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巧はトイレに行くと言って席を立った。談話室から出ていくのを確認してから、僕は席を移動して有里が正面に見える位置についた。
「あのさ、さっき巧と話してたんだけど」僕が切り出すと、有里はばっと片手をまっすぐ僕のほうに伸ばして「待った」のポーズをした。
「それはもういいの。私がわがままだった」有里の声は消え入りそうに小さかった。やっぱりちゃんと気づいて考えていたんだ。
「巧も有里はちゃんとわかってるって言ってはいたんだけど」
「本当の気持ちを巧に言っても、返してくれない。答えてくれない。だからべつに言わなくてもいい」固い表情で有里はまくし立てた。
「それでいいの?」最後のつもりで僕は確認した。
「いい。私がそう決めたから」返ってきた答えの力強さを感じて、僕は頷いただけだった。
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巧が帰ってくると、老先生が話しはじめた。
「では少し数学をしよう。正宗君、今日でいくつになった?」
「12歳です」
「では昨日までの君は11歳だったわけだ」
「そうなりますね」老先生が何を言おうとしているのか、僕にはまだわからない。
「昨日までの君は11歳として一年間すごしてきたわけだが、その一年間は、君の人生においてどれだけの割合を占めるかね?」
僕は問題を頭の中で整理する。昨日まで僕は11歳だった。つまり僕の人生は今日でちょうど11年間ということになる。割合を考えるんだから、これが分母だ。
次に分子に持ってくる要素が何かを考える。これは簡単だ。11歳だったころの一年を持ってくればいい。つまり、11分の1だ。
「わかりました。11分の1です」
「正解だ。ところでその一年間はどんな年だったかね?」
「ええと、それなりに楽しい一年でした。満足はしませんでしたけど」
「ほう、どうしてだ?」
「今みたいに、環境に恵まれていないというか、今ほど充実してなかったからだと思います」
「なるほど。その数字は、君の人生における11歳のときにすごした一年の感覚を表している。人生の11分の1は環境に恵まれず満足できなかったが、悪くはない年だったということだ」
たしかにそうだ。だけど、この話はどこへ向かうんだろう。
「では君が11になったときはどうだ? つまり10歳ですごした一年の割合は?」
「それは、同じ計算方法ですから10分の1です」
「正解だ。同様にさらに遡って考えていきなさい。そしてすべて年齢の大きい順に並べてみるのだ」
ええと、11分の1、10分の1、9分の1と続いていって……最後は1歳のときだから、1分の1、つまり1だ。
「11分の1からはじまって分母が1ずつ小さくなり、最後に1が来ます」
「正解だ。ではそれらをすべて足し合わせるとどうなる?」
足すのか。全部分母が違うから、計算がすごく大変だ。1から11までの最小公倍数を分母に持ってきて通分する。そしてそれぞれの分子を計算して足し合わせて、簡易化、つまり約分して答えが……。
「ええと、暗算じゃちょっと難しいです」僕は正直に言った。老先生はこう答えても怒ったりしない。それはもうわかっている。
「計算はしなくてもよい。式が提示できればそれでよいのだ。言ってみなさい」
それなら簡単だ。
「式は、
1/11+1/10+…+1/2+1
です」
「正解だ。この式は、君が人生で感じた一年の感覚の総和を表している」
一年の感覚を足すなんて、思いつきもしなかった。でも足してどうなるんだろう。感覚の総和とは、何を意味しているんだろう。
「次に、君が中学に上がり、13歳になったときのことを想像する。12歳の一年の感覚は? きかずともわかると思うが、12分の1だ。その次は13分の1。そして14分の1……延々と死ぬまで続いていく。こうして歳をとるごとに、一年の感覚は減少していき、しかし新たな感覚として増加していく。減少しながらも増加するものを足し合わせると、いったいどうなるのか? 考えてみたまえ」
「先生」巧が手を上げた。「終わりはいつに設定すればいいですか? 俺たちはいつ死ぬかわからないんですから」
「よい質問だ」老先生はほほ笑んだ。「そう、いつ死ぬかわからない。なので、仮定として、死なない場合を考える。つまり延々と歳をとり続けるのだ。ではやってみたまえ」
さっきと同じ要領でやれば大丈夫だ。ただ、計算に終わりがない式になってしまう。これでは答えがわからないんじゃないかな。いわゆる無限ってやつだ。
「はい、わかりました。答えは、
1+1/2+1/3+1/4+…
になります。無限に続いていきます」
「正解だ。ではこの式の解はいくつになると思うかね? 項は無数に存在する。しかし、
