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夕食にピザの残りを食べた。知らないかもしれないけど、冷めてレンジでチンしたピザほどまずいものはない。冷たいままのほうがまだ食べられたものだ。
早くもデフォルトになってしまったリビングフォレストのソファに座って、ひざの上にサボテンを乗せてくつろいだ。母さんにこのサボテンをキープしてもいいかときくと、「私の愛に満ち満ちたプレゼントよりもそんなとげとげで攻撃してくる草っころがいいんだ」と嫌味を呟かれ、機嫌をとるのに無駄な苦労をした。それでも僕はサボテンがほしかったから仕方がない。
僕はサボテンに「リリィ」と名前をつけた。和訳すると百合だ。べつに何か狙ったわけじゃなくて、単にリリィって名前が好きなんだ。将来子供を持ったとき、女の子だったら名前を「りり」にしようと思うくらいに。漢字は考えてないけど、適当に当てるつもりだ。
リリィの定位置をパソコン机の上に定めた。水をやるときは気をつけなければいけない。ビニルテープにマジックで名前を書いて、鉢の側面に貼ってやった。かわいらしい。
パソコンの電源を入れてリリィをなでる。僕のうしろで母さんが巨大なガジュマルを動かそうと格闘しながら、妬みのこもった視線を僕の背中に突き刺してくる。そのせいか、背中がかゆい。
「何してるの」険のある言い方をする母さんだ。サボテンに嫉妬するなんて情けない。
「いやね、今日買った本が面白かったから、詳しく調べてみようと思って」
「ええっ、正宗くん本買ったの?」ガジュマルを放り出して僕に近寄ってくる。「なんの?」
「ええとね」僕は立ち上がってカバンから本を取り出し、母さんに見せた。「これ」
「へえかわいいね、数学の本かぁ。ちょっと見せて」
本を渡していすに座る。インターネットにつないで書名を検索してみた。何十万件というヒット数だ。インターネットって何を検索してもすごい件数が出てくるな。いったいすべてのコンテンツ数はどれくらいなんだろう。数学では問題ないけど算数では扱えない数かもしれない。
一番はじめのページにつなぐ。書名がどんと現れ、読者へのメッセージが書かれている。どうやら著者のページみたいだ。
「ねえ母さん」僕は母さんにきいてみた。「萌えってどういう意味?」
「女の子の名前でしょ? 辞書で調べてみたら?」意外なことに、母さんは熱心に本を睨んでいる。
さっそく調べてみた。萌える。意味は、芽が出る。利息がつく。
「芽が出るか、利息がつくだってさ」
「そんな意味なんだ。日常会話で使わないわね。なんでそんなの気になるの?」
「いや、ここに書いてあるからさ」
「どれどれ」本をいったん閉じて、母さんはディスプレイを覗き込む。
「最強の萌え? どういう意味よ?」
「それがわからないから調べたんだけど、どっちにしても意味の通る文章にならないね。最強の利息っていうのはちょっとこわい感じがするけど」
「最強だから、借りたらそのときから即利息がつくんでしょうね。あるいはお金じゃなくて臓器とかで支払うのかも。その場合、最恐の利息ね」
「どっちにしてもいまいちだね。やっぱり何かべつの意味があるんだよ」
「そういうときはネットね。検索したらわかるんじゃない? 正しい意味が」
それもそうだ。母さんのこういうところには素直に感心させられる。
萌えで検索してみる。一番上に出てきたネット百科事典につなぐ。萌えとは、
「オタク文化におけるスラング?」意味がわからず読みあげてしまった。
「何オタク文化って。いつの時代?」僕と同じ疑問を母さんも抱いたようだ。
「アニメとかへの感情の表れだって。ええと、要するに好きって意味じゃない?」
「じゃあ好きって言えばいいじゃない」
「そうだよね」
もとの意味がまったく含まれていない。どこから持ってきたんだろう、萌えって言葉を。
「スラングってなんだろう」
「ほらリンクしてるよ。見てみようよ」知らないことに母さんはのりのりだ。
「スラングは、ああ、俗語だって」
「つまり、萌えってのは一部の人たちの中で通用する言葉なのね。じゃあ覚えなくてもいいわね」
「そうだね。その本が最強の萌えだ、ってことは、その筋の人たちがもっとも好むってことかな」
「理系の人たちにとって、ってことね」
「そうだね」
「正宗くんさ」
「何?」
「萌えた?」
「え?」
「この本」
「うーんそうだね、好きだよ」
「これで正宗くんも立派な理系少年ね」
「そうなのかな」
「そうでいいの!」そう言ってなぜか母さんは僕を抱きしめた。こっそり耳元で呟いた言葉は、どういうつもりなのかよくわからなかった。
