目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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 歯を磨いたらさっさと出ていけと僕を追いやる母さんがいる玄関のドアをうしろ手に閉めて、僕はあてもなく歩き出した。カバンには三千円とピザが詰め込まれたタッパーが入っている。近くのバス停に停留していたバスに飛び乗り、空いていた席に腰を下ろして外を眺めた。

 現在時刻は午前九時すぎ。休日のバスは混んでいるものだと思っていたけど、まだ朝早いせいか人の姿はまばらだ。みんなこんな時間にバスに乗るくらいならベッドと融合するか電車や自動車で遠出しているんだろう。海外に行ったりする人たちもいるかもしれない。うらやましいな。

 ところでこのバスはどこに行くんだろう。今は南に向かって大通りを走っている。さっき賀茂川近くの中学校を通りすぎたところだ。このままだと、中心部のにぎやかな場所に連れて行かれるのかな。人がいっぱいいるところはあまり好きじゃない。

「こういう時間ってもったいないな」

 つい呟いてしまった。ひまなときって、僕は考え事をして時間の経過を忘れることができるんだけど、バスとか電車で揺られていると、どうにも集中力を欠いてしまう。小刻みな振動がせっかく固めた思考の土台を崩してしまうんだ。じゃあ外を眺めようと思っても、自動車っていうのはあっという間に通りすぎるものだから、入ってくる情報が多すぎる。頭が情報で飽和状態になって、整理するのが面倒になる。

 こういうとき、本があるといいんだな。有里を見習って、僕も本を読むようにしよう。

 そうだ、にぎやかなところで本を買って、バスに乗り続けよう。読書しながらいろんなところに行って、ちょっと見たらすぐ別のところへ移動するんだ。意味はないけど、楽しそうだ。

 しばらく何も考えないようにして目を休めていると、バスへの人の出入りが騒がしくなってきた。目を開いて車内をぼんやり見ると、いつの間にか満員バスになっていた。外に目を向けると、にぎやかさも一段と増していて、噴水のある大通り手前だった。右手にうちの学校の校舎三つ分くらいの大きな建物があり、スーツ姿のビジネスマン風の大人たちが蟻のようにうろうろしていた。

「次は四条河原町、四条河原町」車内のアナウンスが次の停留所名を伝える。あちこちにアーケード街へと続く路地が見える大通りをバスは通り抜けていく。この辺なら本屋があるだろう。

 僕は一日乗車券を買うことにした。市バスは五百円の一日乗車券があれば、その名の通り、一日何回でも使えるそうだ。でも使える区画がかぎられているから、あんまり遠くまで、たとえば京都の果てまでは行ったりできない。

 バスを下車してあたりを見渡す。巨大なビルに挟まれた大通りからのぞく空は晴天だった。行きかう人の密度はコーラの炭酸割合よりも高いだろう。

「とりあえず本屋を探そう」

 アーケードの下はすごい混みようだった。特に多いのは、大人なのか子供なのか判断しにくい年齢層の人たちだ。たぶん大人と呼べる年齢に達しているんだろうけど、服装の派手さのせいで、若くというか幼く見える。お金がかかっていそうな洒落た服装だった。

 外国人の姿も多い。どこの国の人かさっぱりわからないけど、すれ違うときに聞こえる会話に理解に追いつくほどではないものの馴染み深い感じがしたから、たぶん英語圏の人たちだ。彼らはここで何を目的として行動しているんだろう。間違っても本を買ってバスでぐるぐる市内を巡るためじゃないな。

 人々の足運びは異常に高速だった。急ぎすぎだと思ったけど、少ない休みを無駄な時間で消費したくないのかもしれない。僕は邪魔にならないように、できるだけ建物よりの端っこを歩いた。

 この通りにはカラオケ店がたくさんあった。しかもほとんど同じ系列のお店だ。まるでコンビニ感覚で店を開いている。コンビニはたくさんあっても困らないけど、カラオケ店はそんなにたくさんいらないんじゃないかな。それともみんなここに来ると無性に歌いたくなるんだろうか。僕はそうでもないんだけど。

 マッチ棒をランダムにつなげて並べたような道筋になっているものだから、自分がどこにいるのかもうわからなくなった。うしろを振り返っても、あまりの人の多さで、自分がそこを通ってきたとすんなり信じることができない。道は僕の前にしか続いていないようだ。

