目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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67

「耳はなおったかね?」灰皿に灰を落としながら、老先生は立ち上がって僕を見た。

「あれ、そういえばなおりましたね。それに落ち着いてます。いつもの僕です」僕も立ち上がる。足元はしっかりしていたし、周囲の喧騒は、通常の音量で僕の脳に届いていた。

「帰るとしよう」

「そうですね」

「授業一回分抜けてしまったな」老先生ははっはと笑う。

「かわりに有意義な課外授業を受けられましたから、問題ありません」

「ついでにひとつ話を聞かせよう。帰り道の退屈を紛らわすのにちょうどいい」

「お願いします」

「不可能なこととはなんだね?」突飛な質問は、老先生の持ち味だ。

「いかなる手法を用いても、成し遂げることができないものです」

「ではたとえば?」

「男の人が妊娠するとか、どうですか?」

「それはまた斬新なたとえだな。しかし、男の人という定義次第では、不可能ではない」

「ああ、なるほど。じゃあ神様の存在を証明することは?」

「不可能だと言えるのか?」

 橋を渡り、商店街を歩いていく。スーパーに出入りする人の数がさっきよりもずいぶん増えていた。駐車場のスペースもだいぶ埋まっている。

「証明できるんですか?」

「不可能だと言える、ということは、できないことを証明することに等しい。つまり、この命題では、神が存在しないことを証明しなければいけない。神の存在に明確な定義はないが、世界各地であらゆる形態で神の存在が認められている。神の姿を見たと主張するものもいるが、その証拠はない。本人の口上だけだ。しかし、ひとつでも存在を認めている事例があるかぎり、存在しないという証明は成り立たない。よって、神の存在を証明することは不可能ではない。宇宙人や幽霊といった類のことも同様だ」

「その、なんでも数学的に考えてもいいんですか?」

「いい、というのは誰にとってだ? 思考というのは自由なものだ。誰にも思考の自由を奪う権限はない。社会の日本史で、表現の自由を奪うといった出来事を学んだと思うが、そもそもその頃の政府の方針が間違っているという前提の上での事件であるため、反証にはならない」

 でも歴史で、と反論するのを考えていたところに釘を刺されて、僕は次の句を失った。

「さらに、数学的な思考とはすべてに通ずるものだ。もちろん、数学的に考えることで社会一般の見解にそぐわない解が得られることもある。しかし、だからといって間違っていると決めつけることは、数学を否定することだ。あくまで、数学的思考とは、方法論のひとつにすぎない。すべてではない。ただ、決して間違いとは成り得ない思考法であるだけだ」

「ふうん、なるほど」もう否定、反論するだけの材料を持ってないから、老先生の主張を素直に受け入れることができた。「じゃあ不可能なことは何もないんですか?」

「不可能を証明することは不可能」老先生はつぶやくように言った。もうすぐレオンハルトに着きそうだ。「一般的社会的な思考ではな」

「えっ、じゃあ数学的思考なら可能なんですか?」

「数学では、不可能を証明できる。有名なものでは、フェルマーの最終定理、ケーニヒスベルクの橋問題などだな。他分野ではできないことだ」

「数学ってすごいんですね。中学で習うのが待ち遠しいです」

「何も皆と足並みを揃えて待っている必要はない。我がレオンハルトにいれば、小学生の間でも自然と数学を学ぶ機会があるだろう。ここはそういう塾であり、私の城だ」

 気づくと僕たちはレオンハルトに着いていた。老先生と一緒に見上げたレオンハルトの看板は、夜になると存在を主張することを潔しとしないかのように、静かに夜の闇にたたずんでいた。


68

 結局授業は受けられず、終わりの時間まで談話室でひとり待っていた。老先生は教室を見てくると言って入っていったきり、出てこなかった。

 お菓子をつつきながらコーラを飲んでいると、みんながざわざわと雑談しながら談話室に姿を見せた。みんなそれぞれに会話に花咲いているようで、僕はどの輪にも入れなかった。授業が終わると、みんなその余韻に浸るように授業の延長線の会話しかしない。