徐々に減少していき、どこまでも小さくなる。この世に存在するどんなものよりも小さいが、たしかに存在し、それが無限に続いてゆくのだ」
分母が大きくなり続け、分子が1のままだったら、たしかにどこまでも小さくなるだろう。有里のバストサイズよりも小さくなるし、リリィのトゲ一本の長さよりも小さくなる。どこまでも小さくなって見えなくなって、それでも存在するって、いったいなんだろう。なんのためにあるのかわからないじゃないか。
巧と有里を盗み見ると、ふたりとも難しい顔をしながら頭を高速回転させているようだった。髪の毛の隙間から煙が上がるんじゃないかっていうくらい考えているに違いない。僕もそうだけど、とっかかりが見つからない。考える糸口があればなんとかなるのに。
思案顔の僕たちを眺めて満足そうに老先生は言った。
「これぞ数学の本質。数学は無限を見捨てない。終わりのない旅人のサポート役なのだ。ほかの分野では投げ出してしまうところを、数学は投げ出さない。きちんと考える。それが数学の優しさだ」
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老先生はまた一服と言って、談話室から出ていった。さっきと同じように、僕たちは老先生の言葉の余韻に浸る。ふたりとも遠い目をしている。
僕は頭の中で解法を模索していた。無限に続く分数の列。どこまでも小さくなるけど、どこまでも続いていく。まるでしぼんでいくけど決して消えない記憶のかけらみたいだ。
「こりゃムズいな」巧が諦めたように呟いた。「お前らわかったか?」
「いやまだ」僕は答えた。
「私も」有里はお菓子に手を伸ばして口へと運ぶ。「全然わからない」
「どう考えたらいいんだろう」
「明確なことを整理してみよう」巧が言う。「まず俺たちは歳をとらない。だから一年ごとに、一年の感覚を積み重ねていく。ずっとだ。終わりはない。ただ、その感覚は年々小さくなっていく。だけど、数としてはたしかに存在する。つまり有限だな。有限を無限に足し合わせるんだから、答えも無限になるんじゃないか?」
巧の考えに矛盾はない。小さくはなるけど、ゼロじゃないんだ。だから、足していくとどこまでも増えていく。だけど。
「無限に小さくなる数を足しても、積らないんじゃない?」有里が意見を言った。僕は開こうとした口をぐっと結ぶ。
「でも有限なんだぜ。ゼロじゃない」巧が自分の考えと照らし合わせて反論する。
「学校のプールに醤油を一滴入れても、全体的な変化はないでしょ? それと同じじゃない」
「いや、目で確認できない程度に水面が上昇するはずだ」
「でもなんかおかしいわよ」
「論理的に言えよ」
ふたりの意見は両方正しいように思えた。有限項の無限和は無限だ。ただ、その有限項は無限に小さくなる。
無限の有限を無限に。
本当に答えなんてあるんだろうか。
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老先生が戻ってきた。座るのを確認してから、巧が切り出した。
「先生。俺は解が無限になると思います」
「ほう。なぜだね?」
「項がどこまでも小さくなるとはいえ、結局は有限の値です。それらを無限に足し合わせるんだから、解も無限になるはずです」
「よろしい。有里君は? どう考えたかね?」
「私は無限にはならないと思います」
「どうしてだ?」
「数学には大雑把なところがあります。たとえば円周率なんか、小数点がどこまでも続きますけど、πって記号で書きますよね。それと同じで、無限に小さい分数はゼロと見なすんじゃないかと思います。だから、ずっと足し続けていくと、ゼロをいつまでも足していくことになりますから、答えは一定値で表せる気がするんです。いくつかはわかりませんけど」
「なるほど。正宗君は?」
「僕は、その、問題が矛盾している気がしました」
「ほう。というと?」
「無限の有限を無限に足すことに違和感を持ったんです。無限を二回使うのってずるい気がして。だから解はわからないんじゃないかと思いました」
「よし」老先生は湯飲みを口につけた。「三人ともよい考察だ。各々に個性があって愉快
だな」
僕たちは老先生の反応を待った。意見は全員ばらばらでどれかが正解かもしれないし、全部間違っているかもしれない。こういう緊張感と競争力が、レオンハルト生には自然と芽生えてくる。
湯飲みのお茶を飲み干して、老先生は立ち上がった。ゆっくりとした動きだった。
「では、特別授業だ」
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談話室から教室に場所を移して、老先生の特別授業ははじまった。
「まず考える式を明確にしよう。あえて項を多く書く。第9項までがよいな」
