目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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62

 教室に戻ってから、巧と僕は身体を固くさせながら緊張の糸を張り詰めていた。

「においするか?」

「たぶん大丈夫だと思う。僕は?」

「大丈夫だ。手は洗ったか?」

「うん、石鹸使ったからもうにおわないと思うけど、どう?」

「ああ、問題ない」

 僕たちは席について、お互いのにおいに細心の注意を払っていた。それにしてもタバコがあんなにもにおいを発するものだったなんて、全然知らなかった。

 若先生がとなりで吸っていたときは、においなんて全然気にならなかったんだけど、自分で使ってみると、こんなにもまとわりつくなんて。なんでだろう。まるで、煙がタバコを持っている人間を主人と認めてひっついて離れないみたいだ。そのせいで、身体中タバコのにおいがついてしまったんだけど、手を洗って、髪の毛をぼさぼさになるまで掻きむしって、服のにおいがとれるまで校舎裏を全力で走り続けた。おかげで今はなんとか自分たちでもわからない程度ににおい落としすることができた、と思う。

「とにかく何か嗅ぎつけられても、とぼけとけばいいんだ。証拠は処分したし、見つかる可能性もかなり低いだろう」

「そうだね。早く授業はじまってほしいな。そしてさっさと放課後になってほしいよ」

「時間ってのは、祈れば祈るほど、遅く進むもんだって、若先生が言ってたぜ」

「珍しいね。そんな根拠のない非科学的なこと、若先生が言うなんて」

「ああ、でもよく言うフレーズだろ? だから統計的に人を主体として考えたら、そう感じる人の数で、仮定は真となるわけだ」

「それも若先生のまね?」

「なかなかうまくいかねえな。文章を構成するってのは経験に基づいてるみたいだ」

「語彙も大事だよね。あれってどうやったら身につくのかな?」

「一般的なのは、本を読むことだろうよ。あるいは百科事典でも食べたらどうだ?」

「火を通せないから生食だね。まずそうだなあ」

「不思議なもんだな。紙は草からできてるのに食べられないなんてよ」

「肉だって焼きすぎて炭になったら食べられないよ。世の中には何か作業を加えることで、まったく違うものに変わるものがあるんだね」

「関数みたいだな」

「本当だ。関数みたい」

「面白いな」

「面白いね」


63

 昼休み明けの五時間目はとても長く感じられた。まだ僕たちは緊張していたからミズカツ先生の頭上にある時計を睨んでいたんだけど、そのせいかもしれない。おかげで授業内容はまったく頭に入らなかった。

 それ以降はなんだかにおいのことが気にならなくなって、あっという間に放課後になった。終わりの会でもミズカツ先生はフレンドリーだった。これからはあのキャラクターで行くつもりらしい。となると、僕は困る。ミズカツ先生の本質を観察することが難しくなるからだ。

 巧と僕は隠れるように校門まで早足で歩いていって、学校の北側にまわった。僕たちの校舎の北に面している金網に沿って歩いていくと、昼休みにくくりつけておいたビニル袋を無事見つけた。

「よかった、あって」

「そりゃ誰もとったりしないだろうからな」

 僕は袋を回収して、北へと進んでいった。

「どこか公園でもう一度試してみるか」

「こっちに公園あるの?」

「このへんにはな、コンビニ感覚で公園があるんだよ。できるだけ知り合いがいなさそうなところがいいからな、ちょっと歩くぞ」

 信号を渡り、市バス車庫をすぎて、五分ほど歩いていくと、住宅街の真ん中にぽかんと開けた空間があり、そこに空から降ってきたみたいに公園が置いてあった。

「かにがさか公園?」名前を読んで僕は笑ってしまった。変な名前だ。

「この坂を上がっていくと、公立中学校がある。かにじゃなくて中学生が登る坂なんだな。俺たちの学区だと、来年はここに通うことになる」

「巧は公立に進むつもりなの?」

「ああ、なんか変か?」

「てっきりどこかの私立を受験するんだと思ってたから」

「学校なんてどこでも一緒さ。環境に影響されるほど、俺は馬鹿じゃないからな」

「そうなんだ」

 中学も巧と一緒なんだ。それは朗報だ。できれば有里も一緒がいいけど、中学どうするんだろう。私立を受けたりするのかな。

「有里もたぶん一緒だぜ。俺たち受験なんてするつもりないし、そのための準備だって何もしてないからな。まああいつが俺に隠れて受験勉強を進めてないって保障はないけどな」