「血は争えないものねえ」
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目が覚めると誕生日だった。
そう、今日は僕の誕生日。一年の中でも特別な意味を持つ日だ。ただその日に生まれたってだけで、こんなにもてはやされるなんて、不思議だと思う。誕生っていうことに、それほどの価値があることを表しているんだろう。
ゴールデンウィーク中だから当然学校は休み。下手に意識して学校に行かなくてすむ分、恵まれていると考えることもできる。誕生日に学校に行くと、妙に意識してしまって、絶対居心地が悪いと思うんだ。お祝いの言葉をもらったり、「あ、今日誕生日なの? 知らなかったよ」なんて言われて傷ついたりする必要がないから。
とは言っても、朝することは何も変わらない。いつも通り顔を洗って髪を整え、朝食の用意を――
「おはよう、正宗くん!」キッチンには豪華な朝食と一緒にご機嫌な母さんが用意されていた。リビングはやっぱり森のままだった。
「おはよう。早起きだね」僕の口から出た声は寝ぼけたままだった。
「そりゃ、お誕生日様が起きたときにぐうすか寝てたとあっては、母親失格ってなもんですよ」
「そうなんだ。ところでその朝ごはんすごいね。つくったの?」
「そうそう。風呂敷をめくるとこれ全部用意されてたの」
「へえ」わざと冷たい声で言った。
「もう、ごめん! つくったの!」
「それはありがとう。とりあえず顔洗ってくるよ」
「お早くねぇ。冷めちゃうから」
言われた通り、さっさと顔を洗い、髪を整えリビングに戻る。テーブルについて改めて見てみると、朝食にしてはけっこうな量だ。
「こんなに食べきれないよ」
「大丈夫、残ったら私が全部平らげるから。ふっふーん、正宗くんの誕生日って私も楽しいんだよね。豪華なごはんつくって、たくさん食べられるんだからさ」
じゃあいつもは手を抜いているのか、とつっこみたくなったけど、よく考えるまでもなく手を抜いていることは明らかだ。明太子の料理なんてどれも手軽で簡単につくれる。
「いただきます」
「はあい、召し上がれぇ」なんとなく命令されているみたいな口調だった。
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無理はしてないんだけど、意外にすいすいと箸が進んだものだから、食べ終わっても僕は苦しくていすを立つこともできなかった。
「ねえ、悪いけど何か飲み物を」ふうふう言いながら僕は頼んだ。「動けないんだ」
「けっこう食べたねえ正宗くん。そんなに私の料理がおいしかった?」牛乳を注ぎながらうれしそうに母さんは言う。
「よくわからないけど、勝手にお箸が次々と掴んじゃうんだよ。それは僕がおいしいと感じてるからかな」
「自分の気持ちでしょ? 自分でわからないの? お箸のせいにしちゃダメ」
「でも本当にお箸が勝手に動いてるような気がしたんだよ」
「もう素直じゃないわね。おいしかったです、って一言いえばいいのよ!」
「おいしかったです」
「よろしい! さてお誕生日様。今日のご予定は?」
「え?」
そうか。母さんのイベントは昨日で終わってしまったから、今日は何もすることがない。巧と有里からも何も言われてないし。
そう、ふたりから何も連絡はなかった。学校があろうとなかろうと、同じことだ。
「何もないよ」僕は答えた。
「そうかな? 本当にそうかな?」
じりじりと僕に顔を寄せて、母さんは変な顔をする。怒っているような喜んでいるような、なんとも読みづらい表情だ。
「どうしたの?」少しだけ期待を込めて僕はきいた。
「昨日ね、電話があったの。たーくんから」母さんは僕のとなりに座って、ふと緩んだ表情をつくった。「はじめてお話したけど、なんかもう、とってもしつけがいき届いてるって感じね。あの話し方」
「なんて言ってた?」ちょっと身体を乗り出す。心の中にふわふわしたうれしい気持ちが湧き起こっているのがわかった。
「あらうれしそう。今日のお昼に、塾に来るように伝えてくださいって。私さえよければ、だってさ。正宗くん普段私のことなんて言ってるの?」
「いや、ありのまま起こったことなんかを話してるんだけど」
「なんかたーくん、私に変な印象持ってるんじゃない?」
「変って、どういうふうに?」
「わかんないけど、なんか、すごい私に気を遣うような言い方だったの。そのへんはあんまり隠す様子もなかったから、正直な子だなあと思った」
「巧はそういうやつなんだ」