「よう、どこ行ってたんだ? 老先生とデートか?」巧がからかうように言い、僕のせんべいを横から奪い取って口に運んだ。

「そんなところかな。楽しいデートだったし、実りある課外授業だったよ」

「そりゃすげえ。俺でもそんな機会もらったことないぜ」本当にうらやましがっているかは謎だけど、老先生の課外授業が意外と貴重なものだということはわかった。僕はけっこう貴重な体験をしたんだな。たしかに楽しかったし、魔法のように悩みが解決してしまった。

「逃げるなんて卑怯よ」

有里の言葉が槍のかたちをして僕を狙い澄ます。次の言葉次第では、乱れ突きの舞いにあって、僕は穴だらけの滑稽な人形になってしまうだろう。

「ごめんね」とりあえず、逃げたことを謝った。思いきって口にした。「あのさ有里」

「……何よ」ちょっと有里はのけ反るような姿勢をとる。びっくりしたのははじめて見たよ。巧はとなりで「おや」と愉快そうな表情だ。

「夢でもらった本の意味はね、たぶん、僕が有里とのつながりをほしがってることの表れだと思うんだ。君と話してるとね、どうにも言葉足らずになってしまって言いたいことが全部言えないんだよ、僕がね。だから真っ白な本に僕が言いたいことを書いて有里に渡す。有里は返事を書いて僕にくれる。そのはじめを有里からくれたら、面白いなって考えたことがあるから」

 一気に思ったことを並べたてると、意外と疲れてしまったので、コーラを口に含んで炭酸を口いっぱいに感じて疲れを吹き飛ばした。

「そう。よくわかったわ。じゃああんたの誕生日プレゼントはメモ帳でいいわけね」

 皮肉めいた有里の言葉を聞いて、僕は傷つくどころかお腹のそこからおかしくて、大笑いしてしまった。巧も僕の様子を確認してから笑い出した。有里も満足げに笑っていた。

 三人で笑いあえたことが、とてもうれしい。


69

 僕の誕生日が近づくにつれて、変化を見せたのは母さんだけだった。巧と僕は相変わらず牛乳を飲みながらレインボーロードを見下ろして他愛もない話をしてばかりだし、有里はレオンハルトで会うとき以外はいつも本を連れ歩いているし、老先生も若先生も授業が終わったら談話室でお菓子を食べたり外でタバコを吸ったりしているばかりだった。ついでに言うと、ミズカツ先生もフレンドリーに健在だった。

 しかし、ほかの多数に埋もれず、母さんは四月の終わりまで一心不乱に図書館で借りた本を読んでいた。どんな本なのか聞いても教えてくれないものだから、こっそり読んでいるところを覗き込むと、「いやっ、痴漢! やらしい!」などと叫んで逃げまわった。

 内容は知らないけど、ぱっと見その本は数十ページほどの絵本だった。それを何日もかけて読んでいるんだから、どういうつもりかわからない。あんなもの、お風呂が沸くくらいの時間があれば読み終わってしまうのに。

 もっと不思議なのは、なんのために絵本を読んでいるかだ。そりゃ僕の誕生日が関連しているんだろうけど、絵本を読むことがどう誕生日とつながるのかよくわからない。

 とうとうゴールデンウィークに入り、学校は休みになった。大型連休中はレオンハルトも休みだと聞いていたので、巧と有里に顔を合わせる機会は自然となくなり、声をかけて集まらないと会えなくなった。もちろん連絡先は知っているから、電話すればいつでも会えるんだけど、僕は電話しなかった。

 べつに電話するのがこわいとか緊張するとかそんなんじゃ全然ない。ただ用事がないだけだ。何か話したいことがあれば電話してもかまわない。単に何もないだけだ。それに僕はたとえ巧や有里といった友達でも、しょっちゅう一緒にいるっていうのはあんまり好きじゃない。あるいは、まだそこまでの仲になっていないのに気づいているからかもしれない。