「どうだろうね。私立はいろいろ厳しくてうるさそうだから、有里は行かないんじゃないかと僕も思うけど」

「そうだな」

 僕たちはジャングルジムと滑り台が合体したような遊具に身を隠して、袋の中身を取り出した。有里の手紙にはやっぱり焦げ穴があいたままだった。

「先に有里の手紙をあぶってみるか」

「そうだね」

 前回と同様に、まずライターで有里の手紙をあぶってみた。これでダメなら水につけるつもりだったけど、今回は文字が浮かびあがってきた。火で正解だったみたいだ。

「変化をつけてきたね」

「凝ってるな。あいつのアホさには言葉もねえよ」

 手紙にはこう記されていた。

 五月二日を待て。

「今度は日付指定か。五月二日っていうと、もろゴールデンウィーク中だな。あいつ休みの日までやっかいになるつもりか」

「どうして知ってるんだろう」僕はつぶやくように声をもらした。

「何を?」僕の様子を怪訝に思ってか、巧がきいた。

「二日はね、僕の誕生日なんだ」

「もうあいつストーカーみたいになってきてねえか」

 ぱっと見の印象はたしかにそうだ。言った覚えもないのに僕の誕生日を知ってるし、当日に何かやらかそうという魂胆はまるわかりだ。ただ、つけまわすんじゃなくて、手紙で僕たちを誘導している点において、ストーカーとは一線を画すものがあるだろう。

「とりあえず有里の件はこれで棚上げだね。誕生日がさらに楽しみだよ」

「お前そんなに誕生日が待ち遠しいのか?」

「というのもね」

 僕は神社で見た誕生日の夢を巧に話して聞かせた。有里に話した表面的なものじゃなくて、全体にストーリーを持たせて、過去の誕生日の悲惨と具体的な出来事、さらに僕の気持ちまで詳細に伝えた。

「俺も一度見てみてえな、お前の母親をさ」巧ははっはと声を出して笑った。

「見た目は普通だよ。話すとその特異性があらわになるかもね」

「お前は変な女に縁があるな」

「うれしいかぎりだよ」

 ふたりで笑いあっていると、坂の上から中学生らしき子たちが下りてきて、向こうの広場でサッカーをはじめた。若先生のお守りをもう一度試そうと思ったけど、人目につくといけないから、もう諦めて捨ててしまうことにした。

「残念だなあ」僕はゴミ箱にお守りを袋ごと放り込みながら呟いた。

「仕方ねえさ。俺たちに魔法は使えねえ」

そして、どちらからともなく、僕たちは公園をあとにした。


64

 そのまま巧と一緒にレオンハルトに顔を出すと、談話室ではほかの学校の生徒や老先生の会話でにぎわっていた。僕たちも空いてる席に腰を下ろしてお菓子とジュースをいただいた。

 せんべいをお茶うけに麦茶を飲んでいると、有里が談話室に入ってきた。まっすぐに僕たちのテーブルに歩いてくる。僕と巧の姿を認めて、開口一番言った。

「五月二日は何してる?」

「五月二日は有機生命体じゃないから、行動の予測は無理なんじゃねえかな」そう言って巧は笑った。

 有里は巧の冗談を無視し、まっすぐ僕を睨んでいる。僕は巧に目線を配ってから応じた。「その日は僕の誕生日なんだ」

「そう。で、何してる?」

「毎年、母さんがイベントを催してくれるんだけど、今年はどうかな。たぶん何かあると思うけど」

「自転車持ってる?」

 脈絡のない質問に多少狼狽したけど、なんとか答えることができた。

「ううん。持ってない」

あからさまに聞えよがしに、有里は舌打ちをした。ちょっと悪っぽい。僕は有里から距離をとった。

「巧、コーラ取ってきて」急に会話の対象を変える有里。「はいはい」と言って巧は立ちあがって冷蔵庫のほうへ向かった。

 有里は巧の座っていた席について、僕の目をじっと捉えた。

「こないだ神社で誕生日の夢を見たって言ってたわね。具体的にはどんな夢だったの?」

 正直に言うのは恥ずかしかったので、僕はそこにいた人間とケーキとプレゼントをもらったことだけ話した。そして、友達と一緒に誕生日をすごせたことがうれしかったんだという旨も説明した。どんな話があったとか、プレゼントに何をもらったかは言わなかった。