老先生はホワイトボードに分数を並べて書いていく。僕がさっき答えた式だ。
1+1/2+1/3+1/4+1/5+1/6+1/7+1/8+1/9+…
「次に式に少し手を加えてやる。変形はしない。ただ括弧を挿入するだけだ。この意味をよく考えることが大切だ」
老先生は項の間に括弧を書きいれていく。まだ僕にはそうする意味がわからない。
1+[1/2]+[1/3+1/4]+[1/5+1/6+1/7+1/8]+[1/9+…]+…
「巧君。9分の1の括弧の中に含まれている項の数はいくつだね?」
「はい。8つです」
「正解だ。有里君。どうして8つなのか説明したまえ」
「はい。はじめの1を無視すれば、括弧の中の項数が右へ行くにつれ2倍になっているからです。9分の1の手前の括弧内の項数は4ですから、次の括弧には8つの項があるはずです」
「正解だ。正宗君。ではどうして1は無視されるのか答えなさい」
僕への質問は妙に難しい気がした。お誕生日様の効力は、ここでは無意味なものだ。
「はい。1だけ分数ではないからでしょうか」
「1は分数で表すと1分の1だ。よって君の解答は正解とはいえない。ほかにないかね?」
「いえ、わかりません」僕は正直に答えた。でもべつに恥ずかしくない。答えがわからないから恥ずかしいなんて感情、レオンハルトでの最初の授業のときに捨て去ってしまっていた。
「いやこの質問はいささか難解だったな。だが仲間はずれを見つけるという方法は、様々なところで有効だ。その視点は大事にしなさい」
「はい」
「では皆にきく。どうしてこのように括弧をつけたかわかるかね?」
さっきからずっと考えているんだけど、よくわからない。ヒントが提示されている気がするんだけど、そのかたちが掴めない。まるで空に浮かぶ雲で数式を書けといわれているみたいだ。
巧と有里も思案顔のまま答えない。老先生は質問の答えを急がないから、ずっと黙って考え続けても何も言われない。そう理解しているから、ゆっくり考えることができる。
「おそらく様々な思索が錯綜していることだろう。指針としてひとつ授けるが、括弧内の最後の項に注目することだ」
最後の項。はじめは2分の1。次が4分の1で、その次が8分の1だ。次は、ええと8つの項があって最初が9分の1だから、ええと、16分の1。へえ、きれいに2分の1倍になっている。この規則性が何を意味しているのか……
「先生、わかりました」巧がマーカーを置いて老先生に向き直った。
「言ってみなさい」
「括弧内の項の数と括弧内の最後の項をかけると、すべて2分の1になるように、括弧がつけられています」
「正解だ。では次にいくとしよう」老先生はマーカーを握った。正解が出たら未解答の子がいても次に進むのが老先生式だ。ついていくには理解するしかない。
「書いてみればわかるが、この先もずっと法則に従って括弧をつけていけば、つねに項数と最後の項の積は2分の1になる。ところで、最後の項は常に括弧の中で一番小さい。それは明らかだ。つまり、括弧内の項をすべて最後の項に変換してしまうと、次の不等式が成り立つ。
1+[1/2]+[1/3+1/4]+[1/5+1/6+1/7+1/8]+[1/9+…]+…
>1+[1/2]+[1/4+1/4]+[1/8+1/8+1/8+1/8]+[1/16+…]+…
「さほど難しくないな。ただ、この発想には数学的センスを要求される。こういった閃きを体得できない者が、数学を嫌って敬遠し、自分たちを文系と呼ぶ」
むかし、母さんが似たようなことを言っていたのを思い出した。
「括弧内の項はすべて同一のものなので、さらに式の簡易化が可能だ。計算するとこうなる」
1+[1/2]+[1/2]+[1/2]+[1/2]+…
「じつに簡単な式になった。1に2分の1を無限に足し合わせただけだ。この式の解はどうなる、正宗君?」
「無限に増えていきます」
「正解だ。ここで先ほどの不等式を思い出そう。もとの式は、この無限に増える――正確には正の無限大に発散するというが、この式よりも解が大きくなることを表している。では無限大よりも大きなものとは何かね?」
無限大よりも大きなもの? そんなもの定義できるんだろうか。
「はい」有里が手を上げた。
「有里君」
「無限大の定義から考えて、無限大よりも大きなものはないんじゃないですか?」
「無限大の定義とは?」
「ええと、どんな数よりも大きな数を無限大といいます」有里はちょっと自信なさげに答えた。
「それでよい。たしかに一見矛盾しているように思える。ではこんな話をしよう」老先生はマーカーを置いて、僕たちに床に座るよう手で促した。
「二十世紀を生きた偉大な数学者にダーフィト・ヒルベルトという人物がいた。彼は無限論について講義するとき、こんなたとえ話を持ち出したのだ」