 巧と有里はもう僕の誕生日がいつか知っているし、夢を見たことも話した。だから、もし誘えばよっぽどの用事がなければ来てくれると思う。そうしない理由はただひとつ。


70

 五月一日。朝いつも通りの時間に起きていくと、珍しいことに先客がいた。

「おはよう、正宗くんっ」

防具として、鎧のかわりにエプロン、剣のかわりに果物ナイフ、盾のかわりに牛乳パックを装備した母さんがキッチンに立っていた。

「今日は朝ごはん私がつくったよっ! 起きたら朝ごはんができてるなんて、幸せの絶頂ですよ!」

 そのわりにはいつも朝のテンションは低いんだから、有言不実行だ。

「ありがと。また今日はどうしたの、こんなに早起きして」

「まあまあそれはお食事の席でゆっくりとね。とりあえず顔洗って髪の毛なおしてきて」

 言われなくてもそのつもりだったから、てきぱきと朝の身支度を終えてキッチンに戻ると、テーブルに朝食が用意されて……朝食?

「あのさ、母さん。なんで朝からピザなの?」

 大皿を占領している巨大なピザが三枚も並んでいた。朝食の量じゃないし、朝からピザはどうかと思う。アメリカ人じゃないんだから。

「いやあ今日はこれしかないんですよ、食べ物」あっけらかんと答える母さんだ。

「えっ? てことは、これで今日のご飯全部まかなうわけ? 昼食と夕食は?」

「ありません。ついでに言うと、今日正宗くんは一日中外出します」

「それ決定なの?」

「ファイナルディシジョンです」

「なんで? 家にいちゃいけないの?」

「ダメ。正宗くんはこれ食べたらタッパーに何枚か入れてお昼ごはんにします。それを持って外で時間をつぶすの。行きたいところがあるならお小遣いあげるから」

 有無を言わさない物言いに気おされて、もう反論の言葉を生み出す機関がなえてしまった。それにお小遣いをもらってお昼にピザを食べながらどこかで時間をつぶすという予期せざる予定は、なかなかに魅力的だ。

「わかったよ。それにしても、たくさんあるね。これはバジルとトマト? あっ、こっちはポテトとベーコンだね。もうひとつは……何これ?」

「チーズだけのレトルトピザにいろいろトッピングしたの! でね、これが私のオリジナル、ポテトチップピザです!」自信満々の顔は、投げたボールじゃなくて、かわりに木の枝をくわえて戻ってきた飼い犬みたいだった。犬を飼ったことがないからよく知らないけど、たぶんこんな感じの愛らしい表情をするんだろう。

「それは、また、チャレンジしたね」どうほめていいかわからなかったから、挑戦する意気込みについて称賛してみた。

「でしょ? 食べてみて、私の快心の一食!」ピザカッターで五等分した一切れを僕によこしてくる。母さんはなぜか知らないけど、お好み焼きとかピザといった円形の食べ物を五等分してしまう。どう考えても均等に分けるのが難しいから普通やらないと思うんだけど、これまたなぜか母さんが切ると、均一なピースが五つ出来上がる。適当に切っているようにしか見えないのに不思議だ。ちなみにケーキなんかもこの要領だ。

 僕はおそるおそるポテトチップがちりばめられたピザを口にする。もっともおそれていたのは食感だったけど、予想通り、よくない。ポテトチップが妙にやわらかくなってしまっていて気持ち悪い。塩辛くて味も微妙だ。やわらかいポテトチップとチーズの組み合わせは意外と攻撃力に優れている。