「ふうん。そういうやつね」母さんは僕の手を取ってまっすぐ僕を見た。
「行ってらっしゃい、お友達のところへ」
僕は手を握られたまま、上手い言葉が見つからず、感情を持て余して黙り込んでしまった。やっとの思いでひねり出した言葉は、涙ぐんでかすれていた。
「ありがとう」
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昼になるまでそわそわしながら、僕は母さんと一緒にリビングの片づけをした。
母さんは、「このままでもいいよう」と拗ねていたけど、こんなに緑一色のリビングは落ち着かないと僕が主張し正当な理論を展開したところ、ぶうぶう言いながらもしぶしぶ片づけることに同意した母さんは「素敵なインテリアだと思うけどなあ」とずっと呟いていた。
小さな鉢は、適当に場所を見つけて部屋に飾ることにして、部屋のスペースの八割を独占する巨大なガジュマルだけ排除した。「ああ、アンディ」と誰だかわからない名前を呼びながらリビングから運び出す僕のうしろでおおげさなシーンを演じている母さんは、百年修業しても宝塚の舞台には立てないだろう。
ガジュマルが倒れてきて僕を練りものにしようとしたり、慌てた母さんが駆け寄ろうとしてサボテンの鉢を蹴飛ばして割ってしまったりと、些細なトラブルもあったけど、昼前にはなんとかある程度片づいた。壁に貼られていた迷彩模様もすっかりはがして、もとの白くさっぱりした空間だ。各所に置かれた植木鉢の緑が、控え目なアクセントになって一層美しい部屋となった。白と緑って友好色なんだな。
ちょっと運動したおかげで、身体の調子もすごくいい。朝食はまだ消化されていないだろうけど、収まるところに収まって、僕の邪魔をしなくなった。とっても気分がいい。これまでで最高の誕生日の午前中だ。
ふいに有里の手紙を思い出した。「五月二日を待て」と書かれた手紙はやっぱり誕生日を意味していたんだろうか。レオンハルトに行ったら巧と有里に会える。いやよく考えたら有里がいるかどうかはわからないんだけど。でもきっといるだろう。気分は天にも昇る絶好調だ。
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出かける直前に母さんが、「おなか減らしてきてね。おいしいケーキとごちそう用意してるから!」と言った。やっぱり今年もケーキはあるのか。
正確な時間の指示がなかったから、お昼という時間帯を僕の感覚で捉え、十二時すぎに家を出た。ところでお昼って何時だろう。何時から何時までが昼なのか、明確な定義はあるんだろうか。
五分ほどでレオンハルトに着いた。いつもと何も変わらない。僕の誕生日だからって、レオンハルトが突然コンビニになったり豪邸になったり株式会社になったりはしない。そりゃそうだ。僕は誕生日熱があるかもしれない。
いつも通り勝手に中に入る。インターホンは押さないのがレオンハルト生の常だ。セキュリティが甘いことこの上ないけど、これまでなんの問題もなかったらしい。
玄関には誰もいなかった。教室のドアの向こうにも人の気配はしない。靴を脱ぎ、談話室のほうへと僕は進んでいってドアの前に立った。中から話し声が聞こえてちょっと安心する。
僕は思いきってドアを開けた。
「おっ、来たな」巧が僕の姿を認めて言った。
「こんにちは」冷静を装って僕は挨拶した。
談話室には巧と有里、それに老先生がいた。いつもの談話室の風景だ。なんら変化はない。まあそこまでは期待していなかったけど、もし飾りつけなんかがあったらうれしいな、くらいには気にしていた。
「誕生日だそうだな、めでたいことだ」老先生が優しく言った。
「ありがとうございます先生」
「いや急に悪かったな」巧が照れくさそうに頭を掻く。「六年にもなって誕生日会ってのもどうかと思ったけどよ、お前のために何かしてやりたくてな。言い出したのは俺なんだ。ささやかな誕生日プレゼントな」
「ほんとに? 正直うれしいよ。僕もパーティとかにぎやかなのは苦手だし、おおげさにされても恥ずかしいから。当日に集まってくれただけで充分なんだ。それにこういうのはじめてだし」
「そうなのか? そりゃよかった。どの程度の規模でいこうか企画段階で迷ったんだけど、ささやかに有意義なくらいがお前にとって一番じゃないか、って有里がな」
僕は有里に視線を送る。「ありがとう」と言いそうになって、僕は口をつぐんだ。
なんとなくわかったけど、有里は不機嫌だ。
「あ、あの、ありがとう」
「いいのよ」発した一言にはなんの感情もこもっていなかった。怒ってるんだろうか。
でもどうして?