 のどが渇いたから、細い路地に並ぶ自販機でコーラを買った。二口ほど含んでカバンにしまう。まだまだ歩くから、炭酸は盛大に抜けてしまうだろう。

 アーケードの出口が遠くに小さく見えるほうへと歩を進めていく。通行する人たちはルール無用と言わんばかりにぐしゃぐしゃな通り方をする。左側通行、右側通行って分けたらいいのに。両側に店があるせいでそれもできないんだろう。ほとんどが猫のように店から店へとぽてぽて巡り歩く人たちばかりだ。

 ようやく空が見える通りに抜けた。でも上を見上げるひまもない。突っ立っていると、人ごみに押し流されてどこに連れて行かれるかわかったものじゃない。

 僕が歩いている通りは四条通りらしい。頭上にかかる看板でわかった。人が少なそうなほうへと歩いていくと、ジュンク堂書店があった。

「ずいぶんおしゃれな本屋だな」

 建物が真新しく見えるからか、本屋全体もきれいでおしゃれな印象だった。このビル全部本屋になっているのかな。いったい何冊くらいこの箱に収まっているんだろう。

 中に入るとすぐ新刊コーナーがあった。まったく興味が湧かなかったから、エスカレーターで上階に行く。案内の看板に「理数参考書」がある階をうろついていると、たくさんの数学書を見つけた。背表紙には難解な専門用語が踊っていて、棚全体が数学のダンスパーティー会場になっているみたいだ。その様子がおかしくて、僕は自分のダンスパートナーを探して棚の間をくまなくまわった。

 何冊か手にとってぺらぺらめくってみたけど、僕のパートナーにふさわしい人はいなかった。みんな僕よりずっと背が高くて知的で傲慢で、難しい言葉や数式を並べたてないと話もできないんだ。

「やっぱり僕くらいのレベルの人は棚に置かれないのかな」

 諦めてべつのフロアを探そうと歩き去ろうとしたとき、ふと一冊の本に目が止まった。表紙の美しさに目をひかれた。その本が蝶を呼びよせる美しい一輪の花に見えた。

 手にとって表紙をじっくり眺める。とても数学の本には見えない。鉛筆で書いたようなイラストのシンプルさが、数学という分野によくマッチしている。ふたりの女の子が描かれていて、ひとりがもうひとりを見上げている。目は書いてないけど、短髪の後輩らしき女の子からは、なんとなく先輩を尊敬する後輩の視線が想像できた。一方の先輩らしき女の子は、見られていることを気にする様子もなく、手元の本に視線を落としている。眼鏡をかけた髪の長い女の子だ。ふたりの雰囲気は冷たくもどこか落ち着く感じで、清々しい印象だ。

 中を見てみる。まず目次に目を通した。章題はとても数学書とは思えない。しかも登場人物すら設定されているみたいだ。まるで物語みたいに。

 ぺらぺらめくっていくと、ところどころに会話文があった。いくつか話を追っていくと、どうやら先輩が後輩に数学を教えるのと、その先輩がさらに賢い同級の子から数学を教わるという二本仕立てで、数学の議論が展開されているようだった。登場人物は高校生のようで、僕は高校数学の難易度の高さに度肝を抜いた。老先生が苦手だと断言したのもうなずける。高校生になったとき、僕がどの程度のレベルにいるかわからないけど、この本の登場人物のような議論はとてもできる気がしない。

 だからこそ、僕はこの本に大きな魅力を感じた。まるで大人のダンスパーティー会場に紛れ込んだ場違いな女の子みたいな本だったからだ。僕は表紙に手を当てて、心の中でつぶやいてみた。

(僕と踊ってくれませんか?)