「どうどう?」夜空の星をお腹いっぱい詰め込んだみたいな目を僕に向けてくる母さんだ。

「うーん、食べれなくはないよ。ただ、お店でこれが出てきたら、母さんも怒るんじゃないかな」僕は正直な感想を口にした。

「えーうそぉ」

「そう思うなら自分で食べてみたら?」

「いただきまーす」母さんは自信たっぷりに一口かじる。噛み砕くうちに表情がみるみる変化し、その様子は百面相ほどではないけど六面相くらいにはバラエティに富んでいた。

「ああ、ほんと。微妙ね」

「これを朝ごはんにやっつけちゃおうか」

「そうね」

 僕たちはふたりでがんばってポテトチップピザをやっつけた。この努力は京都市長から表彰されてしかるべきだ、と思ったけど、お祝いの電話は一度も鳴らなかった。


71

 歯を磨いたらさっさと出ていけと僕を追いやる母さんがいる玄関のドアをうしろ手に閉めて、僕はあてもなく歩き出した。カバンには三千円とピザが詰め込まれたタッパーが入っている。近くのバス停に停留していたバスに飛び乗り、空いていた席に腰を下ろして外を眺めた。

 現在時刻は午前九時すぎ。休日のバスは混んでいるものだと思っていたけど、まだ朝早いせいか人の姿はまばらだ。みんなこんな時間にバスに乗るくらいならベッドと融合するか電車や自動車で遠出しているんだろう。海外に行ったりする人たちもいるかもしれない。うらやましいな。

 ところでこのバスはどこに行くんだろう。今は南に向かって大通りを走っている。さっき賀茂川近くの中学校を通りすぎたところだ。このままだと、中心部のにぎやかな場所に連れて行かれるのかな。人がいっぱいいるところはあまり好きじゃない。

「こういう時間ってもったいないな」

 つい呟いてしまった。ひまなときって、僕は考え事をして時間の経過を忘れることができるんだけど、バスとか電車で揺られていると、どうにも集中力を欠いてしまう。小刻みな振動がせっかく固めた思考の土台を崩してしまうんだ。じゃあ外を眺めようと思っても、自動車っていうのはあっという間に通りすぎるものだから、入ってくる情報が多すぎる。頭が情報で飽和状態になって、整理するのが面倒になる。

 こういうとき、本があるといいんだな。有里を見習って、僕も本を読むようにしよう。

 そうだ、にぎやかなところで本を買って、バスに乗り続けよう。読書しながらいろんなところに行って、ちょっと見たらすぐ別のところへ移動するんだ。意味はないけど、楽しそうだ。

 しばらく何も考えないようにして目を休めていると、バスへの人の出入りが騒がしくなってきた。目を開いて車内をぼんやり見ると、いつの間にか満員バスになっていた。外に目を向けると、にぎやかさも一段と増していて、噴水のある大通り手前だった。右手にうちの学校の校舎三つ分くらいの大きな建物があり、スーツ姿のビジネスマン風の大人たちが蟻のようにうろうろしていた。

「次は四条河原町、四条河原町」車内のアナウンスが次の停留所名を伝える。あちこちにアーケード街へと続く路地が見える大通りをバスは通り抜けていく。この辺なら本屋があるだろう。

 僕は一日乗車券を買うことにした。市バスは五百円の一日乗車券があれば、その名の通り、一日何回でも使えるそうだ。でも使える区画がかぎられているから、あんまり遠くまで、たとえば京都の果てまでは行ったりできない。

 バスを下車してあたりを見渡す。巨大なビルに挟まれた大通りからのぞく空は晴天だった。行きかう人の密度はコーラの炭酸割合よりも高いだろう。

「とりあえず本屋を探そう」

 アーケードの下はすごい混みようだった。特に多いのは、大人なのか子供なのか判断しにくい年齢層の人たちだ。たぶん大人と呼べる年齢に達しているんだろうけど、服装の派手さのせいで、若くというか幼く見える。お金がかかっていそうな洒落た服装だった。

 外国人の姿も多い。どこの国の人かさっぱりわからないけど、すれ違うときに聞こえる会話に理解に追いつくほどではないものの馴染み深い感じがしたから、たぶん英語圏の人たちだ。彼らはここで何を目的として行動しているんだろう。間違っても本を買ってバスでぐるぐる市内を巡るためじゃないな。

