を以前の旅で旅館に忘れてきてしまった人たちがいう妄言だ。

 信号が変わると有里は誰よりも早く駆けだしていった。そんなに急がなくても。

 行きかう人の隙間を縫うようにして、僕たちは駆けていく。なんとなく青春の香りがしたけど、じつにうそ臭く、人口の香りだったから僕はまったく感動しなかった。だけど有里とふたりで一緒に行動するというこのシチュエーションは悪くない。

 いくつか信号を越えて、その間有里から距離をとってという行程をくり返し、琵琶湖疏水にかかる橋を渡ると、平安神宮の鳥居の目の前に着いた。これで見るのは三度目だな。

 有里は左側の足元に近づいていって何かを確認している。僕は少し距離をとって有里の背中を見つめている。となりに並ぶ気には到底ならなかった。というのも、有里の行動は傍目から見たら、たちの悪いいたずらに見えるからだ。

「やっぱり開けたあとがない」とかなんとかしばらくぶつぶつ言ったあと、ふいに僕のほうを振り向いて有里はさけんだ。「ちょっと!」

「どうしたの」やる気を消費税分くらい含ませて僕は返事した。

「地図を手に入れて、それからどうしたの?」僕に詰め寄ってくる有里には威圧感があって、少し身じろいだ。

「いやどうもしなかったよ。鍵がいるみたいだったけど、面倒くさかったから」僕は正直に答えてすぐ後悔した。それは有里の顔を見れば誰でもそうなるだろう。

「老先生が正直なのをほめてたけど、私はほめてあげないわよ」とても冷たい声だった。

「いやだから何度も言ってるけどごめんって」

「謝られたのははじめてよ」

「まあとにかくさ、なんなの?」

 有里は僕の言葉を無視して図書館のほうへと歩いていく。あまりの理不尽さに、ちょっとだけかちんときてしまったけど、理性を総動員して感情を抑制する。

 図書館前の公園の自販機の前で有里は立ち止まり、僕が来るのを待っている。僕の素直さが息をひそめることを企み、かわりに意地悪さが表立って出てきたから、僕はわざとゆっくり有里のところまで歩いてやった。

 僕をじっと睨む有里の目を見据えて、できるだけ攻撃的な視線を送り返す。

 遊具の近くでエサを探していたハトたちが幼児に追い回されてぴょんぴょんと逃げ惑っている。その様子がおかしいのか、満面の笑みを浮かべる幼児が、僕たちの脇を通ってから、表情を変えて遠くへ離れていった。

 張り詰めた空気が漂っているのがわかった。原因は有里にもあるけど、僕にもあるだろう。片方を有里が引っ張って、もう片方を僕がぴんと引っ張っているわけだ。僕らがつくり出した空気といえる。

「何か言ってよ」有里が沈黙を破った。

「何を」冷たく突き放すように僕は言った。

「いいからしゃべりなさいよ」

「いいよ。僕らここに何しに来たの?」

「あんたが無視したものをとりに来たのよ」

「それいるの?」

「いるわよ」

「なんで」

「あんた今日誕生日なんでしょ」

 言葉に詰まった。

「ほら」有里は僕の手を引っ張って何かを握らせた。

「これが、そうなの」ちょっと苦労して言葉をひねり出す。

「早く行きなさいよ」

 話は終わった、とでも言うように、有里はぷいっとそっぽを向いてベンチに腰かけた。僕を見ないし、どこも見ていないようだった。


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 僕は渡された鍵を持って鳥居の足元へと戻った。ぐるりと一周まわって確認し、昨日見つけた小さな扉の鍵穴を睨んだ。まるで中から何か漏れだしているんじゃないかとチェックするように。

 僕は鍵を差し込んで右に回した。重いごろりとした音が鳴って、鍵が外れたのがわかった。

 取っ手がないから扉のふちに指をかけて手前に開く。かがみこんで中を見る。内部は小さなコンクリート壁の部屋になっていて、中央にきれいにラッピングされた包みが置いてあった。

 僕は小部屋から顔をそらしてまわりの様子をうかがった。じつに奇妙なことに、行きかう人は誰も僕に気を留めない。絶対傍から見たらおかしな光景だと思うんだけど、誰ひとり、足を止めて僕を叱る人はいない。こんなことってあるんだろうか。

 いや絶対ない。

 有里が関わっていないかぎり。

 気づくと、有里が僕の背後に立って、僕を見下ろしていた。数歩進んで僕のとなりにかがみこむ。

「開けてみてよ」まるで知らない人の声みたいだった。それくらい優しく感じたんだ。

 部屋の中に両手を入れてみる。ひんやりと冷たい空気が収められていて、冷蔵庫みたいだった。これなら包みの中身が生ものでも大丈夫だろう。

 包みを取り出して、僕は地べたに正座してひざの上に置く。スカイブルーのリボンをひも解いて、白の下地に黒の幾何学模様の入った包みを破かないようにしながら中身を取り出した。

真っ白な本が出てきた。

 僕はとなりにいる有里の顔を見た。

 となりにいる有里の顔は、

 笑っていた。

「これって」思っていたより落ち着いた声が出て、自分で少し驚いた。

 有里の顔が近づいてくる。

 僕の耳元で有里は、

「誕生日おめでとう、正宗」

 と言った。

 それはとても甘く、ふんわりとしていた。

 その言葉は一瞬だったけど、間違いなく、その瞬間は、僕が座っているこの場所が、世界で一番優しい瞬間だったに違いない。

 有里は顔を離しても笑顔のままだった。頬にかすかに赤みが差している。

 僕は動揺も狼狽も感動もしなかった。

 ただ、優しさにくるまれて、暖かくて、素直に思ったことを口にした。

「ありがとう。これからもよろしく」



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