 そんな妄想をもてあそんでいる自分がおかしくて、必死で笑うのを堪えながら裏表紙の値段をチェックしてみた。

「千八百円かぁ」

 どうして専門書っていうのはこんなにも高いんだろう。理科の図鑑なんて数千円するし。あんなもの、インターネットの記事を切って貼ってすれば無料同然でつくれそうな気がするけど。

「でもこれならいいか」

 というのも、この本には小説のような価値も盛り込まれているみたいだし、帯にも「数学物語」って書いてあるじゃないか。

 自分で選んで本を買うのははじめてだった。マンガとか雑誌を除けばだけど。そういえばマンガや雑誌って、本っていわない気がするな。本っていうとやっぱり小説とか、ええと、小説だけかも。どうしてだろう。

 一階に総合レジがあった。千円札を二枚渡しておつりをもらう。早くも残金は千円を切った。まだお昼にもなっていないんだけど、まあこれからお金を使うのは飲み物くらいだろうから大丈夫だ。

 ジュンク堂を出ると、向かいの通りにバスが停まっているのが見えた。この四条通りにもバスが走っているみたいだ。とりあえず右に曲がって歩いていく。こっちのほうが人が少ないからだ。

 バス停を見つけてしばらく待っていると、道路の混雑を器用にくぐるようにしてバスが寄ってきた。そういえば異常とも言えるタクシーの数だ。あれらが交通の潤滑を邪魔している。ここからあちこちに人を発信したいんだろうけど、自分たちが多すぎるせいで、まわりに迷惑がかかっていることへの罪悪感みたいなものはないんだろうか。仕事だから仕方ないのかな。

 バスに乗り込んで席を確保する。ふたり並んで座る席しか空いてなかった。しかもすでにひとり先客がいる。そんな席がいくつもあるのに、立っている人がたくさんいた。すぐ下りるのか、それとも座りづらいのか。だいたい割合は六対四くらいじゃないかな。

 僕はどちらにも属さない人種なので、遠慮なく一番近いところに腰を下ろした。さっそく購入した本を取り出す。帯をきれいに折りたたんで一番うしろのページにはさんでおく。あとでしおりとして使うためにとっておくんだ。

 目次を飛ばしてプロローグを読む。本当に小説みたいだ。数学という言葉や実際の数学者の名前がちらちら出てきたけど、本筋は高校生の数学にまつわる物語といったところだ。

 本なんて読むの久しぶりだな。最近読んだのは、たしか五年生の読書感想文の課題図書だったかな。何を読んだかまったく記憶にないのは、三日くらいかけて適当に読んだものだから印象に残ってないんだろう。面白いとかつまらないとかいう感想すら思い浮かばない。それと比べるとずいぶん高いレベルにチャレンジしてしまった。専門書の中では敷居の低いほうなんだろうけど、小学生が読むにはグラウンドを囲う巨大なネットくらい高い壁がある。よく見たら振り仮名もないな。まあそんなに難しい漢字も使われてないから大丈夫だろうけど。

 第一章をはじめから舐めるように読み進めていく。わからない専門用語や意味不明の数式は読み飛ばして物語に没頭していく。舞台となっている高校の図書室を自分の学校のそれと重ねて情景を思い浮かべながら、紙上と頭上でストーリーを同時進行させていく。

 徐々に外からの情報が遠のき、世界は僕の頭の中だけになった。


72

 ここは学校。図書室のドアの前に僕は立っている。中から人の気配はしない。

 僕はひとり。そばには誰もいない。

 引き戸を開けて中に入る。受付にすら誰もいない。でも書棚の隙間に押し込まれるように置かれた机には人がいた。

 眼鏡をかけた髪の長い女の子が座って本を読んでいる。僕の知らない顔だ。少なくとも有里じゃない。だってその女の子は僕よりも年上に見えるし、制服を着ているんだから。

 まわりをよく見まわしてみる。ここは、どこの図書室だろう。もしかして、よその学校の図書室に僕はいるのかな。だとしたら、どうして?

 彼女に近づいていく。絶対ドアの気配や足音で僕の存在を認識できるはずなのに、彼女は顔を上げようとしない。まるで、僕が見えないみたいに。この世界の人間じゃないみたいに。

「こんにちは」僕は声をかけてみた。

「ここは落ち着くわね」透き通るような、か細く美しい声が聞こえた。声が耳に届いた瞬間、さらさらの水になり、そこに留まってこだまするような感覚に陥って、不安だけどうれしいみたいな妙な気分になった。

「僕、正宗っていいます。あなたは誰ですか?」

「私はあなたのパートナーよ」

「僕のなんのパートナーなんですか?」

「あなたがそう願ったんでしょう? さあ、踊りましょう。ずっと待っていたのよ」

 彼女は立ち上がり、僕の目の前に立つ。頭ひとつ分くらい僕より高い。靴のせいかな、と足元に視線を落としてみたけど、彼女はありふれた上履きを履いていた。普通に、とても背が高いんだ。