 人々の足運びは異常に高速だった。急ぎすぎだと思ったけど、少ない休みを無駄な時間で消費したくないのかもしれない。僕は邪魔にならないように、できるだけ建物よりの端っこを歩いた。

 この通りにはカラオケ店がたくさんあった。しかもほとんど同じ系列のお店だ。まるでコンビニ感覚で店を開いている。コンビニはたくさんあっても困らないけど、カラオケ店はそんなにたくさんいらないんじゃないかな。それともみんなここに来ると無性に歌いたくなるんだろうか。僕はそうでもないんだけど。

 マッチ棒をランダムにつなげて並べたような道筋になっているものだから、自分がどこにいるのかもうわからなくなった。うしろを振り返っても、あまりの人の多さで、自分がそこを通ってきたとすんなり信じることができない。道は僕の前にしか続いていないようだ。

 のどが渇いたから、細い路地に並ぶ自販機でコーラを買った。二口ほど含んでカバンにしまう。まだまだ歩くから、炭酸は盛大に抜けてしまうだろう。

 アーケードの出口が遠くに小さく見えるほうへと歩を進めていく。通行する人たちはルール無用と言わんばかりにぐしゃぐしゃな通り方をする。左側通行、右側通行って分けたらいいのに。両側に店があるせいでそれもできないんだろう。ほとんどが猫のように店から店へとぽてぽて巡り歩く人たちばかりだ。

 ようやく空が見える通りに抜けた。でも上を見上げるひまもない。突っ立っていると、人ごみに押し流されてどこに連れて行かれるかわかったものじゃない。

 僕が歩いている通りは四条通りらしい。頭上にかかる看板でわかった。人が少なそうなほうへと歩いていくと、ジュンク堂書店があった。

「ずいぶんおしゃれな本屋だな」

 建物が真新しく見えるからか、本屋全体もきれいでおしゃれな印象だった。このビル全部本屋になっているのかな。いったい何冊くらいこの箱に収まっているんだろう。

 中に入るとすぐ新刊コーナーがあった。まったく興味が湧かなかったから、エスカレーターで上階に行く。案内の看板に「理数参考書」がある階をうろついていると、たくさんの数学書を見つけた。背表紙には難解な専門用語が踊っていて、棚全体が数学のダンスパーティー会場になっているみたいだ。その様子がおかしくて、僕は自分のダンスパートナーを探して棚の間をくまなくまわった。

 何冊か手にとってぺらぺらめくってみたけど、僕のパートナーにふさわしい人はいなかった。みんな僕よりずっと背が高くて知的で傲慢で、難しい言葉や数式を並べたてないと話もできないんだ。

「やっぱり僕くらいのレベルの人は棚に置かれないのかな」

 諦めてべつのフロアを探そうと歩き去ろうとしたとき、ふと一冊の本に目が止まった。表紙の美しさに目をひかれた。その本が蝶を呼びよせる美しい一輪の花に見えた。

 手にとって表紙をじっくり眺める。とても数学の本には見えない。鉛筆で書いたようなイラストのシンプルさが、数学という分野によくマッチしている。ふたりの女の子が描かれていて、ひとりがもうひとりを見上げている。目は書いてないけど、短髪の後輩らしき女の子からは、なんとなく先輩を尊敬する後輩の視線が想像できた。一方の先輩らしき女の子は、見られていることを気にする様子もなく、手元の本に視線を落としている。眼鏡をかけた髪の長い女の子だ。ふたりの雰囲気は冷たくもどこか落ち着く感じで、清々しい印象だ。

 中を見てみる。まず目次に目を通した。章題はとても数学書とは思えない。しかも登場人物すら設定されているみたいだ。まるで物語みたいに。

 ぺらぺらめくっていくと、ところどころに会話文があった。いくつか話を追っていくと、どうやら先輩が後輩に数学を教えるのと、その先輩がさらに賢い同級の子から数学を教わるという二本仕立てで、数学の議論が展開されているようだった。登場人物は高校生のようで、僕は高校数学の難易度の高さに度肝を抜いた。老先生が苦手だと断言したのもうなずける。高校生になったとき、僕がどの程度のレベルにいるかわからないけど、この本の登場人物のような議論はとてもできる気がしない。

 だからこそ、僕はこの本に大きな魅力を感じた。まるで大人のダンスパーティー会場に紛れ込んだ場違いな女の子みたいな本だったからだ。僕は表紙に手を当てて、心の中でつぶやいてみた。

(僕と踊ってくれませんか?)