「私は何をあげたの?」

 恥ずかしい部分を指摘されて、僕は返事に詰まった。正直に答えると、まるで要求しているみたいにとられてしまう。

「夢の中の登場人物ってさ」とっさに思いついた疑問を有里にぶつける。「僕とは別人格なわけだから、彼なり彼女なりがどういう行動をとるのかってわからないよね」

「それが質問の答えなの?」有里の声には少し苛立ちが混じっている。

「でもその世界は僕が構築したわけで、登場人物も僕がつくり出してるんだ。でも、彼らは僕が思いつきもしない行動をとって僕を驚かせることがある。つまり、僕から彼らは独立しているんだ」

 有里の視線は僕の口あたりに集中している。漏れだす言葉を熱視線で焼き尽くした上で、舌すら焦がしてしゃべれなくしてやると言わんばかりの目つきだ。

 でも僕はめげずに言葉を投げ続ける。

「独立した上で好き勝手やってるわけだけど、僕がつくり出したっていう事実は変わらないよね。だから僕の一部が彼らに反映されて、どこかに生きてると思うんだ。だとすると、彼らの行動には僕にとって意味があることになる。どこか望んでいるように動かすようプログラミングされてるというか。ええと、たとえば、たとえばだよ。好きな女の子が夢に出てきて、一緒に学校から帰ったり、どこか一緒に出かけたり、その、仲良くなったり」

 後半の言葉を聞いて、有里の顔が思い切り歪んだ。顔全体で不思議がっている気持ちを表している感じ。学校中の「何言ってんのこいつ」という気持ちを鍋で煮込んで一気飲みしたみたいな顔だ。

「なんの話してんのよ」冷たい声だ。

 有里の態度を受けて、どうやらたとえを間違えたことにようやく気づいた。好きな女の子じゃなくて、猫が関西弁でしゃべるとかにすればよかった。

 巧がちっとも戻ってこないので怪訝に思い、部屋を見渡してみると、いつの間にか姿を現していた若先生と一緒ににやにやしながらこっちを見ていた。なんで戻ってこないんだろう。それになんだ、あの表情。冷蔵庫に入れたアイスクリームみたいにとろとろじゃないか。気持ち悪いな。

「君はね、プレゼントとして本をくれたんだ。変な本でね、表紙が真っ白で何も書いてない。中もまっさらなんだよ」

「へえ。私はどういうつもりでその本をあげたのかな」

「それはわからない」

「嘘ね」有里はぴしゃりと言った。

 事実を突かれて僕は動揺した。態度には出さなかったけど、内心では警戒アラームががんがん鳴っている。うまくごまかして切り抜けるための策を講じる必要があったけど、いい案が浮かばない。

「なんでそう思うの?」とりあえず時間稼ぎの疑問を投げかける。

「勘よ。そんなこときくんだから、当たってるのね」

 どうしたらいいんだろう。そもそもうそをつくべきじゃなかったのかも、と今後悔しても遅い。正直に答えるには恥ずかしすぎる。

「ねえ、さっき夢の中の登場人物の話をしたよね」

「伏線のつもりだったんだろうけど、無駄よ」有里の言い方には問答無用の響きがある。「ちゃんと言って」

 瞬間的にすべてを悟った。嘘はつけない。本音は言えない。僕は袋小路に追い詰められている。まわりの雑談の声が異常に大きく聞こえてきて、頭がくらくらした。

「ごめん、トイレ」すばやく立ち上がり、有里の視線から逃げるように談話室を出た。出る際に、巧と若先生が僕に落胆の表情を向けているのが視界の端に入った。

「あーあ、逃げちゃった」

トイレの中で便座に座って自分を責めた。今の僕はトイレの排水溝に流す価値もない臆病者だ。

 どうして言えないんだろう?

 もちろん恥ずかしいから。

 どうして恥ずかしいんだろう?

 本音を言って、有里の反応を見るのがこわいから。

 どうしてこわいんだろう?

 本当のことを知るのがこわいから。

 どうして本当のことがこわい? お前は転校初日の挨拶で言ってたじゃないか。

「僕は本当のことが好きです。本当かどうかわからないことがあったら僕に教えてください。一緒に考えましょう」

 人に言っておいて自分で実行しないっていうのはどうなんだ? 正しいのか? お前の正義はそれを許すのか?

 心の中で自分の言葉に打ちのめされて、便座から立ち上がれず、僕はひたすら自分を痛めつけた。鉈で殴られるような、鈍い痛みだ。

 本当に、急だった。

 急に周辺の音が聞こえてきた。

 異常によく聞こえる。

 廊下の床がきしむ音。ドア二枚向こうの談話室の話し声。

自分の息遣い。

吸って、

吐いて、

筋肉の収縮。

縮んで、

伸びて、

なんだこれ?