「踊るってどうやって? 僕踊り方なんて知らないし、音楽もないよ」

「ただ、こうしてゆらゆらしていればいいの。踊りとはそういうものよ」

 彼女は僕の両手をとって、自分の背にまわし、そっと自分を抱きしめさせた。僕の目線がちょうど彼女の肩くらいの高さだから、顔をどこにやっていいかわからず、しきりにごそごそしていると、彼女が頬を僕の頭のてっぺんに押しつけて動きを止めてきた。僕が大人しくなると、彼女も僕の背に両手をまわして抱きしめた。傍から見たら、抱き合う男女の拙いダンスだろうけど、もう少し僕の背が高くないと絵にならない。これではまるで、泣きつく弟と慰める姉の一風景だ。

 ゆらゆらと彼女と踊るうちに、なんだか眠たくなってきて、彼女に体重を預けるようにしながら、肩に顔をうずめて目を閉じた。紺色のセーター越しに彼女の温かみを感じ、身体の芯から力が抜けて僕は立っていられなくなった。

 僕のひざが崩れ落ちるのと同時に、彼女も僕を抱きしめたままかがんで支えてくれた。

「どうしてだかわからないけど、力が入らないんだ」僕は顔を押しつけたまま、呟いた。

「大丈夫よ、大丈夫」彼女は優しく僕の頭をなでて手を添えた。「このまましばらく落ち着くまでこうしていましょう」

「なんだか眠いよ。目を開けてられないよ」

「いいのよ。あなたは私の中で眠るの。ずっとこうして。時が止まるまで、ずっと」

 僕の中の僕は、彼女の腕の中で眠る。僕が死ぬまで。彼女は死なない。僕を抱えたまま、ずっと生き続けるだろう。学問って、そういうものだ。


73

 バスは今どこを走っているんだろう。

 あれ? 僕はなんでここに座ってるんだ?

 いつの間にか、窓側の席に移動していた。たしか、奥に誰か先客がいたから、僕は通路側に座ったはずなのに。

 僕が席を立たないと、窓側の人はバスを下りられない。でも僕は立ち上がった覚えはない。無意識のうちに僕は席を移ったんだろうか。

 窓の外を眺めると、軽い既視感に襲われた。ここを曲がるとたしか……。

「次は京都会館美術館前、京都会館美術館前。終点です」

 またここに来てしまった。いやべつにいやじゃないけど。

 終点と言われたら降りるしかない。本をカバンにしまい、下車の準備をした。

 バス停はちょうど巨大な鳥居のすぐ近くだった。琵琶湖疏水に架けられた橋の上をたくさんの人が行きかっている。人力車を引くお兄さんがいい汗を流しながら、おのぼりさんにしか見えない乗客に解説していた。

 ちょうどお昼時だ。そろそろどこかに落ち着いて昼食にしよう。

 鳥居の下をくぐって平安神宮のほうへと歩いていく。信号を渡り、ベンチがいくつか設えてある広場に入った。ここも混んでいた。家族連れがもっとも大きな割合を占めているみたいだ。

 運よく空いているベンチを見つけた。そこに座って一息つく。外の空気がおいしかった。今日みたいな青空から降ってくる空気が一番おいしい。

 爽やかな風が吹いている。髪の隙間に入り込んで僕の頭をふわふわにした。

「母さんは今頃何してるんだろう」四歳くらいの子供の両手を握ってぶんぶん振り回している母親の姿を見て、ふいにのぼってきた言葉がそのまま口から出ていった。

 すっかり冷めたピザをかじりながらコーラを飲む。

 本を読みながら頭の中で展開された物語について考えてみた。

 これが、老先生の言っていた経験っていうやつなのかな。

 でも老先生は一瞬にして、頭に閃きが走ったって言っていた。僕の場合は一瞬の閃きじゃない。ゆっくりダンスまで踊ったんだ。彼女の温かさを感じる余裕もあったし、少しだけど会話もできた。