 そんな妄想をもてあそんでいる自分がおかしくて、必死で笑うのを堪えながら裏表紙の値段をチェックしてみた。

「千八百円かぁ」

 どうして専門書っていうのはこんなにも高いんだろう。理科の図鑑なんて数千円するし。あんなもの、インターネットの記事を切って貼ってすれば無料同然でつくれそうな気がするけど。

「でもこれならいいか」

 というのも、この本には小説のような価値も盛り込まれているみたいだし、帯にも「数学物語」って書いてあるじゃないか。

 自分で選んで本を買うのははじめてだった。マンガとか雑誌を除けばだけど。そういえばマンガや雑誌って、本っていわない気がするな。本っていうとやっぱり小説とか、ええと、小説だけかも。どうしてだろう。

 一階に総合レジがあった。千円札を二枚渡しておつりをもらう。早くも残金は千円を切った。まだお昼にもなっていないんだけど、まあこれからお金を使うのは飲み物くらいだろうから大丈夫だ。

 ジュンク堂を出ると、向かいの通りにバスが停まっているのが見えた。この四条通りにもバスが走っているみたいだ。とりあえず右に曲がって歩いていく。こっちのほうが人が少ないからだ。

 バス停を見つけてしばらく待っていると、道路の混雑を器用にくぐるようにしてバスが寄ってきた。そういえば異常とも言えるタクシーの数だ。あれらが交通の潤滑を邪魔している。ここからあちこちに人を発信したいんだろうけど、自分たちが多すぎるせいで、まわりに迷惑がかかっていることへの罪悪感みたいなものはないんだろうか。仕事だから仕方ないのかな。

 バスに乗り込んで席を確保する。ふたり並んで座る席しか空いてなかった。しかもすでにひとり先客がいる。そんな席がいくつもあるのに、立っている人がたくさんいた。すぐ下りるのか、それとも座りづらいのか。だいたい割合は六対四くらいじゃないかな。

 僕はどちらにも属さない人種なので、遠慮なく一番近いところに腰を下ろした。さっそく購入した本を取り出す。帯をきれいに折りたたんで一番うしろのページにはさんでおく。あとでしおりとして使うためにとっておくんだ。

 目次を飛ばしてプロローグを読む。本当に小説みたいだ。数学という言葉や実際の数学者の名前がちらちら出てきたけど、本筋は高校生の数学にまつわる物語といったところだ。

 本なんて読むの久しぶりだな。最近読んだのは、たしか五年生の読書感想文の課題図書だったかな。何を読んだかまったく記憶にないのは、三日くらいかけて適当に読んだものだから印象に残ってないんだろう。面白いとかつまらないとかいう感想すら思い浮かばない。それと比べるとずいぶん高いレベルにチャレンジしてしまった。専門書の中では敷居の低いほうなんだろうけど、小学生が読むにはグラウンドを囲う巨大なネットくらい高い壁がある。よく見たら振り仮名もないな。まあそんなに難しい漢字も使われてないから大丈夫だろうけど。

 第一章をはじめから舐めるように読み進めていく。わからない専門用語や意味不明の数式は読み飛ばして物語に没頭していく。舞台となっている高校の図書室を自分の学校のそれと重ねて情景を思い浮かべながら、紙上と頭上でストーリーを同時進行させていく。

 徐々に外からの情報が遠のき、世界は僕の頭の中だけになった。



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