血の流れる音。

んーんーって。

心が不安定になる。どうしようもなく不安になる。

聞こえるものすべてが僕を不快にする。

原因がわからず、その場で息を続ける。まるで、それだけしかできないみたいに。

こんなこと、はじめてだ。


65

 しばらくトイレにこもり、じっとしながら目を閉じていると、自分が涙を流していることに気づいた。足元のスリッパに水滴が落ちた。ドアの向こうから「誰か入ってんのかよ」と声が聞こえた。今の僕の耳は、僕の意思と無関係にどんな小さな音でもキャッチできるほどに研ぎ澄まされていた。耳はどんな足音も拾い、どんな衣擦れも察知し、不躾に僕の脳に届け続けた。僕は自分の気配を消していた。鍵はかけてあるから姿を見られる心配はない。僕はひとりになりたかった。

 授業の時間になっても僕は出ていかなかった。というか立てなかった。一挙に押し寄せた不安の波は、今や心の大勢を支配していて、考えることすらままならない。誰かに助けてほしいと思ったけど、誰も僕を助けられない。ふさわしい人間がいない。

 これまでで最大級の孤独を感じた、そのとき、

「正宗君」

 朗々とした声がトイレに響いた。僕の耳にしっかり届いたその声の持ち主は、トイレのドアをとんとんと叩いた。

 僕はスリッパに隠れている足の指を動かしてみる。靴下越しに、スリッパの冷たさを感じた。試しに両足に力を入れて立ち上がってみる。うまく立てた。そのまま左手を伸ばしてドアの鍵をはずす。僕が開く前に、ドアが開き、声の持ち主が立っていた。

「老先生」

僕の声はとても小さく消え入りそうでかすれていて、老先生の耳に届いたかどうか不安だ。よく聞こえるかわりに、うまくしゃべる能力を奪われてしまったかのようだ。

「授業は御手月がやっておる。私と一緒においで。外を散歩しよう」

 老先生の伸ばした手を僕はとり、引かれるようにして玄関から外に出た。


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 老先生と僕は賀茂川のほうへと歩を進めていった。あたりには夜の気配が漂い、行きかう自動車や自転車は早くもライトを照らしていた。自動車が近くを通ると、あまりの騒音に足元がもたつくから、老先生に助けてもらわないとまっすぐ歩けない状態だった。

 御園橋を渡り、川端の土手に下りて北を向いた。ずっと向こうにうっすら見える山から横の川は流れてきているのかな、と思うとちょっと心の中が清涼化したように感じた。

観察はいい。頭が勝手に思考をはじめ、心にわだかまっていたものが外に押し出されて新鮮な風が入ってくる。

「よい風だな。そう思わんかね」老先生はまるで僕の心を読んだかのように言った。

「はい」

「さて、トイレにこもって何を考えていた? 皆が催したときにああいったことがあっては困ってしまう」

 僕は老先生に話していいものかどうかわからずにいた。それに、僕自身うまく飲み込めていないんだ。どうしてこうなったのか。

「先生、僕は、自分がよくわからないんです。何に悩んでるのか。何が問題なのか」

「あそこに腰を落ち着けよう。少し疲れてしまった。私も歳をとったものだ」

 四角で大きなベンチに腰を下ろすと、老先生はタバコを取り出して火をつけた。

「先生、河原に灰皿はありませんよ」僕は注意した。

「喫煙者たるもの、灰皿を持ち歩くのは当然だ。女性が小さな手鏡を持ち歩くようなものだ」老先生はポケットから丸く平たい携帯灰皿を取り出して、ふたを開けて中に灰を落とした。

「君は今混乱の中にあるようだな。そんなときはどうするか知っているかね?」

「わかりません」僕は首を振ってうなだれた。

「混乱したきっかけはなんだったのかね?」

「それは……、友達と話してるうちに、会話の流れがこわくなって」

「なるほど」

 タバコの煙が僕のほうにも漂ってきて、服にまとわりつくようだった。自分の袖を観察していると、不思議なことに、煙が服に吸い込まれていくのがわかった。風が吹いているのに、煙は霧消するんじゃなくて、僕の中に入ってきてしまった。どうしてだろう? まるで老先生が操っているみたいだ。となりにちらっと目を向けると、ちょうど老先生が口から大量の煙を吐き出すところだったので、煙って顔がよく見えなかった。