「えーと、今日なんも予定はなかったのか? ほら、お前の母親のとかさ」巧が空気を読んで話題を提供してくれた。こういう気配りは見習わなければいけない。
「いや悲しいことに何もないよ」僕はシニカルなニュアンスを込めて言った。「それに母さんのイベントは昨日だったし。もう感想文にしたら原稿用紙十枚分くらいの内容だったよ」
「そりゃなかなかのレポートだな。愉快なもんだったのか?」
「今までで最高傑作だったよ」
「まあ座ろうぜ。話でもしよう」
僕たち四人はテーブル囲んでおしゃべりした。もちろんテーブルにはたくさんのお菓子と飲み物とグラスが乗っている。お菓子をつまみながら、僕が昨日の母さんのひとり劇について語ると、巧も老先生も笑いながら感想を言ってくれた。おおむね僕が思ったことと一致していた。
老先生は「それは百年ほど前の英国の絵本を参考にした物語のようだな。君の母君はなかなか勉強熱心なことだ」と言った。そういえば、図書館で絵本みたいなものを借りて穴が空くんじゃないかってほど読んでたっけ。つまり絵本のパロディだったわけだ。母さんが考えたストーリーにしては、よくできてると思った。
有里は、話は聞いているみたいだったけど何も発言はしなかった。こっそりと視線を追っていたんだけど、有里はテーブルの上あたりの空気をじっと見つめているか、しゃべっている人間に一瞥くれるかだけで、終始ぼんやりしていた。ちなみに僕のほうは一度も向いてくれなかった。
「でさ、なんでサボテンにリリィなんて名前つけたんだ?」軽快な調子で巧がきいてきた。「そもそもサボテンの魅力が俺にはよくわかんねえよ」
「サボテンはかわいいわよ」
急に発言した有里に驚いて、僕を含め全員が彼女を見た。視線の矢が自分の顔に集中していることを気にする様子もなく、有里は平然とお菓子を食べた。
「なんだお前、しゃべれるのかよ。黙ってるから魔女に声でも奪われちまったのかと思ったぜ」巧がほっとしたように笑いながら言った。
「そんなわけないでしょ。テレビの観すぎじゃないの、この変態」有里は巧に向かって悪態をつく。
「これこれ。私もサボテンにはどこか趣があってよいと思うよ。種類によってかたちが多様であるし、何よりあのトゲがよいな」老先生が和してくれた。僕はほっとする。
「先生まで何を言うんです」巧が小さな反抗心を示す。「トゲのどこに魅力があるんですか。なんのためについてるのかわからないし、そんなに本数が必要なのかも謎だし、何より、どうしてとがっていないとダメなんです」
「ひとつずつ回答していこう」老先生は湯飲みのお茶を一口飲んだ。この湯飲みは老先生しか使ってはいけないことになっている。同様に、若先生専用のマグカップもある。
「まずトゲの魅力だが、私はトゲそのものに魅力は感じない。重要なのは、トゲの生え方だ。あの規則的な配列に美を感じないか? その理由を突き止めたいとは思わないか? 自然の中に潜む規則性の発見は、人間の感性をこの上なく刺激する。数学は人間がつくり出した学問だが、こういった自然配列にも応用が可能だ。何もサボテンのトゲにかぎった話ではない。探してみれば、自然にできあがった規則性というものは、思いのほかたくさん見つかるのだよ。この思考こそ、人間のみに許された最上の遊戯だ」
巧はむうという顔をつくった。僕はすでに老先生の話に聞き入っている。
「次にサボテンにトゲがついている理由だが、私もよくは知らない。ただ子供のように直感的に考えると、外敵から己の身を守るためというのがもっとも納得のいく解説だろう。これについては巧君も本当は理解しているのだね?」
巧が首肯する様子は、じつに素直な六年生の男の子の理想像にみえた。
「またあれほどの本数の必要性だが、多数のトゲで身を覆うほうが、自己防衛機能として優れているからだと推察できる。軍隊などと同じで、ひどく戦闘に秀でたひとりの人間よりも多数の兵隊で防御するほうが、結果がよいということだ」
カンフー映画なんかでは、ひとりの達人がたくさんの雑魚キャラを次々なぎ倒していくシーンが多い。でも実際なら、うしろから武器でひと突きされただけで達人は帰らぬ人となるだろう。これがリアリティだ。
「最後にとがったものがついている理由だ。何よりということは、巧君はこの点が一番不可解であるというわけだね? つまり、己の身体を守るために剣山を身につけて敵を傷つけなければいけないのか、ということに疑問を抱いているのだな。たしかにそうだ。我々ならそんな必要はない。何も己を守るための手段が外敵への暴力だけではないからだ。我々は言葉を持つからな。しかし、それは人間の高度な知性が生み出す余剰の上に成り立っている。すなわち、知能を持たない植物は自己防衛として外敵を傷つける以外に余地がなかったというわけだ。しかし、我々は違う。この点を強調して回答の締めくくりとしよう」