 今でも、僕の中の僕は彼女の腕で眠っているんだろう。そして彼女は僕が死ぬまで僕に話しかけ続けるんだ。

でも僕は答えない。眠り続けている。

それでも僕は彼女の言葉を聞いている。

そうやって僕は学んでいく。

これからそうやって数学を学んでいくんだ。

彼女は、数学の女神なんだ。


74

 昼食を終えてぼんやりしていると、遠くから見覚えのある顔が近づいてきた。

「またお前さんか」平安神宮で会ったおばあさんは、そう言って僕のとなりに腰かけた。

「こんにちは。いい天気ですね」

「お前に天気のよしあしがわかるのか」

「そう言われると、わかった気がしてただけかも」

「そうじゃ。誰が晴れだといいと決めたんじゃ?」

「さあ。たしかに雨でも怒らないし、雪でも泣いたりしませんね」

「勝手に決めつけてはいかん。本質を見抜くことじゃ」

「おばあさんはここによく来るの?」

「この歳になるとな、ほかに行くところがない。家にこもっていては腐ってしまうからの」

「そんなもんかな」

「お前さんにはまだまだわからん話じゃ」

 なんでも歳のせいにされたらたまらない。ふいに不満感を覚えて、僕はコーラを全部飲んでしまい、新しい飲み物を買うため図書館のほうへ行くために立ち上がる。おばあさんに「じゃあ」と言って立ち去ろうとした。

「ばばの孫とよう似とると言うたじゃろう」うしろから声をかけられて振り返る。おばあさんはこっちを見ずにぼんやりと空を見上げながらひとり事のように話した。

「むかしはばあちゃん子でかわいいやつだった。じゃが最近ではばばに会いに来ようともせんし、連絡もよこさんようになってしもうてな。ばばも寂しい思いをしよる」

 僕に話しているのか自分で口にして確認しているのかわからなくて、僕はその場に立ち尽くしていた。次の句がないようなら、こっそり去ろうと思ったけど、そうはいかなかった。

「今の孫が何をして何を考えとるかは知らん。お前さんはまだかわいかった頃のゆうに似とる。ゆうというのは孫の名前でな。小さい頃はゆう、と呼ぶとばばのところまで駆け寄ってきてくれたもんじゃ」

 終わりが見えそうにないから、一言だけ申し添えて、もう離れることにした。

「じゃあそのゆうくんによろしくね。おばあさんもお昼まだだったら何か食べたほうがいいよ。こんなあったかいベンチでたくさんしゃべったら、お腹すくから」

「ゆうは女の子じゃぞ。有里のゆうじゃ」

 かなり驚いたけど、やっぱり僕はもう行くことにした。


75

 信号を渡り、図書館前にある自販機にコインを入れながら、ちょっとだけ考えてみた。

 おばあさんから有里の面影は感じない。有里からおばあさんの面影なんて感じない。

 こういう偶然は、お話の中じゃ定石なのかもしれないけど、現実にはどれくらいありふれているのかわからない。僕はうっかり遭遇してしまったとき、素直に信じるんじゃなくて、とりあえず疑ってかかることにしている。理由は、間違っている確率のほうが高いからだ。それにもし偶然の一致だとしても、それで得られるアドヴァンテージというか、つまり得することは何もないからだ。

 たまたま友達の親族に遭った。それだけだ。

 有里って名前は、それほどひねってひねりつぶしたようなへんてこな名前でもないし、この街に僕の有里以外にたくさん有里って子はいるだろう。おばあさんからさらに情報を得ていたら、僕の有里かどうかくらい特定できたかもしれないけど、そうまでする努力を僕は持たない。

 さっきコーラは飲んだから、お茶を買うことにした。ボタンを押して受け口に出てくるボトルを取り出す。

 どういうわけか、お茶は入っていなかった。かわりに丸められた紙が、ボトルに入れられている。

 僕は自分が押したボタンを確認した。たしかにお茶のボトルの下に位置している。見本のボトルに紙なんて間違っても入っていないし、「じつはお茶ではなく紙なのだ」なんて注意書きもない。

 キャップを開けて中の紙を取り出し、開いてみた。宝の地図みたいだった。

「いつの間に僕はゲームの世界に紛れ込んじゃったんだろう」

 不本意にもRPGを無理やりやらされているみたいで気分が悪い。だいたい僕は宝よりも今はお茶がほしい。

 仕方ないので、またコインを入れる。今度は違うところを押した。出てきたのは普通のお茶だった。

「お金を返してほしいな」それが正直な感想だった。



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