「その友達と話すうちに混乱してきて、耳がおかしくなったことはないかね?」

「おかしく、というのはどういう状態ですか?」

「聞こえなくなったり、逆に耳に届く音が異常に大きく聞こえたり」

「あ、はい。突然まわりがうるさく思えました」

「私はずっと談話室にいたが、突然騒がしくなるようなことはなかった。ゆえに、それは君の聴覚が異常になったということだ」

「僕は病気か何かなんですか」

「きちんと病気として認められているかどうかは私にもわからない。ただ、似た状態に陥ることが私にもある」

「えっ、先生も?」

「同じかどうかはわからないがね。むかしからそうなのだ。どういうわけか、突然耳が周囲の音に敏感になり、脳の芯まで届くかのような爆音が聞こえる。寝床で寝がえりをうつときの衣擦れの音すら、おそろしいほどに強烈なのだ。子供のときからそうだったから、夜こわくなったら母親が寝ているところに横から忍び込んで人肌を感じて心を落ち着けようとしたものだよ」

 老先生の表情は穏やかだけど、少しだけ照れているのか、頬が盛り上がっていた。老先生自身のエピソードは、僕の実際と重なるところが多い。ただ、僕がこうなってしまったのは今日がはじめてだ。だから驚いてこわくなってトイレから動けなかった。

「きっかけはよくわからない。夜寝ている間に突然発症することもあれば、雑踏の中で起こることもある。幼い頃は、解決するための方法を知らなかったので人にすがっていたが、大きくなるにつれて自分ひとりで対応する方法を見つけ出した。一旦理解すれば、じつに簡単なものだった。今ではなんの不安も感じない。ああ、またか、と煩わしさはあるものの、恐怖が芽生えたりはしないのだ」

「どうすればいいんですか」焦れたので、僕は次の言葉を待てなかった。

「それは自分で理解しなければいけない」ぴしゃりと老先生は言った。「経験とは、他人から教わることはできないのだ。必ず自分で体験して得られたものを蓄積し整理する。そしてそれが何を意味するのか考える。そうして得られたものが経験だ。他者の口からは授けられない、己にとって唯一無二の宝だ」

 みんなそうだ。巧も教えてくれない。老先生も僕がもっとも知りたい大事なことを教えてくれない。周囲への不満感が僕の中で積っていって、身動きがとれず息が苦しくなってきた。

「でも先生が教えてくれたら、僕は助かるんです。ありがたいんです。経験を積むのが大事だっていうことはわかりますけど、このことに関しては、経験を通しても先生の口から聞いても同じじゃないですか」

 まっすぐ老先生の顔を両目で捉えて訴えた。タバコの火を消して灰皿に入れてから、含んでいた煙を一気に吐き出して、老先生は僕の頭に手を置いた。

「私は今でも覚えている」僕に向けられた目は、この上なく優しい慈愛に満ちたものだった。「高校一年生だった。そのとき私は数学が苦手でな、理数系のクラスに進学したものの、高校数学のレベルの高さに圧倒されて己の無力をかみしめていたのだ。授業を聞いていてもうまく飲み込めない。教科書参考書の問題を解いてみても自分の中で消化できない。友人に教えを乞うても要領の得ない解説にさらに戸惑ってしまう。まさに八方ふさがりだった」

 老先生はぽんぽんと僕の頭の上で手をバウンドさせて、身体ごとこっちを向いた。

「ちょうどそのとき学んでいた範囲は数学Aの数列の分野だった。さっぱりわからない。数の並びに規則性を見出し、数式に変換するなどと」

 老先生の話の行く末が見えない。僕は老先生の手から逃れようと、少し身を引いた。

「だが、ある日、突然だった。頭に閃きがさっと駆けまわり、すべてがクリアになったのだ。瞬時に理解した。それまで何がわからなかったのかすらわからなくなった。これは言葉では説明できない。表現が見つからないというのではなく、表現するすべがないのだ。あとになって私は気づいた。これを経験というのだと」

 言い終えると、老先生はタバコを取り出し、火をつけた。

 あたりはもうすっかり暗くなって、向かい岸の川沿い通りの街灯は、川に沿って点々と明かりをともしている。夜の冷たい空気が頬をなで、草花が寒さに震える声を聞いたように思えた。

 老先生が自分のことを僕に話してくれたことがうれしかった。老先生が数学苦手だったなんて。人間どんなふうに成長するかわからないもんだな。僕も中学に進んだら、何を考えて何をしているかわからない。巧と有里以外の友達ができるかもしれないし、なんらかの部活に専念するかもしれないし、タバコを吸うような人間になっているかもしれない。

 でも今は、どれも想像できない。あるのは心にある望みだけ。

 巧と有里と友達でいたい。

 今、僕が願うのはそれだけだった。



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